ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:宗教

 
  知らないこと
 
 
私がレスとしてコメントに書いたこと:
 
「神と神の国、私もよく知らないです。
聖書を読んで、知らないことを弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。」
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
神とキリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力という人間らしさで、人間と交わったところだけです。
 
そこだけが、人間にとって、いちばん大切なことだからです。それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、完成してはいません。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい
実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。
悔い改めは神が与える、と言って、悔い改めないことの言い訳の詭弁。」
 
これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」
「教えを守って完全になれる」
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを知らないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、使徒も、罪を犯したのち、悔い改めて、祖、王、あるいは、使徒となった人々。
 
情欲は湧いてくるものであって、情欲を湧かせないようにして教えを守れる人はいない。
 
行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにする、という例。
 
完全になれる、に至っては、神への冒涜であり、背教である。
完全なのは、ただ神お一方のみである。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神聖と人間性を兼ね備えた御方であり、
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間を成長させる感動を与えることはないからだ。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性である。
 
二千年前に、現代も悪の本質である偽善を洞察し、それを赦さなかった。
 
敬虔の本質を洞察して、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、誰もキリストを、本当には理解していないことを承知の上で、命をささげた。
心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに共感する。
偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者はキリストから離れられないのである。
 
そのことが、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、言葉で語っても、決して、言葉で表したことにはならないからである。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治に利用され、宣伝に利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、
言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、
キリストは今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルト、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している尊大な偽善者に決して騙されてはいけない。これらの者たちは、神を、本当には恐れてなどいない。キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのだ。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼らは、もっともらしい言葉?のみを武器に超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならばわかるはずの理路を持ちません。つまり人間らしさを持たず、むしろ嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、共通して尊大であり、自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
 
近況:
6月2日に、朝起きてより、筋肉痛、筋力低下を来して、ピンポンにも出られず、電話にも出られず、排泄もソファーに寝たまま手の届く範囲にあったペットボトルにして、飲まず食わずでいました。
夕方、やや回復して、記事を書いたが、翌日3日、また同じ感じで、救急車を呼ぶことを考えておりましたが、電話が固定電話しかないのでできず、症状がよくなったら、とか、死ぬんだろうか、など思いながら、今日を迎えました。
今日は、なぜか分からないけど、何とか、起立と、ゆっくり歩行が可能となり、トイレ、電話、ピンポンのほうも用事をすませました。どうなるか分かりませんが、明後日は、あちこち病んでいる母を、診療科の多いほうがよいだろうと、新しい病院に介護施設のほうで連れてゆくことになったので、私はその時間にその病院に行って付き添うことになっています。・・できるかどうか・・
 
 
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  ゆるすこと
 
 
 赦すな、そして、許すな
 何でも気安くゆるされると思っている者を
 けっして赦すな、そして、許すな
 キリスト者ならゆるすのが当然だと思って
 笑う者を
 ゆるしてはいけない
 
 キリストは偽善者をゆるしてはいない
 
自分が赦されたように
人を赦しましょう
というのがキリスト信仰
と思っている信仰者は多いと思います。
 
しかし
人が人を赦すということは
奇跡的にしか起こらないような気もします。
 
さらに
赦すべきではないと思う場合もあります。
ゆるしを乞われても本気ではないと感じたら
ゆるすべきではない。
 
ゆるすことが罪という場合もあると思います。
乞われもしないのにゆるしてしまうのは
ゆるす側の一種の勘違いか自己顕示である場合もあるでしょう。
 
ゆるされた者はさらに図に乗って罪を犯し続けるかもしれません。
 
乞われて赦すのであっても
なんでも赦してしまうと
それは何でも許可することに近づいてゆきます。
 
人の罪は
気安く赦されるものではないのです。
聖書においては
魂の奇跡として語られていると思ったほうがよいでしょう。
 
神が人を赦すことは魂の奇跡なのだから
私たちが他者を赦す場合については
考えることがあるでしょう。
 
人は人を赦せるでしょうか。
聖書の言葉に倣って
言葉においてだけ赦しているかもしれません。
自分の心は晴れているかどうか
相手は本当に罪を悔いているかどうか
赦すときにペナルティを課さないでいいだろうか
 
裁くなという教えに倣ったからと言って
相手をどこまでも赦すことは
相手が罪を気安く見なすきっかけになりはしないか
自分以外の人々の災いにつながらないだろうか
等々考えてみると
うっかり赦してしまうことが
偽善につながることさえあるのです。
 
