アドラー教について(12)2
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学
 再録+
 
 
おもに「嫌」ということについて語っています。
嫌われる勧め?でしょうか。
相変わらず、短絡と豪語の目立つブログ主です。
 
悪口言って作った仲間は、仲間ではなく負け犬の集まりです。
自分の劣等感に負けて、健全に努力することを放棄して悪口によって優越感に浸って現実逃避してるだけ。
人は悪口を言う人を信頼できません。
次の悪口のターゲットになる危険性が高いからです。
つまり、群れているだけの臆病者なのだ。
 
悪口を言って、いいことは何もないということです。
言えば、言われる、という現象。
悪口を言ったことのない人は、あまりいないと思いますが、
負けたことのない人は、ほとんど、いないでしょう。
 
悪口は、負け犬の始まりなのです。
注意するべきは、負け犬とは、負けた犬、または、負けてしまう犬のことであり、
負けを認めることとは全然違うと申し上げておきます。
 
悪口と批判は全然違います。前者は根拠がなく、自分のためであり、後者は根拠と道理を示し、かつ、自分のためだけではないことが多いからです。
 
「負け犬の集まり」「臆病者なのだ」・・記事のこの部分こそ、説明というより決めつけに近い書き方ですから、紛れもなく悪口でしょう。
 
ちなみに、勝ち負けに拘泥(こうでい)しない生き方もあるということも申し上げておきます。
 
嫌われるよりも、好かれる方がいいとは限りませんよ。
嫌われた方が自分のやりたいことができるじゃないですか!
好かれようとしていたら、自分のことより他人を優先しなくてはいけません。
自分らしく、自分の幸せの為に生きることを選ぶなら、さぁ嫌われよう。
嫌われる勇気は、幸せになる勇気。
 
自己中の臭いがします。乱暴な筆致です。
 
結果としては、好かれるほうがいいわけです。
 
「嫌われた方が自分のやりたいことができる」とは限りません。
ますます、やりにくくなることもあります。
 
他人からの嫉妬の強さは、あなたの魅力の大きさを表します。
それだけ嫉妬されるということは、あなたがそれだけ魅力的ということです。
人は誰でも、魅力的でありたいと本心では思っている。
嫉妬を嫌悪することは、自分の魅力を嫌悪すること。
嫉妬心からの陰口を言われたら、あなたの勝ちです。
 
嫌われることを、何故か、嫉妬に置き換えています。嫌われることは、嫉妬からとは限りませんね。悪いことばかりしても嫌われます。乱暴なだけでも嫌われます。下に見て豪語して教えようとする態度も嫌われるでしょう。嫌われることと嫉妬を同列で考えることは出来ません。
 
嫉妬ではなく、心底、嫌うことがあります。
そこには、相手についての、嘘、偽り、悪、卑怯、という負の評価があります。
 
そういうことの受け身、つまり、そういう嫌われ方は、それこそ、嫌で、避けるべきことです。
 
他人が自分をどう思うのかは他人が決める他人の課題であり、自分で決められる自分の課題ではありません。
他人が自分をどう思うのかを変えようとすることは、他人の課題への介入であり、変えられないことを変えようとしても辛いだけ。
他人の課題には介入せず、自分の課題にも介入させてはいけない。
 
"課題の分離"を出してきました。
 
他人が自分をどう思うのかを気にしなくなると、事態が、さらに悪化することがあります。
 
他人がどう思うのかを考えることは、思いやりであることもありますから、
介入などと言って、全部、無視してよいものでしょうか。自己中の臭いがします。
 
世の中、嫌われた者勝ちですよ!
嫌われることで、人は自分らしくなれるのですから。
嫌われないように生きるということは、他人都合で生きているだけ。
嫌われる勇気を持つことで、多くの人達が嫌われないようにして損ばかりしていますが、あなたは自分らしく生きて幸せになれる。
得ばかりです!
 
嫌われた者勝ちと言っていますが、嫌われたままで、勝ちだというのは、
自分だけ幸福であればいいという考え方につながる自己中です。
人間は、何を目指して生きているのか、ということを考えるべきでしょう。
 
自分らしさは、他者との人間関係の中で、生まれるものです。
他者を全く無視したところに自分らしさは存在しません。
 
得ばかりです!・・これは、カルト的宣伝文句です。
 
自分を嫌っている人がいるあなたは
幸せ者です
嫌ってくる人は自分から
「私は嫌な人だよ」と教えてくれている
嫌な人に好かれたいですか?
むしろ関わりたくもないでしょう?
人生で仲良くなれる人の数と、好きな人といられる時間は限られている
嫌な人は相手にしないで好きな人と関わっていよう
 
気に入らないことは無視しましょう、という教えと同類のようです。
 
嫌う、ということは、その理由・原因を抜きにして考えてはいけないことです。
 
嫌な人が、一生涯、嫌な人とは限りません。
 
ブログ主の、豪語するための短絡が、かなり、きついようです。
 
今がどれだけ辛くても、何も心配することはありません
人間は忘れる生き物だから
人は今まであった辛いことも過ぎ去ったことは忘れていくもの
だから、何が起きても必ずどうにかなります!
忘れられないことがあっても、それ以上に忘れてることはいくらでもある
忘れているから意識していないだけ
 
初期に考えることを怠ると、一生忘れられないこともあります。
 
「必ずどうにかなります!」・・激励が空回りしています。気合いだけ。
 
嫌われようと、どう思われようとそんなの関係ない
嫌う嫌わない、どう思うのかは相手が決める他人の課題です
自分ではどうにもならない他人の課題に踏み込んで、心を悩ませるなんてどうかしてます
そんなことは気にせず、自分がどうしたいのか、何がやりたいのかに周りが見えなくなるほど集中しよう
 
どこかで聞いた「そんなの関係ない」ですが、相手のことを、自分の課題として、思いやる、ということはしないのでしょうか。ブログ主は、喧嘩ばかりしている集団にいたのでしょうか。
 
相手がこちらを嫌うかどうかは相手の課題、しかし、こちらが相手を思いやるかどうかは、こちらの課題です。
 
そして、周りが見えなくなるのは、あるいは、周りを見なくなるのは、また、それでいいと思うのは、自己中の道。
 
人にどう思われるか気になるなら、この3点を意識しよう
1.他人は自分が思うほど、自分に興味・関心は無い
2.他人の意見はどれだけ親しくても、適当である。自分にベストな助言ではなく、1番無難な意見しかくれない
3.他人はあなたの人生の責任を取ることはできず、あなたも他人の人生の責任を取れない
 
1.2.は、例外もあると言うことです。無視していいということにはならない。
3.について、例えば、思いやることは、責任を取ることとは違う良心の働きです。
ブログ主は、人間関係を、実に、雑に捌(さば)いて、語っています。
 
他者のことで自分が思い煩うほど悩まなくていいとは言えますが、
それで、他者を気にしないで生きることを正当化は出来ないと思います。
 
悪口を言う人は、自分のことから目を背けたいだけ。
自分の人生に絶望していて、自分のことに集中できないから他人のことが気になるのだ。
 
相手に、余計な見なしを決めつけています。ここの、目を背けるか、絶望するか、集中できないか、全部、相手の課題です。他人の課題に介入して見なしを決めつけているのは、誰でしょう。
 
このように、自分の課題と、他人の課題は、はっきり区別できない場合が多いのです。それを、勢いで斬ってしまうのは、短絡と言います。
 
他人のあら探しをして、悪口を言うことで自分はまともなのだと自分で自分に言い聞かせている。
そうやって、自分を正当化することを生きがいにしているのだ。
 
弁明や反論と違って、自己正当化は、いつでもどこでも、醜いものです。
自己正当化は、同時に、あら探しを伴うことが多いです。
 
しかし、ブログ主は、また、相手を決めつけているわけです。こういうことは、個別のケースにおいて、根拠を示して言うべきことです。
 
付き合う人は取捨選択しよう
人は誰と関わるのかで、性格も人生も何もかもが変わる
後ろ向きな人達と付き合えば、人生も性格も消極的になり、悪い事ばかり起きる
前向きな人達と付き合えば、人生も性格も積極的になり、良い事ばかり起きる
限られた人生の時間を誰と過ごすべきなのか、よく考えよう
 
それは、付き合わないで決められることではないでしょう。
 
人間として生きるということは、ある程度の傷を負うということです。
 
前向きに見える人が、あるいは、強く勧めてくる人が、また、物わかりのよさそうなことを言う人が、自己中であることもあります。引きまわされて疲労だけしか残らないこともあります。
 
不機嫌になって、八つ当たりしてくる人は相手にしなくていい。
自分の機嫌を良くするのか、悪くするのかを決めるのは本人の課題です。
わざわざ不機嫌になる人は、周りに気を使わせて支配しようとしているだけ。
上機嫌は意志、不機嫌は惰性。
顔色をうかがって気を使ったら、相手の思うツボです。
 
こういうことも、理由・原因を知ることは必要です。
 
おかしいですね。機嫌を良くしよう、悪くしよう、とか、本人が決めるのでしょうか。
 
「上機嫌は意志、不機嫌は惰性」・・でしょうか。短絡した豪語の断定が過ぎて、意味不明になってゆくようです。
 
誰かに嫌われたからって、それが何だっていうのです?
その人の好みに合わせて、あなたは自分を変えてしまうのですか?
あなたは自分の為に生きているのです
その人に認められる為に生きている訳ではありません
嫌われたのなら嫌われたで、ご縁がなかったと割り切って、新しい出会いを探しましょう
 
相手の好みに合わせて自分を変えるのではなく、何ごとにつけ、反省と考察は必要ということです。でないと、新しい出会いで、また同じことが起こる可能性があります。
 
ブログ主は、他者をすごく嫌いになるような、自分の個人的な経験か何かに執着しているのでしょうか、無人島で生きたいのでしょうか。それは、読者の課題ではなく、ブログ主の課題です。
 
嫌いな人とは、距離を取る
こんなに簡単で、誰にでもできる一番の悩み解決の手段を取れない人が多すぎる
人を嫌うこと、誰かに苦手意識を持つこと自体は悪いことではない
嫌いだからって、傷つけたりすることがいけないのです
お互いに相容れないのなら、無理はしないでしっかりと人間距離を取ろう
 
ここで、傷つけることが出てきます。傷つけ、傷つけられることを避けるために、他者を無視する自己中になることが必要でしょうか。違うと思います。
 
総じて、精神衛生の問題を、豪語で解決することは出来ないと思います。誰よりも、ブログ主が、嫌な記憶~トラウマを抱えている傷だらけのように思われます。
 
苦手意識は、誰でも持つことがあるでしょう。自然と遠ざかるのであって、傷つけ合いを避けるために、距離を取ります。アドラー教だから距離を取るわけではありません。
 
誰に対しても、自立した人間同士としては、距離を取るのは当たり前のことです。
距離の取り方が難しいのですが、他者無視と自己中に短絡しないようにしてください。
 
なお、ずっと批判対象の楽山は、最近は書かないようですが、元々、アドラー教の宣伝者です。
 
 
自己中の渡り2

自己中の渡り
 
 
(2020年01月30日、同日一部修正)
(2021年02月04日、さらに加筆)
 
 
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