楽山の超常気取り2
 
 三魂説について(「妙貞問答」)
 2020年07月24日 楽山日記(LD)
 
 
今度は、また、他者の書いたことから、いっそう難解な超常言葉を弄してきました。批判に対する弁明の代わりに、意地を張ってくる、しかし、説明になっていない、それが楽山です。
 
*三魂説とアニミズム
前記事で、三魂説について一寸触れたので、「妙貞問答」を確認してみた。
DSCN0509 人と動物の魂の違い。三魂説。
DSCN0510
(『南蛮寺荒廃記・妙貞問答 東洋文庫14』海老沢有道訳、平凡社、昭和39年より)
 」
 
本の画像のようですが、画像は省略。
 
知らない熟語について調べる気にもならないほど、超常言葉の分類みたいなことが書いてあるようです。いつもの、他の人には分からないだろうけど自分には分かる、と言いたい楽山の自己愛と自己顕示欲だと見なして、いちいち調べたりしないことです。
 
意地やプライドで、調べようとすれば、前から言っているように、楽山の企みによる人格破壊が待っているのです。それが、楽山の目指す勝ちであり満悦なのです。説明責任は、どこまでも、楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
これはこれで一理あるとは思うけれども、自分はやはり人間以外の動物はもちろん、山川草木や岩石にも魂は宿り、人と同じ感情を持っているという感覚は捨てきれないものがある。「一寸の虫にも五分の魂」というけれども、魂の尊さは五分どころか、一寸の虫でもなんでも人と同じだと感じないではいられない。
 
私にとっては、魂の実体があってもなくても、こうだと断定など出来ず、動物と、人間同士のように話せるわけでもなく、かといって、遊びのように動物を虐待するわけでもないでしょうから、分からないとして保留するのです。
 
おとぎ話のようなことまで、自分の霊能力の一つとして、分かっているかのように書いてくるのが、妄想家の楽山です。そういう楽山の話は、難しい言葉で、謎を深めたように気取りますが、具体的に何かが進展することなど、まるでないのです。
 
*「ブラック・ジャック」と「夏目友人帳」
そういえば、ブラックジャックはたしか、人間の政治家、一般人の赤ん坊、イリオモテヤマネコが怪我した時には、重症のイリオモテヤマネコ、赤ん坊、政治家の順番で手当てをしていたが、これは情緒的にも論理的にも間違っているとは思えなかったのだった。
 
神社と妖怪が出てきます。信仰について語らず、妖怪で何かを言おうとするところが、霊能者気取り?の楽山らしいのです。アニメに出てくる、霊が分かる孤独な少年に、自分を重ねているのでしょうが、そのことは、人間が知るべき宗教と信仰には何の関係もありません。
 
先日から見てる「夏目友人帳」もそういう世界観になっている。
・夏目友人帳 | アニメ | 無料動画GYAO!
第一話では物語の大まかな設定が明示されて、第二話以降から少しずつ物語の幅を広げて、第四話以降になると傑作が続いている。あやかし、つばめ、ほたる、子ぎつねの健気な心が愛おしく感じられる話だ。
 
妖怪物語です。これを、宗教と信仰に関わる問題に、正面から使ってくるところが、霊が分かるっぽい?自覚の楽山らしい、ということです。人間について、心について、何も分かりませんと言っているようなものです。
 
これはファンタジーであり、フィクションだということは分かってはいるのだが、ついついアニメ以外の現実世界においても、人以外の妖怪、動物、虫たちも、人と同じ心を持っていると思わないではいられないのだから我ながらおかしい。
 
楽山の話自体が、ファンタジーでありフィクションなのです。楽山だけが、宗教や思想の話と同列のように扱って溺れているので気づかないだけなのです。だから、楽山は、現実世界での、反省も学習も怠ってきたのでしょう。確かに、楽山は、おかしいのです。
 
こういうことからも、楽山によって表されたことによって、その背景や心理や体質など、楽山の自己愛性パーソナリティ障害NPDという異常性を、精神病理学とまではいきませんが、ある程度は、ヒントまたは題材として、考えることは可能でしょう。
 
こうしてみると自分の宗教感覚は、原始的なアニミズムから脱しきっていないし、これは子供時代からまったく進歩していないようだ。この調子だと今後もずっとこのまんまなんだろうな、たぶん。
 
だったら、わけのわからないことを書いて、納得のいく説明をしないまま、人を惑わせたり、自慢したりをやめるべきです。本当にがっかりしたのなら、読者の迷惑を考えて、書かないはずです。常識・良識・良心という、高等感情がないから平気で書いて、謙虚芝居で済むと思っているのです。
 
つまり本音ではなく、これが、楽山の、トホホ言語、という、同情をひくための芝居なのです。自分が、どれだけ、人を疲れさせ、傷つけているか、まったく気にしていない、自己愛性人格障害、または、サイコパスの白々しさであります。
 
もう一度、書いておきますが、説明責任は、どこまでも、それを書いた人すなわち楽山にあります。しかし、楽山は、説明できません。説明すれば、妄想を前提にするしかないからです。
 
楽山には、説明責任放棄の不正の履歴が、記事を書くごとに積み重なってゆきます。
 
 
責任放棄の超常気取り

責任放棄の超常気取り
 
 
(2020年07月25日)
(2021年09月30日、再録+)
 
 
 
