ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:学者気取り

 
  楽山ただ長 2
 
 『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方
   (自分で考え、判断することのすすめ)
 2021年06月10日 
 幸福の科学とは何だろう(楽山ブログ)
   を改めて批判。
 
 
殆ど、引用だけなのですが、楽山は、たくさん書けば気が済むのでしょうか。こうやって、読む人に、無駄な時間を費やさせて、疲れさせてゆくのが、楽山のやり方か意地のようです。自らを省みない人は、鬱陶しいだけです。
 
 
*君よ、涙の谷を渡れ。
先日、ツイッター上にて、『君よ、涙の谷を渡れ。』が話題になっていた。
その画を借りて貼るとこうなる。これを読み上げている動画はここにある。
「20210609 君よ、涙の谷を渡れ。」(省略)
改めて読むと、自分のことを仏陀であり、神だと信じ、その証明は求めず、判断もせず、ただひたすらついて来ることを求めるというのは随分と破天荒な説法だ。弟子が師に「ついて行かせてください」とお願いするのであれはわかるが、師が弟子にこれだけ強く無条件に信じることを求めるのは珍しいのではなかろうか。
 
楽山は、自分のことを学者か宗教家とでも思っているのでしょうか。実際は、その実はなく、判断は先入観によっており、批判に対して、応答はなく、弁明もなく、ただ、書いてくるだけに終始しています。単方向に言い張ることだけで、満足できる病質者なのです。
 
楽山は、読者に、これだけ無条件に単方向に見せながら、読んでどうこう、読まれてどういう・・ということを何も考えていないのです。しかも、その大方が、引用から成っており、受け取れる言葉かどうかについても、楽山には、ちゃんとした意見などないということです。
 
 
*シルバー・バーチの霊訓
ちなみに他の思想宗教では、これとは正反対の考え方が説かれている例は少なくない。
まず、シルバー・バーチはこう言っている。
「いつも申し上げているように、もしも私の言っていることが変だと思われたら、もしもそれがあなたの常識に反発を覚えさせたり、あなたの知性を侮辱するものであれば、どうか信じないでいただきたい。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.126)」
 
信じる信じないは自由です。しかし、楽山は、神はいないと言って、否定してきました。その根拠として、神がいるなら悲劇が起きるのはおかしいとか、神がいるなら証明しろ、といった類のことを言い、また、引用したのです。証明できるなら、信じる必要はないのです。楽山の言は、全くの筋違いです。
 
楽山の言うことは、全く双方向の意見交換や交流を前提としていないので、批判しても、社交の世辞を返すか、批判に対しては無視するか、嫌がらせを書いてくるかです。しかも、反省せず、責任を全く感じないのです。楽山の言うことは、真に受けると、異常な疲労か、深い傷になるだけです。
 
 
「私たちは盲目的な信仰、理性が同意できない信仰、不可能なことを要求し奇跡を期待するような信仰をお持ちなさいと言うつもりはありません。
(同上、p.126)」
 
キリスト信仰は、超常の奇跡を思い込み信じ込むことではありません。それら超常の奇跡ついては、地上の私たちは、信仰者でも、分からないと言うのが正直であり、良心というものです。分かったつもりになるのは、楽山のように、一気に、超常に、関わり、なりたがる者たちであります。
 
楽山は、先ず、理性が整っておらず、反キリストとしての先入観や偏見だけで、書いてきます。しかも、楽山自身は、霊能者気取り、学者気取りですから、その語るところ、学習意欲がないことの表れとして、大部分、他者の口を借りており、かつ、一定の主張になっていないという特徴があります。
 
キリスト信仰において、整えるべき理性は、神とキリストの超常奇跡などから、私たち人間は神聖とは違うこと、つまり、人間の不完全を知ることであり、感性においては、キリストが、罪や病の人たちに、命を犠牲にするほどの共感を示したことであります。
 
 
「「交霊会に出席している人が一瞬たりとも理性的判断をおろそかにしてよいと言っているのではありません。これは神からの贈物です。支配霊が誰であろうと、通信霊が誰であろうと、もし言っていることが自分の理性に反発を感じさせたら、それはきっぱりと拒絶するのが絶対的義務です。
(同上、p.135)」
 
楽山は、理性的判断というものが、殆ど成り立っていない人です。だから、言ったら言いっぱなしであり、責任を持ってフォローする気が全くありません。理性ではなく、我執の子供のような妄想的固定観念によって是非を語ってくるので、話にならず、とても迷惑です。
 
 
「「私が ぜひとも指摘しておきたいことは、霊的知識の恩恵を受けた者はあくまでも理性の光に従わねばならないということです。他界した霊がこうして再び戻って来るそもそもの目的は、父なる神が子等に授けた全才能を発揮するように地上人類を促すことです。知識の探求、叡知と真理の追及において理性を無視したり、道義の鏡を曇らせたり、良識を踏みにじるようなことがあってはなりません。
(同上、pp.56-57)」
 
キリスト信仰は、理性や感性という人間の良心を無視する信仰ではありません。人間として、精いっぱい考えなければいけません。そして、できることをして、神に、正直に祈る信仰です。つまり、楽山のような病質者が最も嫌うことであります。
 
キリスト者(クリスチャン)は、共感の主イエス・キリストに、共感する人たちです。
 
楽山は、ガラクタのような屁理屈で、いるとかいないとか、クレームをつける人です。しかも、否定しながら、信仰に代わる別の良きものを、何も用意してはいないのです。
 
なお、上にも述べたように、楽山には、理性からの節操がなく、結論と言い張りだけで出来ているような思想ですが、それを、ボンヤリ言語という婉曲表現で、刷り込んできます。今回も、強迫性の自己顕示欲から、文章を書いているだけで、整えていないから、文章に締まりがなく、無駄に長いのです。
 
 
「いかに立派な霊であっても、いかに高級な霊であっても、いかに博学な霊であっても、その説くところがあなたの性分に合わない時、不合理あるいは不条理と思える時は、遠慮なく拒否するがよろしい。あなたには自由意志があり、自分で自分の生活を律していく責務があるのです。
(同上、p.58)」
 
人間には、信仰者であっても、自由意志があります。それは、神によって与えられたもので、自由意志を持たないのが宗教という先入観を植え付けようとしている楽山の刷り込みは、すべて、妄想的偏見であります。楽山には、自由意志の代わりに、病理の強迫~衝動だけがあるのでしょう。
 
楽山には、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために自由意志がなく、加えて、他者の自由意志を、思考、感性とともに、うんざりするような疲労の迷路に誘導して、鈍麻させ、腐らせ、破壊してゆきます。
 
 
「あなたも自由意志を持った一個の霊であり、簡単に自分の考えを譲るようなことをしてはいけません。(同上、p.60)」
 
自由意志を持った一人の人間である限り、自己愛性人格障害という病魔に従っている楽山に譲るようなことをしてはいけません。楽山に社交の世辞を言ってはいけません。それは楽山の大好物であり、罠の入り口であります。気遣いの出来ない人に対して、気遣いは禁忌であります。
 
 
*釈尊の言葉
仏典には、こうある。
(省略)
この問答からは、釈尊は「疑問は持ってはならない。何も判断せず、ただ信じてついてきなさい」とは正反対の考え方をしていたことがうかがえる。
 
楽山は、真っ当な議論をしたことがありません。議論の動機が自己顕示欲とサディズムですから、相手が疲れるのを見て、喜ぶだけです。楽山とは、議論しようなんて思わないでください。何か言ってきたら、楽山の意見は捨ててください。
 
疑問は、湧いてくるものであり、持ってはならないなら持たなくなるというものではありません。思い込み信仰や、楽山のような無神教カルト&教祖願望的妄想者においては、持っている疑問を押し殺すために、学習と成長がなくなります。自己愛に凝り固まり訂正不能の楽山においては顕著なのです。
 
議論や交流の可能な人は、責任感があり、罪悪感があり、自分で反省や修正の出来る人です。楽山は、全くそういう意志も能力も持っていません。そして、ただ、病魔は、企み、印象を植え付け、刷り込んで、病原を伝染します。
 
 
*神を試す?
聖書はどうかといえば、神に対して「本当の神であることを証明してほしい」と求め、それが叶えられる場面がある。
主は彼に言われた。「わたしはあなたと共にいるから、あなたはミディアン人をあたかも一人の人を倒すように打ち倒すことができる。」彼は言った。「もし御目にかないますなら、あなたがわたしにお告げになるのだというしるしを見せてください。どうか、わたしが戻って来るまでここを離れないでください。供え物を持って来て、御前におささげしますから。」主は、「あなたが帰って来るまでここにいる」と言われた。
ギデオンは行って、子山羊一匹、麦粉一エファの酵母を入れないパンを調え、肉を籠に、肉汁を壺に入れ、テレビンの木の下にいる方に差し出した。神の御使いは、「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、肉汁を注ぎなさい」と言った。ギデオンはそのとおりにした。主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした。主の御使いは消えていた。ギデオンは、この方が主の御使いであることを悟った。
(士師記 6.16-22)
 」
 
大昔の、預言者と御使いの話で、かつ、現代ではほとんど起こっていない超常の神のわざが示された話です。これを信じ込んで、念力が身につくでしょうか、生きている喜びが深くなるでしょうか。否です。信仰は、人が超常的に高められるためではなく、超常に近づくためでもありません。
 
超常ではないところの、心の奇跡については、人間を癒やし救う大いなる恵みとなります。それを受けると、祈る時と所を与えられ、絶対孤独からの解放を得て、温もりと潤いに満ちた生き方へと成長するでしょう。それを愛と呼ぶのだろうと思います。
 
