ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:幼稚

 
  的外れの批判2
     by 佐倉哲
 
 
佐倉哲という人のサイトですが、楽山の師であろうかと思いましたが、決めつけて説得力のない自己満の筆致が楽山に実によく似ています。既に、聖書のキリストから人間として生存することについて癒しと慰めを得ている信仰者としては、コピペした記事について批判してゆくことにします。
 
もし佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、どういう魂胆で引用したのでしょう。佐倉哲という学者が楽山と同じくキリスト教の神を否定している・・ということで、楽山自身の正当性に箔を付けたいのでしょうか。その佐倉哲の文章が、呆れるほど無理解な先入観に過ぎないのですが。
 
楽山には、高等感情に属する深い情緒からの共感性がありません。さらに洞察力も皆無です。そして、佐倉哲も同様に、事実と理屈の辻褄合わせだけで神を否定したつもりの高慢が表れています。どんなに飾っても、人を生かす言葉として、幼稚は幼稚、無理解は無理解、無知は無知なのです。
 
聖書の神を、深みのない理屈で否定してくる学者モドキの佐倉哲は、楽山の成りすましである可能性が高いと思われます。楽山の無理解を、佐倉哲が繰り返しているように見えるだけです。心の深みを、全くと言っていいほど洞察も共感も出来ないこの二人に、どうか関わらないでください。
 
 
「聖書の間違い」シリーズの目的は、「聖書は、神の霊に導かれて書かれたものであるから、すべて正しく、いかなる間違いも含まない」という主張の真偽を吟味することでした。その結果、わたしはこの主張は間違っているという結論に達しました。つまり、聖書の記述には多数の間違いが含まれており、聖書はいわゆる<神の言葉>ではありえない、ということです。
 
おかしいです。神と聖書の正しさを、人間が完全に理解することは不可能です。そこを弁えないのはカルトや偽善者ということになります。神聖については、人の側に不完全性定理が成り立つようです。神について、人によって、いるとかいないとか、正しいか否か、などは分からないのです。
 
むしろ、そこから、聖書は、心を生かす言葉を見つけて共感することであります。それは聖書がなければありえなかったこととして記憶され、聖書と、体験との間を何度も往復する動機となります。「神の霊に導かれて書かれたもの」かどうか、神でない人に、評価できるものではありません。
 
 
聖書の記述が間違いだらけであるということは、もし神が正しいことしか語らない<真理の神>であるとすると、聖書は<神の言葉>ではありえないという事を意味します。
 
「だらけ」と意味を強めてきました。生かす言葉のヒントも見つけられないでいて「<神の言葉>ではありえない」というような結論に到達することも「ありえない」わけです。聖書から、心、命、人生を、生かす言葉を見つけられない人は、見つけられない自らの身の程を弁えるべきです。
 
 
それでも、もしあくまでも聖書は<神の言葉>であると言い張れば、神は<真理の神>ではないということなり、結局、神の言葉そのものが信用できないという、より受け入れ難い事態が帰結することになります。神が<真理の神>であるとすると、どうしても、聖書は<神の言葉>ではない、ということになります。
 
神と神の言葉を否定して決めつけるのは、反キリストにありがちなことですが、いったい、いかなる保証を、神に、要求するつもりなのでしょう。個人的に、信用できないならば、信じることなどないのだから、神と聖書と信仰については黙っているべきです。理路が悲惨です。
 
自分にないものを人が持っていることへのジェラシーでしょうか。自分は分かっているから、分からない人へ教えようとする態度だけで書くと、こう言う屁理屈を振り回すようになるという例になるでしょう。この屁理屈も、実に、楽山に似ています。情感と感性が悲惨です。
 
 
聖書が神の言葉ではないことの証明
前提:神の言葉は正しい。(神の定義より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、聖書は神の言葉ではない。
 
全能でもない人の分際で、神を判定し結論するという傲慢が明らかです。また、神を判定するのは、自分は神と同等かそれ以上だと言うのと同じです。神聖を自分の屁理屈で否定する・・楽山に似ています。佐倉哲が楽山の成りすましだとしたら、実に有害で狡猾な陰謀と因業であります。
 
キリストの教えに、生きた言葉を見つけた人は、それを救いとして生きる縁(よすが)にして生きるのです。学者も、思想家も、もちろんペテン師も、口をさしはさむ余地はありません。上の判断は、神の言葉でないのはもちろん、人の言葉でもありません。不潔な培地に、ぶわぶわと湧いているカビの類です。
 
 
しかし、もしあくまでも「聖書は神の言葉である」と言い張れば、
前提:聖書は神の言葉である。(キリスト教の教理より)
事実:聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論:ゆえに、神は真理の神ではない。
 
歴史の定説と思われたことが、のちに、疑われ、否定されることがあります。過去の事実は証明できませんし、神を証明する事実も否定する事実も証明できません。神を事実によって否定する人の理屈、とても、幼稚だと思います。こういう醜いことばかり書いてくるのも、楽山に酷似しています。
 
人間の辻褄で、貧相な思想家気取りが、神を否定したつもりでも、そこには、神についての事実を人が決めつけるという欺瞞が働いています。これは、信仰を語る思想の是非以前に既に成り立たないことです。恥ずかしげもなく根拠みたいに言う貧弱さは学者気取りの惨めな偏見を表すだけなのです。
 
 
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する結論は、「聖書は神の言葉ではない」か、あるいは(聖書は神の言葉であると言い張るなら)「聖書の神の言うことは信用できない」ということです。
 
激しい短絡と傲慢が働いています。この発言者は、人間の理路で、あら捜しはしても、救いとなる言葉の実感に到達していないようです。つまり、聖書について、理屈や事実をいじくるだけで、人生の言葉として何も考えていないのです。自己満だけの、誰も救えない人だと思います。
 
信仰は、論理や事実によるのではなく、共感であり、キリストを好きになることであり、神とキリストを矛盾なく正しいと証明することではありません。人間として、生きるために必要な、心に響く言葉が見つからないなら、貧弱な思想家気取りで浅ましい文句など言わず、ただ黙っているべきです。
 
 
さて、聖書が間違いだらけであるとしても、それで聖書のすべてがでたらめであるということにはなりませんから、たとえば、神が世界を創造し、イエスを救い主として世に送り、彼の犠牲の死によって、彼を信じるものは救われるなどといったキリスト教の中心的教理が間違っていることが、この「聖書の間違い」シリーズから帰結するわけでは、もちろん、ありません。
 
卑怯ですね。否定しまくっておきながら、間違っていること・・帰結するわけではない、などと言っても、それは安い言論者の責任回避であり、このように、神とキリスト教を否定する人が、自らの貧相な理屈を振り回すだけで信仰も真実も知らない証拠なのです。とても、卑怯で、醜いです。
 
