ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:地獄

 
  楽山の地獄めぐり
 
 神は存在する? 存在しない?
 2022年01月09日 楽山日記(LD)
    を批判。
 
 
楽山は、同じテーマを、同じ主張を、自分が通らないならと他者の言葉を引用して言い続けます。ふつうは出来ないことです。正常な精神を持っておれば、批判に何も返せない自分に、恥ずかしくなるか、嫌気がさすか、うんざりするか、改めるはずです。楽山には、羞恥心がないのでしょう。
 
論争ではありません。論になっていません。人真似しか出来ない楽山の繰り言です。だから、こちらも、同じようなことを、視点や角度を変えて書いてゆくしかありません。何も書けないから、他者を利用~引用するのは、今に始まったことではありません。学習ではなく、利用しているだけでしょう。
 
楽山は、無駄が大好きなのでしょう。あるいは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、読者が、皆、自分に賛同しているという妄想があるのかもしれません。楽山の資料が積み重なることは、必ずしも無駄ではありません。似たような詭弁屋は、他にもいるでしょうから。
 
*まえおき
 神の存在に関する議論について、興味深いツイートがあったので保存し、感想を書いてみる。
*無いことの証明?
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル①】信仰が不利になったときよく切り返されるのが「神が無いとは証明できない」。これは真ですが「ゴジラがいないとは証明できない」など無数の妄想や陰謀論に当てはまる極めて微弱な議論であることに注意。つまり実質的に「神は存在しないも同然」と言っているのに極めて近い議論です。
午後1:31 · 2022年1月3日·Twitter Web App
 」
 
娯楽のフィクションの怪獣映画の「ゴジラ」と、現実を生きるための支えとしている信仰者が仰ぐ「神」とを、並べている時点でアウトと言っていい暴言です。何を言っても分からないほど知恵の遅れている人がいるようなので、もう一度言っておきます。↓
 
神の存在も不在も、人が証明することは出来ません。神は信じ仰ぐ対象です。つまり、存在が証明されたから、不在が証明されないから、信じるのではありません。聖書を通した縁(えん)で、神とキリストを生きる縁(よすが)とするのが信仰者です。
 
率直な感想を言うと、「神が無いとは証明できない」という切り返しは、その人の願望の強さを表しているようだ。ナンセンスな主張をしてまでも、神は存在してほしいと願っているのだなと。
信仰心が強いということは、この願望が人並み外れて強いということであろうし、信者の中にひどい自己中がいるのもこれがためだろう。
 
神の存在は願いでもありますが、個人の人生の体験を通して、否定できないことです。人の生きる縁を、侮辱し、あざ笑うように、ナンセンスと言っている楽山は、今まで、ずっと、ナンセンスです。想像~空想に過ぎませんが、この執拗さは、ハルマゲドンみたいな決算の時でも近づいているのでしょうか。
 
楽山は、意味のあることも、生きる糧(かて)になることも、ヒントさえ、一言も語れません。あらゆる人間の愚かさを集約したモデルとなっているようです。世辞と丁寧語で、さらに、同類の他者を引用して、キリスト教の悪いイメージを、吹き込み、刷り込み、だまされて味方になる人を待っているのです。
 
楽山は、すっ飛んで理路を外れた詭弁と嘘をもって、何の学習機能もなく、同じようなことを言ってくる、いわば、宇宙を漂って足場のない果てしない空転に一生を費やす宿命です。誰も相手にしないでください。宇宙のゴミのようなものです。どうか、楽山の罠に、引っかからないでください。
 
*半々
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル②】「神は在る無いも50・50だ。私は存るに賭ける」。これもありがちな主張ですが、ただ言葉の上で「ある」「ない」が対等になっているので半々という印象をもつだけのこと。「奇跡があるも無いも半々だ」もそう。半々どころか可能性がほとんどないからこそ奇跡と言うのです。
午後1:31 · 2022年1月3日·Twitter Web App
 」
恥ずかしながら、自分はドーキンスの著書を読むまで、神が存在するかしないかは半々だという考え方の間違いに気付けなかった。たぶん、自力では一生気付けなかっただろう。ドーキンスに感謝。
読書はこんな風に、自力では気付けないだろうことを気付かせてくれるので楽しい。
 
「神は在る無いも50・50」ではありません。信仰者にとって、神の存在は否定できないのです。何故なら、既に、癒しと救いを受けているからです。楽山は、何を受けていません。そして、何も与えることもありません。誰の支えにもなりません。キリストを殺した者たちのように笑っているだけです。
 
*全知全能
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
【神のパズル③】神は全知全能と主張されます。この定義もまた「神は存在しているのではないか?」という印象を導きます。つまり99%無さそうと思えても、全知全能ならばそんな人間の予想を覆すとも予想できるからです。しかしそれは「全知全能」という概念自体の言葉遊びであることに注意。
午後1:31 · 2022年1月3日·Twitter Web App
 」
 「神は全知全能である」という定義は、個人崇拝を止めるために役に立つところはあると思う。「神は全知全能である、教祖は間違うことがある、教祖は全知全能ではなく、神ではない」みたいに。
 これには「言葉遊び」的な反論もできなくもないが、とりあえず自分の場合はこの考え方で個人崇拝という悪癖は止めることができた。
 
神を否定することも、現実の皮相を玩ぶ者には、「「全知全能」という概念自体の言葉遊び」であることに注意してください。否定する者の主張には根拠が無いのです。神は、自らの御姿を顕しません。また、地上の現象を説明することもありません。神の秘密だからです。
 
信仰者は、現実に耐えて生きることが必要ですが、楽山のような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、怠慢のために忍耐せず、神に反逆しているのです。全て、自分に分かって、自分に都合が良いことを、呆れたことに、神に求めて、そこで、神の合否を判断しているのです。
 
そういう楽山らの願いは叶わないだけでなく、逆方向に実現するかもしれません。楽山は、その時を待たれて存在しているのでしょうか。信仰者と、一般の人にとっても、楽山は、人生に余計な謎をかけて、答えのない問いの地獄に誘い込むペテン師であります。
 
*信仰を失う時
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
神概念をめぐるパズル(思考のトリック)はまだまだあります。とりあえず①「神はないとは証明できない」②「あるもないも半々じゃないか」③「神は全知全能だ。人間がとやかく言うのはおこがましい」といった考えがヨギったときには、神信仰の土台は極めて脆くなっていることに注意しましょう。
午後1:32 · 2022年1月3日·Twitter Web App
 」
 
神信仰の土台は、神にあります。ゆえに、信仰の根拠を、人が明らかにすることは出来ません。人は、体験から学ぶのです。信仰体験のない者は、余計なことを言うべきではありません。なのに、そこを忘れさせよう、惑わせようとする企みを楽しみたい、という、楽山が意義もなく存在しているだけなのです。
 
どうやら、とある宗教の信者だった頃の自分は、このトリックに完全にハマっていたようだ。特に③はよく活用していた。「自分の小さな頭で、あれやこれや考えても仕方がない。教祖は仏陀であると信じて、ついて行くだけだ」みたいに。
 
楽山が、正当な宗教の、正当な信者だったことは、ないと思います。もしあったら、今日、このような、不細工で、見苦しい、詭弁を弄して、かつ、何度も繰り返すようなことはなかったはずです。楽山は、宗教の、正反対の部外者、反逆者です。どうか、関わらないでください。
 
楽山から出る言は、一言も受け取らないでください。楽山は、言論を組み立てられない頭と心のカオス的不細工です。受け取れば、混乱が待っています。従えば、破壊が待っています。楽山への、いかなる同情も期待も、裏切りと消耗を返されるだけとなるでしょう。
 
今にして思えば、こういうことを繰り返し、自分に言い聞かせていた頃は、ほぼ信仰は失われていたということなのだろう。だから一生懸命に信仰にしがみつこうとしていた。
 
楽山は、信仰に、しがみつこうと、したことも、することも、ないと思います。自己中で、自分の欠陥を認めない人格には、信仰は、曲がって解釈され、否定され、笑われるだけだからです。楽山のことを、反キリストと呼んでいるのは、そのことです。反信仰と言ってもよいのです。自己中は信仰になりません。
 
いわば、その時の自分にとって、信仰は藁だった。傍から見ればそれを掴んでも助かるわけがないのは明白だろうが、それでも掴まないではいられなかったのだ。これは信仰を失った者の多くが経験していることなのだろうと思う。
 
