ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:妄想

 
  無責任の楽山が批評(2)?
 
 2022年05月07日
 信者と批判者の対話(3)降りかかる火の粉
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山 
  抜粋して批判。
 
 
楽山と遣り取りをして、社交だけではなく、反対意見を言うと、火の粉が降りかかってきます。楽山は、自身が批判されたときに返すだけの、まともな理路を持っていません。だから、社交の世辞と褒めてくれる人しか相手に出来ないのです。人格障害だからです。
 
 
*つづき
前記事のつづき。
*まえおき
今朝、ツイッターを見たら、初夏氏が拙ブログを話題にしていました。場所は、ここです↓
(省略)
ご覧いただければ分かるように、初夏氏のツイートは、文章の区切りと、ツイートの区切りが一致していないので分かりにくい。
ここでは分かりやすさを優先して、文章の区切りによって引用し、その感想を書くことにしたいと思います。それでは本題に入ります。
 
楽山の文章は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の我執から書いているので、真に分かりやすい文章は書けません。世辞か社交か、同じことを繰り返してくるかでしょう。そして、こちらを粘着するストーカー扱いしてきます。知性も感性も障害されている人です。
 
 
*悪癖
 まず初夏氏は、当ブログの記事について、こう書いてます。
昨日、久々に「退屈な文章」を読みました。
多数の誤解に満ちているので一文書いておきます。
①>ツイートを消して逃げることを「卑怯」と言わずして、なんと表現したらいいのだろうか?
②>根拠のない乱暴な決めつけであれば「暴言」
③>信者である(中略)大川隆法を批判することは、神を冒涜する行為(中略)信者の論理にすぎない。(中略)まずは〈大川隆法=神〉であることを証明(中略)無理である。
 初夏氏は、不必要な煽り、印象操作をする癖がありますが、それがここでも出てます。「退屈な文章」「多数の誤解」というのがそれです。
 また初夏氏は、相変わらず引用ルールを無視してます。引用するときには、きちんと引用元のアドレスなどを明示しないと、読者は、批判、引用、引用元を確認した上で判断をすることができないでしょうに。
 
楽山は、悪口を言うことだけは達者なようですが、批判の理路ではなく、相手を責めることだけが目的です。指摘はするけれど、他者の欠点を書いて、自らのことについては、全く反省しない人です。無反省、無責任、訂正不能で、書いて、公開して、褒められたいという我欲だけだと思います。
 
 
*ごまかし
①私がツイートを消す理由は「他者を傷つけるかもしれない文章を長々と掲示する事は悪行だから」です。これは社会通念と完全に一致します。③とも関連しますが、アンチ思想に立てば、消されれば困りますよね。
他者を気遣ってツイートを消した場合は、同じツイートは二度としないものです。「あんなことを言って申し訳ないことをした。もう二度と言うまい」というように。
でも初夏氏は、ツイートを削除しては、また同じツイートをすることを繰り返しています。自分のツイートに批判リプがつくと、それを消して同じツイートをやりなおすということもしてる。
上の説明では、こんな風に消したツイートと同じツイートをする理由にはなりません。よって上の理由は、後付のごまかしです。
 
どう見ても理路の苦手な人を、いじめることに快感を覚えるようです。分析や理路に見せかけたことを書いてきますが、自らは、全く責任を負う気がありません。以前、楽山は、否定を書き、肯定を書いたから、責任問題は生じない・・などと言っていました。そういう、いい加減さが、楽山の特徴です。
 
心理学を心霊として解釈したり、論理を書こうとして矛盾だらけになって訳の分からない結論を書いたり、曖昧な命題を勝手に拡大解釈して自己正当化の根拠?にしたりと、だますための嘘と詭弁しか持っていないようです。AならばB・・などといった論理学の初歩の話で混乱させてきたりもします。
 
 
*独り決め
②『アンチ論法』『「神様」のいる家で育ちました(第5話)の批判』等は、キッチリとした根拠に基づく結論です。企業秘密なので詳細は言えませんが・・・
人はだれでも、自分はきちんとした根拠に基づいて意見をいっていると思ってるものです。
だから自分で自分の意見には、きちんとした根拠があると言ってもしょうがないです。
 
楽山は、修正が出来ない人です。都合が悪くなると、スルーすると言って無視します。ときに、常軌を逸したような長い文章や多数の記事を、読者のことなど考えずに、衝動的に書いてきます。他者に分かりやすく書く、根拠を示して説明する、などが、楽山は出来ません。理路を養っていないからです。
 
 
*詭弁
③これは分かりやすい詭弁です。既に画像に記しているように「画像や言葉の対象が皆様の家族であった場合(中略) それが答えです」という事です。自身の好悪がどうであれ、他人の両親へは一定の敬意を払うのが常識です。→
2022-05-07 x
公人を批判することと、一般人を批判することを同列に扱うのは詭弁です。
 
曖昧な命題を、個別の、たとえば自分に当てはめて、また、逆に、個別のことを、一般則みたいに扱って、混乱して、混乱させるやり方ですが、初期には世辞が入るので、分かりにくいこともあります。数か月遣り取りをしたことがあり、徒労と疲労を受け取るだけでした。相手にしてはいけない人です。
 
 
*聖職者
同じく、多数の人が敬愛する人物を「私は興味が無いから」という理由で罵倒してはならない事も常識です。
私はそういうことをした覚えはないので、誰を念頭において書いているのか分かりませんが、宗教家は聖職者であろうから、よりいっそう厳しい目で見られるのは当たり前のことです。
ましてや、神を自称したならば、相当の批判、非難、嘲笑がまきおこるのもやむを得ないことです。それが嫌なら、そんなことは言わないことです。
 
楽山は、有名人の著書を読んで、自分に都合のよいところだけを引用して、自己満足する生業です。間違いを自覚できず修正しません。そういうことが、批判を始めて約3年も続いています。言論から退却するべきですが、病質のために、何とも思わずに続けていられる、これも、症状なのです。
 
 
*ごちゃまぜ
ちなみに、画像がHSの教えです。 
2022-05-07 O
何かを信じるか信じないかという問題であれば、人格者かどうかは関係あるかもしれません。
でも何かが有るか無いかという問題と、人格者かどうかは別のことです。
これらをごっちゃにしてはダメです。
 
信じるか信じないか、という問題と、有るか無いか、という問題は、どちらも、人格が関係ないとはいえないでしょう。楽山は、霊能気取りと評論家気取りがあり、何も信じてなどいないと思いますが、混乱と疲労を意図的に与えることは愚かな悪であり、それらを、ごっちゃにして、整理できていません。
 
 
*おまけ
他所で書いたことだけども、誹謗中傷に対しては、私は心の教えの実践で対応します。
2022-05-04 1人を信じ、世を信じ、神を信じよ
2022-05-04 2弱き善人であってはならない
2022-05-04 3 奪う愛はいけない
2022-05-04 4相手を変えようとするのではなく
この他には、批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるものであるから、ありがたく頂き、反省の材料にすればよいという教えもあったでしょう。自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくるという教えもあったでしょう。
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
「批判というものは自分の至らぬところを教えてくれるもの」ならば、楽山は、批判を受け取るべきですが、実際には、都合の悪いことは全て無視してきました。実に、白々しい、そして、頑強な悪意を表しています。正気でないから、このような、心にもないことが言えるのです。
 
「自分が他人にしたことは、やがて自分に戻ってくる」・・それが、ずっと起こっているのですが、楽山に自覚は見られません。真っ赤な嘘であり、キレイごとを言って、ごまかそうとしています。いちばん、反しているのが自分なのに、まるで気づきません。
 
 
初夏氏は、他人の言葉が気になって仕方がないタイプのようですが、心の教えを学び、実践したらいいと思います。
 
楽山は、「他人の言葉が」全く気にならず、無視できる人です。そうやって生きてきたのでしょう。だから、いつも、軽々しく物を言います。自分の発言が自分を斬っていることに、まるで気づかないのです。破綻だらけなのに何度も言ってくる楽山のような人と交わると、人格を破壊される恐れがあります。
 
 
◇◆ 追記 2022.5.7 ◆◇
*忘れ物
初夏氏のはじめのツイートについて、感想を書くのを忘れてたので、ここに書いておきます
画像に記していますが、文句・悪口・挑発・アンチ論法でない限り「否定・裁き・論破」は行いません。しかし先日の某氏は、私が指摘しているように『暴言・開き直り・悪口・ズルい行動・逃げ回る姿』が著しい人でした。だから論破させて頂きました。
 
楽山は、自己中なことしか言いませんから、「論破」など出来ない人です。他者を混乱させて、参らせて、退かせるのです。楽山の屁理屈のペースに嵌ってはいけません。それは、人を傷つけて悦ぶサイコパスの所業なのです。いかなる議論にも論争にも、楽山は参加する資格のない人です。
 
 
その遺恨から、当人や彼のお友達達から、→
私へのゴウゴウとした悪口が湧き上がっています。心を鎮める事をお勧めします。
まず結論からいうと、ここでも初夏氏の悪癖がでています。それは何かというと、事実と認識判断をごちゃまぜにする癖です。
 
楽山は、宗教も信仰も知りません。頭の中にこしらえた概念を神と見なして侮辱する無神教カルトの一人です。楽山は、自己愛から、世辞は言っても、執拗に繰り返される罠であり、聖書にあるような人を獲る漁師ではなく、人を傷つける狼の性根だと思います。
 
 
たとえば初夏氏は、次のことを書いています。
某氏には、暴言、悪口などがあった
某氏を論破した
某氏とその友人らから恨まれ、悪口を言われた
これらはすべて、初夏氏がそのように認識したということにすぎません、でも初夏氏はさも事実であるかのように書いています。
このように、事実と認識判断をごちゃまぜにして印象操作をするのは、初夏氏の悪い癖です。
 
楽山は、相手の弱みにつけ込みます。自分の弱みを知りません。自己中のために、理路は小学生並みになり、学習と成長がなく、感性は殆どありません。つまり、思いやっているような優しさ芝居はするけれど、心の温もりと潤い、本当の優しさと悲しみを持っていません。言葉面に騙されないでください。
 
 
ちなみに、まともな人は、事実と認識判断はきちんと区別しています。
 
楽山は、それが出来ない人です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のサイコパスには出来ないのです。出来ているかのような言い方は、楽山の保身に過ぎません。恐ろしいほどの先入観と偏見だけが妄想的に楽山を支配しています。
 
 
たとえば、上でいえば、きちんと某氏の発言を提示して事実を示した上で、自分はこれは暴言と判断したと書くものです。悪口、開き直り、逃げ回る姿、論破などについても、そのようにするでしょう。
 
楽山にとって、事実も真実も判断も、自己愛の世界で決めているので、客観性がありません。優しさ気取りの暴言者であります。スルーすると言って無視、衝動書き、嫌がらせ、嘘と詭弁、手段を選ばない傲慢不遜を隠しながら、餌を待っている、どす黒い人です。どうか近づかないでください。
 
 
初夏氏は、もし本当に対話を望むのであれば、ここのところはよく理解してほしいと思います。
 
人間として必要なことを、何も理解できていない楽山が言っています。それこそスルーでいいと思います。そして、決して関わらないでください。遣り取りしないでください。近づかないでください。楽山は、遣り取りと議論の対象として、甚だしく失格です。
 
 
ところで少し話は変わりますが、初夏氏のスクショ嫌いは、事実と認識判断の区別をせず、〈認識判断=事実〉と安易に考えてしまいがちで、そのためにスクショ提示の必要性が理解できないことも一因でしょう。この点についても、よく考えてみることをおすすめします。
 
楽山は、妄想と偏見ベースの誤信念による判断です。罪悪感がないので、平気で、嘘を吐き、傷つけてきます。そういう場合、丁寧語こそが、いっそう、傷を大きくします。つまり、楽山は、丁寧に、傷つけてくる人なのです。この丁寧さは、だんだん、最悪の鬱陶しさから悲劇になるでしょう。
 
言論は、事実と当為があるわけですが、楽山は、事実だの証拠だのと言ってきます。楽山の事実には多くの嘘があり、さらに、詭弁で捻じ曲げられています。楽山は、当為つまり「べき」の付くことは、殆ど持っていません。我欲が勝っているからです。
 
楽山は、事実をねじ曲げます。そして、どうするべきという節操の当為がないのです。批判してきた3年余り、楽山に対する最悪という判断は、楽山の記事を読むたびに強化されるだけであります。乱暴者だと分かるほうが、よっぽどマシだろう、という私の批判経験の積み重ねになっています。
 
 
 
 2022年05月06日
 信者と批判者の対話(2)大川隆法は神なのか?
  抜粋して批判。
 
楽山の論理モドキの卑怯さは、楽山が、罪悪感のない、一方通行しか持ち合わせず、とても卑怯な、自分のことを棚に上げたまま、人を批判し、傷つけ、あざ笑うというやり方です。しかも、それは、真実の追求とは何の関係もなく、楽山の我欲からの欲求に過ぎず、百害あって一利なしなのです。
 
 
*はぐらかし
最後に、感想を一言。
初夏氏は、いつも質問には答えず、はぐらかしてばかりなのだが、今回もそうなっている。
大川隆法が神であることを証明できるようなことを言いながら、結局、その話から逃げてばかりいる。
こりゃダメだ。
 
はぐらかしも、逃げてばかりも、楽山の得意技です。それによって、楽山の評価は、ますます、どこまでもどこまでも地獄のように堕ちてきたのです。いちばん卑怯で、いちばん「ダメ」なのは楽山です。
 
 
つまり初夏氏の主張は、〈大川隆法は神である〉という信仰に基づいているのだ。だから、教団内では通用しても、教団外では説得力は持たない。〈大川隆法は神である〉と証明できない限りは…。
 
神を証明しろ・・というのは、キリスト教について、楽山と無神教カルトが、声高に言い続けていることですが、まだ言っているということは、学習能力がないのでしょう。神を証明できたら、信じる必要はないということです。ずっと、この愚かな、いちゃもんのままなのでしょう。
 
 
もしこの証明をなくして、教団外に強要したら、それは信仰の押し付けでしかない。信仰への配慮、尊重を求めることは間違いではなかろうが、「神である大川隆法への冒涜は許されない。大川隆法を神のごとく敬え」というところまで行ったら、それは無茶である。
 
信仰における愛とか共感とかを、楽山は全く理解できないので、語ることが出来ません。神と人の関係と結びつきは、少なくとも、破れた革のような、楽山の概念では、分からないままなのです。そういう人は、この世の厄介者として生きるしかないのでしょう。
 
 
初夏氏にはこの辺りの道理を理解してほしいものだと思う。もしこの道理をわきまえず、自らの信仰による正義を振り回すなら、このような悲劇をもたらすことになるだろう。そんなことは避けるのが吉である。
 
他者に言う前に、自分が道理を理解していないのだから、楽山の丁寧を装った暴論は、思想にならず、学問にならず、共感にならず、ゆえに、愛にも見放されているようです。愛と悲しみの代わりに、笑いと憎しみを育ててきたサイコパスの楽山は、真実の敵です。
 
 
楽山は、資格のない者が、他者を批評・批判すると、身の程を弁えない、資格がない、といった評価が付いて回ることに気づかないのでしょうか。なお、楽山は、ツイッターを非公開にしましたが、また、公開に戻したようです。どういう不安定な心境で生きているのでしょう。
 
 
我が身を省みない者

我が身を省みない者
 
 
(2022年05月09日)
 
 
 
  弱気の塊
 
弱気の固まり?
弱気は固くなれないから
弱気の垂れ・流れ
垂れ流しの趣(おもむ)くままに
川を下る
 
下る傾向は持っている
遡(さかのぼ)ること
くよくよと辿(たど)ることはあっても
決して上ることはない
 
石を積む子供らはいるか
積んで崩れた石だけで
子供らのいない河原はあるか
コロイドでもヘドロでもいいが
海へ出て拡散して
海の塩になれるだろうか
 
時間の量子と波動のように
弁別も理解もできない川下へ
樹木は動かず
枝は揺れず
草は靡(なび)かず
波は風を呼ばない
波は寄せるが
水は水としての形を持たない
 
その水よりも弱く
在って在り続けよ
水は命を育(はぐく)み
ときに命を奪う
 
一滴の水にさえ
寿命は勝てないのだ
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻(くちづけ)は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る

まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない

吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
どこまでも、どこまでも、人の言うことを聞かず、世辞と社交と、何か言われると、嫌がらせだけで、生きてゆけると感じてしまうところから、楽山の人生は、すでに限界を見せてきたのでしょう。多くの不祥事が隠されているような気がします。全部、人のせいにしてきたから。
 
 
 
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  楽山の邪魔2
 
 幸福の科学とは何だろう? 楽山ブログ
 建造物侵入騒動の行方(「幸福の科学」広報チャンネルの動画と個人的な感想)
 2021年03月21日 ツイッター引用を含む。
  改めて批判。
 
 
勝手に言いたい放題言うのが、楽山の趣味であり、それゆえに、役に立たない曖昧な意見が、正当な雰囲気を出して、言論を乱すことになります。真実の追求という大切な問題に、思いつきだけの楽山の口が侵入して、迷惑を省みないという邪魔になっています。
 
*個人的な感想
前記事に貼った関連記事を読み、当該動画を見て、疑問に思ったところをつぶやいてみたので、それもここに保存しておきたい。
 
無反省・無責任の楽山の言は、本当に、余計な、つぶやき以上ではありません。真に受けると、真っ当な理路が、かえって混乱し、真実を見失うことにしかならないでしょう。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
これは正論とは思うのだが、
各種報道では、藤倉氏はHSに批判的な記事を書いたゆえに、HSから出入り禁止されたことを裁判所は認めたとしてる。
そのため、これは「言論は自由です。でもHSに不利な発言をしたら、相応の責任をとってもらいます」と聞こえてしまう。。😰
 
言論の自由には、責任が伴うという当たり前のことです。それを、楽山は、不当だと言っているのでしょうか。ただし、言論の責任を果たすことは、言論においてなされるべきであります。言論したら強制排除、というのは、言論の自由を脅かす行為であり、明らかに不当なのです。
 
楽山は分からないのでしょうか。また的を外しているようです。不都合を無視し続けているのです。つまり、楽山は、自由と、自分勝手を、混同しているのです。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
独裁国家では、移動、取材、写真撮影には許可がいるが、
日本は独裁国家ではないから、移動、取材、写真撮影は原則自由だと思ってたけど、これは間違いなのだろうか。
そりゃあ、権利者の了解を得るのがマナーだろうが、どんなところでもそうしなければならないというのは極論すぎるのでは?
 
楽山は、原則とは何かを書いていません。賛成でも反対でも公共の福祉に反しない限りにおいて自由であります。旅行で風景写真を撮るのは、大方、自由でしょう。「権利者の了解を得るのがマナー」ではありません。反対意見を言うのに、いちいち、そんなことできないからです。
 
許可の必要な施設や場所や秘密の場所はあるでしょう。そういうところでは、前もって、そういう表示をすることになるでしょう。そういう表示が為されていなければ自由なはずです。事情の詳細が分からないし、私のテーマではないので、この件は、ここまでとします。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
教団側は施設内の平穏を乱されたかのように主張するが、監視カメラ画像を見る限りは、特に平穏が乱されているようには見えないというのが正直な感想です。
内部撮影については、信者数1100万以上と称する教団の実態を知る上で、人影なく閑散とした施設内の様子をとらえることに価値はあるでしょう。
 
上と同じで、画像だけで「特に平穏が乱されているようには見えない」と言うような、楽山のボンヤリ曖昧言語や、また「様子をとらえることに価値はあるでしょう」という楽山の主観の価値判断で決められることでもありません。
 
語る資格のない者が、自己中の主観で物を言えば、こういう勝手なメッセージになるということです。
 
 
*偏向してる?
もしかしたら、上のツイートを見て、「あなたは教団に批判的にすぎる」という感想を持つ人もいるかもしれない。
これについては、自分は次の二つのことを念頭に置いて考えをまとめているとこたえておきたい。
まず一つは、今回の件は次の流れの中で生じたものだということである。
 
楽山の、言いたい放題の無知で無恥な言論も、流れの中で明らかになってきました。楽山は、自分の流れだけは、分からないようです。今回も、他者の悪の追及だけをして気分がよさそうです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしく、自己満足が全てなのです。
 
 
当初は、幸福の科学と藤倉善郎氏とは、極端に険悪な間柄ではなかった。職員の里村氏と藤倉氏とのおもしろい掛け合いもあったように思う。
 
具体的に書かずに、「おもしろい掛け合いもあった」ことが、険悪ではなかったことの根拠になるでしょうか。裁判に関わる問題を、まことに、法に関わることについて、自分の欠点にはまるで気づかず、楽しみたいだけの評論家気取りの楽山は、面白半分の、雑談か冗談のような言い方で書いています。
 
何よりも、根拠が示されておらず、結論からの主張を言い張っているだけなのです。現状に居合わせたのなら、あるいは、詳しく情報収集したのなら、そう書くべきですが、そうではないのでしょう。裁判を裁くなら、裁判相当の根拠が必要です。
 
他人事を、趣味で扱って、好きなように言って満悦する楽山の自己愛性病質が表れています。流れに乗って漂流するしかない者の、ちょっと見ただけの無根拠の思い込みだということでしょう。楽山には、裁判を云々する資格も能力もないと思います。
 
司法の流れがおかしいと言って根拠を示せないなら、ブログ記事としては、自分の持っている思想からの根拠を書くべできですが、そういう一貫性のある思想を、楽山は、まるで持っていないのです。結局、楽山は、揶揄しか書けないのに、評論家気取りで、印象を刷り込んでくるだけなのです。
 
なお、趣味のブログであるなら、控えめに書いているかと言えば、語尾だけ「ように思う」と書いて、実際は、断定することを面白がっているのです。野次馬評論では、真実の追求の邪魔としているだけになります。今までも、無反省と無責任によって、何事につけ、雑言を書いてくるだけでした。
 
 
①本件公訴提起は公訴権濫用にあたるか
→弁護人は本件の公訴提起は(中略)公訴権濫用にあたり公訴が棄却されるべきである旨主張する。しかし、(中略)弁護人の主張は採用できない 
・やや日刊カルト新聞: 「曖昧な判決」「報道の自由は死んだ」建造物侵入事件で執行猶予付き罰金判決を受けたジャーナリストが弁護団と会見
 」
自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれないが、藤倉氏への施設立ち入り禁止は批判的言論の封殺、報復であろうことを認めながら、今回の件は公訴権濫用ではなく、施設内に立ち入ってもならぬと結論づけるのは、どうにもつじつまが合わず、捻じれがあるように思えてならない。
 
専門家でないなら、一ブロガー発信として、的外れにならないような書き方をするべきです。自己愛者の楽山には、それが出来ないのです。分かっているような書き方をして、「自分は専門家ではないので的外れの感想になってしまっているかもしれない」と書いても、とても臭い言い逃れに過ぎません。
 
裁判所が、必ずしも正しいとは言いませんが、事件ごとにバランスを取っているということはあるでしょう。それが正しいかどうかは、楽山のような自己中の単純命題で出来ている思考には判断できないことです。事の重大性を、何も考えず、大きなテーマに、外野から、無遠慮に書いている楽山です。
 
極めて幼稚な考え方として、司法は、いつも、同じ側の味方をしなければならない、という決めつけの先入観的な定理があるようにも思われます。楽山は、病的自己愛からの思いつき以上のことは、理路が拡散して、まともな思考ができず、進めば進むほど破綻してゆく生業です。
 
 
この件はこれで終わりではなく、まだ続きがあるようだが、この判決は改められる可能性はどのくらいあるのだろうか。どうなるかはわからないが、この件は引き続き注視していきたいと思う。
 
楽山は、いつも、かっこつけて、出てきては、もっともらしいことを書いたつもりで、そのたびにピント外れだけが明らかになってきました。注視すると言っていますが、今まで、不注意な記事とツイートばかり書いてきたのです。真実追求において、楽山の破綻した理路は邪魔になるだけです。
 
カルト的で未熟な精神と、訂正不能の超越意識で、客観的に書けると思っている病質者ほど、厄介なものはないということが、今回も、うんざりするほど明確に表れているのです。人の言うことを聞かずに、言い張る、ということが続いている楽山には、正義感ぶるほど、罪と悪と偽善が、バレてゆくでしょう。
 
カルトの元信者というのは、カルトから抜けて、カルト批判者として、回復した人間性を発揮してゆくのでしょう。しかし、楽山は、元HS信者と言いながら、霊が分かるっぽい自覚から、自身のカルト妄想へと悪化し変性しているのです。楽山の言は、陰気な執着以上に整ったことがありません。
 
しかも、楽山の思想は、主張すれば、人を疲労させ、傷つけるだけですから、真面目な人間関係を持つことが出来ないのでしょう。好きなように、その都度、別の複数のHNで成りすましているようです。年齢・職業不詳で、隠していますが、恐らく、リアルならば、ひどいことになっている人です。
 
つまり、楽山の人生は、心霊大好きなだけで、自分は特別と思いたいための、反宗教と、右翼思想と、無神教カルト妄想とを、浮浪者のように、さまよい歩いているのです。楽山は、自らの不遇から、敵意・悪意だけを育ててきたのだろうと思います。
 
楽山は、いろいろなことに、インテリ評論家気取りで、自己満悦から口を出してきます。私は、その楽山の口出しが、楽山の人格障害による身の程知らずの症状であり、無反省で、無責任な、偽善の悪趣味であることを、3年余り、追及し、批判しています。
 
 
自己中無神教カルト教祖願望

自己中無神教カルト教祖願望
 
 
(2021年)
(2022年03月26日、再録+加筆)
 
 
 
  神の非存在証明?(抜粋)
 
この世で人は見えざる神・聞こえざる神に祈りを捧げることができます。
 
ある日死にました。そしてあの世あるいは天国へ行きました。そこで神に会いました。もうこの世を離れ聖なる領域に召されたのだから神に会っても何の不思議もありません。
 
しかし神に会っているその場において、さらに見えざる神・聞こえざる神に祈ることができます。それゆえ今会っている神は偽者ということになり、その世界に死があれば死んで、経緯はどうあれ、さらなるあの世・さらなる高次の世界へ行ったとします。そこでまた神に会います、しかしそこでもやはり見えざる聞こえざる神に祈ることができます。
 
この神も偽者と、さらに高次の世界へ・・でも同じことの繰り返し・・どんなに高次の世界へ行っても本物の神に会うことはできません。本物の神の姿を見ることも声を聞くこともできず、それゆえ神の御旨・真意を知ることもできません。これは実質的に神は存在しないことと同じではないか。
 
