ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:地震


 重いテーマのブログについて
 
 
私は反対意見を受け付けないブログを、
経験から、
基本的に信頼しないことにしている。
 
個人の日記的または趣味的ブログなら
気に入らないコメントは勝手に削除する
というのも、ある程度、許されるだろう。
 
しかし、政治、思想、宗教など、
大きく重要なテーマについて思索を掘り下げる必要のあるブログでは
反対意見の承認制による不可視化~削除は、やってはいけないことだと思う。
 
自分に反対意見のコメントを無条件に削除してしまうやり方は
一定の地位や権威を持っていると思っている人のブログに多いような気がする。
反対意見を除いて、賛成や賛同意見だけを並べるのは
反対者の言うことを聞かず、都合のよい意見だけによって
堂々として立派な体裁や威厳を装い保とうとする人の姿である。
 
 
ちなみにコメントについて私としては、
 
1.全く無関係な迷惑メール的コメントは迷わず削除するしかない。
 
2.罵詈雑言のコメントや「死ね死ね」メッセージの類は、
 相手が醜態をさらしているのだから削除せず残すことにしている。
 そのまま放置してもよいのだが、さらに
 乱暴なやり方と思われるかもしれないが、
 コメントとHNまでコピーして自分のコメントか記事に貼り付けて
 コメント者が自分で削除できない形でさらしてもおかしくない。
 表現の自由には、表現の責任が伴うからだ。
 
3.結論しか書いていない決めつけか思い込みの反対意見には、
 その旨を指摘した上で、「レスしようがない」と返すしかない。
 
4.真面目な反対意見ならば、
 あまりに長いコメントだとレスできない場合もあり限界はあるが、
 できるだけじっくり考えて思うところを書きたいと思う。
 
 
例えば、原発反対派(以下、反対派)のブログにおいて、
 
原発推進派(以下、推進派)のコメントが来た場合、
反対派は闘うはずである。喧嘩という意味ではなく勝ち負けでもなく、
見解の違いを明らかにして原発というテーマについて
思索を深める必要があるからである。
したがって推進派のコメントを削除したりはしないはずである。
 
推進派のコメントを削除して、
自分と同じ反対派のコメントだけ並べるブログについて
疑い深い私は考えてしまう。
 
A.反対派ブログとしての
 かっこよさによって自己満足して悦に入りたいだけだから、
 そのために邪魔になる推進派のコメントを平気で削除できるのではないか。
 
B.反対派に見せかけた、実は推進派のブログ(?)。
 それだけでニュースになりそうな詳しい記事を書いて載せるが、
 実は、嘘と本当がまぜこぜになっており、
 (嘘だけなら、むしろ見分けやすいだろう)
 好意的なコメントによって反対派の読者が真に受けると
 後で酷い目に遭うように出来ている。
 こういうブログに推進派からの反対意見は元々来るはずはない。
 推進派による反対派アホ化計画実行中だからである。
 
特にB.については憶測の域を出ないが、
手の込んだ「○○詐欺」が横行している世の中である。
こういう可能性まで考えておいたほうがよいのかもしれない。
 
 
私は反対意見を拒否して消去するブログを信頼しない。
 
 
(2013年01月27日、同日若干修正)
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また修正することになりそうな気もしますが・・
今のところ以上です。
 
 
 


亡国の標的
 
 
天災と、過失や怠慢の人災だけではない。
仮に悪意に満ちた国が、
結果的にその国も滅びるかもしれないが、
 
日本を壊滅させるために
最も効率的な手段は何かと考えると
 
原発一基に一発ずつ、
核兵器でなくても、
ミサイルを命中させればよい。
 
それを防ぐために原発を廃し
核燃料を地下深く埋めても、
その地下の深いところが不安定なのが
日本列島の特徴である。
 
原発を建て核燃料を保持した時点で既に
手遅れだったのかもしれない。
 
何故それをわざわざ言うんだ。言わなければ・・
という他罰的思考は通用しない。
ちょっと考えれば誰かが分かることだからだ。
 
愚かな国が愚かなことをしないように祈るだけだが・・
万が一、最悪の事態が起こるなら、愚かな国はもちろん、
(想定すれば最悪の事態ばかり・・のような気もするが)
 
核の平和利用と安全神話に騙され、
あるいは無関心のために、
原発建設を許してしまった私を含めた国民もだが、
原発を建てた人々も、それを推進した人々も、
万死に値する戦犯である。
 
もう建ててしまって手遅れだから
日本は核武装して対抗するしかないという方向へ
持って行きたい人々がいるのかもしれない。
 
日本のあちこちの海沿いの目立つ所に
50以上の大きな亡国の標的が
文明の先端であるかのように堂々と
誇らしげに並んでいる。
 
(2013年01月21日、同日若干修正)
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昔々は人が人一人を殺すのにも体力と技術が必要だった。
銃というものが出来てから、至近距離なら
人差し指の屈伸だけで人殺しが可能になった。
人殺しの効率はどんどん上がってきた。
それでも人類が人類を滅ぼすことは不可能だった。
 