 
しかしながら、「聖書に書かれていることは全て正しい」という主張が覆されてしまった以上、「聖書に書いてあるから」という理由では、それらキリスト教の教理が真理であることは、もう主張できなくなります。
 
聖書が神の言葉と信じても、全ての正しさを、人間は理解できるわけではないという敬虔を、このブロガーは分かっていないのです。人間のインテリジェンスは、信仰と聖書を理解するうえで、超常がどうこう・・といったことについては、全く無力です。私たちは超常に住んでいないからです。
 
 
聖書が真理の根拠ではありえないことの証明
事実: 聖書の記述には間違いがある。(調査結果より)
結論1:ゆえに、「聖書に書かれていることはすべて正しい」という主張は間違っている。
結論2:ゆえに、「聖書に書かれているから」という理由は、ある主張が正しいことの根拠にならない。
 
神は絶対であっても、人は絶対ではない、という基本が、信仰の弁えです。同格に見て論ずるなら、それに使う時間はことごとく無意味です。つまり、神と聖書が無意味であると否定することは、そう言った者を、とことん無意味にするでしょう。論理に見せかけた詭弁・・無駄なことは止めるべきです。
 
 
(結論1より)
つまり、「聖書の間違い」シリーズから帰着する二つ目の結論は、「イエスは人類の罪のあがないのために犠牲の死をささげた」とか「イエスをキリストと信じるものは救われる」などといったキリスト教のすべての教理は、それらが「聖書に書かれているから」という理由では、真理であることを主張することはできない、ということになります。言い換えれば、聖書は真理の根拠あるいは権威ではあり得ないということです。
 
論理的に見せかけていますが、現に、キリストを好きになり、生きる縁としている人々への悪質な侮辱になります。その原因は「聖書に書かれているから」が、正しさの理由になっているという先入観的な見方が批判者側にあるからです。共感と愛が人間をとらえること何も理解していない人の言です。
 
聖書は神の言葉であっても、ゆえに、人の言葉しか持っていない私たちには、完全に理解できるものではないということです。人の理論体系に、神は、納まる御方ではない、という恐れをいだくべきなのです。それを自覚せずに、神と聖書を理屈で否定したつもりでいることは、呆れるほど傲慢です。
 
教理は、聖書に書かれているのではなく、聖書に書かれていることから生まれています。この佐倉哲という楽山類は、楽山と同様、理論家ではなく詭弁屋です。楽山の成りすましの可能性が高いです。誰も褒めてくれないから、学者か何かに成りすまして満悦しているのでしょうか。哀れです。
 
 
聖書の記述における数字の不一致のような、一見「些細な」矛盾も、したがって、キリスト教の中心的教理の主張とまったく無関係というわけではなく、むしろ、それらの教理を真理であると主張するための重要な、おそらく唯一の、土台そのもの(真理の権威としての聖書)が、その「些細な」誤謬のために崩壊してしまったといえるでしょう。
 
呆れます。既に生きるとに必要だから信じている信仰者を屁理屈で否定したつもりです。今まで書いてきたように深みも洞察もない決めつけの屁理屈で否定したつもりになっている自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の見せかけだけで実質が皆無の自慢話につきあってはいけません。
 
信仰は、数字や理屈の一致に支えられてはいません。矛盾がないから信じているのでもありません。また、教理と、信仰は、違います。教理は、直観に結びつきにくいものですから、心の癒しにも直接は結び付きにくいものです。教理は、信仰のヒントとなる言葉の集まりに過ぎません。
 
信仰は、キリストの一つの言葉で生まれることもあり、人によっても、状況によっても、違うことがあり、それは、教理や理屈を大きく超えて、救いと癒しというテーマに関わることです。だから、その経験のない人が、通念的な理屈で語る神は、読むに耐えないほど、幼稚で拙劣なものになるのです。
 
この佐倉哲という人が、批判しているのは、教義教理信仰という、人が決めつけた理屈の中で神を語る偽善的思い込みの類であり、そういう批判は、私も書いています。それを、既に救われ癒されている人の信仰に向けることは、即、侮辱となります。佐倉哲は、直観力も理解力もないと思います。
 
今回、批判対象の作者である佐倉哲は、教会で、教理ばかり信じるように言い聞かされて、傲慢のために反省もしないで、根こそぎ否定の方向に変えたのでしょうか。深いところを受け取れないために、屁理屈だけの筆致は、楽山に、実に、よく似ています。つまり、思い込みだけの空想屋に過ぎません。
 
 
聖書は、長い歴史の中で育まれてきた先人の知恵と、神を表す言葉であり、未熟な理屈遊びで論文の適否を論ずるような思い上がった決めつけの対象には決してなりません。楽山と似たような、勉強しない天才気取りが何を書いても、刺激性の悪臭をもたらすだけです。的外れもいいとこです。
 
 
的外れ 発泡性 根無し

的外れ 発泡性 根無し
 
 
(2021年12月28日)
(2023年01月05日、再録+加筆)
 
 
 
  選ばれた民
 
キリスト者(クリスチャン)は神によって選ばれた民である
それを否定するつもりはないが
選ばれた、とはどういうことなのか
恵まれた、とも言えるかもしれない
しかしこういう言い方は誤解を招きやすい
選ばれた、とは優劣を意味しない
また特別に善いことをしたから選ばれたわけでもない
キリスト者でなくても優れた人はいるし
また尊敬に値する人格者であり
キリスト教についても知識を持ちながら結局
信仰には無縁なまま一生を終える人もいる
強いて言うなら助けが必要なほど愚かだから
神の憐れみによって選ばれたのかもしれないが
ことさら卑下する必要もないだろう
無理な謙譲は陰湿な思い上がりの住みかである
 
主イエスが弟子として選んだのは
人格や知識の優れたものではなく
多くは無学で愚直でありながら
人間的な感情の豊かな人々のようであるが
詳細は明らかではないはずだ
 
少なくとも選ばれるということは
選ばれる人々の都合によってではなく
秘められた神の都合によって選ばれるのである
 
だから選ばれたことは縁のようなものであって
選ばれた民は異教徒や無宗教の人々を
軽んじてはならず憐れむべきでもない
人の憐れみはしばしば陰湿な軽蔑の住みかである
 
キリスト者はただ神の都合により選ばれた民である
そして父なる神から甘くなさそうな盃を与えられた者である
人間としての喜怒哀楽を経て、離れようとしても
盃の縁のゆえに、たとえ苦くとも
盃の宴に立ち返るほかにない人間をキリスト者という
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
嘘ばかり重ねる罪と偽善を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」で済ませようとする無反省の楽山は、恐らく一生、反省、とほほ、などと、ふざけて書くことはあっても、本当に反省することはないのでしょう。しかし無反省で無理解のまま言葉だけ書いて、それで済む世界は存在しません。
 
楽山は、利用できるものを、無断で好きなだけ利用してきました。しかも、言葉の表面だけだから悪用というべきです。しかし、この記事の屁理屈は、楽山の筆致に、実に、よく似ています。上のS氏も、楽山の成りすましなのでしょうか。罪は、犯したとき心地よく、後から、責めをもって、追いかけてきます。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、
アンチが相手でも、冷静に対話ができる人もいる一方で、
アンチはこういう者だと決めつけて、即、拒絶する人もいる。
こういう違いは、一体何が原因なんだろうな。
午後0:06 · 2021年12月26日
 
楽山が原因です。人を生かす言葉を、安い世辞と勘違いして、他には何も用意できず、人のせいにする悪口だけ積み重ねてきた雑言屋の宿命です。楽山は、芝居が得意なのではなく、自己中と怠慢のために、いつのまにか、三文にも値しないペテンの芝居しかできない大根役者になっているのです。
 
楽山は、先入観と偏見と妄想で、いつも、「決めつけて」きます。そして、他者の言葉を、都合のよい言葉だけ、都合の良い方向に、引用して、味方が多いように見せかけてきます。一般常識がありません。良心がありません。たくさんのHNに成りすましていると思います。
 
楽山には、冷血はあっても「冷静」はありません。楽山は、正当な対話が出来ません。不快なことや都合の悪いことは無視します。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なので、自己中の単方向しか持っていません。それを、丁寧語で、ごまかしているのです。
 
 
★こも/楽山日記3 
@komo266 
RT @PdoctorTomy: 自分で決めていいことは、
自分で決めるのが一番いい答えなのよ。
 」
自分で決めていいはずのことに、あれこれ口を挟む人はいっぱいいるのだけれど。 
 
「自分で決めていい」のは「自分で決めていいこと」です。それを、楽山は、何でも自分で決めていいという詭弁にして、宗教や思想というような大きなものをも、自分で決めつけてきたのです。どこまでも、くだらない詭弁で誘導してきます。無反省、無神経、無責任の、訂正不能の自己中です。
 
 
 
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  神を恐れる心4-3
 
   記事「神を恐れる」を修正加筆して再録
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/111022.html
 
 
 信仰の弁えは、神を恐れる心から生まれます。
 神は漠然としているのではありません。
 漠然などという言葉を神に当てることは出来ません。
 キリストにおいて神は明らかであり、ただし、
 人の知恵では "決めつけられない" 御方ということです。
 
 聖書の記述から作ったイメージも人のわざに過ぎません。
 漠然とした神のイメージもまた正しくありません。
 神は、人において規定されうるようなお方ではありません。
 私たちは、神の正しさを理解してはいないからです。
 神は、決して人間の見識の対象とはなりません。
 私たちは、祈り願い、受ける立場でしかありません。
 
私たちの言葉は、一語は一つの意味だけでしょうか、違います。多義を持つ言葉があり、かつ、人によって受け取り方が違い、かつ、時によって受け取り方が違うのです。神の言葉は絶対ですが、それを読み取る私たちの言葉は、決して絶対ではないのです。感動は、やがて感動した記憶になります。
 
キリストが父と呼び、私たちが信じる神は、私たちが知らないだけであって、漠然とした神などではありません。漠然としているのは私たち人間のほうです。だから、様々なことに、神の存在でさえも、言葉で、条件を付けたがります。そうして、人は慢心に向かいやすいことを知るべきです。
 
不変の神に比べて、移り気で変わりやすく、不安定で偏りやすいのは、私たち人間のほうなのです。ゆえに、私たち人間から見た神が、多様になってしまうのです。それを救うのは、教理の正しさではなく、神に対して不完全な罪人であること認めて、正直に祈ることだけです。
 
私たちは神について想い考えますが、それは、不正確な想像という罪を承知で、想い考えるに当たってそうするしかないからであって、信仰の内実において神を対象化してはいけません。神は、人の想いと思考などという有限が向かう所に対象として在るような御方ではないからです。
 
神を信じるということは
神のイメージや概念を信じ込むことではなく
神についての
人の見識の絶対性を否定することです。
神についての
人の思いを相対的とすることです。
神についての
人の情熱を相対的とすることです。
 
神の御心は変わることはありませんが、神について人が思うことは、そのときの想いに過ぎません。
だから祈りのうちに、さらなる導きを待つしかないのです。キリストの同伴が、その生き方を支えることが信仰生活を成してゆきます。
 
神と人の契約とは、赦しと救いの約束であり、人が人らしく、神の前に低い存在であることを自覚しているあいだ無効になることはありません。ときに思い上がっても、のちに悔いて、正直に祈るなら、寛容な神は、赦しをもって関係を回復してくださるでしょう。救いに手遅れはないからです。
 
人が神や神の意志と行為を決めつけることは、自分が神と同等だと言うに等しく、人が神の前に故意に隠したり飾ったり偽ったりすることは、自分が神を騙せると思うに等しく、いずれも人が、神の前に低い存在という自覚を失っている姿です。
 
それは、神に対する反逆であり、ゆえに、その時、人が赦しも救いも拒んでいるのです。つまり、神と人の契約を破棄するのは、まさに、人の側でのみ起こることなのです。寛容なる神が、救いの約束を破棄されることはありません。
 
繰り返しますが、あるとき傲慢であっても、そのあと悔い改めて、神を恐れるに相応しい信仰になれば、神の側は破棄していないのだから、この上ない神の寛容によって、救いの約束は恵みとして有効であり続けます。
 
人を愛し救い、人に命の恵みを与える神が、あらゆる生殺与奪の全能を持つ神であり、人間などが、うっかり友だちのように、近づけるなどと思ってはいけないことに気づき、神を恐れること、それが信仰の節操の始まりです。馴れ合いは、神に対しては決して成り立たないということです。
 
神は、人間の俎上や机上に乗る御方ではありません。恐るべき神を知り、聖書から、キリストに愛され癒やされることに気づき、キリストを愛するようになること、それが信仰の情熱の始まりです。信仰は、人にとって、超越的に現実離れして神がかるような、超常のものではありません。
 
神という永遠不変は、人が、超常を知らないこと、いたらないことを、隅から隅までご存知ですから、超常を知らなくても理解と共感が可能なように、人間として正直な信仰を、超常と地上の間の仲保者として、キリストを遣わすことで与えられたのです。
 
神は理解する対象ではありません。
希望として信じ仰ぐ対象です。
 
神に対して、人の真・善・美・義は完全にはなりません。
人は、真も善も美も義も努めることが必要ですが、完全に到達することはありません。
 
したがって、
真も善も美も義も、
人の努力目標にはなっても、
人の信仰の芯にはなりえません。
これらは道徳か目標に過ぎません。
完全に守れる人はいません。
 
神に対して
通用する唯一の言動は
正直な祈りだけです。
人が救われるための必要十分条件です。
だから、信仰はシンプルなのです。
 
 
偏る(かたよる、片寄る)
騙す(だます)
 
 
恐るべき御方

恐るべき御方
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年12月28日、再録+加筆)
 
 
 
 愛の実態
 
愛は寛容ではない
情け深くない
妬(ねた)む
高ぶる誇る
不作法をする
自分の利益を求める
苛立(いらだ)つ
恨みを抱(いだ)く
不義を喜び真理を喜ばない
すべてを忍ばない
すべてを信じない
すべてを望まない
すべてを耐えない
 
とうに「愛」の理想は
人の実態において死んだが
ここにおいて
いまだ「愛」は死んでいない。
 
守れる者が一人もいないので
神の寛容が用意されるからである。
 
※ 以上は、以下の聖句を否定肯定を逆にしたものです。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)13:4-7
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
 (1コリント13:4-7、新約聖書)
 
興味深いのはこの章の最後にパウロは、信仰と希望と愛の三つのうちで最も大いなるものは(信仰ではなく!)愛であると言い切っていることである。信仰が、人間離れして、愛から離れたら、もはや、信仰ではないということだろうか。
 
本質的なところでは、信仰に、信条はない。
 
信仰は思想や戒律ではない。むしろ恋愛や結婚に似ています。しかもそれは人と人との間のように変わったり、片方の合意がなくなれば消えてしまう、というものではありません。人が躓(つまず)いて離れて行こうとしても、キリストがその絆(きずな)で捉えて離しません。
 
何故キリストの「負いやすいくびき」は人を捉えて離さないのでしょう。人間の最も大切な部分、それがなくなれば人間ではなくなるという部分に結び付けられているからです。その部分とは人間の最も暖かい感性あるいは愛、しんみりと悲しむ心、しかし言葉に尽くせるものではありません。 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-30、新約聖書)
 
いつからか私は信仰について、糧(かて)と干物を区別したくて、心に響くものと響かない美辞麗句を区別したくて、理屈で考えることを控えるようになった。
 
思いで納得しなければ何も語ることのできない人の性(さが)、この矛盾を孕(はら)みながら、総てが既に知られている所から、日々の糧(かて)は与えられている
 
 
 
  祈り・フリー
 
過ごし
見過ごし
死に損なってゆく一日一日に
意味も喜びも見出せずにいますが
長年の柵(しがらみ)からは
フリーになりました
フリーです
自由です
自由契約です
要するに無職です
ワァーォ
過去の罪は消えないとしても
少し肩の荷が下りた気分があります
と同時にカウントダウンが始まりました
(数年後の経済状態
 を考えるのだけは…やめよう)
主よ、あなたが成就し
実践された愛するという使命も果たせないまま
じっと黙って心臓が止まるのを
待つだけの人生になりそうです
自殺は、どう考えても
御心に適(かな)っているとは思えないから
できるだけしないように努めますが
自力では運べません
運んでください できれば
許されるものなら
気の遠くなるところへ
肉の遠くなるところへ
何もかも無意味だったから
元々意味も名前も持たない遠くへ
遠くへ…
 
 
  時を探すとき
 
水は流れるとき
樋(とい)を探すだろうか
火は燃えるとき
炉を探すだろうか
風は吹くとき
崖を避けるだろうか
山は爆発するとき
焼かれることを恐れるだろうか
 
いつのことだったろう
山が燃えていた
街が燃えていた
海が燃えていた
 
人は喋(しゃべ)るとき
相手を探す
相手を見つけて喋る
相手が自分のときは独り言
時々か屡々(しばしば)
いかなる相手も見つけずに
独り言を喋っていた
 
誰に向かってでもなく
吐息を漏らすとき
 
相手はいない
探しもしない
ただほんの一瞬
吐息のない過去を見ている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
自己中の病質というのは、近づけば近づくほど、付き合いが長ければ長いほど、質問や批判をすればするほど、驚きや痛みとともに人格を損傷してきます。決して生き方として成り立たないのです。人は人、自分を貫く、などと言っていた楽山ですが、結局、自己中正当化の詭弁に過ぎないのです。
 
 
 
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  自分を見ない楽山
 
 大川隆法の人間観(『メシアの法』)
 2022年10月29日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
 
また、楽山は、何も表現も説明も出来ないのに、しまりのない文章を書いてきました。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、いかに有害であるか、楽山自身が表さないと気が済まないようです。自分を見ない楽山、良心が育っていないゆえの醜態です。
 
 
*大川隆法の人間観
 『メシアの法』の中で、大川隆法総裁は、人間は自己中であって、非常に貪欲なものだとしていた。
 動物的生存と言いましたけれども、私もよく「自己中、自己中心的になるな」という教えは説いているのです。なぜかというと、「自己中である」ということは、動物でも人間でも、自然体でなれることだからです。この世に生まれ落ちて育ったら、どうしてもそうなるのです。食べ物は手に入れたいし、それから自分の命は惜しいし、自分が死ぬぐらいなら、ほかの人に死んでほしいと思うし、食べ物が二人に一つしかないなら、自分のものにしたいと思うし、家も欲しいし、職業も欲しいし、いろいろなものが欲しいわけです。
 これは、当たり前としては当たり前のことなのですが、本能的に必ずそうなります。動物的なものからの延長上でも、そうなってはきます。 
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.271)
 」
前述したように、自己中になることは誰にでもできます。生まれつき、なれるのです。昆虫も動物もみんな自己中です。自分中心に餌を取り、自分中心に死を免れることばかり考えています。
人間だってそうです。みんな、基本的には、自己中に判断するようになっています。
(同上、p.318)
 」
こうしてみると、大川隆法総裁は性悪説を支持する立場のようだ。
 
性悪説にかこつけて、楽山は、自らの自己中の言い訳に、ORの言を引用しています。ここまで汚い人だと、自ら、悪意の詭弁をを新たにしています。自分を大事にすることと、自己中病質は違います。自分を大事にする人は他人を疎かにはしません。それが自分のためになると分かっているからです。
 
楽山は、後者の典型的な自己中病質です。人を、人とも思わず、詭弁の迷路で混乱させ、騙して、うまくいくと満悦する人格破綻者です。楽山は、説得も聞いているふりだけで、世辞を返すのが精いっぱいの、無理解脳なのです。自分の狭い視野を絶対としてしまうと、こうなるという例です。
 
 
*性悪説と信仰
ちなみに、信仰の必要性について、性悪説の立場から説くと、このようになるだろう。
「人は自己中心的で、利害損得にこだわるものだ。したがって人に善を選ばせるには、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄というアメとムチが必要になる」云々。
 
