詭弁の空しい楽山2
 
 嫌な感じのする批判、しない批判(マグマリのブログ)
 2021年11月18日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
自分の悪を人のせいにする偽善の典型です。引用された自称マグダラマリアは、キリスト者ではなく、カルトだと思っています。異を唱えると興奮して「ぷぷぷ」「けろっ」など意味不明なことを言って、あざ笑い、怒号を吐く人で、ヤフーでは自称ヨシュアとともに偽キリスト教を宣伝していました。
 
一緒に宣伝していた自称ヨシュアが「教えを守って完全になれる」と言ったことから、化けの皮がはがれました。ひどい勘違いです。教えを守れない自らを知って、正直に告白し祈ることがキリスト信仰なのです。聖書の登場人物の名を悪用する二人の罪は深いと思います。
 
自称マグダラマリアは、自称マグダラと略します。楽山は、楽山ですが、ヤフー時代から、様々なHNを使ってきたと思っています。まさに、楽山は、様々に成りすまし、丁寧語と悪口を使い分ける荒らしなのです。決して巻き込まれないように、気をつけてください。
 
「嫌な感じのする批判」と言っています。大方、批判は苦言を呈するわけですが、それを冷静に受け取って考えることの出来ない楽山です。楽山は心地よい批判を求めているのでしょうか。それは世辞の褒め言葉であり、楽山に対して書くことは、まず、ないのです。
 
 
*批判されてる?
マリアさんのブログをみたら、「スルー、無視はよくない」という主旨の話を書いてた。自意識過剰かもしれないが、最近は無益な議論は避けるようになっているので、つい自分が批判されてるような気がしてしまった。
ただそれでも少しも嫌な感じはしないのは不思議だ。
 
楽山は、批判され、かつ、それを無視してきました。楽山が、自称マグダラに嫌な感じがしないのは、ほぼ同類だからでしょう。訂正不能の妄想的思想をもって、自称マグダラはカルトを広めようとし、楽山はキリスト教を否定しようとしてきます。
 
楽山に対しては明確に言説を否定しなければ意味がありません。丁寧語で書けば、丁寧語を返してくるでしょう。しかし、何も変わらないのが楽山です。楽山が不快かどうかに気を使う段階ではありません。邪悪を邪悪、嘘を嘘と、言い続ける必要があります。ただの失言ではないのが楽山の言です。
 
全ての人が、楽山の言を否定し、意に介さなくなることが目的です。いてはいけない人を、いてはいけないと言うしかないのです。全ての人が、嘘と詭弁の楽山を拒否することが最終目的です。楽山の丁寧語は世辞か誘導です。受け入れることは楽山の非道に染まることを意味します。
 
 
*批判それぞれ
考えてみれば、一口に批判といっても、その中には嫌な感じがするものと、しないものとがある。ネチネチした批判もあれば、公明正大でさっぱりした批判もある。
この違いは、一体どこにあるのだろう?
 
楽山は、凶悪であるにもかかわらず、長い間、ボンヤリ言語という丁寧語で、ごまかしてきました。ネチネチして最も嫌な感じなのは、自己正当化の詭弁が執拗な楽山のほうです。それもバレて、他者にすがるようになったのでしょうか。同じ穴のムジナなのでしょうか。
 
楽山は、もっともっと「嫌な感じ」に包まれるべきです。それが、無反省、無責任の、嘘と詭弁の異常者に与えられる報いです。仲間もいるようですが、ひょっとして、楽山の異常性を考えると、全部が成りすましでしょうか。「さっぱりした批判」?・・批判にさっぱりならないでしょう。気持悪い。
 
 
*妄想
まず一つは、妄想のあるなしが影響しているような気はする。
「あいつは内心では悪い事ばかり考えているくせに、口では綺麗事ばかりいってる」「あいつは私を貶めようとたくらんでいるにちがいない。きっと陰では悪口ばかりいってるはずだ」などなど。
こういう邪推、被害妄想ばかりの他者批判は病的で気味が悪いものだ。
 
また楽山の三文芝居です。妄想と決めつけて、台詞を用意しての印象操作です。こういうのを見るたびに批判の意志を新たにします。やり口が、吐き気がするほど、汚いからです。楽山は、真っ当な反論が出来ず、相手を妄想と決めつけることしかできないのです。精神的不具(鰒?)なのです。
 
口で「綺麗事」ばかり言っているのは、他でもない楽山です。そして、この記事のように、お仲間らしいカルトのHNを出して「悪口」を当てつけているのも、楽山に他なりません。他者の被害妄想ということにして、すり替えの詭弁を吐いているのも、楽山の常套手段です。信憑性ゼロです。
 
 
*偏見
もう一つは、偏見、決めつけ、差別も影響しているだろう。
「あいつは邪悪な奴だ。いつも悪い事をたくらんでいるに決まってる」「あいつが善行なんてするわけがない。もししたとしたら何か邪悪な目的があるからだ。みんな騙されてはいけない」などなど。
こういう差別心が剥き出しになっている発言には、多くの人が嫌悪を感じないではいられないだろう。
 
このように、他者の捏造のセリフを書いてくるのも、芝居好きな楽山の趣味ですが、痒くなるほどの白々しさに、楽山だけが気づかないのです。だから、私は言います。邪悪な楽山には、決して、だまされないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
「差別心」と書いていますが、差別ではなく、楽山を、自己愛病質を根拠として人類の敵だと言っているのです。こういう男を、常識人と平等に遇することは決して出来ません。冷酷で凶暴な性根を持っている楽山という悪と偽善に対しては、決して肯定的な一言もあり得ないのです。
 
 
*人格攻撃
もう一つは人格攻撃のあるなしも関係してそうだ。
「あいつはエゴイストだ! 自己中だ!」「あいつは傲慢で、思い上がっている! 謙虚ということをまったく知らない」「あいつには愛がない。愛がない奴は何を言っても、やってもダメだ」「ああいう卑劣な奴には、意見をいう資格はない!」などなど。
こんな風に議論のテーマそっちのけで、「お前は心懸けが悪いからけしからん!」という人格攻撃ばかりだと、ただの悪口にしかならないものだ。
 
人格が異常であるところの人格障害なのだから、その狡猾で汚い人格を否定することになります。一般には、関わらないことが大事です。話し合おうなどと思ってはいけません。楽山は、自分の発言に、全く責任を負う気がなく、嘘と詭弁と妄想を垂れ流して誘導してきます。尿失禁よりも厄介なのです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という人格の病気です。治す薬がありません。したがって、人格が悪いことを指摘してゆくしかありません。だから、はっきり言います。楽山は、嘘吐きのペテン師の、人格の腐った病質者です。底なしに汚い性根です。
 
 
*理由
想像するに、マリアさんの記事を読んで、自分が批判対象にされてるとは思っても、嫌な気分にならなかったのは、マリアさんの記事からは上の妄想、偏見、人格攻撃などの要素が感じられなかったからなのだろう。
自分も批判記事を書かねばならなくなったときには、この三要素に染まらないように気をつけたいものである。
 
自称マグダラは、世辞や丁寧語には、見かけの、やさしさを返してきます。偽善者は、多く、そのような特徴があります。妄想、偏見、人格異常は、楽山の持ち物、あるいは、楽山自身です。まさに、楽山が批判者の人格を、逆に、楽山に当てはまる邪悪な人格だという印象を刷り込んでいるのです。
 
楽山は、批判と、攻撃や悪口の、区別がつかないのでしょう。批判されると攻撃されたと言い、自分の、気色悪く臭い宗教否定の屁理屈のことは、棚に上げています。根拠のない婉曲的な丁寧語の悪口は、悪だと分かりやすい悪口より悪質です。丁寧だからと、そのまま信用しないでください。
 
自称マグダラは、表立っては、キリスト教?のブログを書いてきました。反キリストの楽山と同調するのは、実際にはキリスト教を全く理解していないし、信じる気もないことと、カルト妄想者という共通部分があるからでしょう。改めて言います。だまされないでください。
 
楽山が自称マグダラを引用すること、自称マグダラは承知しているのでしょう。いつも、引用は、無責任に、許可など得ない楽山ですから、一応、心配にはなります。相手の許可を得なくてもいいのは、対象に許可されない場合が多い批判の場合です。
 