しかし核が登場した時代にあっては
人殺しの効率が桁違いに良くなってしまった。
 
ある意味、終末の時代と言えるかもしれないと思うのは、
物理的に人類が人類を滅ぼす能力を持ってしまっているから。
 
これから先、何十年も
生きていかなければならない若者は大変でしょう。
これから生まれる子供たちはもっと大変でしょう。
 
だからセルフィッシュに小さい世界だけを大切にして
自分と自分の身近な人々の幸福を求めることは大切だが、
それだけではいけない、通用しない時代だと思います。
 
日本でもアメリカでも選挙がありました。
今テレビでは連日、冬のスポーツやアメフトなどを放送している。
じっくり見ると面白いです。にもかかわらず
虚しくてならないのは、個人的な事情だけだろうか。
私は相変わらず発作的に書きたくなったとき書くだけで、
その頻度がどんどん減ってゆく寂しさを覚えるばかり・・失礼。
 
(2013年01月21日)
 
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(追加・補足)
 
ひょっとして誤解があるといけない
と思ったので補足しておきます。
 
原爆と原発ではウランの濃縮度が違いますから、
通常ミサイルが原発に命中した場合、広島や長崎のような
原爆規模の爆発が起こるという意味ではありません。
 
しかしながら、通常ミサイルであっても
標的に命中させて爆発を起こすことを目的とした兵器ですから、
原発事故による爆発や放射能漏れなどよりも、
ミサイル爆発によって、より多くの放射性物質が、
より広範囲に飛散するだろうと思います。
より規模の大きい放射能飛散により、
20~30kmではなく100kmの規模になるでしょうか・・
というより、前にも書いたことですが、
「放射能被害は時間的にも空間的にも限定できない」
ということから、
限定できない被害の規模と範囲がさらに甚大で壊滅的になるだろう
という意味で「亡国の標的」と書きました。
 
私の拙い文章と知識不足で誤解があったのなら、
お詫びして訂正いたします。また、なお
アドバイスをいただければ幸いです。
 
(2013年02月04日、追加補足)
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記事中の
「原発建設を許してしまった私を含めた国民もだが、
原発を建てた人々も、それを推進した人々も、
万死に値する戦犯である。」の段落は、
「万死に値する」が既に激し過ぎる表現であり、
そのまま実行してしまうと日本はなくなってしまいます。
つまり
どうしてこんなに原発を建ててしまったんだ。
日本を滅ぼすのに核ミサイルは要らないじゃないか。
・・という、絶望~怒り~嘆きの感情表現に過ぎず、
道理にも論理にもなっていないことを反省します。
どうしたらよいのか、アイデアがあれば教えてください
・・としか言いようがない感じです。失礼いたしました。
 
(2013年03月02日、追加補足)

 
 
 

というわけで・・また口を酸っぱくして・・?
 
 
限定
 
 
地域における癌の集団発生でもあれば
発症率の統計的有意差によって
放射能との因果関係が明らかな場合もあるでしょう。
しかし
次の世代に至ってからはもちろん
数年を経たのちも
さらに今の今であっても
癌が放射能によるものかどうかを
個別に判断することは出来ません。
 
そしてこのことは
本質をわきまえることなく
人命の犠牲を将来にわたって考えず
原発を維持し進めようとする人々にとって
とても都合がよいのです。
 
これから先の短期の無事故という結果によって
長期~永遠の安全対策が完了したかのように見せかけ
錯覚さえし続けるでしょう。
 
放射能被害が限定できるとするなら
それは地球規模で薄まり
半減期によって減ってゆくことに他ならず
地球に限定されるというのに等しく
それはそのまま
ひとりひとりの人と
ひとつひとつの国と地域にとって
限定できないということに等しい。
 
エネルギーは
事故の被害が限定されるものを選ぶべきです。
 
(2012年07月01日)
 
 
 

なかなかブログの更新も出来ずにいますが、
気になることがあったので久しぶりに書いてみます。
といっても以前の記事と重複するところがあります。
また相変わらず元気の出る記事は書けません。
 
  原発推進派?
 
 前に原発推進→核武装推進・・
という危惧すべき思想の流れについて書いたことがあるが、
それとも関連して、・・
 
 3.11よりもずっと前のことだが、
テレビで見たような気がする。あの一見優しそうな顔が印象に残っている。
億単位分の一という、事故なんか起こらないよ、
とでも言いたそうな低い確率の数値を示して
原発の安全性を説いていた。しかも
そのときの司会者が
「原発の安全性は分かりました」と相づちを打っていた。
いったい何がどう分かったんだろう・・?
・・と首をかしげたものである。
 
スペシャリスト・エキスパート・専門家に
頼らざるを得ないことは多いのですが、
学問だからといって鵜呑みにしてはならないでしょう。
ましてや政治家になる人ならば
どっち向きの専門家なのか
という方向性を知っておく必要があると思います。
たとい数学においても、応用する場合、
特に確率と統計という分野については、
恣意的な要素が入れば、数も嘘をつきます
 