等々考えていると
じゃどうすればいいんだ
ということになりますから
いつまでも考えてばかりはいられません。
 
つまりはキリスト教だからといって
なんでも赦す人間がいいわけではないということです。
じっくり考えること
人間にとっては不完全ですが
じっくり振り返ってみること
相手は本気で言っているか
自分に何かわだかまりが残るのではないか
その辺を
キリスト者だからといって悟ったかのように
疎かにしてはいけないということです。
そのための、思い煩うな、というみ言葉があります。
過剰に病むほど考えすぎる必要はないけれど
できる範囲で思考を深めることは大切です。
 
信仰は思考停止を勧めてはいない
ということを忘れないでほしいと思います。
 
自分が罪を犯し
赦されたい場合も同様であります。
 
キリスト信仰を
キリスト教として
つまり教えとして
つまり道徳のように考えるのは
信仰として正しいこともありますが
 
道徳的な言葉の外に
見逃されたものがあるかもしれません。
相手は図に乗って
こちらより気安く考えるかもしれません。
 
病まない範囲で
考えることは人間にとって必須です。
 
病んでしまうということの兆候は
心の中でも人に対しても
言葉遣いが我にもあらず荒っぽくなる
ということが一つの目安にはなるでしょう。
そのときには休んでいいと思います。
 
私たちキリスト信仰者は
悟りを開いたわけではありません。
不変の悟りの境地を得たわけではありません。
感受し考え成長する道を歩いているのです。
 
みことばにしたがうなら
なんでもゆるしあいましょう
さばくことはしてはいけない
いつもえみをたやさずに
というようなことは
カルトの常套句であります。
 
ゆるさないことは罪ですが
ゆるすことは、もっと罪である場合があります。

 
偉い人や徳の高い人になるために信じたのではありません。
信仰は罪なき人を目指すものではありません。
 
私たちキリスト信仰者は
まず自分が赦され救われるために
他にないと思ってキリストを慕って信じたのです。
信じた時に罪を自覚したからです。
 
罪を認め悔い改めるというのは
告白して赦しを乞うたとき
既に罪に対する生き方が改まることなのです。
私たちが償いやペナルティなしで赦されるのは
償いやペナルティを課せられたら耐えられないからです。
 
偽善者に騙されないためにも
どれほど悔いているかは
判断が難しいかもしれませんが
私たち信仰者は
何でも、何をしても、赦してくれる便利な守り神を信じてはいない
ということを覚えておいてほしいと思います。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:40-41
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:40-43、新約聖書)
 
聖書において救われた犯罪人は
赦されて死刑を免れたわけではなく
自分を赦してくれるキリストとともに御国へ行くことが
約束されたことを忘れてはいけません。
 
 
(2019年06月02日)
(2019年06月05日、一部修正)
 
倣う(ならう)
 
 
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  非合理と合理
 
人にとって神は
そして信仰は元々非合理である
 
神の合理を人は理解できない
 
人知は
神を信じる信仰という非合理と
人の合理を区別するために与えられている
 
恐ろしいのは
信仰という非合理を
人の合理に結びつけることだ
 
非合理について
人の合理で確信しうることは何もないのに
非合理が合理に
神の思いが人の思いに
合一すると思い込むところから
神の名のもとに信仰は変質して
訂正不能の確信?に堕ちてゆく
 
人の信仰という非合理の自覚は
祈りをもたらし
それを必要とする人を救いうるが
 
人の確信という合理化された非合理は
それを必要としない人を
いわれなき罪と報いに定める
 
(2019年06月01日、修正)
 
 
  器
 
必要なのは
復興ではなく改革である
 
大昔のような
一途なだけの信仰の復興というのではなく
原初の信仰として
人間を弁える信仰への改革である
 
信仰を受け取る側の
人知によって語りうる人の器の改革であり
 
それは解釈信仰や奇跡信仰や史実信仰などの
人知によって神を語る人知信仰からの脱却である
 
人知から離れることも
人知を超えることも出来ない人にとって
生きている間は神に帰ることの出来ない自らを
知ることが信仰である
それは決めつけを避けて成長を期して
神へ祈ることを知る「人に帰る」ことである
 
さもなければ
信仰に熱心であればあるほど
信じれば信じるほど
人の器は
土の器から神の器を目指すことになり
土の器に秘められた人の信仰は
神の器に背くだろう
そして
人知信仰が破壊してゆくのは
その土の器
すなわち人の信仰に他ならないのである
 
(2011年12月02日、また同日若干修正、失礼)
(2019年06月01日、修正)
 
