楽山の企み3
 
 講演会について(幸福の科学とキリスト教)
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。マイナスを言って、プラスを言ったら、ゼロだ、つまり、責任はないという幼稚な姿勢を持っています。実際は、いい加減で当てにならないということです。
 
キリスト信仰を、後追いで褒めればいいじゃろ・・なんてのが通用すると考えるのは甘いのです。少なくとも、人間なら反省が必要です。それを、ずっと、楽山は、言葉だけ反省と言って、反省したことになったと思う幼稚さなのです。楽山が何を書いても、そこには、人格の未発達が表れてきます。
 
楽山は、言葉だけ、反省、有り難い、などの褒め言葉を平気で使ってきます。実際には、他者を、あざ笑っている軽さが見られるので、褒めるのは三文芝居です。反省したり褒めたりする心性はなく、ペテン師は、だますために、言うだけならタダとばかり、嘘を吐くのです。
 
楽山は、批判をかわすために、キリスト教なんて最初から分かってる?という思い込みからの詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、真に受けないでください。嘘を吐くことに全く罪悪感がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の典型です。
 
 
以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。
 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教(プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。
 
自己中は、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、無根拠に説教をしたがり、インテリぶってきます。特に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己満悦の気分だけで書いてきます。丁寧語や読書家気取りに騙されないでください。
 
知らない人に、やさしく教えるのではなく、偽インテリの楽山は、心からの慈愛はなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になっているのです。こんな本も読みましたと自慢しているだけです。だから詳しい説明や解説が出来ません。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、どこまでも上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのです。
 
楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とか悲しみとかに全く共感できない人なのです。だから、自分については、成熟、強さ、正しさなど、芝居するしかないのでしょう。その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのです。
 
楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんと分かってるんです、と言いたくて、実際は、愚かさを際立たせるだけで、滑っているのです。いくら書いても、何も良くならない自己中の世界に、楽山は、自我と肉体だけ生きています。
 
 
HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。
 
心という言葉から、恐ろしいほど、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。霊が分かるっぽい?自覚の楽山は、多くを霊に結び付けてきます。このように、楽山個人カルトは、基本から、超常言葉を語ります。楽山が無視しているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から、例えば仏様の心が分かると書いていたように、大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもないものとして、机上の字面の辻褄合わせだけの記事を、宗教を語るかのように書いてきたのです。呆れるほどの的外れです。
 
 
だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。
 
人間性を無視して、霊的な何ものか・・ばかり考えていると、派生してくるのは、現実無視と、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊?という魔法の解釈になり、救済とは逆方向にもなるでしょう。その間違いに気づかないのは、霊が分かるっぽい?自覚からの、楽山だからです。
 
楽山の因業は、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ないことが、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と呼応しています。他者を批判しても、自分を見ない人です。
 
 
一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。
 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外と言い、それを、抵抗もなく、楽山は、使って「ご都合主義」と書いて、信じるのが難しいと、信じることについて整理できないのか、くどくどと混乱した文章になっています。ねじれたHS批判に、楽山の本性が現れてきます。
 
それは、楽山自身が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。元々が、霊能者気取りで出発している楽山は、霊が分からない人を蔑み、一方で、現実に必要な心の問題を無視してきたのです。
 
 
自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子にヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。
 
体調を崩したときに、ヨブ記が益になるのでしょうか。ヨブが回復したからでしょうか。人は、良いことを神のわざに、災いを悪魔の仕業にしたがりますが、ヨブ記の大きなテーマは、神は、人に、災難や不幸の意味を、いちいち説明しないのだから、恐れをもって神に任せよ、ということです。
 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んで理解しているとは思えない記事でした。解釈も拙劣で、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という単純な言葉しか書けず、それらは、全部、嘘でした。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、考察と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害NPDだからです。それで、クレームを付けたり、大袈裟に褒めたりするのでしょう。
 
 
前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。
 
キリスト教とキリスト信仰を否定し、おとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の辻褄合わせに過ぎません。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。結局は、解体に向かい、スクラップに、鉄くずに、ゆくゆくは、廃人になってゆくのでしょうか。
 
楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、その場その場で言い訳をする亡者であります。本人が気づかないところで、信仰ではなく、悪意と病気が進行しているのです。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの付け足しの、おべっかや世辞や褒め言葉では覆ることはなく、破綻百出になり、むしろ、強化されてきました。今後も変わることはないと思います。楽山は、公害を弁明するのに必死な加害者のようです。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの肯定の言葉を並べてきます。それで、いたるところに深みのなさが表れてきます。だまされないでください。今までのことから、楽山は、真逆であり、無反省と無責任の権化のような人です。
 
だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものです。楽山にはそれがないのです。思いやりと共感がないのです。
 
信仰は、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれません。楽山は、信仰を語ることなど出来ないと思います。誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思います。
 
悪名が、よそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた楽山の言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、混乱と疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろ・・とばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。無反省で無反応であります。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人から神への唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神にとって私たちを知らない時と所はないという信仰ですから、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。楽山の、ふざけ芝居など、一日も早く止めてほしいです。
 
 
嘘が内燃する反信仰

嘘が内燃する反信仰
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月11日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
 
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
 
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
 
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ろうとして
迷うことも飢えることもある不自由
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
 
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな人々の国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  恋・悪・夢・現実
 
ただ一度の恋
の夢なら何度も見た
恋の夢はいつも変
初恋の人が禿げていたりとか
しかし今日の夢は違っていた
 
その後に出会った人々の夢だ
悪い夢ではなかったのだ
夢はいつも変な脈絡だが
あとで手痛い目に会うような
冗談めいたお世辞も言われなかったし
高慢な自我の遠回しの攻撃も
きつい一言も露骨な悪意もなかった
 
むしろ快楽のような宴の夢だった
といって実際の彼らが格別
悪人というわけではなかったし
彼らの言動は更なるその後の成り行きに
具体的には何の影響も及ぼさなかったから
印象も薄く
彼らの夢は記憶する限り初めてだ
 
なのに目覚めた後の
顔を顰(しか)めたくなる脂汗のように
べっとりと付いてくるものは
また一日ゆがんだ放物線上に
投げ出されて落ち損ねて
また夢の裏側に目覚めるまで
付いて回り続けるのだろうか
 
洗面所に行って顔を洗えば
針のように刺してくる光の明確さ
これが現実だな
間違いなく
現実
だな
・・・
 
 
 
楽山が、シリーズもののように、書いているのですが
 
 「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
 2021年08月10日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。逐一批判はしません。
 
楽山は、また、似たような引用の記事を書いています。数年前の騒動とやらを、まとめたいのでしょうか。今問題なのは、楽山が、原因なのですが、その後始末の責任から逃れるために書いているとしか思えません。楽山は、それどころではない状況を無視するために他者のことを書いているのです。
 
今回は、他者からの引用のようです。例によって、記事の引用はしません。それにしても「>」が多すぎて、どこからどこまでが他者の発言なのか不明瞭になっています。記事の体裁だけ作りたいのでしょうか。あざとく、嫌味な、逃避だと思います。厚顔無恥&無知の策略です。
 
前からの疑問ですが、今さら、楽山に読者がいるのでしょうか。誰かが読むとは思えないような、不躾で、読みづらい引用で、自分の正体隠しが出来ると思っているのでしょうか。見苦しい限りです。自分の問題を無視して、他者のことばかり問題にして書きたがる体質が、剥き出しです。
 
 
 
楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターサイトですが
 
去年の日付になっているのは引用元のツイートのほうで、リツイートは、掲載位置から見ても、最近であろうと思われます。
 
takaさんがリツイート
三浦春馬 & STAFF INFO
@miuraharuma_jp
·2020年1月29日
明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。 国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか
午前1:33 · 2020年1月29日·Twitter for iPhone
 
楽山は、恐れを知らないようです。自殺した芸能人の、スタッフの言葉を、自己正当化のために、リツイートで悪用しているのです。厚かましさが、恥を忘れているようです。このように恥知らずの楽山が、何かの切っ掛けで、犯罪行為に走りやすい病質です。
 
楽山の場合のような、悪については、明るみに出すことが必要であり、隠すことが汚いのです。常識です。「皆んなが間違いを犯さない訳じゃない」・・詭弁です。過ちや間違いと、楽山の、故意に人を傷つけて快感を得るサイコパス的な罪は、当然、違います。後者は、許してはいけないのです。
 
正義を論じているふうな発言を選んで引用しているのが、楽山の隠れ蓑なのでしょう。楽山のような、罪を認めず、しらばっくれ続ける自己愛者に、立ち直る言葉や、励ましの言葉などは、当然、禁忌であります。故意・作為・悪意による悪だくみに対しては、批判なので、時効もありません。
 