楽山は、聖書の話を、神が、焼き尽くすかのような、何でもやってしまう身勝手な独裁者的存在という印象を吹き込もうとしています。全能と、身勝手を、混同した詭弁として都合のよさそうに見えるところを引用してくる汚いやり方を平気でやってくるので、参考にしないでください。
 
この部分は、書いてある通り、「この方が主の御使いであることを悟った」という話です。それ以上のことは、信仰者なら、何のための命令形、何のための謙譲語であるか、ある程度は、分かるでしょう。神話と言ってもよい個所です。楽山は、神否定のために悪用しているだけです。
 
楽山は、神?というと、超常なんだから何でも奇跡で解決して、悲劇も苦しみも取り去って、便利な万能薬的存在という幼稚な味方です。楽山に都合のよい存在として考え、そうではない現実から存在しないと言い張っている人です。だから書くたびに、自身の、信仰からの無縁を証明しています。
 
 
ギデオンは神にこう言った。「もしお告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっているなら、羊一匹分の毛を麦打ち場に置きますから、その羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているようにしてください。そうすれば、お告げになったように、わたしの手によってイスラエルを救おうとなさっていることが納得できます。」
すると、そのようになった。翌朝早く起き、彼が羊の毛を押さえて、その羊の毛から露を絞り出すと、鉢は水でいっぱいになった。ギデオンはまた神に言った。「どうかお怒りにならず、もう一度言わせてください。もう一度だけ羊の毛で試すのを許し、羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください。」その夜、神はそのようにされた。羊の毛だけは乾いており、土には一面露が置かれていた。
(士師記 6.36-40)
 」
この他には、「ヨブ記」では、神に強く異議申し立てをしたことで、神から返答があり救われた話が書いてある。まさに「求めよ、さらば与えられん」である。これも、「判断せず、ただついていく」とは正反対の考え方だろう。
 
嘘です。ヨブ記では、「神に強く異議申し立てをした」からではなく、神が、直接、ヨブを叱って、ヨブは悔い改めたから、救われたということです。悔い改めない楽山は、このように暴力的な歪曲を平気でしてくる人ですから、楽山の意見は、その場で捨ててください。正しさは微塵もありません。
 
 
*仏陀とイエス
仏典にも聖書にも、仏陀、イエスが自らを証しする場面がある。
セーラ・バラモンは師の身に三十二の〈偉人の相〉があるかどうかを探した。セーラ・バラモンは、師の身体に、ただ二つの相を除いて、三十二の偉人の相が殆ど具わっているのを見た。ただ二つの〈偉人の相〉に関しては、(それらがはたして師にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(〈目ざめた人(ブッダ)〉であるということを)信用せず、信仰しなかった。その二つとは体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相である。
 そのとき師は思った、「このセーラ・バラモンはわが身に三十二の偉人の相を殆んど見つけているが、ただ二つの相を見ていない。ただ体の膜の中におさめられた隠所と広長舌相という二つの偉人の相に関しては、(それらがはたしてわたくしの身にあるかどうかを)かれは疑い惑い、(目ざめた人(ブッダ)であるということを)信用せず、信仰していない」と。
そこで師は、セーラ・バラモンが師の体の膜の中におさめられた隠所を見得るような神通を示現した。次に師は舌を出し、舌で両耳孔を上下になめまわし、両鼻孔を上下になめまわし、前の額を一面に舌で撫でた。
(『ブッダのことば -スッタニパータ-』中村元訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1985年、pp.122-123)
 
ここは、私には、よく分かりません。それにしても、楽山は、聖書については妄想的曲解を語り、ここでは、全く解説をしないようです。分かりもせずに、恥知らずに、よく出してくるものだ・・という楽山についての感想だけしかありません。
 
 
そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
(ルカによる福音書24.38-43) 
 」
 
キリストの復活の話です。聖書は肉体をもって復活したことを聖書は伝えています。現代の私たちは、それ以上に、キリストが不滅であり、聖書を通して、二千年を超えて、キリストの言行録という福音が伝わっていて、私たちが読んでいる、ということを思うべきであります。
 
今の時代に、肉体の復活だけにこだわるのは、楽山のような、宗教を、超常の魔法のように見なしている者の因業だと思います。なお、楽山は、聖書を、本当には読んではいないと思います。いちゃもんの材料にしているだけでしょう。いたるところで無理解が表れてきたからです。
 
 
十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
(ヨハネによる福音書20.24-29)
 」
見たから信じるよりは、見ないで信じる方がよいらしいが、釈迦もイエスも、見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ。
 
トマスが、復活を疑い、キリストが、その証拠を見せる聖句です。「見たら信じることができる者にはそのようにしてくれることもあるようだ」と書いて、楽山は、何が言いたいのでしょう。否定したり、肯定したり、そして、一切、責任を負わない楽山らしい、いい加減さです。
 