 
何度も似たようなことを書いて
誰にも通じないのが私の信仰のようですが
たといどんな悲惨な生き方と死に方が待っていても
恐らくもう限られた残り少ない日々を
書けるだけ書いて私は終わるしかないようです
 
 
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  しつこい悪意
 
   信頼と試み→悪魔サタンの試みと神への信頼
   
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28982804.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
しつこく悪魔の誘惑の聖句について書いてくるシャロームです。おかしなことばかり書いてくるから批判しましたが、それに対して、何も答えず、何も弁明しないまま、次の記事が書けるのです。このシャロームのあり方を不感不応と言います。人のことなど何も気にしておらず、馬鹿にするように、次の記事を書くことだけで満足するのです。人間にはできないことです。
 
そして、今回も、シャロームは、引用記事に斬られていることに気づかないのです。
 

★今日のみ言葉★(2019.5.7)
「賢い者」
神を試みるとはどういうことですか。
神を試みることと神に信頼することはどう違いますか。
悪魔はイエスが神の子であることを証明するために、
神殿の屋根から飛び降りてみたらどうだ、と言っています。
お前が神の子であるのなら、これくらいのことは出来るはずだ、というわけです。
それに対してイエスは、「神である主を試みてはならない」と聖書のみ言葉を引用しておられます。
神を試みるとは、神さまはこうてくださるはずと勝手に思い込んで行動することであり、
これは信頼ではなく、勝手な思い込みです。

 
まさに「神さまはこうてくださるはずと勝手に思い込んで行動」しているのがシャロームです。シャロームは、神はどんでん返しの奇跡で自分を救ってくれるはずだ、と勝手に思い込んで、信じ込んでいるのです。
 
シャロームは、自分の都合の良いように、神の救いを思い込み、決めつけ、そのグダグダな理路のなさと非人間性を指摘されても、また慎みもなく思い込みを書いてくる。考察と反省の欠片もない。魔性の証明です。
 
書けば書くほど、また、他者の記事でも、聖句でも、引用すればするほど、シャロームの反信仰が表れてくるのに、シャロームは、気づかないのです。なぜでしょう。
 
非人間的な信仰のために人格が破壊されているからでしょうか。何かの病気でしょうか。それとも、キリストと神のことなど何とも思っていないから言葉遊びをしているのでしょうか。だとしたら、人間とは思えない悪意がシャロームを動かしていることになります。
 

神を信頼するとは、神のみ言葉を信じ、約束されたことを信じることによって、
神ご自身を信頼することだとわたしは思います。

 
「神のみ言葉を信じ」は、シャロームには通じないようです。自分の妄想を、神の啓示だと信じ込んでいるからです。キリスト信仰とは、まるで違うところの、罪を認めず、悔い改めもしない、ということが成り立つ信仰?、偽キリスト教を訂正不能に信じこみ続けているのです。だから、悔い改めないことの言い訳に、悔い改めは神が与えるなどと、神に責任転嫁することが、平気で出来るわけです。
 

イエスに対する、悪魔の3つ目の誘惑は全世界の国々とその栄華とを手に入れたければ、
わたしにひれ伏し、拝みなさいという勧めでした。
この誘惑の狙いは何でしょうか。
イエスは高い山の頂上に連れて行かれました。
1つ目、2つ目の誘惑は「もしあなたが神の子であるなら・・・」ということで、
イエスが誰であるについての誘惑であり、アイデンティティの問題をついてくる誘惑でした。
しかし、3度目は、悪魔は戦略を変えて来ました。
しつこいですね。

 
シャロームの、しつこさは、都合の悪いことを無視することです。同じ聖句を何度もテーマにして、同じようなことを言ってきます。どんなに批判され否定されても何も感じないのでしょう。慎みの欠片もなく、こうなったら、おしまい、人間ではない、という黒い道を、自ら進んでいるのです。
 

しかし、賢いです。
今度は自分に取り込もうとして、近道を教えているのです。
イエスの生涯の使命に挑戦しています。
悪魔はイエスが神の子として、やがてこの世界を支配する方となることを知っていました。
ですから、十字架と復活の道を通らなくて、
自分を拝むというもっと簡単な方法でそれを手に入れてはどうかと提案しています。
そんなややこしい道を進まなくても、もっと簡単な道もあるのだよというわけですね。
この悪魔は今の時代にもいるのでしょうか。
どう思いますか。

