ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:完全と不完全

 
  神を恐れる心4-3
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111022.html
 
 
 信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
 神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
 聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
 漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
 神は、人において規定されうるようなお方ではありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人間の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、やがて感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。そうして、人は慢心に向かいやすいことを知るべきです。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として在るような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
神についての
人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの想いに過ぎません。
だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。寛容なる神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、人間などが、うっかり友だちのように、近づけるなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては決して成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能なように、人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
偏る(かたよる、片寄る)
騙す(だます)
 
 
恐るべき御方

恐るべき御方
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということだろうか。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように変わったり、片方の合意がなくなれば消えてしまう、というものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるという部分に結び付けられているからです。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しんみりと悲しむ心、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧(かて)は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己中の病質というのは、近づけば近づくほど、付き合いが長ければ長いほど、質問や批判をすればするほど、驚きや痛みとともに人格を損傷してきます。決して生き方として成り立たないのです。人は人、自分を貫く、などと言っていた楽山ですが、結局、自己中正当化の詭弁に過ぎないのです。
 
 
 
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  「確信」3
 
 2018年04月30日
  かなり前に書いた記事、一部加筆修正。
 
 
神については全知全能と信じています。
神の詳細は不明です。
聖書に書いてあっても神は人知を超えているから
人には分からないはずですが、
それを弁えない人もいるようです。
 
 
人間は全知でも全能でもありません。
信仰について
人が確信を持つとはどういうことでしょう。
 
確信をもって、ということが信仰でも言われます。
しかし私は、以前から、
神の意志について、どうして人が確信を持てるんだ、
と言ってきました。
 
神の意志について人が確信を持ったら
それは訂正不能になってしまう、という危惧であります。
それは神の完全を自らに当てはめてしまうという背教です。
 
神を信じるということは
神ではない人が
神を信じ仰ぐことによって
人としての立場を弁えるということです。
 
信仰によって
超常に近づいた気分になるなら
人間性を疎かにしてしまう危険があります。
 
私たちが大事にするべきは神聖ではありません。
神聖を大事にできるのは神聖ご自身だけであります。
 
信仰が人間性のために与えられることを忘れてはいけません。
 
 
神様は完全なのだから
御自らは訂正する必要はないということになります。
 
しかし
人は不完全なので
神の完全を知ることはないのです。
 
つまり本質的に
人は神のもとにある不完全な民ですから
訂正不能にしてよいものは何もないのです。
 
ましてや
神事を人が訂正不能に信じ込む?なんて
とんでもないということです。
 
そんな能力は人にはないから、
神のみを絶対と仰ぐなら、
訂正不能は信仰の敵だとさえ思うわけです。
 
言葉で言うなら、私は現時点の判断を語っています。
修正可能の一点をもって確信ではない
ということですが、
何らかの行為に結び付くときには、
今は他にないという一点をもって確信に近くなる、
という微妙さもあります。
 
つまり確信を持つことは
訂正不能にすることではない
と言いたいわけです。
 
このことを言うのは
広く一般に
人が確信を持てと言われると
訂正してはいけない
と思い込む傾向があるからです。
 
ここで申し上げます。
確信を持て
と言われたとき
信仰者が考えるべき確信は、
信じ込み思い込むことではなく
何よりも
今は、これしかないだろうという確認です。
 
何かの決断のとき
このことを弁えておけば
結果の導きと
反省の祈りにおいて
私たちは
先へ進むことも
本来の道へ返ることも出来るでしょう。
 
訂正不能は反省不能に結び付き
神を心の偶像に固定することです。
 
修正可能は
いつでも神からの新たな導きに反応できるように
人間の側が弁えるべき節操であります。
 
 
※ 
 
ここで、誤解しやすい一つの聖句をあげておきます。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
16:10
小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。 
16:11
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
16:12
また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
16:13
どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
 (ルカ16:10-13、新約聖書)
 
10節は分かるけれど、11節の、不正の富に忠実ということが、分かりにくいところです。結局、13節の、二人の主人、即ち、神と富とに両方仕えることは出来ない、神に仕えよ、神を主とせよ、という教えに帰結するわけです。
 
神に忠実ということが、この世の富という観点から見れば、しきたりや馴れ合いなどに従わないことで不忠実や不正に見えることがあるから、そういうことに惑わされることなく、神に忠実であることを勧めています。
 
そのためにも、信仰者は、反省し学習できる人でなければいけません。人間は不完全ゆえに罪深いからです。楽山、シャロームshalom、易坊という3人は、忌むべき訂正不能のナルシストです。同一人物の成りすまし、即ち、今の、楽山ではないかと疑っています。
 
