ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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  楽山の極悪引用2
 
 2021年07月03日
 『大川総裁の読書力 知的自己実現メソッド』大川隆法著
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
ブログ記事の批判の前に、楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
先日、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、かんたんな感想を書いてみました
顔文字(にやにやした顔)
2021年7月3日
 
揶揄しようという気持ちが顔文字に表れていますが、他者のことを言うより先に、何よりも、楽山自身について、読書力は皆無であることが、今までの記事に表れてきました。自分に都合のよい文言を漁っては、引用して、一切の責任を負わない楽山だということは、何度も書いてきました。
 
楽山には、読解するための理路や、感受するための共感力が、備わっていません。人の読書力を云々する資格は、少なくとも楽山にはないということを申し上げておきます。楽山に反省力がないことが、こういうところにも表れてきます。無反省・無責任では、いかなる言い分も成り立ちません。
 
楽山が、有名人や、学者など、他者を引用して、書いてくるのを、真に受けてはいけません。楽山は、そういう人を、少しも尊敬しておらず、同格みたいな筆致であり、敬意を払ってもいないのです。楽山の引用は、自己愛・自己中からの揶揄のためであり、悪用なのです。
 
 
ここから、ブログ記事の批判に入ります。
 
*印象に残ったところ
ツイッターにて、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、どんなことが書いてあるのかと思いチラ見してみた。印象に残ったのは大体こんなところである。
霊言を再開したのは、元会員のなかに大川隆法は霊能力を失ったという者が出てきたからである
仏教を勉強した結果、高橋信次の仏教論は間違いであること及びそのネタ元もわかった
情報量が増えれば、体系化や見切りができなくなる?
速読できる本とできない本がある。
夏目漱石に霊界知識があれば…云々。
 
「チラ見してみた」と書いているように、楽山には、他者を云々するときの真摯な態度や動機がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、他者は、自分より下で、自分を飾る材料に過ぎません。元信者としての切実な動機など、楽山にはないと思います。
 
なお、楽山は、霊能など微塵も持っていません。何か言えば、破綻し、妄想と詭弁と嘘で逃げるしかなかったからです。それで、苦し紛れに、他者を引用し云々するしかなくなっています。いろいろ引用しても、霊能者気取りの嘘とはこのようなもの・・という例でしょう。
 
 
*思ったこと
以下に、上の論点について感想を書いてみる。
どうやら大川隆法が霊言を再開したのは、「大川隆法は堕ちたので、高級諸神霊からの通信を受けられなくなり、霊言はできなくなった」というレムリアのアマーリエ氏への対抗意識のためだったようだ。
 
楽山らしく、やはり、超常の霊言がらみです。こういうことしか言えないのは、カルトと同じ穴のムジナ、即ち、楽山が、超常霊能者気取りであることを表しています。地道なアンチたちに袋叩きにされても仕方ない楽山です。知らない名前が出てきますが、気にする必要はないでしょう。
 
 
仏教を勉強したことで、高橋信次の仏教論が間違いであること及びそのネタ元がわかったとしているのはおかしい。大川隆法は時々、HSの設定を忘れることがあるが、ここでは自身が仏陀の生まれ変わりという設定を忘れているのではあるまいか。
 
「HSの設定を」忘れずに覚えておいてほしいのでしょうか。楽山は、アンチ気取りですが、今までも、アンチとは思えない超常寄りの発言がありました。恐らく、楽山にとっては、アンチとかも、どうでもいいのでしょう。楽山自身が、人の上に立つ教祖気取りの教え方をしてきたということです。
 
 
情報量が多すぎれば、情報に溺れてしまい、かえって決断ができなくなるという見方もあるが、自分には情報量が多いほど、その構造、本質は明確となり、情報の価値判断も容易になるとする見方の方がリアリティはある。
 
楽山に「情報の価値判断」を任せてはいけません。楽山こそが、嘘と詭弁と誘導と印象操作の発信元です。楽山が絡めば、カルト批判は、自慢話に変わり、真実から遠く離れてゆくでしょう。楽山は、何でも利用するでしょう。人の良心さえも、楽山には、具材なのです。
 
今までの記事から、「情報量」が多くても、楽山には、そして、楽山からは、「その構造、本質」は明確にはなっていません。生まれてくるのは詭弁だらけです。分かるのではなく分かったことにしているだけです。だから楽山の「情報の価値判断」は、デタラメです。
 
 
本には、速読できるものとそうでないものがあるという見解には同意する。本は大別すれば、情報を得るための本と、味わうための本があると思うが、後者は速読向きとはいえないだろう。
 
楽山の、ご自慢の、いい加減な読書観?です。だから、速読したつもりで、その真意を曲解して、自己正当化に当てる・・などということが平気で出来るのです。楽山が、何の情報を得るでしょう。何を味わうつもりでしょう。楽山には、我執の我欲しかないのです。
 
 
夏目漱石はスピリチュアリズムの知識を持った上でそれを捨てていたので、もし霊界知識があれば…云々というのは無意味である。
本書には、他にも論点にできそうな箇所はたくさんあったが、とりあえず今回はこれで一区切りとしたい。
 
楽山は、恐れもなく、夏目漱石のことを、楽山曲解のスピリチュアルとして持ち出すのでしょうか。お仲間だと思いたいのでしょうか。楽山自身も、このように語り継がれるであろうと言いたいのでしょうか。見苦しいピエロは、何も見抜けないのに、論点と言い、分かる超常自慢を捏造しています。
 
 
*おまけ
としつつも、最後に参考として、漱石の言葉を貼っておきたい。
 
つまり、引用だけで、楽山自身は、他に何も言えないということです。能力以上に思い上がった者の、情けない処世が表れています。
 
これは大正四年の畔柳都太郎宛書簡にある言葉である。
私は死なないといふのではありません。誰でも死ぬといふのです。そうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも考へてゐないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石、岩波書店、昭和51年、p.440)
 」
 
楽山は、実は、自分は違うと思っています。でなければ、楽山が、仏様の心が分かるっぽい?という立場にならないからです。スピリチュアル漬けと言ってよいでしょう。漱石は、死後について、楽山の言うようなスピリチュアルについては否定しているように思われます。
 
 
さらに楽山日記の記事から、漱石の死生観がわかる文章をうつすとこういうものもある。
まず意識不明の重体になったときのことについては、こう書いている。
余は余の個性を失った。余の意識を失った。たゞ失つた事丈が明白な許である。どうして幽霊となれやう。
(『漱石全集 第八巻 小品集』「思ひ出す事など」、岩波書店、昭和50年、p.320)
 」
 
丈=だけ、許=ばかり・・と読むのでしょうか。いつものように、楽山は、解説が出来ないものだから、説明も書く気にならないのでしょう。自己中に加えて不精な男です。こういう者がリーダーにでもなったらと考えると背筋が寒くなります。
 
引用からは、漱石は、幽霊を否定しているので、リアリストという感じがします。空想~妄想屋の楽山とは全く違うので、楽山が漱石を読み取っているとは思えません。個性と意識を失ったなどと、なぜ漱石が言えるかが、楽山には、推測できないのです。
 
死について、楽山よりはマシな芝居を、漱石は演じているのでしょう。そうすることで、幽霊じゃないと言いたいのか、幽霊の怖さを退けたいのか、そこは分かりませんが、楽山のように、「死生観が分かる」などと、真に受けることは出来ないと思います。
 
というより、楽山は、引用するだけで、どう評価したかを書いていません。このように、楽山は、大した動機も考えもなく、気安く有名人の言葉面だけをを引用して、悔いることがありません。それで、箔をつけたつもりで、インテリを気取って満悦するのですから、読者には、迷惑でしかないのです。
 
 
スピリチュアルな話にはこうも言う。
假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出來ない。
(同上、p.319)
 」
自分に經驗の出來ない限り、如何な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
(同上、p.320)
 」
私がHS会員だったころは、夏目漱石は菩薩とされていたように思うのだが、HS的には今はどういう評価になっているのだろうか。
 
假定=仮定、然したゞ=しかしただ、・・でしょうか。楽山は、アンチを気取っていますが、実際には、「漱石は菩薩とされていた」など、HSの見なすことに影響されたり、霊言と言ったりして、むしろ、アンチではなく、香具師的なインチキ霊能者ではないかと思うことがしばしばです。
 
(ネットより)
香具師(やし、こうぐし、かうぐし)とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師[1]とも表記する。的屋(てきや)や三寸(さんずん)とも呼ばれる[2]。
 
漱石は、幽霊など超常不思議を夢見ることを、信じたり、賛成したりは、できないと言っています。なのに、楽山は、菩薩云々と書いているだけです。何も読み取っていないから、解説がまるで成り立っていない楽山です。いい加減にしてほしいです。
 
 
混濁 陰気

混濁 陰気
 
 
(2021年)
(2022年07月09日、再録+加筆)
 
 
 
  選択
 
ここに二つのボタンがある
一つは
「読み方が悪い」と言うボタン
もう一つは
「書き方が悪かったのでは」と考えるボタン
もし君が書く人なら
どちらのボタンを先に押す
 
ここに二つの刃物がある
一つは両刃の剣
人を斬るときには自分も斬ることになる
もう一つは片刃の刀
人を斬ることにしか使わない
もし君が斬る腕を持っているなら
どちらを選ぶ
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  うたた寝の先
 
うたた寝の中に
忘れてしまった夢がぎっしり詰まっていて
体が重く感じられ
ふと星がよぎるように
身近な人の訪れさえ
ときに驚きに似て
 
こういう人がいて
どういう関係がある
関りはいつも違う事情にあって
その日その時一回きりであるのに
相対する人は疑うことを知らぬかのよう
そのように思慮はあいまいな現実で
そのくせ指示は明確な夢のよう
そういう混濁した明証性の先に
張られた綱の上を
この日一日と渡っていく
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
現代ビジネス
@gendai_biz
·7月3日
〈私たちは、自分が知らず知らずのうちに持っている思い込みをもとに、それに合う事実を無意識に選択して認知するからです。そして、無意識に選択した事実を頭のなかに取り込んだうえで、「ああやっぱり自分の思っている仮説は正しいんだな」と自分の信念を強化します〉
午前7:14 · 2021年7月3日
 
引用元を批判するつもりはありません。他者の言を悪用する楽山を批判します。
 
楽山は、「知らず知らず」ではなく、「事実を無意識に選択」するのでもなく、故意に事実を選択し曲解して、「選択した事実を頭のなかに取り込ん」で、信念の強化ではなく、偏見と妄想を捏造して、捏造した正義気分に酔い痴れるのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
さっそく、この人は、これまでと同じことを繰り返してます。
ついさっき、私が、この人のツイートの難点を指摘したら、すぐにそのツイートを削除し、逃亡しました。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
 · 21時間
風刺画にノーと言うのは自由でしょうけど、他人の書いた絵を流用するのは著作権侵害の可能性があるでしょう。
また後から、バツ印を加えたなら、他人の創作物を改変したことで、これもダメでしょう。
これらはツイートのスクショよりヤバいです。お気をつけ下さい。
午後11:39 · 2022年7月6日·Twitter Web App
 
楽山は、批判されると、弁明することもなく、完全に無視してきます。卑怯で、罪悪感なき逃亡者です。元々議論など出来る人ではありません。検証可能な理路はなく、言っていることは、当たり前の通念的なことか、偏見か、でなければ、嘘と詭弁です。何も新しいことは言えない人です。
 
「著作権侵害」「創作物を改変」などと言っていますが、通らない理路と学者気取りで、人をだましてきたのが楽山です。読書感想文でも、聖書を読んでも、白々しい褒め言葉か、偏見に満ちた悪口で、深みを汲み取ることが出来ず、それで批判したつもりになるような自己満足疾患です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自他未分化の楽山は、引用と自分の意見の区別がつきません。他者の都合のよい意見を自分の意見のように言っているうちに、自尊が妄想的に増してきたのでしょう。また、一方、だんだん他者か自分か分からなくなる自我同一性障害から、倒錯へ、そして、人格崩壊~破綻に至るかもしれません。
 
 
 
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  楽山ツイッター
 
 
楽山は、最近、人の口を悪用して、目的を果たそうとしてきます。しかし、他者の、どういう内容のツイートを選択するかということにおいて、楽山の意図も悪意も表れてきます。
 
無責任な楽山は、批判する資格がないということを、まるで、気にせず、他人が書いたものだから、ますます責任はないじゃろ・・とでも思っているのでしょうか、否です。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
クリちゃんのバナナ
@blog_sanpole_X
·9時間
そうなんだよね。
そもそも日本人とキリスト教徒やイスラム教徒とでは
「宗教の定義」や「神の概念」が違うんだよね。
言葉の定義をはっきりさせないと議論が成り立たないんだよ。
引用ツイート
Share News Japan
@sharenewsjapan1
 · 15時間
ラトビア出身YouTuber「日本人の多くは無宗教と聞いたけれど…宗教の信仰を必要としないほど、神様の存在が実は身近にあって、それが道徳に繋がっていると思う」 https://sn-jp.com/archives/32003
午後10:13 · 2021年3月5日·Twitter Web App
 
