3つの聖句(二つの聖句3)
 
 二つの聖句 2020-01-19 00:05:05、再録+
 
 
キリスト信仰は、行為義認ではなく、信仰義認です。そして、信仰とは、神の前に、すなわち、祈りにおいて、精いっぱい、正直であることです。それが、神の存在を人が認めることであり、神の前に、それ以上のことを人は為しえません。すなわち、救われる必要十分条件であります。
 
キリスト信仰を、安い道徳に貶めないために、おさらいになりますが、大切な2つの聖句について。
 
 
聖書の犯罪人の話です。磔刑という死刑ですから、殺人犯なのでしょうか。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:39
十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
23:40-42
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:39-43、新約聖書)
 
聖書の中にも、行いを重視する聖句はあります。しかし、行いは、信仰の中心ではありません。十字架上の犯罪人は、何か善行を施したから救われたのでしょうか、否です。これから肉体が死ぬという時、恐らく地上では最後の、そして、唯一の、正直な告白のみによって救われたのです。
 
 
次は、教えを守ってきたという自信のある金持ちの青年についての聖句です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18-19
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
「よいかたはただひとりだけ」なのです。いかなる人の善行も、神に比べれば、遠く及ばないのです。善の完全なるは、ただ御一方、神のみであります。言うまでもないことです。なぜ、人は、神の善までを欲望し、敬虔を忘れて自慢したがり、完全などという大それたものを欲しがるのでしょう。
 
キリストは、青年に尋ねられて、戒めを守ることを告げるのですが、そのあとの、青年の言葉「みな守ってきました」という言葉に対して、ただ単に、謙遜せよ、という意味で戒めているのではありません。完全に守れる者など一人もいないからです。
 
人は、神の前で、決して、分かっている、守っている、見える、と言うことは出来ないのです。これらは、完全なる神聖だけに通用する言葉だからです。青年は、やや自慢げに、永遠と完全を欲しがりました。それは、神のみの持ち物です。
 
その証拠に、21節では、キリストは、青年の不備を見抜いているかのように、「完全になりたいと思うなら」と言って、青年が守れない教えを告げました。恐らく、キリストは、青年のうちに、完全欲と慢心があることを見抜いたのだろうと思います。
 
完全は、神だけのものです。そして、キリストは、命をもって、それを成し遂げました。キリストは、青年に、社会通念的な道徳の善ではなく、神の完全な正義のことを話したのです。それは、人間が、ふつうの善行によって出来ることではないからです。
 
青年は、"悲しみながら" 立ち去りました。ここは大事なところです。青年のその後は書かれていないと思いますが、パリサイ人のように否定されたわけではありません。パリサイ人のように、批判されるとキリストを殺そうと企む者たちは、悲しむことがなく、怒りと憎しみを返すしかなかったということです。
 
青年は、パリサイ人とは違います。なんとなくですが、キリストの、悲しみながら去る青年の、信仰の成長を期待しているような温かい眼差しを感じます。ここで、短い引用ですが、
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
(ネットより)
マタイによる福音書 5:28 新共同訳
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
この聖句を、完全になりたいと思うなら、これを守れるか、と考えてみると、この心の中の姦淫の罪を犯さない者はいない、すなわち、完全な者は、罪なき者は、一人もいない、ということが分かってくるでしょう。これは、人間という存在に着いてまわる不可避の欲望、つまり、原罪だからです。
 
そういう教えとして受け取らないと、この聖句は、できるだけ守ればいい、という安い道徳に堕してしまいます。そう解釈している者もいるようです。新共同訳の、キリスト教を、安い道徳におとしめようとする、「女」→「他人の妻」→「不倫の戒め」という誤訳の罪は、非常に大きいのです。
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、受け取る私たちは人間の言葉しか知らないのです。受け取るたびに誤解しているのかもしれません。ゆえに、成長可能な解釈そして解説と、成長可能な信仰の心が必要です。信仰を通念的道徳におとしめる者は、訳と解釈に加わるべきではありません。
 
神の言葉を、目覚めにつながらない安易な道徳律に書き換える者は、既に、偽善者、背教者、反キリストと言われる罪を犯しています。聖書を無力にしようという企みの集団でもいるのだろうか・・とさえ思ってしまいます。闇を照らす光を、誰でも知っている道徳に変えてはいけません。
 
人間の真実として、あるいは、むしろ救いとして、文字通りではなく、妄想でもなく、真実として響くものを追求する歩みに、そして、人間の成長に、少なくとも終末まで、終わりはないのです。こう書いておけば無難だろうという、ぬるい気持ちで解釈して改める気もないなら、悪魔の所業と言わざるを得ません。
 
神と違って、人間である信仰者は、不完全で罪深いという自覚ゆえに、信仰に救いを求めて、神に祈ります。それは、過ちを犯しても、絶望することなく、立ち直って生き続けることを可能にします。決して、不倫はいけません、あるいは、どうすれば正しい・・という単純さで、まとめることなど出来ません。
 
信仰は道であります。決して不変の境地ではありません。洗礼は、人から神への導きを乞う祈りの形式であります。決して信仰の保証でも生命保険でもありません。信仰者も罪を犯します。上の新共同訳に、その典型を見ています。
 
 
闇を照らす光

闇を照らす光
 
 
(2020年01月19日、同日一部修正)
(2021年01月27日、再録+)
(2022年01月29日、再録+加筆)
 
 
 
  寒い目覚め
 
悪い夢から
目覚めてみれば
もっと辛い世界でした
外は明るく
人の働く音がして
車の音がして
ときおり方言めいた声がして
働く音がして
トントンカンカンと
楽ではないはずの力仕事の音を
支えている元気は何だろうと思いながら
いっそもう一度眠りについて
夢の中に目覚めたい
でも覚めるから夢
覚めない夢に落ちたら
それが地獄というものなのでしょう
 
冬の寒さの中に起きてみようかと
求められてもいない
人の間に
砂の顔を滑らせながら
もう少し
人間の声の匂いを求めてみようかと
誰にも説明できない痛みを
雪解けの冷たさに隠しながら
 
 
  祈り・目覚め
 
また嫌なものを見てしまった
という気分で目が覚める
まだ生きてるの 頑張るねー
という呟きで自嘲する 
それでも
最後の眠りが未だ訪れていないように
生きるための一番大切な目覚めは
まだなのですから
欲しがっていてもいいですか
目覚め
欲しがるだけで終わりそうですけれど・・
 
まるで神様に保証を求めているようだな
と呟いてまた自嘲して
人目をできるだけ避ける暮らしでも
人々の間に自らを曝してゆく
見られる嫌なものになって
去らせてゆく
 
 
  螺旋階段
 
狭く細い螺旋階段では
休む場所がない
安らぐ場所がない
踊り場もない
動く気もしない
下に何があったか覚えていない
上に何を求めていたか忘れた
上れば息が上がる死にそうだ
下れば転ぶ落ちそうだ
どちらにしても目が回る
動く気にもならない
狭く細い一日の
中途にいつも立たされることになるのだが
不安な未知に向かって
這ってでも上る人は多くても
飛び下りる人は稀であり
なぜかその稀な人のほうが
気になって気になって仕方がないから
上ろうともせず下ろうともせず
動かないのに目を回している昨今
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
ペテン師の楽山には、何の魅力もありません。ネトウヨで、インテリ気取りで、軽薄な自己顕示欲だけのブロガーで、無反省、無責任、無神経の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、見るべき価値は皆無です。正常の議論が、楽山には出来ません。学習機能がないからです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング