ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:屁理屈

 
  楽山の偽り方3
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命でしょうか。
 
私は、反キリスト楽山を資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。楽山の書く文章は、ちょうどよい世辞の対象になりがちですが、よく読めば、真善美につながる内実は、何もないのです。
 
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
楽山が断定しないと言っているのは、語尾を曖昧にしていて、それを免罪符のように思こ込んでいるに過ぎません。実際は、曖昧で婉曲的な書き方は、率直なのと比べて、はるかに、嫌らしく気持ち悪い印象になります。楽山が、断定しないからいいだろう・・と思っているなら、大間違いです。
 
霊言なるものや、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、甚だしい無理解を示す根拠として明らかであります。丁寧語で書いて、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。底意地の悪さは隠せません。
 
楽山は、断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、偏見を刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意の誘導であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方で、つまり、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。どこまでも無理解で、人の気持ちの分からない楽山です。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定のベースなのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しないので、断定できず、判断も出来ず、それを反省する代わりに、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
楽山の勘違いは、まず、意見をはっきり述べるということと断定して訂正不能にすることの違いが分かっていないことです。どう信じているかは、はっきり言わねばなりません。それが、真実でないならば、その信仰はカルトであります。
 
しかし、楽山の場合には、主張が靄の中のように明確さを欠いているので、何もはっきり言えないだけです。つまり、思想がないのです。したがって、何もはっきり言わないのがいい・・などという自己弁護の妄想に陥っています。何も本気で信仰したことがないからです。
 
信じていないなら何も言わないことです。自分が明確に言える何ものも持っていないから、その不明を人類に当てはめるというトンデモが楽山です。誰が不明確な主張を信じえましょうか。楽山は盲目を信じているカルトです。誰の助けにもなりません。楽山は主張すべき真実を何も持ってないのです。
 
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる悪知恵として、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、そえゆえ、中身がないぶん、いっそう醜く煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、今のままでいいと思っているなら、もう何も書くなと言っています。詭弁だらけの理路、虚言、無感性、無共感、無反省、そして無責任では、人間として、目も当てられないほど、欠格なのです。
 
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。何も読まず理解せずに、人真似をして、言葉だけ引用すると、このような無知蒙昧になってしまうのです。
 
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところでもあります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
絶望でも、希望でも、人が勝手に決めつけてよいことではなく、私たちは、一人一人の人生の中で、この言葉を味わうべきであります。少なくとも、お祭り騒ぎの香具師のような、野卑な楽山を参考にしてはいけません。キリストの絶望の言葉を補えるのは、神だけであります。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、ボクは総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・とか言っているようなものです。
 
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
部外者の楽山は「捨てる」などという選択の権威を、いったいどこで与えられたのでしょう。言った傍から「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、身の程知らずの権威主義も甚だしいのです。自分は頭がいいから有名になりたいというのが、楽山の悪い夢でしょう。楽山を「捨てる」べきです。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、小中学生の時に、私もいだきました。楽山の信仰理解はゼロです。楽山が書くことは災いです。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山は、神と取引して損得勘定するような身の程知らずの病魔に蝕まれているだけです。
 
楽山のような因果応報の惨劇と違って、原因も分からず打ち勝つことも出来ないような悲劇があります。そういう悲劇に共感するキリストは、御自らが、最も理不尽で悲惨な災いを受けることで、魂の不滅に共感することが、新しい命の世界を開くことを証ししたのです。
 
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無です。だから感動とは真逆の刷り込みしか出来ません。楽山にあるのは、屁理屈、詭弁、妄想などです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観的洞察は、心を解放です。楽山には皆無です。
 
理屈というのは、欲しく思って付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、何もないのです。
 
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
信仰として必要なものは、生きるための感動からの共感力であります。楽山の「無難、穏当、一般的」は嘘です。何も開かれるものがないからです。月並みだが否定するのも何だか、・・というような言など、何の役にも立たず、ほぼ、お世辞と同じなのです。楽山が理解されないことこそ幸いです。
 
トンデモを退けるなら楽山の言葉を退けるべきです。楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないトンデモです。既にバレているのです。楽山は、祭の夜店でインチキを売るペテン師です。
 
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
「ほどほどの理屈で満足できる」と、楽山が自白しています。何も真剣味のない自己愛者の、いい加減な、与太話です。楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものです。それで満足すること自体が、楽山の言論不適応の根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 
言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。結局、何も整っていない者が、自己顕示欲のために、でっち上げの、良さそうな話で組み立てているインチキであります。それを、真顔で、書いてくる身の程知らずが、楽山に他なりません。
 
人間は大方の生き方を言葉を通して学びます。言論は「ほどほどの理屈で満足できるもの」ではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していません。楽山の言は、参考にもなりません。ただただ、嘘と詭弁だらけで、迷惑で、害になるだけです。
 
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
楽山は「無難、穏当」以外は、トンデモという理路のようです。心の底に生き続ける真実の共感というものを除外しているか、見えないのです。ひどい怠け者が大切なものに触れる感性がないのが悔しいから、自己顕示だけはしたいという動機で、深い思慮もなく、口から出まかせを続けているのです。
 
「無難、穏当」は、命を支えません。だからトンデモを退けるなら、まず、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。楽山は、真実の追求に、いちばん邪魔な障害物~惑わしの危険物です。楽山は、感動という言葉を知っていても、感動体験を知りません。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の言うことは、大方、体験に基づかない屁理屈です。
 
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。屁理屈だけを振り回しているのは、楽山です。楽山自身が、いつも、無味乾燥の屁理屈だけを言っています。私の経験として、3年以上、それだけです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要になります。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないことです。
 
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。「常識的で穏当なもの」は、楽山のものでしかなく、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないものが多いのです。さらに、楽山には常識はありません。楽山こそ嘘と詭弁とリーダー妄想のトンデモです。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、穏当などではなく、信仰は、人の心をとらえる、縁のようなものです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け、成長をしない楽山は、人の言葉を食い、排尿、排ガス、排便しているだけです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)に真実はありません。
 
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の常習です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいても、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。それでも書き続けるのは、それが病質だからでしょう。
 
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、この世を、いい加減色に染めたいだけのペテン師です。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だからこそ、とても異常~狂気なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の自己中と無反省は「(笑)」だけを、結局、楽山にもたらしてゆきます。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症状をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、おぞましい醜さが付きまとうでしょう。
 
