ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:奇跡

 
  神について語るには3
 
 
キリストや聖霊についても同様ですが
神という御方を考えるとき
全知全能の神については
私たちの概念の箱には到底納まらない
ということを先ず言いたいのです。
 
神と聖書について人間が持つべき箱は
修正可能な分かった "つもり" の箱と
分からない保留の箱だけです。
 
したがって
「神」を概念や観念として
言葉で考えることは
無理すれば
人が全能者を扱うことになり
教条主義という罠に堕ちるでありましょう。
 
 最悪の例を、一人は10年、もう一人は2年、批判しています。
 
全能者は人に扱われるような御方ではありません。
 
つまるところ
全能ではない人が
神の概念を語ることは困難であり
語るにあたって
少なくとも恐れを持たなければなりません。
 
では神について語ってはいけないのか
ということになりますが、
恐れを持つということは
語るなということではなく、
語る内容を言葉で決めつけてはいけない
ということです。
 
どういう姿勢で
神を語ればよいのでしょう。
 
神そのものではなく
導き、憐れみ、戒め、懲らしめなど
神が人に及ぼした作用の
人における経過と結果から
推測できるものを語るべきなのです。
 
その場合、
導きを受けた人のことを語ってもよいし
そういう人の様子や経緯から
推測できることを語ってもいいでしょう。
 
神そのものは
人によって捉えられるものではありませんが
神が人に及ぼした影響
つまり人の信仰については
人は不完全ながら知りうるということです。
 
そういうことですから
人が聖三位について語るとき
最も多く語れる対象はキリストであります。
人格としての言行録が福音書としてあるからです。
 
その中の物や肉体の奇跡については
なお人間の理解の届かないところにあります。
キリストについて
物や肉体の奇跡を追いかけて
魔法使いの言行みたいに語ってはいけないと思います。
そういう奇跡は
人間の守備範囲外にあるからです。
 
キリストと
キリストが救った人々との交流から
救いとは何か
 
キリストが批判した人々との遣り取りから
救われないとは何か
 
こららのことを学ぶことは
決めつけない限り可能でしょう。
 
またキリストを信じることで
自分に、そして人間関係に、
さらに思考や感情に、
そして人生に
どのような変化があったのかを
語ることも可能でしょう。
 
そこから推測できるところの
信仰がどうあるべきか
信仰者がどう生きるべきか
などに話を広げてゆくことも出来るでしょう。
 
信仰者として
心が揺さぶられることは
キリストからの愛に
そしてキリストへの愛に帰してゆきますが
信仰者の人間としての営みの成り行きにおいて
総じて
導きは祈りに帰してゆきます。
祈りは
その日までの経過であり
その日からの出発点なのです。
 
 
(2019年04月アップ)
(2020年04月18日、一部修正)
(2021年04月23日、再録+)
 
 
神様のことは
ちょいと徳の高いお爺さんがいるから
話を聞いて仲良くしましょう・・ではないのだから
会えば分かるわけでもないのだから
会って直接話を聞ける相手でもないのだから
おとぎ話に出てくる仙人みたいな人でもないのだから
 
少なくとも信仰者は
善の代名詞みたいに
気軽に話のネタにしてよいことではありません。
 
また、カルトのように
自分の見なしを大仰な小理屈?の教条にして
形容だけ大袈裟にして
大真面目を装って嘘を吐く輩が
キリスト教内外にいますから
彼らのように気負って
神の意志と行為を決めつけてよいものでもありません。
 
神聖について
人が持つべきなのは
確信ではなく
恐れであります。
 
人に起こることというのは
聖書からだとしても
よく語られる超常話が人を救うのではなく
つまり物や肉体の奇跡ではなく
 
人間であれば理解できるような
人間の喜怒哀楽とか愛とか洞察とか
人間に理解できることが人を救うのです。
 
私たちを惹きつけ共感させることが
聖書にはたくさんあります。
そこに価値を見出した人は
理解できないことや疑問や矛盾は
人ゆえにいだくものとして保留するのです。
 
聖書が教える信仰は
自らの経験と思考の届きうるもの
すなわち、人間であれば
理解できること、共感できること
それらをもって問いかけてきます。
 
信仰の学びとは
こんな不思議の奇跡のわざが起こるんだ
・・すごぉい!・・と
奇跡の粗筋と一覧を覚えることではなく
 
信仰の学びとは
主イエス・キリストが思いを共にして下さる
という孤独からの解放を
人間らしい心の深みにおいて聖書から学び、
また、生きているあいだ考えて
伝えてゆくことなのです。
 
 
同伴と共感

同伴と共感
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
人間が持ちうる
最も良質な
精いっぱいの主への告白は
讃美ではなく恐れである
 
神の全能への恐れと
それを憐れむキリストの共感が
キリストへの共感を生むとき
キリスト信仰は生まれる
 
 
 神への恐れ
 
人間は
神について確信的に知り得ることなど出来はしない。
神は偉大というのは
私たちには知りえないほど偉大だということだ。
神は永遠というのは
私たちには到達できないほど永遠ということだ。
 
そこを取り違えた者たちが
神の言葉を代弁するかのように豪語するのは
"紙の言葉" をもてあそぶことに過ぎない。
 
机上で神をもてあそぶ者たちに惑わされないように
 
私たち人間は
お笑いのように
泣き笑いのように不全であります。
 
先ず
神を恐れることを学んでください。
 
次に
恥ずかしく、泣き、笑われる、私たちに
同伴し、寄り添い、共感し、共感を与える、キリストを覚えてください。
 
 
(2020年04月21日)
(2021年04月23日、加筆して再録)
 
 
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  受け取るべきこと2
 
 
 「キリストは
 いわれなき罪のために十字架につかれました。
 パリサイ人たちが憎いです。」
 
 「何を言っている。
 キリストを殺したのは私たちだ。
 私たちも同じだ。」
 
 
キリストの言動の中で
私たち人間が感動できるのは
キリストの愛に溢れた洞察力と共感力だと思います。
 
何度も言ってきたことですが
物や肉体の奇跡の話は
そういうことをなさる御方なのかと驚きこそすれ
今の時代
物や肉体の奇跡は滅多に起こらない
という現実があるのだから
それを信仰の中心にすることは間違っていると思います。
 
数々の奇跡のみに注目して
いつか起こる、いつか起こると
物や肉体の奇跡を祈り願い待ち望んで
それで人生が終わるのがキリスト者でしょうか。
 
魔法を願って思考停止することを神は人に求めるでしょうか。
神は人を考える存在として造られました。
 
奇跡頼みは、私たちの日常において
考えるべき様々の課題から目を逸らすことになりはしないか。
 
聖書を読むとき、物や肉体の奇跡に驚いても、
現代ではめったに起こっていないわけだから、
そういう奇跡を信じ込んで信仰と呼ぶことは、
共感として受け取ることのできる心の奇跡を疎かにする恐れがあります。
 
超常にこだわることは
日常を疎かにしてゆくでしょう。
 
この地上で
神は魔法によって人を救うのではありません。
神・キリストという全能なる超常は理解の対象ではなく
祈りと希望の拠り所であります。
 
私たち人間が学ぶべきは
神の意志と行為ではありません。
神が、いかにあるかでもありません。
それら神秘を人が知ることはありません。
 
私たち人間が学ぶべきは
神の民である私たちが、いかにあるべきかであります。
聖書を通して、人間を学ぶのであります。
信仰は、他でもなく、人間のためにあります。
そのために聖書は用意されています。
 
救いという心の奇跡は
救いの言葉を繰り返し唱えることではなく
人間として心の共感を大切にすることから与えられます。
 
 奇跡の話ばかりして讃美しまくり
 信仰者の弁えとしての神への恐れを全く無視して
 王様のようにふんぞり返っているが
 実は、自らの人格を信仰の名のもとに破壊して
 まるでケダモノのような卑しさに堕している者がいます。
 
 神の理屈を考えたつもりで
 自分の思想のうちに納まるような
 幼稚な偶像を神と呼んで否定したり肯定たりしながら
 自己の欲求不満を晴らそうとと企む者がいます。
 
 このブログ、そして私は、
 そういう偽善者たちの言動を資料として
 反面教師とするために批判をしています。
 
 信仰は純粋な心の営みです。
 しかし、宗教という名前には、
 誤解と曲解と偽物と偽者とカルトが混ざってきます。
 
 キリスト者が人口の1%、
 百万人と言われていますが、そんなにいるでしょうか。
 その十分の一いたら、奇跡です。
 いや、一人でもいたら、奇跡です。
 私も、真と偽、行ったり来たりしています。
 
物や肉体の奇跡は
人間にとって
わけのわからないことです。
即ち、真似のできないことであり
即ち、心掛けようのないことであり
誰でも与えられる恵みとして
期待するほうが無理ということであります。
日々の務めとして努力しようもないものです。
 
また、情欲の聖句や、敵を愛せよ、など
守れもせぬ教えを
できるだけで守っている気分になっていると
旧約が伝える神と人の絶対的な違いや
新約が伝える神格が人格に与えるものを
疎かにしかねないと危惧しています。
 
冒頭に書いたように
私たちが受け取って感動し共感できるのは
魂の奇跡または心の奇跡と呼んでいるもの
即ち、救われた人々との交流において表されたところの
キリストの愛と洞察と共感であります。
私たちが受け取れるもので
私たちに分かるのは
それ以外にはないと言ってよいと思います。
 
キリストの愛と洞察と共感を聖書から受け取れば
私たちの中で確かに生きてくる賜物となり力となるでしょう。
 
物や肉体の奇跡の成り行きは
御心のままにしかならないものとして
私たちも御心のままにと祈るほかはありません。
 
私たちは自由意志を与えられているのだから
生き方は一人一人違う場面を持っています。
 
教えや聖句について
受け取ったものを固定するべきではないと思います。
 
言葉は
どの国の人にとっても
心と意志の伝達のための暗号です。
言葉を固定して暗唱できるようにしても
心は固定できません。
 
 (創世記、口語訳)1:3
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
 (創世記1:3、旧約聖書)
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)1:1
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
 (ヨハネ書1:1、新約聖書)
 
絶対なのは、神の言葉です。
神と共にある言葉です。
 
人と共にある言葉はしばしば罪を犯します。
人の言葉が絶対となることはありません。
人の言葉は学ぶために伝えるために使われるのです。
 
私たちは成長することで
堕落に対抗することが必要であり
それが可能になるためには
聖書についても、読んだとき聞いたとき
分かったつもりになることを避けて
正直な心で疑問は疑問として保留にしておくべきです。
地上に生きている間は保留にしておくべきです。
新しい理解と広がりの可能性を捨てるべきではないと思います。
 
私たちは
神の言葉を即座に理解するほど優秀では有りません。
さらに私たちは
理解したつもりのことを不変に保持することは出来ません。
心は、揺らぎ、移り変わるからであります。
 
神には起こらない不安定が起こるのが人間であり
"風を追うようなもの" とは、私たちのことであり
その証拠は、私たちの、死すべき定めにおいて明らかであります。
 
私たちの成長は、
成就しても限りあるけれども
それさえも
神の前に、飾ったり、偽ったりする者には
決して達成されることがありません。
 
日々、精いっぱい正直に神に告白し祈ることで
はじめて、ようやく、達成に向かう努力となるでしょう。
 
 
私の言うことを取るも取らぬも読む人の自由です。
しかし、取る、あるいは、取らない、ということを、
今、決めてしまうことも
不完全で罪深い私たち信仰者の成長のあり方ではないと思います。
心に残るなら、時に、考えてほしいと思います。
 
