ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:固定観念

 
  固定観念2
 
 私の記事「先入観から固定観念」
 加筆して再録。
 
 
書かれた文字や言葉で平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。楽山の本質は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。
 
信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、他者も、宗教と信仰をも、自己中心に、自己の下に、見ているということが表れているからです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
「あらゆる面で」「元に戻った」なら、楽山には、成長がないということです。その原因は、体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)による無反省と無学習ということになります。実際、楽山には、そのような、嘘と詭弁の証拠だけが明らかになってきたのです。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、かけ離れた物見遊山の散歩をしてきたに過ぎないので、そう告白されても、意味はないと思います。
 
楽山は、信仰とは関係のない所を、堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いも恵みも気づくことはありません。そのことに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人の心には信仰は生まれません。
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。<
 
「抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう」なら、まず、自分の理非を考えるべきですが、楽山は、ダイレクトに、「相手は要注意人物である」と言っています。これこそが、楽山が、自己正当の妄想者である証拠です。つまり、要注意人物の楽山が、要注意人物と批判しているのです。
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に、罪の意識を持ってしまうと、隷属しかなくなります。決して、楽山を、まともに聞いてはいけません。
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
 
困った状況になるのは、楽山が、相手の意見を平気で無視して、受け取って、考えて、必要なら反論か弁明をするということが、全くできない無反省だとということを表しているのです。
 
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「怒って噛みついてきたり」・・被害者意識しかないのが、楽山の特徴です。これは、だますための芝居です。楽山の自己中、自己正当化、不祥事は、全て、人のせいにするという病質の表れです。どんどん白々しさが明らかになってゆきます。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人です。それを隠すために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのあるふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定するやり方です。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、真剣に返すことが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。その上での理屈遊びなので、何も実はないということです。
 
楽山は、人を思いやることができない人です。約3年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を訂正不能に決め受ける狭量だけです。
 
「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居でしょう。「断りたいのに断れない」・・いいえ、気に入らないことは、総て平気で無視してしまう人です。
 
この楽山の記事は、自分が無反省・無責任であることを指摘されて、弁明できないために、相手を、いじめっ子のような立場に、おとしめて、つまり、上から見下ろして、同情を引き、かつ、相手を否定するために書いている詭弁の悪口に過ぎません。
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じないことの、自己正当化になっています。こうやって、何か言われると、肝心なところは無視して、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、相手にしないでほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想を、まるで品物でも選ぶような態度なら、宗教も信仰も語る資格はないということです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が欠けているからです。まさに、無反省の自己中の産物です。
 
大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで、肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが、楽山です。つまり、楽山は、非常識で病的な精神から、病的疲労を与えるだけの人として、批判して楽山の情報を積み上げ、相手にしてはいけないことを広めるしかないのです。
 
信仰・宗教・思想は、思い付きで世間話・辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいような、どうでもいいようなテーマではないのです。
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、らくざんが反省せず責任を負わないことを、、同次元で語ることは出来ません。信仰を知らないのに信仰を語るという酷い詭弁の偽善です。楽山は、書けば、的を外してばかりです。楽山は、人が悪いどころではなく、明らかに害毒です。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の人です。このように、信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけだということが、明らかになってきた約3年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して、印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っているので、宗教と信仰についても、一般にとっても、特別に、特殊に、有害だと思います。まともに交流も議論も出来ない人です。
 
一部の狂信者をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、このように、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。楽山の自己愛を満足させるためだけに考えている体質です。
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
楽山は、空想で、悪口を言っています。楽山の言うことは、宗教と信仰に、楽山のような者が、介入するときでしょう。楽山は、混乱と疲労を人に与えますが、理解もヒントも与えることはありません。いつまで、嘘と詭弁と妄想で、社会人のふりをするのでしょう。楽山の精神は、反社会的です。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
宗教の強制や強制的態度は硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの、丁寧語を使う軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。ほのめかして婉曲的に誘導することを手段としているのです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトを批判しているように言っていますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般は・・ですよね的な" 印象を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んでくるのです。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、言論において卑怯なやり口ということになります。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。書いたように、共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。信仰熱心は、沸騰ではありません。楽山は、実に、質の悪い男だと思います。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山の発言は、とんでもない企みを持っている確信犯の企み、あるいは、パーソナリティ障害の不治の症状、と判断せざるを得ないのです。
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山が、自分を律するなら、楽山は、去るしかないのですが、楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような芝居をするだけで、本当の真摯な態度を持ちません。だから「信じて待つ」などということは、最初からできない人です。
 