もうお気づきと思いますが、以上述べた神の非存在証明モドキは明らかに詭弁です。何故ならこの世にいたときと同じ意識で考えることを前提としているからです。死後にあの世や天国があるとしても、そこで人がこの世と同じ意識や思考を持ちうるという保証も法則もないのです。
 
「御使いのようなもので・・・」というキリストの言葉もあります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
 22:29-30
イエスは答えて言われた、「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。 復活の時には、彼らはめとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである。
 (マタイ22:29、新約聖書)
 
  (抜粋)
 
垢のような慈愛と善意は
容易に偽善と悪意に変わる
私の眼の色は容易に変わる
しかもどちらかではなく
しばしばそれらは混ざり合っている
眼の色は容易に濁る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、嘘と詭弁を書いて、バレると、さらに詭弁をつないで書いて、詭弁に詭弁をつないで、ついには、荒らし根性剥き出しの破綻した雑言を繰り出し、馬脚を露(あらわ)わしてきました。嘘吐きを「人間の性」なんて成り立ちません。自らの病的体質を、人間共通のものにして正当化する幼稚な詭弁です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  他者を巻き込む楽山
 
 妄想に巻き込まれた人たち(st対策)
 2022-03-18 楽山日記(a)
 
 
楽山は、私が、以前、批判していた対象のHNを持ち出して、注意喚起?のような記事を書いてきました。悪い噂、あるいは、デマ宣伝のような記事になっています。楽山は、元々、そういうことを書く人なのでしょう。つまり、楽山は、理解できず、弁明できず、言いがかりだけになっています。
  
半ばパニックかもしれません。こういうときの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は犯罪性が高くなります。今、ネットにおいて、悪質ゆえに、注意・警戒して、かつ、決して近寄ってはいけないのが、まさに、楽山その人です。
 
前と同様、引用されたコメントは画像で、かつ、楽山の恣意によって選択されている可能性があるので、相手にしません。引用しやすいテキストで表そうとせず、弁明・批判する余地も理路もなくしてしまう者の、狼狽の因業と見るべきでしょう。こうはなりたくないものです。
 
 
*妄想(1)
以前、st氏はこんな主張を繰り返していた。
「シャロームから酷い被害を受けた。シャロームはカルトであり、サイコパスだ。新たな被害者を出さないためには、シャロームを批判し、その危険性を皆に知らしめる必要がある。誰もシャロームに近づいてはいけない」(要約)
 
シャロームは偽牧師のペテン師です。そのインチキについては何度も書いたのに、楽山は、仲間だからでしょうか、また、書いてきます。つまり、楽山は、それまでの批判を全く受け取らずに書きまくる暴走の人だということです。
 
精神が未熟で、退行していて、まるで、わがままな子どものケンカのように、悪口と無駄口ばかりで、いちゃもんをつけて、前に進まない文章になっています。それで、ちゃんと書いたつもりになるのです。文章とか、理路とかを、整える動機も能力もない楽山です。
 
 
*妄想(2) 
でもその後は、相手をシャローム氏から楽山に変えて、こんなことをいうようになった。
「楽山から酷い被害を受けた。楽山はカルトであり、サイコパスだ。新たな被害者を出さないためには、楽山を批判し、その危険性を皆に知らしめる必要がある。誰も楽山に近づいてはいけない」(要約)
 
そのとおりです。私自身が、楽山と遣り取りをして、何の糧(かて)にもならない異常な疲労を経験しました。楽山は、無神教カルト、精神病質サイコパス、ゆえに危険性を知らせる必要があるのです。誰も楽山に近づいてはいけないと思います。楽山は、思考が枯渇して、新しいことを書けないのです。
 
 
*被害者
ところで、この妄想の被害者は、シャローム氏や私だけではない。私が知るだけでも、マグマリ、ヨシュア、mine氏などがいた。
 
自称マグダラマリアは、一見柔和ですが、批判すると、人が変わったように怒りだし「ケロッ」「プププ」などと意味不明なことを言って、メチャクチャ罵詈雑言を向けてくるキリスト教系カルトです。
 
自称ヨシュアは、「神の教えを守って完全になる」などと言って、キリスト信仰の敬虔・謙虚・神への恐れ・・などを全く弁えておらず、ひどい罵詈雑言で、サーバーに記事を削除されたこともあります。
 
それにしても、楽山の、自分の言論だけではどうにもならず、人を巻き込んで、平気でいいられる性癖は、信頼を失わせることに気づきもせず、自己中を誇るかのような傲慢な筆致となっています。楽山、シャロームshalom、易坊に共通する厚顔無恥の、罪をなすりつける偽善者ぶりなのです。
 
mine氏については、疑問を感じましたが、継続的に批判していたわけではありません。楽山は、もはや、手段を選ばず、こちらをおとしめたいようです。これが、楽山の正体です。たちのわるい荒らし、品格も何もない下種(げす)なのです。冷静に見える態度は、真っ赤な嘘の芝居なのです。
 
 
シャローム氏の証言では、こんなこともあったという。
st氏は誰かをカルトだと思い込み、粘着、攻撃することを繰り返してきたのだ。おそらくは今後も同じことを繰り返すのだろう。
 
批判を、「粘着」「攻撃」と言っています。これも、前に指摘したことです。楽山の、何も受け取らず、考えず、自己愛からの我執の正当化をして、批判者を侮辱する体質的欠陥が、一種のパニックとして表れています。知性と感性が鈍麻して、経験からの学習の出来ない楽山は、雑言リピーターのようです。
 
 
*根深さ
では、この妄想の根深さはどのくらいかといえば、それは次の発言から察することができる。
https://magtaranomaria.blog.fc2.com/blog-entry-7979.html
http://st5402jp.livedoor.blog/archives/4202269.html
どうやら、st氏の脳内では、自分は凶悪なカルトと命懸けで戦っているということになっているらしい。これはかなり深刻な状態といえるのではないだろうか。
 
楽山は、冷静さは見かけだけで、内実は、凶悪なカルト妄想者です。病識も罪悪感もないのです。私の命は、既に、老人ですから、そう長くはないでしょう。だからこそ、誰も、楽山の被害に遭わないように、注意喚起しています。楽山は、サイコパスらしい悪意で、全く反省もせず、中傷だけの筆致です。
 
 
*注意
st氏は上のような妄想を抱いているせいか、友好的に接している相手であっても、ちょっとした切っ掛けでカルトだと決めつけて口撃に転じることがある。たとえば、こんな風に↓
「今、あなたの正体が分かった。あなたはカルトだ。これまで善人芝居で、私を騙していたのだ。新たな被害者が出るのを防ぐために、批判記事を書き、その危険性を皆に知らせます!」(要約)
 
楽山の言は、結論に始まり結論に終わって固定されたままの被害妄想で、進みようのない訂正不能の開かずの扉から、小児期からの "霊が分かるっぽい?" 自慰的自認から、狭い視野の主張をお漏らししてきます。相手を「決めつけ」だと「決めつけ」るだけの貧相世界に棲んでいるのです。
 
「ちょっとした切っ掛け」どころではなく、楽山の病質は、とんでもない悪意だと、もうずいぶん前に気づいたから、批判しています。カルトというのも、病質というのも、楽山は、「決めつけ」だと言いながら、その根拠を示せません。相当に粗暴な精神の持ち主です。
 
 
私はこれをやられたし、シャローム氏もそうだったらしい。
「ウソの国ー詩と宗教」のst氏と話をする人は、私やシャローム氏のようにならないためにも、よくよく気をつけてほしいと思う。
 
批判を受け取ることの出来ない楽山は、自分の加害を全く自覚できず、自分を「やられた」被害者としてしか見ることが出来ません。批判を批判として受け止めず、楽山は、私が攻撃したという訂正不能の被害者意識で書いてきます。なお、楽山・シャローム・易坊には、同一成りすましを疑っています。
 
楽山に、真面目に議論したい人がつかまると、疲労し人格破壊をきたす恐れがあります。楽山とは、世辞以外、交流~議論不可と判断しています。楽山には、理路も、共感も、成り立ちません。知能も感受性も、元々かどうかは知りませんが、低下・鈍麻しています。
 
楽山は、他にもあるかもしれないが、3つのブログ「楽山日記(a)」「楽山日記(LD)」「幸福の科学とは何だろう?」、そして、3つ以上のツイッターなどのHN、それらを利用して、曖昧なボンヤリ言語、お情けちょうだい芝居のトホホ言語を、単方向で発信する荒らしです。
 
楽山は、自己中心、自己愛妄想、無反省、無責任、無理解、無神経、無思考、応答・双方向不能、不感不応、学習不能、偏見固着、訂正不能、高等感情鈍麻、詭弁、嘘吐き、堂々巡り、エナジーバンパイア、罪悪感欠如、人格破壊、等々です。どうか、精神衛生を守るために、決して楽山に近づかないでください。
 
 
焼かれる 焼ける

焼かれる 焼ける
 
 
(2022年03月20日)
 
 
 
 (断片引用)
 
質素な食卓で食べた果実は
禁断の果実ではなかったか
苛立つ頭を巻き込んで
胸がやけ
後頭部に響く強い酸が上がってきた
充血した眼で唾液を引きずり
塊が糸を引いて連なり
胃の底まで吐き出してしまった
 
赤い実は溶けかかっていたが
子供の頃から知っているような気がした
 
森の中で見つけて眺めていた
今、火の内臓にしみこんでいく
 
血の流れを黒く染めながら
絶え入るばかりの罪の流れだった
 
聖なる嘔吐に清められたかった
暗い床の凹凸に伏していた
動物のように邪気もなく
信じられるものを求めていた
 
 
  夕陽に奪われて
 
エンジンを切るとき
一日は静けさに奪われる
 
置いたヘルメットの上にも
弧を与えて光の切れ味を引いている
 
同じ景色は一つとしてないけれど
正しい形容は一つとしてないけれど
激しく傷ついて天地を巻き込み
夕焼けと呼ばれてこんなにも涼しい
 
子供の頃からいつも無条件で
老いることを知らない
誰に所有されることもない
 
その一かけらも
持って帰ることを許さないのなら
いずれ老いて果てる私の
一生を静けさで奪ってくれ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 」
 
 
良心・良識がなく、病識もない楽山は、罪悪感がないから「謝罪」が出来ないのです。楽山は、やさしい人柄に見える表面的な筆致しかなく、世辞で誘って、話が込み入ってくると詭弁の迷路に誘導します。世辞だけなら普通に見えるかもしれませんが、真面目に相手をすると、破壊的疲労を与えてきます。
 
楽山の、この記事もそうでしょう。双方向の気遣いが全く見られません。ゆえに、批判を理解できず、受け取らず、全部、批判者のせいにします。批判に対して、底意地の悪い嫌がらせや、中傷を当てることしか出来ません。交流の場に、いてはならない病質者だと判断しています。
 
問題は、はるかに大きいのです。いちいち、楽山の言うことに従うことこそが、人格破壊の罠となっています。むしろ、楽山が勧めることには、一切、従わないくらいの気持ちが必要です。それでも表れてくる、塵埃のような、鬱陶しい、心無い、洞察も共感もない、楽山の筆致を問題とします。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
久しぶりに、st氏のブログを見たら、
シャローム氏が、楽山の読書感想文を批判するなら、その本を読んでからにすべきではないかと注意し、
st氏が、その必要はないと答えてる場面があった。
st氏は真面目に書いてるといいつつ、こういう手抜きをするからよくない。
 
読んでないなら批判するな・・という意味の、楽山のツイートです。楽山らしい、楽山くさい、婉曲、丁寧装いの筆致です。いつまで、乱暴な本性を隠せているつもりなのでしょう。楽山の乱暴・粗暴は、楽山が書いてくる文章の文脈に表れてきたのです。イエスマンしかいない楽山が気づかないだけです。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
読んでないなら、そのことを正直に明示した上で、控えめに感想を述べるのが普通なのに、st氏の場合はそれでも非難糾弾してくるからおかしい。
そういや、いつぞやは、HS教義の記事に、その知識なしに的外れの文句つけてきてたな…。
 
私が読んでないというのは、楽山が読んだつもりの本のことです。私は、むしろ、楽山が、いかに、本を恣意的に受け取り、都合の良い文言と意味だけを利用~悪用しているかを書いてきました。原本を読んでないことをもって自分への批判を不成立と見なすような、楽山の恣意に従うことはしません。
 
 
 
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  心の理論3
 
   楽山日記(LD)
   に対する私の批判「心の理論」
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。殆ど妄想だと思います。楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。
 
今回、「心の理論」という心理学の話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
(ネットより)
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
マクシ課題
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 
 」
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路になるでしょう。楽山は、思った以上に理解力がないようです。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。これは、私たちが「心の理論」を持っているかどうかということです。大方の人は正解を出せるでしょう。楽山は、心霊の話に持ってゆくという恐ろしい誤謬に至っています。
 
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、子供だけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達しているということです。
 
発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
心の理論は、心理学的な理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
自他の誤信念を考えること、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 
 
先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)
 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 
 
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、言い換えると、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。
 
既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが「感じないっぽい」ことを異常のように楽山は言っていますが、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 
 
もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。
 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは「分からない」と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは「感じるもの」だ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。ボンヤリ言語の詭弁となっています。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常が分かるという自分を表しています。それは、そのまま、楽山の誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、異常で、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感受性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を全く理解しないまま妄想に結びつけて、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 
 
ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉
 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。これが、楽山の、だましの理路と自己正当化なのです。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の楽山が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
心理学である「心の理論」は心理学という学問であり、スピリチュアルっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、その意を全く理解していないばかりか、注意を向けてもいません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。自閉症にしては、厚かましい男です。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は「専門家ではないので確かなことは言えない」と言いながら、著しい誤謬を、堂々と披露しています。
 
「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 
 
・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
 
このサイトに書いていること:
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だと言うためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百の超常カルト妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者の教祖願望からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあります。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 
誤謬 妄想

誤謬 妄想
 
 
(2019年03月31日)
(2021年03月02日)
(2022年03月08日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  不眠と対抗(一部)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中

無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
元々妄想癖のある楽山が、宗教や、カルトや、超常アニメ、などを好むのは、他に何も出来ないことからの必然かもしれません。著しく現実感を欠いているから、今も、いつものように好きなことをやっているつもりなのでしょう。人は人、自分は自分、・・その自分の狂気に、今も気づかないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の嘘プロパガンダ
 
 他人の妄想に巻き込まれた人たち
 2022年03月02日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、ネトウヨだから、嘘のプロパガンダをするのに慣れているのでしょう。こうはなりたくないものです。しかし、一般に、ネトウヨは、プロパガンダをしても、相手を侮辱するというのは、あまり見たことはないです。ネトウヨは自分の味方をしてほしいという目的だからです。
 
だから、楽山は、一般のネトウヨよりも悪質と言えます。嘘を吐き、詭弁を弄して、平気で相手を侮辱することで、自己満悦だけを求めているからです。もはや、人間として付き合うとか説得するとかは無意味になっています。触ってはいけない有害物質として情報を拡散するしかないのです。
 
 
*妄想
st氏の過去コメントを読み返して思ったけど、彼はこんな妄想を繰り返し語っている。
「シャロームから酷い被害を受けた。シャロームはカルトであり、サイコパスだ。新たな被害者を出さないためには、シャロームを批判し、その危険性を皆に知らしめる必要がある。誰もシャロームに近づいてはいけない」(要約)
 
シャロームshalomは「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」と言って墓穴を掘りました。そんなキリスト信仰は、あり得ないからです。楽山は、それを肯定しました。二人については、仲間か、成りすましを疑っていますが、何もキリスト信仰について理解していないことがバレています。
 
シャロームと楽山は、放置すれば、計り知れない害を与えるだろうと思っています。楽山とシャロームについては、まさに「その危険性を皆に知らしめる必要がある」のです。誰も、楽山と「シャロームに近づいてはいけない」と思って批判を続けています。
 
 
聞くところによれば、シャローム氏とその周辺の人たちは、この妄想のせいで多大な迷惑を被ったという。
 
楽山は、「迷惑」と書けば、被害者として、読者が味方に付いてくれると思っているのでしょうか。自分が批判されると、相手を加害者に仕立て上げるのは、批判を理解できない自己中には当たり前に起こる症状です。批判を糧(かて)とせず被害と受け取るのは、議論が出来ない単方向の荒らしの特徴です。
 
 
*本当の被害者
 st氏は自分を被害者としているが、シャローム氏の証言によれば、実際のところはそうとばかりも言えないらしいのだ。
2022-02-22 (12)シャロームさんの本音/読みたい本は
2022-02-22 (14)メーリング・リスト/読みたい本は
・st問題資料集(4_3)st氏の過去、数人もの被害者? ★
 
被害者は、私だけではないと思います。実際、毎度書いている「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」というコメントもあります。
 
私の被害は、楽山との遣り取りで、実に、無駄な時間を費やして、疲労と徒労だけを受け取ったということです。私が、自分のためだけに批判しているのではないことは、書いてきたと思うし、文章からも分かることです。同時に楽山の文章理解力の欠如が分かります。
 
引用されているコメントは、楽山と同じような体質を持つシャロームの、ずっと前のコメントですから、当てになりませし、毎度、批判されにくいように画像で出してくる楽山の根性の悪さを再確認しています。こういうやり方で、当てつけてくる楽山の低劣さを再認識します。
 
私が要求しているのは、もはや、謝罪ではありません。二人が謝罪しても、その謝罪自体が、もはや信頼できないからです。楽山とシャロームは、ネットの言論から永久に撤退するか追放されるべきです。ネットにおける言論の詐欺師、ペテン師、嘘吐き、偽善者だと思っています。
 
 
結局、st氏が「シャロームに近づいてはいけない。話してはいけない」(要約)と繰り返していたのは、こういう情報を知られることを怖れいてたためかもしれない。
 
今ごろ、そういうことを言って満悦するのか・・という気持ちです。むしろ、「こういう情報」・・敷衍(ふえん)してください、というより、敷衍されるように書いてきました。私が「怖れてい」ることより、楽山とシャロームが、同じようなことを繰り返すことこそ、恐ろしいことだと判断しています。
 
 
*変化
ところで昨今は、st氏の妄想はこのように変化しているようだ。
「楽山から酷い被害を受けた。楽山はカルトであり、サイコパスだ。新たな被害者を出さないためには、楽山を批判し、その危険性を皆に知らしめる必要がある。誰も楽山に近づいてはいけない」(要約)
他人の妄想の主人公にされるというのは嫌なものだが、この妄想は対象を取り替えつつ、ずうっと続いていきそうだし、他の人が主人公にされて苦しめられるよりは、いっそずうっと自分が主人公でもいいかなとも思う。
 
批判対象が、シャローム、そして、増えて、仲間か成りすましの、楽山となってきたのです。「対象を取り替え」たのではなく、シャロームは、今、所在不明です。ゆえに、批判対象は、経過として、専ら楽山になっているということです。
 
「他の人が主人公にされて苦しめられるよりは、いっそずうっと自分が主人公でもいいかな」・・ならば、この記事は書いていないはずです。バレバレの嘘を吐く楽山です。また、批判対象は「主人公」ではなく、楽山という嘘吐きの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
楽山は、妄想の対象ではなく、批判されると批判者を加害者だと決めつける被害妄想症の病者です。楽山の、言いがかりの詭弁は、いつものことですが、楽山は脳と心の理解力がないので、こちらを加害者と言い張るしかなく、ゆえに、さらにブーメランで、加害者の無能を証明しているのです。
 
 
*ほぼ被害なし
幸いといったらいいかどうか、私はシャローム氏ほど顔は広くないので、この妄想を信じ込んで、私を非難してくる人は見当たらない。せいぜい、「幸福の科学」信者が二名、これを真に受けていたくらいである。この点は不幸中の幸いと言えるだろう。
 