 
人間とは思えないシャロームは、悪魔に似ています。しかし、シャロームは、賢くはないです。学習機能がないからです。シャロームが選んだ簡単な道は、理路を捨てて、情緒も捨てて、一つ覚えの同じことを繰り返すことです。人間の大切な思考と情感を捨てて、恥を感じず、すでに悪しき誘惑に乗って、破壊された人間像を呈しています。
 

《shalomのコメント》
神を信頼することと神を試みることの違いはどのように違うのでしょうか。
私は小さいころ、母親によく“お前はコモに包まれ水俣の海岸に流れてきたんだよ”と言われました。
あとで“うそ、うそ”と言って笑っていましたが・・・
50年後、私は生後十ヶ月ほどしかいなかった水俣の地に行きました。
私が生まれたところは水俣病の原因である有機水銀を垂れ流した日本窒素の社宅でした。
その二本松社宅という小さな社宅はありましたが、近くの水俣第二小学校の玄関には、
当時の広大な社宅の全景が写された航空写真がありました。
ふと市役所の市民課に行き、事情を話し、私の出生届けがあるか聴きました。
ありますよと言われ、見せていただけますかというと、書庫から出して見せてくださいました。
そこには確かに見覚えのある父の筆跡の出生届けがありました。
母が笑って言った冗談を真に受けていたわけではありませんが、
ホッとしたような懐かしい思いがこみ上げてきたのを思い出します。

 
前にも、このことは記事に書いていましたが、シャロームは、批判された記事を、次から次に削除していているようです。こういう隠蔽魔が、政治についても同じようなボロクソ節で語れると思っているのだから、身の毛が弥立ちます。
 
このような話を、また書いてくるのは、いわゆる英雄談のつもりなのでしょう。しかし、シャロームの場合、ボロクソ節のネタにしかしていませんから、彼の出生の話は、いったい、どういう育ち方をしたら、どういう教育を受けてきたら、こうなってしまうんだろう、という症例報告みたいなものにしかならないのです。
 

神の御子イエスさまに対する悪魔サタンの試みは
1つ目、2つ目の誘惑は「もしあなたが神の子であるなら・・・」ということで、
イエスが誰であるについての誘惑であり、アイデンティティの問題をついてくる誘惑でした。
お前が本当に神の子であるなら、きっと神がその証明をしてくださるだろうということでした。
イエスさまは神が出された出生届けを出されたり、ご自分に対する神による証明を示せという
悪魔サタンの試みの言葉を、神の言葉で退けられたというのです。
多くの神社には祀られている神々の由来とご利益メニューが掲げられていますが、
聖書には次のように記されています。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、
これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る
一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
4:5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
4:6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。
『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、
彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
4:7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
3度目は、悪魔は戦略を変えて来ました。
しつこいですね。しかし、賢いです。
今度は自分に取り込もうとして、近道を教えているのです。
イエスの生涯の使命に挑戦しています。

 
恥ずかしい状況になって、身を慎む、ということが出来ないシャロームは、嫌がらせのように、また同じようなことを書いています。しつこいですね。しかし、全然、賢くはないです。
 
シャロームが何も返せないのは、もう8年続いていて、それでも書いてくるのも、もう8年続いています。私は、彼に付き合うのは非常に危険だから警戒してください、ということを書き続けてゆくのです。
 
シャロームの言説について、短絡だと何度も書いてきました。それは、思考と感受性を放棄した生き方であり、最初から決めつけの結論しかないので、一見、近道に見える罠なのです。
 

悪魔サタンはイエスさまが神の御子であり、自分の敵であることを知っていました。
悪魔サタンは自分の敵を味方に変え、イエスさまの使命を妨げる方法を知っていました。

 
悪魔が知っていたというのは、罠を仕掛けることであって、キリストの使命を妨げることは、罠によっても出来なかったわけですから、悪魔は、キリストも、その使命を妨げる方法も、知ってはいなかったのです。
 
そして、悪魔は、使命を妨げることが不可能であることも知らなかったのでしょう。理路を整えない自己中心のシャロームは、また、思い付きで物語を捏造するように、おかしなことを書いています。
 

それは神が人に与えられ悪魔サタンによって奪われた被造物の支配権を取り戻すことでした。

 
また、支配権が悪魔によって奪われたと言っています。シャロームは、信仰も良心も存在しない世界に住んでいるようです。
 

ですから、悪魔サタンは自分の方からそれをイエスさまに与えると提案したのです。

 
これを、悪魔が与えるのだから、今、悪魔が支配権を持っていると、シャロームは言っています。この悪魔の言葉は、陥れるための誘惑の騙し文句なのです。何を真に受けているのでしょう。
 
シャロームは、悪魔は正直で真実を語ると言っているようなものです。さすが、悪魔寄りとなったシャロームです。それで、シャロームは平気で嘘を吐くのでしょう。
 

神は人の罪を神の御子イエスの命、その死によってあがない、取り戻そうとしておられたのですが、
悪魔サタンは神の方法ではなく、私の方法に従い、私にひれ伏すならば、
私の支配下にあるこの世のすべての栄華と支配権を与えようというのです。
それは悪魔サタンがアダムとエバを欺き、私たちを罪の奴隷とした方法でした。

 
なおも、私たち人間を、悪魔に支配された罪の奴隷だと断定しています。悪魔の支配下にあって、どうして、アダムとエバの後も、神がその子孫を人を導き、そして現代、神の導きによって、私たちの信仰が生まれるでしょう。この一連のシャロームの記事で、シャロームは、悪魔崇拝の騙し文句を真に受ける手下のような者となって発言しています。
 

その結果、今も人の心は悪魔サタンに欺かれ、罪のくびきに繋がれ、
この世の偽りの神である偶像礼拝者として悪魔サタンの前にひれ伏しているのです。
罪は神の裁きというイエスさまの十字架の血による罪のあがないと
よみがえられたイエスさまを信じる信仰によって義とされるほかに道がありません。
悪魔サタンは十字架と復活の道を通らなくて、自分を拝むというもっと簡単な方法で
それを手に入れてはどうかと提案しています。
しかし、イエスさまは悪魔サタンの試みを退けられました。

 
悪魔サタンに欺かれ、罪のくびきに繋がれ、というようなボロクソ節において、シャロームは、自分を罪の圏外に置いてきました。これが、シャロームのボロクソ節、という、シャロームがキリスト者ではない大きな証拠の一つとなっているのです。シャロームは、人を馬鹿にして、悪魔といっしょに笑い合っている格好になります。
 
今のために、二千年前、キリストが、悪魔の試みを退け、十字架についたのだから、言うまでもなく、今は、キリスト後であるのに、「今も人の心は悪魔サタンに欺かれ、罪のくびきに繋がれ」と言っています。救いの時代経過の道筋がまるで成り立っていません。
 
神は、罪を犯したアダムとエバとその子孫の支配を悪魔に渡してなどいません。シャロームを見れば分かるように、悪魔は、今も生きて暗躍しているということであって、悪魔が支配しているということではありません。
 
そして、生ける神は、終末に向けて、悲劇の多い地上を救う計画を実行しているということです。その計画は、私たちには分かりません。シャロームも分からないのに、悪魔の支配などと出まかせを言っています。
 
生ける神がおられるから、どんな邪悪な世にも、いつの時代にも、信仰に導かれ、それに反応できる人がいて、キリスト者が生まれているのです。
 
終末は、まだ来ていないということなのです。シャロームの、時代錯誤と、全か無かの書き方は、信仰者も非信仰者も惑わそうとする邪悪さに満ちています。
 
神の救いの導きに、まるで反応しなかったのは、シャロームであります。今日も、その証拠が、積み重ねられてゆくのです。それこそ、人間性の必要性を認めず、自らの人間性を破壊し、他者の人間性をも破壊しようとしているシャローム自身の継続する所業であります。
 
見かけの丁寧さとは正反対の人格を持つ偽善者で、知性も感性も失い、にもかかわらず自らのみを正しい立場に定めて、神を恐れず、人を人とも思わず、人が驚き怪しみ戸惑い壊れそうになることを悦ぶ、こういう嘲笑いの精神性を持つ者は、サディストと呼ばれます。
 
シャロームが、自分のブログで、また、他者のブログのコメント欄で、無遠慮に自己中心に書きまくるのは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じ(口語訳)であり、騒がしいどら、やかましいシンバル(新共同訳)なのです(1コリント13:01)。シャロームは、どれだけ福音伝道を邪魔すれば気が済むのでしょう。
 
この今の現実世界を疎かにして救いと天国を語るのは笑止である。
 
 
(2019年06月01日アップ、同日一部修正)
 
慎み(つつしみ)
捏造(ねつぞう)
嘲笑い(あざわらい)嘲る(あざける)
鐃鉢(にょうはち)
疎か(おろそか)
 
 
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  祈りと讃美
 
 
長崎から東京まで
という距離は、
地図があるから
ある程度把握できる。
 
その時間はと言うと
交通手段によって変わる。
飛行機か記者か車かなどによる。
昔の人は歩いたのだから大変だ。
 
しかし、天国までとか
永遠とかになると
まるで把握できない。
推測しても想像しても
だいたい正しいだろうとさえ言えない。
 
ということで
神の性質については
人の世界にあるものとは全然違って
神聖を表す言葉
全知全能、絶対完全、永遠不変を
手に負えないと前に書きました。
つまり
人の概念把握の外にあるということで
超常の神の領域と弁えて
意味の確定した言葉として使うのは無理だということです。
 
そういう言葉ばかり書いている信仰者もいます。
中にはキリスト者とは到底思えない偽キリスト者もいます。
 
そういう絶対言葉は
特に讃美するときに多用されるようです。
 
分からない言葉で満たしても
分かっていることにはなりません。
 
神にあこがれ
キリストにあこがれ
キリストの愛にあこがれ
祈りをささげるまでは
とてもキリスト者らしいのですが
 
讃美をし始めると
とたんに顎が外れるように大仰になり
誇大的な超常言葉になるのは
むしろカルト的ではないかとさえ思うときがあります。
 
誇大的ではなく
いかに神の前に自らを
小さく弱い存在の人間として弁え
へりくだることができるか
それをためし
それをためされているのが
祈りなのです。
 
 
讃美するように、という聖句は多いですが、
「ほめたたえよ」で検索してみると
 
 (ローマ人への手紙、新約聖書)
15:8
わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
15:9
異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
あなたにさんびをささげ、
また、御名をほめ歌う」
と書いてあるとおりである。
15:10
また、こう言っている、
「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
15:11
また、
「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。
もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
15:12
またイザヤは言っている、
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう」。
15:13
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
 (ローマ15:8-13、新約聖書)
 
このことは、讃美すれば、ご利益がある、などという意味ではないことはキリスト者なら知っているでしょう。でも、讃美すると、なにかいいことがありそうな、とか、讃美しないと、いけないような、神の御不興を買うような?、罰が当たりそうな?、というのに似た気持ちがあって習慣づけ、あるいは、強迫的になっているような気がすることがあります。これは、自分として、ちゃんと出来ないといけない、という気持ちの表れかもしれません。
 
それ以上に、自分は、神様のおかげさまで、幸せだと確信しようとしているのではないかとも思います。
 
神は、人が、まるで、偉い人へのお世辞のように、成就したかどうかわからないことを、思い込みの繰り返しで讃美して、本音、本心、すなわち、不信仰を隠すことを望んでおられるでしょうか。
 
12節には、キリストに望みを置くことが書いてあり、
13節には、祈り願っているわけですから、
信仰は、祈りであります。
 
聖句は、そうすれば救われる、そうしないと救われない、ということを言っているのではありません。
 
 
讃美の言葉や教理の言葉をどれだけ山のように並べて唱えても、
聖書においてキリストに救われた人々の、そのときの一言にも一つの行為にも及ばないと知るべきでしょう。
救われた人々は、讃美の言葉、教理の言葉など、尽くしたでしょうか。
 
それら讃美と理屈を神の前に並べたのは、キリストを殺したパリサイ人たちなのです。
 
 
神様は、今、願いを叶えたけど、などとは、いちいち、教えてはくださいません。したがって、今、讃美しなさいとも、いちいち、教えてはくださいません。だからといって、いつも、讃美の言葉を並べれば、神様は満足なさるでしょうか。
 
そういう神ならば、それは行為義認のカルトの世界に近くなります。そこに、お祭り騒ぎや強迫性はあっても、人間の、他にはないという、せつない気持ちが込められていないからです。
折に触れての、正直な告白と願いと実感からの感謝に、重きを置くべきでしょう。
 
しかし、とても特殊な場合、例えば、臨終のようなとき、まだ意識がある間に祈る、というような特殊な自発的な場合は例外です。そういう場合には、先のことを考えられないし、世辞や偽善の入る余地がないから、強い讃美もありうるでしょう。
 
 
ふつうに生きている日常では、余計な気持ちが無意識に入りやすいことを知るべきでしょう。
 
神に世辞は通用しないのです。
人は、大方、不信仰なのです。
日々の信仰告白は、正直な不信仰告白なのです。
 
折に触れての正直な告白と感謝の祈り以上に、讃美できる人はいないと思います。
 
 
(2019年05月31日、同日一部修正)
 
弁え(わきまえ)
 
 
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