信仰は、思い込みでも信じ込みでもなく、共感であります。
 
悪口に、悪口だけを返すことのないように
侮辱されて、侮辱だけを返すことのないように
憎まれて、憎しみだけに固まることのないように
自分の快楽原則のみで他者を無視するようにならないために
迫害されて、お返しに、害することのないように
自分を守るために、神の名によって、硬く自閉することのないように
悪しき刺激を受けても、心がいつまでも乱れていることのないように
攻撃されても、神の復讐だけを願う生き方にならないように
被害的念慮と他罰的念慮に凝り固まることのないように
神の裁きを求めることが、人の人への復讐祈願にならないように
神を信じることが、他者を呪うことではなく、解放であるように
 
祈っています。拝。
 
 
(私個人の祈りの例)
 
どうか母をお守りください。
どうか兄をお守りください。
亡き父と親族の魂が安らかでありますように。
私が愛する人々と私が思っている人々をどうか守り導いてください。
 
年を重ねるごとに心身の衰えが目立ってきました。
御心ならば、私の痛みと苦しみを取り去ってください。
わが罪をお赦しください。
この罪人をお赦しください。
どうか離れないでください。
 
この祈り、主イエス・キリストの御名を通して
御前にお捧げいたします。アーメン。
 
 
(2020年03月10日)
 
御心、御名、御前の、御は「み」と読んでいます。
 
 
固定しないこと

自由そして解放とは
 
 
(2021年03月12日、再録+)
 
 
  楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·1時間
「宗教法人に課税を」とは、
前は、それもありかも…と思う程度だったけど、
いろいろな意見を読むうちに、
ぜひともそうすべき…という考えに傾いてきております。
 
理由も根拠も書かずに書いています。カルトも伝統宗教も区別せずに、よほど宗教が憎いのでしょう。しかし、その楽山が、嘘吐き・無反省・無責任・無神経では、説得力はゼロです。
 
楽山の感情的な短絡だろうと思います。実行するのに、人も要るし、法制度や条件も整えないといけないし、確認し区別する手間もかかるし、山奥の小さいお寺や、町はずれの小さな教会とか、貧しい信徒に負担がかかるとか、いろいろな問題、・・またしても、楽山は、人についての心遣いの出来ない自己中心の有り様を表しています。
 
自分の欠点を見ない、人の弱みを考えない、共感も同情も感じない、思慮が浅い、何とも思わないで、放言すると気持ちがいい、・・楽山が、自分はそういう人だと自ら表す結果になっています。
 
そういえば・・別のツイッターのプロフィールですが、
 
raku
@rakusyo34
ただの20歳の学生です。Z世代。漫画好き。両親不仲、離婚、いじめ、借金、宗教依存、引きこもり、自分の難病、重度障がい者、HSP、元幸福の科学2世、脱退者。宗教を信じても幸せになれません。#幸福の科学 #不幸の科学 #アンチHS
2020年4月からTwitterを利用しています
 
この経歴も本当かどうか分かりませんが、一応、楽山の宗教憎し・反宗教に、符合するわけです。
 
HNだけの匿名で投稿できて、大方、責任も問いにくい短い書き捨てで、どこまで本当で、どこまで嘘と吐いているのか分からないところが、軽い気持ちや趣味とかで書くだけでなく、さらに、だます目的の人や、嘘吐きや、誹謗中傷したい人や、本音隠しの遊びの人が、ネットに蔓延るスペースになっているのでしょう。
 
問題は、書く内容や書き方次第では、及ぼす結果が、自殺であるとか、詐欺とか、カルト宣伝とか、ただの趣味や気休めでは済まない場合があるということです。
 
 
(2021年03月12日)
 
 
東北大震災の犠牲者:15899人
震災遺児:1698人 ・・・改めて驚く。親戚に?施設?
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  罪人に注ぐ光
 
 2018年11月14日「神か人か」を加筆修正して再録。
 
 
キリストは神か人か
ということがキリスト教を考えるうえで話題となり
論争にさえなるでしょう。
 
私は、基本、決めつけない立場で
事実かどうかは保留しています。
 
しかしキリストが
イエスという名の人だとしても、
福音書を見れば分かるように
物や肉体の奇跡を抜きにしても
イエスは
人を見抜く優れた洞察力と
人の悲しみに寄り添う共感力と
命を賭するほどの愛を持っておられたのです。
 
この御方を、人でした
ということで済ませられるでしょうか。
私には、とても出来ません。
 
二千年前に
悪が善の振りをするという偽善が
悪よりも悪質な
最悪であることを洞察し
厳しく批判し
罪深い人に深く共感して
罪人を救おうとして
承知の上で犠牲となって
殺された御方を
どうして
人でしたと言って済ませて
忘れられるでしょう。
 
 人でしたと済ませて忘れられるのは
 超常奇跡や机上の空論だけで考えて
 心に潤いと温もりのない人だと思います。
 
つまり
神か人かに関わらず
私の心を揺さぶり
大きく変えたイエスという御方は
私の救い主なのです。
すなわち
ただの人では決して済まない御方なのです。
 
私にとって
人間として可能で必要な神認識は
それだけで十分なのです。
 
その告白の時
イエスは、私にとって、
主イエスでありキリストなのです。
 
何故それ以上を
神聖について分かっているふりをするのでしょう。
 
キリスト信仰者の宝は
神の前に、人が無知であること、
つまり
神の完全とは比べ物にならないところの
人の不完全という罪性の自覚であるのに。
 
それゆえにキリストは
今も聖書を通じて総ての人に
正直な罪人が救われることを
宣べ伝えているのです。
 
 
キリストが物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
好事家の議論に過ぎません。
何故なら、現代、あるいは、
あるとき、自分の都合の良いように、
物や肉体に、奇跡は、
少なくとも滅多に起こらないと言えるからです。
 
キリストが二千年前
物や肉体の奇跡を行ったかどうかについては
終末まで保留してよいと思います。
 
人生の成り行きにおいて
奇跡体験を持っている人は
神の導きがあったかもしれない。
 
しかし
その時の奇跡が
都合よく繰り返されるとは限りません。
 
神に祈り願うことと違って、
神が自分の期待通りに奇跡を起こすと信じることは
信仰とは、逆方向であります。
 
後者は神の行為を決めつけて思い込む傲慢です。
期待通りという条件は人の作りもの
すなわち偶像に他なりません。
 
信仰は神への無条件の信頼です。
何も持たずに神の懐に飛び込むことです。
キリスト者をそうさせるのは
キリストからの愛とキリストへの愛であり
それ以外にはありません。
 
神は便利屋ではありません。
個人を守る氏神でもありません。
 
神は神の基準によって人を導きます。
その基準は神の秘密です。
私たちが折々の判断によって動くとき
どこに神の導きがあるかも神秘であります。
 
神が、人の都合に合わせて
人を守るから信じるのではありません。
 
生きているとき
さらに死に臨むとき
人の考え行なえることが尽きたときに
神の導きのみが希望ゆえに
神にお任せするのであります。
 
 
罪人に注ぐ光

罪人に注ぐ光
 
 
 ※
 
 自分は奇跡に守られているという信仰?が
 いかに身勝手で自己中心的で破壊的な人格を作ってしまうかを
 私は、嫌というほど
 ずっと見続ける羽目になっています。(嘆)
 
 
(2018年11月14日アップ)
(2020年11月19日、加筆して再録、さらに修正)
 
好事家(こうずか)≒物好き
 ・・知らなかった。「こうじか」と読んでいました(汗)
羽目(はめ、破目)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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