ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:妄想

 
  楽山の悪あがき2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
  (4)宗教および創造論批判
 2021年09月16日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
楽山の著しい勘違い~妄想が続いています。楽山には、恥という感覚がないので、平気でいられるのです。人のことなど何も考えない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、楽山という人は、平気で投稿できるのでしょう。
 
 
*つづき
前記事につづいて、ドーキンスの名言について感想を書いてみる。
*宗教と願望
不死という観念そのものは、人間の「願望本位の思考法」に迎合するがゆえに生き残り、広まっていく。そしてこの願望本位の思考法というものは無視できない。なぜなら、人間の心理は、信念を願望で潤色するという、ほとんど普遍的な傾向を持つからである
 」
宗教とは何かといえば、結局のところ、願望充足のための手段ではなかろうか。たとえば、永遠の命が欲しい人は永遠の命を果実とする宗教を信じ、上昇志向が強い人は霊格向上を説く宗教を信じ、人類救済のために働きたい人は人類救済を説く宗教を信じ、霊能力に憧れる人は霊能力を獲得する方法を説く宗教を信じるといった具合である。
 
願望充足の手段と言えば否定しやすいだろうという楽山の陰気な顔貌~願望~欲望が表れています。深いところが見えない楽山です。救いとは、悔い改め、罪のゆるし、祈り、絶対孤独からの解放、など考えることが多いのですが、楽山は自分のイドのレベルに合わせて単純な願望充足だと決めつけます。
 
信仰によって、楽山が言うような願望が、はたして充足されるでしょうか。楽山が言っているのはご利益宗教です。それは、折々の願いの動機にはなって、人生を支える救いにはならないのです。楽山は、どこまでも、宗教、特にキリスト教を安っぽく語ってくる知恵足らずなのです。
 
低次元の思い込みで、願望や欲望の充足と受け取ってしまうと、空想による気休めか、空想そのものによる陶酔感になってしまいます。それを、日々、書くことでやっているのが、楽山です。病質によって、実のあることを何も受け取れないために起こることです。
 
 
だから宗教によって知ることができるのは、神のことではなく、真理でもなく、人々はどのような願望を持っているかということになる。宗教とはこの世を超えた大切なことを教えるものというより、人の心の奥に潜んでいる欲望を集積したものだということ。
 
だから宗教によって知ることが出来るのは、救いであって、願望や欲望の充足や仮想の充足が目的ではないのです。そういうことを、楽山は、全く考慮しないか、できないために、決めつけて文句を言ってきます。その結果、言うことの次元が、どんどん低くなり、原始的に、かつ、乱暴になっています。
 
欲望の集積というのは、宗教ではなく、楽山の自我なのです。宗教を貶したつもりで、ブーメランとして、楽山が楽山を表しています。なにせ、楽山には、他には何もないのですから。理性もなく、感性もなく、節操もなく、人と宗教を貶めることに集中して、自分を貶めて、破壊しつつあるのです。
 
 
宗教が平和でなく、争いをもたらすことが多い遠因は、この辺りのことと関連がありそうに思う。
 
ここで、詭弁屋の楽山らしく、宗教を争いの元だという印象操作をしてきます。楽山は、こういう、すり替えか刷り込みしか出来ないことで、既に低次元がバレていることに気づかないのです。短絡や詭弁が、日常語になっているようです。
 
争いをもたらしているのは、楽山のようなサイコパスが宗教に関わることから起こってきます。自己愛の病質のために、教祖願望があり、それこそ、神と同値になりたくて、神を対象物のように扱い、語り、自らの惨めさの代償としています。
 
そして、傲慢不遜となって、自分を絶対正義、他者を不全という決めつけで、上から見下ろして、愚にもつかぬ嘘と詭弁で、人々を操ろうとするのです。その醜い欲望を、丁寧語で糊塗して、印象を刷り込んでくるのが楽山です。決して関わってはいけません。
 
 
*トンデモ批判
私は何か特定の神あるいは神々を批判しているのではない。私はすべての神、そして、いつどこで考案されたもの、あるいは今後されるものであろうとも、あらゆる超自然的なものを批判しているのだ。
 」
この徹底ぶりは、いかにもドーキンスらしい。自分にはとても真似できない姿勢である。
超自然的なものを求めるのは人の性であろうし、この性向は人が人である限り、決して無くならないだろうけれども、それだけにドーキンスの言葉によって迷信や妄想の惑わしから目が覚める人も生まれ続けるだろうな。
 
まず、信仰は、超自然ではありません。一部の、自己顕示欲の強い妄想家が、超常話を豪語するかもしれませんが、信仰は、現実をどう生きるかという問題に、人間理解と共感によって、思いやりの温もりを与え、静かに反省する潤いを与えて、人生を支えるものです。
 
信仰は、楽山のような心の醜い者が悪さをするような生きにくい現実世界にあっても、勇気をもって生きるためにあります。超自然的なものを求める欲望の典型は、楽山です。ずっと、空想の超常に生きて、現実に生きていないのも、楽山です。
 
あらゆる超自然的なものに反感を覚えるなら、著者は、楽山を凶悪な敵として、ボロクソに言ってもおかしくないでしょう。霊が分かるっぽい自覚の楽山は、ネットでの引用は、バレにくいということを好きなだけ悪用して、自我を満足させて、実は、人類の敵になりつつあるのです。
 
超自然的な力、即ち、超常を、何よりも大好きなのが、楽山です。だから、宗教と信仰についても、超常の空想からのストーリーや屁理屈しか言えず、心のテーマと問題を全く扱えません。空想を書いて排泄してくるだけなのです。どこまでも不潔な下水道にしかならない楽山です。
 
 
*正義と宗教
彼ら(テロリストたち)は悪によって突き動かされているわけではない…彼らは…自分たちが正義であり彼らの宗教が語りかけることを忠実に追究しているのだと感じることによって、突き動かされているのである。彼らは精神異常者ではない。彼らは宗教的な理想主義者であり、自分なりに理性的なのである
 」
正義と宗教が結びついた場合、どのような悲劇が起きうるかは、多くの人々が承知していることではある。にも関わらず、この悲劇はなかなかなくならないのだからたまらない。
 
楽山のように、最初から、悪意をもって、宗教と信仰を悲劇の原因とだけみている者は、救われないばかりか、他者のための救いに至る道を閉ざして、悲劇を助長していると言えるでしょう。神の敵、そして、下種の極みらしい発言が明らかになってきました。
 
義人はいないのです。信仰は、正義を得るのではなく、正義ではない不完全を自覚して生きる道です。捏造した妄想と嘘と詭弁を弄して、宗教と信仰をディスっている楽山こそ、救いがたい悲劇の種となります。つまり、楽山は、決して、放置しておいてよい存在ではないことを、自ら証明しています。
 
宗教と信仰の悪い例をもって、全体を否定する楽山の詭弁には、無神教カルトの教祖願望が潜んでいます。楽山がもたらすのは、救いではなく、疲労と徒労と人格破壊です。粘液のような悪意が、蛇のように首に巻き付いてくるので、決して近づかないでください。
 
 
*無知と教育
あなたが若い地球説の信仰者なら、あなたはバカなのじゃなくてただ無知なだけかもしれない。幸い、無知は治癒可能だ。科学本を読んでみると良い。
 」
ただ知らないだけなら学べば済むことであるが、学ぶことを拒否するのであればどうしようもない。
宗教には禁書を指定して信者の学びを妨害するところがあるし、信者は信者で自分は既に真理を知ったと思い込んでさらなる学びの意欲を持たない者がいるから残念だ。
 
無神教カルトの奴隷となっている楽山は、何も学んでいないし、理解していない人です。つまり、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、学習することが出来ない人です。そのために訂正不能になって、日常的に、醜態を演じています。
 
楽山は、奇妙な化粧をして、学者気取りで、実は、学んだのじゃ、偉いのじゃ・・という三文芝居で、読者をだましてまで、自分を偉く偉く見せようとします。実際は、ゴミをまとって人間をやめているのです。おめいているだけの、精神暴走族、あるいは、ネットという路上の狂人でしかありません。
 
何も学ぼうとしない楽山の「知らないだけなら学べば済む」という気安い誘い文句に乗らないでください。無信仰カルトの発想に、単純に賛同して、都合のよい文献を漁って、引用して褒めまくっています。自分の発想も意見も理路も感性も、どこまでも、まとまったことのない楽山です。
 
 
*創造論と天動説
創造論者は現代における、太陽が地球を回ると信じていた天動説支持者と同等だ。しかし、天動説ですら、ある程度の証拠に基づいていた。少なくとも、地球と太陽が存在してることは分かってるからね。
 」
そう言われてみれば、たしかにその通りだ。
天動説は、地球や太陽が存在するという事実から出発しているが、創造論は存在するかどうか分からぬ神は存在すると仮定した上での話になっている。
 
「そう言われてみれば、たしかにその通りだ」・・こういう賛同を示すしかない楽山です。まるで、太鼓持ちです。「存在するかどうか分からぬ神」だからと、愛と共感の感受性のない楽山が、いくら否定しても、不細工なピエロの失敗芸にしかならないのです。みにくいです。
 
無神教カルトは、科学をひけらかします。しかし、宗教と信仰は、科学ではありません。精神世界の救いの話であり、つまり、心の救いなのです。それ以上のことについては、神にお任せすることです。だから、科学的事実を持ち出してきても、話は何も進んでいません。
 
「たしかにその通りだ」などという楽山の誘導に乗らないでください。構造が単純すぎるのです。天動説にも劣るという言い回しで、宗教は愚かだと決めつけています。この根拠の薄弱な決めつけこそ、愚かなのです。いわゆる都合の悪そうな言葉面をもって否定する詭弁です。
 
なお、創造論が、神についてなら、そのような論は成立しません。神は、人の論理などには乗らない御方として仰ぐべき絶対者であります。人には見えませんし聞こえません。聖書と思いを含めた人生の出来事を通して、その存在を暗示しますが、自己中人格には受け皿がないのです。
 
 
*万物の霊長?
大多数の人間の思想家たちは、チンパンジーを出来損ないで見当違いの化け物とみなす一方で、自分たち人間は全能への踏み台だと思っている。進化論者からみればそのようなことはありえない。一つの種を他の種より上に見る客観的根拠など存在しないのだ―ロバート・トリヴァース『利己的な遺伝子』の序文
 」
 
ここもそうですが、今までの著者の言い分は、昔からあるところの進化論と天地創造との論争のように思えます。しかし、科学でも、神学でも、神を語りつくすことは、決して出来ません。このことについて、どちらが真理であるかなどは、ひどい徒労であり、関わっている間、人生は無駄です。
 
宗教と信仰を、科学で否定できるという考えが、まず、幼稚な無理解であります。科学をどんなに追及しても、愛に到達することは出来ません。楽山は、何か、物質的なもので愛を測りたいのでしょうか。それこそ、ひどい詐欺になるでしょう。つまり、楽山は、感性の欠陥を白状しているに過ぎません。
 
 
自分は以前は、人と動物は全然別ものであると考え、両者を同列に論じるのはナンセンスだと思っていた。ただ進化論について自分になりに調べるうちに、人と動物は断絶しているのではなく、連続していると考えるようになってきている。
 
惑わされないでください。そう言えばそうだなどと思わないでください。進化論は仮説です。創造論は宗教からの解釈に過ぎません。楽山は、動物に近い人です。だから、謙虚さが皆無です。分からないと気が済まず、結論の出ないことまで、分かったふうに唾を飛ばします。
 
楽山は、進化のプロセスを知っているわけでもなく、勉強したわけでもなく、ヒトと動物の違いを学んでもいないのです。自己満足の材料を漁っているだけです。無神教カルトに賛同して、そのメンバーになりたいのでしょうか。自分がいちばん偉いと思っている、とても醜い人。
 
 
そしてその結果、他人の不道徳な言動に腹が立つことが減ってきた。その人がそのような生き方をしているのは必ずしも向上心に欠け、精神性が低いせいというわけではなく、幾世代もの長い年月を経てそういう風に進化してきたのであり、本人の意志だけでは変えようもないことであるから、横から苦情を言っても仕方がないと思うようになったのだ。
 
人間の成長と人生を、進化論で片づけようとしています。人間は、一人一人違います。人生も、一人一人違います。腹を立ててもしょうがないですが、楽山のような体質的な傲慢な無理解に対しては、当然、怒りも覚えます。早く退散してほしいと思います。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状として「精神性が低い」ため「向上心に欠け」ていることを、個人の意志では変えようもないと、自分で慰めています。しかし、この記事もそうですが、横から苦情ばかりを執拗に言ってくるのは、楽山その人です。次元の低い八つ当たりなのです。
 
「腹が立つことが減ってきた」・・嘘です。病質の結果として、あらゆる感受性が鈍くなってきたということです。ますます、酷いことになりつつあるのでしょう。楽山には根深い怨念があると思います。それは、しばしば、楽山が理解できなかった宗教と信仰に向かっているのです。
 
 
他の人の場合はどうかはわからないが、自分に関しては「人を裁くな」という宗教的な戒めを守るためには、人は動物とは根本から異なり、霊的に特別な存在だと信じるよりも、進化論的に考えた方がよいらしい。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:1
人をさばくな。自分がさばかれないためである。 
7:2
あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。 
7:3
なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
 (マタイ7:1-3、新約聖書)
 
楽山の嫌がらせでしょうか。よくもまあ、「人を裁くな」を引用したものです。どういう曲解なんでしょう。この聖句は、動物は関係ありません。霊も関係ありません。進化論も関係ありません。良心だけが必要です。人を裁けば、自分がさばかれるという教えです。
 
楽山は、批判と混同する詭弁で、批判するなと言いたいのでしょうか。誰も批判しなかったら、楽山には都合が良いでしょう。しかし、それは、邪悪な自己中の罪を養うようなものです。裁きは、最終的には神に任されます。その成り行きでは、楽山は、批判される・・どころではなくなるでしょう。
 
つまり、人を裁けば、自分も同じように裁かれるということです。一般的には、人のことを言えたガラか・・という言い方もあります。まさに、楽山は、人格がメチャクチャなのに、人のことばかり言っています。楽山には、反省して、学習し、自分を修正する機能がないのです。
 
裁くのは、地上では裁判所、最終と天上では、神であります。しかし、楽山は、この分別さえ持っておらず、自分を裁くな、好きにさせろ、と言っているわけです。楽山は、自分が特別に悪質であることに、指摘されても気づかない人です。だから私は、楽山に読者が近づかないように、批判しています。
 
 
どこまでも寒い人

どこまでも寒い人
 
 
(2021年)
(2022年09月29日、再録+加筆)
 
 
 
  二人の背教者
 
神を信じる者が多いある国に、裕福で知恵と知識に富み人々からも尊敬されている一人の学者がいた。長く神と信仰について学んだすえに、彼は公然と「神はいない」と言い始めた。くりかえし言い、手紙や書物にも書いたので人々はとまどった。彼は指導者であり、その影響力が大きかったからである。
 
他の学者がなだめても改めようとしなかった。多くの人々が、狼狽し、つまずいた。
 
裕福でもなく知識も乏しく人々からも軽んじられていた一人の身なりの貧しい者が彼に会って言った。
 
あなたが神はいないと思うのはあなたの勝手だし、そのために祈りも礼拝もしないとしてもそれもあなたの勝手だ。信仰は誰にも強制されない。あなたは自由である。それだけなら裁きはあなたにだけ及ぶだろうし、私には何の権限もなく、また裁くのは神であって人ではないからだ。
 