藁をも掴(つか)むということのようですが、楽山が言えば、信仰は藁のようにくだらないと言っているに等しいのです。楽山は、藁をつかんだことはないと思います。代わりに、悪魔のしっぽに引きずられているのです。いつまで、こういう詭弁が通ると思っているのでしょう。成長してない証拠です。
 
 
ぐりぐりと性懲りもなく赤黒い

ぐりぐりと、性懲りもなく、赤黒い
 
 
(2022年01月10日)
 
 
 
 宏洋氏は、訴訟を起こしたそうだ
 2022年01月09日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
    を批判。
 
 
楽山は、まだ、他人のことを言えると思っているようです。この記事が示すものは、それだけです。病識がなく、罪の意識がなく、言い続ければ何とかなると思っている楽山の、意見ではなく、症状です。
 
*論点
宏洋氏によると、この訴訟の目的は、霊言による被害を防ぐためであるという。霊言という形をとって誹謗中傷が行われ、多数の人々が傷付けられている現状は容認できないと。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山は、霊言による被害に対して、加害者です。丁寧語で、傍観者ぶっても、誹謗中傷の加害者に、楽山は、いつも、含まれます。楽山は、多数の人々を傷つけている現状の加害者の中にしかいません。被害者でも傍観者でもなく、いちばん、卑怯に逃げようとしているのが、楽山です。
 
またマインドコントロールされていると思しき人や、仕事としてこれに加担せざるを得ないだろう人については問題にしないつもりだともいう。
さて、これに対して、幸福の科学側はどのような反論をするのであろうか。
 
マインドコントローでもなく、仕事でもなく、詭弁に自ら加担しているのが、楽山です。人の言うことを全く聞き入れず、弁明も出来ず、まるで本能のようにペテン記事を重ねて、嘘に塗(まみ)れた偽善者の楽山は、反論にならない出まかせを、いつまで、表し続けるのでしょうか。
 
*愛と正義
ちなみに、自分はこの動画を見て、宏洋氏は愛と正義の人だなと思ってしまった。
多くの人々のために立ち上がり、かつ敵方にも温情を与えているようなので。
自分の見方は、甘すぎるかな。
 
愛と正義の人と褒めている楽山ですが、愛と正義の欠け落ちた楽山は、どういう立場で他人の評価とかできるのでしょう。どのように立ち上がれるというのでしょう。どういう、臭いだけの温情を与えるのでしょう。詭弁と言い逃れは、甘い辛いではなく、臭いのです。楽山の目は、自分だけが見えません。
 
 
 
 キーワード:地獄
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  自殺した少女
 
やわらかい羽毛の
あたたかいベッドの上で
少女は目を覚ました
白い衣を身にまとった白髪の老人が
穏やかな表情で立っていた
「ここはどこですか
天国なのですか」と
少女がたずねる前に
大きなディスプレイの画面に
映し出された光景は
家族の狂ったように泣き叫ぶ様子
恋人が悲しみのあまり酒を飲み
暴走している姿
そして自らの惨たらしい死体
些細な誤解が生んだ
少女の自殺がもたらす数々の悲劇
誰にも秘密にしていた見苦しい思い出
画面は延々と続く・・
少女は泣き出して言った
「お願いです
どうか私を地獄へ落として下さい!」
老人は哀しげな目で答えた
「娘よ
気の毒だが
ここが地獄なのだ」
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
こちらの言うことを受け取っておれば書き方が変わるはずですが、約3年余りに及んで、楽山が、単方向に同じことを書き続け、同じことを言う他者を引用していることが、楽山の成長と学習の障害を表します。命の終わるまで、償いも反省もなく、不可逆に、非人間であり続けるのでしょうか。
 
自己愛性人格障害で自他未分化の楽山には、他者も自分のワールドに同じように生きるものだという思い込みがあり、自分とは別の独立した存在である他者が違う意見を持つということが、理解できず、受け入れられず、許容できず、言われたら言い返せばよいという単純な短絡を繰り返すのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  白々しい楽山
 
 『死について考える』遠藤周作著
 2021年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
反省が必要なときに、読書家気取りで、「考える」などと言われても、既に、山積みの問題が、無反省と無責任の楽山を否定するのです。つまり、楽山にとって、読書は、自らの嘘と偽善の罪を隠蔽するのに使われ、結果として、逆に、醜さを倍増してゆきます。
 
*気になる本
大分前にタイトルにひかれて本書をパラパラめくってみたところ、キューブラー・ロス、死後の世界といった文字が見えたので読むのは止めにしたのだけれども、その後も本書のことはなぜか気になって仕方がないので、やむなく今回通読してみることにした。
本書全体は、老い、病、死についての平易で読みやすいエッセイ集といった体裁になっている。全体的にキリスト教の話は控えめで、スピリチュアリズムっぽさが散見されるが、これは「あとがき」にあるように意図的なことなのだろう。
以下に、本書中で個人的に心に残った箇所についてメモしてみたい。
 
メモなら、公開しないでほしいとは、前から言っていることです。楽山が「メモしてみたい」というとき、"責任は負わないよ" というメッセージだからです。実際、言論の責任を負うことは、一度もありませんでした。いい加減さが、いつも、鼻に突きます。楽山は、人を困らせて悦ぶ人です。
 
*死後の世界
まず著者は、死後の世界を信じているようだ。
私自身も死というものはぷつんと切れて、それでもう何もかもおしまいで、あとは無だというのではなく、次の世界に入ることだと信じています。臨死体験をした人たちは、その後、死というものを恐がらなくなったそうです。
(『死について考える』遠藤周作著、光文社〈光文社文庫〉、1997年、p.117)
 」
キューブラー・ロスを肯定的に紹介していることからすると、これも当然か。
 
楽山の、「死後の世界を信じている」、という言い方は、超常世界のお伽噺を信じ込んでいる、ということになります。楽山が、今までの、霊が分かるっぽい発言から、そのレベルで空想するだけであり、生きている今を、人生を、まるで考えていないことが明らかになっています。
 
そういう、気持ちの悪い楽山妄想をもって、小説家を巻き込み、利用し、悪用しているだけなのです。楽山は、そういう有名人の前で言える何ものも持ってはいません。つまり、死者を利用する、いわば、死の商人的な性根であり、それが、楽山の読書なのです。
 
*死ぬ瞬間
椎名麟三は洗礼を受けた後、これで死に際にジタバタしてもよいと思えるようになったと言っていたそうで、著者はその理由を以下のように想像、説明している。
心の奥の死の恐怖や人間の弱さ、そういうものを神様はよくご存じですから、今更、人間に見栄をはる必要もないという安心感がある、
(同上、p.129)
 」
立派な死に方をできず、無様な姿を晒すことになり、世間の人たちから笑われようとも、神様はすべてご存知だ、それで十分だという気持ちは無宗教の自分にも分かる。
 
遠藤周作氏の、信仰告白なのでしょう。楽山は、自分を飾るために悪用しています。嘘吐き楽山が、机上で、良さそうなことを言って通る時期は過ぎ去ったのに、真実の怖さを未だ知ろうともしない悪魔性の病質が表れています。
 
生きて醜態だけを晒している楽山が言うと、これからも、人のことなど考えず、反省もせず、無責任に好きなことをやっていくぞ・・という悪意表明になってゆきます。楽山は、無宗教ではなく、反宗教、反キリストの、霊が分かるっぽいという個人カルト妄想患者です。
 
神さまは、楽山の、すべてを見ておられ、すべてをご存知です。「自分にも分かる」・・楽山は、「死の恐怖や人間の弱さ」も、何も分かっていません。分かっていたら、震え上がるようなことをしてきたからです。
 
*祈れない人
国木田独歩は死に際に、牧師から祈ることをすすめられたものの、「祈れません」といって涙をこぼしたという。これについて著者は、祈れなくともよい、祈れないのも祈りであると書いている。
祈れません、と言っても、それが既に祈りになっているのだから一向に構わぬ、と私は思うのです。
「苦しくて祈れません」
「不安で祈れません」
「もう絶望して祈れません」
「神様がいないような気がしてきましたので祈れません」
「こんな目にあわせる神様、とても祈れません」
というような祈れませんであっても、それは神との対話ですから既に祈りです。たとえ祈れなくても神がそれを大きく包んでくれるというような感じがします。
(同上、pp.133-134)
 」
不覚ながら、こういうことは考えたことがなかった。でも言われてみればたしかにその通りだ。
こういう気付きがあるから読書は楽しい。
 
