ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:土の器

 
  信仰と教義と学問そして思考3
    2013年03月13日を再録+必要なら修正
 
 
コメントの日付は省略します。ずいぶん昔の、ヤフーブログ時代の、今では見つからないブログ「日常×非日常」の記事「「信仰」を捨てて神に従う」のコメントから編集を加えて記事にしています。
 
 「信仰をなくす(必要性)」について
 
信仰、さらには宗教というと、人間としての共感以外にも、余計なものが着いてきてしまうことがあります。「信仰をなくす」は、信仰がなければそもそも言う必然のないことです。信仰と思っているものの中の、余計なものを削ぎ落とすか、少なくとも、区別することが必要です。
 
 
>「信仰をなくす」ことが必要だという考え方が
>別の「信仰」に基づいているなら、それはすでに偽善的
 
これが端的に表していると思うのですが、「信仰をなくす」必要性を考えることが、既に何らかの教義的信条?に束縛されていることを意味しているからだと思います。つまり、言葉だけを固めるだけでは、なくさなくていい信仰を明らかにすることには、近づくことさえ困難になります。
 
隣人愛さえ全うできない罪深さから神への恐れを抱いているなら「隣人愛」の行為が優先するのは当然のことで、それは、キリストが、実践したことです。なのに、慣習のような「古い教義的考え」をなくすべきであるのに「信仰をなくす」と言ってしまうと、まだ的を射ていない感じです。
 
一人一人違う信仰を、言葉で一致させることは不可能です。厳密には言葉も一人一人違うからです。大事なことは、キリストに救われた人間の心を、感じ取り、考えることでしょう。救われたのは、教条に専念した人ではなく、そういう人に軽蔑される悲しい人々だったということです。
 
また「私の神様」が何を今お望みであるかを考えるときに、長く染み付いた教義と教理的思考が束縛なのです。この場合「なぜ神は・・」は「神様、分かりません!」という悲鳴に近く、嘆きと叫びであって、「なぜ神は・・」を神義「論」として答えを得られるという考え方がおかしいのです。
 
教義、教理、信条は、信仰のヒントとなる言葉であります。大事なのは、信仰が生まれる土の器、という比喩で表された信仰の心なのです。信仰は、心以外にはないからです。
 
かつて、偽牧師シャロームshalom は、心のどこを探しても信仰はないと言っていました。土の器という言葉から、何か魔法の器があり、魔法のような信仰?を受け取るつもりなのでしょう。人間離れの偽善者は、そういうところまで、無理解を魔法に置き換える害毒となります。
 
 
 「クレド」について
 
クレドは、辞書によると信条、また「われ信ず」とありました。神という御方として・・選択肢が他にない人においては「われ信ず」は肯定せざるを得ないものとして、私にもあります。祈り嘆き叫ぶ相手として・・であります。
 
いつでもどこでも正しく通用するかのよう語られる「信条」は、そのものが言葉である以上、実感できるように心と、隠された導きを要することです。最悪なのは、"分かっている" と言うために、導きを決めつけて思い込むことです。人は、神の関わる信仰を、完全には知りえません。
 
信条を、信仰そのもののように語ることは、批判対象になるだけでしょう。信仰は、形無きものです。神と、神の賜物は、推測や想像は可能でも、人が確定することは出来ず、ある時、判断するだけであり、不可知と弁えるべきことです。聖書と体験から、成長してゆくのが、人の信仰です。
 
 
「教義的信条という類のものは信仰に含まれない」
 というコメントについて
 
本当に含まれていないでしょうか。神学を知らない私でさえ含まれていないとは言えないから自己も含めて批判したいのです。教義的であっても信条は、信仰そのものではなく、忘れないほうがよいヒントとしての道しるべとしての役割を持っていると思います。言葉は、そういうものです。
 
ヒントは、ヒントとして、大事にすればよいのですが、若き日より教会などで教えられたものに無条件に「信仰」の名を付けて、当為的なものやROM回路的思考のような言葉が、無意識にこびりついていて、先入観のように、いろんな場面で顔を出してくるのを自覚しています。
 
 
 「神学批判」という批判コメントについて
 
少なくとも私はよく知らない神学を否定することは出来ません。私は、人間の信仰のあり方として望ましくないことを批判しています。神学は、信仰の参考として、提言や仮説は可能ですが、信仰は、何学とも何論とも同等ではなく同一視できないと思っています。
 
学問はその前提に従って整合性を追究するのでしょうけれど、神の関わることだから信仰の整合性は、人の側には完全には解明されません。人が信仰の整合性を学問に求めることは出来ないと思います。無理に整合性を図ろうとすれば、それは自己満足そして自分信仰への固着になります。
 
信条について・・神の全知全能を信じるかと問われれば、私は信じると答えるでしょう。しかし神についても、全知全能についても、全知でも全能でもない私という人は理解できません。神の全知全能はしばしば人には耐え難いものだと思います。
 