楽山と話し合うのは止めましょう。宗教を、性悪説や、アメとムチで、語ろうとすれば、道徳のようなものにはなりますが、信仰にはなりません。悪意も善意もあるのが大半の人間です。楽山のようなサディストだけが、悪意しか持っておらず、その自覚もないのです。
 
 
*性善説と信仰
 一方、信仰に性善説を絡めて話すとこうなるだろう。
 「人の本質は善であるから、自由な環境では、ごく自然に善を指向することになる。したがって人が善を選ぶには、自由があればいいのであって、アメとムチ(天国と地獄)は必要ない」
 
楽山の空論です。本質が善ということを、善を希望するのではなく、極端な意味でしか語れません。楽山は、自己中の自分勝手を、自由だと妄想的に勘違いしています。楽山に「自由があれば」・・だから、今の楽山のようになってしまっています。
 
 
*HSの立場
 HS教義では、人は神の子(仏の子)であるとして、性善説の立場に立っているのではあるが、大川隆法は上のように人は自己中なものだとしていること、「人は信仰がなければ…天国地獄を信じていなければ…悪に流れる」という旨の発言を繰り返していること等からすると、性善説は建前で、本音は性悪説を支持しているということなのだろう。
 
楽山は、自己中の、殆ど欲望的低次元なので、性善説、性悪説、という理屈の辻褄合わせで語りますが、良心を持つ人間は、もっと複雑です。そういう幅を持った話が、何も出来ずに、こっちなら云々、そっちなら云々と、決めつけを語って言い得たと思ってしまうのが、貧相な病的ナルシストの楽山です。
 
 
*疑問解決
「HSは人は神の子だとして性善説の立場に立ちながら、人は天国地獄を信じないと悪に流れるとしているのは矛盾している」と長らく疑問だったのだが、とりあえずこれで疑問解決である。
 
楽山の疑問は、解決不能です。楽山には自覚がまるで無いからです。楽山は、いったい何を解決した気分なのでしょう。楽山自身が狂った軸から、疑問解決などと、言うこと自体が、全て自己愛性人格障害の症状なのです。書けば書くほど、明らかになってきたし、そうなってゆくでしょう。
 
 
*利他的利己
最後に自分の考えを述べておくと、私は、人にしろ、動物にしろ、すべて自己中心的だと決めつけることはできないと思っている。たとえば、捕食動物から雛を守るために自らがオトリになる親鳥、スズメバチを退治するために自らが犠牲になることもいとわないミツバチ、群れの仲間を轢き殺した車に向けて、いっせいに石を投げたサルたち、大飢饉の際に自らの肉を子に与える親、家族の重荷にならないために自死する病者…動物にしろ、人間にしろ、このような利他的行動の例は多々ある。
 
楽山は、人間を考えるのに、動物を挙げて、利他的行動の例としています。楽山自身を例にしたらどうでしょう、楽山は語れない、語らない、利他的なところがないからです。楽山には、それこそ、動物の本能のような自己中の防衛反応しかないのかもしれない・・言動のパターンは一致します。
 
 
見方によっては、これらについて、すべて本能による行動にすぎないとか、その動機の中に利己心が皆無ではないとはいえない等と言うこともできなくはないが、それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう。
 
動物の利他性を語っておきながら、反論を恐れたのか、本能について、そう「言うこともできなくはない」と言いながら、「それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう」と話を戻してしまう乱れ方です。理路というより、駄々のような言い張りです。楽山には、こういうのが多々あるでしょう。
 
 
そういうわけで私は、人は総裁が言うほどには自己中ではないと思うし、総裁はよくもそこまで人の善性を信じないことができるものだなと不思議に感じる次第である。
 
楽山が、強烈な自己中だということです。しかも、その言い訳に、ORを持ち出し、動物を持ち出し、ボンヤリ言語で、結局、不思議と言って終わりなのです。何も語っていないより、理路に見せかけている分、悪質です。これは、楽山の常態であります。
 
 
◇◆ 追記 2022.10.29 ◆◇
*もう一つ
『秘密の法』にも、総裁の人間観が語られている箇所があったので、こちらも保存しておきたい。
やはり、どのような人にも、心のなかに利害関係というか、損得勘定があるので、修行をしていること、仏法真理の勉強をしていること、あるいは、学業や真理のために打ち込んでいることが、相手の利害と一致しているときはうまくいくと思います。ただ、それが一致しなくなることもあるでしょう。そういうときに大きく崩れてくることはあります。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.184)
今まで自分を応援してくれていたような人が急に手のひらを返したようになるというのは本当に残念なことですが、「自分は純粋な信仰者だ」と思っているような人であっても、欲を持っているのです。
(同上、p.187)
 」
総裁は以上のように述べつつ、その実例として、HSの立ち上げの時には大きな貢献をしたが、その後、離れていった人物のことを話している。この人物はHSの中心にいたときは張り切っていたものの、教団が発展し、新しい会員が増えるにつれて、自身の地位と影響力が低下してくると、名誉欲などを満たせなくなり、そのために去って行ったのだろうと…。
私から見ると、その人物は「総裁は真理に背き、道から外れた。損得勘定からすれば、それでも総裁から離れない方がいいかもしれないが、自分にはそれはできない。自分は真理にのみ従う」と考えて去ったのではないかと思うのだが、総裁はあくまで自分は正しいと考えているので、去る人がいれば、その人は真理に従うより、己の欲望に流されたという結論になるのだろう。
 
またボンヤリ言語でありながら、自分の意見のために、他者を決めつけています。「真理のみに従う」「と考えて去ったのではないかと思う」と「欲望に流されたという結論」とを併記して、火の粉を避けたつもりで、醜い自己正当化になっています。そうして、後では、忘れてしまうのです。
 
 
総裁は、性善説を説く宗教家にしては、ずいぶんと殺伐とした人間観を語っていることに違和感があったのだが、要は、総裁は自分は絶対に正しいと考えているので、自分に従わない人たちに対する見方が厳しくならざるをえないということかもしれない。「私は正しいことをしている。それなのに信じてついて来ないのは、彼らが善悪を知らず、欲にまみれているからだ」という風に。
 
「自分に従わない人たちに対する見方が」最悪なのが「自分は絶対に正しいと考えている」楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDからの無反省によるものでしょう。善悪を、自分の幼稚な知識と、曲解と、妄想と、決めつけないためのボンヤリ言語で、決めつけてくる、という惨事に至っています。
 
 
結局、人に優しく、温和な人間観を持とうとするなら、自分は絶対に正しいという思い上がりは捨てて、謙虚になることが大切だということなんだろう。実際、謙虚な人は、人に優しく、温和な人生観を持っていて、傲慢な人は人に厳しく、荒んだ人間観を持っていることが多いのも、これが理由かもしれない。
 
「自分は絶対に正しいという思い上がり」を一番持っているのが楽山です。決めつけていないとでも言いたいのでしょうが、語尾をやわらげても、いっしょなのです。「人に優しく、温和な人生観を持って」いると見せかけてくるのが、楽山です。訂正不能の「荒んだ人間観を持っている」からです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。
 
言葉だけ拾って、並べるのが、楽山の読後感想でしょうか。それで、読者家なんだと思ってもらいたいのでしょうか。読書家気取りだけで、言葉だけ引用して並べて、理解したかのように思わせる誘導でしょう。こういうのは、読書とは言えません。自己愛性人格障害の壊れた自慢に過ぎません。
 
 
*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。
我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」
我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」
中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」
何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。
 
「頑張ろう」「納得である」「膝を打ちたくなった」「思わす背筋を伸ばしたくなる」という褒め言葉だけの感想文というのも珍しいです。中身がありません。これで感想が終わりです。いつも、そういう具合で、はっとさせる洞察や、その切っ掛けさえも皆無です。
 
楽山が、何を書き足しても、思いつきの雑言だけだから、いっしょなのでしょうが、無駄を省くために、書かない、まだ書けない、・・という自覚と選択がないのが、楽山です。そこが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのでしょうが、悪意の偽善者に見えます。
 
それで、インテリ・読書家・学者・評論家・批評家などを気取るのだから、傍迷惑です。一日も早く、ブログの読者を騙すのをやめてほしいです。ボンヤリ楽山が、褒められる日は来ません。また、楽山が、何やら宗教~カルトの、教祖になる日も来ません。
 
何もはっきり書かないことは、柔和でも中立でもありません。その時の定まった意見がないのならば、書かないことです。揶揄するだけの意見など書いてはいけません。書けば書くほど、いい加減さだけが、印象としても、評価としても、積み重なってゆくだけです。
 
 
楽山の成りすましか仲間の、シャロームshalom は、しばしば韓国の教会だけを引用していました。在日なのかもしれません。楽山も在日でしょうか。私は、特に嫌韓ではありませんが、人によるわけです。楽山はネトウヨで、A級戦犯を褒めていました。ネトウヨは在日・・という意見もネットにはありました。
 
 
何もない 裸の王様 嘘吐き

何もない 嘘吐き 裸の王様
 
 
(2022年10月30日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山とは、前に、数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。何を言われても無視して、殆ど、こちらの理路を受け取らず、言いがかりだけを返してきました。混乱し、疲労しました。以後、楽山を批判して、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の子供だまし3
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の悪意がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の、無反省、無責任、自己中、自己顕示欲、羞恥心と罪悪感の欠如、客観性の欠如、固定観念、自己愛妄想、などは、いずれも、極めて人間関係において有害であります。その口が、宗教を、子供の遊びだと言っています。
 
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であります。宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
楽山は、宗教そして信仰を、子供の遊びのような、嘘っぱちの作り事で、遊びに過ぎないと言っているのです。こういう人が、信仰を持たないのは、個人の自由ですが、何も理解もしてないのに、信仰を否定してくるのは、信仰者に対する下劣な侮辱であります。
 
そういう楽山は、ただ文句を言い、あざ笑うだけで、何も、信仰に代わるような、ハッとするような洞察や深い理解を持って人のためになることを、何一つ言えない人なのです。ここに、楽山という、ならず者の、悪臭を伴う害毒と犯罪性が表れています。
 
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然がここにあります。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
登場人物の類似によって、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込むのは、楽山の、救いがたいほど浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。アニメにも、教訓はあるでしょう。それも受け取っていない楽山には、人生を支える信仰など、何も分かってはいません。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂の人格破壊に至るだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、偽牧師シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
願望充足と、理想とは違います。楽山においては、終始、自己顕示欲の充足となっていることです。その語るところ、じっくり読めば読むほど、小学生にも満たないような、短絡した幼稚な話になっていることが、明らかになってきました。宗教を語るような発想は全く見られません。
 
世界を救うフィクションのアニメと、現実の人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、同一視して、のぼせ上がっている未熟者、楽山の、病の根の深さが表れてきただけなのです。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。一見、インテリに見せかけるペテンだけを身につけてきて、人間としての成長が見られない病者です。思考も情緒も異常です。
 
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない病的な場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっていることに気づかない、それが、楽山の実態です。話も理路も通じないし、共感もなく、のぼせ上がった独り有頂天なのです。
 
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
アニメなどの娯楽のためのフィクションには、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルの現実を、リアルだと感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山がご本尊?として居るという幻想でしょう。
 
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるという当然のことです。楽山にとってだけ、宗教とアニメは同じもの?になっているようです。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、ジャンルや方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、楽山は、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、病質のために、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。つまり空想だから空疎だと言いたいのです。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を捻じ曲げて軽率に見なしているかが表れています。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が殺され殺し死んだ歴史があります。一歩間違えると大変なことになります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。ゆえに、甚だしく間違えて、平気でいるのです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしています。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。日常と超常の無分別による著しい妄想的曲解です。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化し、または、無神教カルトに増長しながら転落てゆくのが、腐敗した自己愛の成り行きなのです。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と捏造の詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想と教祖願望を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。人間らしい思慮と情感があれば、楽山が百害あって一利なしだと分かるでしょう。
 
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリスト性からなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という妄想的な精神病質の典型です。楽山の口には、真実も、真実への思考も、皆無であります。
 
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
宗教と信仰は、物語ではありません。現実の生き甲斐そして死活問題として、キリストの命の犠牲によって伝えられている問いかけであります。人間にとって、結論は出ていませんが、救いと平安と忍耐力が必要になってくることが、楽山のような反キリストによって明らかになっているのです。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味の空想で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できていません。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実の命に必要なのです。
 
楽山のような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの顔であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん悪質です。楽山こそがホラーとして存在しています。
 
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
楽山の話は、何も理解しておらず、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害というのも、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
   仏様の気持ちが分からない?親戚に笑われた話
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  私の批判記事「心の理論」
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。楽山は、病質のために、誤信念に気づかないままになっているのでしょう。楽山は、この話を、心霊の話と受け取ってしまうほど、未熟な無理解なのです。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に訂正不能に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの人間の心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
カルトは、思い込みによって超常を決めつけ、人間離れして化け物になってゆきます。
 
信仰は、神を恐れ、超常については神に任せ、人間性に適う心を弁えてゆくことです。
 
 
こわい 怖い 誘導

こわい 怖い 誘導
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年10月05日、再録+加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
  朝までの群れ

懸濁液のコロニーから
生えてくる社会ひとつひとつは
整然として燃焼を収めてゆく
 
炉に投げ込まれる人の形の
氷の造形も黄昏て
 
その節々に時を刻み
離れ離れの役者の帝国に
歌姫を連れてきて笑わせる
 
けばけばしい提灯の夜
イオンの息子たちは集まって
はみ出したやつが道になる
 
放り込むのか夜明けの虫
安いライターを燃やすのか
 
そこここに蝉の亡霊が鳴き
病人のベッドを濡らし
小火(ぼや)に逃げ遅れて肉片は踊り
間違って太陽がひょっこり顔を出す
 
危ないぞパイプと鎖
すでに火だるまのバクテリア
ブローバックの煙
路上に転がる金属音
 
連続した紙幣と貨幣
たちまち飛び散って
レスキューの箱に収まりきれず
遠くの信号が点滅して
踏切で眠りにつく子守歌
細く丸く輪になって焼いて・・・
 
朝の短い把手(ノブ)を擦り抜けて
割れたフラスコを絡ませた頭の
ありふれた生前の手によって
寝起きの試験管から
コロニーはシャーレに移される
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 
takaさんがリツイート
(引用元は省略)
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
 」
 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、人が人に保証すれば無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの助言や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からないと言い、分からない箱に入れましょう。
 
この引用をしている taka、恐らく、実は、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書)
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、丁寧で中立を装いますが、実際は、悪意と敵意の人です。そのベースは、小学生にも満たない未熟で幼稚で捻じ曲がった偏見です。しかも、それで視野が広いように見せかけます。楽山から受け取れる良いものは何もありません。混乱と疲労と人格破壊をもたらすので、決して近づかないでください。
 
 
 
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  楽山の実現したいこと2
 
 2021年05月15日
 幸福実現党の移民政策(2)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、秘密モードにすると言っていましたが、今度は、ツイッターの画像を引用して、幸福実現党を批判しているつもりです。もっともらしく見せるボンヤリ言語と、弱いんです芝居のトホホ言語が、詭弁屋の楽山の、唯一の武器なのです。
 
そして、その正体は、自身を省みずに、人を責めて笑う楽山です。幸福の科学を批判しながら、人を惑わせ、不幸に陥れるような詭弁と嘘を発信してきたのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の、楽山その人であります。
 
自身が、カルト的霊能者気取りでありながら、アンチというカルト批判者を装い、上から見下ろして、他者を云々してきたのです。いったい、どういう立場で、自身の罪悪・無反省・無責任を棚に上げて、批判者を気取っていられるのでしょう。
 
 
*移民一億人と打ち上げたのは事実
及川幸久氏が、移民一億人についてツイートしていた。
幸福実現党は立党時には、移民一億人を目標としていたが、その後は取り下げたとのことである。
20210515 今移民1億人も入れたら日本でなくなる
https://twitter.com/oikawa_yukihisa/status/1392852601247436802?s=20
 
空想的で荒唐無稽な移民政策だと思いますが、取り下げたのだそうです。楽山は、好きなように自己中心の自己愛から、得々として、反キリスト、神否定、右翼礼賛、霊能の自覚などを、思想家気取りで、語ってきました。取り下げることもしていません。言ったら、言いっぱなしです。
 
 
*素朴な疑問
移民一億人というのは、政治の素人がみても暴論、放言でしかないことは分かるだろうに、どうして党の数値目標とされたのだろうか。
言い出しっぺは誰? どうして誰も反対しなかったのか? もしかしたら党内の最高権威者が言い出したことなので誰も反対できなかった? どうなんだろう?
 
楽山は、問題視し詮索し追及したいようです。しかし、楽山自身の発言についてだけは、何の問題意識も持っておらず、修正もしないのです。それで、また言ってくる病質の厚顔無恥であります。自分のことを何も分かろうとせず、何も言えないから、人のことばかり言うのでしょう。
 
 
>*対照的 
ところで、幸福実現党が移民一億人を政策として掲げていたことについて、及川幸久氏は立党時にはそのようなこともあったとしているが、西野あきら氏はそのようなことはなかったとしていた。アンチの印象操作、嘘、捏造だとでもいいたげである。ここは正反対になっているのは面白い。
20210515 「移民で一億人」という印象づけをしたいのでしょう
 
他者の意見が「正反対になっているのは面白い」・・真実に関することで揶揄して面白がるのは、ナルシストそしてサディストの、楽山の特徴です。一人前の正常人のつもりで書いていますが、病質に侵されて訂正不能になっているのが自己愛性人格障害者なのです。
 
 
ていうか、西野あきら氏は及川幸久氏のツイートをリツイートしているではないか。
20210515 (3)西野あきら氏、一億人移民リツイート
(*赤線は引用者による)
 
若者気取りのボンヤリ言語「ていうか」が出てきました。一切の言論の責任を取らない楽山の言い方、"ていうか"、ゴシップネタの言い方、議論なのか駄弁なのかをぼかす言い方で、自身の嘘と詭弁の事実以外、何も表れていない楽山の落ちてゆく岩盤でしょう。
 
テーマは宗教、つまり、真実の追求という重要な問題の一つなのです。宗教について、何かを語れば、それは、その宗教を信じている人々に対しての発言であり、人間の生き方の問題になり、つまり、冗談半分で書いてはいけないことなのです。
 
「ていうか」だけでなく、今まで目立ってきた、ボンヤリ言語の婉曲、トホホ言語の同情芝居、当てつけ、いちゃもん、根拠のない決めつけ、等々、無責任に書いてくる楽山の軽い姿勢は、既に、あらゆる門前において、アウトなのです。
 
 
自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふりってよく分からん。
 
「自分の発言に間違いがあったことがはっきりしても修正しないで知らんふり」しているのは、楽山です。今までも、自己愛性パーソナリティ障害の証拠を、自ら、みすぼらしさとともに、露呈してきたのです。それだけをしながら、楽山は、余生を送り、そして、人生を終わりへ向かうのでしょうか。
 
楽山は、自分の嘘と詭弁を後ろに隠しながら、他者を批評・批判する病気で、病識のない精神障害で、かつ、体質によるものだから治療法も治療薬もなく、白々しさと、執拗さだけで、人をだまして、ネットに、リアルに?、生きてきて、実際は、真実が、どこにもない嘘吐きなのです。
 
嘘吐きとは、嘘を吐く人ですが、実際は、本当と嘘を混ぜこぜにして、人を、惑わし、だまし、あらぬ方向へ誘導する人、そして、その罪悪を隠す人です。部分的に、もっともだと思っても、決して、相手にしてはいけません。真実と言えるような、まとまりは、どこにもないのです。
 
 
 
  楽山と詩
 
 2021年05月16日
 『詩集 私のパンセ』をチラ見してみた
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
詩を理解できるとは思えない楽山が、ORの詩を笑うという記事です。似たようなカルト精神を持っていて、つまり、楽山は、アンチではなく、人をバカにして、あざ笑うことで、批判したつもりになるだけの安っぽい身の程知らずなのです。教祖願望があると思います。
 
 
書店で、大川隆法の詩集『私のパンセ』をチラ見してみたのだが、人を厳しく裁く父なる神を退けて、限りなく優しい母なる神を賛美していて、あっ!と驚いてしまった。最近、自分も似たような事を考えていたので…。面白い偶然もあったものだ(笑)。
 
「母なる神」を「考えていた」のでしょうか。楽山の教祖願望の傍証となります。しかし、楽山の優しさは、偽物です。基本的に、高みから人をおとしめて笑う姿勢が随所に表れてきたのです。楽山は、意地悪な因業ババア・・のほうが近いです。
 
楽山の思想は、ORに似ているのでしょう。楽山は、批判精神より、はるかに教祖願望のほうが強いということです。だから、批判を書いても、「(笑)」となり、バカにして笑うほうに書いてしまうのです。オレのほうが上だ・・という気持ちが勝ってしまうのです。
 
 
詩集全体をざっと見た感じでは、素朴で、短い詩が多いようだった。その雰囲気を真似て書くと、こんな感じかな。
 
 
どこまでも
どこまでも
広く
透き通った
美しい空
いつか私も
そんな心に
なりたく思う
 
月並みな表現で飾っているだけですが、すごいと思うのは「真似て書」けると思っていること。楽山は、自分が見えないので、今の自分が、どれほど、醜いかを感じないのです。楽山の記事と同様に、真善美の深みに触れることのないキレイごとだけで、正直言って、かなり、寒くて、痒いです。
 
 
自分でいうのもなんだけど、こういうスピリチュアルっぽいノリの文章であれば、いくらでも書けそう(笑)。
 
ここに、楽山の体質が、十分に表れています。「スピリチュアルっぽいノリの文章」・・って、詩でしょうか。楽山は、「いくらでも書けそう(笑)」なのだそうです。こういう侮辱の仕方もあるのでしょうか。楽山が「(笑)」なら、私としては、笑止です。寒気です。
 
楽山は「スピリチュアルっぽいノリの文章」を書けば詩になると思っているのでしょうか。批判のつもりで、他者の高慢をあざ笑うことで、自らの高慢を表してしまっています。あきれた自惚れ屋、のぼせて書いて吐き気と不快だけを与える、それが、楽山です。
 
今回「(笑)」が2つですが、恐らく、楽山は、自分が詩を読めないし書けないものだから、詩をバカにしていると思います。同様に、感受できないものだから、宗教と信仰をバカにしているのです。自分が出来ないことはバカにする・・恐らく、自己愛性人格障害の特徴だろうと思います。
 
私も詩のようなものを書いていますが、私のが優秀ということではなく、私は、現代詩を読んで感動した経験があり、詩を書ける人に尊敬の念をいだくとともに、できることをしているという気持ちだけです。「いくらでも書けそう」などとは、間違っても言えません。
 
恐らく、楽山は、罪悪感と羞恥心がないために、目から火が出るような恥ずかしさを味わったことがないのでしょう。だから、いかに自分が醜いかを感じることが出来ないのです。無恥であることに無知であることが、楽山の非道を加速しています。
 
 
楽山の詩が見たい人は
例えば
 
生きていれば、
いろいろなことがあって、
いろいろな気持ちになるし、
どんな気持ちもそれぞれ尊いけど、
揺れを戻し、整えることも大事。
 
詩ではなく「いろいろ」で済ませて改行した独り言でしょう。「いろいろな気持ち」と書いて、「尊い」と言い、「揺れを戻し、整える」「大事」と説教を書いて・・これは詩でしょうか。よく他者の詩のことを言えると思います。嘘と詭弁でだまして、「いろいろな」悪事を隠してきた楽山です。
 
 
ポエムを吠える

ポエムを吠える
 
 
(2021年)
(2022年05月27日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
幸福実現党の提案する大統領制を、幸福の科学にあてはめれば、
幸福の科学のトップは信者らの選挙で選び、その権限、責任を拡大し、
大川隆法とその一族は違う次元の存在なので、教団運営とは全く関係ないものとする、これが大川家を守ることにもなる、ということか。
信者には噴飯ものだな、これは。
午前7:01 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393688044679491586
 
「大統領制」を「噴飯もの」と言って、また笑っている楽山です。人を笑うことが、楽山の生き甲斐なのでしょう。唯我独尊の楽山に「あてはめれば」、ずっと人間としても、また、最近は、ブログに秘密モードを宣言するほど、不遇と孤立が続いています。
 
霊能者気取りの楽山の望むことは、自分の「権限、責任を拡大し」さらに自分が「違う次元の存在」となり、高く高く舞い上がったつもりの陶酔気分に浸りたいのでしょう。人を笑えば自分が笑われますが、楽山の言は、噴飯ものどころではなく、糞飯もの、いわゆる、クソ食らえのレベルなのです。
 
(ネットより)
ふんぱん‐もの【噴飯物】 の解説
食べかけの飯をこらえきれずに噴き出してしまうほどに、おかしくてたまらない出来事。もの笑いのたねになるような、みっともない事柄。「政治屋が政界浄化を語るなど噴飯物だ」
[補説]文化庁が発表した平成24年度「国語に関する世論調査」では、本来の意味とされる「おかしくてたまらないこと」で使う人が19.7パーセント、本来の意味ではない「腹立たしくて仕方ないこと」で使う人が49.0パーセントという逆転した結果が出ている。
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
信仰継承についての天照大神の霊言では、
天皇は、天照大神の子孫という建前だが、宗教儀式をすることで存続を許されており、それを怠るなら危機的状況に陥ると語られていたかと。
これは万世一系も、天皇の神聖も認めないという意味だと思いますが、及川氏の考えはこれとは違うみたいですね。
午後3:36 · 2021年5月16日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1393817509174808585
 
「天照大神の霊言」というのがあるのでしょうか。一般に認められているのでしょうか。HSの主張でしょうか。本の名前なら、著者の善川三郎は、ORの父親のようです。このように、あちこちに、HS由来のことを当たり前のように引用している楽山です。
 
楽山は、アンチHSでしょうか、違うと思います。楽山の、いつも気持ち悪い「ですね」口調と「みたい」の婉曲は、恐らく、批判に見せかけた刷り込みです。楽山は、HSを批判している自分こそ、教祖に相応しいと思っているのでしょう。卑しい教祖願望です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を見ず、反省せず、学習せず、成長のない者は、他者のことを、あげつらいながら、逆に、自らの出来の悪さを陳列してゆくことになります。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから仕方ない・・ではなく、自分に相応しい時と所とテーマを、弁えない悲劇です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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