不信仰の祈りは、祈りです。神に向かっているからであり、正直だからです。しかし、楽山は、正直さを微塵も持っていません。同じ言葉が通用するわけはないのです。神は、既に、本性を見抜いておられるからです。だから、楽山の「たしかにその通りだ」・・吐き気がします。
 
*裁くなかれ
これは頭では分かっていても実践するのは難しい。
いいこと、悪いことの判定は神がするのです。だから聖書にも「裁くなかれ」という言葉があります。神だけが判定できるのです。
(同上、p.160)
 」
正しい判定は神様にしかできないと分かってはいても、自分はこう思う、こう考えるという判断をしないではいられないのだからどうしようもない。これもいわゆる業というやつだろうか。
ふと思ったけど、「裁くなかれ」と「無分別智」とは関連があるのだろうか。  
 
裁くなかれという教えは、善悪や正邪の判断をするなということではありません。最終的な裁きをするのは、神のみだということです。自分についての判断を、全くしてこなかった楽山は、裁かれる日を待っている身分でしょう。だから、裁くなかれという教えを、また、悪用するのです。
 
「いわゆる業というやつだろうか」・・楽山の場合、人間共通の不可避は、当てはまりません。とびきりのペテン師であり、今も、嘘を吐き続けているからです。信仰には、善や正義ではなく、祈りにおける正直さだけが必要です。それは、楽山には、欠片もないものです。
 
*地獄に堕ちる人
以前、自分がはまってしまった、とある新興宗教では、現代は全体の半分以上の人が地獄に堕ちているとしていたが、著者はそれとは大分ちがうことを言っている。
地獄というものはないかと言われれば、ないとは私も言えませんが、しかしまあ一万人中、一人が地獄に落ちるかどうかだろう、というぐらいに考えます。
(同上、p.162)
 」
著者が言うには、「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間が仮にいたとしたら、そういう人間こそ、一万人中で一人だけ地獄に落ちる人間だろう」とのことであるが、ニュアンスとしてはそんな人は実際にはいなかろうという雰囲気がなくもない。
「人を裁くな」というのはこういうことを言うのであろうか。自分もできれば、こういう考え方を自然にできるようにしたいものである。
 
「一万人中、一人が地獄に落ちる」には、全く根拠がありません。想像に過ぎないでしょう。
「自分のしたことに一度も恥ずかしいと思ったりしないで生きてきた人間」・・今、書いている楽山が当てはまります。恥を恥とも思わないで、嘘を吐き続けています。
 
恥をかくことと、恥ずかしいと感じる羞恥心は、違います。楽山には、前者はたくさんあるのでしょう。そこから、何らかの怨念が訂正不能になっていると思われます。しかし、後者は、全く認められません。いわゆる、恥知らずの楽山です。
 
*神を否定する信仰
神を憎むことは、無関心よりずっと良いという話は聞いたことはあるが、宗教はそこから始まるという考え方は、このくだりを読んではじめて知った。
子供が白血病になり、一所懸命に神様にお祈りしたけれども、子供は死んでしまった、神なぞ何だ、と神を憎む、神も仏もあるものか、というところから宗教は始まるのではないでしょうか。
神を憎むことも、神の存在をはじめから無視している無宗教や無関心ではなく、憎むということで神を強く意識していることです。神があろうがなかろうがどうでもいいという無関心より、神を憎むことのほうがはるかに宗教的でしょう。
(同上、pp.167-168)
 」
この発想は、「祈れません」というのも既に祈りであるというのと、どこか共通するものがあるように思える。読んでいて、涙がこぼれる心持ちになるのも共通している。
どうやら、この辺りには涙腺のツボがあるらしい。
 
「神も仏もあるものか」は、信仰の出発点というより、信仰者として生きるあいだに、幾度も頭をよぎってくることです。そのたびに、信仰者は、絶対孤独を感じ、そこからの解放であった信仰を思い出すのでしょう。結局、他に寄る辺のない者、それが信仰者です。
 