キーワード:責任
 
 
  ボールペンⅠ
 
引き抜かれた芯は
細い裸のまま
ふるえる指先のふるえを受けてふるえる
 
書けない責任を負わされて
インクの残りを見るための
視線にすーっと舐められてゆく
 
いきなり激しいめまい
天井と床の間で振られ
さらに口からの荒々しい熱い風
悪臭にさらされる
 
このような移動と臭いは好まないと
断るすべもないままに
次は強い圧力で
押しつけられる紙の上で
嘔吐して刻まれた溝に流す
「まだ使えるな」と
その身が尽きるまで続くのだが
 
外筒におさめられ
改めて押される速さに
右に左に上に下に
圧力は無理矢理に片寄り
やはりふるえる指先の
ふるえを受けて
刻んだ直線を歪ませる
 
 
  いやなやつ
 
今だから言うけど
(今になったら責任はないのかね)
昔のことは言いたくないんだが
(まさに言おうとしているじゃないか)
あの時のことなんだ
(あの時が一体いくつあるんだい)
つまらない些細なことなんだが
(そのわりに忘れもせずによく覚えているんだね)
確かに悔いは残るかもしれない
(確かに、で何故、かもしれない、だ)
愚痴を言うわけじゃないけど
(言うわけじゃないけど言うわけだな)
いい意味で殺したかったですね
・・・・・・
 
 
(昔々の作)
 
 
 
楽山のツイッターですが、画像です。どこにあるか分かりませんので、テキストのようには、コピペできませんでした。こういうのが、楽山のやり方なのでしょうか。しかたないので、画像から、一部を書写しておきます。
 
こういうところにも、楽山の、自分を見ないで言うだけ、反省しないで言うだけ、という妄想的高慢の確信がベースとなっていることを忘れてはいけません。
 
楽山 
心機一転★こも楽山
@komo266・9月25日
「言うべきことは言うべし」とはその通りと思います。自分もそのようでありたいです。
 
楽山に、「言うべきこと」があるのでしょうか。今まで、何も正当なことは伝わっていません。書いてくるのは、楽山の訂正不能の先入観からの偏見だけでした。そのような発言は、自己愛性人格障害の自己顕示欲からの発言なので、決して、まともに受け取ってはいけないことなのです。
 
楽山は、ずっと、我欲によって、いっさい反省せず、責任を負わず、人の意見を聞かないで、言いたいことだけを勝手に言い続けています。つまり、楽山は、言うべきことを責任を持って言う、という「そのようでありたい」言論者の姿からは、真逆の方向しか持っていない人です。
 
「言うべきこと」がある人は、責任をもって発言し、人の言うことも聞いて、間違えたら反省し修正する心構えで言うのであり、何でも好きなように言いたいように言うだけではいけないこと、常識があれば分かることなのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDは、そこを理解しません。
 
つまり、楽山は、そういう当たり前の常識が分からないまま、それを、していない自分を自覚することもなく、誰かの都合のよい言葉の表面だけをなぞって、「言うべきこと」を自分も言ってるつもりになり、「自分もそのようでありたい」などと気楽に言っているのです。
 
楽山が、今まで言ってきたことのテーマは、宗教、信仰、政治など、真実の追求するための、日常よりも掘り下げた深いテーマであります。そういうテーマですから、個人の軽口や、その場の見なしや思い付きで、安易に言ってはいけないことです。
 
楽山は、否定も言い肯定も言ったから、責任問題は発生しないなどと言ってきました。言論に、プラマイゼロという公式はありません。マイナスを言っても、プラスを言っても、言うたびに、それぞれの責任は着いてくるのです。
 
こういう常識についての無理解~欠損が、楽山の病質者たるゆえんであります。楽山は、平気で嘘を吐くので、今、問いただせば、そんなこと言った覚えはない、などと言い逃れを言うかもしれませんが、楽山の発言は、こちらの批判記事に、引用として既に載せられているのです。
 
つまり、楽山には、自分の言うことに全く責任を持つ気がないことが既に明らかになっており、ゆえに、楽山の発言は、邪魔なだけの、いい加減な、無駄話か、いちゃもんに過ぎないということです。どうか、相手にしないでください。どうか、楽山の丁寧語や賛辞に、だまされないでください。
 
 
 
(楽山の無責任発言について)
 
 
>(楽山)
自分の記事のテーマは、「ある言論が、正当な批判か、誹謗中傷かを区別するのは難しい」ということなので、発言責任に触れても触れなくてもその論旨にはさほど影響はない。
 
批判か中傷かを区別しないわけですから、楽山には、言論の資格がないということです。それで、何でもOKだから、そこを前提にして、責任を負う必要はないと言っているのであれば、もはや、楽山は、大人の言論者ではありません。まさに、異常な自己愛と学習障害が生んだ荒らしです。
 
 」
 
 
>(楽山)
自由と責任のどちらに重心をおくかは、次のようにテーマと立場によって、コロコロ変わる。
 
 」
 
今読んでも、腹が立ちます。言論の自由と、言論の責任は、コロコロ変わったりしません。権利と義務、自由と責任、これは、言論の鉄則であり、どちらにも重心があり、変わることはありません。
 
楽山は、自由に発言しておきながら、責任を負わないし、何もなかったかのように忘れてしまうのでしょう。以前から、楽山について指摘してきた無反省・無責任は、楽山の自己愛性人格障害からの異常性を示す体質的な精神病質の症状です。
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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