神の国は2
 
 2018年11月22日
 私の記事「神の国はいつどこに」に加筆して再録
 再録+
 
 
信仰者の中には
神は、キリストは、聖霊はと
聖三位のことばかり語ろうとする人がいます。
信仰のことといったら奇跡のことばかり語り
物や肉体に起こる奇跡を信じることが信仰だ
と思っている人もいるようです。
 
神聖の仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。
信仰について、大真面目に、現実離れしてはいないでしょうか。
得々と、お伽噺を語ってはいないでしょうか。救いは現実のものなのですが。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
神の国について、キリストは、人々の中にある、と言っています。神聖の救いの仕組みを知ること語ることが信仰でしょうか。信仰は超常を思い込むためにあるのではなく、信仰は、人間が、人間と人生を考えるためにあります。
 
神が人を救うということを知らせることは福音ですが、人間が信仰者になることは、どうして起こるのでしょうか。神が人を救うと言うだけで救いを信じるでしょうか。そうではなく、聖書によって、キリストと人の交わりを知るからこそ、人は救いを求めるのだと思います。
 
なぜなら、そこに人は、心が、いろいろな執着から解放され、人間に救いが与えられることに実感が持てるからです。さらに、救われたとさえ感じられるからです。そのとき、神の国は、いつどこに?という問いは、救われたと感じる人にとって無意味になります。既に垣間見ているからです。
 
何故なら、人は、救いの仕組みのような、あるいは、記録映画のような視聴覚ではなく、お伽噺でもなく、知識や理屈としてでもなく、人間として既に誕生し生きて人生を体験し続けているからです。神の側の話をいくら聞かされても、それは、人の側とは、かけ離れた神聖の世界の話です。
 
さらに、人を救うと言われて奇跡を信じる人、つまり、救われるという話だけで夢中になる人は、救われるにふさわしい成長をする気になりません。そういう人は、全て、奇跡だから救われるのだと、自動的に救われることを信じてしまいます。
 
 最悪の場合、救われる立場から
 神の恵みなのだと言うだけで、
 自分を例にして自慢して讃美するだけになり
 救いを求める心に答える話が出来なくなるかもしれません。
 そこには愛という言葉はあっても
 愛そのものは、ないのです。
 
なぜ、キリストと人が関わった話に、人は胸を打たれるのでしょう。それは、キリストが、救いのために犠牲になったという役割でなく、その言行において、教えだけでなく、キリストと、低さを知るしかない人間たちとの交わりが、溢れるばかりの共感を与えてくれるからです。
 
キリストと本当に交わったら、人間の心には忘れられないものが残るのです。それは、聖書を読むことからも生まれ得るほどの、人生において大きな体験なので、物や肉体の魔法のような奇跡ではなく、人間の心に響く "魂の奇跡"、あるいは "心の奇跡" と呼んでもいいでしょう。
 
その大切なものが、弟子たちを使徒に変え、人をクリスチャンとして成長させるのです。奇跡が分かり、奇跡に守られるようになる・・などと、思っているなら、それは、超常願望に過ぎません。神は、人の願望や欲望を成就して讃美されるためではなく、救うために信仰を与えるのです。
 
 
恵みだけを語る者を、つまり、恵みなのです、恵みなのです、ということばかりを繰り返す者を警戒してください。そういう者には、信仰の芯について、まだ知らない人と、勘違いしている人と、知ろうとしない人がいます。
 
上の人は、キリスト信仰者ではありません。まだ、神と人の、憐れみも愛も知らないのです。だから神もキリストも、救いの仕組みの皮だけの知識だけしか知らない者です。そこには血も涙もありません。人間らしい温もりも潤いもありません。そこにあるのは、机上の辻褄合わせだけなのです。
 
キリスト信仰者ではない偽者者は、神の仲間になったかのように思い上がっており、全て知っているという慢心から、学ぼうとしないために成長がなく、むしろ鈍くなり、やがて自他を破壊してゆくのです。そういう者は、世辞の丁寧さによって、見かけの憐れみと敬虔を装っています。
 
そういう者の傲慢が、言葉や振る舞いに直ぐには見えないことがあります。しかし、突っ込んで質問すれば答えられず、しかも分からないとは言わず、それが一回ではなく重なると、最後には質問者を無視し拒否してくることで分かります。それが偽善者なのです。
 
偽善者は、キリストを殺した者たちと同じ体質を持っています。しかもその不感不応で悔いることのない体質を、不動の信仰だと思い込んでいます。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
9:12
イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
9:13
『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。
 (マタイ9:12-13、新約聖書)
 