しかしあなたは誰もが知るところで公然とそれを言って、神と信仰を否定した。
 
全く神はいないかのような人の世である。まやかしはあっても預言もなければ奇跡もないような災いに満ち、私も教会に礼拝にも行かず私の命は絶え入りそうである。
 
しかし神様だけを頼みとして生きている貧しい人々がいる。あなたが彼らに会い説得し彼らのひとりひとりの人生をすべて背負い、信仰以外の別の方法で彼らを救えるというのなら公然と「神はいない」と言うがよい。
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば自分の信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS的には、悟りの高い人は、相応の実績を示し、世間からも評価されることになってたと思う。
ある意味、悟りの高低は客観的には語れぬが実証は可能ってことかな。
この点、Pさんはツイッター上では自画自賛はあれども、実績および評価に乏しく、悟りの高さは実証できてないですね 顔文字(ぐるぐる目の顔)
 
楽山は、悟りを、高低で表して、実証可能と言って、他者を批判しています。楽山が、悟りというものを、どう考えているかが、恐怖であります。何でも分かる超能力くらいの理解なのでしょうか。
 
悟りは、救いの表れです。偉くなることではありません。
 
楽山は、何か自力の境地のようなものを考えているようです。楽山は、今も、自力の達観のような悟りしか考えることができないようです。自分はどうなのかを、全く考えないで、他者の実績を測って評価し判定するとは、呆れます。
 
楽山は、本当に脱会したアンチなのでしょうか。大いに疑問です。しかも、自己正当化として、自画自賛が、いつも表れてきたのは、楽山であり、見せかけだけの学者気取りも、楽山において顕著なことであります。楽山こそ、何らかの教祖願望ではないかと思われます。
 
信仰において、悟りというなら、それは、人間の心に響くこととして与えられ、高い低いということはありません。救いは、正直な告白の祈りにおける癒しと安らぎであり、孤独からの解放であり、生きるときも、死するときも、救い主の同伴という信仰の恵みを受けることなのです。
 
自分を見ないで、人をあざ笑う楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自分は既に完成しているという妄想なので、それで、反省もせずに、せっせと愚にもつかぬ詭弁の文章を投稿してくるのです。いつも、言い方を変えても、自己中の慢心が表れる物言い・・実に醜いです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、引用が多く、しかも、言葉だけ、べた褒めして、なぞるように、へつらいます。自分の文章が書けず、いつも、都合のよさそうなものに、飛びつくこと、なびくことしか出来ません。独立した人格ではなく、どこまでも、孤立した病質なのです。書くことで明らかになってきたのに、気づかないのです。
 
 
 
風珍について:ヤフーQ&A
 
徴兵が来たら、露者の人は、素直に応じて、獣と弾丸を受け取ってください。そして、一人または複数で、何処を、誰を、狙うべきかを、じっくり考えてください。他国にはどうしようもありません。世界大戦~核戦争になる恐れがあると思います。風珍は、人格障害だと思います。
 
 
 
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  楽山は嘘吐きの権化2
 
 『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠美著
 2021年09月05日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
(ネットより)
片田 珠美(かただ たまみ、1961年 )は、日本の精神科医。
 
このテーマは、楽山に当てはまると思います。結局、自分が斬られている文章なのに、気づかないで利用しようとしている楽山の、悪意と愚かさが表す醜態を、批判として書くことになります。あるいは、書けば、自分は除外されるじゃろ・・と言う魂胆かもしれません。
 
なぜ、楽山は、批判に何も答えられないのに、平気で書いてくるのでしょう。人格に根差している自己正当の妄想があるからです。どんな不都合もオートマチックに、人のせいにするのです。こういう無反省・無責任は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。
 
 
*きっかけ
タイトルから、とある新興宗教の教祖を連想したので試しに読んでみた。いろいろと参考になるところがあったので、その部分についてメモしておきたい。
*空想虚言癖
まず著者は、空想虚言癖の人は、つじつま合わせが巧みだとしている(下線は楽山による)。
 
楽山は、嘘と詭弁を弄する反キリストですが、理性が壊れていて、辻褄合わせが巧みではありませんので、よく読めば、詭弁だらけです。楽山のデタラメの理路と詭弁と嘘は、既に、バレています。楽山だけが、それに気づかない病質であります。
 
 
妄想を抱いている人は、現実世界の事実と自分の妄想が矛盾をきたしたときに、周囲を納得させることができないのに対して、空想虚言癖の人は、新たに虚言を弄し、容易に細部を改変して、周囲をうまく言いくるめることができる。要するに、嘘の上塗りが上手なのである。
(『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠実著、朝日新聞出版、2015年、p.60)
 」
 
楽山に、そっくり、当てはまります。婉曲表現のボンヤリ言語と、お情けちょうだいのオチャラケの三文芝居で、嘘に嘘を重ねて満悦します。そして、矛盾に矛盾を重ねてゆき、自身の人間的な実質を、ますます失ってゆくのです。
 
妄想と空想を分けて、自分は空想しているだけだから精神異常ではないと言いたいのかもしれませんが、楽山が、継続性として訂正不能であることを考えれば、精神異常であり、かつ、現実において、公共において有害であります。そして今も、嘘の上塗りを続けているのです。これは精神病理です。
 
 
また、このような人が「だまそうという意図なんかみじんもないようにふるまえる」理由についてはこう書いている。
嘘をついていながら、なぜそんなふうにふるまえるのかというと、自分の嘘を本当と思い込んでいるからだ。これは空想虚言癖の特徴で、自分の願望を投影した空想と現実を混同していて、何が本当で何が嘘なのか、自分でも区別がつかなくなっているからこそ、嘘八百をよどみなく話せるのである。
(同上、p.59)
 」
どうもこれは、いかにもカルト教祖にいそうなタイプだ。矛盾だらけのトンデモ話を、さも真実を訴えるかのように熱く語ったり、「これは永遠の真理だ」と断言していたことでも、その時の都合によってコロコロ変えたりなど…。
 
これも、楽山という教祖願望の強い偽善者に一致します。楽山は、よくもまあ、この引用記事を選んだものです。自己愛性人格障害の楽山は、間違いにも嘘にも気づかない人だと分かります。トンデモ話を、さも批判しているふうに語りますが、実際は、自己満悦だけの楽山がトンデモなのです。
 
 
*信じ続ける人
こちらでは、嘘を信じ続ける人の心理が説明されている。
嘘つきの周囲には、嘘をつき続けることを可能にし、ときには嘘に拍車をかけるイネイブラーが存在することが多い。一度イネイブラーになってしまうと、嘘の呪縛からなかなか抜け出せない。誰かを信じるということは、その人を信じている自分を信じることでもあるので、嘘の証拠を目の前に突きつけられても、なかなか受け入れられないからである。
(同上、p.41)
 」
 
(ネットより)
イネイブラー(enabler)とは、嗜癖その他の問題行動を陰で助長している身近な人のことをいいます。「世話焼き人」などと訳されることもあります。
たとえば、表向きには夫のアルコール問題で悩んでいるように見える妻が、じつはその問題がなければ自分の価値がなくなってしまうために、夫のアルコール依存を陰で助けている場合などに用いられます。
日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン
 
 
イネイブラーは、付き合いが、ズルズル続いて、他に行きようのない人のことでしょうか。私が、たびたび、楽山に近づかないように関わらないように言っているのは、まさに、このためであります。楽山の書くものは、その丁寧そうな表面とは、かけ離れた危険な誘導に満ちています。
 
 
恥ずかしながら、これは自分にも心当たりがある。
以前、とあるカルトから退会するときに、上で指摘されているような呪縛から抜け出せずに苦労したので…。
 
楽山は、自分が呪縛の被害者であるかのように言っていますが、真っ赤な嘘です。イネイブラーは人です。呪縛と言って済ませられる問題ではありません。楽山は、イネイブラーを求める人です。
 
