ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:奇跡信仰

 
  信仰と固定(再)3
 
 
人間が、神と関わることは、祈りであり、それが全てであります。
 
神が、人間と関わるのは、人間には、知る由もないことであります。
 
人間は、神の全能を知って、神の味方になるのではなく、神を恐れるべきなのです。
 
神を理解すること、神の意志を受け取ること、神の御心を行うこと、これらは、努力目標ではあっても、出来ると思ってはいけないことです。
 
人間が、その身の程を弁えず、神の御心を知って行っているという立場に立とうとすると、神のためにと勘違いして、やたら讃美しまくるようになります。発言がカルトに似て一方向になり、視野と思考が狭小化して、自由な思考が妨げられ同じ言葉が多くなり、声だけが大きくなります。
 
 
信じられることは、信じるようになることは、人間性で理解できて、人間性で共感できることです。それらが心を動かすからです。信仰を固定することは、動こうとする心を止めることであり、祈りによって折々に与えられる癒しよりも、固定して成長しない凝固と思考停止を願う反信仰であります。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが、人間が、神とキリストから受け取ることが出来るのは、人間の知性の範囲で理解できることであり、人間の感性の範囲で共感できることです。つまり、人間として、心の奇跡は、しんみりと受け取れますが、物や肉体の奇跡は信じ込んではいけないことです。
 
物や肉体の奇跡は、神のわざであり、人間の生き方とは異なるからです。人間を超えた物事を理解できるのは、人間を超えた存在になることですが、地上の人間である限り、人間を超えることはありません。その弁えが信仰の節操です。神を恐れるという言い方もします。
 
神や聖霊が教えてくれたからだ、と言うならば、超えた存在ではない人間に、教えたのが神や聖霊だと、どうして分かるというのでしょう。恐らく、大方は、その人の自己顕示欲だと思います。
 
そこにおいて人間は、神を恐れているか否か、神の前に敬虔であるか否かが表れてきます。神聖を知らない私たち人間が、神聖が教えたと言い張るのは傲慢です。神聖を振り回す人は、自らを神聖とする信仰自慢と人間離れの自分信仰です。
 
物や肉体の奇跡そのものを信じることは、人間を、人間らしい心の成長から遠ざけ、超常の超人願望に結びつける、という危険な方向を持つからです。人間が理解できて、感動できて、信仰になるのは、生きている人間の心を動かす言葉です。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは、ご利益信仰に過ぎません。物や肉体の奇跡は、人知を超える神を恐れるためにあり、恐れるべきことであり、神にお任せするしかないことです。人知を超えている奇跡を、人知が理解することは出来ないのです。そういう奇跡は、人が生きる縁(よすが)にはなりません。
 
分からないことは神にお任せする。このことは、限りある人間の能力を思えば当然であります。物や肉体の奇跡は最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは、奇跡で救われた人が、なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか、キリストが、なぜ、その人を憐れんだか、という、心の奇跡または魂の奇跡、それこそ軌跡、すなわち、人間の心で追えることを考えることが必要です。
 
信仰においては、物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。物や肉体の奇跡で救われると信じるのは、まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように、石がパンになる=物への奇跡、この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝へ向かうことです。
 
現にそういう超常妄想カルトがいて、人を騙しているのがこの世界です。もはやそういう者は悪魔にしか見えません。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。 
4:4
イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。 
 (マタイ4:3-4、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:8-9
次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。 
4:10
するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
 (マタイ4:8-10、新約聖書)
 
 
知性と感性は、特別な才能ではありません。神が人に与えた賜物として、人間ならば誰でも持っているもので、その中に不完全ながら、思慮が含まれ、理路と分別が含まれ、良心と共感が含まれ、温もりと潤いが含まれ、かつ、成長しています。
 
人は、その賜物によって、聖書を理解し、信仰に至ります。人間の信仰理解は、完全な理解ではなく、心を動かすものを受け取ることです。
 
聖書は人の心を動かします。聖書から、そして、体験から、神とキリストに出会い、共感し、聖三位は、信仰の対象であって、敬って友だちのように仲良くする対象ではありません。信仰は、動かし気づかせるのであって、固定することではありません。
 
信仰は、固定した安穏ではなく、成長する共感なのです。信仰者は、訪れる様々の出来事や疑問に揺れながらも、去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。そこに不変の境地はありません。共感と学びと成長を促す道があります。
 
神を知ることは、人間が自らの罪深く不完全なる身の程を知ることです。キリストを知ることは、人間が、キリストからの共感の尊さを知り、自らが生きて共感を伝えることの尊さを知ることです。信仰は、超常が、超常ではない人間に共感することを知った人間が、そこに生き方を見い出してゆく道です。
 
 
※ 
 
神は、全知、全能、絶対、完全、永遠、不変の存在です。
人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、不完全、永遠ではなく限りがある、変わりやすい存在です。
つまり、神を知ることは、人間が自らを知ることです。神を信じることは、人間が神を恐れ、自らを弁えて生きることです。
 
神ならぬものを信じてしまうと、神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。心について考えない者が受け取るのは、手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常であり、あるいは知っていると自慢するために他なりません。
 
それゆえに、そういう者は、理解も共感もなく自己中心に、やたら讃美しまくって、奇跡の必然を自己暗示して、信じ仰ぐ希望ではなく、思い込み信じ込む固定観念となり、心を訂正不能にして、柔軟性と共感を失ってゆくでしょう。
 
このような信じ方が、思い込み信じ込むカルトの信仰?であり、自分で神を決めつけてしまう信仰です。そうなると、まず自分の人間性を破壊し、次には関わる人に作用して、他者の人間性をも破壊してゆきます。それは人間離れの心性を固定して、信仰のカルト化が始まってゆくプロセスなのです。
 
 
思い込み信仰

思い込み信仰
 
 
(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年06月06日、再録+加筆)
 
 
 
  わからないと
 
わからないと
なぜ言えない
 
まずいものを無理やり飲み込んで
頭のどこかから笑みをとってつけて
力み続けるつもりか
飲み込んだのは食べ物だったと
なぜなら飲み込んだから
という理由しかないのに
 
わからないと
なぜ言えない
 
辻褄を合わせて硬直した顔は
喉に引っかかった異物のために
すでに歪んでいるのに
誰にも文句を言わせないと
ここからは通さないと
道を塞ぐとき
思いも塞がってしまうのだ
 
わからないと
なぜ言えない
 
絶対に耐えられるのか
本当にわかっているなら
わかっているという顔をして言ってくれ
 
 
  わかったと
 
信じて疑わない信仰は
何を信じてわかっている
信仰を信じられる自信があるというのか
 
投げかけられた笑みは
バケツ一杯ひっかけられた冷たい水だ
 
哀れみの施しを受けて
この身はずぶ濡れだというのに
たった一歩の歩み寄りさえできないほど
この身は凍りついたというのに
 
今も変わらない信仰で
明るく笑っていられるなら
わかったと信じていることが
試されるときまで
 
読み方が悪かったのではない
書き方が悪かったのだと
飲み込めない異物を
残したままにしておこう
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Megmix43
@hamayokomegumi
「幸福の科学を下支えするカルチャーは「努力・精進」です。」と建て前では「努力・精進」を謳っておきながら、「英会話ペラペラ祈願」とか「強力ダイエット祈願」とか「突然秀才になるための祈願」とか自助努力を否定する祈願ばかりなのは何故だろう?しかも成就率は金額に比例ww
午前8:21 · 2021年5月24日·Twitter Web App
https://twitter.com/hamayokomegumi/status/1396607209417547778
 
ツイート元ではなく、ずっと、楽山を批判しています。「努力・精進」をしなかったし、する気もないのが楽山です。ゆえに、霊とか、超常とか、自分の浅薄な結論で宗教を語っても、そこから進歩する生産性がありません。不都合を総て無視して、自己愛の自己満悦に浸る異常者だと思います。
 
そして、都合のよい文言を探しているだけなのに読書家気取りで、例えば「心の理論」という心理学を、心霊に結び付けて、霊が分かるっぽい自覚を語り、自分を霊能者や学者と同列に並べて、自己満足しているだけなのです。これだけ孤独な慢心に陶酔し続ける人は、正常だとは思えません。
 
楽山には、決して、関わらないでください。詭弁で、混乱させて、相手が疲れるのを、楽しむサディスト的な人格であり、まともに受け取っていると、こちらの、理路と感性が鈍麻してゆきます。この約2年半の間、楽山を読んできて、何か良いことの糧(かて)になったことは一度もありません。
 
※ 
 
人間は、何か分からないことに出会って、悩み苦しみますが、その袋小路や堂々巡りから、分からない自分、限界のある自分、不完全な自分を、自覚するときに、そのことを、正直に祈る相手を得ることは、恵みとなり救いとなりうるでしょう。
 
信仰は、超能力が身についたり、矛盾のない神聖の仕組みが分かったから信じることではありません。そういう思想は、むしろ、信仰とは逆で、思い上がりの原因になるだけでしょう。ゆえに、神聖が分からない・・ということは、信仰の動機にこそなれ、決して、信仰の否定にはならないのです。
 
楽山は、この点において、正反対の先入観を訂正不能に持っているために、神がいるなら悪を退治しないのはおかしいじゃろ・・などと言って、神を否定できた気分になるのです。この幼稚さは、思考力と感受性を育て損なって、異なる意見や批判を無視してきたからでしょう。
 
さらに、楽山は、信仰の代わりに、何か救いになることを提示できるかと言えば、何も用意してはいないのです。楽山の言ってることは、神義論・弁神論でもなく、もはや、論でさえなく、宗教嫌い以上に、自身の高慢からの、詭弁説教であり、病的ナルシストの症状に過ぎません。
 
極端なことを言えば、楽山の、元々の本来の人格が見えません。時々に、様々な、芝居、装い、偽装、詭弁、嘘、成りすまし・・を演じているのでしょう。本音というものがなく、虚偽の人格だけが豊富なのかもしれません。私は、楽山が表してきた偽りを批判していることになります。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の文章は、真剣味がない、新しいものがない、深みがない、だるい、独創性がない、良さそうに思えても洞察がない、読む前と呼んだ後で広がるものがない、しばしば詭弁であり、幼稚な短絡であり、印象操作であり、刷り込みであります。
 
楽山に疑問を投げても何も返ってこず、楽山は、同じことを繰り返してきます。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、共感がないからです。議論は進まず、訂正不能の楽山の言に惑わされていると、人格も、響きを失い、鈍く乾いてゆきます。
 
 
 
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  個人カルトの惨状2
     以前の記事とダブっているところがあります。
     改めて考えてみます。
 
 
聖書の、処女懐妊、物や肉体の奇跡、肉体の復活がなくてはならない、と信じている信仰?は、信仰ではないと思います。。いちばん大事なものに触れていないからです。神の意志と行為を決めつけて奇跡で守られると信じ込んでいるのは、シャロームshalom という偽善者と同じ所業です。
 
例えば、総ての人がシャロームの信条を信じたらどうなるかということを考えれば、自己中の妄想症であるシャロームの言説の矛盾と害毒から、明らかになることがあります。これらは、楽山と共通しています。
 
例えば、信仰は人それぞれ、というのは、聞こえはいいですが、信仰は好き勝手にやっていい、という意味で使って、批判を聞き入れないのが、シャロームです。それを黙認すれば、キリスト教を名乗るカルトが、好きなように蔓延るでしょう。ここも、楽山と共通しています。
 
どうなるかというと、偽牧師シャロームの言説は、自己中心ですから、広まれば広まるほど、自己中が増えてきて、人間と人間は、なかなか一致しないものですから、結局、憎み合う経過と結果になるでしょう。閾値を超えて、暴力的な争いを生む必然があるのです。
 
シャロームは、真実の追求が出来ません。何故なら、既に、固定された真理を得ているつもりだからです。教える立場だけを持っていて、そこから、妄想教理を何度も垂れ流してきます。教える立場しか持ち得なくなって、学習と成長が出来なくなるのです。楽山も同じ性質です。
 
シャロームに、いつのまにか刷り込まれてゆけば、シャロームと同じように、丁寧であれば、いい人、ということを真似するようになるでしょう。シャロームのお仲間は、実に、他者のあしらいが似ています。それで、易坊、楽山が、お仲間ですが、同一人物の3者への成りすましを疑っています。
 
楽山と易坊は、自己中の所業を無視してシャロームの味方をするのです。裁判ではないのだから推定無罪が成立するわけではなく、証拠不十分は、どちらが正しいとも言えないはずなのに、シャロームの言い分を是として選ぶことが、既に、中立ではない偏向の証拠です。
 
ネットでは、どちらが正しいとも、はっきりした物的証拠は、見つからないことが多いのです。そういうわけで、カルト、荒らし、成りすまし、など、偽善者が、法的な犯罪に至らずに、活動しやすい環境だということです。
 
いい言葉、よさそうな言葉、といっても、ここでは、よさそうに見せかける言葉ですから、偽善者の言う言葉であり、中身がありません。言動が合ってないような気がするとき、ネットでの、いい行いが伴っていないときには、警戒するべきです。
 
シャロームや楽山など偽善者は、自尊に凝り固まっているので、反省をしません。失敗や失言を認めません。指摘すると、当てつけや嫌がらせを返してきます。そうして、コメントを受け取らなくなり、批判記事は無視してきます。
 
シャロームや楽山などの偽善者は、神が与えた良心、つまり、良きものであるところの、思慮分別、人間的共感性、温もりと潤いという暖かい感性、など、人間らしいものを、病質と妄想教理のために持っていません。
 
聖書の言葉から神の導きを、人は推測しながら判断して進む信仰の道だということを、つまり、一気に悟りに至って固定する境地ではないことを、シャロームは、理解できません。そして、訂正不能の固定観念によって、新しい言葉を得ても、自分の言説に合うように使うため、少しも変わらないのです。
 
ゆえに、正常な人が感じて考えていることを無視して、自分で無理やり捏造するしかなくなり、自然の良心と、作為の捏造の違いとして、奇怪にズレて外れて芝居がかった和みと世辞と豪語に頼るしかなくなっているのです。
 
良心のある正常な人間は、人生に悲しい出来事が起こると、深刻に受け取らざるを得ないときには、悲しいから死ぬか、悲しいけど生きるか、という選択になります。しかし、心に温もりも潤いもない者は、怒り恨んで人のせいにするでしょう。アベルを殺したカインに、それを見ることが出来ます。
 
 (創世記、口語訳)
4:5
しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。 
4:6
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。 
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (漱石4:5-7、旧約聖書)
 
それらの作為の悪と偽善の醜さは、積み重ねられている途中であり、ますます、むごたらしい惨状を呈してくるでしょう。罪が門口に待ち伏せているからです。カインは、不都合で怒り、他者のせいにしました。カインは、サイコパスの起源のようなモデルなのかもしれません。
 
 
人間が生きるためには、最低限の衣食住が必要ですが、それが何とかなっても、生きられるとは限りません。人間は、物質でもないし、理屈でもないし、統計の数でもないから、何かを宛がわれて、元気になるわけではありません。人間だからです。
 
人間が生きるために必要なのは、絶対孤独ではないことです。それが残っているあいだは生きるほうを選べるでしょう。人間関係がないと感じて、絶対孤独に陥ると、必ず希死念慮は起こってきます。信仰は、人に見離されて、どんなに孤独でも、最後の砦として、キリストがおられることを告げています。
 
私にとって、好ましい人間関係は、私の至らなさで、殆どなくなったのですが、私が、生きてみようと思い、今日一日のパンがあれば今日一日生きる、という気持ちで、生きているのは、信仰者である人間として、キリストとの関係という希望からだと思っています。
 
人間にとって、信仰、すなわち、神聖との関係は、人間の側から分かるのは、あくまでも、人間としての関係です。だから、人間に生きる力を与えうるのです。シャロームと楽山が典型ですが、超常のことばかり言う人を、信頼しないでください。
 
神聖との関係などと思い始めると、聖書の謎解きに走ったり、何ごとがあっても自分に都合の良いように、恵みが与えられるんだとか、気合いで、ありがたがったりするような、信じ込む信仰?になります。それは、信仰ではなく、カルトと同じ信じ方の形式をベースとする間違った偽りです。
 
カルトと同じベースの信仰?は、悟り顔の、わざとらしい薄笑いや、いつのまにか、他人より自分は高いと潜在的に思い込んでしまいます。ゆえに、自尊や有頂天の陶酔になることはあっても、生きる力にならず、いかなる温もりも潤いも、みずみずしい気づきもないのです。
 
何故なら、私たちが、人間だからです。人間としての知性や情感、つまり、弱さや罪深さで反応できることだけが人間を救うのです。偉大な神が味方だからと、豪語ばかりしている人は、いちばん大事なことを、見失っている可能性が高いです。
 
人間の弱さと罪深さに寄り添って同伴してくれるのがキリストであり、正直な罪人を、飾りのない一人の人間として、二千年前に愛してくださった言行録が伝えられているのが聖書であり、キリストの同伴という聖書から得られる信仰の救いのメッセージです。
 
キリスト者(クリスチャン)というのは、キリスト・イエスに、情緒的にも、理性的にも、囚われているがゆえに、その絆(きずな)によって、自らを尊大とは成り得ない罪人として、キリストの同伴と罪の赦しと癒しと導きを願いながら、正直な祈りとともに、生きてゆく人間に他なりません。
 
決して、一気に悟って、揺るがない境地に居るのではなく、折々に反省し悔い改めて告白し、学習し修正し成長して行く生き方がキリスト信仰の生き方であります。揺るがない信仰というのは、固定ではなく、生きてゆくための忍耐力のことです。
 
キリスト者において、キリストの御名によって祈ることこそが、キリストの同伴を信仰することであり、あらゆる現実から見放されても、決して超常魔術のような一方的な理解不能の力頼みに逃げるのではなく、より人間的な温もりと潤いに恵まれて生きるのが、キリスト信仰です。
 
カルト的超常の豪語に惑わされないようにしてください。彼らは、人間でいるのが嫌で嫌でたまらなくて、超常の欲望を自らに当てはめるほうに短絡して、自己満悦しているに過ぎません。彼らは、人間離れと現実離れになりたがって、妄想世界に生きています。
 
だんだん、実際に人間らしさを失って、人を下に見るようになり、能力がないのに、信じ込んでしまったために、自身の過大な確信によって、むしろ、自らの無能と、超常の全能意識の間で、自他を破壊する道を選んでいる者たちであります。どうか近づかないでください。
 
救いのうち、超常現象は、神聖の専権事項です。神に任せるしかないことです。人間が、ああだこうだと辻褄を合わせたり、信じ込んだりできることではありません。信仰の目覚めには、このことに気づくことが必ず含まれると思っています。どうか人間らしい信仰者であり続けてください。
 
 
個人カルトの果て2

個人カルトの果て
 
 
(2019年07月17日)
(2021年08月03日、再録+)
 
 
 (ヨブ記より抜粋)
38:1
この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
38:2
「無知の言葉をもって、
神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
 ・・・
40:1
主はまたヨブに答えて言われた、
40:2
「非難する者が全能者と争おうとするのか、
神と論ずる者はこれに答えよ」。
40:3
そこで、ヨブは主に答えて言った、
40:4
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、
なんとあなたに答えましょうか。
ただ手を口に当てるのみです。
40:5
わたしはすでに一度言いました、また言いません、
すでに二度言いました、重ねて申しません」。
 (ヨブ記より抜粋)
 
 
ヨブが、最終的に、神に救われたのは、この聖句のように、おのれを空しくして、そのままの自分を、正直に、神に捧げる態度を示したからです。それまでの実績も、富も、正しさも、善なる行為も、神の前に、意味をなしません。
 
祈りとは、一途に、神の前に、自分の罪と無力を "正直に" 認めることです。
 
神の前には、善悪でも正邪でもなく、"正直" だけが必要です。
 
神の前に "正直" でしかありえない人は、人の前でも、だますような作為の悪や偽善などの罪を犯すことは出来なくなります。信仰が、善悪や正邪と接するのは、この一点においてであり、信条・教理・教条によって固定されるものではありません。
 
人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思ってしたことが、相手を傷つける、ということも起こってきます。人間は、真善美の追求において、即ち、善を心掛け、真実と正しさを追求するときに、このことを承知していることが必要です。
 
つまり、このことは、絶対の神の前において、人間が、たとえ讃美であっても、真善美を豪語できないことの根拠であります。善悪と正邪の判断は、人間にとって、絶対ではなく、完全ではなく、不完全なのです。ゆえに、神の前に通用するのは、"正直さ" だけなのです。
 
キリストが敵としたのは、褒められることだけを悦び、批判されると憎しみをもって殺意をいだくような、正直の代わりに、うわべの善と正義に酔い痴れているような、いわゆる偽善者であります。結局、そのような者たちが、救い主キリスト・イエスを、殺すことになるのです。
 
 
 
 楽山の成りすましが疑われる
 taka のツイッターですが
 
taka
@taka84156681
これ物申す系YouTuberにありがちなだな
自分では何にも作れない
引用マンガ(省略)のセリフ
「人生を変えようとする人を叩くのは
 人生を変えられない人だからな」
午後11:24 · 2021年7月24日·Twitter for Android
 
批判してきた約2年余り、楽山は、発信はするが、何も受け取らず、人生を、浪費しているだけです。しかも、発信によって、害を及ぼすだけです。そういう無反省・無責任の人に、人生を良い方向に変えることなど出来ません。被害者意識だけで、ますます、悪性に変質してゆくだけなのです。
 
 
 
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  人の復活(修正)2
 
 
死人が蘇る話よりも
先に考えるべきことがある。
 
信仰はその原初から
神との関係への人生の依拠であり
かなりの依存でもある。
 
人への依存は病気だが
神への依存は信仰である。
 
ゆえに自立した信仰などありえず
信仰は紛れもなく
神に人が依存し
かなり甘えることに他ならない。
 
神に勝手なことばかり言うことではないので
語弊があるなら
神のみに依り頼むことと言ってもよい。
 
神に依存し甘えるとは
祈りにおいて神に対して
人は既に
かなりの無礼を働いているということだ。
 
私たちの信仰は
100%を目指すことは出来ない。
 
100%を目指せば目指すほど
思い込みを強くして
偶像信仰になってゆくだろう。
 
何故なら私たち人間は
一人の人間である他者さえ
完全には理解できないでいる。
 
ならば
神の全知全能・絶対完全・永遠不変など
理解できるようなものではない。
 
私たちの信仰は本質的に
決して100%を目指すものではない。
 
神はそれをご存知で
人に福音を賜ったと思うべきである。
 
すなわち不可知の神への依存は
人間として地上における自立を促す。
 
 
 100%を目指し
 奇跡を固く信じ込んだばかりに
 日常の人間性を疎かにして
 100%に近い傲慢だけになり
 他者に負けない尊大な態度ばかり示して
 敬虔はおろか
 信仰の節操さえも弁えず
 大口をたたいては
 人間の理路を破壊し
 人間の共感を滅ぼして
 信仰者ではなく
 思い込みの化け物になった者もいる
 
 
信仰のいちばん大事なところは決して難しくはない。
しかし、そこを間違えれば
おぞましい反信仰に陥るだけの欠点が人間にはある。
 
 
主の復活にまつわる聖句
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
20:28
トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。
20:29
イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。
 (ヨハネ書20:28-29、新約聖書)
 
見ないで信じるということは
今信じていることを固定することではない。
 
信仰を固定しようとすることは
動かなければ成長しない人間の
成長すらも拒む姿であり
それは目のチリにも梁(はり)にも気づかない盲目であり
偽善者やカルトの信じ方である。
 
信仰は
不明を呑みこんで信じ込むことではない。
 
信仰において信じるということは神を理解することではなく
100%を目指すことではない。
 
救いの成就が目に見えなくても信仰は
一生の付き合いとなるほどの
賜物を心に受けて起こることである。
 
だから、見ないで信じたと、人がことさら自慢すれば
慢心からの信仰自慢に他ならない。
自慢することは既に信仰ではない。
 
それに、誰が、神を見て信じるというのだろう。
今の人間は、当たり前に、見ないで信じるしかない。
 
心に受けた賜物を知っている敬虔は
賜物が必要なほど不完全な自分を知っている。
 
境地自慢のように信仰をひけらかすことはしない。
 
それでも人間の信仰は不完全である。
それは人間が不完全だからに他ならない。
 
だから固定されたまま成長しない信仰はあり得ない。
 
信仰は固定ではなく成長であり
信仰は境地ではなく道である。
 
 
「聖書は神の言葉」と言われるのは
それ以上に尊いものを他に知らないという讃美である
 
讃美を振り回すことが望ましくないのと同様に
「聖書は神の言葉」という言葉を振り回すことは望ましくない
 
 
 大袈裟な讃美を聞いて
 大袈裟な讃美を繰り返して満悦するような
 大袈裟な信仰?はキリスト信仰にはない。
 何故なら神の前で
 信仰者は神を恐れるので
 決して大袈裟にはなれないからである。
 
 
人の言葉で読み書きされている聖書が
様々なカルトに悪用されて
白々しい讃美や否定の言葉になっている。
 
聖書に心を揺さぶられたことがなく
心に受けたものがないまま
讃美と信じ込みが信仰になることはない。
 
人が真の神を相手にすることは出来ない。
そんな能力は人にはなく
真の神に人知はどこまでも及ぶことがない。
 
ならば信仰は否定されるだろうか。
人は神を信じてはいけないのだろうか。
 
人が考えて
矛盾がないから信じるのではない。
整っているから信じるのでもない。
 
人を信じられず
自分を信じられないとき
いかなる言葉も整わず
たとい偶像と言われ
背教と言われようと
 
たとい土の器から
這ってゆくような醜い姿であっても
その結実が悲惨な生と死であっても
 
捧げるべき何ものもなく
飾るべき何ものも持たず
祈り願い
最後は叫ぶ以外にない必死の必要なら
それはやはり信仰である。
 
信仰に保険は効かない。
信じるという不可避の必要が
人の側にあるだけである。
 
昔、キリスト者が、支配することを捨てて、殉教を貫いたのは
信じることを捨てるよりは、召されることを選んだからだろう。
 
すなわち決して飾りではなく
論理でも手続きでも仕組みでもなく
信仰の必要性は
神の正しさを知ることよりも先に
人が信仰を必要とするからである。
 
その人の側の必要性がない間は
信仰の入り口にいるのだから
信仰者は求道者と同じである。
 
洗礼は
人から神への信仰告白である。
洗礼は
神秘を保証しているわけではない。
 
いったい、この世の何処に
信ずるに足るものがあろうか
それは信仰においても同じことだ。
 
悪い夢を見て
目が覚めたら
現実はもっとひどい悪夢だったとき
実在が幻想と化して
善悪が糞尿ほどの価値も持たないとき
逃げようもなく
絶望的に無力な狂気が
すがりつく糸も
しがみつく藁も信仰である。
 
多くの信仰は
他に何もなくなってから生まれている。
 
私たち信仰者は
まさに、すがりつく糸として、キリストを知ったのである。
私たちの信仰は高々そのような程度のものである。
 
そこには、いかなる復讐心も、憎しみもなく、
頽(くずお)れる自らの倒れる方向を与えられる。
 
信仰するということは、
他の、いかなるものにも代えがたい絆(きずな)を求め
それを知ることである。
 
信仰は
神の意志を理解することからではなく
人の必要性から始まっている。
 
人が神の正しさを知ったからと信じ込めば
偶像信仰になってゆくだろう。
 
ゆえに信仰は決して固定できない
ということをむしろ知るべきなのである。
 
他にない
という人にとってのみ信仰なのであって
 
他にもあるけど・・という信仰なら
気軽に付き合いのように分かったと言うべきではない。
 
そこは人間にとって不可欠な真実からは
まだ遠いと弁えるべきである。
 
少なくとも一度は来るはずの
生と死への境界に立つときまでに
自らが信仰と思っているものを省みるべきである。
 
もはや神の器に成り上がった微笑の調和も
バランスも保つことなど出来はしない。
 
何を捨て
何に捨てられているのか
そこにすべての教義は死に絶え
踏絵は踏みひしがれ
 
神の御業を知らない
キリストの奇跡を知らない
聖霊の体験を知らない
讃美も感謝も知らない
 
語るべき何ものもなく
ずれた顎から舌を垂らし
眼球は偏(かたよ)り流れ
手も足も投げ出されて
ぶらぶらと関節の規則を外れて曲がり
人の形を失ったその果てに
受けとめる器があろうとなかろうと
落下に任せるしかない時があり
任せる相手がいることを信じるのが信仰である。
 
人によらず
人にあらず
収めようとすればするほど
壊される土の器の日常である。
 
土の器は強くはない。
むしろ脆くて壊れやすい。
 
それでも学ぶことを止めないのは
他に頼るものがないからである。
 
そのとき信仰は
壊れた魂の土の器を
神の前に捧げて祈るしかないからだ。
 
大言壮語の讃美では
傷心しやすい弱小のわが身は癒えることがない。
何故なら自分で強さを呼び寄せようとしているからだ。
 
来たるべき艱難に備えるのは
傷心しやすい弱小のわが身を弁えて
神の導きを受け容れられる我が身であることを
修正可能なわが身の弁えを神の前に捧げて
赦しと癒しと救いと導きを祈り願うことだけである。
 
手足は萎えて
目はかすみ
耳は遠くなり
口は著しく無駄に思えるときも
生きるために必要とするならば
 
他にないというほどの愛の賜物を受けること
それが地上を生きる人間にとって
復活でと言ってよいだろう。
 
それは喜びに満ちているとは限らない。
勘違いしないでほしいのは
失望~絶望で明確な生きる望みを失っていても
それでも御心を想って生きてゆくとき
そこに溢れるほどの喜びがあるとは限らないということだ。
 
救われたのだから喜びにあふれて讃美するはずだと
信仰に生きることを理不尽に限定して
疲れる作業にしてはいけない。
 
神様に縁付いたのだからと
ようやく衰えを受け容れて
生きることだけで精いっぱいであるなら
讃美など出来ない信仰生活もあるだろう。
 
 (詩篇、口語訳)
119:123
わが目はあなたの救いと、
あなたの正しい約束とを待ち望んで衰えます。
119:124
あなたのいつくしみにしたがって、しもべをあしらい、
あなたの定めを教えてください。
 (詩篇119:123-124、旧約聖書)
 
 
(2011年12月08日)
(2019年05月17日、修正)
(2019年05月18日、一部修正)
(2020年05月29日、一部加筆修正投稿)
 
 
復活

復活
 
 
(2021年06月05日、再録+)
 
 
艱難(かんなん)
依り頼む(よりたのむ)
脆い(もろい)
藁(わら)
萎える(なえる)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
返信先: 
@asasfjgg
さん
>月影さんが・・・・・説明してもらえませんか。
 」
始めから『「一文言」だけを抜き出すという歪んだ方法』と書いています。
多くの事を語っているにも関わらず、
その大半を無視し、
都合の良い1文だけを抜き出し、
筆者の意図とは異なる意味を被せて論じる事は、
ズルい方法と思います。
午後4:14 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
上記引用元ではなく、楽山を批判しています。
 
「都合の良い1文だけを抜き出し」て、利用~悪用するのは、楽山の、"読書しました自慢" における常套手段です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
いやいや、この原因は、総裁には極論、ハッタリ、放言が多いということだよ。
・総裁が極論を述べる
・炎上、祭になる
・信者らはカルト視を逃れるため総裁の極論を薄めようとがんばる
コロナ死滅の話もそうだし、今ペンさんがしてるのもこれだよ。信者数、霊言、神罰、エルカン宣言もこのパターン。
午後7:53 · 2021年6月4日·Twitter Web App
 
「極論、ハッタリ、放言」が多く、さらに、理路の短絡、妄想的固着、なども、楽山の破綻として、よく見られることです。人のことばかり言う楽山ですが、不可避的に、楽山の傲慢からの詭弁に加えて、否応なしに、楽山の "教祖願望" が、言外に、体臭のように、表れています。
 
楽山に、人のことを言う資格はありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  矢印の人々2
 
 
神話と奇跡信仰に生きる人たちは
都合のよい出来事を奇跡に結びつける
 
「何度、奇跡に救われたことでしょう」
「私たちは、いつのときも安らかです」
 
自分に都合の悪い出来事
悲惨な死や自殺については
語ることが背教であるかのように
無かったこととして口を閉ざし
記憶から消してしまうかもしれない
 
彼らは強烈なベクトルを持っていて
いつも自分の味方をする神への信仰は
違うベクトルに対しては
びくともせずに、逆に
へし折って悔いることがない
 
そして彼らが優しさと呼ぶ口によって
冷やかに述懐して
気に入らない人に対して
「彼は少し、冷静さを欠いたようです」
と言った口は不感不応の
慇懃無礼な冷酷さだけが勝っている
 
言い古された言葉を並べただけで
納得し陶酔するような
彼らがこしらえた感謝のレセプターは
人間的感性のレセプターを押し潰すほど
強力な条件反射になっている
 
いつどこで起こる災いも不幸も
自分と同じ信仰を持たないからだ
という因果律を当てはめて
ひたすら硬直した薄笑いの伝道を続ける
 
いつどこで起こす災いも不幸も
不都合な因果を無視する彼らの黄金律によって
すべて「愛とまこと」の名の下に隠して
彼らは結束し増殖する
 
彼らの強さによって
何度人間性は潰されてゆくことだろう
 
彼らは実に
いつも単方向のベクトルを突出させ
固定したレセプターによって机上の奇跡を引っ張ってくる
 
 
 
注意してください。
世の中には
やさしい言葉しか使わない信仰者がいます。
やさしい言葉しか使わないカルトもいます。
やさしい言葉しか使わない病質者もいます。
 
穏やかさ以外を隠して表に出さない信仰には、
昔から抵抗を感じているので
 
穏やかでない正気も狂気も
私は書いてゆくしかないようです。
 
 
(2011年09月28日)
(2019年04月25日、修正)
(2021年05月16日、再録+)
 
