我執の正当化3
 
 楽山日記(LD)2020年06月13日
 『イエス伝』ルナン著
  を改めて批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であることを否定もしない楽山は、今回、信仰者らしい人の言を、自分の都合に合わせて、悪用しています。このように、楽山は、自分を正当化し高めるために手段を選ばない人です。楽山は、そういう傲慢から、キリスト教をおとしめてくるのです。
 
(ネットより)
ジョゼフ・エルネスト・ルナン(Joseph Ernest Renan、1823年2月28日コート=ダルモール県トレギエ - 1892年10月12日パリ)は、フランスの宗教史家、思想家。思想家。近代合理主義的な観点によって書かれたイエス・キリストの伝記『イエス伝』の著者。「反セム主義」という語を最初に用いたともされる[1]。
ウィキペディア:ルナン
 
反セム主義について:
(ネットより)
反ユダヤ主義(はんユダヤしゅぎ)とは、ユダヤ人およびユダヤ教に対する敵意、憎悪、迫害、偏見のこと[4]。また、宗教的・経済的・人種的理由からユダヤ人を差別・排斥しようとする思想のこと[5]。
19世紀以降の人種説に基づく立場を反セム主義(はんセムしゅぎ)またはアンティセミティズム(英: antisemitism)と呼び[4][6]、近代人種差別主義以前のユダヤ人憎悪(英: judeophobia,独: Judenhass)[7] とは区別して人種論的反セム主義ともいう[8]。セムとはセム語を話すセム族を指し、アラブ人やユダヤ人を含む。19世紀にエルネスト・ルナンやヴィルヘルム・マルなどによってセム族とアーリア族が対比され、反ユダヤ主義を「反セム主義」とする用語も定着した[* 1]。 
 
楽山は、自分で考えることをせず、人の文章を恣意的に利用して、しかも誤読し曲解して、さらに字面だけを漁っては書いてくる人です。しかも、それを批判しても、まともな反論も弁明もしたことがありません。他者を差別し侮辱するのに、なぜか、情熱的でさえあります。
 
正当には何も返せないのに、思いつきだけを単方向で言ってくる楽山の冷淡でサディスティックな人格が、書くたびに表れてきます。楽山は、自己正当化を人の口を借りて執拗に言い続けることの見苦しさを感じることが出来ない人なのでしょう。
 
こちらが関わっても、理路が壊れていることと、共感性がないことから、対話にならず、疲労するだけという結果ですから、もはや、コメントなどをやり取りするに値せず、楽山の文章を、記事で批判して、読者に警鐘を鳴らすしかない現状です。
 
 
ルナンの『イエス伝』は、出版当時は大変な議論をよんだというので、どういうことが書いてあるのか確かめてみたいと思い、通読してみた(昭和25年 第4刷)。自分には難しい本だったが、とにもかくにも一読後の感想をメモしておきたい。
まず巻頭に掲げられている亡き姉への献辞は、悲しくも美しい文章だ。涙が出る。イエスの生涯についての記述は想像していたよりずっと少ない。大部分は著者の論考で占められており、イエスの生涯をなぞるように書いている部分は全体の三分の一、いや五分の一と言った程度ではなかろうか。ここは残念。でも終わりに近づくにしたがってイエスの言行についての記述が多くなっているのはうれしい。
 
楽山は、「涙が出る。」などという褒め言葉を、芝居がかって、わざとらしく未熟だと感じないのでしょうか。読者が、そのまま受け取って、心が優しい人だと思うことを期待しているようですが、表れているのは、表現の拙劣と、高等感情の鈍麻だけになります。
 
飾り言葉は、楽山の口から、マシな表現を思いつかないのか、実に気安く出てきます。その感動が文章に、深く表れたことは、一度もありません。単純で深みのない言葉、これを真に受けると、楽山の悪意を見逃してしまいます。
 
「悲しくも美しい」「涙が出る」など、むしろ、楽山の情緒の乏しさが書かせる、わざとらしい飾り言葉は、月並みな言葉を大袈裟に言うことになるために、表現というものを、感動ということを、分かっていない者の筆致だとバレてしまいます。意地の悪さだけが楽山から漏れ出てくるのです。
 
恐らく、感情の深みの無い、ぼうっとした顔のまま、書いていると思います。そして、その気安さのまま、神について、イエスキリストについて、無根拠のまま、無責任に、否定を暗示する記事を書いてくるのです。つまり、今回も、書けば真っ赤な嘘だとバレてしまうのです。
 
 
自分は著者のイエスに対する信仰の強さをひしひし感じたので、そういう著者が悪魔呼ばわりされ、ひどく非難されたという話は理解し難いものがあるのだが、やはりラザロの復活などの超自然的な事柄や、伝説的な話には距離をおいていたり、イエスは教義体系だとか儀礼的なことにはこだわりは無かったろうとしているところなどが、それらを重んずる人々には問題視されたということだろうか。
 
