ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  退行の繰り言2
 
 神は、悪を容認しているのだろうか?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2020年04月29日
   改めて批判。
 
 
楽山は、今度は、HSだけでなく、キリスト教否定の、キレ気味の記事を2つ書いてきました。意地でしょうか、単純なのでしょうか、それとも、相手にしてほしいのでしょうか。読めば、語調が強くなっただけで、今までと、ほぼ同じ繰り返しです。一つ覚えのようです。
 
楽山は、正義の味方気取りで書いていますが、前に言ったことを強調しているだけです。いつまでも、その疑問の中にずっと棲んでいたいようです。実際は、思い通りにいかない人生を、神のせいにしているだけだと思います。
 
楽山は、信仰を受け取る器が、自己愛過剰の自尊過大によって損なわれているので、信仰のいちばん大切なことが分からないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によって、人間性が破壊されています。しんみりとした高等感情がありません。
 
だから、結局、前後関係お構いなしに何でも利用する飢えたケダモノの根性があらわになっています。そして、ますます、自尊過大に固まってゆくのでしょう。キリスト教と人間、その一番悪い例として、楽山は、反キリストのサイコパスになっています。
 
聖書で言えば、楽山は、キリストを裏切ったユダは後悔したので当てはまらず、強いて言えば、神が供え物を受け取らなかったとき、どうしてですかと嘆くことが出来ず、砕けた魂で訴えるような悲しみをいだけず、怒るだけだったカインに似ています。
 
現代の言葉で言えば、カインは、しんみりした悲しみも罪悪感もいだけないサイコパスの始まりでしょう。その点は、楽山に似ています。しかし、カインは、やけ気味に叫びました。楽山は、ニヤニヤしながら、嘘を吐くのです。
 
 
これは本書に引用されている文章の一部である。「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、悪をゆるす神など必要ないというところまで踏み込んでいるのは随分大胆だと思う。
私は、ある残酷な男が自分の妻を二階から蹴落とし、彼女が気絶してしまうまで蹴りつづけた、という話を聞いた。私は事の怖ろしさを強く感じた。その瞬間、『そんなことを許す神など私には必要がない』という考えが私の心に閃いた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
個人的な好悪で言うならば、自分は相手に対して要不要で判断するのは嫌いである。ただそれでもこの人物の気持ちは理解できなくもない。
 
どうやら、引用元も、楽山も、自分は怠けたまま、どんなときでも、めでたし、めでたし、ということにしてくれる神?でないと承知しないようです。つまり、神がいるなら、100%好都合を与えよ、と言っているのです。「理解できなくもない」・・ボンヤリ言語の曖昧語尾です。
 
神を否定する無神教カルトは、このように、不幸を神のせいにしますが、代わりの幸いを、何も用意していないのです。その無責任は、楽山に酷似しています。責任を負わず、反省もせず、人を憎んで、破壊人格になってしまった自分を、筋違いに、神のせいだと言っているのです。
 
身から出た錆を、金粉に変えてくれる恣意の命が欲しがるのは、いつも赤ちゃんのように乳を吸っていたい我がまま者の夢・幻の揺り籠のお伽噺でしかありません。このような自分勝手な怠け者たちの欲望に、神が反応して恵みを与えるでしょうか、否です。
 
前にも書きましたが、罪は、自由意志を与えられた人が犯すものです。その自由意志を成長させるのが信仰の成長ですが、この楽山と引用元は、育て損なったのを、神のせいにしています。不祥事を神のせいにしておいて、神に文句を言って、通るはずはないのです。
 
既に書いたような幼稚なことをまた繰り返して、いちゃもんによってキリスト教をおとしめてくる楽山です。このような人の言うことを受け取って、自画自賛の繰り返しを受け入れて付き合っていると、人格を破壊されて奴隷になってしまいます。決して近づかないでください。
 
「「神が存在するなら、なぜこの世に悪があるのか?」というのは、よくある議論ではあるが、「悪をゆるす神など必要ない」という引用をして賛同しています。自分信仰の楽山には必要ないのでしょうから、反省せず、悔い改めもせずに、滅びてゆく経過が、まずは、作文に表れています。
 
その悪こそが、楽山が振り撒いているものだということに、まるで、気づかない愚鈍を露わにしている楽山です。いずれ、赦されないときが来るのです。その時に、神は悪を許す神ではなかったと気づくことは期待できないでしょう。その時に、パニクって狂うであろう楽山です。
 
罪は人間が犯すものです。そして、人間は、警察や司法を考え出しました。人類は、少しずつだが、進歩し続けているのです。歴史は、まだ途中なのです。つまり、人間は恐ろしい性質を持っているが、正しさを求めてもいるのです。楽山たちは、文句ばかり言って、利己以外、何も求めていません。
 
そして、悔いることさえしない楽山のような者が、記事を書いて、自分で何かをよくするすべも考えないで、神を否定しながら、自らは卑怯な言論を続けているという現状では、正義の味方気取りの偽善者、つまり、偽善の隠れ悪はなくならないでしょう。
 
「相手に対して要不要で判断するのは嫌い」と言いながら「それでもこの人物の気持ちは理解できなくもない」と肯定している楽山独特の詭弁の卑怯さを覚えてください。これがボンヤリ言語という楽山の無責任言語なのです。このような人物は、宗教にも信仰にも、不要であり、さらに、害であります。
 
神は、楽山のような身勝手に合わせる御方ではありません。楽山が、神の正義を否定するならば、それ以上に、人の正義の欠片もない悪と偽善の楽山自らが裁かれることを否定したいからでしょう。楽山のような者の、正義に見せかけた安穏は、神によって守られることはありません。
 
この世に悪があることで、神に文句言っても、言ってる本人が、悪人であるだけでなく、詐欺師かつ偽善者では、話になりません。楽山は、悪魔性の無神教カルトであります。そこに、のぼせ上がっている楽山は、自らの罪と偽善も、赦されることはありません。
 
 
神は全能であり、何でもできるならば、この世の悪逆非道な行いを止めることもできるのだろう。
 
人間は、神に似せて、自由意志を持って造られた以上、楽山のような怠け者の偽善者を除いて、自分で何とかしようと考えます。そして成長し進歩するのです。
 
何でも、悪があるのは神がいない証拠じゃろ・・と短絡するような、楽山のような者は、では、神を信じないで、あなたはどう解決するのですか?・・という問いには、何も答えを用意していないのです。どこまでも、卑怯卑屈な偽善者は、楽山その人です。
 
そして、自尊を満足させるためだけに、まるで正義の代表であるかのようなふりをして、この記事のようなものを書いて、結果として、誰よりも醜い自分をさらしてしまうのです。人に嘘を吐き、人をだまして、神を呪っている楽山は、自らの存在を自分で否定しているようなものです。
 
まさに、総ての不都合を、人のせいにし、神のせいにしてきた、楽山の、自己愛性人格障害が全開です。楽山は、自らの口から出るクソを、神に投げて、どうするつもりなのでしょう、どうできると言うのでしょう。楽山の愚かさが、体質的なもので、理性も感性も無いことを、自分で証明しているのです。
 