強制力が使えない場合、批判しか出来ません。なぜ強制力が使えないのか、それは、ネットでは、行動を知りえないからです。唯一知り得る行動は、嘘、詭弁、誘導などの、発言の内容です。ゆえに、そこを批判し続ける以外在りません。とても根気のいる作業になります。
 
楽山が物を言って公表すれば批判がくっついてくる、ということをルーチンにするしかないということです。楽山は嫌な気分になるくらいでしょう。楽山が見るためではなく、読者が見て、とても一般的な注意事項として、楽山に関わってはいけないということを知ってほしいので、批判を書いています。
 
楽山の年齢は不明ですが、私のほうが先に死ぬでしょう。その時まで、批判を続けようと思います。老後に与えられた使命としては、あまりに弱いのです。しかし、心の弱さから、楽山に騙されることは、人格を鈍くされ破壊されてゆく方向ですから、私は、生きている間、出来ることをしています。
 
楽山は、精神の奇形児と言ってもよいくらい、人間性の良いところを腐らせてきました。楽山というモンスターは、嘘や世辞や詭弁で、刷り込んで、人をだましてきますが、強く人を動かすような、いかなる説得力も持っていません。いくら気取っても、気づけば、これほど下らない人はいないのです。
 
 
汚い詭弁

汚い詭弁
 
 
 
(2021年)
(2022年12月03日、再録+加筆)
 
 
 
  温度差
 
しばらく冷やしておこう
冷(さ)めるまで
しかし焦るように
一気に打ち下ろして散乱するエナジー
熱血のようでありながら
無の空間に生み出す一種の
冷血の暴力であるかもしれぬ
推(お)すにせよ敲(たた)くにせよ
温もりの形骸を壊したい
温もりの残骸を拾いたい
温度差
「心は熱しているが肉体が弱いのである」
遊びと学びの
温(あたた)めれば温めるほど
腐れてゆく私の温(ぬく)もりに
冷水を浴びせたら
凍(い)てつく君のディスプレイの
アフター・ダークネス
血走った眼が見えますか
血走った眼が見えますか
どこまでも私でしかあり得なかった
血走った眼など映りはしないのでしょうね
映りはしないのでしょうね
それは季節よりも残酷に
握れば手までドロドロと
溶けてしまいそうな烈火の園に
ひややかに咲く一輪の花を
握れば手までパリパリと
毀(こぼ)れてしまいそうな零下の園に
しなやかに咲く一輪の花を
叫んでは乱れ散るエナジー
改めれば改めるほど病んでゆく
私の温もりは疾(と)うに
私も熱も捨て去って
どこか他の人の国へ旅立ったのだろうか
「心は熱しているが肉体が弱いのである」
今も叫びになりたいか
温度差よ
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
 
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
※ (ネットより)
きこく-しゅうしゅう【鬼哭啾啾】
悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
記事を書き、その大方に、批判記事があり、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
丁寧語を返せば、楽山が、世辞をいうのは、やっていることがペテン師の技だからです。詭弁、捏造、当てつけ、いちゃもん、そして、無反省、無責任、妄想的訂正不能、自己中、思考と感情の未熟と障害、不祥事を人のせいにするなど、現時点で、救いが全く見られない楽山です。
 
この記事のように、お仲間か成りすましか第三者かを引用して、自分に都合のよい嘘を並べて、批判者を悪者に仕立て上げる楽山という男は、記事を見て、読めば読むほど、決して、赦してはならないという決意を新たにしてきました。読めば読むほど実感します。これほど卑怯な男を見たことがありません。
 
 
 
(ネットより)
サイコパスのの特徴
 
表面上は口達者
利己的・自己中心的
自慢話をする
自分の非を認めない
結果至上主義
平然と嘘をつく
共感ができない
他人を操ろうとする
良心の欠如
刺激を求める
 
あるいは
 
良心が異常に欠如している。
他者に冷淡で共感しない。
慢性的に平然と嘘をつく。
行動に対する責任が全く取れない。
罪悪感が皆無。
自尊心が過大で自己中心的。
口が達者で表面は魅力的。
 
 
私としては
 
人類の敵は、国家でも民族でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
惨劇や戦争を起こす集団には、必ずサイコパスがいると思います。
 
サイコパスには、
怒りと憎しみと笑いはありますが、しんみり悲しむ情がありません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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