つまり「分かりやすいとか分かったかのような神の全知全能」はあり得ず、信仰は、神の全知全能を信じるという言葉だけでは成り立ちません。それは、言葉としての出発点に過ぎないのです。
 
学問は、失礼ながら興味に始まっているような気がします。
 
信仰は、私には、まさに魂の死活問題ですから死ぬまで考えます。
 
「学問的思考(整合性をつけるべきもの)と信仰的思考(整合性にとらわれない思考)とを区別して考えてゆかないと、結局、誰にも共有されないままに終わってしまうのではないでしょうか。モノローグで終わりたければ、それでよくても、ダイアローグにしたい私には耐えられない」
 
 
※ ここからはコメントではなく私の感想です。
 
なんとなく分かるような気がするのは、私は学者ではないので「学問的思考(整合性をつけるべきもの)」を持ち合わせていません。ですから専門用語をいっぱい使った学者同士の遣り取りには入って行けません。
 
楽山の言うことを受け入れても、何の役にも立ちません。詭弁によって理路が混乱し、曖昧さによって感性が鈍麻するだけです。そして、神経~精神が疲労し、人格そのものが鈍化してゆき、最終的には、人格が破壊されて、楽山と同じようなボンヤリ人間になってしまうでしょう。
 
「日常×非日常」ブログは、哲学、神学、人間学のブログですが、テーマは広く、震災などの現実的な問題を始め、文学、音楽、等々、また部分においては日常語で表された記事や解説も多いので、信仰的思考(整合性にとらわれない思考)について私も時々コメントを入れてきました。
 
さて信仰的思考、ここでは信仰について語るときはどうかというと、やはり、日常語レベルで、ある程度の整合性が必要になります。論理的整合性というと難しくなりますが、支離滅裂であってはいけないし、思い込みの繰り返しやごり押しであってもいけない、ということです。
 
信仰者としての聞く態度と思考には、賛成意見も反対意見もあるわけですから整合性というか説得力というか、根拠や筋道は必要になります。詭弁や思い込み~妄想を除外する必要もあるでしょう。キリスト者の共感として、キリストの共感が聖書にしるされてあり、信仰者のキリストへの共感があります。
 
信仰は理屈ではないし、神の側の整合性を語る能力は人の側にはありません。しかし人の側の信仰の受け取り方は、人間性の問題です。人間性の問題である以上、信仰における人の姿勢や態度そして思考について、信仰者という人間の共感に基づくところの弁えは必ず問われるのです。
 
それらすべてに、決定的に、致命的に、不合格なのが、楽山と、シャローム、という、良心のないゆえに、罪悪感も、共感もなく、妄想的な決めつけと信条だけの異常者なのです。信仰を持たないだけではなく、神に逆らって、反キリスト思想を刷り込もうとする彼らに、関わってはいけません。
 
 ※
 
現実を生きる信仰は、決して超常を理解することでも信じ込むことでもありません。宗教と言えば超常という先入観を作ったのは、キリスト教と他の宗教そしてカルトの責任であります。宗教と信仰の、現実の人間との関係をずっと考えています。超常の理解力は人間にはない、ゆえに超常と呼ぶのです。
 
人間が生きるために必要なことが超常であるなら、人間は決して救われません。キリスト教はキリスト信仰によって、キリストと心貧しい人々の間に生まれた温もりと潤いによって始まっています。キリストの、人々への悲しみへの共感こそが、人間が生きることの源泉となっています。
 
超常奇跡ばかりを語る説教を信じてはいけません。人間が生きるのには、人間らしい悲しみの共感が必要です。言葉ではなく、生きる理由が絆として心にあり、共感と癒しが人生に同伴することが、キリスト信仰の賜物であります。キリストとともに・・というのは、具体的には聖書とともに・・ということです。
 
超常は神のものです。まるで我がもののように超常を語る口に惑わされないでください。そのために、人には手に負えない、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変、・・という言葉が、神を表す言葉として用意されました。超常に近づくのが信仰ではありません。祈りとともに生きるのが信仰です。
 
 
整合性

整合性
 
 
(2013年)
(2021年)
(2022年12月30日、再録+加筆)
 
 
 
  薄い
 
薄い
あまりにも薄い
ネットにおける匿名の関係
しかし利害でも理屈でもなく集うとき
薄い
最も薄い
目蓋の皮膚
だから目の
最も近くにある
 
 
  甘栗
 
甘栗を噛む
ぱりっと音がする
指で殻を割る
ころりと栗の実が顔を出す
今度はうまくいったと口に放り込む
手に残った小さな殻
ふと内側を覗(のぞ)く
しばらく見入ってしまう
一粒の小さな実を結ぶということ
 
 
  祈り・潜熱の循環
 
冷たい熱に
まだ温もりがあるならば祝福を
 
真空にエネルギーがあるように
虚空には潜熱がある
保存則を守りながら
やがて諦観となって灯火を揺らす
諦めとしての灯火と
諦めと裏腹な灯火と
どちらが燃え上がるでもなく
対をなして虚空を漂う
いつか再び温もりとしてこの胸に
還ることがあるでしょうか
 
クリスマスに何のお手伝いもできず
凍りついた無為のまま
震えて過ごした冷たい熱に
まだ生きて祝福を賜るならば温もりを
 
内に秘めた温もりを
人々の間に灯す術を知らず
潜熱として閉じ込めて
冷たい空へ解き放つ
冷たい空は冷たいままだ
身は熱を奪われてますます冷たい
何も伝わらなかった
何も伝えることができなかった
と次の潜熱が疼き始める
 
 
  アノニマス
 
気がつくと群れの中にいた
仕事をしているらしくもあり整然として
そのくせ働いたときの充足感も
疲労さえもなかった
そこではお互い顔を見ることも
肉声を聞くこともなかった
ある者は快く語り
ある者は苦悩をのぞかせ
ある者は淡々と語った
首のない会議
しかしその集まりは匿名ではなかった
それぞれが仮の名であれ名乗り
責めがあれば負う覚悟さえ示していたのだ
肉声を聞こうとし語ろうとし
高めようとする姿勢
それがすべての始まりであった
もどかしく伝えようとして伝わらないもの
もどかしさゆえに語ろうとしていた
それが終わりのすべてであったかもしれない
ある者はうなだれて去り
ある者は再開を期して帰っていった
 
気がつくと独り疲労があった
誰のために、と
ふと思った何のために
切られることもなく選ぶこともせず
自分を切り刻んで見せるだけで
高められる何があろうか
失ってみれば確かにその通りであった
旅立たせる翼はなくても
そばだたせる耳ぐらいは欲しかった
それだけはどうしても
 
ここで完ぺきなほどに匿名の
独りの声は宙にかき消え
磨いてきたつもりの刃に
ぽつぽつと浮いている錆を見つめていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のしてきたことは、「人間の性」で「自分もそんな風」という人間共通のことでは決してないわけです。楽山の固有の罪と偽善です。楽山は、空しい詭弁の言い逃れをしています。多くの人を、無駄に疲れさせ、だましてきたのは、罪悪感のない病質です。
 
良心のある人ならば、こうはなりたくないと思うような人間に、楽山は、なっているのです。言葉だけ見ても、バレていますし、これからもバレてゆきます。もはや、いくら、良さそうな言葉を見繕って並べても、病質は、必ず表れてるでしょう。楽山の、一切が、詭弁という無駄なのです。
 
反キリストの楽山と、偽牧師シャロームは、同一の成りすましかもしれませんが、いずれにしても、ネットの匿名性を悪用して、宗教、思想、映画、霊能、などを、興味本位で書いて面白がっているだけの、荒らし体質の者たちだと思います。決して関わらないでください。
 
 
 
 自己愛性パーソナリティ障害:診断基準
 ハートクリニック こころのはなし
ハートクリニック こころのはなし
 
誇大性(空想または行動における)、賛美されたい欲求、共感の欠如の広範な様式で、成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。以下のうち5つ(またはそれ以上)によって示される。
 
自分が重要であるという誇大な感覚(例:業績や才能を誇張する、十分な業績がないにもかかわらず優れていると認められることを期待する)。
限りない成功、権力、才気、美しさ、あるいは理想的な愛の空想にとらわれている。
自分が“特別”であり、独特であり、他の特別なまたは地位の高い人達(または団体)だけが理解しうる、または関係すべきだ、と信じている。
過剰な賛美を求める。
特権階級(つまり、特別有利な取り計らい、または自分が期待すれば相手が自動的に従うことを理由もなく期待する)。
対人関係で相手を不当に利用する(すなわち、自分自身の目的を達成するために他人を利用する)。
共感の欠如:他人の気持ちおよび欲求を認識しようとしない、またはそれに気づこうとしない。
しばしば他人に嫉妬する、または他人が自分に嫉妬していると思い込む。
尊大で傲慢な行動、または態度。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここにブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  神と人と言葉3
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように都合のよい神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。カルトらしい受け取り方でした。
 
しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。金の器のように輝くわけでもなく、地味で、かつ、壊れやすい、土の器 ・・人間の心を表しているように感じました。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心が働くところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。
 
絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、その神?は、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性、即ち、罪深さによるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。超常を引き寄せたいという欲望は、空想と欲望の産物であるカルトの特徴です。
 
そういう、欲望が空けた隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりとモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、相対的で不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの共感の愛であり、キリストへ共感のの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない、ある日の愚痴です・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神と人の言葉

神と人の言葉
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年07月29日、再録+加筆)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
  置き忘れ