悪事だけに専念する楽山には、寄る辺も拠り所もありません。「涙がこぼれる心持ち」「涙腺のツボ」・・楽山の大嘘です。大根役者の三文芝居です。いずれも、この2年半によって分かったことです。楽山は、神を憎み、それ以上に、神を笑う者となりました。
 
*耳に痛い言葉
これは自分には耳に痛い言葉である。
三浦朱門君とヴァチカンで法王さまに会った時、法王さまは、
「どうか日本の仏教の人たちや、その他の宗教の人たちと、絶えず対話をつづけてください。対立ではなく、話し合いを、いつも仲良く話し合いをしてください」
と言われました。それが法王の私に対する最初の言葉だったのです。かつてのように、他の宗教を異端として拒絶することのないように、ということです。
(同上、pp.172-173)
 」
恥ずかしいことであるが、自分には対立者に向かって言わずもがなのことをズケズケ言ってしまう悪癖がある。「これだけははっきり言っておかねば…」と思って発言し、すぐあとで「あーっ、また言わずもがなのことを言っちまった」と気づくパターンである。反省。
意見の異なる相手とは、対立ではなく、仲良く穏やかな話し合いをするよう努力したい。
 
楽山の言うことは、すべて、自己正当化の詭弁でした。そして、反省をしたことがありません。反省したことが、その後の文章に、全く表れていないからです。つまり、トホホ言語の嘘の「反省」なのです。楽山の「仲良く穏やかな話し合い」は、ボンヤリ言語の婉曲でごまかすことです。
 
楽山は、正直に「ズケズケ言ってしまう」ことなど、一度もありません。言うときには、必ず、誘導の作為と、詭弁の悪意があります。この記事もです。どうか、真に受けないでください。
 
同じような詭弁が今も通用すると思っているのは、楽山の知情意の鈍麻症状です。
 
*引き寄せられる感覚
本書はいったんは読む必要なしと判断したのだったが、その後もずっと気になって仕方がないので、再び手にとってみたところ、とても勉強になり読んでよかったと思えた本である。
あまり迷信的なことは言いたくないのだが、こういう経験をしてみると、
 
息をするように嘘を吐く楽山です。楽山の読書は、自分に都合のよい文言を漁る作業に過ぎません。ですから当然「勉強になり読んでよかった」・・嘘です。
 
やはり「何となく…」という感覚は大事にした方がよいようだ。世の中には、必要とするものに引き寄せられる法則なるものがあるのかもしれん(笑)。
 
これが、子供のときからの、霊が分かるっぽい症状です。実際は、理路も、情緒も、信仰も、何も感じることも考えることもしない人です。「何となく」、ボンヤリと、人を、だましてきます。そして、分が悪くなると、トホホと、安っぽいお涙ちょうだいの泣き芝居をするのです。
 
人間離れして、人間に戻る気もないようですが、楽山の一生が終わるときには、もはや、形も、精神も、人間ではないと、はっきり分かるようになるかもしれません。人間の良心を、全く持っているとは思えない自己愛性パーソナリティ障害NPD、それが、楽山なのです。
 
私は、その前に、御許へ行くのでしょうけれど
 
楽山が挨拶してきたら、すぐ削除して、関わらないようにしてください。
 
 
嘘に酔う者

嘘に酔う者
 
 
(2021年08月20日)
 
 
 
  よるの森
 
よもすがら きょうも
ひとり じれてましたね
びょうきでしたね
くるってましたね
 
ひねもす いつも
おあいその えみ や
うすっぺらな おもてで
なみうつ わらい
ほしければ
てにいれる すべは
いくらでも あったでしょうに
 
もっと ほんとうを もとめて
この ウソの 森を
えらんだばかりに
よもすがら きょうも
たれも みむきもしない
ちいさく せまい まどから
ぬけだして もりを さまようのです
 
