ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:宗教詩


  捏造の文脈2
 
 2020年03月23日
 教と幸福の関係について(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
ウィキペディアには本の著者は哲学者・心理学者と書いてあるのに、楽山は、心霊主義と言って、著者 W・ジェイムズという人の本を多く引用する記事を書いて、批判を無視して、連作のように、自己正当化に専念しているようです。
 
(ネットより)
ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国の哲学者、心理学者である。意識の流れの理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』など、アメリカ文学にも影響を与えた。パースやデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家のヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学や生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。
 
(楽山)「著者の文章の背後には評判通りの心霊主義的な思想が深く根を下ろしているようだ。」
 
(私)「ウィキペには、W・ジェイムズは、哲学者、心理学者と書いてありますが、霊が分かるっぽい?楽山は、心霊主義と言っています。」
 」
 
少しでも自分に有利な言葉を見つけようとして、見つけたつもりの曲解の自己愛に基づいて、詭弁を重ねています。まさに、そういう欺瞞の態度こそが、楽山の本質的な魔性を証明することになります。
 
カルトに警戒を呼びかける文脈を作りながら、こういうことを書いている自分は大丈夫ですよ、という印象を与えようとしています。根腐れのわざ、と言っておきます。いちばん危ない人が、自分を除外して呼びかけている、という気色の悪い文脈です。
 
こういう捏造の文脈に対しては、もし警戒を呼びかける心の持ち主なら今までの情報操作と詭弁と嘘などは無かったはず、という根拠において全否定するべきです。今まで楽山の書いてきたことが、この記事のインチキを証明しているのです。意地で連作している感じが、悪臭を放っています。
 
たしかに、こういう考え方をしている宗教信者は多いと思う。もっとも私が知っている宗教信者というのは大方は幸福の科学の信者のことだけど。
宗教と幸福とがこのような関係にあるとすれば、人々が宗教的信仰の与える幸福をばその宗教的信仰の真理であることの証拠と見なすに至るのも、驚くにあたらないであろう。もしある信条がある人に幸福感を与えるものであれば、その人がその信条を奉ぜざるをえなくなるのは当然であるといっていい。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.122)
 」
 
ここでは、まず、"幸福感"という言葉を用いて、楽山は、騙す・騙されるということを読者の意識から除外したいようです。しかし、カルトについては、刷り込み、イメージ操作、やさしい言葉、夢物語、おとぎ話、詭弁、脅迫、によって、"騙(だま)す"ということを除外しては語れないものです。カルトの幸福感は偽りです。カルト体質の精神の詐欺師である楽山も同様です。
 
たとえば、信者からこういう話を聞かされるのは珍しいことではない。
「自分はこの宗教を信じてから幸福になった。この宗教は本物だ」
「この教えを実践したら幸福になった。この教えは本物だ」
でも本当なら、宗教の正邪と幸不幸とは別問題であり、正しい宗教を信じたら幸福になり、間違った宗教を信じたら不幸になるとはかぎらず、正しい宗教を信じていてもよくないことが起きたり、間違った宗教を信じていても幸福感に包まれることはありえるだろうし、
 
幸福感という言葉で、正しい宗教を信じていても、間違った宗教を信じていても、幸福感がありえる?と言っています。このような幸福感は御免です。
 
楽山は、幸福感という言葉も、正邪の言葉の使い方も、ぞんざいであり、浅い固定観念で気安く使っているだけです。楽山は、このように、思想・宗教を語る素地を持っていないのです。
 
幸福感は主観であり、騙されているときの異常な気分からも生じ得るもの、そして、経過によっては大いに揺らぎ得るものです。
 
そのことを無視して、正しくなくても幸福になればいい、というような感覚を植え付けようとする詭弁です。要は、楽山は、自分の考えが正しいと言いたいだけなのです。
 
幸福感は主観ですから、楽山が幸福だと言うことに従って、地獄を見ることもあるでしょう。
 
また人が何を幸福と感じるかは人それぞれ異なっているのだから、自分がA教で幸福感を得たとしても、他の人もA教で同じだけの幸福感を得られるとは必ずしもいえないことだ。
 
これは、信仰は "人それぞれ"、ということを悪用して、幸福になるのだったら、いいじゃないか、という自己正当化の詭弁です。カルトは、幸福感のまま、人を犯罪に誘導する、ということは、危惧として、また、事件として、明らかになっているのです。
 
いかなる言い訳も無駄となった事態に、さらに、悪あがきをしている楽山の底が見えてきます。寒気がします。
 
中身に斬りこむことのできない楽山が、一般論的に、「幸福感」「A教」「必ずしも言えない」というボンヤリ言語の概念遊びという詭弁で、正当に見せかけて、ごまかしているという醜態です。
 