楽山は、誰かを信じるなどということはありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、自尊以外を必要としません。他者を、支持者か奴隷くらいにしか見ていないと思います。
 
 
少し詳しく説明すれば、
①教祖を信じる(教祖は本物だとした自分の判断力を信じる)
②教祖を信じない(教祖は本物だとした自分の判断の間違いを認める)
という構図になっていたので、②を受け入れるのは、いらぬプライドのせいで難しかったのである。
 
楽山は、自分のほうが上だ、自分が教祖に相応しい、というような構図になっていると思います。だから、ホラー映画も、HSの映画も、右翼の偏りも暴言も、大好きなのです。楽山は、誰も信じることはなく、超常世界と現実世界を、ごちゃ混ぜにした世界チャンポンなんでしょう。
 
何も知らない人が楽山と遣り取りをすると、丁寧でバランスのとれた人と好感をいだきますが、付き合いを続けると、楽山が、人の意見に対して不感不応の的外れ応答の人であるために、精神の疲労から、人によっては、すっかり鈍麻人間になっている、それが楽山症候群なのです。
 
 
*嘘を見抜く方法
本書には、嘘を見抜く方法についても書いてある。
相手の言うことが何となく妙だなと感じたら、その違和感を封印してしまわず、アンテナを張りめぐらすことが必要だ。じっくり観察し、分析しているうちに、相手の正体が見えてくることが多い。
(同上、p.154)
相手を過大評価してしまうと、どうしても目が曇る。そうならないようにするためには、どんな話でもうのみにせず、なぜこんなことを言うのか、こんなことを言う意図はどこにあるのか、などと常に考える習慣をつけなければならない。
(同上、p.153)
他人を疑ってはいけないと思うあまり、自分自身の感覚を封印してしまうのは危険である。そんなふうに感じるときは、これまでの経験や知識から用心しなければならないと本能が自分自身に警告しているのだから、自らの嗅覚を信じるべきだろう。
(同上、p.161)
 」
 
楽山に対して、分析、意図を考える習慣、自分の感受性を注意深く意識して維持する・・こういうことをしないでいると、人格が、鈍麻し、破壊されてゆきます。うすぼんやりとした楽山の奴隷的コピーが出来上がってしまうのです。イネイブラーと言ってもよいでしょう。
 
楽山は、柔らかい表面を装い、鈍いのに、毒の牙を隠し持っていて、喩えるなら、毒を持つ毛虫のような男です。この毛虫には、刺されたことに気づかないことが多く、気づいたときには、心の大事なところに、少なくないダメージを受けているのです。
 
 
「なんか、おかしい」という直感は大事にする、個人崇拝や権威主義に陥らないように注意する、相手の話をうのみにせず、自分の頭でよく考える…これらはどれも正論だと思う。
 
私は、ある時点で、楽山が「なんか、おかしい」と感じました。そのうちに、疑問は、楽山の、理路が詭弁であること、感性が乏しくて月並みな褒め言葉や感動言葉を多用すること、無反省・無責任であること・・などを再三にわたって感じて、批判に転じる決心をしました。
 
 
*過剰反応
著者は、嘘つきの特徴として、他人の嘘に対して過剰反応をしめすことを挙げている。自分自身を相手に投影したり、自分は嘘つきではないことをアピールするためにそのようになるのかもしれない。
こうした否認は、他人がちょっとでも嘘をつくと激しく責めるという形で表れることが多い。
(同上、p.22)
嘘つきほど他人の嘘に敏感なようだ。 
(同上、p.23)
 」
 
この記事のように、楽山は、自分を棚に上げて、他者に対して、逆の過剰反応を示します。他者を批判して、自分を見ないのです。そして、正常人でアドバイザーであるかのようなアピール芝居をします。楽山という嘘吐きは、自分の嘘について恐ろしく鈍感~不感です。
 
 
こういう指摘を読むと、とある新興宗教は、批判者に対して、ちょっとした記憶違いに対しても、悪意ある嘘だと決めつけて非難していたのを思い出す。
他人に対してやたらと差別主義者呼ばわりする人こそが、もっとも質の悪い差別主義者だったということがあるけれども、嘘つきに関してもこれと同じなのだろう。
 
楽山は、記憶力が悪いので、他者の反応が過剰に感じられるのかもしれません。その善後策のつもりで、否定し、のちに肯定するなど、責任を負うこととは逆の、自己正当化の策略を用いるわけです。そういう正当化は成り立たないことを知らないからです。このいい加減さは小学生にも劣ります。
 
 
*これから
著者の本は、『他人を攻撃せずにはいられない人』は読んだことはあるが、他はあまり読んでいない。これを機に他の著作も読んでみたいと思う。
 
楽山が、いくら、読書したつもりでも、受け取って考えることをしないのだから、結局、自己正当化の材料を漁っているだけだと何度も書きました。楽山は、無視して、ずっと読書家気取りで、病害をまき散らし続けています。
 
楽山は、自己愛性人格障害によって、くじけることのない不感不応を貫くことが出来ます。他者を、平気で無視できて、平気で侮辱できるのです。ふつうは出来ません。精神病質ならではのことです。別の言い方をすれば、楽山は、関わる人をイネイブラー化するエナジーバンパイアなのです。
 
自分が言われそうなことを、人に当てはめて言うのは、以前からの、楽山のやり方です。それが分かっているので、驚きもしませんが、よく書けるな・・と、厚かましさと白々しさには、毎度、呆れるので、その都度、批判の決意を新たにしている次第です。
 
私としては、将来、楽山が、間違っても、症例または犯罪者以外の、良い意味でウィキペディアに載ることがあってはならないと思っています。実際、自己愛性人格障害らしいポショポショ言語という気障なしゃべり方をする精神科医は、今も、ウィキペディアに載っているという事実があります。
 
 
 
(ネットより)
 
 自己愛性パーソナリティ障害の診断基準
 
1.自分は非常に重要で偉大な人物だという思い込みがある。それを裏付ける業績や才能を大げさにアピールするが、実際には内容がともなっていない。
 
2.自分の成功、権力、才能、美しさ、愛に関して、現実にそぐわない理想的な幻想にとらわれている。
 
3.自分は一般人とは違う特別な選ばれし者だと信じていて、同じように特別な地位にある人や団体としか関わるべきではない、そういう人たちにしか理解できない人物だと思っている。
 
4.常に他者や世間から、大げさにほめたたえられることを求めている。
 
5.特権意識が高い。周囲は自分に対し、特別有利な対応や意のままに従うのが当然だと思っているが、実際にそのようにされる理由を持ち合わせていない。
 
6.自分の目的達成のために他者を利用する。
 
7.他者の気持ちや欲求や都合を理解しようとしない。
 
8.他者に強烈な嫉妬をする。反対に、周囲が自分の能力や美貌に嫉妬していると決めつけることもある。
 
9.尊大でごうまんな行動や態度が目立つ
 
 
 」
 
楽山について、
 
1、2、3については、学者気取り、インテリ気取り、などの、気取りが筆致に表れています。しかし、それに見合う洞察力や整合性は、むしろ欠けていると思われます。
 
4については、成就しないことからルサンチマン(劣った者に募る怨念)に至る、あるいは、至っている可能性があります。
 
5については、自尊過大で、いつも、言い方だけ丁寧だが、自分の断定を、上から目線で、繰り返してきます。しかし、学習経過が見えてきたことはありません。
 
6については、生活習慣のように有名人の著作を引用して、自己が正当だということをアピールしてきます。しかし、理路は拙劣で、名前にしがみついているだけだと思います。
 
7については、前から書いてきましたが、思いやり、共感性、羞恥心、罪悪感などが欠如しており、悲しみのうちに反省することが出来ません。高等感情の鈍麻が当てはまるでしょう。経験から学ぶことが出来ないのです。
 