君の気持ちを置き忘れ
君の面影を置き忘れ
あの言葉を置き忘れ置き忘れたことに気づいても
取りに行けないものが多すぎて
長い長い
永い永い
知らない町に住んでいた
上手な明日をこねようとして
下手な朝をこぼして
昼から夕へころんで
みずぼらしい夜に流れていった
思えばあっという間だったと
言うそばから歩きだすウソ
恐らくは余命の尽きるまで
人には失せた他人の首に過ぎなく
おろおろと探している
頭のないその頭
見なかったはずだと背を向けて
数えきれない影も声も
物忘れの箱に
無理に押し込めようとして
きしんだ老化
置き忘れられて久しく
まだ育ってもいないのに
窓をそめてゆく光のなかで
またひとつ
そこなわれてゆく夕暮れ時
 
 
  秘められた目
 
そらした視線の奥に
とじられた来歴
見知らぬ人
途切れた眼差しの向こうに
 
乾いた涙腺にかくされた思い出
小さな花々よ
雑草の中で揺れて
 
眉間に集まる怒りをなだめて
波打つ草原のかなたに
ひそかに落ちていく果実たち
 
まぶたの裏に
哀しい幻を見る瞳
小さな窓から
見渡せる
限られた風景
 
力なく落とした肩が
物語る姿なき恐れ
はるかに続く道
その先は町並みの明かり
あるいは森の火か
行ってみなければ
見えてはこない
 
苛立ちを耐えている
ふるえる唇
伝える言葉は乏しく
伝わるものはもっと少なく
海岸線を眺めている
その足元で
海の音を宿している
拾われなかった無数の貝殻
それぞれの
ひとりきり
 
今日は何をしましたか
ただ生きれるように生きてみました
だから今は
数々の今日に重なる
明日を待ちます
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  理由2
 
 
私は、宗教と信仰を、自分が、生きられるか生きられないか、という考え方をするしかない人です。上手く生きるかどうかは、二の次です。ご利益などは、私の思いにおいては、圏外です。
 
しかし、巷の宗教、特にカルトの話を聞くと、上手に生きる、楽しく生きる、完全になる、何らかの利益を得る、満足する、というものばかりのようです。
 
上手には生きられません、楽しいばかりではありません、人間は不完全です、ご利益など、満足など、無理です、というふうにしか見えないのが、私が見る世界です。自分の心を見れば、悔いることや、嫌なことのほうが、より多く、思い出されるからです。内にも外にも。
 
それを耐えて生きるには、生き甲斐というより、むしろ、生きる理由が必要です。なぜ、悲しかったり苦しかったりの人生を、生きることに耐えなければいけないのでしょうと、仰ぐところに、私の場合、神、そして、キリストがいる、という成り行きであります。
 
そのことを無視することは出来ません。そこに、現実と、信仰の、交差点があります。
 
 
  非合理と合理
 
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である。
人の理解と把握には限界があるからだ。
 
神の合理を人は理解できない。
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている。
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ。
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信=妄想に堕ちてゆく。
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
人を、いわれなき罪と報いに定める。
 
 
  器
 
信仰に必要なのは
復興ではなく改革である。
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である。
 
信仰を、人知によって語りうるものだけを受け取り
人知によって語れないことを神に任せる人の器への改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である。
 
人知を超えることが出来ない人間は
生きている間は神を仰ぐのであって
人の意志を
絶対の神の意志と一致させることは出来ない
ということを知ることが信仰である。
 
信仰の成長とは
決めつけを避けて成長を期し
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである。
人間の温もりと潤いを失いかけた心に
人間らしさを
神の支配の意識によって
キリストの共感と愛によって取り戻すのが信仰である。
 
 さもなければ
 信仰に熱心であればあるほど
 信じれば信じるほど
 人の器は
 土の器?から神の器を目指すことになり
 土の器に秘められた人の信仰は
 神の器に背くだろう
 そういう人知信仰が破壊してゆくのは
 土の器にあるべき真の信仰に他ならないのである
 
善き信仰は
自らの土の器とその中身を
神によって鍛えられ
神のもとで育てられることを喜ぶだろう。
 
 
理由なき慢心

理由なき慢心
 
 
(2011,16、19,20)
(2022年07月12日、再録+加筆)
 
 
 
  自殺について
(「自殺は最大の罪」とは
 「自殺者は最大の罪人」の意ではない
  これは生けるものに向かって発せられた言葉であって
  死者を呪うための言葉ではない)
 
自殺者はいつも
いちばん言いたかったことを
言い損ねて死んでしまう
したがって口を失った彼が
残された人々によって
嘆かれているうちはいいとしても
時には根も葉もないささやきの的になったり
とてつもない大罪を背負わされたりする
それでも死者は黙っているほかはない
 