宗教を信じることが、害であるかのような誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山です。ゆえに、決して信頼せず、相手にせず、楽山を、批判しないのであれば、相手にしないのがいいと思います。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、カルトしか知らないくせに、宗教の悪い例だけを挙げて、宗教全体を踏みにじっています。これは、カルト批判ではありません。双方向の批判を、決めつけの悪口におとしめる企みです。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、ふきこんで、ほのめかして、マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
固定観念、固着

固定観念、固着
 
 
(2020年01月02日、同日一部修正)
(2021年01月15日、加筆して再録)
(2022年01月17日、一部修正)
 
 
 
  歌えない傷
 
モチーフモチーフと
擦り合わせる空白だけは持っている
涸れた乾いた干割れたと
よく効く軟膏を欲しがって
塗られたがる傷だけは持っている
すこぶる順調です
歌えないことをモチーフに
空白を合わせて塗り固めて
設(しつら)えた線路は
白い海に向かっていて
レールは汽車を乗せ
汽車には傷が乗り
傷は何も乗せていませんから
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
いつまでも、何年たっても、訂正不能の自己愛に執着して、人の意見を聞かない、そして、考えない、それで通用すると思っているのは、もはや、妄想の無自覚の信念とでも言うべきものです。経験から学ばず、こともの頭のまま、宗教と信仰に、とやかく言っても、迷惑~有害なだけで、何も収穫などないのです。
 
 
 
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  楽山の怖さ2
 
 信仰と固定観念(HS信者を見ていて思うこと)
 2020年11月26日 楽山日記(LD)
 改めて批判
 (画像省略)
 
 
楽山のような病質者というのは、罪悪感がないために、弁明しないまま、攻撃的記事を際限なく書いてくるのです。その執拗さと激しい怨念には、火山の火砕流のような、また、逆に、気づかない水漏れのような、あるいは放射能汚染のような、見分けにくい潜熱の勢いがあります。
 
批判されにくいように文章を画像で示したりもしますが、引用されている画像は、大方、HS関連のものなので、楽山批判というテーマにおいては省略してよいと思います。説明やコピペを面倒くさがる怠け者の安易な印象操作という詭弁の手段です。
 
*ノルマ強制?
ツイッター上で、HSにおけるノルマの有無が議論になっている。
その中身については、パスタファリアン氏のまとめによると次のような流れだ(ツイッターの方に行けば、この続きも見ることができる)。
(画像省略)
傍から見ての感想だけども、信者の田中氏は、そのツイートからすると、次のように信じていて、それに反する情報は一切受け入れるつもりはないようだ。
HSにノルマ強制はない
信者は不妄語戒があるから嘘はつかない
アンチはHSを逆恨みして、嘘をついたり、捏造したりする
普通の人であれば、ノルマ強制なんかないと思っていたとしても、これだけ沢山の人たちがノルマ強制と思しき体験談を語るならば、「ノルマ強制は、自分の周囲ではなくとも、他の支部ではあったかもしれない」ということくらいは考えるものだと思うのだが、田中氏は上の信仰があるせいか、そのようなことはなく、HSにノルマ強制はない、アンチは嘘をついていると断言し続けるばかりだ。
どうやら田中氏の信仰の壁は、厚く、高く、堅固であるらしい。
 
楽山の自我の壁は、厚かましく、高慢で、固着して訂正不能です。楽山は、今まで、平気で詭弁を弄したり「嘘をついたり、捏造したり」しました。提言者としても批判者としても失格です。この一点において既に問題外なのに、楽山は、なおも平気で書き続けているのです。
 
しかも、人の言うことに対しては、楽山のほうの「壁は、厚く、高く、堅固であるらしい」ので、これもまた、平気で無視が出来るのです。楽山は、詭弁も嘘も壁も、カルトより怖いのかもしれません。怖い顔を表に出さず、うちに燃やし続ける強迫性の執念であります。
 
他者を批判すれば、同じ理由で自分が批判されることはないと思っているのでしょうか。実際は逆で、楽山が他者を批判すれば、いちいち、自分はどうなんだ、という問いが、楽山に向かってゆきます。つまり、楽山が、その因業によって、自らへの批判を強化してゆくのです。
 