人は宗教に凝ってしまうとそんな簡単な理屈も分からなくなってしまうことがあるから困る。
 
これを、一般則のように言って「困る」と結んでいる時点で、楽山の嫌らしい詭弁はアウトなのです。困るという楽山の印象を宗教一般に適用するという詭弁なのです。論理を全く気にしない刷り込み屋だから出来ることです。
 
楽山は、前に何度も書いたことですが、軟派カルトの宣伝者です。被害者面と傍観者面と批評家面と丁寧語とボンヤリ言語が、楽山の騙しのテクニックなのです。
 
宗教も、信仰も、理屈も、情緒も、人間について言葉以上の深い理解の欠けている楽山の、詭弁による自己正当化なのです。今、この記事で、誰よりも "困らせている" のは、楽山その人です。
 
楽山こそ、体質的欠陥によって「簡単な理屈も分からなくなって」いるのです。楽山の自己中・自己愛性人格障害によるもので、まことに、常識的な判断すらできていません。
 
実を言えば自分も宗教にはまり込んでしまっていた時期はそんな風になっていたのだから恥ずかしい。
 
何も変わっていません。今もカルト宣伝者です。宗教にはまり込んだからではなく、楽山は、何も分かっていないのに、宗教に、余計な、ちょっかいを出してしまう自己顕示欲と自己愛の奴隷なのです。
 
証拠は、破たんした理路に、気づかない感受性に、ここまでずっと表れてきました。そして、ここでも詭弁を武器としていることで、いっそう、明らかです。
 
どこまでも、批評するかのような芝居で、どこまでも、自己正当化を謀っていますが、もはや、総て無駄なのです。汚い本性が、ずっと、表れているのです。本人だけが気づかない、あるいは、知らぬふりをしている。身の毛が弥立ちます。
 
これも一種のマインドコントロールなのだろうけれども、宗教を信じてしまったがために思考力、判断力が低下してしまうこともあるし、ここはよくよく気をつけたい。
 
楽山は、自分も前にカルト信者だったが、今は、大丈夫だから、気をつけてください、みたいなことを言いたいのでしょうか。否であります。
 
誰よりも、カルト体質の自己愛性パーソナリティ障害である楽山に気をつけてください。反省力も罪悪感も責任感も持っていないことが明らかになってきた人です。
 
今の楽山こそ、詭弁、印象操作、刷り込み、嘘のでっち上げ、などによって、他者一般をマインドコントロールしているところです。とんでもない策士で、精神の詐欺師なのです。
 
病的な体質のために、楽山は、今も、思考力・判断力と、さらに、情緒的感性も著しく低いので、詭弁に頼っているのです。楽山に影響を受けないように「よくよく気をつけ」てください。
 
ヤケクソ状態に近くなれば、いっそう危険です。決して関わり合いにならないでください。平静を装っても、楽山は、カンシャク玉か、ネズミ花火のような状態です。ますます人間性を失って、見境がなくなり、パニックとなってゆくプロセスかもしれません。
 
私が楽山について言ってきたところの、訂正不能のカルト思想によって思考力判断力が低下する、ということを、逆手にとっていますが、この楽山にこそ、近づかないように、「よくよく気をつけ」てほしいです。
 
「気をつけたい」なら、楽山は、背筋の寒くなるような騙しの詭弁など書かなかったはずなのです。楽山は、根っから、カルトの素、という体質です。
 
被害者意識をもって、「気をつけたい」などと言っても、騙し続けてきたのは、今までの記事とコメントの文脈から、楽山であることが、とっくに明らかになっているのです。
 
楽山という、詭弁で刷り込んでくる変質者は、断末魔でしょうか、バーゲンでしょうか、嘘吐きパリピでしょうか、何も応えることなく突っ走って、まっすぐ物を見る目を失って、反省もせずに、似たようなことを繰り返して、あたかも、同じところをくるくる這いまわって堂々巡りしているネズミのようです。
 
腐った根性が、ずうっと、無実を装う素知らぬ顔のままだから、平気を装う醜い姿で芝居がかって、結局、結果として、ますます深い深い悪意を表してしまうことになります。
 
こういう人の書く文章は、意味を汲み取ろうとしてはいけません。伝えようとしているのは、意味ではなく、支配欲からの無節操な誘導ですから、まともな理路も情緒も表れてはいません。
 
騙(だま)しの悪だくみだけが、隙(すき)あらば、袖(そで)からも、裾(すそ)からも、ずけずけと無遠慮に入り込もうとする貪欲の病原が、くさく息荒く流涎しているだけの様相です。
 
 
学んだこと:
 
正直という人間の真実を失った者は、やがて、自分自身をも隠すようになるだろう。
そしてついには自分自身をも失ってしまうだろう。
 
 
捏造の理路

ねつぞうの理路
 
 
(2020年03月24日、同日一部修正)
(2021年03月26日、再録+、さらに一部修正)
 
 
 
 
  祈りと叫び・共感の主
 
恵みの神様に感謝しますという賛美の祈りより
神も仏もあるものか!という本音の叫びのほうを
神様は熱心に聞いておられるような気がします。
 
神の意志に背く地上の偽善者に笑われながら
その血まみれの蒼白い手に叫びを込めて
父に祈る御子を遣わされた神様だから
 
 
  信じて信じて
 
一見あの世を信じ
この世を諦めているように見える信仰も
あの世の天国に望みを託しているのは
あの世の幸いのためだけではなく何よりも
今のこの世を生きるためにそう信じている
 
したがって
いかなる知恵と知識に満ちた信仰も
例えば山上の垂訓から
死ねば天国へ行けると単純に信じて
信じて信じてそれだけを
望みとしている信仰に優るものではない
 
神の立場を決めつけない限り
この世のことも
あの世のことも
望むのは信仰に反しない
 
 
(ずっと昔、再録+)
 
 
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古い作2つ、宗教詩2つ、批判1。
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・
 
 
 
  感謝と呪い
 
人が神様に感謝するとき
多くの場合
その賛美は的を外れており
現状の幸福か
多幸的な気分の先に向かっている
 
人が神様を呪うとき
たとえ恐れのためにあわてて
神を悪魔と呼び変えたとしても
多くの場合
その怒りは不幸なことに
ほぼ正確に神様に向かっている
 
しかし魂の奇跡のように
ごくまれに
人は神様に本気で
本当に感謝することがある
 
 
  信仰・宗教・学問
 
信仰は宗教ではありません
宗教は学問ではありません
 
学問は宗教の助けとなり
ときに宗教を汚(けが)します
宗教は信仰の助けとなり
ときに信仰を汚します
 
神から与えられたものは人を救います
人から出たものは人の助けとなり
しばしば人を汚します
 
 
(90年代)
(2020年03月06日、若干修正して再録)
(2021年03月20日、再録)
 
 
希望

希望
 
 
 
楽山について:
 
約2年以上、楽山を批判しています。楽山は、複数のブログで、好きなように書いていますが、その主張に一貫性がなく、真摯さが感じられません。キリスト教について、否定して、神はいないという主張に賛同して引用して、一方では、教会にご機嫌取りのような賛同を表したり、お祈り芝居をしたりと、まるで、何を言いたいのか定まりません。
 
霊が分かるっぽいという霊能者を気取ったり、学者に賛同してインテリを気取ったり、ひと言でいえば、宗教を心霊と超常の話に短絡させて、肯定したり否定したり、結局、楽山は、何かを気取っていなければ気が済まない人のようです。そのような気取りだけで語れるような宗教も信仰も存在しないと思うのですが。
 
さらに、複数のHNを使って成りすましている可能性があります。シャロームと楽山が同一ではないかという疑いを前から持っていますが、疑いを濃くすることはあれ、楽山が、潔白を表すような文章を書いたことがありません。今も疑惑ではありますが、むしろ、それ以外にも、成りすましているのではないかという疑惑が増えてきました。
 
最近も、確定できないので書かないけれど、疑わしいHNが複数あります。一括すれば、楽山は、インテリで、まともで、評論家で、言論が得意な整った人を気取っているだけと言えるでしょう。本音は、宗教を憎んでいるようにさえ思われます。整えることよりも、かき乱すことに快感を感じているのではないかと思います。
 
自殺を肯定するような you tube もあって、辟易とする時代ですが、楽山を批判しながら、いろいろなHNとサイトが、楽山繋がりかどうか、じっくり注意深く見てゆくしかありません。楽山に近づくのは、とても危険ですから、相手にしないでください。
 
誰がアップし、その関連記事を誰が書いたのか、確定はしていませんが、穏やかならぬ youtube の動画と筆致でした。コメント、ブログ、ツイート・リツイート、youtube ・・疑えば切りがないことです。でも、自己愛性病質者と、間違って付き合うことの弊害は、もっと悲惨であります。
 
 
(2021年03月20日)
 
 
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詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは
信仰者の成長を進めるためである
危うい時には
強く思い込むことではなく
人間として考えることが勧められている
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの
特別のインテリジェンスが必要ということはありません。
 
信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。
 
人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、
一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。
 
訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。
 
カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではありません。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、また書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってはいけません。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
夢と憧れ

ゆめとあこがれ
 
 
(2021年03月17日、再録+)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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