ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:奇跡

 
  超常と日常3
 
 
聖書に書いてある超常現象、つまり、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活について、信じていると言うことは空しいと言わざるを得ません。何故なら、超常現象の奇跡を信じても、そういう奇跡は、少なくとも、人間には理解できないことであり、かつ、現代、めったに起きていないからです。
 
つまりそれらの超常現象を信じることで、もたらされるものが殆どないからです。
 
信仰は魔法やご利益信仰ではないのだから、超常の奇跡を信仰の中心にしてはいけません。神の超常は
神に任されることです。
 
さらに、人が超常にこだわることは、日常を疎かにすることです。
 
 
物や肉体の奇跡は、神のみのわざです。神のみに任されることです。人が自分の都合で、神のわざを信じ込むのは、神のわざを決めつけることであり、不遜というものです。
 
一方、心の奇跡は悔い改めであり、神と人との関係において起こることです。心の奇跡には人が関わっているところが違うのです。人に分かる奇跡は心の奇跡です。
 
 
物や肉体の超常現象としての奇跡を信じますと言っても、信じると何が起きるというのでしょう。処女のまま妊娠しますか。何か超常現象を起こせるようになりますか。死んでも肉体が蘇りますか。誰も知りません。
 
それら奇跡が起こったら、そんなに素晴らしいですか。むしろ日常が混乱してしまうのではないでしょうか。地道に努力することがバカバカしくならないでしょうか。その夢を描いてばかりでは問題からの逃避にならないでしょうか。
 
何が起こるか、私たちは知りません。信じたら超常の奇跡が起こると言われても、実際に起こったら不気味なだけではないでしょうか。病気になってもすぐ治るのでは、病気を甘く見て健康を疎かにすることにつながりそうです。
 
超常に執着することで生じる鈍感さは、日常に及んで人間は怠慢になるだけでしょう。超常の奇跡に頼ってしまえば、人間にとって良いことは起こらないでしょう。
 
元々、奇跡は滅多に起こらないから、奇跡と呼ばれるのです。
 
奇跡が起こるかどうかは、神の御心に任されていることです。
 
信仰は、信じれば奇跡が起こるという交換条件のような取引ではないのです。
心の無い信仰に陥ってはいけません。
 
奇跡の夢ばかり見る超常信仰は、怠慢や失敗が魔法で解決されることばかり思い込んでいるような、
怠け者の欲望をベースに置いていることがあります。
 
超常にこだわり始めると、もっと考えるべき日常のこと、人間としての節操や、愛と共感そして真実の追求など、人間として考えるべきことを疎かにする恐れがあります。
 
超常に住んでいない私たちが超常現象を信じることは、思考と感情をゆがめてゆくのです。大事なことから目を逸らしてゆく恐れがあるのです。
 
もし奇跡が起こったら驚きを持って見るでしょう。それで命が助かったら感謝もするでしょう。しかし、それはその時の驚きと感謝以上にはなりません。そういう奇跡で人は成長しません。私たちは私たちにとって実になることに集中するべきです。
 
奇跡に頼って
過去に奇跡が起こったかのように思い込んだ者がいますが、
その者は、結局、思考停止と感情鈍麻に陥り、
理解も洞察も気配りも共感も出来なくなっています。
ただ一途に、奇跡を待つ姿勢に安穏とし、
その上にあぐらをかいて、
もはや人間とすら思えない状態になっています。
この人のどこが救われた人なのでしょう。
滅びゆく人にしか見えないのです。
 
このように超常信仰は、超常だけを信じて待つ怠慢と鈍麻のカルトになりやすいのです。私たちは、私たちに与えられている良きもの、つまり、愛と共感性と思慮深さを養うべきです。
 
聖書において、それら人間の情緒を豊かに持っている人たちが救われています。多くは、傷ついて、悲しみ、救いを求める境遇が、キリストに対して正直な思いをまっすぐに述べさせたからです。彼らには、心の、魂の奇跡が起こりました。
 
聖書において
教条と戒律主義に陥った者たちは
儀式の形式を守ることで
良心の実質を疎かにして
守っている、知っている、分かっているという傲慢を表し
彼らは、物や肉体の奇跡と儀式への信仰?によって
選ばれた者という自覚に思い上がり
そしてキリストを殺す者となり
神の怒りを買いました。
 
信仰は共感の可能な心によってのみ受け取られ、悲しみを知るゆえに温もりを知る心に生まれます。
 
信仰は決して超常を知る魔法でも霊能力でもありません。
 
信仰は、人間らしい心を育てます。どんな人でも、神の前の正直さに努める人は、神のごとくであることを求めない敬虔によって、代わりに人間らしい心を与えられ、育てられ、成長して、豊かな人間性によって、人間世界を生きてゆくでしょう。
 
このように、不完全な人が救われるためには、神の完全との違いを弁えていくしかないのです。
 
"神様が助けてくださいます" というような、やさしい神を語るときには、自らを神聖としないために、気をつけるべきことであります。
 
また、教理や教義を語るときには、必ず、超常なる神聖のことは、人には分からない神秘であることを伝えなければ、超常趣味で信仰を語ったつもりになるような人間離れが生まれる、ということを考えなければいけないと思います。
 