*やれやれ
ちなみに上の構造は、LEO氏でも同じだ。エル・カンターレ信仰に基づいて考え、語るばかりで、それに反するものは受け付けない。
もうちょい具体的に書くと、HSで、不信仰者やアンチは、これこれこういう考え方の人たちだ、イエス、トルストイ、ジョン・レノンの関係はこのようなものだ、エル・カンターレ、イエス、HS、キリスト教の関係はこのようなものだという風に説けば、その枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶するということだ。
 
楽山は、自分に「反するものは受け付けない」し、成長しない自分の「枠内で考え、語るだけで、その枠外のことは拒絶する」のです。どうして、他者のことばかり平気で言えるのでしょう。やはり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状と思うしかありません。
 
知識人のつもりの自己中心に凝り固まっている楽山は、自我に固まり、不感不応の壁によって、社交の世辞以外、何も受け付けません。自分に都合の良いこと以外は、拒絶し、なかったかのように無視しながら、同じことを繰り返し書いてきます。恥を知る人間には出来ないことです。
 
楽山の枠は、恐ろしく子供じみていて、狭いオモチャ箱です。できないことを、できているふうを装います。何を言われても、何も聞いていないかのように、同じようなことを繰り返します。柔和を装いながら、狭い妄想の箱の中で、不都合を、ことごとく無視しているのです。
 
「私はアンチですけど、そんな風な考え方はしないよ」「HSとキリスト教の関係はそうじゃないよ」といったところで、「屁理屈だ」「言い訳だ」「自分勝手な解釈だ」と決めつけておしまい。自分の信仰に反する情報は受け付けない。
今日もたくさん記事を書いているようだが、ざっと軽く眺めたところでは、こういう構造には変化なし。やれやれ。
 
楽山は、アンチではない、つまり、批判者ではありません。我執に凝り固まった病質者であり、未熟から変質へと進行して、罪悪感も羞恥心もないサイコパスであり、自分は他者を批判しているくせに、自身に向けられた批判に対しては、全く無視して、弁明も反論もできないのです。
 
・神が自由意志を与えられたことが、どんなに深い意味を持つか、はかり知れない気がする
・(どこかちがう!)と思われる人間にならねばならない
・神が「せよ」と命ぜられたことには、わたしたちは、謙虚に従ってみようではないか
・「何を以って愛とするか ―ジョン・レノンの霊言」を読もう
・高級霊の思いと言葉は美しい、地獄霊は屁理屈を言う ~「文豪たちの明暗」~
・大川隆法先生への感謝と、自分の未熟と
 」(リンク省略)
でもいつかこのことが分かる日が来るかもしれないし、このことが分かる現役HS信者がここを見ているかもしれないので、一応書くべきことは書いておくことにする。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、反省せず成長しないまま、"いつか分かる日" を勝手にイメージして、他者を低く見て、心で笑っています。楽山には、カルト信者のような素直ささえも見られないのです。楽山にあるのは、恐らく、教祖願望だと思います。
 
*信仰と自由意思
HSでは、基本的には、信仰を持つかどうかは、その人の意思次第ということになっていたかと思う。
でも聖書には、こう書いてある。
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。 
(ロマ8.30)
 」
以前、この件について、キリスト教質問箱で問うたことがあったけど、信仰を持てるかどうかは神の召命のあるなしによる、ただし人の側から神を求めることも大切ということだった。
この辺りの考え方について、HSとキリスト教とを両立させるのは難しいと思う。
 
神は、人を召命するのでしょう。しかし、神が、ある特定の人を召命したかどうかは、人間には分かりません。つまり、地上では、人にとっては、あくまで、自由意志で信仰を志してゆくのです。そういう、神の意志という超常を、分かっているかのように机上で玩んで汚すのが、楽山です。
 
召命などの神の導きは、神秘であり、希望することは出来ても、あったなかったを、人が決めつけることは出来ません。人は、聖書と体験から、信仰を学習し、自分で判断し、できることをして、正直に祈るのです。学習しないで無理解のままの楽山は、信仰から、どんどん遠ざかります。
 
そこを自覚しない楽山は、実に、悪意によって、キリスト教の神を利用して、神を、人の立場を弁えずに扱っている時点でアウトなのです。人には分からない超常を、分かっているふうに、騙(かた)ってゆく楽山の怖さが、ここで、明らかになっています。
 