原発について言えば、前にも書いたように、
細かな数値云々よりも、
被害が時間的空間的に限定できない
ということが私が原発に反対する理由の中心です。
 
確率の数値については、
原発を作りプログラムを作り管理するのは人間に他なりませんから
人の問題がどう数値化されているのかいないのか、また
さらに被害が限定できないということは
数学的な被害の期待値が数値化できないということだと思います。
 
考えられる安全対策をすべて講じるだけでも、
いたるところに線量計を設置して、また
漏れれば人が近づけないという事態が起こるのは当然だから
事故の際に迅速に行動できるロボット部隊を用意する必要があり、等々、
つまり考えられる安全対策をすべて講じるには
原子力はあまりにも高すぎるエネルギーだと思います。
 
それをもってしても
安全対策は、考えられる安全対策であって、
被害をなくすほどの安全対策にはならず、
放射能の被害は限定できないのです。
ダム建設や飛行機と一緒にしてはいけないと思います。
 
今回、優しそうな顔をしたその人(M氏)は入閣し
大臣になります。
ということは、つまり
現政権には脱原発の意思はないということになるでしょう。
 
半減期以上の速さでは消えようもない放射能を
拡散して薄めることで、もう心配ない・・「終息」「除染」と言って
原発推進を進め続ける、・・
 
政権が再び交代してもしなくても
この方向は変わらないような気がします。
つまり安全対策??を盾に
原発維持~推進が続いてゆくのでしょうか。
脱原発を唱える人々が弱小なのが残念です。
 
核エネルギーというものを、禁断のパワーとして、
人類自らが勇気を持って捨てられるかどうか
が試されているような気がするのですが、・・
 
放射能だらけになって壊滅的被害をこうむるまで、
この国は気づくことはないのかもしれません。
 
(2012年06月08日)
 
 


  「エゴ・・除染?・・近況」
 
 
前の記事で「島原大変肥後迷惑」というのを書いたのは
今まで知らなかったという単純な理由もあるのですが、何というか、・・
 
遠くの惨事よりも近くの心配・・とでもいうか、
私が最近痛感し落胆もしていることは、たとえれば、
遠くで一万人が死ぬことよりも、
近くで一人が入院して直接自分の生活に影響することのほうが
よっぽど応えるということ、言い換えれば、
遠くの爆発より、皮膚に小さい針を刺されるほうが痛い
・・前にも書きましたし、ありふれたこと、私のエゴ、自己中心・・
 
 
瓦礫にも放射能は残っているだろう。
 
(SNSに書いたこと)
 
放射性物質というのは厄介なものだと思います。
地中深く埋めてしまうか、
拡散させて薄めるしかないのでしょうか。
 
前者なら地震のときが心配。
後者なら、結局、空気や水や色々なものを介して広がってゆく。
 
放射能は「除染」つまり「汚染を除くこと」は出来ない。
いずれ何らかの経路で拡散していって、それで薄まり、
あとはそれぞれの半減期に従って線量が減ってゆくだけ・・
 
そういうエネルギーを選択すること自体が無理なのではないか
と思ってしまいます。
 
(2012年05月25日)
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近況です・・
母が腰椎圧迫骨折で入院してから5ヶ月経ちますが、
痛みが治まらず、歩行器を使わないと歩けない状態です。
整形外科での入院治療は限界ということで
介護施設への入所を検討中です。今日見学の予定。
 
母は「もう89歳、痛みで何も出来ない、このまま死にたい」と
希死念慮を会うたびに語るようになりました。
母がこんな鬱的なことを言うのは今回が初めてです。
母がそういう思いで動こうとしないことが
かえって痛みに気持ちを集中させて
心因性に痛みが増強しているみたいで
坐薬も神経ブロックも効かないという話でした。
 
母にそんなことを言われると元々鬱の私のほうも気が滅入る。
鬱の程度にもよるでしょうが、
死にたがり屋は死にたがり屋に同情するゆとりがない
・・ここにもエゴが・・親不孝につながっている・・。
 
私は、母の実家に住民票を移し、
若い頃に母を受取人にして掛けた生命保険も
今となってはあまり意味がないし、
払戻金が幾らかもらえるようなので解約するつもりです。
 
市役所に銀行に保険会社にと、
昔は普通に出来た手続き関係が、
鬱と年のせいもあるのかもしれません、
億劫で、なかなか、はかどらない・・
 
治療中心の病院から生活重視の介護施設に移ることで、
話し相手でも見つかって気が紛れれば
むしろそのほうが良いのかもしれない
・・今はそれだけが、かすかな期待・・
 
イメージ 1
2003年、父の一周忌の墓参りのときの写真です。
表情が好くて、まだ元気で、
母の写真の中でいちばん気に入っています。
 
 
 

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