 
信仰者であっても、私たち人間の善悪の判断など、神に対しては全く通用しません。何故なら、人が、善悪の判断を振りかざして祈るとき、絶対の神の善悪の判断は既に下されているからです。そして、それは、時空の限られた人間には決して分からないことです。
 
誰が、自分の言動の影響を果てまで追えるでしょう。それは、神のみがなさることです。ゆえに、全知全能と言われています。それを知らない者が、愚かしくも、神の辻褄?をいじくって、なぜ悲劇を救わないのか、神はいない、などと言っているだけなのです。
 
神の辻褄を、神でない人間は、決して負えません。
ゆえに、私たち、キリスト信仰者は、いくら善悪にこだわっても理解することはなく、
神の前に、ただ、正直な告白以外、まるで祈りになっていないことを肝に銘じるべきなのです。
 
神についての、不可知論は、大方、無神論です。可知論は、大方、理屈倒れの半端な哲学です。信仰を理屈で語るのは、大方、邪道です。神学や哲学の知識を誇る者を警戒してください。私たち信仰者は、キリストの愛と共感が忘れられなくて、キリストへの愛と共感に生きる者であります。
 
人の辻褄さえ、ろくに語れない者が、どうして神の辻褄を語れるでしょう。インテリ気取りの坊ちゃん哲学など、俎上にも、机上にも、乗る価値はないのです。神もキリストも、幼稚な概念でしか語れない半端者~病人を相手にしないでください。
 
 
超常と日常

超常と日常
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月21日、再録+加筆)
 
 
 
  狭く細い道
 
近づくことはあっても
交わることはないかもしれない
ときに休み
ときに耐える
狭く細く長い道
 
素朴な不信仰
本気の弱音
本音の泣き言
ときに痛いほど
薄い胸に落ちて
抉(えぐ)るように沁みてくる
 
辿(たど)る経緯は違っても
それぞれの細い道
苦難の果てに見出した
薄明かりの細道を
証明がないからといって
どうして否むことができようか
 
日々の糧(かて)のように
あたかも等しく
水のように注がれる
弱々しさを抱えて
 
どうして希望を捨てられようか
いつかそれらが総て
広い広い一つ所に通じていて
温もりに包まれるという希望を
 
 
 
 大川隆法の直筆原稿
 2021年07月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 ブログ記事でも
 ツイッターでも
 宣伝しています。
 
 
楽山の因業は、何を言われても、何事もなかったかのように無視して書いてくることです。書くことの恥ずかしさを検証するだけの良心がないことを表しています。こういう人が捏造する偏見によって、宗教と信仰は、健康で文化的で賢明な伝道を妨げられることになります。
 
そのように、嘘と詭弁で、真実を妨げることで、楽山のような者は、かえって、悦に入る輩なのです。その卑しさと、幼稚さと、あざとさと、白々しさと、狡猾さと、卑怯さと、無反省、無神経、無責任、無理解のために、継続的に批判しなければならなくなります。
 
 
*直筆原稿のコピー発見
蔵書の整理をしていたら、大川隆法の直筆原稿のコピーを見つけた。90~91年頃、支部で頂いたものである。
『ユートピアの原理』まえがき(省略)
*三原則
内容を確認してみると、論点はおよそ三つだ。
大きな危機が迫っていると脅す
大川隆法を信じれば救われると希望を示す
「救世のために伝道をせよ!」と使命感を煽る
 
まるで、偉人の直筆資料が見つかった!・・かのように書いていますが、何が言いたいのでしょう。かっこいい・・とでも言いたいのでしょうか。愛しているのでしょうか。楽山の記事本文が貧弱です。存命の教祖の原稿が、どう重要性を持つと言うのでしょうか。
 
 
*相変わらず
こうしてみると、「大きな危機」の中身についてはその時々によって、世紀末の天変地異、北のミサイル、中国の覇権主義などと変化はしていても、上の三原則は今も昔も変わっていないのがよく分かる。
 
褒めているのでしょうか。言いたいことが見えてきません。宣伝するほど価値のある情報とも思えません。教祖の言うことは、あちこちに出ているでしょうし、直筆原稿の写真(省略)は、多く、偉人ならば価値があるのでしょうが、楽山は、何を、はしゃいでいるのでしょう。
 
 
*反省
聞くところによれば、最近の信者は笛吹けど踊らずとばかりに、大川隆法総裁が危機をうったえても、使命感を煽っても動かない人が増えているそうだけども、会員時代の自分はまだ若くて世間知らずだったので、上のような文章には簡単に感動してしまうクチであった。この点は本当に失敗だったし、いくら反省してもしたりないくらいである。…とほほ。
 
楽山は、ORの文章に感動してしまうそうです。それを失敗だったと書いています。「反省」は嘘だと思います。恥ずかしいだけでしょう。「とほほ」は大嘘だと思います。楽山の言葉の中で、いちばん信用性のない言葉です。しばしば書いてきた「反省」「とほほ」などは、もはや、楽山の嘘の典型です。
 
反省、とほほ、については、嘘であると、今まで何度も書いてきましたが、それでも、平気で書いてくるところが、楽山の病質であり、自覚がないか、または、嫌がられることを重ねるサディストぶりを証明するだけです。根腐れの進行であり、文章が、ますます無明の世界に行きつつあるようです。
 
楽山は、「感動し」たことはないと思います。ふるえるだけの心を持っていないと思います。「感動してしまうクチ」・・楽山は、「感動」と言ってしまう口だけの人です。楽山にとって、感動とは、自分の意見に空想の辻褄が合うということでしょう。
 
「失敗だったし」「反省してもしたりない」・・反省は振り返ることですが、楽山は、ますます、嘘に凝り固まる人です。失敗の認識もないでしょうし、反省もしていないと思います。だから、「とほほ」という、ふつう、文章には書かない台詞でごまかすのです。
 
楽山は、何度批判されても、なお、自分は整っていると言い張りたくて、図々しく不躾な文章を書いてきます。浅ましい言葉だと全く気づかずに、言えばいいと思うだけで、また書くわけですから、そのたびに、不自然な言葉遣いを含めて違和感だらけだと知れてゆくことになるのです。
 
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
 
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
 
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
 
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
 
遭遇から終焉に至るまで
出会(でくわ)す有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
 
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
 
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
 
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
  秘密と定め
 
二十年後殺人鬼になる幼児は
やはり幼気(いたいけ)であどけないだろう
鵜飼いの鵜(う)は
呑むことを許されないのに
食うために生きているように
養鶏場には首が並び
忙(せわ)しく騒がしく急(せ)くように
卵と肉
食われるために生きている
知られた秘密が
もはや秘密ではないように
羽ばたくペンギンは
水中を飛ぶ
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。不感不応。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。
アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取り、など。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  存在について
 
 
私たちが存在し、存在していることを自覚しているのは、いかなる科学的、または、哲学的プロセスを経ていても、全て、私たち人間の五感を通して得られたことを基(もと)にしています。つまり、五感のない存在は、何も認知しえず認識しえないという厳然たる事実があります。
 
私たち人間は、五感を通して、それを得ており、それ以外を得てはいません。そこから感受し、思考によって、この世界の有り様を考え、認知します。実際にあるかどうかが、五感で感じるかどうかになります。私たちは、全能者、あるいは、時空の摂理が設定した舞台で踊る踊り子なのでしょう。
 
 
肉体の復活を実際に起こったのだと信じしまうと、それは驚くべき超常の奇跡だから、信仰の中心になり、日常の出来事や、心よりも優先されやすくなります。そうすると、自分にも奇跡が起こることを信じることが中心になるでしょう。
 
私たちは、超常の奇跡が起こるから信じたのでしょうか、否です。キリストの愛と共感に惹かれて信仰者になったのです。それなのに、分かりもしない魔法のような奇跡が起こることを信仰の中心に置いてよいのでしょうか、否です。
 
驚くべき超常の奇跡については、・・起こったかもしれないし、起こればよいけど、分からないですと答えるべきなのです。神のものは、神に帰するべきであって、私たち人間が、あったなかったを決めるべきではないということです。
 
奇跡を信じます・・という告白において、私たち人間にとっては、物や肉体の超常奇跡ではなく、心に起こって生き方を変えた魂の奇跡こそ、信仰の中心にあるべきなのです。超常の奇跡に依存するのはカルトのやることです。
 
 
聖書によって、神を知り、キリストを知ることは、人が自らの不完全さ罪深さを知ることと同値であります。誰が、神の意志と摂理と行為を知り得るでしょう。つまり、人が知り得るのは、そこまでなのです。あとは、神にお任せするしかないことです。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。 
 (エペソ4:29、新約聖書)
 
ここを勘違いすることで、批判をしなくなり、そのことが、キリスト教内外に、おびただしいカルトを野放しにしてきました。批判という非暴力の手段さえも捨てたなら、残るのは、キリスト教をネタにしたカルトの天国です。
 
暴力ではなく愛に生きることを伝えている聖句の勘違いによる批判禁止は、多大な災いを、忍びやかに、もたらしています。キリスト者を総じて軟弱にし、権威主義を容認し、さらに、カルトをも容認しているのです。これは、背教の罪~偽善であります。
 
キリスト者とキリスト教組織の中に、キリスト教的キレイごとによって、悪を許し、偽善を許し、悪意の者たちを野放しにしている者がいます。嘘吐きがいます。詭弁屋がいます。ペテン師もいるでしょう。聖書からの「柔和」と「博愛」に見せかけて、好きなように悪用しています。
 
 
「女」を「人の妻」と書き換えて "情欲の聖句" を "不倫をしないように" という道徳律に変えた者は、信仰の知恵足らず~偽善者です。「神を恐れよ」を「神を畏れなさい」に書き換えた者も同様です。神という存在は、それだけでは脅威であり恐怖であり、畏敬で済むような御方ではありません。
 
神は、やさしいだけではなく、全知全能・絶対完全・永遠不変の、裁きの主であります。神への恐れを忘れたら、信仰はありません。神の愛だけを語って、神への恐れを語らない者は、ゆくゆく、安穏病の、陳旧性偽善者となります。
 
 
批判が出来ない、批判は苦手、批判する気がないと言う人は、批判する必要はありません。能力には適性が伴います。しかし、聖句を引用して批判禁忌が正しいと言う人は、怠け者の偽善者です。そういう者に従うようになれば、"できること" さえ、しなくなるでしょう。
 
 
存在

存在
 
 
(2022年06月12日)
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて うすい笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
 私は眠っているのか
 夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
 私の体は動かない
 夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
 存在は不安
 不安は友だち
 君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
 ひとり思いがまわっている
 君が私を
 支えてきたのですか
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく

私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  いつのまにか
 
時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間
 
時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、共感する心が無いために、表面的な辻褄合わせだけで、実感もなく、神をいないと言い、信仰を否定してきます。反省しないために、人の意見を受け取らず、いつまでも、自分の妄想を繰り返してきます。批判されても、反論する理路も自己中に凝り固まるしかないのです。
 
前から言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。人格障害の中のサイコパス(精神病質、反社会性人格障害)こそが、他害性を常に持っている犯罪予備群です。そこには必ず自己愛性が含まれます。病的ナルシストこそサイコパスなのです。
 
 
 
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  いちばん大切なもの2
 
 
この世において、キリストの心が伝わるのを妨げようとする者の話には、聖書とキリストの話を、奇跡や超常の話ばかりにして、史実か事実かどうかで追いつめるてゆく、というやり方です。それは、いちばん大切なキリストの心から遠ざけようとする誘惑なのです。
 
反キリストや無神教カルトは、キリスト教について、人間離れした呪(まじな)いか魔法のような超常現象だけを伝えて、人間の、共感できる心から離してしまう誘惑をしてきます。
 
キリスト教について、聖書を実際の史実として、神がいるなら、奇跡が起こるなら、復活したのなら、などの仮定から、無節操な自分信仰から、おかしい、という仮定法をもって、神はいない、聖書は虚偽だと主張し、キリスト教を否定する誘惑です。
 
超常に信仰は要らない。そして、信仰に超常は要らない。
 
神は、人と、取引はしない。信仰は真実であり、史実に依拠しない。
 
疑問は、自分信仰を否定しても、疑問であり、そんなことはない、そんなことはないと、無理に疑問はないかのように、疑問を否定して凌ごうとするならば、既に、反キリストの術中にはまっていることになります。疑問は、祈りにおいて、そう感じている自分を正直に告白するしかありません。
 
聖書や教理の、現実における疑問には、私たちは、共感を持てるはずです。それが、人間らしさであります。何ごとも動じないのは、神だけです。私たちは、疑問は疑問として、解決するのではなく、無視するのでもなく、"分からない箱" に入れて保留するべきです。
 
その上で、福音伝道者すなわちキリスト者は、超越性ではなく、成長し得る知性と感性を持ち、良心を持つ人間性から、信仰を考えて伝えることが使命であります。
 
否定するだけのお気楽な者たちが語れないこと、それが、キリストの心なのです。
 
人間に共感するキリストの心に、私たちが共感することによって、信仰は生まれます。
 
超常現象に驚たり信じ込んだりすることからは、真のキリスト信仰は生まれません。
 
肉体や物への奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないが、
魂の奇跡は、キリスト以後、二千年にわたって起こっており、多くのキリスト者が生まれているということです。
 
魂の奇跡、と言うのが、超常的だと思うなら、心の奇跡、でもいいのです。
 
信仰の誕生は、趣味的なものではなく、超常現象でもないところの、人間が生まれ変わる、というのが超常的であるなら、人間を目覚めさせるところの、心の価値観がどんでん返しになるような、その後の人生において決定的な変化ということです。
 
それは、絶対孤独からの解放に表れ、共感に表れ、感動に表れ、愛に表れ、新しい価値観に表れ、温もりとして表れ、潤いとして表れ、祈りとして表れてくるものです。
 
何よりも、そこには、聖書に表されたような、キリストの同伴、すなわち、キリストの洞察と共感と慈愛の同伴が、人を絆(ほだ)すしるしとして顕れるからです。
 
反キリストや、好事家の、聖書の話には、それらが、スコ~ンと抜けているのです。
 
 
前に書いたことですが・・
 
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。 
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。 
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。 
10:41-42
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。 しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 
先ず、この個所を読んで、キリストはマルタよりマリヤを好んだとか、マルタの信仰よりマリヤの信仰のほうが上だ、という解釈をしないようにしてください。このような読み方は、反キリストや好事家が、キリストの心をけがすためにする読み方です。
 
キリストの、マルタへの愛を見逃してはいけないと思います。ここでのキリストの言葉は、マルタのために語られています。そして、私たちのために語られているのです。
 
「マリヤはその良い方を選んだ」というキリストの言葉は、マリヤの信仰の優越を表しているのではなく、マリヤは、マリヤの出来ることの中で、間違ってはいないということ。マルタは、マルタの出来ることをしていたが、マリヤと比べることで心を煩わしていました。
 
キリストの言葉は、マルタのために語られている。そして、私たちのために。
 
「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」
 
キリストは、マルタがマリヤと同じようにしていたら、もてなす人がいなくなることは承知の上で、マルタに対して、マリヤと同じようにせよということではなく、マリヤは、これでよいと、信仰の義を与えます。
 
そして、マルタには、慈しみと親しみを込めて、名前を二回呼んで、山上の垂訓と同じように、思いわずらう必要のないことを語っているのです。信仰の優劣ではないのです。
 
 
信仰の義

信仰の義
 
 
(2020年
(2022年04月29日、再録+加筆)
 
 
 
旧約と新約聖書に書かれている数々の超常奇跡を読んだときに、話にならんとあきらめる人と、そのまま奇跡が起こると信じこんでしまう人、・・この2つの場合は、キリスト信仰には至らない例となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡という超常のことは、神に任されるべきことです。人がどうかできることではありません。つまり神の行為であり、人の信仰の信条とは成りえないのです。奇跡が起こるという希望を抱くことはあっても、奇跡が起こると信じ込むことは、神の行為を決めつける冒涜です。
 
私たちが受け取れる、そして、受け取るべきことは、キリスト・イエスの、人々に対する共感性にあります。人々の置かれている状況と事情を洞察し共感するキリストからの教えは、人間がいかに不完全であるか、そして、キリストがいかに共感しているかが分かります。
 
ゆえに、人生におけるキリストの同伴を受け入れることが信仰です。言い換えれば、イエス・キリストの御名によって、神に祈ることが、信仰であります。正義や善は、信仰に伴うことがありますが、信仰そのものではありません。ゆえに、罪人にも信仰が生まれ得るのです。
 
そういう目で聖書、特に、新約聖書を読むと、いかに、不完全の自覚を持っている人ばかりが救われているか、ということに気づくのです。不幸の分、自分を空しくしているような人々なのです。取税人、娼婦、姦淫を犯した人、病人、犯罪人・・などです。絶対孤独から絶望していた人々です。
 
一方、キリストの敵となったのは、自分は高いと思っている人々でした。高慢はくじかれ、傲慢は裁かれるというのが、キリストの教えです。聖書では、例外はあるようですが、パリサイ人や祭司、そして、言葉だけに詳しいと思われていた律法学者たちでした。
 
こういうキリストに憎まれた偽善者になってしまう恐れは、今の時代でも反キリストとして、キリスト教の内外に、たくさんいるわけです。絶対孤独から解放された人が、裸の王様になってはいけないということです。また、安っぽい教条主義だけで、自己満足してはいけないということでもあります。
 
キリストの共感を受けて、キリストに共感する人は、キリストの民となり、キリストの同伴をもって、絆(ほだ)され、そして、生き直し、比喩的には、生まれ変わるゆえに、正直な祈りを、人から神への唯一の音信として、信仰生活を送ることになります。正義と善は、ここでも、結果に過ぎません。
 
キリスト信仰の福音は、正義や善を勧める教えではありません。もちろん悪を勧める教えでもありません。一途に救いを伝える教えです。一途に、孤独ではないことを知らせる教えです。正直な祈りだけで、信仰の義を与えられて生き直す日々を伝えています。
 
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  無の真実
 
独り思いは掌中に風化し
砂のように行方も知れず
毀(こぼ)れ落ちる
 
後には何も残らないか
と尋ねられれば独り思いは答える
毀れ落ちたという真実が残ると
 
それは意義や意味
といったものには縁のない
売れない虚無の踊り子だ
 
しかし売り出し中の
毳毳(けばけば)しいダンサーよりも
しばしば長く残る
 
拍手喝采のない舞台で踊り続け
舞台を選ばず外でも内でも
ホーホーラララ・・・♪
 
けれど耳に聞こえず目に見えず
掌中から去って久しく
ときに手のひらよりも胸に
遠い浜からの潮風を通す
 
 
  相対性情緒
 
討論会というものにおいて
喧々囂々(けんけんごうごう)の論争を経ても
一定の結論に達することが殆どないのは
それぞれが異なった譲れない一線を
結界のように引き直し引き直し
自らのベクトルに乗っていながら
しかも語ろうとしているのは
絶対的な速度の源についてであるから
そこで起こり語られる
あらゆる現象も事物も時間も空間も
知識や論理さえ
多様に歪み変形し展開するために
絶対的な真理を見出すよりは
相対的な誤りを見逃すほうが
はるかに容易(たやす)く
すれ違う脈絡の渦の中で
感情の起伏は激しく波打つのに
論者は知性と理性をもって語るように
義務付けられているから
討論会は結論を出すことが
目的でもなければ期待でもなく
論争があるということを示す
統一されない場にならざるを得ず
よって周りで見ている人々は自らの
自転する思考に乗って公転するように
目を回しながら注目し
サラウンドしながらラウンドする
ノイズのような声に聞き耳を立てている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のボンヤリ言語というのが「大事なことだと分かって」「実践するのは難しい」に表れています。反省できなければ人間ではないということを、難しいことのように言うのは、反省する気がないということで、「んだよなあ」という語尾で「人間の性」と一般化するという気色の悪さです。
 
楽山の文章を見るとき、体質として性癖として身についてきたボンヤリ言語と、三文芝居のトホホ言語に、安っぽく同情するか、気持ち悪い作為だと気づくかで、楽山の罠にはまるかどうかが決めってくるようです。嘘と詭弁だけの楽山は、善きものをことごとく捨ててきたのです。
 
 
 
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  線形理解
 
 
(ネットより)
線形(せんけい)
線型性 - 変化の度合いが一定で、グラフにすると直線になること。
線形 (路線) - 道路・鉄道などの路線の形状。
葉#葉身の形の分類。
 
"線形" は、一方向に固定した曲解~妄想という意味で使っています。単純、単方向、短絡、訂正不能、などの意味を含みます。楽山は、学識もなく、思考力もなく、共感力もなく、評論家気取りで、偉そうに語りますが、宗教・信仰などの重要なことについて、辺縁をかすったこともありません。
 
 
聖書には、数々の奇跡物語が書いてあります。そういう、キリストが手で触れて病気が治るとか、水の上を歩くとか、僅かの食糧が千人分になるとか、そういう魔法のような超常奇跡を信じ込むことが信仰だと思っている人もいるようですが、間違いだと思います。
 
そういう信じ方をしている人がいるために、キリスト教とキリスト仰は、夢物語として、キリスト教?、アーメンソーメンねとか、奇跡を信じることだとか、視野の狭い人間になるとか・・で、キリスト者(クリスチャン)を定義されるのは、甚だ迷惑です。
 
何故なら、超常奇跡は人間には出来ない神の業(わざ)であり、ゆえに、超常奇跡を信じることによっては、人格は成長しないからです。そこで、思考がストップしてしまった人は、一生、それがキリスト教と思い込んで短絡した偏見のまま生きるのでしょう。それは、信仰とは関係ありません。
 
そういう安っぽいことをキリスト教だと思い込んでいる安直な短絡が、反キリストの立場で暴言を吐いている楽山のような無神教カルト信者であり、また、平安芝居を専らとする嘘っぱちの偽牧師シャロームshalom であり、そういう低劣思想を訂正不能に決めつけている思想は、信仰の迷惑物質であります。
 
そういう安直な短絡した曲解を否定して、キリスト教と信仰と神を否定する輩は、既に、人間として、人間らしい心が欠損し、良心が成長せず、野次馬の罵声のような、幼稚な雑言を吐いて、寒い寒い恥をさらし、かつ、その恥を自覚しないという人格崩壊の地獄を体現しています。
 
 
キリストの奇跡は、とりわけ、物や肉体への奇跡については、あったかもしれない、なかったかもしれない、という解釈にとどめて、保留するべきです。現代において少なくとも滅多に起こっていない物や肉体の奇跡を信じ込むのは、恐るべき神を決めつけることであり、背教と言うべきです。
 
そればかりか、奇跡頼みになって、感受性や思考力や忍耐力などの人間力を損なう可能性もあります。人間を超えることをいくら念じても空しいだけです。信仰者は、超人ではありません。信仰は、人間性の成長を希望して、限られた命を、祈りとともに生きるためにあります。
 
つまり、物や肉体への奇跡については、終末まで保留するということです。決めつけないということです。決めつけや根拠のない確信は、思考と感性を鈍らせ視野を損ないます。信仰は、視野が成長可能である、つまり、心に未知の領域があるという自覚からの敬虔がないと成長できません。
 
楽山やシャロームのように、信仰を軽く見ることで、人間性と人格が崩壊して、訂正不能となり、何を言っても、考えることと感じることが出来なくなり、同じことを返すしかなくなるような妄想だけの反復エラー再生マシンになっている者もいます。こうはなりたくないという最悪の事例です。
 
信仰の敵は、つまり、楽山やシャロームのような自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の者です。サイコパスと近縁です。症状として、楽山の返してくることは、全部と言っていいほど、こちらを悪という前提で書いていますが、その根拠を示したことがないのです。
 
 
キリストの奇跡、とりわけ、キリストの肉体の復活については、あったかもしれない、あるいは、キリストの不滅を象徴しているのかもしれない、という「かもしれない」くらいしか、人間の能力では語れないので、終末まで、保留するべきことです。
 
それを、あったとも、なかったとも、決めつけることは、超常現象が分かり知っているという超人意識であり、信仰ではありません。神は、人間に共感するところの超常の御方です。そのような超常の御方を恐れるゆえに、人間は、超常について断定してはいけないのです。
 
一方、キリストの共感力、キリストの不滅と臨在については、キリスト者は、信仰の中心として、祈りに至るほどに実感しています。幽霊のような存在ではなく、愛されたゆえに愛すべき、共感を受けたゆえに共感を持つようになるところの、救い主として仰ぎたいという実感です。
 