キリストが引用した言葉は旧約聖書ホセア書のようです。
 
 (ホセア書、口語訳)6:6
わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。
燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
 (ホセア6:6、旧約聖書)
 
したがって、神を知るというのは、神の憐れみを知るということなのでしょう。決して、神の辻褄を知ることではありません。神の憐れみを知るために必要なのは、奇跡を信じることでもなく、教理を鵜呑みにすることでもなく、人間に分かる愛に共感できることです。
 
聖書ではそれがキリストを動かし、聖書を読んで学ぼうと努める私たちは、キリストが施す愛に共感するゆえに、キリストを信じるに至ります。上の例外的な偽善者を除いて、殆どの人は共感できる心を持っています。
 
儀式的信仰の習慣や言葉中心の教条や、たとえ奇跡体験があったとしても、解釈に詳しくなったとしても、人間の潤いに満ちた温かい共感を捨てて損なうならば、全ては無意味です。それが、人間の中にある信仰であり、人間が知りうる神の国に他ならないからです。
 
 
キリスト信仰は、良いことをしたから救われるという行為義認ではありません。信仰によって救われる信仰義認ですが、信仰、つまり、神を信じることは、いったい何を意味しているのでしょう。神を造り主、キリストを救い主と信じる者の信仰とは何でしょう。救われる唯一の条件とは何でしょう。
 
それは、
自分の罪を認めるがゆえに祈り
神の前に罪深い自分を正直に差し出すことです。
 
聖書の罪人たちは、それが出来たから救われました。
それが救われる唯一の条件ですし、
信仰そのものであると言ってもよいのです。
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
神の憐れみと共感を示す聖句です。
 
 
神と人の共感

神と人の共感
 
 
(2018年11月22日アップ)
(2020年11月25日、加筆して再録)
 
(2021年12月03日、再録+)
 
神の業(かみのわざ)
溢れる(あふれる)
 
 
 
  個と種
 
違う遺伝子を持ち
違う学習を経た
個はあくまで個であるから
完全に理解し合えることはないだろう
 
同じ遺伝子と学習経過を
一部に持っている種は
あくまで種であるから
他の種との協力よりは親密に
協力し合うことはあり得るだろう
 
誤解を許容した上での話で
他の種との共存を肯定した上での話で
はるかにヒトより永い淘汰の歴史を持ち
一途(いちず)に子孫を残すことだけのために
強化された遺伝子を持っている他の種に
無謀な戦いを挑もうとしなければの話だが
 
 
  色褪(あ)せる死
 
よほど悲惨な死に方は別として
近づいてくる当たり前の死
年を取れば取るほどに
死は近づいてくるのだが
年を取れば取るほどに
死は悲しまれなくなり
死の色合いは薄れてゆく
よほど特殊な事情は別として
同世代の高齢者が
畳の上で死んだとき
号泣(ごうきゅう)する友人は少ない
先に逝っちまったか
次は自分か
そのうち自分も
みたいな共有される平板の上を
ひとりひとりの褪色(たいしょく)が包んでゆく
年を経れば経るほどに
誰もが忘れる頃
ある日ふと
いないんだった
もういないんだ
な・・・
どこかの深い深い洞穴(どうけつ)から
短すぎて呼べない季節のように
少しだけ身に迫る
冷気の蒼(あお)い風のひととき
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
楽山は、HS問題について、ツイッターで議論を続けているつもりのようです。高級霊、次元構造、波長同通、憑依など、皆、超常の言葉ばかりで、人間について何も語れない反動と貧相をあらわにしています。
 
楽山は、自身の問題を、全く自覚できない人です。だから、平気で、傍観者として、アドバイザーであるかのように、他者のことばかり言っています。他者のことを、"トンデモ発言" などと言っている楽山こそ、トンデモな正体を隠しているのです。
 
無反省、無責任で、自分のもたらす害を、全て人のせいにするような、冷血の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)を隠そうとする楽山は、議論をする資格も能力もないのに、ただ、人間離れした超常を、理屈めいた言葉で語って、自己満悦しているだけなのです。
 
楽山の言は、言論ではなく、生殖器のようなものです。そこから詭弁を放出して、人が騙されて受け容れるのを見て、快感を得るのが、楽山の生き甲斐なのでしょう。楽山の人生には、真善美がなく、正義もなく、怠慢ゆえに、努力も学習もしない結末の、ゴミ問題となってゆくのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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http://st5402jp.livedoor.blog/
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