 
でもいつまで待ってもこの世の悪逆非道な行いは無くならない。その兆しもない。
 
悲劇を神のせいにするばかりの楽山のような者が、大口たたきながら、悪行を働いて、そこにいるからでしょう。楽山には、悔い改めの兆しも見えず、ますます、のぼせ上がって、減らず口を叩き続けています。この世の悪逆非道には、大方、楽山のようなサイコパスが、関わっています。
 
 
つまり神はすぐにこれを止めようとは思っていないのだ。そんな神ならいてもいなくても何も変わらないだろうし、「神なんていらない。どーでもいい」という人が出てくるのも仕方がないことではある。
 
楽山にとっては、どうでもいい神?ですが、人間には、求道者には、信仰者には、生きてゆく上で、神が、キリストが、必要なのです。楽山が「どーでもいい」なら、何も言わないことです。楽山こそが、どうでもいい人です。真実の追求は、良心のある人が続けるのです。楽山は、全く不要な害毒です。
 
楽山は、神?をけなしながら、相変わらず、人と神のせい?にしながら、生きてゆけばいいでしょう。しかし、楽山が、必要な知性も感性も自覚も反省力もないのに、同じことを繰り返して、神否定を公の場で煽動することは、結局、楽山自身が責任を負う必然になります。
 
 
ましてや昨今は、いじめっ子だけでなく、それを見て見ぬふりをしている者も、いじめの加害者だという考え方が広まっている。これからしたら、この世の悪を放置している神もまた、加害者であり、批判されてしかるべきだということにもなるだろう。
 
神のことを言う前に、楽山は、誰よりも「いじめの加害者」であり、嘘と詭弁で混乱を招くだけの楽山自身が、批判されてしかるべきなのは、言うまでもありません。自分を正義の位置に置いている楽山の言は、いつも腐敗臭を伴ってきます。こういう男を批判するには、冷静さが必要です。
 
さんざん批判されて何も返せない楽山が、キレて、神なんていらない、ここでは、神を加害者だと、罵詈雑言相当の悪口を連打したところで、何様のつもり?・・と言われ、楽山こそ、おとなしい書き方の裏に、恐ろしい敵意と悪意を込めていることが、バレていると気づかないのです。
 
子供たちの味方をしている正義芝居をして、楽山は、何をしてきたかといえば、偽キリスト者で偽牧師のシャロームの味方をして、アドラー教の自己中の片棒を担いで、気に入らないことは無視しましょう・・なんて、自己中の無神教カルトの手先に過ぎません。
 
楽山自身は何なのか。子供を守る正義を実行したのか、否です。何も出来ないし、そんなこと考えてもいないくせに、自分を棚に上げて、正義ぶって、文句ばかり言って、苦難の世であるからこそ生きるための救いと癒しの伝道に対して、全く邪魔ばかりしている、典型的な偽善者のパターンです。
 
 
こういうことを考えるのは、宗教的には神に対する冒涜であり、悪の中の悪ということにもなるのだろうけれども、悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する限りにおいては、この世に神も仏もあるものかという義憤を堪えるには、相当に信心深く、穏やかな性格に恵まれてでもいなければ無理な話だ。
 
神に対する冒涜、悪の中の悪が、偏向した目で「悲惨残酷に満ちている現実世界を直視する」などと言っています。それが楽しみなのでしょうね。しかし、悲惨残酷なのは、他者と神の悪口ばかり言って進むことだけは怠けている自己満悦の楽山その人であります。
 
「神も仏もあるものか」が義憤だと言っています。義憤は不正に対する正義の怒り。神に対して義憤は成り立ちません。楽山の反キリストらしい決めつけです。義憤だと言った時点で、神の恵みには気づく知性も感性も無いのです。
 
神がいないかのようなこの地上世界、それは、誰もが抱く疑問であって、人間は、そのことを考えながら、真実を求めて、成長しながら懸命に生きてゆくのです。神以外に、自らの不遇の憂さ晴らしの相手がいない男、それが、楽山です。
 
正常な人は、疑問があるからといって、とどまってなどいないのです。不平不満で文句ばかり言うのは、楽山が、そこにあぐらをかいて進まない人だからです。生きることに真剣な人は、まず、立ち直りのヒントを探すでしょう。文句ばかり言ってる楽山には出来ないことです。
 
自分を省みず、無根拠に神を否定し、そのくせ「信心深く、穏やかな性格」などと言って、口調を穏やかにしたつもりのようです。下種というのは、このようにも、卑しい書き方をする、という結論しか出てはきません。浅はかな楽山、これだけバレても、まだ懲りないようです。
 
 
これはいささかいわゆる厨二病的な思考でもあろうが、この神議論、弁神論的な問題が解決されない限りは、今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう。
 
楽山に「愛想を尽かし、見限る人は増えることはあっても減ることはない」でしょう。楽山は、恐らく、中2から、変わっていないのでしょう。典型的な学習・成長不全です。それで、自己陶酔するから、慢性ピエロの人格破壊が起こっているということです。学習がなくても破壊だけは進行します。
 
「今後も神に愛想をつかし、見限る人は増えることはあっても減ることはないだろう」・・まさに、楽山の"呪いの予言"です。自分の機嫌と快楽原則だけで、存在の是非まで決めつけてくる自己愛性人格障害の、人より上に立っているつもりの、インチキ説教者なのです。シャロームと気が合うはずです。
 
 
ちなみに、映画『ひ・き・こ降臨』では主人公がネットで下の画面を見る場面があった。
 
「 神様なんて本当にいるのでしょうか?
 いるとしたら、
 どうしてこれだけの理不尽が
 世の中で許されているのでしょうか 」
これは神について考えるとき、どうしても避けて通れぬ論点なのだろうと思う。
 
楽山は、神義論を避けては通れぬと言って、神を信じないのは楽山の勝手だとしても、読者にまで、楽山のような、破壊につながる停滞を勧めているから、批判することになります。成長する人は、あまりに遠くに行って、取り残された格好の楽山の、実に、自己正当化らしい愚痴であります。
 
楽山は、自分の遅れた分を取り返せないので、神を否定して、八つ当たりしているだけです。できるだけ多くの人を巻き添えにして、いい気になりたいのでしょう。不遇と不幸を神のせいにするために、無神教カルトに縋りつくのでしょう。もう、そこには、まともな人間は、誰もいないということです。
 
悲劇の映画の心情の告白を書いて、論点と言っています。楽山は、いちばん大事な共感ができていません。不平不満にキレているだけで、悲しみが、どこにも表れていないのです。これは、サイコパスの特徴です。いちゃもんしか言えないことこそ、悲劇なのです。
 
この映画は見たことはありませんが、この台詞を言った役の中の登場人物は、楽山みたいに、文句ばかり言って神を否定する人になったのでしょうか。それでは、映画のストーリーが成り立たないと思いますが。楽山は、また、都合のよいところだけ書いて独りで満悦しているのではないでしょうか。
 
だましてでも味方を増やしたいだけの下種というのは、こういう台詞までも、自分に近いと判断して、前後関係もお構いなく利用して、自分を高めてきます。引っかからないでください。ずっと、楽山の安いペテンなのです。
 
楽山は、中二病だけではなく、言葉だけ学者を気取って、実際は発達が止まったままの自己愛性人格障害からの退行だと思います。神義論が、人によって解決されることは、地上ではないのです。神を断定することは、信仰上、控えます。神を信仰する根拠は、楽山が言っていることとは、全く別のことです。
 
 
 
 宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)2020年04月29日
 
 
抜粋です。HSについての部分は省略します。
 
 
これは本書に引用されている手記の一節だけれども、自分もこれと同じとは言わないまでも、似た経験はある。
十六歳のとき、私は教会の会員になり、私が神を愛するかどうかを質ねられた。私は型のごとく、期待どおりに、『はい』と答えた。しかし、たちまち閃くように、私の心のなかでなにものかが『いや、お前は神を愛していない』と言った。私は自分の虚偽と、神を愛さない自分の邪悪さとに対して、恥じらいと悔いの念に長いあいだ悩まされた。この恥じらいと悔いには、復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない、という恐怖が混じっていた。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.268)
 」
 
ここを引用するのは、楽山が「復讐の神がいて怖ろしい方法で私を罰するかもしれない」という恐怖を煽りたいためとしか考えられません。それにしても、楽山の神?は、救いはしないが、復讐はする、という神?のようです。そういう神?、私は知りません。何とでも尾ひれを付けてくる楽山です。
 
 
思うに、信仰というものは、大して信じてなければなんとでも言えるけれども、本気で信じていれば信じているほど「信じます!」という信仰告白は難しくなるものなのだろう。そういえば以前、匿名掲示板において、とあるクリスチャンと議論したときに、「洗礼を受けたということは、いざという時には殉教も覚悟しているということですか」と問いかけたら、「そうあるべきだろうけれども…」とはっきりしない答えが返ってきて、それを聞いた自分は、この人は本当に信じているのだなあと思ったものだったが、HS信者が命懸けだとか不惜身命だと息巻いているのを見ても、この人は全然本気じゃないんだなとしか感じないのもそういうことなのだろう。
 
「「信じます!」という信仰告白」は、ふつう、しないです。信仰は、気合いではありません。心の静けさから信仰告白は始まります。楽山は、何も知らないのです。神への恐れを知れば、不正直に豪語することを恐れるようになります。これは、信仰の、一つの成長なのです。
 
この記事のタイトルは誤解を招きます。信じるということが楽山には理解できないのです。あるいは意図的でしょうか。「宗教を信じれば信じるほど、信仰告白は難しくなる?」のではなく、神への恐れを知る者となって豪語を避けるのは、信仰の成長なのです。つまり、それこそが、信仰告白になります。
 
 
結局、人は本気であればあるほど責任について考えるものであるし、そうであれば当然のように口は重くなり、軽はずみなことは言えなくなるものなのだ。もっとも世の中にはいろいろな人がいるわけだから、すべてがこの通りというわけでもあるまいが、少なくとも自分についてはそんな風にできているのは確かではある。
 
発言の責任能力は、キリスト者の場合、神を恐れるがゆえに、神の前において、正直であるべき、嘘は吐けない、飾ってはいけない、大口は叩けない、という自覚から、成長してゆくでしょう。信仰者は、世辞と嘘と詭弁の楽山とは、全く違う世界に生きてゆくのです。
 
楽山は、地上で解決しない疑問によって、神を否定して、そこから全く成長が見られないので、発言についても、言い放って終わり、という、シャロームと同じで、責任感は皆無です。耳ある者ではないから、聞かないで平気なのです。楽山は、世辞と嘘と詭弁だけを覚えて身に着けてきたのです。
 
楽山は、霊が分かるっぽい子供の頃(?)のまま、「心の理論」での酷い曲解、奇跡についての循環論法に気づかない、など、めちゃくちゃなことを好き放題に言って、訂正しません。そして、この3年余り、全く成長が見られません。ふつう、少しずつでも、学習してゆくものですが、楽山は違います。
 
あわせて「軽はずみなことは言えなくなる」「自分についてはそんな風にできているのは確か」・・これこそが、軽はずみな発言であり、言葉を真剣に考えていない証拠で、さらに、これは自慢になりますから、のぼせ頭で、実際、口に締まりがないということです。楽山の言は、軽はずみで出来ています。
 
今までも、楽山は、思いつきで発言し、詭弁で正当化して、それを訂正せず、今また、自慢しているわけです。反キリストは、自分しか頼るものがないので、自分の悪を、いちいち、正当化して、自慢に変えてゆく宿命になります。ゆえに、次第に、くずれが明らかになってゆくのです。
 
 
神によって、人は何を知るのでしょう。神を知って賢くなるのではありません。神の関係において、人は人を知るのです。よって、人としての身の程を弁えるのです。人間に共感するキリストに、人間が共感することこそ信仰です。その感性が皆無で、嘘と詭弁で嫌がらせをしてくるのが、楽山です。
 
 
独り繰り言

独り繰り言
 
 
(2020年04月30日)
(2022年05月10日、再録+加筆)
 
 
 
  不眠と退行
 
もう遅いから
眠ろうとするけれど
眠りに入ろうとしているのか
黄泉に入ろうとしているのか
 
後頭部に住みついている
モヤモヤとしたしこり
ときに硬くなり激しく緊張して
沸き上がってくる怒りのようなものが
その理不尽を問うては責め続ける
顔と盲目と死を含んで
叫び声を誰にも聞かせない
 
お母さん
僕のお母さん
心配しないで
あなたは何もわかっていないこと
よくわかっているから
僕が相続したと思っている
泣き虫と笑い虫をありがとう
乳が欲しい
吐き気がする
乳が欲しい
もう遅いから
 
お父さん
僕のお父さん
なぜ戦争で死ななかったんだ
なぜあなたの息子は病気なんだ
見えないルールを作って
自分を厳しく律してきたお父さん
くわっと怒って自分で苦しんでいた
お中元もお歳暮も受け取らなかった
それが立派だったお父さん
なぜ今になって
長生きして欲しいのに耳が遠いんだ
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中
 
無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
  退行
 
行き詰まったときには
壊してしまうこともあるが
退行することも多い
子供になる
無精髭を生やした子供
おぞましや
そのとき何処にいる
母の胎内か
揺りかごの中か
宇宙へ連なる
浮遊か
意外と墓場にいたりもする
杖をついて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
繰り言のように、反キリスト、右翼思想礼賛、ホラーと霊の話、自己正当化、などを書き続ける楽山です。結果は、無反省、無責任、無神経、訂正不能、読書障害、自己愛妄想、ネトウヨ、本の悪用、根拠なき決めつけ・・などが表れてきただけです。楽山は、あらゆる良心による人格成長の阻害因子です。
 
 
 
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  煽動者楽山
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
 2021年09月12日 楽山日記(LD)
 
 
無神論者をべた褒めする醜い楽山の記事です。大袈裟に賛同するだけで、何の洞察力も直観力も理路もない楽山の稚拙な筆致を見てほしいと思います。
 
*ドーキンスの名言
「リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。
*超越者としての神
もし神が存在したとしても、それはどんな宗教のどんな神学者が提唱してきたどんなものよりも、はるかに巨大で、はるかに理解しがたい存在だろう。
 」
これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。
 
神の不可知と不思議は、当たり前のことです。何人も、神をこの世の事物のように対象には出来ません。人間に、さらに、楽山ごときに、分かる存在ではないのです。だから信じないのなら、黙っておればよいのに、欲求不満と自尊過大から、文句ばかり言っているのが楽山であります。
 
楽山は、神に会うこともなく、神を感じることもないでしょう。いくら、楽山が、自然の驚異や超常話で、神を語ったことにしようとしても、この2年半、全く、罪を認めず、敬虔も皆無なのは、神を知るための感受性がないということだから、何を言っても無駄なのです。
 
楽山には、宗教など語らず、それよりも、小学校の道徳を身に着けてほしいです。そこが、無反省・無責任のために出来ていないから、今も、厚かましく口出しをするわけでしょう。楽山は、書くたびに外れ、書くたびに醜く、書くたびに知能が低下してゆくようです。
 
*旧約の神
『旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
 」
自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。
 
聖書の物語を、神のせいにばかりする人もいるんですね。実際は、歴史の悲劇も、昔の物語も、皆、人のわざを見たからこそ書かれているのです。これを、不愉快だというのは、自分の不完全さも罪も欠点も、何も見ないで、他者を責めるような人物だと思います。
 
ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。
 
「ゆるし続けて」「慈悲深さに涙がこぼれる」・・これは、楽山の自己正当化の嘘だと思います。楽山の涙を信用してはいけません。もはや、楽山が書いても、あざ笑いの履歴から、全く信用できなくなってしまっているところの、感動とか涙とかいう大根役者の大袈裟なセリフなのです。
 
*神様いろいろ
ありえそうにない話ではあるが、もし仮に死後に神に会ったとしら、最初に私が尋ねるのは、そうだね、「あなたはどの神さんですか?」ということだろうね
 」
これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。
 
神を自称する人と、神は違います。楽山のように神を笑う人と、信仰者も違います。楽山が、いくら石を投げても、当たるのは、楽山が妄想している偽物の紙細工だけであります。神を、十把一絡げにして遊んでいる楽山は、やがて、紙屑になるだけだからです。
 
楽山は、その思念の中で、自分独りで、おしくらまんじゅうをしているのです。それで、神がどうのというのだから、全く話になりません。神の大安売りをしている楽山には、決して、関わらないでください。楽山というペテン師の安物の伝道者気取りの被害に遭うだけでしょう。
 
*個人的な体験による神の存在証明
個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、最も説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、最も説得力のないものである
 」
かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。
 
心理学は、基本的に、神については語らない、そして、語れないと思います。全く分野の違うところから、神について語る者を信用してはいけないです。心理学の心理は、あくまで、人間の心理であります。まさか、心理と真理をごっちゃにしようというような安い詭弁ではないでしょうね。
 
個人の人生の必要と、個人の妄想的な思い込みを、ごっちゃにしている楽山の詭弁です。必要な人は、神がいかに不可知でも、神を信じ仰ぐしかありません。そういう信仰者を、根こそぎ殺すようなことを言うのが、楽山であり、この者からは、何の助言も考察も真実も生まれることはありません。
 
人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。
 
人の記憶が書き換えられることがあっても、楽山の妄想は病理なので消えることがありません。これからも糞尿のように気色の悪い妄想的断定をしてくるでしょう。事実の意味付け、宗教的喜悦、自我の強固さ、無自覚さ、などは、皆、楽山において、訂正不能に強烈です。
 
*おまけ
「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。
【無神論】我々は、かつて人類が信じてきたほとんどの神々について無神論者である。一部の人間はその信仰しない神が一つ多いだけだ―リチャード・ドーキンス
 」
これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。
 
どの神も信仰する宗教はありません。ここでは、神という名で、みんないっしょや・・とばかり、同質であるかのように扱っていることが、悪意ある詭弁であり、全く理路の欠片もなく、人間としての分別もない楽山の高い犯罪性の証拠となっています。
 
唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。
 
唯一神という言葉を書いておきながら、楽山は、「その他の神々」と言って、無理解を明らかにしています。万事こういう感じです。これで、キリスト教についてクレームを書いてくる身の程知らずなのです。楽山は、個人の信仰という視点が全くなくて、普通名詞で神を扱っているのです。
 
普通名詞で語るなら、楽山が、神と言うとき、それは、神ではないということです。神について、楽山は、何も語っていないということです。それを混乱させるのが楽山の悪だくみです。楽山は、ずっと、書くたびに嘘吐きなのだから、永久に物を言わなくなってほしいと思います。
 
神を必要としないなら、信じる必要もありません。ゆえに、その人は、信仰の世界を知りません。だから、必要としない存在について、知りもしないのに、即ち感受も理解もしていないのに、とやかく語ろうとするのは、自己顕示欲以外の何ものでもないのです。
 
それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。
 
私には、酒でも飲んでいるのか、あざ笑っている悪魔のような顔にも見えてきます。楽山は、同じように笑っても、ぼんやりしているだけのような気がします。自分の顔を持たず、何も書けないものだから、また、他者の口を利用しているのが、卑怯で腰抜けの楽山です。
 
楽山は、自己愛性人格障害という病質によって、心の共感性がないのだと思います。だから、ホラーや超常などの話をたくさん書いて代償しているつもりですが、信仰は、心に受け取る賜物ですから、いくら書いても的が外れてしまうのは当然と言えるでしょう。
 
楽山には、そういう不全の自覚がなく、自己顕示欲だけがあるために、鼻高に書けば書くほど、顎が外れ、デタラメとなり、インチキとなり、害毒となり、迷惑となり、真実をけがすことになります。即ち、様になっていないのに、分かったふりをする、まさに、貧相な裸の王様なのです。
 
 
書けない顎

書けない顎
 
 
(2021年09月13日)
 
 
 
キーワード:卑怯
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗に濡れている
 
 
  遠ざかるもの
 
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
危うきものよ
あるいは君子でござるよ
君子が近寄らないのを
引き寄せようと焦ってはいないか
自業自得の危うさを
誰かの所為(せい)にしてはいないか
あるいは流れ
避けられぬ移ろいでござるよ
寒い朝と夜に震える間も
危うきものよ
森も山もこれから
枯れて華やかに色づくというに
一枚の落ち葉のゆえに
卑怯にも
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
近づくものから逃げようとしてはいないか
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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  楽山のおぞましさ
 
 
 2021年06月05日
 怒れる神のおぞましさ(『聖なるもの』オットー著)
 を批判します。
 
 
どこまでも幼稚なことを言ってくる楽山です。理屈にも理路にも論理にもなっていません。怠慢なのに加えて、心に共感するところがないために、聖書の文脈の流れを読み取ることが、全く理解できていないからです。こういう人が、見当外れの背伸びをしているのは、甚だ迷惑です。
 
*おぞましく感じられること
『聖なるもの』に神義論および自由に関わる箇所があったのでメモしておきたい。
いかにも非合理的、いやそれどころかおぞましくさえ感じられるのは、怒れる神が罪を罰する手段として罪を犯すにまかせるという発想である。
(『聖なるもの』オットー著、久松英二訳、岩波書店、2010年、p.184)
この絶対存在者だけが現実にあり、すべての被造的存在は、たんに絶対存在者の作用――絶対存在者が被造物を存在せしめる――もしくは仮象にすぎない。被造物が自分独自のものだと思いこんでいるその働きや意思も、神の意志の通過点にすぎない。
(同上、p.193)
 」
人が罪を犯すのを神が放置した例として、著者は次の例を挙げている。
そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。
(ロマ 1:24)
神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。
(ロマ 1:26)
彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。
(ロマ 1:28)
 」
神は絶対、全能だとすれば、神が容認しない限りは人は罪も犯せないし、人が自分は自由のつもりでも結局は神の手のひらの上からは出られないということになるのは当然ではある。
 
聖句は、いずれも、神がどうしたかについて書いてあります。楽山のように、悪意を反省しない者には救いはないということです。救いのない者は好きなようにして、滅びを選ぶわけです。楽山は、理解力がないから、救うべきを見放して、神が悪い方へ向かせたみたいな言い方をしています。
 
自らの罪と偽善も、神のせいにしている楽山です。かといって、救われる民になるための努力など、一切せず、神に文句ばかり言う楽山です。このような欲望だけのものを救う神はどこにもいません。つまり、悔い改めない悪は、放っておいて滅びるままにするということです。
 
上の聖句の3個所とも、放っておくと、不潔なことをする、情欲に走る、無価値な思いに走る、ということで、それを、神は、見抜いているゆえに、神が直接に滅ぼすのではなく、邪悪な彼らの恣意に任せているわけです。楽山は、聖書の文脈を全く理解しない方向に向かっています。
 
今、それが、表れているのです。楽山は、聖書解釈もお構いなく、言葉面の奴隷となって、通らない屁理屈をこねて、悔い改めない悪い奴をも救う神でないと承知しないようです。救いのバーゲンセールでも待っているのでしょうか。
 
楽山に似ている横暴で傲慢な者たちを救うような、安売りの神はいません。信仰者は分かっています。一般の人も、ここを誤解することはないでしょう。しかし、楽山は、不正も卑怯も恥も悪も醜さも、お構いなしに、書いて来て、恥を知らない、という、独り有頂天の病質者なのです。
 
神が容認した、あるいは、しなかった、ということを、楽山は分かるのでしょうか。おかしなことを言っています。神が、いちいち、それはいい、それはよくないよ、と教えてくれるとでも言うのでしょうか。信仰など持ちえない無反省が、神を云々すると、こういう有り様になるのです。
 
信仰者は、実践としては、信仰を学んでいる者として、学んできた信仰の良心に従って生きるわけです。楽山には、良心がないので、またしても、神と会って、取引がおかしいかのような書き方をしています。楽山のもたらす害は、このように、空疎なのに、執拗だから凶悪だということです。
 
楽山の悪意全開です。楽山と交わると、恐らく、何事も、楽山の好みで歪曲され、しまいに失敗すると、他者のせいにし、さらには、神のせいにもするということを、楽山自身が証明しています。傍らに、人も、神も、いない楽山の世界で、図々しく、書くことだけは止めないのです。
 
理屈ではそうなる。でも感情としては心から納得できるということにはならず、もやもやした気分が残るのは辛いところだ。
 
楽山は、理屈も理路も、まるで分かっていません。よって、納得するのは、自己愛の欲望に沿うことだけです。自分が、いかに恥ずかしいことを言っているかが、人格破壊の自己愛性のために、分からないのです。別の聖句のように、楽山は、自分が「何をしているのか、わからずにいる」のです。
 
*異文化
ちなみに自分がこの問題に関心を持ったのは、海外小説を読んでいたときに、「善いことも悪いこともすべては神の意思によるのだ」とか、「このような災厄がおきるにまかせた神が憎い」というような考え方が語られていたことがきっかけである。
 
楽山の大好きな考え方です。善いことに感謝せず、悪いことは、人の代表であるかのように、神のせいにします。そのような者が、いくら、文句を言ったところで、自己愛の欲望に過ぎず、誰にとっても、嘘吐きの末路でしかありません。それこそ、自己愛の「するにまかせられ」ているのです。
 
また「出エジプト記」に次のようなことが記してあったことも理由である。
主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々をさらせなかった。
(出 10:20)
 」
ファラオは自分の判断で行動していたのでなく、神によってイスラエルの人々を苦しめていたということらしい。
 
こういう書き方は、上にも3つあったのと似たようなもので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。そのことを、前にも、後にも、神は、すべて、ご存知であった、という、神の全知全能を表す書き方なのです。楽山の、おぞましさは、全く違う受け取り方をしています。
 
独りだけで頷き、本も聖書も曲解するだけで書いている楽山は、読解力が著しく低下しています。邪推したい者は、邪推するということです。否定の前提しかないからです。しかも、恥ずかしいから人には見せずにおく、という、常識的な、最低限の質の判断すらないのです。
 
こういうことは、信仰の良心があり、聖書の文体の特徴を知っておれば、楽山のような低劣な解釈は出てこないのです。楽山は、怠慢の上に乗って、こともあろうに、神に文句を言っているが、神はもちろん、いかなる人にも、通用しない愚痴のようなものです。
 
聖書理解の入門さえ出来ていない楽山は、神がさせたんじゃ!・・と、神のせいにします。聖書読解の予備知識もなく、怠慢なまま、「ので」の接続詞に、こだわって、神がファラオに作用しイスラエルの人々をて去らせなかった、神のせいじゃ!・・と決めつけます。
 
神はファラオが罪を犯すにまかせたどころではなく、罪を犯すようにしたのだと…? 人が神を信じたり、従順になるのは本人の意志によるとばかり考えていたけれども、どうも聖書では必ずしもそういうわけではないらしい。
 
ここで、楽山の、とても卑怯で卑しい印象操作と誘導です。本人の意志ではなく、神が、悪いことをさせるんじゃ!・・と言いたいところを、言葉だけ、婉曲的に和らげるという、楽山らしい刷り込みです。何も理解できない者が、飲み込めなくて、見苦しい嘔吐を、まき散らしているのです。
 
神と人は双方向であります。おしゃべりトークできるわけではないけれど、祈ることが人から神への唯一の音信とも思います。しかし、横暴を尽くそうとして、双方向を拒む者に、神は、癒しも救いも与えはしません。
 
放っておけば、楽山のような者は、さらに低劣化して、自分で自分の首を絞めてゆくのです。その間に、どれほどの他者を巻き添えにするでしょう。好意的なコメントが寄せられたことがあります。楽山は、人間なんて、ちょろいと思っているようです。近づかないことだけが防衛になります。
 
神は絶対であるとするとこういう考え方に行きつくのだろうけれども、自分にとってはこれはまったく意表を突かれる思考であるし、驚き感動しないわけにはいかない。異文化に共感し同化するのは難しいのではあるが、その発想を学び理解はしたいものだとは思う。
 
楽山の、上記の理路から、"神の絶対" の正しい認識には至りません。楽山は、神の絶対という言葉を、"神は暴君" という意味に受け取らせようとしてきます。知恵の代わりに、詭弁と嘘を習慣づけてきた楽山は、これからも、都合のよい文言を漁って徘徊する野良犬の生業なのでしょう。
 
「驚き感動」「学び理解はしたいものだとは思う」・・嘘です。今まで約2年間、何も学ぼうとしてこなかった訂正不能の楽山です。恐らく、少年の頃から、そうなのでしょう。何かを、真っ当に学ぶことはないだろうと思います。今の自分の状況さえ、把握できないでいるからです。
 
 
おぞましい

おぞましい
 
 
(2021年06月06日)
 
 
 
  今日の穴
 
今日の野原には
幾つもの穴が空いていて
何かのバイパスのようでもあるが
 
広くて滑りやすい入口からは
思いのほか真っ直ぐで
 
公園で砂を崩す子供が
ほつれを千切った縫い目の糸を追いかけて
 
青年の初めて着た背広姿が
いつも歩く散歩道の一歩一歩
 
死を弄(もてあそ)べる老人が
落ちたら戻れそうにないのに
なぜか幾度も幾度も滑り込んでゆく
 
さらに滑り込んだ先が
儀式の形骸であるのか
冒険であるのかさえ垣間見る前に
もう明日の人になってしまって
 
深遠に立つことも沈むことも出来ないまま
仕方なく虚無が生まれては打ち消される
 
 
(90年代か。一部修正)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
ざっくり言えば、そうなると思います。
「何も考えず判断せず、黙ってついてきてください」
「私の説いた教えによって考え判断し、ついてきてください」
考えても考えなくても、判断してもしなくても、どっちにしろ大川隆法の言葉に従えってことは同じ。
午後7:45 · 2021年6月5日·Twitter Web App
 
「何も考えず」判断するのが楽山です。何も考えた跡が見えないのだから、黙っているべきですが、好きなように、思い付きで、言うだけは言うのです。反省はしないのです。訂正はしないのです。責任は負わないのです。無神経で、心が無いのです。だから、何も理解していないのです。
 
しつこく、信仰について、神について、否定してくるのですが、それに代わるような、救いのための教えのようなもの、糧になるようなもの、ヒントになるようなもの、助けになるようなもの、はっとさせるもの、何も持っていないのです。厚かましさだけで書いて、書くことで満悦するのです。
 
 
 
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  固定観念
 
 私の記事「先入観から固定観念」
 加筆して再録。
 
 
書かれた文字や言葉で平板な宗教概念しか受け取っていないことを指摘しても、宗教や信仰を知っているような固定観念からの見なしを語る癖をやめない楽山です。基本は、無宗教ではなく、反信仰・反キリストだと思います。信仰は自分を空しくすることですが、楽山は、自己中心に、自己の下に、宗教と信仰を見ていることが表れているからです。
 
 
  ふりだしに戻る(抜粋)
  2019-12-30NEW !
 
思想宗教は、青年期以降にいろいろ凝ったり、かぶれたりもしたが、結局はもとの無宗教に戻ってしまった。自分にはやはり特定の思想宗教によって定められた教義や価値観に則って考え、行動することはできない。
 
宗教は信仰のためにありますが、信仰は、教義や価値観に従って考えたり行動したりすることではありません。メニューの中から、気に入った思想内容を選んで信じ込むのが信仰だと思い込んでいて、いつも、自己中心の思想からしか見ない楽山のような人には、届くことのないものです。
 
一巡した後で、元に戻ったというのは、そう珍しくはない話だけども、どうも自分もあらゆる面でそうなっているらしい。元に戻ったというところだけをみると、それまでのことは無駄であり、徒労にすぎなかったようにも思えてくるが、ずっと同じところにいたのと、いろいろなところを巡って還ってきたのとでは、大分ちがうだろうし、経験という点では益があったと思いたい。
 
楽山の一巡は、いろいろなところを巡って、自らの固定観念という基準で、気に入った商品はありませんでした、というような受け取り方ですから、信仰とは、かけ離れた物見遊山の散歩をしてきたに過ぎないので、益はないと思います。
 
楽山は、信仰とは関係のない所を、堂々巡りしているだけなのです。そのような態度では、救いも恵みも気づくことはないのです。それに、まるで気づかずに、我執によって、ペンを控えることをしないのが、楽山の高慢の表れです。そういう人の心には信仰は生まれません。
 
 
  罪の意識を利用して、人を操る?
  2019-12-30NEW !
 
加藤諦三さんの本はあんまり読んだことはないが、ツイッターに流れてくる言葉を読んでると、なるほどと思えるものは多い。たとえば、これとか。
(加藤諦三bot @心理学@katotaizobot )
相手の言うことに逆らったり、抵抗したり、断ったりすると、こちらが罪の意識をもってしまう時には、相手は要注意人物である。多くの人は罪の意識から相手の言いなりになる。そこが相手の付け目なのである。
2019年12月28日 04:34
 
キリスト信仰では、罪の意識は、神に対して持つものです。楽山のような、人をだます詭弁屋に、罪の意識を持ってしまうと、隷属しかなくなります。
 
こういうことは考えたことはなかったけど、過去を振り返ってみれば、「これを断ったら可哀想かな。冷たすぎるかな…」とか、「前にも断ってるし、そう何回も断るなんてできない」なんて考えてしまって、断りたいのに断れないという困った状況になったことはあった。
上のツイートのような見方を知ってみると、それこそが相手の狙いだったのだろうか。考えてみれば、そういう時の相手はやっかいな人が多かった。申し訳ないけどできないと断ると、怒って噛みついてきたりとか…。
 
「冷たすぎるかな…」・・「かな」ではなく、楽山は、共感からの思いやりのない冷たい人だと思います。それをかくすために、「かな」とか「断るなんてできない」と書いて、思いやりのふりをして、そのあと「やっかいな人」と書き、相手を「怒って噛みついてきたりとか」などと、結局、否定しています。・・この書き方で、楽山は、やわらげたつもりなのです。
 
宗教を、ホラー映画の超常や、世辞や社交の関係でしか考えない楽山です。真実の追求という大きなテーマにおいては、しっかり受け取り、しっかり返すことだけが大事になりますが、楽山は、趣味や道楽としてしか見ていないのです。
 
楽山は、人を思いやったりすることができる人ではありません。約2年間の言説に見られたのは、どこまでも自分基準で物事を考える狭量だけを感じます。「可哀想かな」「何回も断るなんてできない」なんて、真っ赤な嘘の芝居でしょう。「断りたいのに断れない」・・冗談じゃない、気に入らないことは、総て無視してしまう人です。悪質なペテンです。
 
この楽山の記事は、自分が無反省・無責任であることを指摘されて、弁明できないために、相手を、いじめっこのような立場に、おとしめて、つまり、上から見下ろして、否定するために書いている詭弁の悪口に過ぎません。
 
なんだか、そういう狙いで圧迫してきていたのだとすると、断ることに引け目を感じていたことがバカみたいだ。よし、今度からは、断る時には余計なことは考えず、きっぱり断ることにしよう。
 