 
この共感が、感性の無い楽山には皆無であります。だから、楽山は、口を開けば、信じてもいないのに信仰について余計なことばかり言います。恵みがないのではなく、恵みに振り向きもしないのです。その身の程を弁えもせず、人格を自ら壊して、信仰の代わりに人格崩壊を広めようとするのが楽山です。
 
知らないことについては黙っておればよいものを、楽山の口は、共感もなく、遠慮がなく、思慮がなく、奇跡が起こらないから神はいない・・というような短絡した幼稚さと獣性によって、疲労物質~病原となっています。楽山の反キリスト性は、理路も、情感も、損なってゆく症例となっています。
 
楽山が最近見せた多量の決めつけ投稿は、楽山の衝動と焦燥と羸痩(るいそう)を表しています。症例として、かなり明瞭です。人間として闇です。信仰については真っ黒です。言論においては、ケダモノです。決して近づいてはいけません。楽山の婉曲言説は、いつも、いつまでも、汚い唾液の病原噴出です。
 
(ネットより)
羸痩(るいそう):
るいそう(羸痩、英: emaciation, 独: Abmagerung)とは、脂肪組織が病的に減少した症候をいう[1]。いわゆるやせ(痩せ、leanness, thinness)の程度が著しい状態であり[2]、症候であることを強調するためにるいそう症[3]、あるいは症候性やせ[4]などと称することもある。
 
 
強がりだけはしたくない

強がりだけはしたくない
 
 
(2022年04月14日)
 
 
 
  別れにⅡ
 
別れが永遠でないのなら
楽しい送別会がふさわしい
にぎやかな船出に
再会の期待と祝福
にこやかな顔が
すがすがしい風の港に並ぶ
けれど包み込むような
緩やかな風の中で
少しでも
ふっと落ちて
戻らないもの
すくいあげたくなったら
果てしない方向へ一歩でも
踏み出したくなったら
別れに
別れを告げている
とうに岸を離れて
見えなくなった船の
去っていった海の
波の彼方に向かって
まだ手を振り続けている
人がいる
 
 
  気づくⅡ
 
あるのか
と問われれば
ないのか
と問い返すしかなく
 
縛られねばならぬのか
と問われれば
それは縛るものなのか
解き放つものではないのか
それまで知らなかった方向を
教えてくれるものではないのか
 
しかし苦痛の種になることもあるし
自問自答を繰り返すうちに
結局気づかなかったことについて
どんな習性をもって
生まれてくるのか
石灰質の殻の中で生まれぬまま
黄色くやがて黒ずんで腐ってゆく
私にとってだけ
ある種の美味の
ほったらかしで申し訳ない
という気づき
 
 
 
(ネットより)
「智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」(夏目漱石〔草枕〕)
 
このように、人間は、不完全です。
要するに、住みにくい世を、真実を求めているか、あるいは、だましおおせることを求めているか、という分かれ道で、私は、かろうじて前者を、努力目標にしています。楽山は、ニヤニヤしながら、後者を選んでいるということです。
 
悪意を選んだ者は、悪意によって選ばれた道を進むことになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
大事なことを、全く分かっていないことが表れている楽山の言です。反省せず、謝罪せず、平気でいられることが、人格を鈍く、面の皮を厚くして、罪悪感や羞恥心という良心の高等感情を滅ぼしてしまったのでしょうか。良心を滅ぼした後に残るのは、滅びの形骸だけなのです。
 
 
 
 
ロシャのキリスト教は、ひどいことになっているようですが、キレ総主教(?)は、政治ベッタリのようで、大量殺人犯、裏地見る風珍を、ニヤニヤ讃えていました。サイコパスに味方すると、サイコパスになってゆくのでしょう。同教団の他の聖職者が、戦争反対を言っていて少し安心しました。
 
人類の敵は国家でも民族でもありません。人類の敵はサイコパスです。大量殺人が起こるところでは、必ず人間性を失ったサイコパスが暗躍していると思います。日本にも、ネットにも、サイコパスはいるので、権力を持つことがあれば、同じようなことが起こりうると思います。
 
 
 
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  共感の主
 
 
キリストは、共感の主であります。心貧しい、即ち、心に余計な先入観を持たない人々に信仰を宣べ伝えました。キリストの共感の最終的な結果が、十字架であり、人間の罪を背負って、死という人間の定めを身に負うたことです。信仰は、キリストの共感に反応して、キリストに共感することです。
 
宗教的には、キリストの時代の人間模様は、今と似たようなありさまでした。権威主義や、教条主義や、大仰な感謝と讃美が横行するのは、いつの時代も変わりないようです。そういう時代に、見逃されやすいのが、人間の良心による共感性、つまり、愛ということになります。
 
人間は、超常現象の奇跡には共感できません。直面し続ける日常とは違うので、理解も共感も出来ません。日常で、理不尽な目に遭っている人々が、キリストに惹かれるのは、そこに、この上ない共感が表されているからでしょう。それは、今も変わりないと思います。
 
一部に、福音書の、物や肉体の超常的な奇跡に驚き、ひざまずくのが信仰だと思っている人がいるようです。共感できないことを仰ぐのは、力ある御方の業だからでしょう。そこに共感できるものがないために、そういう信仰は、感謝と讃美だけになってゆきます。
 