クモのす に かおを ひっかけ
つまずいて ころんで
すりきず きりきず あざだらけ
よる と あめかぜ に
こかげで ふるえ
 
やっと みつけた
ちいさな ひかりの かけらなど
たれも みむきもしない
 
ずぶぬれの よごれた かおで
よもすがら あかつきに ひもすがら
おえつするがいいのです
わたしは みずから えらんだと
 
(二千年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  避け所2
 
 
私は、神様を、分かっているわけでも、詳しく知っているわけでもありません。
聖書には、神様についてのヒントとエピソードが書かれています。
そして、神と人の違いと、キリストの人への洞察と共感が書かれています。
人間には、ヒントのようにしか、受け取れないということです。
しかし、ヒントでありながら、人を生かす力を持っていると信じています。
キリストの共感は、人の心に響く共感であり、神の愛だからでしょう。
 
旧約聖書(口語訳)の詩篇から
全部ではないですが「避け所」という言葉を載せてみます。
 
 
36:7
神よ、あなたのいつくしみはいかに尊いことでしょう。
人の子らはあなたの翼のかげに避け所を得、
 
46:1
神はわれらの避け所また力である。
悩める時のいと近き助けである。
 
52:4
欺きの舌よ、あなたはすべての滅ぼす言葉を好む。
52:5
しかし神はとこしえにあなたを砕き、
あなたを捕えて、その天幕から引き離し、
生ける者の地から、あなたの根を絶やされる。〔セラ
52:6
正しい者はこれを見て恐れ、彼を笑って言うであろう、
52:7
「神をおのが避け所とせず、その富の豊かなるを頼み、
その宝に寄り頼む人を見よ」と。
 
セラ:
(ネットより)
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
 
57:1
神よ、わたしをあわれんでください。
わたしをあわれんでください。
わたしの魂はあなたに寄り頼みます。
滅びのあらしの過ぎ去るまでは
あなたの翼の陰をわたしの避け所とします。
 
142:3
わが霊のわがうちに消えうせようとする時も、
あなたはわが道を知られます。
彼らはわたしを捕えようと
わたしの行く道にわなを隠しました。
142:4
わたしは右の方に目を注いで見回したが、
わたしに心をとめる者はひとりもありません。
わたしには避け所がなく、
わたしをかえりみる人はありません。
142:5
主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
わたしは言います、「あなたはわが避け所、
生ける者の地でわたしの受くべき分です。
142:6
どうか、わが叫びにみこころをとめてください。
わたしは、はなはだしく低くされています。
わたしを責める者から助け出してください。
彼らはわたしにまさって強いのです。
 
143:9
主よ、わたしをわが敵から助け出してください。
わたしは避け所を得るために
あなたのもとにのがれました。
 
 」
 
キリスト信仰は、祈りの信仰です。
 
祈るとき、物理的にはどっちなのかか分からないけれど、神のほうを向きます。
仰ぐように見上げる人もいるだろうし、罪人らしく頭を垂れる人もいるでしょう。
 
神は総てを見ておられ、知っておられます。人は、神の前で、生きています。
祈りは、人が、自発的に主体的に述べるところの唯一の、神への音信です。
 
言い換えれば、神のほうを向くとは、神に祈ることです。
 
そして、祈りの時と所は、信仰者個人のための、避け所です。
 
神の言葉と言われ、人の言葉で書いてある聖書を読んで、
また、信仰生活の、折に触れて、祈りにおいて、
 
 なぜ、人は、
 
主よ、守れそうにありません、主よ、守れませんでした、主よ、分かりません、
 
 ということを告白しないのでしょう。
 
聖書に書いてある完全なる神の性質は、
私たち人間の視野では、理解したとは言えないことです。
 
善悪、正邪、善行と悪行、真偽、偽りの排除、など、様々ですが、
不完全な罪人である私たちは、
限られた能力によって判断し実行しているだけだということです。
 
全能ではない不完全な私たちは、身の周りしか、目が届きません。
私たち人間は、善も悪も、最後までたどることなど出来ません。
 
卑近なところでさえ、良いと思ったことが、何の悪気もないことが、
悪く取られていたりもする、傷つけることもある、という具合です。
 
にもかかわらず、
信仰の行為として、正しいことをするように勧められています。
それで、私たちの意志と行為など、神の意志と行為に比べて、
非力、ということだけではなく、
正しさを決めつけすぎているということです。
 