ネットにおける楽山の顔は、小さくなり、潰れてゆく必然があります。不幸中の幸いは、楽山のブーメラン返しの無意味さと、楽山へのブーメラン返しによって、楽山の言うことが、ますます、どんどん、くだらなくなってきたことです。
 
 
*記録
とはいえ、事実が歪められて拡散されるのはおもしろくない。
また、モラハラ被害の防止のためには記録を残すのも大切なのだという。
モラル・ハラスメント
@mayawhite222
その者は、記憶の塗り替え、事実の隠蔽がうまい。さらに、周囲への情報操作もするため、気づくとこちらが悪者にされていることがある。なので、事実確認や記録の意味でも、自身が受けてきた被害をツイートすることは重要。
午前8:14 · 2022年2月23日·twittbot.net
 」
 
これらは、楽山のやってきたことです。このように、偽善の病質者は、相手を加害者、自分を被害者と決めつけて、自分が言われていることを相手に向けてきます。消耗させるためです。原始的な詭弁の常套手段なのでしょう。楽山の人格が、破れた張りぼてみたいになって、とても醜い現象です。
 
 
というわけで、先日から、過去のコメント欄でのやりとりを読みやすい形にして記事にした次第である。
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
・st問題資料集
これは結構な分量であるが、st氏、シャローム氏、楽山との間で何があったのかに興味のある人は、自分の目で見て判断してほしい。
タイトルの末尾に「★」のある記事は、st氏という人物と、この問題のポイントを知る上で重要なコメントが含まれるものなので、それだけ読めば、この問題の大筋は分かってもらえると思う。
 
楽山からの攻撃 = 楽山へのブーメランとなってゆきます。直接の弁明が出来ないために、楽山が狂ったように書いてきた「st問題資料集」・・興味ある人はどうぞ見てください・・ですが、楽山によって、楽山の都合に合わせて、コメントの選択が為されている可能性があります。
 
私のブログの楽山批判のほうは、大方、3年分以上のの批判記事です。再録・加筆もあって、さらに、辛辣になっているかもしれませんが、表現上、文脈上、新しいほうが、私の本心に、より近いと思います。蝿ならば、殺虫剤で済みますが、楽山に対しては、根気が必要です。
 
このように、楽山は、訂正不能で、いかなる恥も感受できないために、不屈の悪意をもって、さらに力を入れてくると思います。力を入れれば入れるほど、かえって破れ目から悪疫の悪い浸出液が漏れ出て、楽山が楽山を、ますます駄目にしてゆくでしょう。何も気づかない楽山です。
 
楽山が、こちらを罵倒してくるのは、自己愛に支配されて、無謬の妄想に固定して、どこまでも、批判者が劣っているという見下ろす立場しか持たないからです。反応が固定されているわけですから、本人によらず、客観的事実によって否定するしかありません。
 
楽山の自己愛性においては、楽山に反対するものは、皆、悪ということになります。独裁者のエゴイストの理路ですから信用するに値しません。恐らく、楽山は、今まで、そういうやり方で、反対者を退けてきたのでしょう。とても原始的で臭いやり方です。楽山を放屁や排泄物に喩えるのはそのためです。
 
楽山に都合のよいように選別されたコメントの、どこが読みやすいのでしょう。楽山は追いつめられると手段を選びません。気をつけてください。楽山は危ない人です。それが、自己愛性人格障害なのです。こういう人が、ネットにいて語ることが、既に、とても異常です。そのための今回の批判なのです。
 
真っ当な自尊心がない楽山は、ねじ曲げることに躊躇しません。今までの経過から、手段を選ばなくなってきています。「読みやすい形」「大筋は分かってもらえる」と書いた時点で、既に、楽山の欺きが、全開になっていると思います。救いがないときに、平気で救いを捏造する楽山です。
 
楽山は、いかなる場合でも無条件に、人や事件を笑いながら語れるでしょう。楽山に、常識や良心や罪悪感がないからです。楽山は、傍で人が死んでいても、次の欲望成就を考えていられます。だから、いつも、冷静にに見せかける乾いた筆致なのです。人間なら持っている深い感情が無いのです。
 
どこかの国のように、楽山は、反省する心を持っていません。言葉だけ表面だけ整え、自己正当化と他罰性に固定して、批判者を加害者、批判される楽山自身を被害者、という決めつけの被害妄想を改めません。ゆえに、不治の病質と判断するしかないのです。楽山は、裏地見るとプッツン君です。
 
 
精神の悪液質 汚泥

精神の悪液質 汚泥
 
 
(2022年03月06日)
 
 
 
  郷愁
 
椅子にうたた寝しながら
誰かの呼び声を聞いた
低く小さい声
やさしげな声だった
 
果てしなく続く
原野を旅していた
暖かいのに
太陽はどこにも見えなかった
空は青くもなく
雲があるわけでもなかった
起伏に富んだ
果てしない原野
誰の心の中だろう
 
金網の向こうに山が見えた
濃い緑に包まれた山々が
どこまでも続く金網は国境である
警備している兵隊はいない
金網をつかんで
もたれていると
人の形をした黒い影のようになった
なったのが見える
それでいてどこか眠たく
金網の
一体どちらが祖国であったかなどと考えていた
 
海辺の岩に腰掛けていた
何故か苛立つ心を抑えきれない
もっと冷たく激しい風を欲して
でも白波のない海に
遠く釣り舟が一そう
よく見えないのに知っているような気がして
 
それが思い出というものだ
呼びながら届かない
呼ばれながら行くすべもない
海鳴りよりも遠く
やがて眠りを誘うだろう
見つからない故郷(ふるさと)のように
 
 
  値踏み
 
一人で思い巡らす人
こいつから学ぶべきことは何もない
むしろ邪魔だ
自ら手を下さずともこの辺が弱み
チクチクとついてやれば
そのうち手も足も出なくなるさ
逃げ出してくれれば願ったりかなったり
この男は役には立たないが
咬まれることはあるまいゆえ
当分は飼ってやるとするか
この人は一応立てておいて
程々の敬意を見せておけばことはあるまい
このお人からは幾らかは頂戴できる
今のところ借りるだけでもよいな
このお方こそ組んで、お味方、お味方
うまくいけばいつかは・・・
ん、ん、・・・フフ
 
私にいくらの値をつけた
人格を値踏みする者よ
 
えっ・・・?
空耳か
 
一人で思いわずらう人
人の気持ちをあれこれと推し量り
自分と比べ
思いあぐねては疲れ果て
寝込んでいる人
見積もれば
自分が誰よりも安くなることだけは知っていた
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
間違っても詫びることが出来ない、自分を正すことが出来ない、嘘ばかり重ねる、保身だけの卑怯者、魅力の欠片もない、失敗した、大きな過ちを重ねる、・・現実を見ないまま、剥離した皮膚をズルズル引きずって、ハイエナは、転びながら、本能が剥き出しです。決して、近寄らないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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