さらに、超常を仰ぐだけならば、人生において、現代、殆ど起こらない奇跡を、起こるんだと思い込む信仰?になります。そういう信仰においては、大仰な讃美が鳴り響くことになります。一方で、日常の苦難からの悲しみに共感するセンスから遠ざかってゆくのです。その典型はカルトに見られます。
 
 
神は人知に働きかけます。しかし、人知は、心を砕いて、神に祈るだけです。つまり、人が思うところに、神はいません。人知で、神を追いかけることは出来ません。神は、人が祈るところにおられます。
 
祈ることもしないで、神を云々する、つまり、人知で神はいるとか、いないとか、論じたつもりで語っても、それは、神に届きません。人の思い上がりに、神は近づくことはないからです。無神教の信者は、いつも偉そうに語りますが、神について、何も語ってはいないのです。
 
神を知らないし仰ぎもしない者が、神について、多くは、その不在を語るとき、その神は、無神教信者の頭の中で料理されるのを待っている無神教の飼っている概念とイメージの神?の偶像に過ぎません。それは、とても、無駄であります。信じないところに、否定するところに、神がいるわけがないのです。
 
つまり、無神教徒は、神の不在について、証拠がない、根拠が無い、などと言って、笑いながら、神を、酒の肴にでもするのでしょう。しかし、証拠と根拠が人に分かる神?など、どこにも、いつまでも、いないのです。むしろ逆に、無神教徒こそは、空しく、神の偶像を追いかけているのです。
 
 
人間の、最も深い情緒は、共感であります。共感こそが愛であり、人を生かす宝物です。共感がないところでは、辻褄が合っても、人は感動しません。かつ、そこに神の恵みが存在しようがないのです。感動を伴わない神の恵み、賜物、魂の奇跡などは、神の永遠をもって、ありえないからです。
 
 
共感のない者は、理屈だけを並べてきますが、そこには言葉の表面的な意味の争いしかありません。楽山のような悪意のペテン師は、流れを無視して、細かい文脈に他者を誘導し、そこで混乱させ疲労させることで、相手が退却するように仕向けます。そして笑って言うのです「疲れたんじゃないのですか」・・。
 
 
信仰 共感

信仰 共感
 
 
(2022年02月01日)
 
 
 
  計りかねて
 
好意のつもりなら
少々的(まと)が外れております
的をずらしたのは私(わたくし)ですが
 
心配のつもりなら
少々押し売りに似ております
心配させたのは私ですが
 
同情のつもりなら もう
どこかで虫唾(むしず)が走ります
虫唾も固唾(かたず)も
呑(の)んだのは私ですが
 
あなたが悪いわけではありません
できることをしたのだ
という聖句もあります
 
残ってしまった拙(つたな)さ脆(もろ)さが
贈られた文字列のように
何もお返しできないだけなのです
 
 
  冬の仕掛け
 
朝のタイマーが
銀の針の仕掛けを夜明けに渡すころ
私はまだ蛍光灯の下に座っていた
そして私のそば近く
いつも顔を合わせるだけの無神経な
部屋の時計や写真や絵や
物言わぬ同居人たちと
あとどれくらい
坐っていられるかを相談するのだが
私は遂に横になる
 
しばらくは窓辺に身を寄せて
漏れ入る冷気に触れようとしたり
あきらめて仰向けになり
 
この世で最も愛した人が
磨かれたナイフで
冷たい返り血を受けながら
この胸を突くのを
今ならいい今なら
これで最初で最期なら
と足跡のない雪原に横たわり
 
いまさらのように悔いのひとつひとつを
数え始めたりしながら
凍みる冬の一日にも
焼けるようなひとときが
瞼の奥へ冷めてゆくのを待っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違いを自覚できないし、詫びても、反省と書いても、冗談のように軽く、その後、まるで変わらない楽山です。訂正不能の自己愛と自己中によって、人を、偉人でさえも、深みのない話のネタにして、趣味的にいじくってきました。楽山は、遊びだけの視野で、信仰も真実も、平気で踏みにじる男です。
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので変わることはないでしょう。批判記事を書くのは、楽山を変えるためではなく、誰も楽山に関わらないように、異常性を広く知らせるためであります。楽山がHNを変えれば、また分からなくなりますが、私は、今できることをしています。
 
楽山が誰かに賛同しても、共感性はありません。楽山には、約3年間見てきても、罪悪感、共感、悔いる心などの高等感情がないと思います。楽山の、賛同も、批判も、冷静な理路と深い情緒から生まれてはおらず、自分に都合のよいように書くのです。つまり、自己顕示欲からの芝居に過ぎません。
 
私は、インパクトのある言葉を求めています。キリストの言葉は、長い文章ではなく、インパクトのある言葉です。本になるような長い文章で、専門用語を並べられても、長いゆえに、心に響くということはないからです。インテリぶって書いてくる楽山の文章は、だるいだけで、何のインパクトもありません。
 
 
 
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