信仰を、字面の辻褄でしか考えられず、分かったつもりだけで、信仰と人間の本質を外しまくってきた楽山が、「信仰の強さをひしひし感じた」というのは、ひしひしプンプンと虚言臭が鼻を突く嘘だと感じます。また、反省もしないで、平然と嘘を吐いてくるのは、自己愛の自己顕示欲でしかないのです。
 
楽山の言う神と宗教・信仰は、概念の言葉だけの辻褄の教義についてであり、それが合わないからと否定するやり方であります。楽山がこだわるのは、超常とか霊とか超自然とか、情緒・情感・共感のない空想であることが、既に表れてきました。言葉だけ「ひしひし」と書いても無駄なのです。
 
 
たとえば、「法と信仰箇条とを含む一宗教的経典といふ観念が、どんなにイエスの思想から距つてゐたか、注意を乞ふ必要はない」(p.264)、「彼の教理は、少しもドグマ的なものでなく、彼はそれを決して書こうとも、書かせようとも思はなかった」(p.362)、「イエスは、教義の建設者でなく、信条の作者でなく、世界を新精神に通ぜしめた人である」(p.362)、「神の重んじ給ふものはただ一つ心の正しさのみである」(p.170)など。
 
信仰を、恣意によって、教理的小理屈に置き換えて、好きなように、いじくって、いちゃもんをつけてきたのは、楽山であります。つまり、楽山は、引用元の著者ルナンに、むしろ、批判されるべき人物でしかありません。白々しい楽山は、どこまで深く墓穴を掘るのでしょう。
 
読んでゆくうちに、楽山が言いたいのは、教理と信条を否定したいのだと分かってきます。楽山は、そういう気持ちで読み、そして、書いています。そのために、本を、無理に反宗教に引き寄せています。なお、教理と信条は、要約のようなものですから、そこに信仰が一致して表れるわけではありません。
 
そこを、いくら否定しても、否定されるのは楽山の情緒と誠意と読解力だけなのです。楽山は、白々しい言葉を使うことで、情感の表現の拙劣さが表れ、月並みな褒め言葉しか書けないので、言い方だけ大仰にするしかないのです。
 
 
また訳者の後記によれば、孫引きになってしまうのだけれども、ルナンは次のように書いていたという。「教会を棄ててもイエスに対する信仰は変わらないといふ考えが私を占めた。心霊の出現を信ずることができたら屹度イエスはいふだろう、『私の弟子となるために私をすてよ』と」(p.398)(引用文の旧字は新字に改めた)。
 
私たち信仰者においては「心霊」という、楽山が好む超常用語を多用するのではなく、あくまで心を持つ人間としての信仰を語ることが必要になります。楽山に、心を大切にする態度が見られたことはありません。またしても、超常的な心霊の意味を無理に引き寄せて、嘘を吐いています。
 
福音伝道に対して、言論において、最も狡猾に、最も無責任に、最も無反省に、最も無秩序な文章で、文句をつけてきたのが、楽山であります。自分が満悦できれば、今までの主張などお構いもなく、別方向へ話を進めて、よく見られようと企むのです。そして、責任は一切負いません。
 
気をつけてください。悪魔性の厚顔無恥の強さは、白々しい芝居を平気でしますし、平気で嘘を吐きますし、不感不応・無頓着・無反省の記事を、気軽に書いて、説明・説得ではなく、刷り込んで誘導するということと、反対できないように疲れさせることしか出来ないのです。
 
病質人格の楽山の感情鈍麻は、だますための故意と、慢心からの恣意が入っているので、統合失調症のそれよりも、重症で、かつ、有害だと思います。誰からも注目されていないのに、自分が思想をリードしているつもりですから、どうしようもないのです。
 
 
自分は信仰は個人的なものであって、それを突き詰めるほどに他者とは共有できぬものになるだろうし、組織化された宗教および宗教団体は神というより、人によるものだろうと考えているので、上の文章にはさして違和感はなく、その通りだと感ずるのではあるが、
 
信仰は、個人と神の関係です。楽山は、信仰を個人の所有物のように言っている時点でアウトなのです。「共有できぬ」ということから、何でもいいじゃないか、という軽視への誘導が表れています。今に至るまで、そういう語る口の自尊過大と、平気で心にもないことを言う厚顔だけなのです。
 
批判してきた3年以上の楽山の記事やコメントから、楽山は、神にも、キリストにも、聖書の言葉にも、全く、真摯に向かう態度がなく、ゆえに、一滴の恵みも受け取ってはいないと思います。したがって、信仰のことをいくら語っても、的を射ることはないのです。
 
