アドラー教と楽山
 
 アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン‏
  への、私の批判記事「アドラー教について(14)」
  を加筆して再録。
 
 
楽山は、以前、盛んに、アドラー教の宣伝をしていました。そのことを、過ちだったと訂正したことはないと思います。楽山は、カルト的な完全自己中になっています。その関連で加筆しています。
 
個別の多様性を考えず、後先を考えずに豪語して、そのあと、折り合いをつけるための言い訳めいたことを言う。人間の言葉の不完全を思うならば、先ず、豪語を避けるべきなのですが。
 
【憎い人を忘れる7つの考え方】
1. 自分の為に許してやる
2. 過去は過去に置いてこれる
3. 悪い人だと早く知れて良かった
4. 嫌いなら、無理に関わる必要は無い
5. 憎い人のことを考えたら、相手の思うツボ
6. 他人と過去は変えられない
7. 好きな人を大切にする
 
憎い人と悪い人を、カルトと置き換えたほうがよいかもしれません。決めつけて、現在と未来を固定して、人の迷惑を考えなくなっている楽山と置き換えてもいいでしょう。
 
嫌われることを恐れていれば、あなたは永遠に幸せになれない
幸せになる為には、嫌われる勇気が必要です
嫌われることを恐れずに、ありのままの自分で生きるべきなのだ
嫌われないように、他人の顔色を伺って生きていては何も楽しめない
 
嫌われて平気でいて、仲間だけで褒め合うのもカルトの特徴です。楽山が、シャロームに無条件で同意することに表れています。これで幸せになれるのでしょうか。他者に、とんでもない徒労を与えるだけになっているのですが。
 
嫌われても、否定されても、何も気にしないようになったら、楽山のような、人間とは思えないような、人間の神経も精神も持っていないような存在になるでしょう。
 
自分よりも他人を優先して生きる為に、あなたは生きていない
 
このような発言が、自己中体質を促進するでしょう。楽山に至っては、他人より自分を優先するにとどまらず、他人を無視して自分の満悦と慢心だけを、むくむくと膨張させる人になっています。
 
未完成のままでいい
完璧なんて目指さなくていい
というより、完璧な状態なんて実現されません
もしあなたが完璧な状態を分かっているとすれば、それは空想の産物です
何でも揃って、何不自由しない状態なんてこの世に存在しない
いつだって、幸せは今この時にあり、やりたいことは今やるべきです
 
確かに、人間は、未完成だから成長が必要ですが、
この文脈が、アドラー教から出てくるのでしょうか。
幸福を保証するかのような断定と豪語を繰り返している中で。
 
完璧でなくていいという保証は、
失敗と批判に対する責任逃れの予防線ではないでしょうか。
 
他人は他人、自分は自分
他人が自分をどう思おうと、何を言ってこようと、そんなことはどうでもいい
 
どうでもいいのでしょうか。参考にしなくてもいいのでしょうか。人の言うことは、どうでもいいから聞かないよ、と言っている文脈になります。そうして、楽山は、人間性を失って、他人など、どうでもいい人になっています。その結果、楽山自身も、人間ではなくなっています。
 
そんなことを気にかけて、自分の気持ちに嘘を付いてはいけない
自分に嘘を付いて、やりたくもないことをやらされていると思いながら生きるなんてバカバカしい
自分で自分を制限しているだけです。
 
やりたいようにやれ、と言っているようなものです。楽山みたいに。
 
教えられたとおりに、やりたいようにやって、突き進んで、失敗したときの責任をだれがとるのか、という問題になるでしょう。一喝するだけでおさまらないときは、逃げる用意でもしているのか。
 
それとも、楽山のように、全く責任を感じない無反省・無責任・無神経な人になれと言っているのでしょうか。そして、誰にとっても、疲労だけを与える迷惑因子になっています。
 
人はあなたが思うほどに、あなたのことに興味を持っていません
あなたが勝手に馬鹿にされてるとか、変だと思われていると思い込んでいるだけです
みんな自分のことで精一杯なんです
 
他者の思惑に左右されてはいけない、他者に依存してはいけない、ということは、誰でも言うことです。しかし、今まで言ってきたことは、興味などという範囲ではないですね。
 
楽山は、他者の意見も思惑も忠告も批判も、無視して、人間を、やめているようです。
 
教えるならば、うまくいかないときの対処も教えることが必要です。人が伝えるいかなる教えも、薔薇の花園を約束するわけではありません。だから、謙虚になるわけですが、それが、アドラー教に見られるでしょうか。
 
楽山は、薔薇の花園にいるつもりなのでしょう。実際は、罵声を浴びせられ、糞便を投げつけられても仕方ない状況ですが。
 
人の噂を楽しむ人達は、あなたに興味があるのではなくネタを探しているだけ
そんな人達、相手にしてはいけません。
 
楽山みたいな人のことでしょうか。確かに、反省もせず、責任も負わず、ネタにして茶化して遊ぶだけの楽山のような人は、相手にしてはいけません。
 
あら探しなんかしてないで、良いところ探しをしましょう
どんな物事も、良いところを見ようとするのか、悪いところを見ようとするのかで意味が全く違う
あら探しをしてしまうのは、あなたの心が曇っているだけ
あなたが偏見を持たずに、良いところを見つけようとすれば、世界は幸せな場所に変わる。
 
良いところだけを探して、悪いところを無視するのは、悪を野放しにすることです。そうすれば、楽山のような自己中は、大助かりでしょう。しかし、その分、犠牲者が増えるのです。
 
まるで、ブログ主自身に対して、批判せずに良いところ探しをせよ、と言っているかのようです。
 
それが幸せというのは、文句を言われたくないカルトの特徴です。あら探しをするのではなく、思考を深く掘り下げることは、いかなる場合も、自分を支配されないために必要です。
 
反省もせず、責任も負わず、過ちを認めずに、怠けていると、楽山のような、体質的な、自己満足疾患になってしまうのです。
 
好きでもない人と仲良くしなくていい
人生で出会える人、付き合える人の数は限られている
人との関係を雑にするべきではありませんが、目の前の人達が全てではない
あなたに合う人、あなたを好きになってくれる人はいくらでもいる
どうでもいいような人達と、惰性で付き合い続けることは時間の無駄
 
惰性で付き合い続けることと、好きでもない人と仲良くすることを、同一に考えているようです。惰性で付き合うことは、依存の強迫観念において起こり得ることですが、それは、好きでもない人とは限りません。また、今は苦しいけれど我慢するということもあるでしょう。
 
楽山のように、都合のよい文言だけを求めて、苦言や批判を無視する者は、何の説得力も魅力もない惰性だけの人間になっています。
 
好きでもない人と仲良くする必要はないとして、好きではないと、いつ、判断するのでしょう。最初に好きでないと感じたときに、仲良くしないと決めてよいのでしょうか。
 
好き嫌いと、正邪を、混同して、楽山は、無視を行使します。その結果、楽山を好きでもない私によって、今まで2年、これからもずっと、その邪悪さを批判されることになります。
 
軽々しく、教えだからと、付き合いを断ってしまうことの責任を誰が負うのでしょうか。実際には多様なケースがあるのに、一律に短い言葉で断定することの弊害を恐れないようです。
 
楽山は、全く責任を負わず、反省せず、訂正不能になって、破壊が酷くなっています。付き合いがなくても、行為がなくても、邪悪は、批判されてゆくのです。
 
弊害として、出会って、ちょっと不満を感じるたびに、目の前の人たちが全てではない、好きになってくれる人は他にいる、惰性で付き合い続けない、時間の無駄、などと思っていたら、次から次に、諦めが早すぎて、我慢することがなく、腰を据えることがなく、理想と満足を求めて、どこまでも、いつまでも、放浪の人になってしまうでしょう。
 
楽山には、生きる軸となるものが、全く見られません。
 
人は勘違いをするのが当たり前の、愚かな生き物です
人は自分のフィルターを通して、物事を知り、判断をしています
 
このことは、独りでも起こることですが、アドラー教も、自己中と思われる要素をその教えにも持っています。特に自己愛性人格障害者において勘違いをすると、正当化の根拠を得たかのように完全な他者無視の自己中になっている者がいます。
 
楽山がそうです。色眼鏡でしか物を見ず、しかも、それを、真理のように語って、自己満足して、反省することなく、責任を負わず、訂正不能で、成長せず、その結果、自己正当化の詭弁だけが、症状として、症例のデータとして、山のように積まれてゆくのです。
 
人それぞれ違うのが常識であり、みんな同じであることが異常なのです
孤独を恐れるあまり、多くの人達は常識を正解だと思い込んで苦しむ
自分の頭で考えて、自分の人生を生きよう。
 
続く言葉で、人それぞれと、人によって違うという話にすり替えています。そして、アドラー教は、独りで判断するように言っているのです。上で、勘違いが当たり前と書いているのに。
 
その教えの結論が、自分の頭だけで考えようなら、それは、自分で満悦する楽山のような人間です。都合のよいことだけを拾って来ては書き、都合の悪いことを無視して、楽山は喜びだけで、周りは迷惑だけです。
 
自分が知っていることが全てだと思ってはいけません
自分の知っていること、認知できる範囲はこの世のほんの一部に過ぎない。
だからといって、他人とは分かり合えないと考えて切り捨てるのも早計。
無理に同調する必要はありませんが、お互いに折り合いを付ける努力をすることに意味があるのです。
 
まるで、予防線にもならない、体よくまとめただけであり、同時に、苦しい言い訳のようです。
 
自分の頭で考えて、自分が全てではない、他人とは分かり合えないと考えて切り捨ててはいけない、無理に同調するな、折り合いをつける努力、・・これは、主張の方向が、散乱しています。
 
単方向に豪語してきて、言い逃れをして、自尊と自己の正当性の保証を求めているようです。引っ込みがつかなくなって、折り合いをつけようと八方美人的に苦しい言い訳を貼り付けて、辻褄合わせをしている姿ではないでしょうか。
 
人間の言論の正しさを豪語で伝えようとすると、豪語そのものが乱れて、豪語して言い訳、突出して折り合い、という、収拾が付けられなくなるという縮図を見ているような気がします。
 
いまだに、アドラーという名前を掲げ、アドラーの写真を載せて、心理学という学問の名前を付けているようですが、元々、アドラー心理学という学問の紹介であるなら、豪語して教える態度はないはずです。
 
ずっと、世界を変える幸福の約束のように、強気で言っては、引っ込みがつかないような伝え方であることが、心理学という学問ではなく、アドラー教と呼ぶしかない宗教活動であることを示しています。そして、無責任豪語は、カルトの特徴なのです。
 
 
その無責任は、しっかり、アドラー教宣伝者である楽山に、無反省・自己中とともに受け継がれているようです。人は人・・で、あるいは、それは相手の課題・・で、人に囚われないだけではなく、人を無視できる心性は、人の心情が分かっていない表れとして、いつも呆れます。
 
楽山は、こちらが、無反省だと批判すれば、反省という言葉だけ書いてくる。こちらが、共感がないと書けば、共感という言葉だけ書いてくる。そして、その前と後で、何も変わっていないことが、嘘であることの証拠となってゆくのです。
 
理路の正当性は、論理性だけではありません。特に、宗教や信仰の真実については、いくら理屈をこねても、そこに人間の心の共感性がなければ、言論は成立しません。楽山には、それが、見られたことが全くありません。
 
だから、楽山の言は、人を苦しめることは出来ても、人にとって助けとなるような糧には全くならないのです。そして、糧となるための努力さえも見られないまま、自己弁護・自己正当化の言を、だらだらと虚しくつないでゆくしかないのです。それが、自己中に染まった者の大きな災いです。
 
楽山には、シャロームという仲間がいて正体は偽牧師でしたし、アドラー教の自己中を信奉していたこともあって、また、無反省・無責任・無理解・無神経であるために、自業自得の結果として、病質者とカルトの印象がつきまとうことになります。
 
 
果実は邪悪の共鳴

果実は邪悪の共鳴
 
 
(2020年02月08日、同日一部修正)
(2021年02月09日、再録+、同日さらに修正)
 
 
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