*従順、服従について
このテーマについて、聖書の考え方を知ろうとするなら、ヨシュア記を読めばいいと思う。そこでは、神から住民皆殺しを命じられ、その通りにする話が繰り返し語られている。また創世記には、アブラハムは、神の命令によって息子をいけにえにささげようとする話もある。
 
神の怒りは、今の、特に、日本人には、理解できないものもあると思います。それ以上の共感と愛を聖書から受け取った人がキリスト者(クリスチャン)になるのです。楽山は、自分が、愛も共感もないものだから、やたら、神は残酷じゃろ・・と記事で煽り、神を呪います。
 
理解できないことは、保留すればよいのであって、聖書に書いてあるから、人殺しの神だと決めつけるのは、楽山のように、書いてあることを、全部、分からないと気が済まず、短絡して、神を否定する自己愛の変質者だけでしょう。
 
楽山の聖書の話は、全く無意味です。相手にしないでください。楽山は聖書を、まともに読んでいないと思います。生贄に捧げるように命じた後で、神は、アブラハムが息子を殺すのを、天使を通して、止めています。アブラハムが、神によって、神を恐れているかどうかを試された話です。
 
(創世記、口語訳)
22:11
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 
22:12
み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 
(創世22:11-12、旧約聖書)
 
神は、理由なく殺すことはありません。神の御心は、私たち人間には、分からないことがあると思うしかないこともあります。何らかの試練を与えた可能性がありますが、歴史の絡んでいる話については、ユダヤ教の民族主義や風習が絡んでくるので、私は解釈を保留することが多いです。
 
楽山は、理由なく、根拠もなく、キリスト者のキリスト信仰を殺したいようです。心に共感性がないために、理解力がないことを、神のせいにして、いちゃもんを言っています。こういう人に、つかまってしまうと、本当に、楽山と同じように、共感性を失うかもしれません。
 
楽山は、自己愛の病理によって、保留ということが分かりません。人間には分からないことがあるということさえ理解できません。だから、空しく神の辻褄を追って、短絡したまま語るのです。楽山は、無知と無恥によって、神も人も決めつけるので、共感も信頼も生まれない反キリストです。
 
神が、人に与えた尊いものの一つには、良心というものがあります。愛も、愛による戒めも、全て、そこにあります。愛も共感もない楽山が、物を扱うような実験か悪戯の病質で、信仰を試そうとするのは、悪魔性の企みに他なりません。
 
私が、ずっと言ってきたように、人間離れしていない正常な信仰者は、人殺しを悪としか思えないので、私を殺してくださいと、神に祈るかもしれません。そういう心が、自己愛だけの楽山には、分からないのです。良心を捨てた者の悪意ある臭い詭弁の設定には、何の意味もありません。
 
それ以上に、神が人を殺せと言ったら殺すか、などという問い詰めは、様々に考えるべき状況を無視した極めて乱暴に短絡した前提であり、神の愛と祝福を、自己愛のために受けることの出来なくなった楽山のような、良心のない者の、妬みからの嫌がらせに過ぎないのです。
 
HSではこういう話をそのまま受け入れることはできず、殺害命令は悪魔の声を、神の声と間違ったのだろうという解釈をすることになるのではあるまいか。
キリスト教系の掲示板で、「神が殺せと命じるとき!?」というようなスレッドを見掛けた記憶があるけど、HSではこういうことを考えることはできなかろうと思う。
 
いちばん凝り固まって、言論が出来ず、何も成り立たないくせに、悪口だけ言ってくるのが、楽山という病質者なのです。こういうところから、楽山が、神と悪魔の、どちら側にいるのかということを推測することは出来ます。楽山は、整えることをしない宗教の破壊者です。
 
*カトリック
孫引きで申し訳ないのだけれども、服従について、カトリックの方ではこんな考え方があるそうだ。
諸君が命令どおりに服従して行った瞬間に、神は諸君の責任を解除して、その責任を修院長に負わせ給うのである。 
(『宗教的経験の諸相(下)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2015年、p.89)
 」
これは神の代理人とされる修院長に服従している限りは、責任は生じないという理屈らしいが、自己責任を基本とするHSでは、これを受け入れるのは難しいだろう。
 
修道院のことでしょうか、カトリックの教えを引用しているようだが、ちょっと読んだだけで、神髄を知ったかのように、気楽に記事に載せて味方とするような振る舞いが、楽山という病質者には、前から見られます。神聖に対する恐れを知らないことが、もっとも、恐ろしいことです。
 