 (神が生ける者の神であるように
  罪も許しもまた生ける者のためにあるのなら
  最大といわれる自殺の罪が
  果たして自殺者だけに帰せられるべきものかどうか)
 
もうだめだと思ったときに
他人を殺す人間もいれば
もうだめだと思ったときに
自分を殺す人間もいる
 
人がみんな死ぬときに
弾丸の間をすり抜けて生きのびた人間もいれば
人がみんな生きるときに
ひとり天井を眺めながら死んでいく人間もいる
 
 (基督は確かに生きよと言われるだろう
  だが その理由によって生きている人間は
  思ったほど多くはあるまい)
 
死ぬ ということは
もう出会わないということ
ひょっとしたら
生まれてこのかた
誰にも会ったことはない
と言うことかもしれない
 
残された友人はただ
薄暗い電灯の下から
ふと泥のような顔を上げて
曲がった指で指差すだけだ
見ろ あいつが出ていったあの場所に
扉もなければ窓もない
 
 (もともと基督など信じていなかったのだ
  ということにすれば辻褄は合う
  だがどうしても合わないものがある)
 
自殺がどんな腹いせで
どんな恨みに基づいていようと
自殺者がどんな病気で
どんな不幸な目にあったのであろうと
自殺はいつも一つのことを告げてはいる
生きたかったと
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
 期待するものと
 期待されるものの間で
 つり上げられた信仰が
 病気の小魚のように
 しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
 幼子が胎に宿った
 と言われた夜もそのようになれ
 わが愛する人々は遠く去れ
 二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 (※
 
 キリストを愛する信仰者は
 顔を背けることが、
 信仰を捨てることではないと知っています。
 既に 何度
 顔を背けてきたかを知っているからです。)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
理由を考えるということが出来ないのが自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴でしょう。自己愛が訂正不能の前提となっているからです。だから、反省も、訂正も、考えず、満悦して何でも言えるほど図々しいのでしょう。自分に反するものは、最初に削除しているのです。
 
 
 
楽山の害毒:今までに表れてきたこと。
 
人格:
1. 自己愛が強く自己中である。
2. 自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
3. 平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
4. 深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
5. 後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
6. 罪悪感、羞恥心が見られない。
7. アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
議論:
8. 議論や交流が、整わない、できないし、する気がない。
9. 相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
13.人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
14.真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
15.ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
16.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
17.しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
18.「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらない。
宗教:
19.反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
20.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
21.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
22.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。
これらの詳細については、新しい情報があれば、加筆し、毎回、載せるようにするつもりです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  神と人と言葉2
 
 
私が、"理路" という言葉を使い、"論理" という言葉をあまり使わない理由については、前にも述べたことがあると思います。論理という言葉が、いかにも理屈だけという印象があるからです。
 
数学や物理学なら、理屈だけでよいのかもしれません。情の入る余地はないからです。
 
しかし、信仰と人間について書くときには、人間の心や共感という人間性を抜きには語れないので、論理という言葉を避けています。理路という言葉で、表せているかどうかも疑問ではありますが。
 
 
信仰において、理路が必要となるのは、私の考える信仰が、人間の心や納得や共感性を抜きにしては語れないからであります。
 
信仰が、何でも叶えられるようなご利益信仰や、超常の心性の仕組みを真理として前提とするカルトなどは、人間性については、むしろ邪魔なのでしょう。
 
ある凶悪な偽牧師は、私の信仰を、人間信仰だと揶揄しました。しかし、人間一般や特定の人間を絶対正義として崇めるなど出来ないのは明らかですし、偽牧師のように、人間に理解できるような神?を信じるというのもまた、人間の思想を信仰するというカルトであります。
 
その凶悪な偽キリスト教のカルトは、人間の心の、どこを探しても信仰はないと言いました。恐らく、聖書に書いてあり信仰を受け取るための "土の器" なるものが、心とは違ったところにあると言いたいのでしょう。 しかし、"土の器" は、人間にとって、比喩以上の意味を持ち得ません。
 
ゆえに、信仰は、心に与えられ、心以外のところにはありません。このように、心の無いカルトは、理解も出来ないところの超常を、自ら捏造して特別に見せかけるのが大好きです。ついでに、自分も特別だと言いたいのでしょう。
 
心で信仰を受け取らなくて、どこで受け取るのでしょう。心以外の別のもので受け取るというのは、明らかな空想の捏造であります。カルトは、自分は人とは違うというところを見せたがります。
 
信仰は、良心を持つところ、即ち、心で受け取るしかありません。
 
そして、人間は、神に比べて、不完全な存在である、ということが、人間に理解できるところの真実なのです。それを、前提として、話を進めなければいけません。不完全な存在である人間に、完全なる神を理解することは不可能であります。
 