現代の私たちは、殆ど、見て信じることはないのだから、信仰は、見ないで信じることになります。見ないけれど、聖書と体験から、感じて、受け取り、否定できないのは、共感があるからです。それが、絶望を、希望によって、癒してくれるからです。
 
 
*個人主義と自由
話は飛ぶようであるが、夏目漱石の「私の個人主義」でも、「自己に忠実であれ」という趣旨の話がされている。これは文学のみならず、思想宗教その他なんにでも応用可能な考え方だろう。
たとえば西洋人がこれは立派な詩だとか、口調が大変好いとか云っても、それはその西洋人の見るところで、私の参考にならん事はないにしても、私にそう思えなければ、とうてい受売をすべきはずのものではないのです。私が独立した一個の日本人であって、けっして英国人の奴婢でない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具そなえていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです。
(「私の個人主義」夏目漱石著)
 」
 
ここで、「自己に忠実であれ」という主旨のことを、なぜ、言ってくるのでしょう。文脈がバラバラになっています。「意見を曲げてはならない」ということで、いつもの自己の悪事と病質を無視した正当化でしょうか。悪が自己に忠実で意見を曲げないなら、救いなど、あるはずもないのです。
 
整った意見を持つことのできない楽山は、バラバラな思い付きを、真っ当に見せかけることに一生を費やすのでしょう。だますことだけの人生の虚しさを思わずにはいられません。癒されることがなく、自慰行為しかない、楽山の人生です。
 
 
私はこの自己本位という言葉を自分の手に握ってから大変強くなりました。彼ら何者ぞやと気慨が出ました。今まで茫然と自失していた私に、ここに立って、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものは実にこの自我本位の四字なのであります。
 自白すれば私はその四字から新たに出立したのであります。
(同上)
 」
 
「自己本位」「自我本位」と続きます。他者によって動揺しないことであって、楽山のように、反省もせず、責任も負わず、勝手な意見を、だらだら言い続けることとは全然違うということです。
 
楽山は、このように、自分の悪と罪を無視して、当てはまる場合の状況と条件があるような曖昧な言葉を、無条件で書いて悪用するのです。
 
 
個人の自由は先刻お話した個性の発展上極めて必要なものであって、その個性の発展がまたあなたがたの幸福に非常な関係を及ぼすのだから、どうしても他に影響のない限り、僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持し、他人にも附与しなくてはなるまいかと考えられます。それがとりも直さず私のいう個人主義なのです。
(同上)
 」
 
個人の自由と、楽山のような身勝手な自己中心とは、全然違うということを強調しておきます。まるで、偉人の言葉尻に縋りついて噛みついているような楽山です。引用された人にとっても、一般にとっても、甚だ迷惑です。
 
 
もっと解りやすく云えば、党派心がなくって理非がある主義なのです。朋党を結び団隊を作って、権力や金力のために盲動しないという事なのです。それだからその裏面には人に知られない淋しさも潜んでいるのです。すでに党派でない以上、我は我の行くべき道を勝手に行くだけで、そうしてこれと同時に、他人の行くべき道を妨げないのだから、ある時ある場合には人間がばらばらにならなければなりません。そこが淋しいのです。
(同上)
 」
 
楽山は、自己正当化のために「我は我の行くべき道を勝手に行く」という言葉に反応していますが、楽山は、自身の虚言で出来ている記事を公開することで、読んだ人の、道を妨げ、重大な疲労を与えています。楽山の言うことは、逆に、個人の自由を妨げているのですが、気づかないようです。
 
自己愛性の悪と偽善のペテン師である楽山が「我は我の行くべき道を勝手に行く」ことほど、迷惑で有害な経過はないでしょう。楽山は、病質のために、格言や良い言葉を腐らせている自分に、まだ、気づかないようです。
 
 
*正反対の考え方
以上、上の例を参考にしつつ、『君よ、涙の谷を渡れ。』とは正反対の考え方をまとめると、次のように言えるのではないかと思う(ツイート)。
「2021-06-06 (3)自分で考え、判断することが大切」(省略)
*結論
HS信者のなかには、『君よ、涙の谷を渡れ。』の考え方を絶対視し、誰もが認めるべきものであるとして、それに同意しない者は普遍の真理を理解できない愚か者だとして見下す人がいる。
でもこのように他の思想宗教を調べてみれば、『君よ、涙の谷を渡れ。』のように、大川隆法を神だと信じて、ただひたすらについて行くという考え方は、非常に特異なものであり、誰もが共感できるものとはいえないことがわかるはずだ。HS信者の一部…大川隆法に疑問を提示し、異論を述べる者を下根だの、悪霊憑きだのと言う輩には、この点を承知しておいてほしいと思う。
 
楽山のようなペテン師が、カルト批判をしたつもりで、個人の自由を語ることは、その実、楽山は、吐き気のするような卑怯で汚い詭弁と嘘を並べてきたのですから、むしろ、自由のために闘っている総ての言論者や運動家を侮辱することにしかなりません。
 
楽山こそ、状況や条件を無視することで、普遍性のある言葉を悪用して、腐った己の目的に悪用しています。あらゆるテーマについて、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)者は、自己愛のために、反省・学習・成長がなく、批判に適性がないことを、楽山自身が証明してゆくのです。
 
 
◇◆ 追記 2021.6.10 ◆◇
*先哲を乗り越える
哲学入門を読んでいたら、本記事のテーマに関連している箇所があったのでメモしてみる。
後世の人間たちは、偉大な先人の哲学を崇めることなく、疑って疑って疑いつくし、徹底的に破壊する。なぜなら、先人の哲学に満足してそこで終わってしまったら、何の進展もないからだ。子供がいつかは強大な力を誇っていた父親を乗り越えなければならないのと同様、目の前にどれだけ偉大な史上最強の哲学があろうと、後世の人間はそれを乗り越えて、一歩先に進まなくてはならない。先人の哲学に反逆し、それを打ち砕く「より強い哲学」を生み出さなくてはならない。
 なお、これは西洋哲学だけの話ではなく、すべての学問に共通することである。
(『史上最強の哲学入門 東洋の鉄人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、1018年、pp.14-15)
 」
東洋哲学の場合は、先人の哲学を真理と崇め、それについてさまざまな解釈をするという方向にすすむが、西洋哲学…学問全体では上のように考えるとのことである。
 
楽山のやっていることは、決して「乗り越えて、一歩先に進」むことではありません。処遇に不満ばかりいだいている者が、陰気臭いクレームを執拗に並べているだけです。楽山は、決して「より強い哲学」を生み出してなどいません。引用だらけの駄文は、うっとうしいだけです。
 
楽山は、やはり、何らかの不遇に対して、自己愛性の、ねじ曲がった根性で、いつも、復讐のような仕返しを企んでいるルサンチマン(弱者に募る怨念、負け犬の遠吠え、いじけた妬み根性など)だと思います。笑うことと怒ることはあっても、しんみり悲しむ情感がないと思います。
 
東洋や西洋の哲学や、学問の名前や、学者の名前を長々と並べても無駄なのです。品位のなさが、書いた文章の文脈や、滅裂な引用や、相変わらずの手前勝手な解釈と詭弁と嘘にまみれて、いっそう、悲惨な表れ方をしているだけなのです。
 
 
※ 
 
私は、前には偽牧師シャロームを、今は病的ナルシストの楽山を、資料化することを目指しています。資料を見るような視線を育てるようにすると、大方の悪口も、また言ってる・・という感じで眺めて、ある程度の分析のようなものが出来るだろうと思って努めています。
 
私たちは、ときに~しばしば、罪を犯します。不可避であることもあるでしょう。しかし、故意に、悪意によって、犯した罪、あるいは、犯し続けている罪は、隠せば善を装う偽善であり、許されることも赦されることもありません。社会を見れば、大きな罪は、ほとんど皆、偽善です。
 
何よりも偽善は、ゆるしを求めてなどいない罪であり、放置すれば、いつまでも、いい気になって、悔い改めることなく続く罪であり、そして害に結びつくものです。バレないだろうと、分かりはしないさと、他者と公共を見くびっている悪意の大罪なのです。
 
 
ただ長いだけ

ただ長いだけ
 
 
(2021年06月12日)
(2022年06月13日、再録+加筆)
 
 
 
  知らない夏
 
浮きながら一歩一歩
歩いている道に陽射しは鈍く
数え切れない苦悩の胞子をはらんで
夏はやってくるのです
 
汗ばむ肩に首筋に
測りきれない表情を見せて
おどけた無為がにじんできます
 
折れるようにふらついて
やっと座った椅子の上に
とぼけた砂の顔
計り知れない徒労を乗せて
季節はめぐってくるのです
 
涙する代わりにあくびをして
鈍麻した肉体さえ
居続けること
座りつづけることを嫌っている
 
倦怠を支えてきたもの
その来歴も忘れたかのように
古びた自画像の
ひびのまわりにゆっくり
ゆっくり乾いた記憶を
もろい煉瓦のように積み重ねながら
何を塗って固めたらよいのか
夏に冬の寒さはわからないよと
残った隙間が笑っています
得体の知れない寂しさに
 
 
  長椅子の部屋
 
この長椅子に腰を下ろして
鳥が切り裂く短い空を聞く
切り刻んでいる私のまわりだけ
ブックカバーの折り込みを
はぎ取るために本棚があり
なくした本のためにビニールの
決意の窓には徒労
と君とも私とも呼べない名が
ふうっと浮かぶ一つの川面を
撫でるような風の向こうに遠ざかる
 
 
  家の階段
 
数えきれない
数えることもない
上り下りする我が家の階段
最近まで九十度だと思っていた
途中で百八十度曲がる
 
引っ越しのとき狭くて机を運べなかった
階段の下がトイレ
トイレの天井に段差がついている
急で足を引っ掛けでもしたら
足を踏み外したら大けがか
ただでは済むまい
 
蟹股でゆっくり降りる登る
二階の方が温度が高い
夏は上れば熱気で体力も気力も失せてゆく
 
古びて汚れてますます狭く不気味
一階は降りるたび別の部屋
どこか違ってる我が身の置き所
通気がない先が見えない
登ったら最後降りられないときが来る
昇天か地獄か永遠か
それに近い上り下りの過去と未来
道のりを合わせれば空疎な旅
遠い遠い
長い長い
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
個人的な感想ですけど
身内が亡くなった時、医療関係者は丁寧に清め、心を込めて手を合わせて下さいました。葬儀屋さんも同様です。
でも宗教者は横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした。
このことからすると、慰霊や祈りは宗教かどうかより、真摯かどうかで決まるのではないかと思います。
午前9:49 · 2022年6月11日·Twitter Web App
 
宗教者という言い方で「横柄な態度で、死者を悼む気持ちは皆無でした」と言えば、宗教一般になるわけで、楽山は、自らに対して無反省、公共に対して無責任、言葉遣いについて無遠慮かつ無思慮ということです。実際は、特定の個人が宗教人ではないという話です。楽山が当てはまるでしょう。
 
一方、態度も物言いも、ずっと横柄なのは、楽山です。ゆえに、楽山に、宗教について語る資格はありません。前から言っていることですが、楽山には理解力がないので、一向に変わりません。自らを省みず、悪口だけを宗教に向けてきます。つまり、「真摯」さが、楽山には皆無なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、過ちに過ちを、罪に罪を、偽善に偽善を、重ねてきました。しかも、改善する意志はないようです。ネットにおいて、投稿が少なくなっても、油断はできません。楽山の、心からの言葉を、まだ一度も聞いたことはないのです。楽山との交流は、人生の邪魔にしかならないものです。
 
楽山は、無反省で無責任のために、知性と感性ともに、学習と成長が見られません。ゆえに、言葉の適用範囲や応用条件を弁えることが出来ません。だから、発言が雑で、むしろ、わざと雑に言って、自分の都合に合わせようとします。つまり、楽山は、人間でなくなる方向へ堕ちつつあるのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の反宗教2
 
 『アメリカの宗教右派』飯山雅史著
 2020年08月08日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の反宗教思想は、まず、宗教の本質を全く理解していないのに、宗教を客観的に見ている自分を気取ることから始まり、それが、楽山のスタンスになっています。そういう卑怯な立ち位置は、どこにも正当に存在しないのです。悪意の産物だからです。
 
この本は、アメリカの宗教事情に興味があったので、タイトルにひかれて読んでみたのだが、序盤ではアメリカの宗教史のような体裁で、長老派、バプチスト、メソジストなど各教派の成り立ちや社会的歴史的な立ち位置について語られている。
また過去の大きな出来事としては、20世紀初頭に進化論などの近代科学や高等批評という聖書分析とどう向き合うかという議論がなされ、それらを受け入れる主流派(多数派、近代主義者)と、あくまで聖書の言葉をそのまま読もうとする原理主義派、両者の中間に位置する福音派にわかれた(プロテスタントの大分裂)のだという。
 
宗教は、思想となり、教条主義となり、イデオロギーとなって、多くの弊害を生んできました。しかし、それは、人間の不完全性から生まれた罪の性質であり、宗教そのものの意義を損なうものではなく、むしろ信仰を受け取る人間の側の修正を促す必要を表しているのです。
 
楽山のような者が、手持ちの、半端で偏った、偏見と先入観に満ちた知識で決めつけて否定することこそが、信仰を最も損なう害悪です。楽山の知識は、宗教と信仰を語る上で、何の役にも立たず、ただ、楽山の攻撃性を満足させるだけのために積まれているものです。
 
人間には、不完全であるゆえに、罪の性質を常に持っています。そこから、様々な過ちを犯します。しかしながら、それゆえにこそ、逆に、赦しと救いにつながる宗教、そして、心と命を支える信仰が必要になるのです。
 
その罪の性質を、自らに少しも認めようとせず、ゆえに、何の共感もなく、悪い材料だけを持ってきて宗教をおとしめているのが、楽山であります。聖書においても、心無い者は、悪魔としての役割しか持ってはいなかったのであります。
 
そういう悪意だけの役割を、自己愛という魔物を原動力にして、実践しているのが、楽山であり、善に見せかけた悪意の存在であります。まさに、その類似は、聖書にあるところの偽善者であり、一見まともに見せかけていても、心を失った詭弁と戒律と教条の悪鬼なのです。
 
千年王国については、主流派や福音派はキリストの再臨は千年王国の後だとする後千年王国説の立場をとり、人々の努力によって千年王国は達成可能とするなど楽観的だが、原理主義派はキリストの再臨は千年王国より前だという前千年王国説の立場をとり、人々の努力によっては千年王国は実現できず、人々は「ただ、悔い改めてキリストの審判を待つしかない」(p.61)として悲観的傾向が強いという。
 
悪意だけの楽山が批判をしようとすると、人間的な欠陥が表れてきます。すなわち、人間離れと現実離れの話しか言えないということです。誰が、千年王国と再臨があるから信仰をもつ、などという幼稚な動機でキリスト者になるでしょう。
 
それぞれが、悲観的傾向ではなく、現実の悲しみから、救いと癒しを求めているのであって、楽山の空想話などは、たとえば、靴の端にゴミが付いているからお前は悪者だ、と言っているようなものです。誰が、千年王国の立場を待つというのでしょう。楽山の固陋(ころう)の嘘八百です。
 
楽山は、人の信仰を、ゴミも靴も人格も、いっしょにしている妄想患者なのです。そして、一方で、楽山は、何の努力もしないし、自らのゴミにも罪にも不完全性にも、全く気づかないという、すっとぼけの病的ナルシストなのです。
 
ねじけて腐った根性で、読書家と批評家を気取っている楽山は、理解力と共感力の欠如から、また、何をやってもうまくいかないという現実の当然の悲観的傾向から、怨念の固まりになっているだけのルサンチマン(負け犬根性)で、宗教と信仰を、訂正不能の我執から貶めているだけなのです。
 
(ネットより)
ルサンチマン(仏: ressentiment、 (フランス語発音: [rəsɑ̃timɑ̃]) )は、主に弱者が強者に対して、「憤り・怨恨・憎悪・非難」の感情を持つことをいう。
 
ルサンチマンは、多く、カルトのベースとなる心性です。そして、努力せずに、一気に、偉い人~悟った人~バランスのとれた人~ひとかどの人物のつもりで自慢したがる根性です。アンチを気取る楽山は、むしろ真逆の、そういうカルトの性質と、むしろ、符合しています。
 
中盤以降は宗教と政治のかかわりについての記述が増え、宗教右派は1960年代の行き過ぎたリベラル傾向に対する反発から活動を活発化させ、政治的影響力を強めたものの、近年はピークは過ぎてやや停滞気味になっているとしている。本書は2008年の出版なので、この部分は現在でもそのまま受け取ってよいかどうかは慎重であらねばならぬが、さて著者の見解は妥当だったというべきかどうか…。
 
楽山は、宗教と信仰そのものの本質について、まるで語る言葉を持っていないために、超常のことゆえに誰も否定できない想像~空想話か、このような、政治との関係をもって、専門用語を使う評論家気取りで、現象だけを論(あげつら)って、宗教を批判しているつもりになるのでしょう。
 
本質を知らずに、ここでは政治の話をして、悪口だけを刷り込んで、広めようとしてくる楽山には、反宗教・反キリストの、悪意だけの、いちゃもん屋という評価しかありません。何度も、何度も、人の顔に、首筋に、鼻くそをなすりつけてくるような汚らしさは、嫌悪感と疲労をもたらします。
 
ひょっとしたら、それが目的かもしれません。もはや、人間としての、一人一人に大切な、好ましいプライドや、正常な尊厳など、楽山には欠片もなくて、ゆえに、他者にも認めなくなったのでしょうか。悪い噂だけを言いふらして、おとしめて自己満悦するサディストぶりが表れています。
 
宗教の政治への影響には、色濃く、人間の不完全であるゆえの罪性が表れてきます。しかも、それは一部の極端な例として明らかになるでしょう。楽山の言は、楽山の暇つぶしや、いちゃもんの材料にはなっても、宗教批判の根拠にはなりません。
 
楽山の言に、いつも欠けているのが、そういう、物事の、"本質への洞察" なのです。これがないところには、いかなる批判も成り立たず、ただただ、程度の低い悪口にしかなりません。的を著しく外しながら、宗教と信仰を語る楽山に、耳を貸さないでほしいと思います。
 
一部であり、極端な例ですから、全ての信仰が間違いということにはなりません。さらに、間違いは、いつも、人が犯すものです。その典型としては、偽善という最悪のものを、楽山その人が、今、次々に、表しているわけです。
 
アメリカの宗教事情というと、中絶反対のために婦人科医を殺害しただとか、レイプによる妊娠であっても中絶を禁ずる法律がつくられただとか、進化論を学校で教えるのに反対する人々がいるなど、驚かされるニュースが多いし、よく分からないところがあるのだが、本書を読んでその背景がいくらか見えてきたようでありがたい。引き続き同一テーマの書籍を読んでみたいと思う。
 
こういう人間とは思えない蛮行に走る事件が起こることはあります。人間らしい宗教と信仰ではなく、カルト化している場合です。そして、体質的に、批判されて返せないものだから、執念深く、いちゃもんだけを、的外れにつけてくる楽山は、カルト的煽動者と言えるでしょう。
 
どういうカルトなのか、いつまでも、失禁のように続く無反応の記事が、いずれ、それを表してゆくでしょう。楽山は、宗教にこだわると、こんなことになるんだよ、という、悪い例だけを挙げて、いかにも煽動家らしく、煽っています。
 
しかし、一方で、キリスト教をほめる話も書いてきました。この否定した、褒めたり、という相反する2つのことから、楽山の言は、信頼度ゼロとなり、どちらも嘘であり、残っているのは、過大な自尊からの我執の衝動的な発露でしかないと分かるのです。
 
信仰者の罪は、いつも、人が、教えの本質を曲解して、犯すものです。
 
一部の極端な例を、宗教の本質であるかのように、こわいですね、とばかり言いふらす下種の根性が、分別を欠いた、楽山の生業なのです。
 
宗教と信仰のもたらす良きものを、その本質を、楽山は、いっさい知りません。知りえないものだから、いわれなき復讐のように、汚物を投げては、これが宗教だとばかり、いい気になっています。この見苦しささえも、無反省で、高等感情のない、楽山本人だけは、感じないのでしょう。
 
楽山の言うことを、その一面においても、いっさい信頼してはいけません。楽山は、空っぽの本質の、醜い性根の炎症性の皮として、詭弁と誘導だけは卑怯な方法を知っているのです。決して、関わらないように、近づかないように、警戒してください。
 
 
反面、鬼

反面、鬼
 
 
(2020年08月09日)
(2021年09月29日、再録+)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  時間
 
あらゆるものは
見ているときだけ
そこにあった
信じられる
ぎりぎりの線を
歩いていた
言葉に迷い
逆説におぼれた
命に限りがあり
さかのぼれば
やはり物心という
始まりという限りがあった
長い長い時間の中で
ほんの短い間
存在する命
どんな生き方をしても
どんな死に方をしても
生きている間だけ
時間は存在し
そこにあって
過ぎてゆく
 
私の時間は
限りある存在を
うまくやり過ごす術をもたず
信じられない
ぎりぎりの線を迷いながら
知覚するときだけ
そこにあって
ありとあらゆるものが
そのときだけ
私に関わっていた
その大切な関係を
無視した分
私は不連続に
唐突に年老いていった
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
(昔々・・)
 
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  有名人を悪用する楽山2
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという当てつけの特徴が出ています。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いていることです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義中毒です。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという経過が続いているのです。楽山らしく、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えています。ゆえに、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、その個々の批判が悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。神通力についても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、思いついたらバタンバタンと薄板を叩きつけるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算がある、ということが、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、暫定的にも確かに主張できるものが、理路と共感の貧困な楽山の中には、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけ持っていることになります。
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回、表れています。重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な感情・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい、考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や当てつけがあるということです。
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを与えてくる地獄が待っています。
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、この句のような、恥を知っている人なら、出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、嘘の芝居だと思います。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の猿芝居なのです。
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、適応する必要があるものでしょうか、調節機能だと思いますが。それとも、ネガティブフィードバックについて、上に書いたことを繰り返しているだけでしょうか。
 
ネガティブフィードバックが生存戦略ならば意味がありそうだが、戦略と言うほどのものでしょうか。それとも、説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうか。こういう分かったふうだけのきれいごとは、シャロームの大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。
 
楽山やシャロームや易坊などの易坊類には、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、しつこいほど、表れてきたのです。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、言論も言葉遣いも、雑で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて、疑問がないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!有効ですね!という気になって、満悦しているだけだと思います。矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化しておくことでしょう。訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方になります。
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。人間という見方は必要ないとでも言うのでしょうか、否です。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、責任逃れにしかなりません。
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていない楽山です。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、見栄張りと遠吠えです。だから、自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りと化粧だらけです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益だと、つくづく思います。
 
 
ちんどん

ちんどん
 
 
(2020年06月16日)
(2021年06月28日、再録+)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
心に深い傷を残す自己愛性人格障害NPDの記憶、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマに苦しむ人を、全く気にすることなく、もてあそんで笑っているのが、楽山のようなNPDの病質者です。
 
楽山のような病質者の人権をも守るべきでしょうか、否です。自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。何故なら、人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山は、持ち得ないからです。
 
恐らく、偽善に近い意味でしょうが、誰よりも、楽山こそが、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない偽善者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山は、批判者を、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、根拠のある反論も弁明も出来ません。この経過が、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山こそ、無反省・無責任の、善魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者です。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPD楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の管理人です。
 
 
楽山は、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路がありません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ、学問を気取ります。楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、非常識になっています。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、よく読むと、不自然です。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような人格になってゆくでしょう。
 
 
(2021年06月28日)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