 
こういう考えはいつの世でも護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める人からは歓迎されることはなく、それはたとえ天地がひっくり返ったとしても変わることはないだろうとは思う。
 
楽山は、キリスト教と信仰を「護教的で教団の安泰を守ることを第一に考え、信徒にはまず教団に従順であることを求める」と決めつけて、自己の立場の保身に、著者ルナンを持ち出して、歓迎されないと言っています。いくらでも、他者の言を悪用してくる楽山を、どうか受け入れないでください。
 
楽山が歓迎されないのは、言論において、部外者にとどまらず、その体質である無知と無恥から、勝手なドグマをボンヤリ言語で刷り込もうとすることで、言論の迫害者、信仰の迫害者となっているからです。さらに、他者の口を借りて箔をつけなければ、何も言えない人だということでもあります。
 
護教的でなく、教団の安泰を守るのでもなく、教団に従順でもなく、誰よりも、自らの未熟を知っている信仰者が、ゆえに、真実を真摯に求める信仰者が、結局は、楽山の決めつけを全否定するでしょう。空転する楽山の反宗教と反キリストを、許容する余地は、どこにもないと思います。
 
 
ルナンの『イエス伝』に対する批判は読んでいないのではっきりしたことは分からないが、やはりこの辺りが問題だったのだろうか。もしそうであれば自分は間違いなくバツ判定されることになりそうだし、特定の宗教に属することで平安を得ることはなさそうだ。
 
楽山の、とんでもない被害者意識です。楽山がバツ判定されるのは、言い換えると全否定されるのは、楽山が、言論において、実直さや真摯さが全く見られない無反省と単方向の、言いたがるだけの異常者だからです。明らかに「バツ判定される」のは、楽山のほうであります。
 
しかも、そこに、詭弁と嘘を持ちこんで、だまそうとしているのです。教義に沿っていないとかではありません。分からないくせに、分かったふうを装い、数々の卑怯な真似をしておきながら、反省せずに、また、書いてくる厚顔無恥の馬糞紙だからです。
 
 
随分前に、「孤独のとなり」というエッセイ集を読んだ記憶があるが、なんだかまた読み返してみたい気分。
 
楽山は、同情すべき孤独などではなく、自己中のために他者との言論による交流が出来ないばかりか、その無責任によって、信頼もされないだけなのです。その理由は、自分勝手、凝り固まった自己愛性人格障害、そして反キリスト・反宗教だからです。楽山は、読書家気取りで自分を飾っているだけです。
 
反キリストというのは、非クリスチャンではなく、キリスト信仰に対して、何らかの恨みからか、劣等感の裏返しからか、批判として成り立つような意見も持っていないのに、しつこく悪口や嫌がらせだけで疲れさせるようなダメージを与えてくる人のことです。
 
楽山の場合は、知ったかぶりの、実際は無知と無恥にもかかわらず、読書家気取り、批評家気取りで、反キリストの記事を書き続けてきます。楽山には、批判する前、半年ほど、だまされていて、まともだと思っていた時期があります。楽山は、油膜の虹色のように様々に汚れたペテン師です。
 
もう一人のシャロームの場合は、キリスト者そして元牧師を装い、正反対の妄想教理をもって、あざ笑ってきます。私は、シャロームには、妄想教理に気づいて批判する前、数年間、だまされて聖書の先生だと思っていたのです。水たまりほどの深さもない人です。
 
そういう人は、楽山とシャローム以外にも、たくさんいると思いますが、交流することが人格破壊につながるために、リスクを承知の批判者以外、決して関わらないことが必要です。彼らの我執の隣に寄り添うのは、悪意と詭弁と虚言なのです。
 
この二人については、読者を舐めきっていて、だまし文句と詭弁を用意していますから、決して、コメントなどで対話してはいけないし、また、同情もしてはいけない人です。ゆえにカルトと同じ扱いしかないのです。
 
 
 2020年06月13日 楽山日記(LD)
 神通力修行
 
 
楽山の興味・関心の方向・好む方向が表れています。この精神で、キリスト教とキリスト信仰を語られるのは、甚だ迷惑な話です。キリスト信仰は、神通力や霊感などの、いわゆる超能力マニアとは、何の関係もありません。
 
 
ネットがまだ一般的ではなかった大昔のことだが、戦前の本探しに凝って市中のリサイクルショップ巡りばかりしていた時期がある。当然ながら空振りばかりだったが、時には掘り出し物が見つかることもあって面白かった。歴史方面の本もそうだが、宗教関係の本でも珍しいものがあった。たとえば、神通術についての本がそれだ。戦前に出版された本の復刻版で、函入り、和綴じ、限定数百部のもので、購入後はチラ見しただけで積読状態だったのだが、最近見返してみたら初見の印象とは大分違って奥が深いもののように思えてきたのだから我ながら不思議である。
 
魔術を求めてリサイクルショップ巡り、宗教関係と言って神通力の本だと言い、奥が深いと言っています。どういうふうに奥が深いのでしょう。少なくとも、信仰の奥深さとは無縁です。こういう男に、キリスト信仰について語ってほしくないです。
 
この記事は、楽山の興味が、信仰の心ではなく、超常の神通力にあることを示しており、上の信仰を肯定するかのような記事が嘘っぱちであることの傍証になるでしょう。
 
 
ただ秘伝と銘打ってあり、タイトル、著者名、内容については全公開は憚られるので、それについては申し訳ないが限定公開としたい。失礼。
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秘伝と書いているように、楽山も自説を秘伝にしたいのでしょう。もったいぶってログイン許可が必要だと言っています。おともだちのあなたにだけ秘伝?みせてあげますよ・・と誘う秘密の超常同好会でしょうか、秘密結社づくりでしょうか。楽山は秘伝の hidden鼻糞でも見せる気でしょうか。
 
こういう超常趣味だけの男が、キリストは、神は、とか語ってくるのです。超常オタクが、キリスト教を魔術として面白がっている以上のものを何も持っていないのです。信仰という生き方と命の問題を、超常魔法のネタにおとしめている楽山です。詐欺師の臭いがプンプンしています。
 
様々な資料や書籍および史実は、救いを担保しません。救いは信仰のみによって与えられます。楽山は、信仰以外の材料で、信仰を否定したつもりになっているから、いつも、そして、ますます、書いていることが、的外れから狂気に向かってゆきます。それこそ、狂ったカルト信念なのです。
 
楽山は、超常空想の世界のマニアのようで、前には、キリストが青森に現れた!という話をリツイートしていました。どこそこに現れたではなく、信仰者は、自らが神の前に生きていることを信じて、キリストの臨在を信じて、祈りを捧げているのです。それが全てであります。
 
楽山は、自己愛性人格障害からの自己顕示欲によって、信仰を侮辱するために、超常話を載せている反キリストです。楽山批判には、鼻クソをほじるくらいの意味しかありませんが、見過ごすわけにもいかない楽山の執拗さに、対立軸となるしかないのです。どうか、決して、楽山に近づかないでください。
 
 
はてしなくゴミをあさる

はてしなくゴミをあさる
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月21日、再録+加筆)
 
 
 
  (私見抜粋)
 
少なくとも一つ以上の自分ではあがないようもない罪を知り罪の意識にさいなまれて正直に告白している人にだけ「あなたの罪は許された」という言葉は命をもって与えられます。「告白すれば罪が消える」「罪を免れる」と安易に思っている人は言われるべきです。「罪は決して許されることはない」。
 
 
  (聖書抜粋)
 
伝道の書7:14-17
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。
あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。
あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。
悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。
あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
(旧約聖書)
 
 
  最後の夏
 
最後の夏よ
お前が残したものは
いつも大事なときに雨を降らせるテレビと
ぬるぬると滲むスクリーンと
戻そうとして空回りする切れたビデオテープと
薄っぺらな模倣を繰り返して
乾いた指を湿らす舌のひび割れた日々と
もうお前を呼ばなくなったことと
お前を覚えることも
忘れることも出来なくなったことだ
 
 
(90年代か。一部修正)
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  聖霊のとき
 
聖霊というものについて
眼を閉じて祈り求めながら
独り静かに想いに耽っていた
 
いかなる悪意もなく
憎しみも嫉妬も消える
裸体の体さえない忘我と
恍惚の安らぎ
至上の優しさに内も外も溢れており
もはや痛みも苦しみもなく
負うべき何物もなく
そのままで満たされている
ここは既に聖なる領域なのか
聖霊が満ちているのか
独りなのに独りだとは思えない
眼を開ければ御国にいるかのような
いかなる富をもってしても
買うことのできない
至福のとき
 
この想いのうちに
どこにいたか
思い浮かべてしまったのは
磔刑に打ち付けられて
血まみれの死を迎える姿なのだ
 
最初で最後の
最も大いなる艱難のとき
最初で最後の
最も聖なる時が訪れる
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山のような人は、まともな働きも出来ないでしょうし、まともな評価も受けないでしょう。しかし、世辞と柔和芝居で、だまして、迷惑をかける可能性は高いです。反省しない時間は、成長しない経過であり、責任を負わない人生は、人生ではなく、気づきのない日々は、ただただ、傍迷惑な空白なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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