「自己責任を基本とする」のは、大方、言論でも同じですが、楽山は、指摘された責任を負うたことがありません。そういうとき、楽山が、相手を無視して、返してくるのは、執拗に自説を繰り返す気持ち悪さだけです。楽山は、客観的な視野の共有が、全くできません。
 
*夫に仕える
三浦綾子が夫に従順だったという話は、自分が行った講演会でも話されていた。口答えすることなく、なんでもハイと返事をしていたと。
おそらくは、聖書に従っていたのだろう。
妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
(エフェソ5.22)
 」
三浦綾子が夫に従順だったというのは、HS的には、謙虚、謙遜、無私などを理由にするかもしれないが、三浦綾子は聖書の言葉は自分勝手に緩く解釈してはならないという考え方の人のようであるし、
 
聖書の教えは、人間関係にも、及ぶことはあるでしょう。しかし、完全に正しく守ることは出来ないのが人間です。楽山が、「自分勝手に」キリスト教文学の小説家のことを「解釈」云々するのは、人間として、傲慢であります。何を知ってるつもりなのでしょう。
 
楽山は、聖書を利用したつもりで、無知と無恥をさらし、聖書と信仰と信仰者と人間をけがしています。楽山にとって、けがさない尊い存在は、自分だけなのでしょう。この曲解~妄想のために、楽山の人格は崩壊してゆくのです。
 
HS的に心の教えを実践していたというよりも、そういう原理主義的な信仰による行動だったのだろう。
 
信仰は、○○主義や、○○イズムには、なりません。三浦綾子氏の信仰生活を、原理主義的な信仰と、婉曲的に揶揄していることを、忘れないでください。いつも、他者を下に見て、多くは、決めつけて、侮辱し、都合によってベタ褒めする、という卑しい根性が、楽山のやり方です。
 
また噂によると、最近のHSでは、夫より、エル・カンターレを選びなさいと説いているという話があるが、これが本当なら上の聖書の言葉とは大分違うように思う。
 
楽山が、聖書の言葉と違うことをもって、批判していることは、実に滑稽です。聖書に、いちばん、反しているのは、どこから見ても、婉曲的な言い回しでも悪意がバレている楽山その人であります。正直の欠片もない人だと思います。
 
*最後に
HSには、生長の家の影響もあってか、万教帰一的な考え方があって、HS、仏教、キリスト教などはその根本を同じくするものだというけれども、実際には上のように、同じ言葉を使っていても、その意味、背景、論理などは異なっており、安易にいっしょくたにしてはいけないものだ。
こういうことは、HS信者にとっては受け入れ難いものだろうけれども、そういう考え方があるということくらいは、頭の隅にでも置いといて欲しいものである。
 
同じ言葉も、違う言葉も、どんな言葉も、誰の言葉も、言えば、悪意が働いて利用~悪用しているのが、楽山だと思っていたほうがよいと思います。私は、ずっと、真実追求のテーマである宗教と信仰と思想について、楽山には何も書く資格がないと言い続けています。
 
◇◆ 追記 2020.11.26 ◆◇
*美しさ
LEO氏の記事タイトルに「高級霊の思いと言葉は美しい」とあるので思い出したが、HSでは「高級霊はみな詩人である」とされていたのだった。
でも、ツイッターで拾ったものだけど、大川隆法はこんな詩を書いているらしい。
デザート1
デザート2
 」(省略)
この詩集には、この他に「神の乳房にむしゃぶりついて…」とか、処女がどうしたこうしたという詩もあって仰天させられるのだが、率直な感想としては、「高級霊はみな詩人である」という教義と、現実の大川隆法の詩とでは隔たりがありすぎて、この二つを矛盾なく結合させるのは大変だろう。
余計なお世話だろうけれど、一退会者として、教義と現実との差異に気づいて悩んでいる信者には、あまり無理しない方がいいよと言ってあげたいと思う。
 
楽山の、美意識のみならず、人格そのものを全く信頼できないので、楽山は、何か揶揄しているようだが、その揶揄の目的を信頼できません。楽山が、詩の形式で書いていたクリスチャン芝居は、わざとらしくて、白々しくて、とても、読めるものではありませんでした。
 
人の詩を、とやかく言うことで、自らの未熟を、まるで自覚していないことが、分かります。万事が同様に、楽山は、反省しないために、自覚というものが出来ないのです。楽山は、誰を批判する資格もありません。
 