 
人間は、なぜ、神を必要とし、神を信じるようになるのでしょう。それは、完全な真理である神が理解できるからなどという、カルトが言いそうな理由ではありません。
 
人間は、生きていて、必ずと言ってよいほど、苦難に遭遇します。その苦難を、自分で克服できるとは限りません。そこで悩んでいるばかりでは、生きることが苦しくなるばかり、ということがあるわけです。
 
そういう時に、人間を、ほいほいと救ってくれる神?でははなく、祈祷だけによってご利益をくれる神?でもなく、都合の良いことが起こるからという都合のいい話を、生きる縁(よすが)として頼みにすることは出来ません。
 
思案の末に、はっきりと分からなくても、人間の世界を、大きく包み込むような神聖なる御方を、恐らく、古代の宗教発祥の時代に、考えないではおれない人々がいたのではないかと思います。苦難の時に、最も耐えがたいのは、どこにも寄る辺のない絶対孤独であります。
 
彼ら思慮深い人々は、そのような完全な存在を想い、そういう御方でなければ救えないほどの大きな苦難に遭った人々なのだろうと思います。その神の同伴のもとで、生から死への悲しみを耐え忍ぶことに救いを求めるしかなかったのだろうと思います。絶対孤独からの解放が信仰です。
 
つまり、神を想う人々は、どうしようもない苦難に対して、全知全能の神、たとえ、今は、背後にいて、よく見えない存在だとしても、そういう神が存在するのでなければ、生きられない、というほどの実感があったのだろうと思います。
 
言い換えれば、神?が完全だと分かるから信じる、というのはカルトであり、人を救える神ではない、ということです。そういう捏造の神?を信じようとする向きは、大方、自己中心で自己顕示欲の強い者たちだろうと思います。
 
神を想う思慮深い人々の願いは、たとえ自分が苦難のうちに死に絶えても、残してゆく家族や次の世代に希望をつなぎたい、という切実な思いもあったかもしれません。だから、キリストも、預言者も、世々の聖徒たちも、迫害によって死ぬことを辞さなかったのかもしれません。
 
即ち、神がいるから、神が分かるから、ちょうどよくて信じるのではなく、信仰者は、信仰や宗教よりも先に、苦難に耐えがたい悲しみをいだくゆえに、最後の希望を、神に託す人々であります。
 
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、私たちは、人の言葉で表された聖書を、人の頭の理路と心の共感力で受け取るしかありません。そこには、人間の不完全性によるリスクが伴います。
 
聖霊の導きによって、神の言葉が分かるなどと言う人には注意してください。聖霊という神格が降りているかどうか分かるような能力は人にはないのです。
 
そういう隙間のような欲求に、入ってくるのは、悪魔の誘惑、自己顕示欲からの超常願望、あるいは、有頂天の陶酔気分、そして、カルトの悪意、といったものだけなのです。
 
言葉は、伝達のための暗号です。そして、一つの言葉が、必ずしも、いつも、一つの心の動きに対応するとは限りません。数学や物理学と違って、心は揺れ動くものです。経験によっても変わるものです。
 
また、人によっても、異なるものです。心の動きは、感じることはあっても、どう動いているか、はっきりモニターできるものではありません。信仰を伝えるにあたっては、そういう人間の心の不完全と不安定を弁えておく必要があります。
 
あるとき感動を覚えた対象に、次の時にも、同じ感動を覚えるとは限らず、むしろ、感動したという記憶を想起するだけのこともあるかもしれません。それほど、言葉と心の関係は、不安定で流動的なものです。
 
ただ、後になって、あれは、あのとき、あの聖句を読んでいたのは神の導きであったのかもしれない、あの成り行きは神の導きであったかもしれない、ということを思ったり感じたりすることはあるでしょう。私たち人間に許されるのは、そういう推測にとどまるべきなのです。
 
 
したがって、信仰を伝えるときに、同じ言葉を言って、同じ伝道が出来たと思うことは、人に対しても、神に対しても、不遜なことであります。また、ここでも、聖霊の導きが、神の恵みが、などと決めつけないようにしてください。人間は不完全だから、伝わらないことはあるのです。
 
もちろん、伝えるということは、信仰については、どんなに努力しても易しいことではなく、どう努力すればよいのか、とさえ思ってしまうものです。信仰は、聖書の言葉は、神聖の導きは、それを分かって不動にするためではなく、また、決して生命保険のような保証でもないのです。
 
信仰は、悲しむ心を癒やし、努めることをやめない忍耐力のためにあります。何よりも、福音伝道を支えるのは、聖書から受け取るところの、キリストの愛であり、キリストへの愛であります。そこが、キリスト信仰の中心であり、つまるところ、総てであるかもしれません。
 
 
 