つまり、それは、詭弁屋のペテン師の反キリストである楽山のように、表面的で短絡した妄想的な曲解で教えてきて、その実は、利己のために、だまそうとする者がいるということです。そういう者の甘い言葉に惑わされてはいけないという意味に受け取ります。
 
不正の富に忠実、というのは、一つは、地上に在っては、富の世界において、富を求めることもあるだろうということ。つまり、勤勉に働いて富を得ること、という解釈です。
 
もう一つは、信仰に忠実であることが、この世では不正であるかのように言われることもあるだろう、ということだと暫定的に解釈しておきます。よい解釈があれば教えてください。
 
 
※ 
 
訂正不能と言えば、10年批判した偽牧師シャロームや、荒らしの易坊や、3年以上批判しているペテン師の楽山に、常態として見られることです。有頂天の慢心が著しく、何を言っても無駄、話にならない人、こちらの言うことを聞いていない、という人物になってしまっています。
 
また、"信仰に確信を得た" などという奇妙な言い方を聞くこともあります。これは、他に道はないという確認や決断としてはあり得ます。信仰は、神との関係です。しかし、確信は、人間がすることですから訂正不能にしてはいけないことだと弁えなければいけません。
 
このように、地上を生きる上において、保留があり、訂正・修正が可能ということは、必須だと思います。今は、これしかないと、決断して実行しても、反省して、考え、修正も出来るようにしておく心の余裕が必要だと思います。誰も、神には、なれないのです。それを知ることが信仰です。
 
 
訂正不能の末路

訂正不能の末路
 
 
(2018年)
(2021年)
(2022年10月21日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山の悪だくみツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
あなたはこれらの神々を信じますか?あなたが、人々がかつて信じてきた神々のうち、どれに関して「無神論者」なのかのチェックです。ぜひ信仰者の方々に試してあげてください。
午後9:52 · 2021年10月12日 (画像省略)
 
神なんて、こんなにいっぱいいるんだよ、いい加減だね・・とでも言っているようなリストが載っています。でも、画像が不鮮明で、良く見えません。いっぱいいるから当てにならないよ・・とでも言いたいのでしょうか。いかにも、楽山が好みそうな乱暴な話です。
 
楽山は、神を知りません。知性と理路において知りません。感性と情緒において知りません。考えることも、感じることも、できません。楽山は、いつも、超常のお伽噺か作り話で、神?を語ったつもりになります。楽山は、感動などの深い情緒を持っていないのです。
 
信仰者にとって、出会ったと思っている神が、そんなにはっきり確定できているわけではありません。何故なら、神は全能だとしても、私たち人間は全能ではないからです。だから、神に付けられた名前を並べて、どれを信じている?・・と聞くことにはほとんど意味がありません。
 
人間にとっての、神は、その意志と行為は、不確定です。だとしても、無神論者が何も福音をもたらさない現実において、神の全能の存在から、人の不全を知ることは、生きるために大切なことです。自らの人並み外れた不全を、知ろうともしない楽山のような者もいるからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
  旧約・イザヤ・20~21
 
罪のために許されぬ者よ
主人の家の恥となり
死に失せて灰だけが残る者よ
家の鍵を失う者よ
開けて閉じることなく
閉じて開くことはない
腰には産みの苦しみ臨月のような痛み
屈んで聞くに堪えず
見るに堪えない
 
憧れた黄昏は
もはや戦きとなった
頭を禿にし
荒布を纏うがよい
かつて抜いた剣を捨て
張った弓を捨てて逃げて来るがよい
夜回りよ今は夜の何時ですか
夜回りよ今は夜の何時ですか
朝が来ます夜もまた来ます
聞きたければまた聞きなさい
また来なさい
 
--------------------------------------
※ 聖書をモチーフにし題名にし引用した作品は、必ずしも聖書のその箇所の内容と一致することを目的とはしていません。
 
屈む(かがむ)
戦く(おののく)
禿(かぶろ、(はげ))
纏う(まとう)
何時(なんどき、(いつ、なんじ))
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は「人間の性」で自己正当化をしたいようですが、反省をしない人間は、いつでも、どこでも、正当ではあり得ません。そこには、成長も進歩もないからです。ずっと無反省であったなら、ずっと成長せず、訂正不能に固定して今に至っているということです。
 
その通りに、楽山は、勉強せず、成長せず、学習経過としての知能・理路・感性が、極めて未発達であることが、何か書くたびに表れてきました。つまり、今も幼稚です。今も全か無かで判断し、人に反省を促すが、それが、自分を高みに置いている証拠となっているわけです。
 