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は完全に排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない楽山であります。見せかけの柔和をもって、嘘と詭弁で誘導し、だますのが楽山です。
 
私が楽山に対して批判として書いた「感性」「良心」という言葉を、楽山が、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っておらず、代わりに、当てつけや皮肉で、笑っています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書くべきではありません。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。楽山は、感性と良心を虫食む病質人格です。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いをしながら進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、楽山は、人の好意を貪ります。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
いちいち嘘ばっかり

いちいち嘘ばっかり
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年08月27日、再録+加筆)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
 
  永遠の友・共感信仰
 
(人格は
 人格を超えるものを
 理解できない)
 
(人間の心を動かせるのは
 あくまで人間的な体験であって
 人間を超えるものではない)
 
イエスをキリストと呼び
主イエスと仰ぐくらいだから
キリスト者(クリスチャン)にとって
イエスは救い主であり
飼い主なのだが
永遠の友という呼び方もあり
永遠の同伴者でもあり
信仰が結婚に譬(たと)えられるのに似て
男であれ女であれ
キリスト者が
惚れたと言ってもよいくらい
イエスに縁付いてしまうのは
イエスとキリスト者を
結び付けているものが
契約という教理以上に
あくまでも人間的な
断ちがたい心の絆(きずな)であり
キリスト者は文字通り
イエスに絆(ほだ)された者だからである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の投稿が、最近、少ないようです。3年余り、楽山が何か書けば、私が、その非道を指摘し、楽山を批判し、楽山の言を否定しているからでしょうか。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、病識がないので、説得は無理です。批判し続けるしかないのです。
 
 
 
>(楽山リツイート)
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
【定期】教義がおかしくなくても、伝統的な宗教でも、指導者への絶対服従や偽装勧誘などを指示し、金銭的・身体的・精神的被害をもたらしてしまうカルト(化)教会は存在します。カルトかどうかは「何を信じているか」ではなく「何をやっているか」が判断する基準です。
午後9:33 · 2022年8月24日·Botbird tweets
 
キリスト教でも、おかしな教派や、さらには、キリストの名を悪用するカルトはいます。しかし、真実を大事にするキリスト教と信仰を知らずに、おかしな教派をもって、キリスト教全体を否定することはできないはずです。それを書きたがるのが、飢えたケダモノのような反キリスト、楽山です。
 
 
 
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  楽山の崩壊2
 
 2021年03月25日
 家田荘子さんをめぐって(宏洋と広報チャンネル)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
(ネットより)
家田 荘子(いえだ しょうこ)は、日本のノンフィクション作家、高野山高等学校非常勤講師、高野山真言宗大僧都。家田荘子オフィス所属。マネジメントはエクセリングと業務提携。
 
 
*霊言は信じる? 信じない?
宏洋氏と家田荘子氏のコラボ動画が発表され、それに対して幸福の科学の広報チャンネルが物申してた。
ここでは動画の発表順に並べておく。
 
霊が分かるっぽい?という霊能者気取りの楽山は、反キリストのくせに、教祖願望があると思っていますが、今回は、「霊言は信じる? 信じない?」などと言っています。白々しい限りです。
 
(動画省略)
 
 
*感想いろいろ
以下には、動画を見た感想を書いてみる。
広報チャンネルでは、家田荘子氏は「霊言は本物」と明言したかのような言い方だけども、実際はもっと控えめな言い方だと思う。
 
ちなみに、楽山が、前に自分について言っていた「霊感の一種」は、丁寧語ですが、決して控えめな言い方ではないと思います。何故なら、霊と霊能力について、しばしば、話題にしてきたからです。また、「心の理論」という心理学の話を、呆れた心霊の話にすり替えたこともあります。
 
 
(過去に楽山の言ったことです。)
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
心理学の話である心の理論を、いくら延長しても「霊感の一種」にはなりません。推測する機能がいくら拡大されても仏様やご先祖様などの超常の存在を推測することはありません。推測するには根拠がありますが、楽山の霊の話には根拠が全くないからです。
 
特に、楽山は、精神も推測も貧弱ですから、こういう、あからさまな間違いでさえ、訂正することがありません。訂正不能の確信~信条だと思います。自分には、霊能力があるんだ・・と言いたいために、とても幼稚な詭弁を振り回しています。
 
 
家田荘子氏の動画の方が、宏洋氏の動画よりも和やかな雰囲気のように感じられる。宏洋氏の動画を先にとり、家田荘子の動画はあとに撮ったということだろうか。
とすると、家田荘子氏は宏洋氏に気を使って霊言を信じているといった可能性はあるのではないか。会って間もない対談相手の実父をエセ霊能者呼ばわりすることなんてできないだろうから。
 
「気を使っ」たかどうかについて、楽山に分かることはないでしょう。楽山は全く気を使えない人だからです。心が無いものだから、机上の辻褄で思いつくことを言っているに過ぎないと思います。人間を見るセンスの無い人は、宗教を見るセンスもないのです。
 
 
霊現象を信じる人は、霊現象の真偽判定はゆるくなりがちだが、家田荘子氏もその傾向はありそうだ。
 
宗教についての楽山の真偽判定は、ゆるいどころか、全くのデタラメです。自分のことを棚に上げて、他者のことばかり、どうのこうのと言うのは楽山の特徴ですが、その資格も能力も、楽山にはありません。ひどい霊能者気取りです。
 
 
他の人の意見では、家田荘子氏は、大川隆法による霊言のことをよく知らないで言っているのではないかだとか、大川隆法の霊能に疑念を提示すると、自身の霊能の真実性にも疑念が及ぶことを恐れたのだろうというものもあった。どれも一理ある。
 
どこが「一理ある」のでしょう。人の霊能力の話です。つまり、信じるかどうかの話です。楽山は、人の霊能の真実性を云々しても、自身の霊能を疑う気はないからでしょうか。霊能という超常に対して、恐れるどころか、ふつうあるもののごとく誇大妄想化しているのです。妄想には、一理もありません。
 
楽山は、何も学ばず、何も反省せず、何の責任も負わず、何の根拠もなく、霊能者を気取れば気持ちがよくて、その勢いで、人のことばかり書けるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)だからなのです。
 