 
何を目指すのか。

何を目指すのか
 
 
※ 
 
  人の季節
 
うっとうしい梅雨である
眠れない夜である
と思っているうちに朝は早く
日差しはなく
薄暗く
薄明るい
 
ゆるさない、と幾度も
心の中で
わめいたと思うのだが
どういうわけがあったのか
特定の人に対してだったか
背教のつもりだったのか
 
それらよりもずっと多く
自分に対してだったような気がする
言った後で何の救いも
希望もなくなることに
おののいて
聖書の幾頁かをめくる
 
特別新たな感動が
生まれるわけでもなかったりしたとき
 
もはや信仰は凝り固まった
しこりのようだと考えるけれど
 
しこりはまだ
ほんのわずかに
熱を帯びている
ぬくもり
と懐かしい友を呼ぶようにつぶやく
 
ひょっとしたら
ゆるさない、ではなくて
ゆるされない
ゆるされるものか
であったかもしれない
 
熱は癒え
冷たい氷は溶け始め
また新しい罪が生まれる
ゆるしていただくほか
救いも希望もありません
と産声(うぶごえ)を上げる
 
あらゆる季節の
人間の
冬の終わりに
幾度も幾度も冬
の終わりに
 
 
(ずっと前、一部修正)
 
 
 
 (詩篇、口語訳)26:2
主よ、わたしをためし、わたしを試み、
わたしの心と思いとを練りきよめてください。
 (詩篇26:2、旧約聖書)
 
 (詩篇、他ブログより)
主よ、わたしを調べ、試み
はらわたと心を火をもって試してください。
 (別の訳らしいが、興味あり)
 
※「はらわた」は、人が心に秘めたものでしょうか、加えて、「火」は、神の強い力に拠り頼む情熱的な信仰の意志のように感じられて、強いインパクトの訳になっています。
 
 
 
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  信仰は2
 
 
信仰は史実に依拠しない
史実であってもなくても
聖書によって信仰は生まれるからである
また信仰は出来事に依拠しない
 
さらに信仰は人にも組織にも依拠しない
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
与えられるためには人間らしい温もりと潤いが必要である
 
与えられるのは人間らしい温もりと潤いに相応しい道である
 
決して安穏の保険ではない
 
奇跡と神秘の沙汰は神に任せられ
人が云々できることではない
 
人は
未来という未知へ導かれ
守られる身であるのに
史実信仰や奇跡信仰は熱心であればあるほど
依拠するところをご本尊のように守ろうとするだろう
 
奇跡に反するものから目を背けるような
むごたらしい信仰が人に向かうとき
「悲しみを喜びなさい」
「それは言っちゃいけないんだよ」
「自殺しちゃいましたよ」
戒律とタブーと侮辱を人に当ててしまうだろう
 
これが信者から猛者へと変質して
信仰という名をかぶった思い込みの確信であり
信仰者という名をかぶった無資格超人気取りである
 
信仰はいかなる事実にもかかわらず
計りがたい神の意思に
委ねるほかはない一人の人間の在り方である
 
信仰者は依拠する御方の行為や意思が分かる
という思い込みの確信を砕かれてゆく一生を選び
またそのために選ばれた者である
 
信仰は神への恐れとキリストの愛のみに依拠する
 
 
(2011年09月24日)
(2020年04月26日、一部修正)
(2021年05月06日、再録+)
 
 
信仰者である人は
へりくだる姿勢を持ちながら
ときに神に甘えることがあります。
ときに愚痴を言ったり駄々を捏ねたりします。
 
そういう駄々は
嘘の世辞の讃美言葉と違って
祈りとして真実性があると思います。
 
祈りにおいて正直であることだけが条件となるからです。
 
神に対してだけは甘えないと生きていけません。
だからこそ甘えであることを自覚していなければいけません。
 
神からの奇跡を人が受けたと思い込む確信は、
神に対する甘えの自覚を失った人の姿です。
それは、
神が自分にとって都合よく働いてくれる
という
神を恐れず、
神の都合を自分の都合に合わせる的外れの自覚と感謝に陶酔して
甘えの中に溺れている人の姿なのです。
 
神に甘えるとは
都合の悪い本音を隠さないことであります。
本音ではない遊びの甘えは冒涜です。
 
本気でなく
自分の都合に合わせて神を恐れない者ほど
神を讃えます。
 
これは、一部ではなく、
私たちの中にある稀ではない罪性であります。
 
ゆえに、折に触れて、信仰者にも悔い改めが必要になります。
悔い改めは、改めて正直に祈ることであり、信仰者の日常の務めであります。
 
キリスト信仰者を
間違っても超常に生きている人などとは思わないでください。
超常ばかり語ることは信仰から外れてゆく方向です。
 
超常は分からないという分別こそが信仰の姿勢であり
神に任せるべきものを弁えている態度であり
神を恐れる信仰に、必須の、そして、相応しい弁えであります。
 
私たちは信仰によって、信仰者として、死ぬまで成長し続けて、
「神を恐れよ」を自覚し直すことになるでしょう。
そのたびに、祈り、主の慈愛と神の寛容を頼みとする道に帰るのです。
 
キリスト信仰は
神の全能への恐れを知り
キリストの人への
共感と愛に依拠する信仰です
 
 
神を恐れる

神を恐れる
 
 
(2020年04月29日)
(2021年05月06日、加筆して再録)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
会員だった頃、伝道の取っ掛かりにしようと思って、荷物を幸福の科学の袋に入れて、友人宅を訪ねたことを思い出した。
袋に印刷された「幸福の科学」の文字を見て、
友人の妻「幸福の科学ってなあに?」
友人「バカ、そこに触れるな!」
伝道は始める前に中止となりました(笑)
午前11:21 · 2021年5月3日·Twitter Web App
 
HSを批判しながら、なぜ、キリスト信仰を、ろくに知りもしないで、同じように批判して、不幸を広めて、平気でいられるのでしょう。楽山の批判は、多く「(笑)」付きです。宗教もカルトも、恐らく、有名人も学者も、楽山にとっては、「(笑)」に過ぎないからでしょう。
 
キリスト信仰について、何も分かっておらず、アニメと同じように、無反省に無責任に話のネタにしてくる楽山には、人が傷つく、人を傷つける、ということも、何も分かっていないと思います。
 
楽山は、不幸の我執の伝道者、というより宣伝者です。自己愛性人格障害のネトウヨが「バカ」を連呼しながら、今日も、ネットという街宣車に乗って来るようです。しかも笑いながら。
 
楽山の、こういうツイートこそ、そして、楽山ブログも、始める前に中止してほしいのです。楽山には、あらゆる正義について、あるいは、あらゆる悪に対する批判について、語る資格はありません。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
 2021年05月03日
 大川隆法とバッハ
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
  を批判
 
楽山は、 YouTube から、ORと、バッハを、並べています。その意図が明らかなのに、書いていません。責任を負う気のない卑怯者のやり方です。楽山が記事を書くという行為は、このように、いつも卑怯で、作為的です。厚顔の武装面でしょうか。
 
自分の言動がボロクソになっている状況で、人のことばかり書いてくるというのは、どういう神経でしょう。それこそ、カルト教祖の妄想状態でもなければ出来ないことだと思います。鉱物的体質の鉄仮面なんでしょうか。それとも、皮がむけてヒリヒリするような赤裸の時空を持っているのでしょうか。
 
*大川隆法の音楽
 大川隆法の作詞作曲した歌を聴いてみた。独特の個性があるので、人によって好悪は分かれそうだ。
・「ウィズ・セイビア 」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:大川咲也加〉
・【デジタル先行配信中!】「水の革命」〈作詞・作曲:大川隆法 歌:恍多-kouta-〉
 
この上2つは、盛り上げようとする日本語の説教調であることから、布教の意図が明らかです。
 
「人によって好悪は分かれそうだ」・・責任を負いたくないために、楽山は、曖昧に言います。責任逃れでないならば、なぜ、曲をブログに載せ、かつ、バッハと比較するような構成になっているのでしょう。
 
*バッハ
宗教音楽というつながりで、なんとなく、バッハを思い出したので聴いてみる。やはり、いつ聴いても切なくなる。
・バッハ《マタイ受難曲》「神よ憐れみたまえ」 アーフェ・ヘイニス
・J.S.バッハ: マタイ受難曲:我ら涙流しつつひざまづき[ナクソス・クラシック・キュレーション #切ない?]
 
私は、音楽は苦手ですが、楽山は「いつ聴いても切なくなる」と書いています。つまり、比較の意図は明らかなのですが、上2曲と比較させながら、比較については直接表現を避けているのです。主張の責任を負う気などないからでしょう。
 
こういうやり方は、今までの楽山の言論を象徴するかのようです。断定していなければ責任はないというのが楽山の思い込みですが、ブログでも引用でも発言し公開した時点で、言論の責任は発生します。
 
責任を意識することで、反省と学習が可能になります。それをしたくない、また、できないのが楽山です。自己中と自己愛によって、いつも、偏向した主張をしてきますが、責任を負わないというのは、楽山が、いい加減な、趣味程度にしか、マンガ程度にしか、宗教を考えていないということです。
 
楽山が、そういう無責任であるならば一人前の人間ではないということであり、一人前の人間がすることである他者への評価について書くという資格はないのです。
 
つまり、楽山は、自分は言いたいように言うけど、質問するな、批判するな、ただ褒めろ、と言っているようなものです。こういうことが通ると思うのは、楽山が、自己愛性人格障害という病気だからです。いつでもどこでも通用しないことなのに、楽山には、それが分からないのです。
 
ゆえに、楽山においては、不祥事や失敗の時に、楽山に向かって、"あんた、あの時ああ言ったじゃない"、と言っても無駄だということです。つまり、批判者失格です。
 
こういう人を相手にしますか。こういう人が何かを良い方向に変えるでしょうか、ないと思います。何故なら、大事なときに、まるで当然のように、平気で、真っ先に逃げる人だからです。
 
実のない人生を送ってきた楽山の、いつもながらの下種ぶりです。今日は、節操もなく失禁する大人の日ではないはずだが。
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じないですね。
なにをされても、正しく導いて頂いている、救いを頂いているとし、もしそう思えず、感謝できなければ自責の念を抱いてしまう。
カルト信者にありがちなこと。
引用ツイート
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
 · 2時間
相手が少しでも「責任」を感じるなら、攻撃者としては攻撃しやすくなる。(例えば、攻撃者がケガ人や病人である場合、そしてあなたが「責任」を感じている場合、あなたはその人の「要求」を、攻撃とは感じにくいかもしれない)
 」
午前8:03 · 2021年5月5日·Twitter Web App
 
「教祖を神様だと信じ込んでいる場合も、攻撃されてるとは感じない」・・楽山も、教祖になって、そうありたいのでしょうか。批判されなくて済むから。
 
しかし、言うまでもなく、無反省、無責任では、教祖どころか、まともな知性を持った人間ですらないのです。楽山は、結局、良心を裏切った報いを受けるだけです。
 
楽山が「少しでも「責任」を感じるなら」批判は別のものになったかもしれないが、現実には、真逆ですから、楽山の望むことが少しでも叶うようであってはいけないのです。
 
別のことを言っているつもりでも、楽山の潜在的な欲望は、書き癖や言い回しに表れてきます。本気で考えて、必要だと判断して言うことと、趣味的に考えるだけで言うこととは、違ってくるのです。
 
楽山は、自己中と自己愛が育てたところの、うっとうしいカビサビの世界に棲んで、そこから発信しているので、これからも、自分の言葉に、そして、引用した言葉に、斬られる結果になります。(カビ=黴、サビ=錆)
 
楽山をアンチと思わないでください。楽山の考える宗教は、超常とか霊とかの話ですから、これは、基本的にカルトの発想と同じであります。ゆえに、楽山は、実際にはカルトと区別できない本質を持っていて、今は、アンチのように見せかけているだけです。
 
楽山が、現実問題でカルトを批判しても、宗教はこうあるべきという考え方では、カルトと同じ種類の、空想的な立場しか持っていません。この2年間、楽山の、反省せず、批判を無視する単方向性に、如実に表れてきたことです。
 
 
{2021年05月06日}
 
 
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