 
 
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  知らないこと(改)2
 
 
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らない自分を弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
 
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
 
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために否定できなくなった人が、信仰者となります。
 
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、祈る日々に、何かを学んでゆくことが、その人なりの人生と信仰の成長であります。
 
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではないので、人間において完成することはありませんが、生きる "道" となっています。
 
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま地上で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に生き、いつの日か、帰るのです。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
 
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。神秘体験は、人間としての感動体験に他ならない。
 
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
 
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」・・信仰の義と神の義の混同。
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」・・自己正当化・無罪化は反信仰。
「教えを守って完全になれる」・・パリサイ人と同じ完全欲の偽信仰。
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖となり、王となり、あるいは、使徒となった人々です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
   ↓
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
新共同訳は嫌いです。女 → 他人の妻、という書き換えは、キリストの教えを、守りやすい道徳に変質させる邪悪な意図を感じます。信仰は、道徳ではありません。キリストが、守れないことを承知で言っていることを忘れてはなりません。
 
それに、「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
 
ゆえに、罪なき人は、一人もいない。だから、正直な悔い改めの祈りが必要なのです。
 
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
 
守れる、完全になれる、という方向性に走っては、前に、完全欲のカルトが、勝ち誇ったかのように喜んでいました。これは、神への冒涜であり、背教です。
 
完全なのは、ただ神お一方のみです。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
 
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
 
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間らしい感動ではなく、人間を人間として成長させることはないからだ。
 
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
 
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
 
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
 
 
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストの愛と共感を忘れられず、キリストから離れられないのである。
 
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、教理的な概念以外、何も表したことにはならないからである。
 
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。教条は心の面倒を見ない・・ということの表れた弊害である。
 
 
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴という希望によって、アガペーを既に受けている。
 
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけません。
 
これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのです。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
 
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、かつ、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
(2021年06月08日、再録+) 
 
 
知らないということを知るべきなのに

知らないということを知るべきなのに
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される
片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい
脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
 
  今は今
 
記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない
 
 
(90年代か)
 
 
 
楽山の記事
救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
2021年06月04日 楽山日記(LD) 
に対する批判について補足。
 
恵みの体験について、楽山は、
「この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。」
と言っていました。
 
神からの恵みの感覚は、「多少の」で修飾できるものではありません。原体験としての宗教体験であり、信仰の原初となる有無の体験です。だから、楽山は、謙虚のつもりで書いて、結果、大嘘を吐いていることがバレるわけです。分かるのではなく、分かったようなふりをすることの崩れ方です。
 
楽山が「多少の経験はある」と書いているのは、楽山のホラー超常気分の空想で、何やら神秘的な気持ちになったことを言っているに過ぎないと思います。それは、気分次第の一時的なもので、宗教的な恵みの体験ではありません。その証拠に、楽山は、変わらず、今も、反キリストです。
 
楽山は、何でも、経験している、分かっている、自分の視野に納まる、という立場で書いて、受け入れの器を演じているのです。しかし、その自己顕示と不正直によって、楽山は、さらなる不祥事を加え、こともあろうに、それを自慢する結果となっている醜いピエロなのです。
 
分かってるふうを装い、知識人を装い、他者を言いくるめようとする楽山の企みは、このように、言葉の端々に、破綻が表れ、そのみすぼらしい安っぽさが、あらわになります。命果てるまで、嘘を吐き続け、一生が虚偽になり、共感せず、共感されないペテン師、楽山の因業が表れています。
 
神からの恵みは、楽山の言うような超常体験でも神秘体験でもありません。「多少」あるとか無いとかではありません。神秘は、神の秘密であり、人が知ることは出来ません。
 
神からの恵みは、人間としての感動体験です。支えを失った者が、支えを与えられる、という、絶対孤独からの解放とでも言うべき体験なのです。
 
(2021年06月08日)
 
 
 
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  当てにならない2
 
 
私たちは
実に当てにならない世界に住んでいる。
実際は
当てにならないのは私たち人間の心であり内部である。
 
入力は総て感覚器を通している。
内部処理は総て脳が行っている。
いずれも寿命が尽きればなくなるものであり
これらは
寿命がある間は維持されるけれど
本当に変わらないで維持されているかどうか
厳密な検証は不可能である。
 