 
家田荘子氏が駆け込み寺の話をしているのを聞いて思い出したが、幸福の科学は清水富美加の出家騒動の時に、自分たちは駆け込み寺の役割を担っているとしていたのだった。今でもそのようなことを行っているのだろうか。
「設定崩壊」って、これまでさんざん言われてきたから、同じ言葉を言い返したいだけだろう(笑)。
 
楽山の場合、いかなる設定も、自己愛から出ていて、根拠を示すことがないため、理路として崩壊してゆく必然になります。あるいは、何らかの精神病理や欲求不満や怨念で、楽山が時に見せるところの、時と場合にそぐわない不自然な「(笑)」は、真剣味や深みのない異常者の笑いとなるでしょう。
 
 
自分は、大川隆法による霊言は信じていないせいもあってか、それを本物だとする意見には厳しい見方になってしまうのではあるが、上の動画を見て、大体このような感想を持った次第である。
 
楽山は、誰も、何も、信じていないと思います。誰かを、何かを、信頼することも信用することもないでしょう。楽山にとって、他者は、都合のよいところを利用するだけの素材なのです。楽山は、体質的ペテン師です。
 
楽山が、HS批判をしているつもりなのは、自分が変質ナルシストであることを隠すためなのでしょうか。楽山は、一方では、キリスト教への、批判ではなく、否定を続けているのです。そして、断定していないから責任問題は生じないと言っていますが、明らかに、否定、軽視、侮辱の反キリストです。
 
 
 
 宏洋氏はまた嘘をついたのか?(宏洋と広報チャンネル)
 2021年03月27日
 幸福の科学とは何だろう?・・楽山ブログ
 
 
*しつこい
広報チャンネルの宏洋批判はよく続くなあと思うのだが、もうかれこれ「宏洋氏に物申すシリーズ」は110回なのか…。まあ、しつこさについては、自分も人のことは言えないのだが(笑)。
 
「(笑)」・・またしても、楽山は、真剣味もなく、何を笑っているのでしょう。これは、批判でも忠告でもなく、揶揄、ひやかし、あざ笑い、の類であります。自虐にしても、楽山は、こういうことしか書けないのでしょうか、他に実のあることを何も書いてないのは。
 
批判者の資格もなく能力もなく、楽山が、否定を書くことは、明らかな迷惑行為です。しかも、楽山のしつこさには、根拠が無く、説明の理路が破綻しているために、説得力がありません。退屈で、真に受けると、疲労と徒労が増すだけであります。既に経験済みです。
 
そして、楽山を批判すると、それに対して、楽山は、基本的に無視してきますが、前に、st問題などと題して、悪口、いちゃもん、詭弁、そして、明らかな嘘までも、平気で書いてきました。楽山は、そういうことしか書けないのです。楽山は、うさんくさい詭弁しか書けないのです。
 
 
・出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄で教団教祖の父と絶縁/名誉毀損で2億の請求
動画省略。
・宏洋また嘘!「出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄」?両性の合意なしに婚約などありえない。【宏洋氏に物申すシリーズ110】
動画省略。
 
このように、引用・悪用、つまり、ゴシップで的なことを書くのが楽山です。他者の言葉と資料を借りる、本の言葉を恣意的に利用する、・・それ以外、何も出来ないのが、楽山です。正常な議論の邪魔でしかないのです。しかも、すべて、楽山自身の自己愛と快感だけのためです。
 
理路が成り立たない、高等感情が鈍麻していて、共感、罪悪感、羞恥心、反省力、修正能力、学習と成長の意欲と能力、などがない。不備の自覚がないのは、自己愛性パーソナリティ障害のために、自分を斬ることが出来ず、反省せず、学習機能がないためです。
 
 
*話題
広報チャンネルの動画は、ツイッターで話題になっていたので見てみたのだが、自分もこのツイートと同じ感想だ。婚約があったかなかったかは傍からはわからないし、現状では事実上の引退だろうし、女優として優れているにもかかわらず、一般の映画、ドラマに出演できていないのであればその方面では干されているということなのだろう。
 
まさにゴシップですが、宗教について、真面目な話が出来ない楽山は、こういうネタに飛びついて、興味本位の悪意を増幅しています。しかも、それで、「(笑)」って満悦しているのです。下種の勘繰りもいいとこでしょう。
 
どういう病気になれば、楽山のように人格が低格化して、遊びだけで、真剣なカルトの問題に、口を挿んだり、それで、笑ったりできるのでしょうか。恥ずかしくないのでしょうか。真実の追求から最も遠いところで、滑りっぱなしのピエロが、楽山です。とても宗教を語れる男ではありません。
 
 
あらさがし ゴシップ

あらさがし ゴシップ
 
 
(2021年03月29日)
(2022年04月18日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
『運命の開拓』は、大川隆法の著作の中では、最も格調高い文体だったし、自分の先輩会員もかなり熱心に読み込んでたのだけど、だからこそ落とされてたのかもね。
大川隆法は自分より人気があるものは、人でも霊でも神でも、みんな嫌いみたいだから…。
絵文字(青ざめた顔)
午前9:03 · 2021年3月27日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1375599277888602113
 
「格調高い」と、褒めているのでしょうか、「だからこそ」「落とされてた」と、アンチとして批判しているのでしょうか。ボンヤリ言語で書いて、ごまかしに忙しい楽山です。自分のことを、全く考えなくなると、こういった無責任な他者への評価だけが楽しみになるのでしょう。
 
似たようなこととして、自己満悦か、取り入るために書いているだけで、明確な主張がないために、肯定を書いて、否定を書いて、断定していないからと責任を全く負わない、というのが、以前からの楽山の特徴です。だから、自分の言葉が、自分を斬ってくるのです。
 
楽山は、自分と、自分を満悦させてくれる霊の話以外は、人でも神でも「みんな嫌い」です。楽山に受け入れられていると思ったら、だまされているということです。その結果、楽山の書いたものを「熱心に読みこんで」近ければ近い人ほど「青ざめた顔」文字の用途にしてしまう楽山です。
 
分かりやすいカルトとも違います。楽山は、ボンヤリ言語で真面目を装い、トホホ言語で同情をひきます。全部、「絵文字」のような芝居です。何も信じていないし、信じたこともないと思います。アンチという遊び場を見つけて、オレは分かるんだと、楽しんでいるのです。
 
楽山の言の、うわべだけで気取り、中身の薄さと軽さ、生きている真剣味の乏しさ、非を求めない無反省と無責任、という、自己愛性人格障害の特徴を、見抜けるようになってほしいです。反省、共感なども、字面だけは書きますが、前後の文脈につながっておらず、まるで実感のないものです。
 
楽山の、言葉をわざとらしく書くだけで、感情・情緒の深さを表せない筆致に気づいてください。楽山は、深く考えることも、共感することも、病質のために出来ないのです。そのために、人を欺くことに快感を覚えるようになったのでしょう。
 
楽山の、高等感情鈍麻を知って、基本的に乏しい表情と、時に前の「(笑)」のようにニヤニヤするのとか「ははは」の高笑いとかを、思い浮かべながら、楽山の文章を読めるようになったら、現実的には、ただただ、うんざりしてしまうだけです。
 
他者の感情を表す「みんな嫌いみたいだから…」という婉曲表現と、「絵文字(青ざめた顔)」で、それこそ、ヒエーこわいよね・・、みたいに誘導する書き方しかできない楽山です。楽山は、感情・情緒について、表現する言葉面を持っていても、切実な中身を持ちません。
 
表現力のない楽山が、本や他者の文章を読むのも、リツイートするのも、学ぶためではなく、自分の都合に合わせた言い回しを拾って、利用・悪用するためです。結果として、薄皮のような、深みのない文章になり、賛同者は薄く同調し、一般には素通りし、理路を追えば疲労と混乱を招くことになります。
 
楽山は、他者の理路を理解できないから無視します。ゆえに、私の理路は、読者に、理路不全の楽山がサイコパスであることを知ってもらうため、私の、厳しい比喩などは、そういうことしか感じない楽山に向けています。
 
 
 
  消滅のベクトル
 
味方も仲間もいないことが
自分というものなのだと
細くなり薄くなり掠(かす)れるように
座標から消え失(う)せるベクトルの先を
何によって見ようとしている
 
贅沢病だと言われれば
そうでないことを証明するには
死んでみせなければならないだろうか
 
遠ざかるものが
遠ざかることによって
殺しにかかるなら
黙って殺されてあげようか
 
しかし何の土産(みやげ)もない
天に
何の宝も
未だ積んではいないというに
 
荒廃から崩壊へ
喪失から消滅への
方向しか持たないベクトルに
長さを問う儚(はかな)さよ
 
 
  夜明けのテロリスト
 
与えられなければありえなかったのに
人生切り取り放題と言わんばかり
聞いてもしようがないのは
成功者の格言めいた話だ
しかもそれが誰にとってもお宝のように
賛美する脇役や端役
騒ぎ立てる石ころや石焼きイモだ
 
夜は腹が減る
 
体は動物のように正直だな
賢者の話なら聞いてもよいが
賢者が賢者だと
わかるほど賢くはないのでね
 
 
 
楽山に似た筆致の raku という人のツイートです。楽山の成りすましを疑っています。楽山は、実に多くのキャラのHNに成りすましていると思います。楽山の根は荒らしですが、記事をもっともらしく書くのは、楽山の正体が、三文芝居の大好きな大根役者だからです。
 
raku
@rakusyo34
宗教アンチを見てて、素朴に思ったこと。
僕も宗教反対なのだが、
アンチ同士でなぜ反発するんだろう?
同じ目的、目標なら手を取り合っていけばいいのに、と思う。
なぜなんだろう?
同質は反発するから?
#宗教 #反対 #あんち #アンチ
午後0:21 · 2021年3月5日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/rakusyo34/status/1367676679095607302
 
自称アンチのつもりの楽山は、誰とも、「手を取り合」うことなど出来ないと思います。「同質」でもありません。正直さもなく、深さもなく、情緒もなく、道理も節操もなく、薄笑いだけで、真実を求める人々の邪魔だけをしてきます。
 
楽山は、偽者です。アンチではなく、野次馬です。議論の場にはいないほうがいい人です。自己顕示のために、アンチのふりをして、実は、自分の霊能を信じていますし、自分信仰の自己カルトを、宣伝しているような楽山ブログなのです。楽山は、誰とも、信頼関係を築けない人です。
 
楽山は、複数のキャラへの成りすましの疑いがあります。疑われていながら、それでも書いてくるのは、楽山が、鈍いヒトで、危機意識もなく、罪悪感もなく、分別・反省力・責任感もない病質者だからなのです。高等な精神機能がないために、いつも平気でいられるのです。
 
楽山のような、思い込みが前提となって、訂正不能になっている心性では、正常ならば気づくことが、汽車の窓から見る風景のように、実感のない乾燥した絵の流れように見えるのかもしれません。深い意識を集中することが出来ないのです。
 
自己愛に囚われることは、人間を人間らしくする一番大事なものを捨てることです。自己愛者に出くわすことは、不幸であり、災いであり、偶然ならば事故であり、故意ならば犯罪なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねてゆくと、自身も嘘の存在になり、存在感がなくなり、芝居とリアルの、空想と現実の区別ができなくなり、現実的な危機や罪悪に気づけなくなるのでしょう。楽山の笑いは、人格を捨てた者の笑いとなってゆくのです。
 
 
 
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  楽山の変な言い訳
 
 
楽山といっしょにされたくないのは、私のほうなのですが、私と楽山の筆致の違いが分からない人がいるのでしょうか。あるいは、楽山が同一説をでっち上げているのかもしれません。楽山は、こちらの言うことを、全く理解せず、当てつけや嫌がらせだけを返してくるだけの人です。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間返信先: @komo266さん
これは長文記事で、話が分かりにくいところもあるかもしれませんが、全体構造は単純です。
私は彼とは別人ですと結論を述べた上で、同一人物認定の根拠とされるものを一つずつ取り上げて、間違いを指摘したというだけのことです。→14
 
既に批判しましたが、ブログ記事は、長い駄文です。批判対象としては、ボロだらけなので、批判記事を書くことだけは出来ますが、時間の無駄でもあります。しかし、楽山は、放っておいてはいけない人です。一日も早く、楽山のいないネットの正常な言論の世界になってほしいです。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
そうそう。この頃、裏垢認定してきた人たちは、私が発言する度に、「もうバレてるのに、まだ二人羽織やってる。クスクス」みたいにバカにしてきたものでした。
でも私は、そんな野次はさほど気にならなかったですね。「見当違いのことを言ってるなあ」と思ったくらいです。
 
楽山は、実に、やすやすと、自分を捏造の空想の正義の位置に置くことが出来ます。ふつう、できないことです。冷静を装って、教訓みたいな書き方をしますが、楽山の言論は、犬がヨダレを垂らしているようなもので、とても汚いです。楽山のワールドが、一日も早く、ネットから消えることを祈ります。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
理屈を言えば、こうですね。
・同一人物認定を覆せば、それに起因する野次は消える
・「侮辱するな」といくら怒っても、同一人物認定を覆せなければ、それに起因する野次は消えない
要は、野次を気に病んでも仕方がない。それよりまずは同一人物認定を覆すことが先決だってことです。
 
私は、人でなしとして、最悪の類人として、楽山を批判しています。人間から、温もりと潤い、つまり、良心と罪悪感という人間性を除くと、楽山のようになるのかもしれません。共感性のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、他者を侮辱するという見本となるのが、楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
というわけで、私は自分の体験から、裏垢認定や侮辱されることが嫌なら、まずは第一段階としてはっきり別人宣言をし、その次には裏垢認定の根拠とされるものを片っ端から論破することをおすすめします
 
(ネットより)
裏垢
読み方:うらあか
別表記:裏アカ
ソーシャルメディアなどにおいて、自身のアカウントとして開設した本来のアカウントとは別に、秘密裏に設けた、匿名アカウントのこと。いわゆる「裏アカウント」の略。「垢」の字は「アカウント」の意味で用いられるインターネットスラングである。
https://www.weblio.jp/content/%E8%A3%8F%E5%9E%A2
 
楽山は、裏アカウントを持っていると思います。裏アカウントで、荒らしとしても働いているでしょう。楽山には、罪悪感がないからです。人を操るのが面白くてネットしていると思います。つまり、愉快犯なので、みんなで追い出すしかないのです。そのための資料として、批判してきたわけです。
 
 
★こも/楽山日記3@komo266·20時間
もう一つ思い出した。
この時、私は、同一人物認定された相手とは、個性が全く違うので、じきに別人と分かるだろうと高をくくってたら、
認定者は「この人は二重人格なのだ」と言い出して、これには驚愕とともに大笑いを止められなかったのでした🤣4 顔文字(大爆笑)
 
大笑いではなく、楽山は、多重人格というよりは、詐欺師・ペテン師の類だと思います。平気で嘘を吐き、人をだまし、不都合を一切無視して、自分可愛さの捏造記事を書くことが出来るのです。表面的な付き合いでは分からないことが、真実の追求に迫るほどに、醜い本性として、文脈に表れてきます。
 
楽山には、円居(まどい)がなく、ひとかけらの余裕もないのに、余裕ありげに装います。人を蔑んで、自分の優秀さに満悦していないと気が済まないのでしょう。しかし、楽山には、そのような優秀さは、欠片もないのです。それで、ボロが出ていることを、ことごとく無視する習慣が染みついています。
 
楽山は、仏様の気持ちが分かるっぽいという教祖願望があるようですが、実際は、発狂素でしかありません。楽山と遣り取りをすると、異様な疲労感と徒労感を味わいます。楽山は、そういう、何の意味もない有害な作用に人を巻き込み壊して、勝った気分でいるので、評論家気取りにもなるのでしょう。
 
 
普段から努めて本当のことを書いていて、時に、間違えたというのなら信頼が崩れることはありません。しかし、いつも嘘と本当を混ぜて書いてくることは、基本的な信頼がなくなることであり、結局、その人の言うことは、何も信じないほうが無難ということにしかならないのです。
 
 
楽山ブログには「香車 椪吉」という人が出て来て「へのへの」の話が始まっているのですが、その実体が、ネットにあるのだろうか。またしても、楽山の成りすましのような気がしてきました。ひょっとして、楽山は、既に、誰にも相手にされなくなっているのか。だとすれば、望ましいことですが。
 
 
楽山は、社交の世辞で付き合っている限り、ふつう~柔和に見えます。私も数か月だまされていました。本気で、真実の追求として遣り取りすると、いかに、受け答えの出来ない人かが分かってきます。そして、とても、まともに話し合える人ではない、ということがバレてゆくのです。
 
 
 
道のない放浪者

道のない放浪者
 
 
(2022年02月22日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」などと嘯(うそぶ)く病質のペテン師にだまされることなく、静かで安らかに精神的に生産的に地上で生きる糧(かて)となる言葉を求めてほしいのです。暴走は、やがて、悲劇的な結末を迎えるでしょう。その時以前に、悪の素材について防疫を整えていてほしいのです。
 
私は、今、ずっと独りです。固陋(ころう)でもあります。だから、生きている間、これ以上、小さくは成りません。しかし、楽山は、将来、周囲からも誰からも、愛想つかされて、独りになるでしょう。だます、という対人処理によって生きている楽山は、そこから、生きてはいなくなるのです。
 
 
 
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  楽山の捏造(2)
 
 【st自由同一人物説!?】
 「stと自由は同一人物?」「いいえ、stさんと私は別人ですよ」
 2018年08月18日 楽山日記(LD)
 
 
3年ほど前の楽山の記事の後半です。批判するのは初めてですが、読者を全く考えない長い駄弁です。私は、楽山を批判しているので扱いますが、決して、楽山に関わって読んだりしないほうがいいと思います。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁で理路を混乱させて、相手を疲弊させ、人格を破壊する人です。
 
 
私とマリアさんをstさんがカルトだと言い始めたら、タイミングよく自由さんはカルト記事を書いた、そしてそれをstさんは即座に 自由さんの記事から転載した。 それはタイミングが良すぎる。
 」
当ブログをご覧いただければ理解していただけると思いますが、私は前々からカルト問題に興味があり、その方面の記事を書いてます。
だから、カルトか否かの議論に注目し、触発され、自らの過去の反省の意味もあって、その種の記事を書いたということです。
 
楽山は、個人としての無神教カルトです。恐らく、宗教について何も分からないまま、宗教を憎んでいると思います。しかし、楽山には、本気がないので、趣味で、からかっている可能性もあります。宗教など、どうでもいいのが、楽山で、理屈を振り回したいだけで書いて、反宗教をあらわにしてきました。
 
 
この記事中には、キリスト教では「正統派を自認する側から見た「聖書を流用する異端集団」というカルト観を表明する人たちがいます。感情的に仕方ないことなのかもしれませんが。」という部分があります。
 
異端集団はいると思いますが、「感情的に仕方ない」ではなく、視野が狭くなり、良心と常識から乖離してゆくために、人間を駄目する教条は、批判対象となります。近々では、今は所在不明のシャロームshalom が、その典型例となっています。
 
 
この文章が記憶に残っていたせいか、私は、stさんがカルト云々と発言したときには、「カルト教団の信者」という意味よりは、「異端者」という意味合いなんだろうなあと思ったのでした。
 
異端は、間違っているということですから、広まってはいけないものです。シャロームは、トンデモ教理として、「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」「悔い改めは神が与える」などと言い出しました。これは、異端どころか、デタラメなカルトなのです。
 
 
あとは、Yさんらの発言を見ていて、「自分もカルト信者だった頃は、こういう考え方をしていたなあ」と思ったりもしたものです。この辺りが、自分の過去の反省に通ずる部分ですね。
上にも書きましたが、stさんと私で何十ものコメントのやり取りの最中に割り込んでこようとした事、通常の神経を持っている人間なら 入ってこないです、。 自由のハンドルネームはstさんと同一人物なので、気を使うこともなく、勝手気ままに横レスを入れられるのです。 
 」
また、Mさんと同じく、「、。」を使ってますね。こういう句読点の使い方は他では見たことないですけど、流行りなんでしょうか。
まあそれはともかく、上にも書きましたが、私は他所で、カルト信者らとの喧々諤々の議論を見たり、参加してたりしてたせいか、横レスするのも、されるのも、あんまり気にならないタイプです。すみません。
 
楽山は、喧々囂々の議論には参加しないと思います。丁寧語で品の良さを装っているからです。心の中では、笑いながら、そういう議論を軽蔑していると思います。サイコパスには、悲しみの情がなく、笑いと怒り、別の言い方をすると、あざ笑いと怨念だけがあるのです。
 
 
あ、今、気が付きましたが、「上にも書きましたが」というのは、Yさんも使ってますね。でも、こういう慣用的な表現が被ったからといって、別にどうってことはありません。たまたまそうなっただけであって、Yさんと私とが同一人物ではないのは当たり前です。
言葉遣い、語彙、決まり文句…などは、同一人物でなくとも、やり取りする間柄であれば、たとえそれが協調関係であろうと、敵対関係であろうとも、相互に影響し合うものですから、似てくるものなんですよね。
 
楽山は、気安く「似てくる」と言っていますが、いがみ合っている、論争している、という関係では、影響を避けるものです。楽山のようにはなりたくない、楽山のようになったらおしまいだ、という気持ちがあるからです。ゆえに、楽山には関わらないようにと呼びかけています。
 
 
あとは、自分で言うのも何ですけど、私が人間観の話題を持ち出したのは、それなりの理由はありました。
お互いに人格批判して傷つけあうよりも、アブラハムは義人だったか、人は義人となれるのかという議論をした方が生産的だろうし、そちらの方に話題を転じられればと期待してたわけです。
まあ結果は、「バカは黙ってろ。バカが口を開けば余計に事態は悪くなる」という教訓通りになったわけですが…。とほほ。
 
楽山の悪意と罪と偽善と嘘吐きと詭弁は、楽山の人格障害から来ていると判断しています。ゆえに、人格そのものを批判して、広く知らせる必要があると判断して、批判記事を書いています。こういう批判は、成否は度外視して、書かなければなりません。
 
 
私はリアルでも、空気が悪いと思えば、意図的にその空気を変えようとすることはあります。その時には、「お前、空気読めよ」と言う人もいれば、「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と言う人もいます。
私のやり方が下手だからこういう結果になるわけですが、後者は、人の内面を察するのに長けた方だなあと感心します。
 
楽山は、積極的にも、言い逃れとしても、空気を屁のように排気ガスのように毒ガスのように汚染してきます。始めのうちの優しそうな丁寧語は、全くの偽りであります。話が進むと、追いつかず、デタラメを言って、相手の理路を混乱させてきます。楽山とは、出会わないのが幸福というものです。
 
だから、楽山は「お前、あんまり気を使いすぎるなよ」と、気遣いをする人と言われると、楽山は、マタタビを与えられたネコのように悦ぶのでしょう。つまり、楽山は、本能として、褒められるというエサが欲しくてたまらないヒト型動物であります。それ以外は何も受け取らない人です。
 
 
*ものすごい怨念?
これは、stさんに向けて書いてるのか、私に向けて書いてるのか、その境目が判然としないですね。
この人は、どうしても私を否定したいようです。
抹殺したいようです。
最初は優しい言葉で近づいてきました。
しかし、彼の書いた文字には
ものすごい怨念が感じられました、
だから 自由さんには 即座に退出をさせました。
ふたりは 同一人物なのです。
 」
上の方では、私に配慮して、コメントを未承認にしてあげたという感じでしたけど、
ここをみると、はじめっから私のことを疑い、拒絶してたみたいですね。
疑い、拒絶していた相手にも配慮を忘れないのであれば、Yさんは立派な方だと思います。
 
楽山は、配慮の出来ない人です。思いやりや謙虚さなどの高等感情がないからです。ゆえに、配慮や思いやりの話を、曲解や妄想で、捏造してきます。「立派な方」は嘘です。楽山の世界には、楽山以上に立派な?人は存在しません。だから、訂正不能の高慢で上から教えて?くるのです。
 
楽山は、「ものすごい怨念」を、他者の心に、わざわざ育てています。だから、前に、ぶん殴られるだろうと言いました。もっと酷いことになるかもしれません。自己中が、いつまでも通る世界ではないのです。楽山の人を軽んじる態度は、いずれバレるでしょう。あと何十年生きるつもりなのでしょうか。
 
 
*主語は?
あとは、この二つの文章に共通する点を考えてみると、どちらもYさんについての文章だということがあります。言葉を補うと、こうなるでしょう。
(Yさんは) まあ今は忙しくて、そっちに手が回らないのでしょう、たぶん  
(Yさんは) 人間についても人間の言葉についても、神がかりと人間離れのために、失っている人のようです 。
一般に、こんな風に主語が同じであれば、つなげて読めたとしても不思議ではないです。
たとえば、こんな風に。
K 「(Aさんは)すごく優しい方ですね」
J 「(Aさんは)人の心が分かる人なんでしょうね」
これをつなげれば、こうなります。
「(Aさんは)すごく優しい方ですね。人の心が分かる人なんでしょうね」
どうでしょうか? 二つの文章はきれいにつながっているのではないでしょうか。
stさんと私の場合は、立ち位置に若干のちがいがあるので、主語が同じでもつなげると不自然さがありました。
でも、KとJの場合は、主語だけでなく、立ち位置も同じなので、つなげると一人の言葉としか思えなくなってます。
 
こういう、一見まともそうな小理屈が、楽山が、焦点をぼかし、保身するために投げてくる混乱の泥水です。ここに付き合うことから、相手が分からなくなってゆくことを狙っているわけです。だから、この狡猾さの犠牲にならないためにも、楽山を相手にしてはいけないのです。
 
 
このことから、Yさんが、stさんと私の文章はつながると錯覚してしまった原因がどこにあるか、およその見当はつけられそうです。
うっかりミスは誰にでもあることだし、これをもってYさんを責めはしませんが、元々、頭のいい人だろうし、先入観にとらわれず、じっくり考えればこんなミスはしなかったろうと思うと残念であるし、気の毒だなあとは思います。
 
楽山は、先入観を与えて「責めはしませんが」責めて疲れさせてきます。「頭のいい人」という世辞を言い、「ミスはしなかったろう」と言うことで、ミスだと断定してゆく、楽山の、だまし言葉なのです。「じっくり考え」ない相手という結論から、「残念であるし、気の毒」の蔑みにつなげています。
 
 
*まとめ(別人です!)
つい先日、私はstさんのところにおじゃまして、的外れな批判に対しては、いちいち反論しないでもいいのではないかというようなコメントをしました。
でも、st自由同一人物説を真に受けてる人がいるらしいこと、いまだに的外れな批判が続けられていること、当該記事を読み返してみたことなどから、やっぱりこちらの意見も出した方がいいかなあと考え直して、この記事を書いた次第です。
stさんには、わざわざ反論の必要ないでしょうと偉そうなことを言っておきながら、あっという間に考えを変えるなんて、我ながら節操なく、情けないと思いますが、まあ仕方ありません。
 
ペテン師だと、分からないあいだ、だまされていましたが、分かってから、反省しないし弁明もしないのは、言論者ではないということです。楽山は、丁寧は皮だけで、中身は真っ黒です。丁寧語でだます偽善者、楽山は、暴言を吐く自称ヨシュアより、はるかに偽善性の高い悪なのです。
 
 
というわけで、私の主張をもう一度繰り返しますが、stさんと私は別人です。このことは、強く強調しておきます。
すでに二人は同一人物だと信じ込んでいる人からしたら、それを修正することは難しいかもしれませんが、事実は事実、真実は真実です。二人は別人です。
 
私は、楽山を批判しています。楽山は、批判に何も答えず、いつも、だますためだけに、この記事のような冷静を気取る文章を書いてきます。優しさも柔和も芝居の、楽山のような人がいる社会ですから、人の言うことを鵜呑みにするのだけは、やめたほうがいいと思います。
 
 
この事実に反発する人に対しては、「すぐに、この事実を受け入れなさい」とまでは言いませんが、できればこれを機会に、もう少し考えてみてもらえたらなあとは思います。
以上、長い記事になってしまいましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
〈了〉
 
この礼儀正しさも芝居です。楽山には、実感というものがないのだろうと思います。数か月だまされたのち、3年あまり、批判しています。楽山は、狡猾さが加わって、私が生きてきた中で、最も悪質はワルの部類として、批判を続けてゆくつもりです。近くにいる人は一刻も早く逃げてください。
 
 
*追記
けっこうな長文なので、もしかしたら、キモイと言われてしまいそうな気もしますが、
一つ一つの論点を、なるだけ丁寧に説明したら、こんなになってしまいました。まあしょうがないですね。
 
キモイで済むような人ではありません。論点などありません。丁寧は、みな、詭弁か、偽りです。しょうがないのではなく、楽山撲滅同盟でも作りたいくらいに、楽山は、一刻も早く、ネットの言論から追放するべきサイコパスです。決して許してはなりません。
 
 
 
 精神の生産力
 
精神の生産力とは
頭脳・能力の生産性・効率という意味ではなく
創造力や想像力という才能でもなく
 
精神の破壊力に対する力です。
 
生産力または再生産力
人間が育み与えうる力の中で
精神の破壊力に対応するために
物質的・精神的な最小限の安らぎの糧(かて)
または生きるための平等な未来
日々の平安かつチャンスに満ちた力
 
精神的投資を惜しまないだけの
物質文明に劣らない精神性
それらの投資を充分にして破壊に走る力と戦うべきです
 
うわべにだまされないように
敏感力と鈍感力と
何よりも共感力が必要です
 
 
 
節操の破壊

節操の破壊
 
 
(2022年02月21日)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、自身の知性におごっているのかもしれません。それこそが、自己愛性人格障害の誇大妄想です。話が進むと理路が成り立たなくなるために、安い詭弁で混乱させてきます。相手が混乱し、慌てて、感情的になるのを、楽山は楽しんでいるのです。もうこれ以上、誰も、だまされないでください。
 
楽山の記事やツイートの、論理学の初歩みたいなAとかBとか、命題めいた言い訳とか、自分の頭の中をくるくる回ってる小理屈に過ぎないし、ダイレクトな説得力も、その努力をする姿勢も、まったく感じられない、ごまかしの擦り切れた残骸には、いつ見ても、うんざりさせられます。
 
 
 
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  楽山の偽り方2
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が正当だと認められるなら、宗教はお伽噺以上には何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。
 
私は、反キリスト楽山の資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。
 
*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。
 
霊言、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、明らかであります。丁寧語で書いて、且つ、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。
 
断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、刷り込もうとしてきます。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方をして、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。
 
断定しないと言いながら、楽山は、自分に都合のよい神がいないことから、神を否定していました。これが、楽山の、根拠のない断定なのです。このように、いちゃもん、詭弁、嘘、などが、楽山の専門で、まるで、ネズミ男のような存在です。"いい加減" が人間の形をしているのです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。何も理解しなければ、断定できず、判断も出来ず、そのことを柔和に見せかけて、だましてきた楽山です。
 
せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。
 
これが、何かの弁明になるのでしょうか。すごい壊れ方です。こう言っている、こう書いている、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れが、楽山の記事になっています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山の、ねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労だけを与える元凶なのです。
 
*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。
 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる知恵であるかのように、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、中身がないだけに、煩わしいものになります。
 
今までのこと、上に書いたこと、などから、いちばんのトンデモは、楽山です。だから、何も書くなと言っています。奇珍の理路、無感性、無共感、無反省、そして無責任。
 
*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。
 
とんでもない解釈です。楽山は、ろくに聖書を読んでもいないのに、こういう、いちゃもんになりそうなネタを拾っては書いてきます。結局、信仰を、あざ笑っているに過ぎません。
 
DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエスが詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
(詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。
 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところであります。絶望の言葉が、キリストの復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。
 
そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。楽山の言は、出来の悪い子供が、墨で髭と眉を書いて、総理大臣だい!、水と肛門様だぞ!・・と言っているようなものです。
 
自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。
 
「捨てる」楽山は、かなり断定的に判断しています。言った傍から、「実感するし」「あやしく」「結論付ける」と、自己矛盾も甚だしいのです。自分で何も、考えないけど、自分は頭がいいので、有名になりたい、というのが、楽山の、悪い夢になるプロセスなのでしょう。
 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、中学生~高校生の時に、私もいだきました。
 
信仰は、神が分かるから生まれるのではなく、聖書とキリストによって、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。楽山には、神と取引しているかのような、存在の身の程知らずなのです。
 
*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。
 
楽山は、理屈も、直感・直観も、皆無だと思います。そういうものを見せたことがないからです。成り立ったかのように見せかける詭弁に、だまされないでください。直観は、なにかしら心を解放するものだけが是とされるでしょう。楽山には見られたことがありません。
 
理屈は、欲しく思って、ある程度、付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、「欲しく」「つける」などと、何を軽薄なことを言っているのでしょう。学習を捨てた楽山には、ないものねだりです。
 
ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。
 
楽山の無難・穏当は詭弁であり、トンデモを退けるなら自らの言葉をを退けるべきです。この楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないのトンデモです。既にバレているのです。楽山こそ、インチキなのです。
 
・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。
 
理路は、ほどほどで満足するものではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していないと思います。参考にもなりません。ただただ、害になるだけです。
 
楽山の言は、思いつきと思い込みが大半の酷いものでした。それで満足すること自体が、楽山の言論不向きな根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。言論に「ほどほど」良いものなどありません。言論は、真実の追求です。楽山は、インチキ丸出しです。
 
*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。
 
だからトンデモを退けるなら、楽山の屁理屈を退けてください。「ほどほど」ではなく、明確に、楽山を退けてください。真実の追求に、いちばん邪魔な障害物です。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の姿勢って、メチャクチャです。
 
たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、奇説、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。どうして屁理屈が必要なのでしょう。楽山自身が、いつも屁理屈だけを言っているからです。
 
信仰について語る、ということは、神への恐れを持ち、それゆえに、神の前の正直ということだけが必要です。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。学習も成長もしない楽山には分からないところです。
 
こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。
 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。常識的で穏当なものは、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないことが多いのです。それに、楽山には、常識はありません。
 
妄想でもなく、超常でもないところで、信仰は、世俗の見方によっては、裏切られていることが多いからです。俗の臭みと詭弁だけで、学習を怠け成長をしない楽山には、分からないところです。
 
*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。
 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の持ち物です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に無条件賛同したことなどにおいて、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。
 
でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。
 
楽山に、うんちはあっても、うんちくはありません。うんちくを、うんちくだと受け取る感性もありません。楽山は、ただただ、ペテン師であるだけです。楽山の言う「穏当」は、何の助けにもならない、楽山の、婉曲と曖昧の、ボンヤリ言語のことです。聞くだけ、有害です。
 
それを、普通と呼ぶ楽山だから、とても異常なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、ずっと、学習途上であります。楽山の「穏当」は、恐ろしい騙し文句です。
 
にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。
 
このように、楽山の慢心は、「(笑)」を楽山にもたらします。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症候群をもたらしているのです。ヘラヘラと人を笑うことしかできない楽山には、独り笑いの悟り顔の、醜さが付きまとうでしょう。
 
正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。
 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。言論に標準はありませんが、楽山の詭弁と嘘は排除しなければ、言論も、信仰も、成り立ちません。
 
信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。
 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊する悪性の病原です。標準的な感性、良心を見失っているのは、他でもない、楽山であります。
 
私が楽山に対して批判として書いた感性と良心のことを、楽山が、今、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば悲劇となるという狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っていないと判断しています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書かないでください。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用しない妄想的単方向を、うす笑いで進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。もっと恐ろしいところへも向かうでしょうから、誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
食えないことを書き続ける

食えないことを書き続ける
 
 
(2020年08月23日)
(2021年08月25日、再録+)
 
 
 
  偽りの時間
 
巷に時間を売る商売の流行るころ
深緑の儒学の森を歩いて
樹木のまばらな所を見つけて
根っこに腰掛けた
 
地面が枯れ葉に覆われているのを
おかしいとも思わないで
拾った汚い画集を
逆さと気づかないまま
ゆっくり開く動作をしながら
吸えるだけ空気を吸った
 
そして死なずにいてくれた人たちのために
用意することのできなかったものを
死んでしまった人たちのために
背負うことのできなかったものを
偽りの指で数え始めて
呟く ごめんよ
まだ何気ない一言で
壊れてゆく人がいる
戻れない洞窟もたくさん残っている
 
ボンベが閉められたらしい
この森についていえば作り物かどうかを
誰も知らずに来ている
巷の時間を買えなかったんだ
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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