ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:宗教

 
  楽山の逃避と堕落2
 
 『〈霊〉の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学』津城寛文著
 2020年08月17日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の、本当にお気楽な空想の世界です。そこに現実逃避して、誰かが、褒めてくれるのを待っているのでしょうか。褒めてくれるのは、シャロームのような偽善者の世辞でしかないでしょう。
 
本書は面白かったのですぐ読めた。
 
気安い書き方です。今まで、楽山から、本の理解が伝わってきたことはありません。
 
全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。
 
つまり、楽山は、またしても、すぐ読めたなどと強がって、自慢して、字面の項目を並べるしかない楽山自身の、理解不能をあらわにしています。そして、"ツボだった" と、どう気に入ったのかを言えずに、言葉面だけの賛辞を書いています。
 
1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。
 
大雑把なあらすじの項目のようなものを書いています。楽山は、詳しいことが書けないのです。"ややスピリチュアリズム的に過ぎる" ・・これで伝わるものは不明です。理路と共感によって中身を説得力をもって説明することが出来ないのです。
 
読書して、理解・洞察・共感が足りなければ、良心がある人は、どこが分かって、どこが分からないかを、記事にすることが出来ます。なのに、楽山は、読めた、ツボだ、としか書けません。そこに、楽山の自己愛性人格障害らしさが表れています。
 
出来ないことを、出来たかのように言う障害は、体質的なものでしょう。読めたと言って、本人は、自己顕示欲を満足させるかもしれないが、思想において、一見、読解を装う態度は、邪魔であり、迷惑であり、悪影響でしかありません。
 
2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。
 
今までの、霊言、霊、媒介者、潜在意識、第二人格、守護霊、総て、楽山の空想で受け取った言葉です。誰も本質を理解できない代わりに、誰も否定できない、曖昧なことを言う以外に、楽山には、自分で主張する手段がないのです。だから、現実から、さらに、離れてゆくのでしょう。
 
3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。
 
楽山は、結局、その臨死体験を認めているのでしょうか、それとも、時間がたってから証言を集めるのだから、本当かどうか分からないと言っているのでしょうか。
 
楽山は、「二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多い」と言って、否定していないので、前者のようです。全体に理路が不整です。自分が満悦するためにだけ書いているからでしょう。楽山の、恐ろしい・・は、興味の婉曲表現かもしれません。
 
常識的には、楽山は前者で、真実は後者ではないかと思われます。患者の臨死体験だという発言によって、臨死体験だと証明することは困難です。こういう超常現象は、根拠のない世界の話だから、楽山は、繰り返し刷り込んでゆくしかないのでしょう。本気にしないほうがよいと思います。
 
4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。
 
楽山は、努力せずに、反省せずに、さすが出来る人と言われたいので、どんどん不思議話をつぎ込んでくるでしょう。やさしい人と思わせ、考える人と思わせ、読書家と思わせ、実際に使っているのは詭弁と嘘ですから、それ以外、何も言えなくなってゆきそうです。
 
終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、
 
神智学と来ました。しかもオカルティズムだそうです。楽山が好きそうな言葉です。さらに、楽山が、自分は分かるんだと、いちばん言いたい言葉なのでしょう。しかし、今までの楽山の記事の、いい加減さや、詭弁が、それを全否定しています。
 
そういう不思議な話の記事ばかり集めて性懲りもなく字面だけ披露してくる楽山は、相当なインチキだと思います。楽山は、根拠のあることが言えないから、根拠が無くてもいいような分野で、格好をつけたいのでしょう。
 
神智学について:
(ネットより)
神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。
後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。
 」
 
「神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するもの」ではなく、人知を超えた霊的認識?を扱っているわけです。科学ではないと思います。まるで、カルト思想の源流のようです。こんなことがウィキペディアに載っていることが、不可解です。
 
「宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができる」・・むしろ、これが、オカルトではないかと思います。
 
ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。
 
引用元著者は、スピリチュアルに親近感を持つが、オカルト神智学にはところどころに違和感を持つ、と書いています。それで、楽山は、著者は生真面目な人だから、ぜひもっと読みたいと書いています。何か「透明に」なったでしょうか。霊感商法のような話に、楽山は興味があるのでしょう。
 
著者は、宗教学者のようですが、保身か、安全弁のつもりで書いているのでしょうか。スピリチュアルを既に認めているのであれば、学者とは思えません。実証も、実験も、一般的には出来ず、みな、特殊な個別の場合しかないのがスピリチュアルでしょうから、学問の体を為していないと思います。
 
だから、楽山のような、自己顕示欲だけの劣悪な宣伝者が寄ってくる隙が出来てしまうわけです。根拠も、理路も、説明も、要らないからです。超常という現実離れの世界に興味を持つ人は、現実に希望を見い出せない人なのでしょうか。
 
どんな境遇でも、希望を求める人間らしい心があれば、希望につながる多くの道しるべがあると思います。ただ、自己愛が過ぎて反省力や罪悪感が育たない人には分からないでしょう。
 
人間離れしてゆくと、人間らしい感性も思慮も失ってゆきます。そういう人を、ずっと批判してきました。もはや、他者の意見を無視し続けるような楽山をどうしようというのではなく、楽山みたいにならないように、楽山には近づかないでくださいと、批判を続けています。
 
楽山という自らの人格をも破壊して行く者が書き続けています。楽山は、ますます、考えることをやめて、幼稚になり、退行してゆくのでしょう。批判は、ますます単純で白々しいペテンの詭弁になってゆくでしょう。
 
 
退行するお伽噺(おとぎばなし)

退行するお伽噺(おとぎばなし)
 
 
(2020年08月19日)
(2021年08月27日、再録+)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  夜から夜明け
 
電灯の下
影になって
不眠の夜をおとなしくあきらめていた
 
夜明けに先立って始まる
カエルの声と
ニワトリの声と
どんな都合でないているのか
遠くから取り巻かれているように
飢えたもの
耐えられないもの
死にそうなもの
おびただしい
遠い叫び
それほどさっきまで
夜は静かだったのだ
 
オートバイに乗って
出かける頃には
もうカエル聞こえない
ニワトリも聞こえない
 
壊れつづける機械といっしょになって
朝の騒ぎにまぎれていく
ひとつと数えられない
覚えられることもない
命のまわりを走りぬけた
命の後を行く
死んだように
かつて夜は静かだった
 
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
昔々のHSなら、イエスをトップとした白色霊団が現代医療を指導している、ワクチン開発には光の天使が関係しているとして医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに、
今のHSは、現代医療を全否定しているようで、白色霊団に対する信頼、尊敬はないみたいですね。もっと信仰を大切にしたいものです。
午後9:47 · 2021年8月25日
 
楽山は、昔の霊団?なるものを、よしとしているのでしょうか。「医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに」・・正気でしょうか。それとも、楽山は、アンチだと言っていましたが、是非が分からなくなっているのでしょうか。平気で、嘘を吐いているのでしょうか。
 
「信仰を大切にしたい」・・白々しい嘘です。楽山は、信仰と宗教を、好きなだけ、おとしめてきましたが、その根拠は、小学生レベルのご利益主教の知識によるものでした。つまり、楽山は、全く整わない反キリスト・反信仰です。また、平気で、嘘を吐いています。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  この地上に・・2 (修正加筆、再録)
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
信仰者にとって
本当のふるさとは神の国
ということなら
それは信仰者として
真実でもあるのだが
 
一方で
逃避なのかもしれない
 
 
人というのは生涯
演技し続ける動物のようだ
恥ずかしくないように
少しでもきれいに見えるように
嫌われないように?
  
そういう演技は正当で
普通なのかもしれないが
過ぎれば
「世間体」大明神とか
「体裁」大権現とかの崇拝にもなりうる
 
自分というものをしっかり持って
という「しっかり」の基準は分かりにくい
自分を信じて
という「信じて」は
責任の自覚か
努力と実績に裏打ちされた自惚れ
つまり自信だろうか
 
 
世間体も体裁も
人間関係も幸福も捨てて
真理や真実を追究して
心を病んで
傍目には
自滅的な人生を歩んだ幾人かの
哲学者、数学者、文学者、詩人などの
名を思い起こすのだが
 
 
私のふるさとは
この地上にはありません
と言いたくなるとき
 
そういう質を持ってしまった者が
反社会的ではなくても
非社会的になって自閉して
ただ一度だけ
逃避が許される最後の時を
待っている人であるなら
 
幾人かの名と違って
自分は志よりも病が先なのか
いつまで社会人でありえたのか
と風景のように遠い人々を
 
遠い社会と世界を
ぼんやりとした意識の向こうに眺めている
 
 
思うところに
以上のように思うところに
ふるさとの不在を思うだけのところに
 
いちばん知っているつもりで
本当は、いちばん知らない自分は
むしろ、いて欲しくないのかもしれないとき
 
避け所は、神の前、
秘密も嘘も飾りもない祈りの時である
 
 
(2011年04月30日)
(2019年05月08日、修正)
 
 
※ 雑感メモ:
 
論理は、心の面倒を見ない。
だから、右も左も、イデオロギーは、悲劇をもたらしてきた。
 
キリスト教も、思想と化してしまえば、同様だろう。
つまり、教条は、心の面倒を見ない。
 
 
※ 
 
私は、神の前で精いっぱい正直であることが大事と書いてきました。
  ↓
神に向かって、即ち、祈りにおいてだけは、精いっぱい正直であること、という意味です。そこで、善悪や正邪などの、人が間違えて犯してしまう罪の赦しを与えられるだろう、ということです。
 
また、私は、人は神の前で生きていると書いてきました。
  ↓
神の前で生きているとは、神は全能者として全てを見ておられる、という意味です。
 
前のは、合わせると、人は、いつも正直に生きなければならない、という道徳の話になってしまいます。こういう道徳が絶対の信仰なら、私は耐えられません。
 
改めて言うと、神の前で精いっぱい正直、というのは、神に対する祈りにおいて、故意に嘘は吐かない努力をするべきだということです。嘘を吐いたり、飾ったりしたときには、気づいたときに、改めて祈るということです。
 
神の前で生きている、というのは、神は総てを見ておられ既にご存知である、という神の全知全能のことを言っています。
 
この二つを結び付けるのは、神は、総てをご存知の上で、人が正直な祈りで告白してくるのを待っておられるということです。神の、この待っておられる姿勢は、人の一生のあいだ、変わることがなく、それが、神の寛容なる愛だと言いたいのです。
 
理路の表現が、誤解を招いたかもしれません。すみません。
 
※ 
 
神に対して滅多なことは言えないと、讃美言葉で飾ったり、自己正当化して反省もせず善人のふりをして、罪悪を隠したり、さらに嘘を吐いたりすれば、既に、それらすべては、神によって、見抜かれているということです。ゆえに、改めて、正直に祈ることだけが、悔い改めになるのです。
 
 
この地上に2

この地上に(2)
 
 
(2020年05月27日、修正加筆再録)
(2021年05月30日、加筆修正して再録)
 
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫の
嘗ての縁
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥い流れを冷水に
冷水を雫に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契りもなくて罪に塗れ
柵を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
(90年代か)
 
泡沫(うたかた)
嘗(かつ)て
縁(えにし)
血腥(ちなまぐさ)い
雫(しずく)
契(ちぎ)り
塗(まみ)れ
柵(しがらみ)
土塊(つちくれ)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 

 
  アドラー教について(7)2
 
  ポジティブ心理学サロン(アドラー心理学サロン)
   2018-09-17  完璧主義なんて止めてしまえ!
(前の記事に加筆して再録。)
 
 
楽山は、最近は言わないようだが、アドラー教の宣伝者です。気に入らないことは無視する、というアドラー教の説教を、我欲に沿って実行しているのが、楽山です。
 
アドラー心理学として、アドラーの顔まで出して、言っているのは、学問ではなく、説教に他ならないので、また、説教者の言を読んでみた印象で、アドラー教と呼んでいます。学問というより宗教、というより、カルトと言うべきでしょう。
 
心理学者アドラーの名をサイトに冠することも、また、説教していて宗教なのに心理学という学問の名を冠していることも、戦術的であり、尊大だと思います。
 
実践的に難しいという問題を、説明しようとして、人それぞれ、という言葉が空回りして、霧散してゆくような話になっています。
 
アドラー心理学サロンです。
今回の記事は、物事を判断する際に、白か黒か、100点満点か0点かで極端な結論を出そうとしてしまう真面目な方へ、柔軟な考え方ができるようなアドバイスとなるよう心掛けました。
一例として、「課題の分離」の捉え方が難しいというご相談をアドラー心理学サロンでは頻繁に頂きます。
 
課題の分離は難しいと思います。現実には、主観において、分離することは出来ないと思います。課題の分離という概念にも疑問がありますが、課題の分離という言葉を書いて、読者がどう受け取るかを考えると、やはり、自己中の方向へ向かう必然がありそうです。
 
自分の課題の中に他者が含まれている場合があります。さらに他者への影響と他者からの影響をを無視すれば、自分に不利な結果が返ってくることがあります。それを無視してばかりでは、自己中にしかならず、だんだん大事な仕事を任せられなくなり、無視されるようになるかもしれません。
 
他者にどう接したらいいか、などの場合、他者がどう思うかなどを考えるのは、自分の課題なのです。つまり、それほど変わりはなく、それほど分離することによっても楽にはならないと思います。
 
他者のために働いている場合、他者の気持ちや意見を、それはあなたの課題、人は人、などと言って、無視することはできないでしょう。
 
自分の、他人の、・・などと、課題を決めつけることは安易な決めつけになり、自己中になる必然が生まれます。いくつか例示して、それで、すっきり分けられるほど、人間関係は、単純ではありません。課題というものを、客観的に分けることは、結局は困難な場合が出てくるでしょう。
 
他者の課題の中にも自分が含まれている場合があり、自分次第で、他者の評価が変わる場合、気にしなくていいのでしょうか。他者を知り、他者が自分をどう思っているかを知る、そのための情報を得る、そういう自分の課題に派生してくることが複雑に絡み合ってくるでしょう。
 
必要なのは、理屈で、スパスパッと分離することではなく、何より自分が、思い煩わないことです。つまり、心の健康の問題です。それ以上に汎化して、命題または説教にしてはいけないと思います。
 
自分は、他者の課題と思って分離しても、他者は自分がやってくれると思っていることもあるでしょうし、自分の態度いかんで変わってくる要素が、他者の課題にの中に含まれ得るし、どちらの課題であるかが、変化することもあるでしょう。全部ぶった切ることで、楽にはならないでしょう。
 
つまり、割り切れない要素でいっぱいになってくる人間関係を、自分の、他者のと、自分の側だけで割り切ることは、様々な影響を考えないでいると、その影響によって、あるいは、気づかぬうちに、ずいぶん嫌われて、取り返しがつかなくなっているということもありうるのです。
 
それを嫌われる勇気をもって無視するのでしょうか。そこに生じるのは、自己中心以外のものではありません。相手は、勇気をもって無視されるわけではないからです。下手をすると、怨念を相手に残すことにもなりかねません。
 
少なくとも、歯切れ良さそうな断定で言うような、すっきりしたものではなくなる可能性が大であり、机上の説教とは異なってくるのが、現実です。
 
それを、現実において、課題の分離として、行なおうとするなら、あるいは、行なったつもりになるなら、その分離による言動が、自他が相互に作用しあうのと同様に、相手の課題を変え、それが自分の課題を変えるというような、相互作用があるわけですから、軽々に分離など出来るものではありません。
 
それゆえに、自他の課題の分離を決めつけることが、自己中の自分勝手に、また、対人関係において、無頓着に、鈍麻に、変わってゆく可能性の必然があります。しかも、だんだん、激しくなって、感情的になって、人の言うことを聞かなくなる場合も考えられます。記事は、そういう要素を無視しているのです。
 
つまり、実践的には、自己中になりやすいというのは、アドラー教が、そして、その説教者が、机上の論理で、教えを言葉で割り切ってしまったことで、その必然を内在しているわけです。
 
この「課題の分離」を極端に捉えてしまい、他者の課題は他者でのみ関与する問題であるとして、他者が困っていても知らん顔していて辛くなってしまったというお話もあります。
 
極端というより、問題を単純化して、単純な場合に成り立つことをもって、汎化、つまり一般化して、気軽に、言い切っているせいでもあるでしょう。
 
それにしても、説教者は、反省する気は全くないようです。相談者が失敗するのは、説教が悪いからとかは考えないのでしょうか。自分のせいにせず、アドラー教のせいにもできないから、盛んに、実践者のせいにして、また、さらに教えようとしてきます。それで解決するとは思えません。
 
そもそも、アドラー心理学では、放任主義は決して推奨しておらず、むしろ他者への貢献を推奨しております。
 
言葉選びの、辻褄合わせの、言い逃れの、詭弁があるようです。他者への貢献と書けば解決する問題ではありません。ずっと、人間関係を単純化して大事な部分を切り捨てている感があります。
 
説教して、あと無責任に放任・放置しているのは説教者です。言うと気持ちよいが、きちんと実践するのは難しいというのが、アドラー教だと思います。
 
つまり、他者の為に他者がやろうとしていることが、やりやすい環境をそれとなく整備してあげたり、他者が困っていて助けを求める時には、いつでも援助できる準備や姿勢を持つことが推奨されております。
 
他者のためにすることは推奨にとどめ、分離のほうは豪語するところに、この問題が、一筋縄ではいかないことを露呈しているようです。
 
他者のことも考えていると言いたいようです。実践においては、他者を無視できませんから、実践者は、考え、それゆえに、余裕がなくなり、考えが偏るか、無視した結果に困ってしまうか、どちらかに陥るだろうと思います。推奨されていることは、自分の課題なのでしょうか。
 
そのことを自覚しにくいのが、アドラー教なのです。その見本は、説教者であるかもしれません。苦し紛れに、「それとなく」・・という曖昧なことを教えることになって、話が、ますます複雑になってゆくようです。
 
人間関係を、言葉で割り切って考えることに無理があると思います。言葉は、その示すところが、言い方、表現、聞く側の状況、などにより、相対的なものであり、意味が揺らぎ、その言葉による、言った人の意図だけでなく言外の影響があります。
 
心を言葉で表すのは、努力するべきことであり、表したつもりでも、完全ではなく、大安心や大丈夫になるわけではありません。人間の扱う言葉は、不変の悟りの境地を約束しません。
 
つまり、「課題の分離」とは、ドライで自分と他人を完全に割り切って、あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません。
 
さんざん、歯切れよく、ドライに言ってきたのは説教者です。矛盾がないように説明しようとして「あなたの問題なんて知らないよ!というものではありません」と、また、同じようなことを言ってきます。言葉だけ整えても、どうにもなりません。
 
心を病みやすい方は、白黒ハッキリつけようとしたり、100点でないと無意味だと考えたりする真面目な方が非常に多くいらっしゃいます。
たとえば、アドラー心理学の考えを学び、アドラーの教えと少しでも異なることをすれば、「自分は0点でなんてダメ人間なのだろう…」と考えられる方が多いのです。
 
病気のせいにしてはいけません。そういう人が「非常に多い」ということは、一般に教えるうえで、教える人か、教え方か、でなければ、教えそのものに、問題があるということです。
 
そうした考えをしてしまっていると、完璧主義にもなりやすく、何かを始める際に準備ばかりしてなかなか行動に移せない状態にもなりやすいのです。
そうした方は、自分に合わなくて精神的にキツい職場で働いているが、転職をするのに今のスキルのままでは満足の行く会社に入れるはずがない!と考えて資格の勉強を続けてしまいます。
そして、そのまま合わない職場で働き続けた挙句にうつ病を患うといったことも非常に多く散見されます。
こうして白か黒か、100点か0点かをハッキリさせたがる性格では、生きるのがとても息苦しくなってしまいます。
 
そうして、完璧を目指す、出世するために努力、ということを、説教者が反省せず、完璧主義ではないと、森田神経質治療のように、あるいは、言い訳のように、実践者のほうばかりに原因を求めるならば、それこそ、アドラー教が原因で鬱になる人や、気づきについて鈍化する人がが出てくるでしょう。
 
良い教えは、言葉でも、実践でも、窮屈や面倒を感じることはなく、解放感を伴います。
 
ですから、アドラー教は、これだけで幸せになれるかのように教えていますが、鵜呑みにして信じて、しがみつくのは、とても危険です。自覚を伴いにくいので、厄介でもあります。考え方としても、総合的に考えるべきで、決して、これだけで絶対大丈夫などと思わないことが肝心です。
 
どんな人間にも、物事にも、多面性があります。
それは白いところもあれば、黒いところもあります。
その中間である灰色を含めて、様々な配色で出来上がっているのです。
100点のところもあれば、0点のところもあります。
その中間の50点なところもあり、バラバラな点数で出来上がっているのです。
 
それを言うのは、どういう目的でしょうか。人間も物事もいろいろ・・と当たり前のことを言ってるだけでしょう。自分の出来ることを?・・しているはずです。100%を目指さず・・目指しているのでしょうか、そうでもないような気がします。
 
それくらい、アドラー教は、特にその説教は、こみいった要素に対応していない "原則に過ぎない" ものです。それを、総て解決するかのように教えるのは危険なのです。
 
信号無視はしてはいけないと、法律でも世間でも言われておりますが、車が来る気配が無ければ信号無視をしてしまう方もいることでしょう。
 
何を言ってるんでしょう。
 
説教者は、心理についての考え方を消化していないのではないかと思えてきます。
 
その信号無視への捉え方だってその人の主観で配色も点数も異なるのです。
おまけに、白か黒か、何点かなんてあなたの頭で作り出された物差しであり、主観的なものなのです。
 
主観の曖昧さですが、また、当たり前のことを言ってるに過ぎません。それと、自分次第の主観的なものでしょうか。信号は違いますよ。法制度も違うでしょう。
 
白か黒かというのは自己採点の100%を目指すことだと思いますが、そういう強迫性ということならば、強迫性に向かってしまう教えではないことの詳細を説明するか、教えの教え方を疑うべきでしょう。説教者には、反省力がないと思います。これは自己正当化です。
 
一般的に言われる客観的な物差しなんて、法律やテストの点数くらいしか存在しないのです。
法律やテストも、国や学校がそれぞれ作り出したものであり、万人に共通ではないのです。
つまり、白か黒か、100点か0点かにあまりこだわっても、単に疲れるだけなのです。
あなたにとっての「灰色」や、「50点」が相手にとっての「白」であり、「100点」かもしれないのです。
 
相手にとって云々と、他者に囚われているのは、誰でしょう。
 
こういうことを書いて何になるでしょう。主観の判断の話をしていたのに、国や学校が作ったもので、人が動く社会構造がある現実で、指標に、こだわるなと言うのでしょうか。無法者になることを勧めていると誤解されるでしょう。
 
こうした尺度は、相手によってや、状況によっても容易に変動するのです。
ありのまま、その人や物事を受け入れてしまいましょう。
 
とても、あいまいな、ありのまま、という言葉で終わっています。何を言い得たつもりなのでしょうか。人間いろいろ、主観いろいろ、これで解決するとは思えません。総てひっくるめたことを言おうとして、めんどくさくなった末の投げやりな言い方のような気がします。
 
今度は、自分のありのままを知ることに、エネルギーを使えと言いたいのでしょうか。
それとも、欲望の、気持ちの、その時その時の気ままな意志の、ありのままでしょうか。
自分で考えたものなら、自分でどこまで考えたところの?ありのままなのでしょう。
 
ありのままで、分かったような気分になっても、
正体不明の、ありのまま、によって、具体性を離れ、話は、霧散してゆきます。
 
記事タイトルが「完璧主義なんて止めてしまえ!」ということですが、気安く幸福を約束しないでください。また、強い断定で語ることも出来ないはずです。アドラー教というのは、本当に実践可能なのでしょうか。自己中でないことも、不完全でいいことも、説明できていません。
 
 
不明

不明
 
 
(2019年11月22日)
(2020年12月06日、修正加筆して再録)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

 
  知らないこと
 
 
私がレスとしてコメントに書いたこと:
 
「神と神の国、私もよく知らないです。
聖書を読んで、知らないことを弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。」
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
神とキリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力という人間らしさで、人間と交わったところだけです。
 
そこだけが、人間にとって、いちばん大切なことだからです。それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、完成してはいません。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい
実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。
悔い改めは神が与える、と言って、悔い改めないことの言い訳の詭弁。」
 
これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」
「教えを守って完全になれる」
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを知らないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、使徒も、罪を犯したのち、悔い改めて、祖、王、あるいは、使徒となった人々。
 
情欲は湧いてくるものであって、情欲を湧かせないようにして教えを守れる人はいない。
 
行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにする、という例。
 
完全になれる、に至っては、神への冒涜であり、背教である。
完全なのは、ただ神お一方のみである。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神聖と人間性を兼ね備えた御方であり、
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間を成長させる感動を与えることはないからだ。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性である。
 
二千年前に、現代も悪の本質である偽善を洞察し、それを赦さなかった。
 
敬虔の本質を洞察して、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、誰もキリストを、本当には理解していないことを承知の上で、命をささげた。
心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに共感する。
偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者はキリストから離れられないのである。
 
そのことが、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、言葉で語っても、決して、言葉で表したことにはならないからである。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治に利用され、宣伝に利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、
言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、
キリストは今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルト、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している尊大な偽善者に決して騙されてはいけない。これらの者たちは、神を、本当には恐れてなどいない。キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのだ。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼らは、もっともらしい言葉?のみを武器に超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならばわかるはずの理路を持ちません。つまり人間らしさを持たず、むしろ嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、共通して尊大であり、自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
 
近況:
6月2日に、朝起きてより、筋肉痛、筋力低下を来して、ピンポンにも出られず、電話にも出られず、排泄もソファーに寝たまま手の届く範囲にあったペットボトルにして、飲まず食わずでいました。
夕方、やや回復して、記事を書いたが、翌日3日、また同じ感じで、救急車を呼ぶことを考えておりましたが、電話が固定電話しかないのでできず、症状がよくなったら、とか、死ぬんだろうか、など思いながら、今日を迎えました。
今日は、なぜか分からないけど、何とか、起立と、ゆっくり歩行が可能となり、トイレ、電話、ピンポンのほうも用事をすませました。どうなるか分かりませんが、明後日は、あちこち病んでいる母を、診療科の多いほうがよいだろうと、新しい病院に介護施設のほうで連れてゆくことになったので、私はその時間にその病院に行って付き添うことになっています。・・できるかどうか・・
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行、速い!)

 
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 
 

 
  ゆるすこと
 
 
 赦すな、そして、許すな
 何でも気安くゆるされると思っている者を
 けっして赦すな、そして、許すな
 キリスト者ならゆるすのが当然だと思って
 笑う者を
 ゆるしてはいけない
 
 キリストは偽善者をゆるしてはいない
 
自分が赦されたように
人を赦しましょう
というのがキリスト信仰
と思っている信仰者は多いと思います。
 
しかし
人が人を赦すということは
奇跡的にしか起こらないような気もします。
 
さらに
赦すべきではないと思う場合もあります。
ゆるしを乞われても本気ではないと感じたら
ゆるすべきではない。
 
ゆるすことが罪という場合もあると思います。
乞われもしないのにゆるしてしまうのは
ゆるす側の一種の勘違いか自己顕示である場合もあるでしょう。
 
ゆるされた者はさらに図に乗って罪を犯し続けるかもしれません。
 
乞われて赦すのであっても
なんでも赦してしまうと
それは何でも許可することに近づいてゆきます。
 
人の罪は
気安く赦されるものではないのです。
聖書においては
魂の奇跡として語られていると思ったほうがよいでしょう。
 
神が人を赦すことは魂の奇跡なのだから
私たちが他者を赦す場合については
考えることがあるでしょう。
 
人は人を赦せるでしょうか。
聖書の言葉に倣って
言葉においてだけ赦しているかもしれません。
自分の心は晴れているかどうか
相手は本当に罪を悔いているかどうか
赦すときにペナルティを課さないでいいだろうか
 
裁くなという教えに倣ったからと言って
相手をどこまでも赦すことは
相手が罪を気安く見なすきっかけになりはしないか
自分以外の人々の災いにつながらないだろうか
等々考えてみると
うっかり赦してしまうことが
偽善につながることさえあるのです。
 
等々考えていると
じゃどうすればいいんだ
ということになりますから
いつまでも考えてばかりはいられません。
 
つまりはキリスト教だからといって
なんでも赦す人間がいいわけではないということです。
じっくり考えること
人間にとっては不完全ですが
じっくり振り返ってみること
相手は本気で言っているか
自分に何かわだかまりが残るのではないか
その辺を
キリスト者だからといって悟ったかのように
疎かにしてはいけないということです。
そのための、思い煩うな、というみ言葉があります。
過剰に病むほど考えすぎる必要はないけれど
できる範囲で思考を深めることは大切です。
 
信仰は思考停止を勧めてはいない
ということを忘れないでほしいと思います。
 
自分が罪を犯し
赦されたい場合も同様であります。
 
キリスト信仰を
キリスト教として
つまり教えとして
つまり道徳のように考えるのは
信仰として正しいこともありますが
 
道徳的な言葉の外に
見逃されたものがあるかもしれません。
相手は図に乗って
こちらより気安く考えるかもしれません。
 
病まない範囲で
考えることは人間にとって必須です。
 
病んでしまうということの兆候は
心の中でも人に対しても
言葉遣いが我にもあらず荒っぽくなる
ということが一つの目安にはなるでしょう。
そのときには休んでいいと思います。
 
私たちキリスト信仰者は
悟りを開いたわけではありません。
不変の悟りの境地を得たわけではありません。
感受し考え成長する道を歩いているのです。
 
みことばにしたがうなら
なんでもゆるしあいましょう
さばくことはしてはいけない
いつもえみをたやさずに
というようなことは
カルトの常套句であります。
 
ゆるさないことは罪ですが
ゆるすことは、もっと罪である場合があります。

 
偉い人や徳の高い人になるために信じたのではありません。
信仰は罪なき人を目指すものではありません。
 
私たちキリスト信仰者は
まず自分が赦され救われるために
他にないと思ってキリストを慕って信じたのです。
信じた時に罪を自覚したからです。
 
罪を認め悔い改めるというのは
告白して赦しを乞うたとき
既に罪に対する生き方が改まることなのです。
私たちが償いやペナルティなしで赦されるのは
償いやペナルティを課せられたら耐えられないからです。
 
偽善者に騙されないためにも
どれほど悔いているかは
判断が難しいかもしれませんが
私たち信仰者は
何でも、何をしても、赦してくれる便利な守り神を信じてはいない
ということを覚えておいてほしいと思います。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
23:40-41
もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42
そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43
イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
 (ルカ23:40-43、新約聖書)
 
聖書において救われた犯罪人は
赦されて死刑を免れたわけではなく
自分を赦してくれるキリストとともに御国へ行くことが
約束されたことを忘れてはいけません。
 
 
(2019年06月02日)
(2019年06月05日、一部修正)
 
倣う(ならう)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp
 
 
  
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
 
 

このページのトップヘ