8については、筆致には、何を言われても書き続ける執拗さとして表れていますが、これが8なのかどうかは分かりません。既に負けていないと思っているのかもしれません。
 
9については、意識して隠している狡猾さが伴っています。そして、謙虚芝居など、かなり、作為的な白々しい演技が目立ちます。
 
内容が伴っていない、特権意識の根拠が無い、などは、如実に表れてきました。理路も情緒も、知性も感性も、正常以下のレベルだと判断しています。楽山はイネイブラーなのです。
 
 
あざむきの堕ちるところ 永遠

あざむきの堕ちるところ 永遠
 
 
(2021年)
(2022年09月13日、再録+加筆)
 
 
 
 
 信仰について
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔も、その中にある嘘と本当を、ことごとく見抜かれる全知全能の神様に対して、偽りを向けてはならないはずです。
 
信仰は、人間離れしたがっている者たちには、決して理解できません。信仰は、悲しみを感じることの出来る人が、聖書を読んで、キリストが重荷を負う人々に共感することを受け取り、同時に、キリストの悲しみに共感することによって生まれます。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに、自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない者もいるかもしれません。そういう者は、凶暴なカルトと同じです。神という不可知の権威に対する最悪の罪であり、偽善であり、背教です。
 
信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性、特に悲しみへの共感性を、押し殺すようなことをするべきではありません。特に神様の前では、正直な悲しみの告白と祈りができるように努めたいものです。悲しみは正直だからです。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
 すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
  時は過ぎ去る
 
ときは すぎさる
きおく は すぎさらない
きおくは わすれられるより
わすれられたかどうかを
わすれられて
 
たのしいときは すぎさる
たのしい きおくは すぎさらない
たのしい きおくは
かなしいときほど
たのしかったと
なげきのうちに おもいだされて
 
かなしいときは すぎさる
かなしい きおくは すぎさらない
かなしい きおくは
たのしいときほど
かなしかったと
よろこびのうちに おもいだされず
 
かなしいきおくはすぎさらない
ひきずられたり うしろがみをひいたり
なんども なんども
うつむくような おもさと
あじをもって よみがえる
 
さいわい ときは すぎさる
かなしみや くるしみを
たまもの の ように のこして
もし じかんの じく を
くうかんのように みることができたら
だれも 生きる気 になどなれないだろう
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのか
も しらない まま きっと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山という卑怯者には、罪悪感がありません。どこまでも保身を図る自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスなのでしょう。犯罪歴があるかどうかは、ネットでは分かりませんが危険です。関わることが不幸であり、関わらないことが、唯一の防御になります。
 
 
 
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  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター)
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
書けば、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、根拠もなく自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労します。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
 
少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
 
神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、神を信じるというのもいろいろですし、十把一からげに言うのは乱暴なのです。何より、信仰は、霊格などという格の話ではありません。さらに、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格が最低という人もいるわけです。
 
 
宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。
 
まず、宗教や思想は、人を決めつけるためではなく、人を癒し救うためにあります。さらに、人が、宗教や神を決めつけてはいけないことのほうが大事です。何故なら、現に、楽山のように、宗教も、神も、人も、自身の貧相な偏見で決めつける輩(やから)がいるからです。
 
つまり、宗教や思想ではなく、楽山のように、病的人格によって、人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者がいるということです。そういう者は理路も感性も無いので、そういう者に過大評価あるいは過小評価されることには何の意味もありません。
 
楽山は、理路が整っておらず、感性は殆ど皆無であり、さらに、人間にとって大切な、高等感情の、思いやり、羞恥心、罪悪感などが、育っていないのです。評価そのものが出来ない人であり、さらに楽山の宗教は、霊格でも何でもなく、ただの無反省な自分信仰でしかないのです。
 
 
たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。
 
政治的立場が保守だから信仰宗教というのは、政治と宗教を混同した見方であります。さらに、楽山には政治的立ち位置などありません。自らを過大評価しているだけの者には、保守どころか、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。楽山は、ナルシズムが自分信仰に没入しているだけです。
 
 
政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。
 
体のいいことを書いたつもりで、実際は、何も書かないより悪い、というのが、楽山の記事です。今まで表れてきたことは、楽山の「公平」は、上から見下ろして悪口を言うことです。それに、楽山は「努力」しない人です。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な別の分野です。字面だけで、理解していないから「など」と軽く扱います。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる楽山の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように並ぶという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしてくる詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき劣悪なナルシストです。
 
楽山には、無反省の自己中の軸しかないので、公平どころではなく、字面だけを振り回します。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っていて、それが、ああでもないこうでもない、という、婉曲的な言い方の、ボンヤリ言語となっているのでしょう。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。推測ですが、例えば、一般の論理としては、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、何も語っていないし、また、解説も出来ていないということです。
 
楽山は、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間の必然だという視野を持たないのです。要するに、怠慢で、考えるのが嫌で、そこから、柔和で広い視野を捏造し、うわべだけの空っぽ思想になって、しかも、それを自慢しようとするから迷惑なだけになります。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、どっちつかずだったり、成り立たないことを主張したり、知っているふりをして、中庸かつ冷静な言論者気取りの慢心で書いてきます。書いた文章の量だけ、楽山は、読者に対して徒労~堕落を生産し促進しているのです。
 
楽山は、一見よさそうで曖昧な言葉を並べているので、読者が刷り込まれてゆく可能性があり、読者が、楽山自身と同じような鈍化のプロセスを通して、人格の鈍化~破壊の被害者から病因となってゆくでしょう。早く、中身は何もないことに気づいてほしいと思います。
 
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 
これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。
 
ならば、早く、書くのをやめることが、世の中のためです。面倒くさいと言いながら、笑いながら、人を困らせるのは、赦されないことです。
 
「生き神様信仰」や、人間に対する「個人崇拝」は、あり得ません。人間は不完全だからです。「師に学ぶ」というのは、受け取って学習することであり、楽山が、全然、やってこなかったことです。
 
 
ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、いちばん自分を客観視できない楽山が言っています。今まで見てきて、楽山は、信じることと、証明することの区別も出来ず、先入観や偏見から、訂正不能の主観が見解となって固定しています。曖昧な筆致で、狡猾さらに悪質です。
 
信仰は、個人的な体験がベースとなりますから、完全な客観視は出来ないと思います。かといって、主観で決めつけてはいけないのだから、祈りが必要であり、考えることも必要です。どちらも、楽山には全く認められないものです。
 
 
カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。
 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているふうの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。以下の( )内は、補足のつもりでしょうか。
 
 
楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」
 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・楽山の持ち物です。楽山は、結局、否定しているのではなく、つまり、アンチHSではなく、教祖願望から書いているのでしょう。自分の教えが正しいつもりなのでしょう。しかし、楽山の否定でも肯定でもない心無い理屈は、誰も救うことなど出来ません。
 
 
本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。
 
ここが、楽山の無神教カルトの要点であり、不成立の証拠であります。宗教と信仰が人を救うのは、証明されたからではなく、心が動かされ、共感し、忘れられなくなるからです。楽山の言説には皆無のことです。「信仰が真であることをを証明」・・ここで、楽山はアウトです。
 
それに、楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。そういう人に、証明を・・・と要求される人は、気の毒、不運としか言いようがありません。つまり、楽山は、宗教と信仰の性質を考えもせずに、自分の論理=詭弁を自慢して、困らせるだけの存在です。
 
 
この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。
 
楽山は、自分が解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。対話のズレ、と言っている楽山は、誰よりも先入観と偏見によって、ズレが固定しており、殆ど対話が成り立たないレベルであり、偏見と先入観で出来ているような人です。
 
カルト批判は、まず、訂正不能の自分信仰者である楽山自身に向けるべきテーマなのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞ)ましさが表れています。楽山の対話は、楽山が話し始めた時点で甚だしくズレているのです。
 
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」
 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。楽山の言うこと、教えてくることは、誰も救えないような、曖昧で、陳腐な、擦り切れた道徳のようなものです。楽山は、宗教を、楽山風味の退屈さに貶めるだけの、退屈で怠慢な男です。
 
 
どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり
 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
 
信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」
 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。恐らく両方です。必要もなくお節介に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分勝手は、他ならぬ楽山なのです。
 
今まで、それこそ自分勝手な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。楽山は、理路が整わず、理路を乱してゆくような書き方ですから、結局、ブーメランを、誰よりも食らう人なのです。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解していません。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。病質の症状です。ブーメランの痛みも感じないのでしょう。
 
対話になっていないような気がします。どっちが批判者なのでしょう。全部、楽山の独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、自慰行為として、独り芝居をして代償しているのではないだろうかということも考えています。
 
楽山は誰からも相手にされないのが当然とは前から思っていました。こちらが批判しているからか、楽山ブログは、最近ずっと・・いいね、拍手、コメントは、殆どないようです。もし賛成している人がいたら、楽山の詭弁に嵌っている人でしょう。楽山を受け入れる価値は皆無です。
 
 
 
偽牧師シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同も頷(うなず)ける。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また一方、否定の証明もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の、自己中妄想ペテン師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して近寄らないでください。楽山に関わっても、待っているのは、異常な疲労と、人格の鈍麻と破壊だけです。
 
 
人格がゴースト

人格がゴースト
 
 
(2020年)
(2022年09月12日、再録+加筆)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔

外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山には、人格はないのかもしれません。嘘と詭弁の悪い作用しか見ることが出来ません。出力だけで、入力がないのです。言われたことは、記憶にも耳にも入っていないと思います。記憶の、記銘+保持+想起が、自己愛性人格障害のために出来なくなっているのでしょう。これは人格として異様です。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
相手の意見を認めないということは、
まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
<<
 
ドラえもんに事寄せて、また、卑怯なことを言っています。楽山は「自分の意見をしっかり持つ」ことが全く出来ない人です。いちゃもんを書いて、実際は、責任を負う気もないのです。能力の問題以上に、人格と良心の問題において、楽山は、言論において失格です。楽山を相手にしないでください。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカ
 
楽山は、「謙虚」さを微塵も持っていません。楽山は、客観を持たず、自分は整っている、反論できる、という、内実のない妄想的確信で書いてきます。楽山が、どんどん醜く卑怯になっていることに気づかないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は傲慢キャラだとは思ってたが、さすがに、すべてを経験し、すべてを知ってると言い切るほどだとは想像もしてなかったよ(笑
>>※
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:45 · 2022年9月1日·Twitter Web App
 
「(笑 」と書いてあるのは、相手に対する軽蔑と侮辱のしるしです。楽山は、勉強嫌いと怠慢を隠して、間違いははなく知らないこともないという訂正不能の病的な前提から書いているので、気に障ると、笑いと怒りしか返せないのです。怒りを隠して「笑」を入れてくるほうが多いようです。
 
「すべてを経験し、すべてを知ってる」という慢心は、楽山の書いていることを3年以上見てきて、楽山について、ずっと感じることです。また、いつものように、ブーメランとなって、楽山の雑言が、楽山に返ってきています。楽山がアカウントを制限されている理由に関係しているのでしょうか。
 
 
 
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※ 光への接続工事は、9月5日と聞きましたが、書類では9月9日のようです。失礼しました。
 
 
  すいすい曲解する楽山
 
 『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳
 2022年09月04日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
楽山には、正常ならばあるはずの学習機能がありません。学習して成長するということがありません。平板な褒め言葉だけを並べて、一人前のつもりでいられるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。考えても単純な賛同の言葉しか浮かばないのでしょう。
 
そして、楽山自身の人格崩壊が進行したのか、書けば書くほど、ますます浅くなるようです。よかった・・と言うのと同じことしか書けず、正直を忘れた未熟者が、発作的に書いたところで、おおよそ感想文としては小学生レベルであることから、正常な節操を失っているという判断になります。
 
 
*読みやすい本
著者の言葉によれば、本書はダーウィンの『種の起源』を「できるかぎり内容を損なわないよう、簡潔にわかりやすく書き直した本」(p.8)とのことである。
そのわかりやすさはどの程度かというと、『種の起源』を数ページで挫折して完読できなかった自分でも、すいすい読めるくらいである。おかげで最後まで楽しく読めた。これほど読みやすく面白い進化についての本と出会えたのは、ドーキンスの『進化とは何か』以来である。
 
読書を悦びながら、一ページ程度の、しかも、褒め言葉だけのイージーライターが楽山です。つまり、言論の無法者、放浪者ということです。改造バイクではなく、壊れた一輪車に乗って、転んで、また乗って、すぐ止めてしまって、短くて中身の無い一記事でも、数え歌に加えて気持ち良いのでしょう。
 
楽山が「すいすい読める」と言っているのは、すいすい曲解してゆくからでしょう。極めて単純に、自分の自己愛の妄想に合っていることだけを、すいすい飲み込んでゆく楽山の読書のやり方は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)人格を、正当化し、促進し、破壊します。
 
「読みやすく面白い進化」「楽しく最後まで読めた」とだけを書いて、感想文のつもりです。自分なりの評価がなく広がりのない楽山の読書は、巻き込まれてはいけないし、決して鵜呑みにしてはいけないものです。中身の無い単純べた褒めモードを真に受けるならば、楽山の闇に感染するでしょう。
 
 
*自然選択と変化の速度
 個人的には本書の中でもっとも刺激を受けたのは、次の箇所だった。
自然選択は、生物に多様性をもたらす一方で、生物の多様化を抑制するはたらきもしている。
(『超訳 種の起源』ダーウィン著、夏目大訳、技術評論社、2019年、p.82) 
 」
自然界の生物に、飼育栽培されているものほど急激な変化が生じないのはなぜか。それは、個体差の多くが、自然界では、生存にとって不利になるからである。
(同上、p.81)
 」
自然選択は進化を生じさせ、促進するというイメージがあったけれども、これは言われてみれば、なるほどその通りだ。こんな風に自力ではとても思いつけなかったことを教えてもらえるのは有難い。本を読んだり、人の意見を聞くと、こういうことがあるから実に楽しい。
 
楽山は、自分の妄想思想に合わせて読書したことにするのです。、この短い記述で種の起源や進化論を理解したつもりになる軽率さが、楽山の特徴です。「その通り」と言ってますが、楽山は「本を読んだり、人の意見を聞く」ことはありません。結論は、訂正不能に決めつけています。
 
楽山の、妄想に近い決めつけに合っているように読めば、それは「実に楽しい」でしょう。違う意見を、全く受け付けず、全く問題外として、何を言われても、同じことを、ネチネチと言い続けて、うんざりした批判者が去ることを待つやり方は、もはや、正常人の神経では説明できません。
 
楽山の「なるほど」は、なるほど自分の見方に合っているから合格、という、上から見下ろした褒め言葉なので、議論によって深くなる可能性もなく、何かが修正されて新しくなることもなく、楽山の自画自賛おのうちに読書した気分になってしまう習性から、洞察も理解も生まれようもないのです。
 
楽山は、感想を書いても、賛同するために自分と同じ方向の本を読んでいるだけなので、理解の実感を表すことが出来ません。だから、とても単純な褒め言葉「なるほど」「有り難い」「実に面白い」しか書けないのです。反省も学習もしないので、褒めるために選んで読んで、ただ褒めているだけです。
 
 
イージー 安易

イージー 安易
 
 
(2022年09月06日)
 