当てにならない世界を
当てにならない知情意をもって
断定できる何があろうか。
 
しかしながら私たちは
当てにならない世界において
当てにならない知情意をもって
判断し実行するしかないのである。
 
それが人間の不完全性そして相対性である。
 
神が絶対でも
あるいは
たとえ絶対がどこかにあっても
私たちには絶対はない。
それを知ることが信仰の始めである。
 
絶対とは不変に正しいこと。
非絶対即ち相対とは可変で
ときに当てにならないこと
そして変わりうること。
 
当てにならない知情意をもって
絶対を目指したり思い込んだりすることは
当てにならない感覚・知性・感性をもって生きてゆくのに
全く向いていない。
 
神の属性である不変は
変わることなく成り立つということであり
神義すなわち神の正しさとして真理の働きを持つ。
 
しかし
人間の正しさは不変ではなく
より正しいことによって
また状況によって
否定されないとは限らないことである。
 
これを人間の相対性と呼ぶ。
信仰をもっても
この相対性は変わらない。
 
むしろ人間の
相対性・非絶対性・不完全性を自覚することが信仰である。
 
人間に成り立つ絶対性は
絶対は絶対にないという循環論法にしかならない。
 
人の絶対は慢心し訂正不能を好むが
人の相対は努力して成長することを求めるだろう。
 
 
しかし
人は絶対を求めやすい。
絶対を盾にして強くなったつもりになりやすい。
 
だから絶対の存在を確定しようとするか
あるいは確定したつもりの言動を
神の御心だと言って神聖化しやすい。
 
それを信仰と呼び使命と呼び確定して
感じることと考えることを疑いだと
退けてしまいやすい。
 
絶対は神のもので
人は決して絶対を確定できないのに。
気安く正邪を神の立場で決めつけやすい。
 
神とは違う人としての身の程を弁えることが
信仰の始めであるのに
味方としてだけ顕れる神しか欲しがらない信仰は
戒める神と懲らしめる神を
そっくり除外して揺るがない信仰だと思いやすい。
 
これらもまた相対的で不完全な人間の罪性である。
 
 
この人の罪性ゆえ
キリストは十字架の道を歩まれる。
今も、これからも・・である。
 
 
あらゆる悲劇は信仰者にも起こりうる。
その理由は神の秘密ということがある。
神は、いつも分かりやすく恵むわけではない。
神の考えることを人がいつも理解できるわけではない。
 
なぜ、こんな悲劇が・・?、と思う人は、
私たちの狭い見識と視野と能力では
神の無限をつかむほどの広い見識と視野と能力
すなわち全能を理解できないことを考えるべきである。
ゆえに、信仰は、この地上では忍耐を必要とする。
 
私たちは、この地上での短い人生の幸福を願っている。
神は、総ての世界を導いておられ、私たち人間についても、
地上のみならず、総ての世界での幸福を計画しておられる。
 
人が、神を総て理解してから信じようというのは信仰ではない。
理解できたら、信じる必要はないからだ。
 
 
人は絶対は慢心し訂正不能を好み
人の相対は努力して成長することを求める。
 
人の相対の信仰に敵対するのは
いつも
人の絶対を確信し保証するカルトである。
 
人の相対性は
信仰とカルトを見分ける決め手ともなるだろう。
 
 
Q&Aを試みてみる。
 
Q1:
相対、相対、と言うが、では、
1+1=2 という等式は絶対に正しい、ではないのか。
A:
1+1=2 という数と記号の概念を共有するところで成り立つ。
 
Q2:
悪は正しくない、善は正しい、はどうなのか。
A:
ほとんど定義を語っているだけ。また、偽善と偽悪の問題もあります。
 
Q3:
イエス・キリストは正しい、はどうなのか。
A:
イエス・キリストは、人の罪深さ=不完全=相対性では語れないところの、優れた洞察と共感を誰にでも示しておられる、というだけで、神聖と信じています。
奇跡等の超常については、神のわざとして、人が関知するところではなく、つまり、分からない、というのが、人にとっての真実だと思います。
 
ゆえに、地上の現世において、いつも奇跡で守られていると言える信仰は、人が語れる信仰の言葉としては、大いに誤解を招く言葉です。神の救いは、神の意志と計画に沿うのであって、人の思惑に沿うとは限らない。
むしろ「イエス・キリストは正しい」という言葉で人が表すことが、怪しくなる可能性を考えるべできであり、それは、まさに、カルトにおいて著しいのである。
 