楽山の無責任な自己愛性パーソナリティ障害NPDの体質が、表れていると思われます。殆ど、他者の言葉であること、殆ど、自分の意見を書かないこと、殆ど、放り投げて終わり、という投げ捨て投稿であることなどが、最近続けざまに書いている楽山ブログの投稿と共通します。
 
楽山は、まだ、だませると思っているようです。もはや、楽山が、常識人のような真似をすることなど、通用しないのですが、プロのペテン師なのでしょうか。ピュアな詐欺師のクリミナルマインドなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
日常的に嘘を吐いている楽山は、だんだん演技的になって、俳優にでもなった気分なのでしょう。寒くなるような下手くそ芝居で、善人を気取ってきます。評論家を気取ってきます。生きていることに本音がなく、人のいるところでは芝居をするようになるのでしょう。現実には、嘘吐きでしかないのに。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これはその通りだ。順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てるということなのだろう。
そういえば十代の頃、『風と共に去りぬ』で、国が滅ぶ時と興る時がチャンスだという話を読んだのが未だに記憶に残ってる。
 #本日の格言
ryuho-okawa.org
厳しい時代はチャンスの時代
厳しい時代はチャンスであり、思い切って改革をする時期なのです。 それをすれば、未来は、まだまだ、たくさん開けるのではないかと思います。
午後9:50 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
楽山には「順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てる」などと、他者に偉そうに言う資格はないのです。「滅ぶ時と興る時」・・自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のままの楽山には、興る時はありません。どんどん滅ぶ時が進行中です。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
「○○は認めがたいので、そのようには思ってはいません」
これはある意味、信仰の本質かもしれん。人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じないということ。一言で言えば、願望充足。
#本日の格言
ryuho-okawa.org
政治の理想
「ある民族が呪われていたり、生まれつき原罪を持っていて迫害されたりしなければならない」というようなことは認めがたいので、そのようには思ってはいません。それぞれに可能性を持っており、そういう意味での「平等性」は持っています。 ただ、「結果の平等」だけを目指すのが政治の理想だとは思っていません。目指すべきなのは、「機会の平等」「チャンスの平等」であると思うのです。
午後9:44 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
「人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じない」・・これは、楽山の本質です。楽山は、また不幸に他人を巻き込もうとしています。信仰を得たら、都合のよいことばかり起こるなどという幼稚さは、信仰にはならず、カルトになってゆきます。小学生レベルの偏見で信仰を否定してくる楽山です。
 
「一言で言えば、願望充足」というのは楽山の願望~欲望です。まともな信仰者は、全ての願望が上訴腐れるわけではないことを知っています。都合のよいことだけ信じるのは信仰ではありません。願望の中で御心に適うものを学習し成長することが信仰の目標でもあります。
 
願望~欲望の充足だけを信じるのは、楽山のような自己中のケダモノの所業であります。楽山は、信仰において大切なことを何も知らないので、あざ笑うかのように、足りない知恵と、無学を、一般則のように、振り回すしかない恥知らずなのでしょう。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
悟りを開くと、この世的なものに執着しなくなるというのは本当だと思う。
でもそうすると、高級時計の自慢したり、名誉にこだわって名誉毀損の裁判したり、霊言・講演回数や著書数を誇ったりするのは、悟れてないことになりそうだ。
ryuho-okawa.org
「真に知る」ということ
真に知るということによって、 この世的なる価値といわれるものが、 ことごとく、蜃気楼のごとく淡く、色が褪せて、 取るに足らないものに見えてくるのです。 そして、ただ一筋に、仏法真理の道を歩みたくなるのです。 そうならなければ本物ではありません。
午後9:39 · 2022年8月19日·Twitter Web App
 
信仰は「執着しなくなる」悟りではなく、最も大切なものに気づくことです。楽山には、その大切な気づきがないために「高級」「名誉」「霊言」などに執着するのでしょう。悟れていないどころか、何も気づかずに、何も知らずにいるのです。それは自らが「取るに足らないものに」なってゆくからでしょう。
 
楽山が執着しないのは、他者の心です。だから、思いやりもなく、共感もなく、反省もしないで、我欲を通そうとし、通るものだと思い込むのです。楽山の信仰についての見方は、全て、幼稚なお伽噺の蜃気楼と言ってよいと思います。それを平気で刷り込んでくる気が知れません。正気ではないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング