ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:希望

 
  想うところに3
     シモーヌ・ヴェイユ
 
 
人には想像する自由がありますが、信仰の本質は、想像ではありません。また、事実でもありません。信仰は、悲しみを知る心に生まれ、いちばん酷い孤独からの解放を与えます。確定は出来ないが、否定できない真実として受け取って、信仰者が生まれます。ゆえに、神秘と呼ばれます。
 
人が想い描く人物像は、人格も含めて想い描いた像ですから、その人ではありません。常にその人の偶像を相手にしているようなものです。想うところに人はいないのです。しかし、人は、想い描かれた人の偶像の間違いを、完全ではないが、ある程度、態度や言動で知ることが出来ます。 
 
人間関係は誤解で成り立っているところがありますが、お互いの偶像を修正しながら、不安定ながら、未知に立ち向かって、良かれ悪しかれ活性化してゆくことが可能です。衝突しても学習が可能だからです。
 
人の像と違って、想い描く神の像の間違いを、導きによって啓示するのが神だという証拠を人は持ち得ません。また、自力で、神と偶像を、完全に区別することも出来ません。聖典を通して学んで、深く知ったと思えば思うほど、神と人との関係は、人にとって、誤解の中にしか存在しないのです。
 
想うところに神はいない。想うところに人はいない。さて想うところに自分はいるであろうか。この問いを尋ねる御方を仰ぎ、祈り、生きる縁(よすが)とすることが、信仰です。しかし、私たちは、答えを、確定的には知りえません。
 
 
神は、いつまでも黙ってはおられない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます。
 
 
シモーヌ・ヴェイユという哲学者がいます。
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象があります。それは神です。神を信じているから、神に祈ります。神はいると信じています。しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、イメージであり、極端な言い方をすれば偶像であります。
 
偶像は神ではありません。人が想い描くイメージの神は実在しない。真の神は偶像でもイメージでもない。ゆえに、信仰は、神を確信することではなく、信仰の心を、唯一の希望にささげることです。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉があります。「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、神は存在しない、と思いつつ祈る。」という。どう受け取ったらよいのでしょう。
 
つまり、このヴェイユが言うように、祈るときにも、祈る相手として想い描いた神のイメージがある。つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」・・・が繰り返されます。
 
人は、本当の神を想い描けない。神は人が想い描けるような御方ではない。想い描くところに神はいない・・・これは、真実であります。この真実に背くのは、人が、全能の神を決め付けることになります。
 
現実に祈っている相手としての神の実体を人は知らない。存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。しかし、キリスト者は祈る。キリスト者にとって、そこにしか希望はないからであります。
 
しかし、想い描いている神がいなくても、想いの始末を任せる神への信仰は希望として存在します。信仰は、検証できる客観ではなく、信仰者ひとりひとりの必要として生まれてくるものです。
 
神は、人が勝手に想い描くところではなく、人の身勝手を超えたところに、信仰者の生きる縁(よすが)ととして、祈りを聞く主体として存在します。祈りは、孤独が癒やされるところだからです。
 
その神が存在しないとか、人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できません。祈りは確信に支えられてはいません。祈りは、唯一、希望のみに支えられている。正直が癒しに変わるところ、・・世々のキリスト者が証人である。
 
 
(ネットより)
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。戦後、知人に託されていたノート(カイエ)を編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーとなった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を、知人やヴェイユの思想に感銘を受けたカミュが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、多言語で翻訳されるようになった。
シモーヌ・ヴエイユ:wiki
 
 
おもうところに神はいない

おもうところに神はいない
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
(2022年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神論者、即ち、無神教カルトの信者である楽山は、神の存在を証明することを要求して、それが出来ないから神はいない、という心ない妄想を繰り返します。神の不在も証明できません。そもそも、神の存在も不在も、人が証明することなど決して出来ません。
 
神は超常の存在、人は地上の存在です。その位格の決定的な違いが、楽山には理解も区別もできないのです。それは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分より高い存在を、全く考えることができない病質人格だからです。
 
楽山が、神とキリストと信仰について何か書くことは、常識的にも、約3年間余り言い続けた嘘と詭弁を、反省し修正した後でなければ成り立ちません。楽山が、厚顔無恥のまま書き続けるあいだ、楽山否定の批判記事が地に積まれ、楽山の背教の証しが天に積まれるだけなのです。
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて 安らかな笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
私は眠っているのか
夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
私の体は動かない
夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
存在は不安
不安は友だち
君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
ひとり思いがまわっている
君が私を
支えてきたのですか
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンクまたはコピペ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  謙虚2
 
 
神を知性で捉えて理解することは出来ない
これは地上の人間にとって真実である。
 
しかしそう言いながら
解釈においては
人にとって常識的な論理つまり知性を用いて
人は神との関係を持つことが出来る。
それが神を知ることだと語る。
 
ここまでは
「信仰の原罪」であろうか
不可避である。
信仰者にとって生きるために必要なこともある。
そして、聖書にて
神は・・こう言われています
という書き方になる。
 
信仰は
神を理解することではなく
キリストの命を賭した愛と共感をもって
神を信じ仰ぐことであり
神に正直に祈ることである。
 
しかし
神との関係を持ち
神を知った者が
やはり常識的な論理の言葉を用いていて
 
つまり死ぬまで人知によらざるを得ないのに
 
様々な個別の出来事や事柄を
人の及ばない秘め事であるのに
神の行為と結びつけて判断し
確信の固定をもって伝え広めようとするなら
 
聖三位と同等の振る舞いになり
神と人に対して
明らかな傲慢不遜である。
 
 
神のしもべであっても
様々の驚くべき出来事について
しもべは主(あるじ)が
人知を超えた御方であることを知るゆえに
 
信仰をもって
それを恐れ
主なる神の行いについて
しもべの浅知恵や
限りある経験によって
断定することをも恐れるのであります。
 
慎ましく受け取り
間違いのない神とは違うのだから
確信を持って声高に語ることをせず
慎ましく語り
何事も包み隠さず正直に祈ります。
 
少なくとも都合の悪いことに
目をつぶったり
耳を塞いだり
口をつぐんだり
他者の口を封じたりはいたしません。
 
さらに自らの瑕疵(かし)を消して
まるで最初から
なかったかのように
見せかけたりもいたしません。
 
さもなければ
起こっている悲劇を聞きながら
我が身の多幸を感謝して
自分を満たすために
信仰に見せかけた心地よいの砦を作って
抵抗しない人だけを招き入れ
自分の解釈に神秘の味付けを加え
自分の花園をこしらえ
造花を植えて愛でて
満悦するような偽善者になってしまうからです。
 
 
分かっていなければならないのが信仰ではなく
分からないならば分からないと正直に言うのが信仰です。
 
 
 
 
「いいね」を入れてくれたから見てみると、その人のブログでは、批判というものを害毒のように言ってるようです。
 
批判を書いている人はいっぱいいると思いますが、まず、この人が書いているのは批判ではないのでしょうか。さらに、批判についての基本的な誤解~曲解があるようです。
 
批判と言われているものには2種類あると思います。
 
1)相手を変えるために批判する・・これは、双方向が成り立つ間柄で、忠告や提案をすることにとどめておいたほうがよいでしょう。それ以上は、大方、うまくいかないと思います。
 
2)として、1)のやり方で相手を変えることは難しいけど、放置しておいたら害が増えるだけと思われる場合は、こんなおかしい人がいますから関わらないようにしてください・・というような、情報を公開してゆくことが必要です。
 
私の批判は、おもに、2)であります。つまり、批判記事は、こんなおかしい人がいますから、だまされないようにしてほしいという願いを込めて書いています。つまり、記事を読んでほしいのは、批判対象ではなく、一般読者であります。
 
批判対象は、記事を読んでも読まなくても、都合の悪いことは無視して、平気でいるような輩です。
 
明確な意志と方法を持って批判しているなら、批判することで不安になるようなことはありません。
 
悪いことをする人の情報を書かなくなったら、悪人は、どんどん蔓延ってしまいます。それと、悪い人の中には、善を気取ってだましてくる、いわゆる偽善者もいます。批判を全然しないのが正しいと思い込んでいる人は、偽善者クラスの悪人の手助けをしていることになるでしょう。
 
自分が批判するしないは個人の自由ですが、一般論として、批判はよくないと決めつけるのは、それこそ、認識不足と自説への慢心による間違い~偽善と言うべきであります。
 
 
いかなる天上を信ずるのか

いかなる天上を信ずるのか
 
 
(2011年05月31日)
(2021年08月19日、再録+)
 
 
 
  きぼう
 
そらをみれば
そらにすわれ
こなごなになって
きえてしまいそうで
 
ひとをみれば
ひとみのおくにすわれ
すきとおる こどくのなかで
いきが たえて しまいそうで
 
いつのまにか
うすい いのちに さく
はなのあいだに
ただようかおりまつみの
ほのかな
ぬくもりのかげに にている
 
 
  高い窓
 
壁の 絵の
幼い少女は 手を伸べて
あそこよ と 指さしている
 
それが最初に見た
希望の形だった
 
伸びてゆく 手 が
かすかな影を ふるわせながら
うすい 光の 向こうで
声 を 待っている
 
孤独な 光だけが
医者のように 顔色を変えないで
夜じゅう 診ていたらしい
しらんでゆく窓に 衰弱して
くぼんだ 血管の 足音を聴いている
 
その小さなふるえから身を引いて
あきらめた 手 が
狭い視野から
落ちてゆくころ
 
また朝焼けの始まる
高い 窓の
物陰に隠れて
 
目覚めてはいるが・・・
 
 
 
 楽山のツイッターですが(再録)
 
楽山は、記事も、ツイッターも、自らは、はっきり言わず、責任を逃れようとしながら、他者の言から都合のよい文言を引用して、味方にしようとします。それで、引用の責任さえも、負わないでいいと思うような無責任ぶりであります。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
優しい藤倉善郎
@SuspendedNyorai
今日の靖国神社前での戦利品は、幸福の科学、顕正会、法輪功、キリストの幕屋の各パンフ類。それぞれが入り混じって配布活動してた。
藤「幸福の科学は宿敵じゃないんですか」
顕正会「相手にしてないです」
藤「顕正会と一緒にビラまきしてて仲いいですね」
幸福の科学「国難ですから!(笑顔)」
午後7:49 · 2021年8月15日·Twitter Web App
 」
 
「キリストの幕屋」は、右翼の教団で、信条に大和魂が入っているという話を聞いたことがあります。純粋なキリスト教とは言えないでしょう。そして、楽山は、右翼のA級戦犯を褒め讃えるネトウヨであります。楽山は、今も、まだ、クラゲのように、蠢(うごめ)いているようです。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、ブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 

 
 
  信仰とは2
 
 
前に書いたことも含めて、折に触れて、信仰について、まとめるという作業は、人間の言葉の不完全性によって、遅々として進まず、また、私の凡庸なることもあり、人間の本性として不完全であることを承知の上で、なお、努めなければならない作業となっています。
 
 
神の存在も不在も証明できない、だから信じるのだ、ゆえに、信仰なのだ、と考えていたことがあります。しかし、その場合、何をどう信じるのかという問題があり、それは、人が、こういうことだと伝えても、その人の考えであり、信じる内容が、超常のことなら、どうしてそれが正しいか、超常なのだから、人に分かるはずもないことです。
 
思い込み信じ込んで、それを信仰?と呼ぶのなら、その信仰?が、何も癒せず、むしろ、心を狭く鈍くするばかりになるでしょう。このことに、気づかなくなったら、もはや、妄想を固めているカルトに過ぎないと言ってよいのです。
 
聖書を読んでも、聖書の筋書きを、いくら懇切丁寧に言って、こんなこともして下さると、聖書の中だけで説明しても、聖書解釈としても、現実の人間に生かせるものは殆どないと言ってよいのです。
 
そこを補っているつもりで、きっと助けて下さると現実を保証するような言い方をすれば、今度は、その責任を負わされることになります。
 
何が起こっても、これが導きなのだから、喜ばなければいけないなどと言ってしまえば、言うとおりにすることは現実の悲劇を否定して、悲しみから顔を背けて讃美することになり、何でもありがたがることはマゾヒスト的な宗教になってしまうし、そういう信じ方は、先ず、受け入れないか、受け入れたつもりで思い込みを強くするだけでしょう。
 
神の意志と行為について、正確に解釈して責任を負える人間はいないのです。
 
説教者であれ、信徒であれ、人に福音を伝えるとき、大事なのは、共感であります。信じなさい、救われますから、ではなく、共に人間であるのだから、一方が、もう一方に出来ることの中で大事なことは、教理を繰り返すことではなく、教えることではなく、人間にもできることであり、それは共感することに他なりません。
 
そして、その共感には、明らかに、罪深い、信仰が足りない、という不完全と不信仰の共感も含まれているのです。それが無いままの、上から下への教えは、いかに、優しそうな言葉を並べても、カルトへの広い門に過ぎないのです。
 
 
信仰とは何か、ということになると、神の全知全能・完全絶対・永遠不変は、人には分かりません。人は、そういう御方あるいは存在によって、ようやく生きてゆける希望の祈りと告白を、信仰と呼んでいる身であります。
 
人生の真実について何かが分かるということは感動を伴います。人は、いつでも、分かっているわけではありません。少なくとも、神に対して、分からないことを分からないと言えることが、不完全の自覚であり、信仰の要であります。このことが、自己愛、自己中、高ぶり、強がり、慢心、高慢、傲慢からの解放となります。それは、理解というより、共感と希望であります。
 
希望することは、人の側のことですから、人にとって、一生続くことがありえます。それが、絶えることのない信仰です。ゆえに、神の側が否定することはなく、人の側が否定しない限り、永遠と呼んでいいのです。
 
つまり現象としては、神の永遠は、人が永遠の神の存在を熱望していることに他ならないのです。ゆえに、神聖について、希望ではなく、既知であるかのように、見える、知っている、分かっている、などと決めつけることは、思い込み信じ込みになるので、信仰においては、退けなければならなりません。
 
二千年前の、物や肉体への奇跡の事実性は、神のみぞ知ることであって、二千年前の奇跡が事実だと信じるのがキリスト者ではありません。神のみが知ることを、人があった、あるいは、なかったと決めつけることこそ、神に対する冒涜であります。
 
肉体の復活を執拗に唱えながら、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、などと平気で言っている偽善者が現にいます。
 
物や肉体の奇跡よりも、遥かに遥かに、大きく、かつ、人間が受け取れる奇跡を、キリストは成就しています。神の前に、祈りにおいて、願いにおいて、遜ることを知っており、かつ、正直でありうる人だけが、キリストに信仰の義を与えられ、慰めと癒しを与えられて、救われ癒されています。
 
キリストを殺した者たちは、尊大であり、自己あるいは集団の解釈、すなわち、人による解釈を絶対としたがゆえに、戒律主義に陥り、それを守っているという慢心と傲慢によって、キリストに退けられたのです。その者たちはキリストは殺しました。今のキリスト者がそうであってはならないという見本となっています。
 
また、キリストは復活したんだから大丈夫などと、死を知りもしないで生きている人間が、キリストの犠牲の死の意味を軽んじてはいけません。
 
 
私たちが、聖書によって知るべきは、これら、神と人の違いを基本として、自らの、決して絶対ではない人間の立場を弁える節操と、絶えることのない希望を支えるのがキリストの同伴であること、という、2つに絞られてきます。
 
語るのが、聖職者であれ、一般の信仰者であれ、いかに、聖書に忠実と言われても、あるいは、面白くて詳しい説教でも伝道でも、この2つを語らなければ、説教とは言えないでしょう。
 
説教や伝道が、人の決めつけの保証や、おまじないや、謎解き話に、堕ちることのないように、祈っています。
 
 
妄想や、真逆の解釈と信条を言いふらして、人々を惑わす者たちがいる。また、遠回しに、聖書とキリスト教およびキリスト辛苦を、お伽噺にしてしまう輩もいる。また、小理屈や屁理屈をこねては、人を罠にかけて困らせて、その様子を、面白がる者もいる。
 
今のキリスト教とキリスト信仰も、節操において、情緒において、弱いか、あるいは、カルト的になっている傾向が一部にあり、信仰のカルトの方向への堕落に陥る可能性があると思う。
 
しかも、カルトは何か言われると感情的になりやすく、気の弱い人は、カルトの、格好の、いじめと誘惑の対象になるだろう。カルトやカルト的な人に、近づくことなく、過ごせたとしても、意地が強くなることは、信仰が強くなることとは逆の変化である。
 
思いこみや信じ込みから生まれてくる信仰は、決して人を癒やさない。むしろ、悩ませ、病ませるのである。そういう者に限って、神を恐れず、"神の平安"、また、"揺るがない信仰" という言葉を繰り返す。
 
その検証が、自分で、出来なくなっている人は、既に、カルト信仰への危機と言ってよいだろうが、大方の人は、他者からの、そして、自分発信の、カルト信仰の危機にさらされている。
 
神は完全、人間は不完全、という弁えと、神の前に、主イエス・キリストの御名によって、精いっぱい正直に、祈りを捧げること、それが信仰であり、それ以上でもそれ以下でもない。しかし、このことさえ、守っているとは思えない場合がある。
 
 
人間は、人間の現世において起こってくるさまざまな、悪の有り様と、突然の不幸の有り様を見ることで、必然的に、それら災いの背後に今は隠れて見えないけれど、きっと、人間に対して思考の幸いを用意しておられ、大きな歴史を動かしておられる絶対の存在を考えないではおれないところの、相対の存在だと思います。
 
昔の人は、考えたのでしょう。今は、こんな有り様だが、きっと、いつも、その御方が背後にはおられ、その御方の計画があって、人を選んで働かせている、そして、いつか、その御方の支配によって、救われる時と所があるに違いないと。そう思う人が出てきて、宗教が生まれることは必然だったのでしょう。
 
それは、まさに、その昔の人が、この世に絶望せずに、生きるためでした。
 
そして、そのことを今考えているのが、私たちなのです。
 
昔の人は、地上の人として、神を、考えなくてはいけませんでした。しかし、その資産によって、今の人は、考える始めの切っ掛けを与えられています。
 
 
旧約聖書では、神と人が直接語り合う場面も出てきます。神という絶対者は、この世の総ての物と生き物と人を造る御方、つまり、全知全能の創造主として書かれています。
 
そして、神は、嵐や雷とともに顕れ、戒める神であり、また、ときには、懲らしめる神であることから、徹底して書かれているのは、神と人の違いであります。
 
神は恐るべき全知全能を持つ完全なる存在であること。そして、人は、全知でも全能でもなく、不完全な存在であること。つまり、神の完全を覚えることは、人自身の不完全を知ることであります。それが、人の罪性として理解されることです。
 
新約聖書では、実際に生きた人間としての体を持つイエス・キリストが中心であります。ゆえに、キリストは、様々な人々と交流をします。そこで、キリストに救われた人々と、キリストに厳しく批判された人々が分かれます。
 
後者、つまり、聖書において救われなかった人については、見える、守っている、知っている、分かっている、という自画自賛や、さらには、人を指して、あのような者でないことを感謝しますとさえ神に言って自慢してしまう話にあるような、傲慢で罪性の自覚のない者だったため、キリストは、彼らを、徹底して批判し、退けました。
 
多くのカルトは、このようにして、退けられます。しかし、思い込みから感性の鈍麻によって固定されたカルト信条は、集団も、個人も、なお、蔓延っているようです。
 
ということは、カルトは、訂正不能のまま、変わらない、という性質を持ちます。ただし、聖書には、パリサイ人にも、律法学者にも、変わる、または、その可能性のありそうな例外も書かれています。そういう例外的な人がいることも、キリストは見逃しませんでした。
 
一方、前者、つまり、救われた人は、キリストの前で、正直に物を言い、告白をしました。世辞のような讃美よりも、率直な物言いを大事にして、ときに、食い下がるように救いを求める人もいました。キリストは、それが、飾らない本心であったため、善しとされました。
 
キリストに向かって、遜りながらも、飾らず、嘘を吐かず、罪の告白から願いまで、正直に、本気で、言いたいと思うことを言う、という祈りの原型が、ここにあります。
 
そして、それは、救われた人々が、孤独ではないことを知る初めでもあります。キリストが人間一人一人の人生に同伴するという福音の原型がここにあるのです。
 
祈りは、唯一、積極的に可能な、人から神への音信であり、導きは、神から人へ心の現象、あるいは、秘められた出来事として与えられます。即ち、信仰は、神と人の、秘められた双方向であります。
 
 
なお、出来事の現象、つまり、成り行きとしての導きは、人には、導きだったかもしれないと推測されることはあっても、神髄については隠されているとしか思えません。それを、決めつけると、自分の推測を信仰?することになるので、注意が必要です。
 
物や肉体に起こる奇跡は、驚くことはあっても、人間は、そういう驚きを、不思議なだけで手に負えないことを、生きる理由とすることは出来ません。大切なことは、起こったとしても一時的で過ぎ去ることではなく、魂つまり心に起こって、心を震わせ動かすことだけが、生きる力になるのです。
 
物や肉体に起こることは、人を驚かせますが、それは信仰の神髄ではありません。驚きだけでは、有り難がるだけで、心が成長せず、人は、本当に救われることにはならないからです。また、総てが魔法のように、起こると言い張る信仰?も、成長の余地がなくなるので、退けられます。
 
人間は、人間に分かることと、分からないことを、分別するのでなければ、個人においても、集団においても、全体においても、楽山やシャロームなどの易坊類のような陰謀屋によって、容易く騙され、滅びに向かうように出来ているようです。
 
 
信仰についての証しとなることは、なくてはならないことは、人間の心に起こっていることを忘れないでください。言葉と芝居だけで誘導しようとする心無き者たちの罠に嵌らないように注意してほしいのです。
 
 
被造物

被造物
 
 
(2020年01月01日)
(2021年01月02日、再録+加筆)
 
蔓延る(はびこる)
遜る(へりくだる、謙る)
嵌る(はまる)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ツイッターには、
 ブログ記事を抜粋して投稿したり、リンクつけたりです)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 

このページのトップヘ