楽山には、おかしいね・・と指して、揶揄して、笑う体質しかありません。楽山は、いかなる救いも、全く語れません。宗教を、見分けることも出来ないまま、いちゃもん漬けにして、自分は出来た人を気取って楽しんでいるだけの、みじめな自己愛性人格障害者に過ぎません。
 
 
自分を見ないで独り言

自分を見ないで独り言
 
 
(2020年11月27日、同日一部修正)
 
(2021年12月07日、再録+)
 
 
 
 キーワード: 見ない
 
  歩く小石
 
いつか歩くのだった
ここは河原かもしれない
あるいは荒野かもしれない
しかし歩くのだった
小石に足を滑らせながら
足元の小石しか見ないまま
遠くがどうだか
前が後ろが
周りがどうだか
興味を示さずに
眼下の小石の重なりだけを見つめて
しかもそれに足を滑らせ転びながら
感情はあるらしいのだが
たまってくると
ホォオー・・・ッ
と奇声を発して吐き出していた
わかっていたのだ
小石以上ではないと
必要十分なことはわかっていたのだ
 
 
 
楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
大川隆法は、高橋信次を批判しているものの、その考え方は、高橋信次の教え(九次元、裏側、仙人、霊能力信仰批判など)からは一歩も出てないという…。
 
自分の妄想から一歩も出てない楽山が言っていることです。今回はOR批判のようですが、見ての通り、人間には理解不能な超常言葉を並べて、見抜いているとばかり自己の優位性を、空しく叫んでいます。楽山の精神というのは、このように、超常の思想の世界を見せびらかすことなのです。
 
しかし、楽山もまた、ふつうではないのだから、理解できるわけもなく、自分を賞賛し、自分を信頼することを、詭弁で誘導してくるわけです。一歩も出てないと楽山は言いますが、霊が分かるっぽい?楽山も、既に、恐ろしく脱線して、常識を失ったところから妄想を語ってくる人です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
·12月5日
要は、大川隆法は高橋信次を否定しつつも、その世界観は継承している分派ということだね。
レムリアが、大川隆法は否定しつつも、その世界観は継承した分派だというのと同じ構図。
 
(ネットより)
レムリア(英語: Lemuria)は、イギリスの動物学者フィリップ・スクレーターが1874年に提唱した、インド洋に存在したとされる仮想の大陸[1][2]。
また、オカルト系の書物において同一名称の大陸が登場するが、上記の動物学の仮説とはまったくの別物である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%A0%E3%83%AA%E3%82%A2
 
楽山は、他者の世界観の分派と同じと批判して、自身は、何を主張したいのでしょう。科学から、こぼれ落ちてきた不思議の国を、カルトも、楽山も、大いに、テーマにしてきます。なぜでしょう。否定の証明も出来ない性質を持つ超常の異説だからだと思います。
 
(ネットより)
高橋 信次(たかはし しんじ、1927年9月21日 - 1976年6月25日)は、日本の宗教家で宗教団体GLAの創立者[1]。ハードウェアエンジニアとして会社を設立し経営者を務めた。
高橋によれば、人間はその内側に次元の異なる心や魂の世界があり[2]、その中心に「仏性神性を持っている」[3]。人間は「神の子として(中略)人々の心と心を調和させ、地上に(中略)ユートピアの実現を志すとともに(中略)盲目の人生での修行を通して、豊かな神の心を完成させることが大切である」[4]という。また、自然において安定した環境が保たれているのは「神の大慈悲であり、大いなる神の愛」[5]であるという。
 
無知という盲目から、楽山が、どう進んでも、神の心、神の子、完成、実現、神の御慈悲、神の愛、という大言壮語に至ることはないのです。
 
キリスト信仰は、聖書に学んで、自らの、人としての小ささや罪深さを知って、それを告白する相手を知ることから始まります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。他者のばかり言ってきた楽山の、人間離れの悪と罪と偽善です。
 
楽山は、ツイッターで、他者に、議論?のつもりで、いちゃもんをつけて、遊んでいるようです。何を書いても、自己愛性人格発信だから批判対象にしかならないのに、それでも、書いてくるのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDによって、自分は出来るんだ妄想が膨らんでくるからでしょう。
 
楽山は、理解力も発想力もないから、節操もなく、近いと感じた他者の話を利用~悪用して、自分も分かっているアピールをしてきます。楽山の、上からの評論めいた話は、夜店のインチキより、あくどいものです。楽山には、"上から" も、"評論" も、手に負えなくて、ただの飾りなのです。
 
 
 
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  偶像と玉葱の皮2
  を加筆修正。
 
 
人が神を
特にキリストを信仰するとき
祈るときも感謝するときも
キリストの理想像を
人は心に思い描いています
その根拠は聖書ですが
それも人による聖書の解釈です
 
したがって信仰は
自分にとって望ましく好ましい
また都合のよい偶像になってゆきます
つまり信仰は偶像信仰になってゆきます
 
信仰の偶像は忌むべきです
排除できるなら排除したいのですが
はたして排除できるでしょうか
 
キリストを思うとき
必ずキリストを思い描いています
姿・顔・表情など
詳細な写実のような像でなくても
思い描かないなら概念に過ぎなくなります
信仰が概念だけになるのはイデオロギー化であります
信仰はイデオロギーではありません
 
思い描いてしまうのです
大好きなイエスさまを
 
偶像の完全排除は形無き理屈になりますから
偶像排除も真の信仰も
結局は不可能になります
 
しかし偶像を排除しようという意思を持つことが
折に触れて大切になります
経験を重ねるにつれて余計な尾ひれが付いてくるのが
人が信じるということの必然ですから
 
信仰の偶像を自覚しない信仰にならないために
 
偶像の排除は
玉葱の皮を剥くようなものかもしれません
剥いても剥いても切りがなく
刻めば出てくるのは涙だけ
しかも玉葱の芯があってもなくても
真の信仰だという保証はないのです
 
だからといって
偶像排除など
しなくてよいということにはなりません
 
いかなる信仰であれ
自分に都合のよい偶像信仰に陥る危険はあり
偶像信仰だけならば
玉葱の皮をむいた後に残るものは何もありません
偶像信仰だけでないならば
皮をむき続けるのが信仰者の一生です
この場合
皮をむく作業は終わらないのです
ゆえに信仰は境地ではなく一生続く道なのです
 
したがって人は
皮をむく作業が終わりを予測できないまま
作業を続けることになります
それは空しいだけだと止めてしまうと
玉葱の皮に気づこうとしないまま偶像信仰が続く
という最悪の偶像信仰に陥るでしょう
 
信仰の偶像を自覚する信仰であるために
 
「剥いて刻んでも出てくるのは涙だけ」
と言う偽善者もいますが
 
だからこそ
玉葱の正体を知りたいなら
一生のあいだに
ありったけの涙を流すべきなのです
 
 
(2011年12月21日、同日一部修正)
 
 
上では偶像と書きましたが
ここでは
祈るとき
信仰について考えるとき
必ず不可避的に
思い描いているイメージの意味でもあります。
 
偶像=心に描いているキリスト像
=自分の理想のキリスト像
=自分が出会ったと思っているキリスト像
こういう偶像は
信仰者なら
はっきりとはしなくても
誰もが持っていると思います。
 
そこを自覚しない場合
あるいはカルトなどは最初から、
最悪となる偶像があります。
すなわち偶像崇拝といってよい邪悪な偶像です。
それは不可避的にではなく
思い込みによる偶像です。
多くは
自分に都合がよく
自分をいつも正当化してくれるような
慰め主でありながら
信仰とは別の
自分の都合だけで作られているので
刷り込まれたものであっても
先入観や固定観念や欲望のイメージとして
自分信仰の欲望の偶像であり
この偶像の神そしてキリストは
まさに
自分自身でしかないのです。
 
誰もが持っているのではなく、持ってはならず、
学習と成長を阻害し、自他を傷つけ破壊する危険があり、
自戒して自壊させなければならない偶像は、この後者であります。
 
 
※(補足)
 
偽善者は、神がいるなら悲劇や悲惨な死があるのはおかしいと言って、あっさり、だめだこりゃ・・とでも思ったのか、すっかり反キリストになります。呆れたことに、それで、物を知っているかのような気分になって満悦するのです。
 
信仰者になる人は、悲劇があるからこそ、神の救いを必要とします。何故なら、神がいないことにしても悲劇から逃れることなど出来ず、悲劇の時の慰めと癒しと救いがなくて、この世が、絶望に満たされるのは耐えられないからです。
 
 
偶像2

偶像
 
 
(2020年12月24日)
 
 
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