総ての、時空を、善悪と真偽を、支配する神に向かって、
私たちは、
人としての自らの感覚と感情と思慮で明らかであることだけをもって善悪と言っているのではないか。
 
あらゆることにおいて私たちの善悪と真偽の判断は不完全であります。
しかし、その判断に基づいて行動しています。
 
したがって、私たち信仰者は、
自分で思っている以上に、神に対して罪を犯していると思います。
 
罪と悪と偽善と孤独など、また、自分自身の怒り、憎しみ、恨み、様々の、
心を惑わせ迷わせるものから解放されるのが、避け所であり、祈りです。
 
それは、その時の、解放と癒し、ゆえに、時々に寄り添うものであって、常に備わっているものではありません。時々の祈りに答えて与えられるものであって、完全であるかのように人が誇るものではありません。
 
私たち信仰者は、神の前で生きているのに、それを自覚することに、しばしば失敗します。しかし、避け所にて、祈りを捧げるとき、そこは、地上の特定の時と場所ではなく、神の前です。
 
神に対しては正直以外通用しないということは、言い換えれば、精いっぱいの正直な告白というだけで、人間の心のうちを拾って聞いてくださるところの "神の前" なのです。
 
 
避け所

さけどころ
 
 
(2020年03月05日)
 
避け所(さけどころ、避け処)
 
(2021年03月10日、再録+)
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
  もちろん避け所にはなりません。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ひなこ
@hinacoccoro
·3月8日
おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神がいると思いますか?
私自身にもこの恐怖心は刷り込まれていましたが、
「自分のこの気持ちは決して悪ではない。こんなことをする神が本物であるはずが無い」と結論付けるに至りました。
 
批判することで、嫌がらせをしてくる者はいます。それが楽山です。粘着性の習慣的恐怖を植え付けて言動を制御し、人格破壊を招く者です。
 
「おかしいものをおかしいと気づき、ダメなことをダメと批判することで地獄に落とすような神」はいないと思います。神の前に人が出来ることは、精いっぱい正直であることです。神は、その正直さを見て信仰の義を与える御方です。
 
しかし、そういう、正直を全く持っていないのが、楽山です。そんなことをする人が本物の批判者であるはずがない、という気持ちで、楽山を批判するに至っています。
 
>>
引用ツイート
napple
@napple71165698
 · 3月8日
返信先: @darknessZ96969さん
裏切ると阿鼻叫喚堕地獄への道避け難し、って何百何千回と唱えて信者は自分に刷り込んでますからね、相当怖いんだと思います。
午前9:44 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
<<
午前9:51 · 2021年3月8日·Twitter for iPhone
 
刷り込みは、本当に怖いです。それを平気でやってくるのが、楽山です。学習機能がないので、同じことを繰り返し言ってきます。そうして、相手を消耗させ、疲れさせるのが、楽山のやり方です。
 
しかし、楽山のうちには、既に地獄があり、楽山は、それを他者に広めようとします。楽山は、そういう魂胆を隠して、正義の味方を気取っているだけなのです。
 
なりふりかまわず、他者のツイートや、本などを、好き勝手に、都合のよいところだけ、汁をすするように引用し悪用して、自分の責任を逃れようとしています。リツイートもそうです。
 
 
楽山は、自分で書いてないからええじゃろ・・と考えるのでしょうか。どこまで、常識的思考が遅滞しているのでしょう。引用者が、引用するツイートを選択する時点で、既に、引用者の思想が表れているのです。当然、引用の責任が、引用者に問われることになります。
 
批判目的でなく、他者の意見を引用すれば、それは、賛同を意味します。ゆえに、自分の意見と同様に、責任が生じます。このことは、本からの引用でも、リツイートでも、同じです。さらに、引用には、賛同した引用の内容とともに、引用元に対する責任も伴います。
 
誰もが、引用コピーするときには、その責任を、当然のこととして、負いながら引用しているのです。その責任を負えるからです。楽山は、発言の責任を負わないために、負えないために、ツイート引用、即ち、リツイートをすれば、責任を免れて楽になるとでも思っているのでしょうか。
 
言論に、責任の逃げ道も避け所もないのです。楽山は、本からの引用や、リツイートなら、自分が書いたものじゃないからぁ・・という責任逃れの言い訳が成り立つと思っているのでしょうか。だとしたら、この愚かさは、驚きです。
 
 
(2021年03月10日)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 

このページのトップヘ