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
 
成長と老化
 
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
 
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
 
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
 
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
 
自己満悦
それは憎むべき低俗であります
 
自分を愛するためには
自らを省みて
人に共感し
人を愛することを学ぶことが必要です。
 
人を愛せない者に
自分を愛することはできません。
 
 
  希死と質量
 
体重はあるが
質量がない
と自己評価を
重力以上に下げて
死にたいと思ってしまうとき
その陰で軽々しくも罪を
誰かの何かのせいにしてはいないか
 
自ら死にたいと望んだとしても
死ぬことを好む者はいない
死を思う分だけ切実な
生きる願望
死を思う分だけ薄弱な
生きる欲望
当たり前だったはずだから
意識されなかった生きるための条件
 
しばしば希死において考慮されないのは
自己評価は下げるのに
生きているという事実に基づいて
生きる条件を下げる試みである
 
差し迫って今
誰かが何かが殺しに来る予定はなく
仮にあったとすれば
希死にかかわりなく死ぬのであるから
今息をしている
というところまで
条件を下げることが出来たら・・・
とは言っても辛いとは思うのだ
 
体重はあるが質量がない
これが下げるものは重くも軽くもない
量(はか)れない質(たち)なのである
 
 
量れないものを
我欲から高く見積もって
満悦する者は
実に
体重を量って悦び
心の成長を無視して悦び
満悦して人を侮る者となっている
 
そして無条件に
鏡を見て悦ぶのである
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
本ノ猪
@honnoinosisi555
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
 相手の意見を認めないということは、
 まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
 
楽山は、自分の妄想的な意見を訂正不能に持ち、他者の反対意見を、批判できないのに認めません。これは、言論というより、むしろ、そういう恣意の生き方だということです。煽動屋、そして、他者を低く見て、上から決めつけて見なしの結論の塊だけを投石してくるのです。人間の生き方ではありません。
 
なお、人の意見が、公共の福祉に反していて、自己中心で、反省もしないならば、その意見を、決して認めてはいけません。その意見は、しっかりしておらず、身勝手な自己中だからです。その意見に、流されてもいけません。批判が苦手ならば、決別し、関わらないことが、いちばんの批判になります。
 
上のような、楽山のリツイートは、その意味を、楽山の、巣穴のような狭小ワールドで歪曲して、都合よく偏向した自己中正当化に悪用するものです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、このように偏りながら、嘘と詭弁で擦り寄ってきます。決して近づかないでください。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
私が1~3日休むと書いたら、楽山は、すぐ記事を書いてきました。楽山は、ここまで我欲のみに執着しているのでしょうか。楽山が書いたところで、ろくな記事ではないので批判しているわけです。ただ、こういうことから楽山の原始的な自己顕示欲からの無反省がバレてゆくわけです。
 
 
 
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 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む
 2021年08月13日 楽山日記(LD)
 
 
記事の大方は、リンクを貼っているようですが、いつものように、他者の口を借りて、キリスト教と信仰に、いちゃもんを言ってくる卑怯者の楽山です。話にならない人はスルーすると言っていた楽山ですが、いちばん、話にならないのは、楽山です。こちらは、リンクは貼りません。
 
楽山は、訂正不能の腐敗に陥ると、正当なものは、一切、理解できないのに、分かったつもりの、だまし言葉で、立派に見せようとしてくるのが今までの履歴であり、面白くもない偽善の道化なのです。楽山は、他者の都合を一切無視してくるので、楽山の言も一切無視してください。
 
 
*知る喜び
この間から、佐倉哲エッセイ集の「キリスト教に関する来訪者の声」を読み返しているが相変わらず面白く、かつ勉強になる。
以下に、今回特に心に響いたところをメモしておきたい。
 
佐倉哲は、聖書の話を、事実認定のように、ここが違う、ここがおかしいと、ケチをつけてくる人のようです。佐倉哲のプロフィールはホームページに「岡山県出身」「コンピューター・プログラマー(米国在住)」と書いてあるだけで、他のサイトにはないのです。楽山の成りすましかもしれません。
 
先ず、楽山は、勉強をしない人です。それで、読解力のないことが、書くものに表れてきました。そして、いつも、自分の快感につながる都合のよいことを漁っているだけです。その証拠に、読書したはずの楽山の宗教観は、読めたものではないのです。
 
楽山も佐倉哲も、聖書の心、信仰の心を持ちません。だから、一面的で、言っていることに説得力がありません。事実じゃなければ、嘘でしょうか。聖書が伝えているのは、大昔の、あるいは、奇跡の、事実性だけでしょうか、違います。
 
聖書が伝えているのは、人間のための真実なのです。心で読み取れない人には分からないのです。心に響くことを感受できない楽山と佐倉哲は、分からないまま、違う、違う、と言い張っているだけの、反キリスト、そして、妄想前提の無理解なのです。
 
 
*信仰と探究
まずこのやりとりは、自分には真に迫るものがある。以前とある宗教を信じていた時に、「この宗教は正しい。自分は正しい宗教を信じている」という信仰と、「正しい宗教とは何か? この宗教は本当に正しいといえるのか?」という探究心との間で悩んだことがあったので。
・「キリスト教撲滅運動か」
 
どうして、その間に悩むというのでしょう。しかも、言葉だけ探求心と言っていますが、楽山にあるのは、否定前提の、嘲りと悪意の犯罪心理だけです。別個の問題を区別できない楽山が表れています。楽山が「正しい宗教」も、信仰も、書けないのは、読んでも心に響くことがない病質だからです。
 
 
*あれかこれか
これも自分には他人事とは思えないやりとりである。以前信じていた、とある宗教も自由を推奨しつつも正邪善悪をはっきり区分し、二者択一を迫るところがあったので。
・「二者択一の論理」
 
嘘です。楽山には、すべて他人事だと思います。というのは、楽山には、まともな判断力がなく、この記事もそうですが、他人の言うことを、我執と我欲で選んで、もっともらしく、また、問題の的をすり替えて、怪しいと言ってくるだけなのです。
 
 
*内村鑑三
佐倉哲氏がここで紹介している内村鑑三の言葉は、自分にとっては真っ赤に焼けた鉄のようであり、一度触れれば魂に深く焼印を押され、もう二度と忘れることはできなくなるようなものだ。内村鑑三は大きな人だと思う。
・「内村鑑三」
 
楽山は、真っ赤な嘘と、焼けただれた言葉を、記事に貼り付けて送信し、それを、記事とか文章とか稿とか呼んでいるだけです。内村鑑三も、激しいところがあるので、それを、楽山は、好きなように悪用しているのです。最後には楽山自身が焼けただれることも知らずに。
 
楽山は、読む人に、最初は、やんわりと、ついには、消えようのない焼き印のように、刷り込んでゆく無神教カルトの煽動者です。反省もせず、責任も負わないで、楽山が書いてくるところの、丁寧語と、学者気取りに、だまされないようにしてください。
 
 
*生け贄と神観念
ここでは日本人にとって生け贄という考え方が難解である理由が、分かりやすく説明されている。日本的感覚では生け贄を要求する絶対的な権力者は、「やまたのおろち」と同様に悪と受け止められるというのはその通りだと思う。少なくとも自分にはそういう感覚はある。
・「十字架」
・「十字架のあがないと日本人」
 
楽山こそ、生きた人間と、生きた良心を、生け贄として、求めているのでしょう。心の底から腐ってしまうと、このように、人間離れした悪魔性になるということを楽山は示してきました。楽山ブログは、心の蓄えもなく、悪魔性が、インテリ気取りで、書いているインチキブログです。
 
 
*本音と建前
ここでは聖書の無謬性についての本音と建前が語られている。
こういう文章を読んでいると、自分が信じていたとある宗教でも似た考え方があったのを思い出す。普段は「この教えは最高の真理だ。史上、これだけ素晴らしい真理が説かれたことはない」としつつも、その教えに間違いが含まれていることを指摘されると「それは枝葉の部分にすぎません。教えの本質を見てください。この本質においては少しの間違いもありません」というのである。この辺りの本音と建前は、どこの宗教でも変わらないのかもしれぬ。
・「写本・訳本問題」
 
聖書を読んで無謬性の真理が人に分かるでしょうか、否です。聖書は、神の下でキリストの同伴によって、聖書に日々親しみ、人間として生かされる道を教えています。無謬性の真理を知るなどというのは自己満足したい人の欲望に過ぎないのです。人間離れの楽山は、聖書を曲解しているだけです。
 
信仰は、枝葉ではなく、有無の問題です。行為義認ではなく、道徳でもありません。楽山は、信仰を、多からず少なからずの安い楽山レベルの安い道徳におとしめてきました。楽山は、元々、救われたい気持ちもなく、嘘と詭弁で霊能者を気取っているに過ぎません。だまされてはいけません。
 
 
*つづき
つづきは、稿を改めて…。
 
まだ書くという脅しでしょうか・・・楽山の稿は、疲労と徒労の入り口です。あらゆる問題を無視して書いてくる楽山の文章には、今まで、説得力も、本心も、見られたことはありません。表れてくるのは、嘘と詭弁とペテンと悪意だけです。どうか、楽山と佐倉哲を、相手にしないでください。
 
 
独り芝居で自分がいなくなる人

独り芝居で自分がいなくなる人
 
 
(2021年)
(2022年08月25日、再録+加筆)
 
 
 
 2021年08月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
*発言集
では、コピペ批判に関連した発言を貼ります。
 
いつものように、他者のことばかり言ってくる楽山です。
 
コピペブログをやってる人たちは、自分では文章は書けないけど、幸福の科学の教えは広めたいという気持ちから、せっせとコピペ記事作成してるのだろうし、きちんとコピペ元を明示してリンクを貼ってるなら、よしとしてあげてもいいような気はするけど、どうだろう。甘すぎるかな。
でも信者村では、コピペブログはいくつもあるし、ガンさんはいくつものブログに噛みついた形になっちゃってるな。
 
楽山こそ、ツイートを貼りつけるのが好きなコピペマンです。自分では、理路が組み立てられず、共感が得られず、筋の通ったことが何も書けないからでしょう。一貫性もなく、反対して、賛成して、責任問題は発生しないなどと言っていました。
 
弱気の筆致で描いていますが、これは、楽山の芝居で、トホホ言語と呼んでいます。責任を薄くするための、お道化の一種でしょう。楽山は、「きちんとコピペ元を明示」しているでしょうか。「>」の使い方が雑ですし、リンクを付ける作業も怠っており、怠け者らしい書き方です。
 
楽山は、自分の意見に軸がないので、他者から、特に、有名人の本から、都合のいい文言を引っ張ってきます。誤解とかは考えず、自分のために、有名人さえも利用して、自分も同じレベルだと、学者やインテリを気取ります。そして、責任は、一切、負わないのです。
 
 
相変わらず、コピペブログ批判をしてるようだ。
傍から見てると、ブログの方針にしても、アンチへの対応にしても、それぞれのブログによってちがっていていいと思うのだが、それじゃあダメなのかなあ。
 
ボンヤリ言語「かなあ」が出ています。いい加減なことしか言えず、責任を負う気のない者の筆致です。それで、言ったことの責任がなくなることはありません。「ちがっていていい」と言って、引用して、責任は負わないわけです。そういう引用は、いちばん厄介でしょう。
 
 
「信者ブログはこうあるべきだ」「アンチにはこのように対処すべきだ」という自分なりのポリシーを持つのは悪いことではないだろうけど、他人も自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎのように思える。
 
「こうあるべきだ」に対して、別のあり方を提示して説明することが、楽山には、できないのです。だから、何でも、議論も、言論も、投稿も、ブログも、リンクも、本の引用も、すべて、いい加減になってゆくのは、無責任の結果でしょう。楽山には自己愛性人格障害の病識がありません。
 
責任を負わないのなら、意見を言うべきではありません。自分のしっかりした意見が、楽山には、ないのです。楽山の人生観は、言いたいこと言って、気が変わったら、訂正も反省もせずに、好き勝手に、違うことを言ってもいいという考えなのでしょうか。だとしたら、社会人ではありません。
 
他にも、書いてありますが、似たようなものですし、お情けちょうだいの「かなあ」「だなあ」「なかろうか」の、ボンヤリ言語・トホホ言語で、まるで、おねだりしているような筆致は、臭くて、読むに耐えません。
 
「自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎ」という言い方で、違ってていい → ゆえに勝手に書いている自分も正しい、という自己正当化です。他に、人それぞれ、自分を貫く、などという言葉を無条件に一般則にして、自己中を正当化してきました。日本語を知らないのでしょうか。
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
 
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と
祈りともつかぬ最後の独り言を
今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
 
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる習いから
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くかろうとも
正視しなければならない
 
そう気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
  あの世
 
明け方バイクに乗って山の上から
雲海を眺めていた
太陽、雲、あらゆる光
この目はうばわれて、どこか
この世にいなかった
翌朝、山のふもとの道
雲海の雲の中を走っていたのだろう
体はバイクの上で冷たく濡れていった
急に開ける視界
いつのまにか朝日をあびて
シャツが乾いて汚れていた
体はうばわれて、どこか
この世を離れていた
 
昼下がり、車のフロントガラスから
太陽を隠す大きな雲
そのふちは輝き、やわらかい輪郭の
空の上から下へ
隠された太陽から放射状にまっすぐ広がって
注ぐ光、光の帯
天国への階段かと
虹を思い出そうとして
色をうばわれて、どこか
この世に別れを告げていた
 
太陽は神ではない
しかしときに自然が見せる
とくに太陽にまつわる
この世ならぬ感覚は
ある種の喪失か自己消滅か
あの世
でもいいけれど
信じているものは求めて目に見えず
信じたい世界では
信じたい人々からは
信じるべきものは目に見えて闇のようだ
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
成長と老化
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 
(※ なお、いつもキレイごとを書いている無反省の自己愛は病気です)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
与国さんなりに、自分に正直に、真摯に、命がけで意見を述べたのに、
霊的に悪い波動を受けての発言ですね、反省行に打ち込んでください、で済まされたんじゃ、たまったもんじゃないな。
まあHSでは、教祖、教団に不都合な意見は「下のものに言わせられてる」で片付けられるのが当たり前なんだけど。
午前7:09 · 2021年8月13日
 
「霊的に悪い波動」は霊能者気取りの楽山の嘘と詭弁のことでしょうか。楽山は、ふつうに生きてるつもりなのでしょうか。教団の不都合を言いながら、一方では、キリスト信仰をおとしめて、右翼思想家を讃えて、霊やホラーに気を奪われて、他者の気を奪っている超・無反省・無責任の楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、一般人とはちょっと違う特別な自分が大好きなナルちゃんキャラですね。
純文学の主人公によくいるタイプ(笑
引用ツイート
Rダークネス【幸福の科学はカルト宗教】
(画像省略)
@darknessV321
 · 8月23日
教祖のヤバいポエム。
午後7:11 · 2022年8月23日·Twitter Web App
 
教組がナルシストだと言いたいのでしょうか。楽山もナルシストで、自慢できるものは何もなく、それで、ますます自己中になって、嘘を吐き、人をだまして、迷惑ばかり掛けているのです。また、自分を見ないで、他者をけなしている楽山です。ずっと、笑い続けるしかないのでしょう。
 
「一般人とはちょっと違う特別な自分」を笑う資格は楽山にはありません。楽山は、一般人の良心も良識も持たず、無反省で無責任で、笑いながら人を貶すのが生き甲斐のようです。自分が、カルト同然の単方向になっていることも気づかず、ずっと"(笑"っているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
嘘を吐き続け、詭弁を遊んで、それで、言い分が通ったと思い込む精神は、明らかに病質です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。記事で嘘を吐き、ツイッターで嘘を吐き、引用を曲げて自分の言い分に見せかけて褒めてきた楽山です。人間としての自分が無いのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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