※ 記事とは関係ない愚痴です・・去年、母の転院のこと・・
 
言葉だけ丁寧で、書類と話してるみたいで、ペラペラペラペラペラ、温もりも潤いもなくて、反応も単調で、鬱とか病歴とか個人のこと話しても、水害と天気とか話しても、言っただけ損した気分になるだけで、自分の都合しか言わないし、言葉だけ丁寧野郎で、何日までとか、脅迫めいた文言を、同じ口調で言ってくるし、甘えるなとか煩わしいとか思っていそうな、それで仕事してるつもりの、手続き的な事務連絡か録音見本みたいな、しかも、早く済ませたい感じの早口で、ペラペラペラペラ、言葉だけ丁寧野郎の、結論を急がせる台詞だけで、露骨に責めてくる人より気分を滅入らせる、うす笑いの圧力の、冷たい顔と声のまま固まって動かない、典型的に鬱の増悪因子の、そういう人と、私は話したくない。
 
書類かかえて、他にないような説明をし、あとは電話で数回、電話しましたか、行きましたか、行ってないですか、明日は行きますか、行きましたか、入院は来週末までです、抑揚のない声の調子、ケースワーカーの説明じゃない、口答えできない事務の声、いつか、ぶん殴りたいと感じる対応、それで相談の仕事してるつもりか、・・なのに何も言えない、・・雨にも負ける、風にも負ける、・・
 
 
前にも引用しましたが、
三島由紀夫原作映画「午後の曳航」の中の台詞の字幕。
 
「殴られるより悪いことがある」
 
 
神の言葉・人の言葉

神の言葉・人の言葉
 
 
(2020年7月11日)
(2021年07月21日、再録+)
 
 
 
  送り・過ごし
 
いったい幾度の別れを
幾人の死を
送別・告別の礼を見過ごしながら
見送るのだろう
名も無き送り
名も無き過ごし
尊い人々
私の死を見送る者はいない
私は死にながら
生きながらにして見過ごされるのだ
無名と無礼とウソに
日々を年月を送り過ごして
過ちという過ちに送り出されて
 
 
  よいしょ
 
よいしょ
で担ぐものは
もちろん物だけではない
立つとき座るとき
動き出すとき休むとき
よいしょ
よっこらしょ
で担ぐものは
片付けた何か?
整理してしまいたい何か?
済んだことにしたい何か?
景気付け・元気付け
で軽くしたいもの? それとも
生きてきた年月であろうか
背負ってゆく年月であろうか
自分自身であろうか
 
よいしょで出世する奴もいれば
よいしょも言えず難渋する人もいる
と言えるだけ仕合せというもの
まだ生きているということだ
自らの測れない軽さ・重さを背負って
私も立ち上がる
うんこ
 らしょっ・・・と
 
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の舐めるもの
 
 
楽山は、他者の口を借りるしか能がないので、またしても、人に舐めてもらうように、他者のツイートを載せています。最も見苦しい手口で、宗教をおとしめて、自分の言い分を肯定したいのでしょう。恥も外聞もない。こうは、なりたくありません。
 
楽山は、人を無視して見なくなったために、自らがいかに醜いことをしているか、気づかないでいられます。こうやって、言論者を、舐め続けているのです。殆ど、思慮のない原生動物です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·6時間
そうです。ついでに言うと、ただインチキであるだけならとやかく言わないけど、インチキであることが明白で、そのインチキが害悪を生んでいる場合は「インチキ!」という批判はします。カルト批判も、教義への批判・否定を一切しないというわけではないのです。
引用ツイート
 」
ジャポニスタン
@japonistan
 · 6時間
幸福の科学の非科学的なインチキ霊言についても人様に迷惑をかけない以上は勝手だけど、周庭さんの霊言みたいに本人の命を脅かしうるものというのは明らかに問題なので、我々は抗議に行ったわけですね。 twitter.com/suspendednyora…
 」
 
楽山は、自己愛性人格障害による詭弁と嘘の丁寧語によって、付き合い続ければ、人格を破壊するほどに、大きな害毒を与えるインチキです。約2年の批判を無視したままです。楽山は、人を人とも思っていないようです。
 
楽山は、机上の幼稚な神否定を繰り返して、成り立たないクレームによって、キリスト教を否定し、人を惑わせ、楽山自身と同じような人格破壊をもたらします。極めて害毒性の高い、祭りの出店や見世物小屋のインチキより、さらに迷惑で悪質なインチキです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
@SuspendedNyorai
·8時間
宗教に科学的合理性はないと思います。ただし「カルト批判」の場合、教義や思想が正しいかどうかや科学的・合理的かどうかではなく、人権侵害的な行為が存在する(具体的個人に具体的被害がある)ことを批判するという基本があります。
引用ツイート
 」
これってどうなの@宗教2世
@asasfjgg
 · 9時間
あくまで個人的な意見だけど。やっぱり、カルトに限らず宗教全般に違和感を強く感じる。
例えばキリスト教にしたって、処女が子供を産めるわけ無いじゃん。
イスラム教だって、豚は不浄だから食べちゃいけないとか、科学的合理性は無いよね。
 」
 
楽山は、詭弁と嘘によって、低次元の批判をし、自身に返ってきた批判をことごとく無視して、平気で訂正不能に繰り返すことによって、人権を侵し、おとしめ、破壊してゆく悪魔性です。
 
「処女が子供を産めるわけ無いじゃん」・・これが事実と信じたから救われるというキリスト信仰ではないということです。ゆえに、もっと大切なことは、別にあるのですが、楽山のような人は、そこを全く理解しないでキリスト教を否定している反キリストの偽善者です。
 
 
 
※ 信仰の中心
 
何度も書いてきたことですが、例えば、処女懐妊、数々の奇跡、肉体の復活などは、二千年前、起こったにせよ、起こらなかったにせよ、キリスト信仰の中心ではありません。
 
何故なら、起こるにせよ、起こらないにせよ、その奇跡は、私たちには、分からないからです。さらに、起こったと信じることで、救いにつながるとも思えないからです。
 
そういう奇跡は、神に任されることです。人が神の意志と行為を決めつけてはいけません。分からないことは、正直に、分からないと言うのは、信仰の条件であります。
 
物や肉体の奇跡について、起こると確信することは、この地上での視点が、超常に向いてしまい、日常を疎かにする危険があります。さらには、誰も知らないが起こるんだよ、と信じることが、誤った信仰者の優越意識にもつながりかねないのです。
 
私たち信仰者は、非信仰者に比べて、優位に立つのではありません。同じ罪人であることは、信仰があってもなくても、変わりはないのです。ゆえに、福音伝道は続くのであって、そこに、他者は劣る者という視線を持つことは、神に背く傲慢だと思います。
 
信仰の中心は、私たちにも理解可能な、キリストの、人間に対する洞察と共感であります。ゆえに、二千年前に、偽善を最悪として批判したのです。そこを外してはいけないと思います。
 
私たちは、聖書から、人間としての心に響いて、受け取れることを、受け取るべきであり、それ以外は、保留の箱に入れておくべきであります。
 
さらに、キリスト信仰は成長するものですから、訂正不能に思い込んだり信じ込んだりすることは、厳に、戒めるべきであります。信仰は、繰り返し念じて、こびりつかせて、肯定の癖をつけるような安物ではないのです。
 
信仰の中心は、経験によって深めてゆく人間としての共感です。原初の信仰は大切ですが、訂正不能にしてしまったら、言葉だけの教条に堕してゆくでしょう。
 
一挙に、神の真理を、さらに、信仰の奥義さえも、人が得ることはないということです。自閉的な人も、社交的な人も、人間関係の中で、それなりに学習し成長することが大切なのです。
 
ゆえに、私事ですが、自閉的で疑い深い私も、キリスト者になったのであります。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
人間の持つ心の、"土の器" と書いてあるものに、信仰は与えられ、成長します。譬えだと思います。人が、神によって、土から造られたことによるのでしょうか。
 
ところが、この土の器を、何やら、超常の魔法の器のように信じ込んで、信仰は心のどこにもないと言っていた者があります。自分を特別な恵みを得たと特別視して自慢するためです。
 
その者シャロームは、罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与える、などとも言っていました。悔い改めていないことを正当化するためです。しかし、彼の言を言い換えると、彼には、神は悔い改めを与えていない、導いてもないということです。
 
つまり、これは、人を見下すこと甚だしいところの、真っ赤な偽者の例です。キリスト教に疑問をいだくのは自由ですが、このような大馬鹿者にだけはならないでください。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。 
2:5
あなたのかたくなな、悔改めのない心のゆえに、あなたは、神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを、自分の身に積んでいるのである。 
 (ローマ2:4-5、新約聖書)
 
神の、慈愛、忍耐、寛容、と書いてあり、人間にも理解できることです。
 
このシャロームの言を、当たり前のように、肯定していたのが、楽山であります。このことで、楽山の語る宗教・思想の言は、信頼度ゼロであることが明らかになりました。
 
つまり、神の怒りを自分の身に積んでいる楽山とシャロームであります。
 
シャロームは、神の導きということを、まるで、魔法がかかって操り人形のようになって、悔い改めるとでも思っているのでしょうか。笑止であります。
 
悔い改めは、神の前に、罪を正直に告白して赦しを乞うことです。つまり、祈るとき、世俗から、神へ、方向転換していることになります。神様のほうを向く・・という言い方があります。
 
 (コリント人への第二の手紙、口語訳)
4:7
しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。 
4:8-9
わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。 
4:10
いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
 (2コリント4:7-10、新約聖書)
 
信仰による勇気を語っていることは明らかです。
 
土の器は、自慢するためではない。魔法でもないのです。
 
カルトや妄想家は、直感的な理解が、劣っているか、ない場合が多いです。
 
 
悪用

悪用
 
 
(2021年04月24日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 

このページのトップヘ