だから軽々に「イエス・キリストは正しい」と言うのは、しかも、それを己の意見の根拠とすることは、むしろ、信仰からは、離れる方向だと思っておいたほうがよい。
 
このQ3のような、神の義に関することは、キリストを利用するカルトが人をだますのに使われやすく、また、反キリストが、神がいるなら何ゆえ悪があるのか・・などと、いちゃもんによって神を否定するのに使われやすい。神の義は、神のものであり、神秘であり、人に分かるわけはないのである。
 
私たち信仰者は、神が正しいと分かったから信じるのではなく、主によって愛され救われた者として、主を忘れられないゆえに信じている。
 
Q4:
信仰は正しい、ではないのか。
A:
真の信仰であれば正しいはずですが絶対の正しさではありません。また、実際には、口で信仰といっているだけの偽善者もいます。聖書のパリサイ人がそうでしょう。
 
Q:
相対、相対、絶対ではない、不完全、などと言っていたら、決心が鈍るではないか。
A:
それは間違っています。絶対ではないゆえに、限られた時間で、できるだけのことを考えて判断し、勇気をもって実行して、反省して、神に祈るのです。相対で不完全な人間は、信仰によって、神に正直に告白して赦しを求める祈りという機会が、いつも与えられています。
 
Q:
では、キリスト者だけが赦されるというのか。
A:
ここは議論のあるところかもしれませんが、私は、特に教会の利益を代表する必要はないので、申し上げると、教会での洗礼に信仰の有無やキリスト者であることの証明という神秘的な意義を求めるには、キリスト教の歴史は、人によって汚され過ぎています。
 
もはや、信仰は、信じる者が祈って告白するならば、洗礼の有無には、こだわる必要はないのかもしれません。神が、偽善者でも芝居できるような儀式の有無によって、救いについて差別するとは、考えにくいです。
 
信仰者でも、求道者でも、異教徒でも、無宗教でも、真面目に生きている人を、神は差別するでしょうか、そうは思えません。神は、総てを見ておられ知っておられるのですから、人の言動の実を見抜いたうえで、良心の発露を決して軽しめられることはなく、心に留めて、顧(かえり)みられるだろうと思います。
 
さらに、神が、宗教や信仰を通さずに、人を選んで何からの使命や役割を与える可能性は否定できません。また、そのことを、いちいち、人に説明することは、為さらないでしょう。
 
 
つまり
私たちは基本的に
神に対しては
教理よりも讃美よりも
正直のみを用意するべきであり
人に対しては
その"神の前の正直のみをもって備える"ことが大切なのです。
 
 
人の相対性

人の相対性
 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山の経歴も怪しいと思います。楽山は自己中促進のアドラー心理学の宣伝をしていました。また、ネトウヨだと思われますし、右翼のA級戦犯を褒めていました。読書は、都合のよい文言だけを漁って、箔をつけるために引用するだけで、勘違いや嘘が多いです。有名人や学者の名前に惑わされないでください。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ろば
@robamimi0314
#幸福の科学
根拠も証拠もなく、他人を
誹謗中傷、侮辱、罵倒、脅迫する言動が多い。それを「教え」としている。
〈例〉
・自殺は罪、永遠に苦しむ。
・ガンになるのは感謝が足りないから
・鬱になる人は周りへの感謝が足りない
・教祖を神と崇めないと地獄に落ちる
午前9:36 · 2021年4月29日·Twitter for Android
 
楽山は、根拠も証拠もなく、他人を誹謗中傷、侮辱、罵倒、強迫する言動が多いです。それを、一人前の "批評家気取り" で書いてきます。最悪なのは、まともに見せかけるために、丁寧語で、婉曲的に書くことです。また、わざとらしい芝居によって、反省、卑下、などを書いてきます。楽山は、よく読まないと楽山の悪意に気づかないような書き方をするペテン師です。
 
楽山を、批判の仲間だと思っていたら、とんでもない間違いであり、徒労と疲労と人間不信をもたらされるでしょう。楽山との交流を継続すると、楽山の体質であるところの、自己中、無反省、無視、無責任に染まって、楽山と似たような攻撃性だけの鈍い人格になる危険があります。
 
楽山は、リツイートや、ブログ記事によって、やさしそうに、一人前気取りで、誘ってきますが、決して相手にしないでください。楽山は、いかなる人の味方にもなれない自己愛性人格障害です。決して、頼りにしてはいけない人で、誰の仲間にもなれない人です。
 
楽山には、執念深い恨みの感情と、小学校レベルの理屈はあっても、悔いる、悲しむ、反省する、自分の欠点を自覚する、訂正して学習する、人の意見を受け取って考えるなど、深くて高等な思慮と感受性が欠けているのです。
 
 
(2020年04月02日)
(2021年05月01日、再録+)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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