このように、結論は、断ること、無視すること、聞かないこと、否定することに、全く、引け目を感じないことの、自己正当化になっています。こうやって、何か言われると、まわりくどく、相手をおとしめてくるのが、楽山の常道ですから、気をつけてほしいと思います。
 
断るか否かの前に、上に書いたような、思想という品物を選ぶ態度なら、宗教も信仰も語ってほしくないわけです。楽山には、知らない、分からない、という謙虚ということに相応しい自覚が欠けているからです。まさに、無反省の産物です。
 
大きなテーマについて、勝手なことを書いて、責任は負わない、反省はしない、ということでは、いかなる話し合いも交流も成り立ちません。
 
否定を書いて、あとで、肯定のようなことを書き、どちらとも断定していないから責任問題は発生しない、などと言っていたのが、楽山であり、もしそうなら、楽山は、非常識で病的な精神から、病的疲労を与えるだけですから、相手にしてはいけないから批判するしかないのです。
 
信仰・宗教・思想は、思い付きで世間話・辻褄合わせ・噂話・世辞・悪口を語ればいいような、どうでもいいようなテーマではないのです。
 
蛇足ながら、メタリカのドキュメンタリーを見てたら、ジェイムズ・ヘッドフィールドが歌うことをきっぱり拒否する場面があったのだった。自分は喉が痛い、もう限界だ、だからこれ以上歌うことは御免こうむると。
自分はどうも根がどこまでも優柔不断でお人好しにできているようで、取り付く島もないほどきっぱりした拒絶は気が引けるのではあるが、今度からはジェイムズ・ヘッドフィールドになったつもりで、断るべきことは断ることにしたい。
 
まず、ミュージシャンが歌うのをやめることをあげて、反省しないことを、責任を負わないことを、信仰を語りながら信仰を持たないことを、同次元で語ることは出来ません。ひどい詭弁の偽善ということです。楽山は、書けば、的を外してばかりです。
 
楽山は、はっきりした意見を持てない人です。楽山は、決してお人好しではなく、悪意の人です。このように、信仰を、軽く扱って書いて、おとしめて、気持ちよくなりたいだけなのです。
 
 
  宗教の押しつけ
  2019-12-30NEW !
 
・海外「日本人はキリスト教徒的なのに…」 カトリック司教が語る日本での布教の難しさが話題に|パンドラの憂鬱
コメント欄を読むと、宗教の押しつけに対する嫌悪感はすごい。一神教もイメージはよくないようだ。
信者側からすると、私はこれで救われたという思いや、これこそ正しい宗教だという確信が強いほど、布教活動に熱心になるのだろうけど、一般人からすると、熱心に宗教をすすめられるほど、たとえそれが善意によるものであったとしても、押しつけと感じて迷惑するのだろうから、布教活動にまつわる問題はややこしい。
 
「一神教もイメージはよくないようだ」・・これは、明らかに、一神教の悪いイメージを刷り込む印象操作です。楽山が身に着けてきたことは、真実追求への深い思考ではなく、嘘と詭弁だけだということが、明らかになってきた約2年間でした。
 
楽山は、いつものように、反宗教・反信仰の宣伝に専念して印象操作をしています。楽山は、一般人ではなく、宗教と信仰に強い偏見を隠し持っているので、宗教と信仰についても、一般にとっても、有害だと思います。
 
一部の狂信者をもって、信仰全体を否定することはできません。批判には、信仰を、ある程度、人間として常識的に理解しておくことが必要ですが、このように、いつも、楽山は、宗教・信仰に、ケチを付けようと、悪い例だけを漁っているのでしょう。そういう性癖は、つまるところ、何ごとも、楽山の自己愛を満足させるためだけに考えているからでしょう。
 
実際のところは、信仰観は人それぞれであってそれを一つにまとめ上げることは不可能であろうし、もし仮に唯一の正しい信仰があったとしても、人がそこに辿り着くには各人に定められた時があり、その時が来るまでは周囲がいくらやきもきしたところでどうにもならず、その時を早く招き寄せようと焦って働きかけても相手の心を頑なにするばかりでかえってその時を遠のかせることになりがちでもあり、結局は周囲にできることはその時が来るまで見守り続けることくらいしかないのだから仕方がない。
 
信仰観?、楽山の場合、訂正不能の信条ですから、反信仰観であります。しかも、安っぽくて深みのないものです。楽山は、自己満悦感に生きているので、事実と言葉の選択も歪んできます。そのベースから、宗教も信仰も、余計なおもちゃと見なしているだけなのです。
 
一般的に、宗教の強制や強制的態度は硬派カルトの特徴です。真実の宗教と信仰は、強制など出来ないことを本質とします。楽山などの、丁寧語を使う軟派カルトは、自己肯定の妄想的信条を持っており、楽山の文章には、いつも、表れています。そして、婉曲的に、ほのめかして、誘導することを、おもな手段としているようです。
 
アドラー教にならって、自己中を広めている楽山は、カルトの宣教を批判していますが、楽山のやり方は、ボンヤリ言語によって、"一般は・・ですよね的な印象"を植え付けようとしているのでしょう。こういうやり方をしてくるのが、軟派カルトの特徴なのです。
 
高圧ではなく、空約束でもなく、印象を吹き込み、刷り込んでくるのです。この記事も、はっきり言わずに婉曲的な書き方をしています。これは、言論において卑怯なやり口ということになります。
 
楽山に「見守り続ける」などというスタンスはないと思います。書いたように、共感からの思いやりがないからです。楽山が何か書くたびに、楽山の冷酷な恣意から何ごとかを吹き込んでくるわけですから、楽山に見守られることは、人格の隷属と破壊を意味します。
 
こういう考え方は、心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者には受け入れがたいことだろうけど、自分はかつてとある新興宗教に凝り、伝道活動をした経験からすると上のようなパターンは多かったし、
 
「心が沸騰するほど信仰に燃えている熱心な信者」・・こういう大袈裟な書き方は、揶揄でしかありません。対象が見苦しいことを強調する書き方です。
 
このように、楽山が、硬派カルトを批判しながら、自身の軟派カルトの刷り込みをしたり、クリスチャン芝居をしたり、批判されても書こうという執念深さを思うと、楽山の発言は、とんでもない企みを持っている確信犯の企み、あるいは、パーソナリティ障害の不治の症状、と判断せざるを得ないのです。
 
そのせいか宗教とは距離ができた今は、宗教を信じている時に必要なことは、人を裁いたり、善導しようとお節介をすることより、まずは自分を律しつつ、相手を信じて待つことではないかとつくづく思うようになった次第である。ちなみにこれは、宗教の布教活動だけでなく、その反対のカルト信者に対する脱マイコン活動についても言えることだと思う。
 
楽山は、無反省・無責任ですから、他者に対しても、誠意があるような芝居をするだけで、本当の真摯な態度を持ちません。だから、信じて待つ、などということは、最初からできない人です。
 
宗教を信じることが、害であるかのような、ゆえに、脱会を待つのが正しいという誘導をしています。宗教・信仰は、いい加減でよい、という刷り込みをして、無信仰~反信仰を刷り込んでゆくのが楽山ですから、決して信頼せず、相手にせず、楽山の書いたものを読まないのがいいと思います。
 
少なくとも、キリスト信仰においては、神の前の正直さにおいて、いい加減であってはいけないのです。そこを、楽山は、悪い例だけを挙げて、踏みにじっています。
 
自分を律するということが自己愛の強い楽山にはできないのだと思います。そして、硬派の高圧的態度ではなく、遠回しに、自分は一般人ですよ、という立場で、すりこみ、ふきこんで、ほのめかして、マインドコントロールしてゆくのが、軟派カルト楽山の手口のようです。
 
 
  『旧約聖書 詩篇』関根正雄訳、岩波文庫
  2019-12-30NEW !
 
前々から詩篇にひかれつつも、本文だけを読んでいるとなんとなしに自分の理解に自信が持てず心許無い感じがするし、詩篇講義というような本格的な書籍は難しすぎるし、どっからどう読んだらいいのだろうと迷っていたのだが、最近、岩波文庫の『詩篇』を見て、「おぉっ! これはいい!」と思えたのはよかった。
 
表面をなぞってゆくだけで、読んでいないと思います。最初から、先入観・偏見・固定観念だけで、軽く否定してきたのです。
 
詩篇だけでなく、聖書全般に、楽山の感想文は、信頼してはいけないと思います。根拠は、今までの記事に書きましたが、とても何かを虚心に受け取る姿勢ではなく、上から見下ろして品定めをするように批評する立場で、その批評は、あまりにも的を外して、見当違いも甚だしいからです。
 
恐らく、作為であり、自尊過大の評論家気取りの、興味本位に過ぎないので、聖書から何も受け取る気はない、ということでしょう。
 
「おぉっ! これはいい!」・・本当に聖書を読んで感動したときには、このようなことは言わずに、どこが、どう、良かったかを書くのです。人に伝えたいからです。楽山の褒め言葉は、いつも、芝居がかっていて、全く深みがありません。
 
岩波文庫は、自分にとっては若干敷居が高いのではあるが、本書では本文とともに、巻末には一篇につき数行の簡潔な解説があり、なかなかいい感じだ。ようやく自分が求めていた本に出会えた気分。本当はこれも自分には難しすぎるのではあるが、とりあえずこの本を通読してみることにしよう。
本を読むとき…特に宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事だという考え方はあるし、実を言えば自分もかつてはそういう考え方が強かったのだった。とんでもなく傲慢なことだけど、宗教書は霊的直観がなければ分からないし、それに欠ける学者の解説を読んだって仕方がないとさえ思ってた。
 
「宗教書を読むときは、自分の霊感に従って読むのがもっとも大事」・・楽山は、霊感が分かっているつもりなのでしょうか。その楽山の霊感は、楽山が書いてきた記事やコメントのどこにも響いていないし、意義のあることを何も提供していません。
 
霊感に従って読むことを言いながら、「簡潔な解説があり、なかなかいい感じだ」と書いているのは、簡単に決めつけて、霊が分かるっぽい自覚で、否定していいと思っていることを表しているようです。
 
楽山は、霊感というのも言葉だけで、何も持っていないことが、何も表していないことに、逆に表れているのです。とても良い霊に生かされている人ではなく、自我の自己顕示の欲望だけで書いてきたのが楽山です。霊感があるっぽいという思い込みにしがみついているようです。
 
楽山は、前から、霊感?が大好きで、他の人は分からなさすぎるっぽいが、自分は、霊感があるっぽい、仏様の心が分かるっぽい、みたいなことを言ったりしています。楽山には、宗教を、そういう非現実的な霊感っぽいものだという先入観があり、人間として受け取る姿勢が欠けています。
 
前には、奇跡について、とんでもない詭弁を弄していました。
 
恐らく理路も情緒も、シャロームと同様、損なっている人だと思います。
 
今まで見てきた感想として、「っぽい」「ていうか」「かなあ」「かも」「でもまあ」「言えなくもない」などの婉曲表現は、受け狙いで、決めつけをごまかすための、ですよね口調の延長にあって、楽山のボンヤリ言語のひとつで、むず痒くなるような気持ち悪い表現です。
 
でも最近は自分の愚かさに気づき始めたのと、宗教にどっぷりつかるのではなく、やや距離ができてきたせいか、やはり霊感ばかりでなく、その書物の書かれた背景、一般的な解釈などについて専門家の見解を知っておいた方がよいと感じるようになってきた。宗教書に対するこういう向き合い方にはいろいろな意見はあるのだろうけれども、少なくとも今の自分にはこういう立ち位置が自然であり、必要でもあるようだ。
 
「自分の愚かさに気づき始めた」・・楽山に限って、自分の愚かさに気づいてなど、いないと思います。自分がどんなに愚かでも、自分を高めないではおれず、人に、いちゃもんをつけるナルシシストの自己愛・自己中ぶりが続いています。また、嘘を吐いています。
 
また、宗教も信仰も「どっぷりつかる」という本質は持っていません。宗教を嫌悪している者は、物言いも雑で荒くなるということです。
 
楽山は、思い込み信じ込みのカルトと、真実の信仰と、ホラー映画なども、同じレベルで考えているだけですから、何も信仰について分かっておらず、関わってはいけない人です。
 
「背景、一般的な解釈などについて専門家の見解を知っておいた方がよいと感じる」・・楽山を警戒してください。専門家の著書から、読んで都合の良いことだけを選んで書いていると思います。
 
専門家の意見だからと、自分の都合で選択した情報だけを与えている可能性が大です。だから、楽山の勧める本を読む気にはなりません。今までのことから、楽山は誤解と曲解だらけだと思います。
 
楽山の、宗教と信仰に対する作為的な姿勢においては、本についても、選択して記事にすることが可能ですし、上に書いたような、宗教を、おもちゃを見る感覚や、平板で幼稚な固定観念からしか見ないことなど、看過できない問題があります。
 
宗教や信仰について理解していないなら、分かっているふうに記事に書くべきではありません。分かってない自覚がなく、分かってる自尊だけだから、まともに書いているつもりになり、結果として、書いてくるものに深みも努力の跡も見られないのです。これは、宗教と信仰の正常なスタンスの正反対なのです。
 
分かっていないのだから、記事にせずに勉強するべきなのですが、それができないのは、楽山に、別の、執拗な、自己愛、作為、故意、悪意、企みが、訂正不能になっているからだと判断しています。
 
楽山は、思慮のない分だけ固定して訂正不能になり、どこまでも打算と誤算で意志が働いて、お粗末なことばかりを書いてしまうのでしょう。破綻を指摘しても、なお、書き続ける病質が、楽山の不治を加速してきました。
 
楽山の、自慢げに、批評家のように、本を読んだからと、書いてくるのは、いい加減さをごまかすボンヤリ言語とともに、読んで参考になる何ものもなくて、読むことを誰にも勧められない記事だから、批判しているのであり、これからも続けることになるのです。
 
 
固定観念

固定観念
 
 
(2020年01月02日、同日一部修正)
(2021年01月15日、加筆して再録)
(2021年01月16日、一部修正)
 
 
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