楽山は、どういうつもりで、このツイートを引用するのでしょう。本や、人の口を借りて、引用して、暗示的に、無理解を人のせいにする楽山です。
 
「「宗教の定義」や「神の概念」が違う」・・というより、楽山は、大事なことを何も知らないのに、宗教と神について、偏見だけで、余計なことばかり書いてきました。
 
「日本人とキリスト教徒やイスラム教徒とでは「宗教の定義」や「神の概念」が違う」・・人種や宗教のみならず、個人によって違うと思います。それに、神聖の定義や概念は、定まったものではなく、また、信仰とは違います。
 
概念は、感動や必要がなくても、楽山がそうであるように、うすぼんやりと、大した重みもなくても生まれますが、信仰は、感動があり必要なところにしか生まれません。
 
「言葉の定義をはっきりさせないと議論が成り立たない」・・言葉の定義と言っても、その定義も言葉で表すことになるから、つまるところ、できるだけ多くの視点からの説明をして、特に信仰については、共感を促す努力になります。
 
宗教・信仰は、共感できる人によって、必要とされるものです。
 
楽山のように、共感が成り立たないのに、幼稚な理屈だけで否定したり肯定したりする者は、全く、信仰とは別の空気だけを、空振りし続けているようなものです。
 
楽山は、こちらのことを話にならないと思っているかもしれないが、それは、こちらのセリフです。
 
共感のない楽山とは、宗教も信仰も全く話にならないのだから、楽山は自尊だけで書いて真面目な人々を疲れさせるのはやめるべきです。
 
楽山のように、心の共感が成り立たない者には、宗教も神も、分かるはずはなく、結局、安易な定義と、安い概念にしかならないでしょう。それで、なにか意見を言っているつもりなら、大間違いです。
 
楽山は、議論が成り立たないと言いたいようだが、それは、楽山が無理解だからです。しかも、無反省で、無責任であるために、学習ができないのです。
 
学問という言葉を出すまでもなく、学習というのは、反省し考えることで、努めて成長することです。それが、楽山には見られないのです。学習しない者は、先ず、議論する関係が、成り立ちません。
 
つまり、楽山には、いかなる議論も成り立たないのです。なのに、このツイートによって、議論が成り立たないことを、またしても、一般論をもって、人のせいにしています。
 
楽山は、必要なことを知らないのに、議論したかのような体(てい)を装ってきただけなのです。楽山は、ただのクレーマーに過ぎません。このような図々しく厚かましい者と、話せば分かる、などと思ってはいけません。疲れるだけです。話が平行線になったら身の程を弁えて退却する、という分別が、楽山には無いのです。
 
聖書から、神とキリストは、最も高い存在ですが、同時に、最も身近な存在です。だから、祈りが成立するのです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
ローズマリー
@happysiawase111
·3時間
幸福の科学
教えの矛盾 2
教えでは、人を赦しパンダのような癒しと包容力を持つこと。
実際は、批判をすると「悪魔が憑いた」「阿鼻叫喚地獄に行く」と信者の発想力を統制している。
疑問がでても素直に教団に言えない...言ったら「自分に悪魔が憑いた?」と思わせる教えだ。
午前9:59 · 2021年3月6日·Twitter for Android
 
ツイートしている人を批判する気はありません。
 
見かけでは、インテリ学者のように、丁寧で優しさを装う楽山ですが、中身は、既に、阿鼻叫喚のような楽山です。ひたすら本性を隠して、最近は、人の言葉を引用し悪用しています。
 
「批判をすると「悪魔が憑いた」「阿鼻叫喚地獄に行く」と信者の発想力を統制」・・楽山を批判すると、楽山が、こちらのことを、決めつけている、と言ってくるのに似ています。そして、相変わらず、楽山作の、インチキ宗教のホラーと魔法のような信仰観?の話をしてきたのです。
 
楽山は、自分が言われそうな "決めつけ" という言葉を、こちらに向けてきます。しかし、そのことで、楽山は、何か都合の悪いことを言われたら、同じことを返せばいい、という安易な気持ちで言論しているということがバレてゆく結果になっています。
 
つまり、楽山の主張には、説明も弁明も反論も、用意できていないことが明らかとなっているのです。
 
神が与える信仰の良心に逆らわせるために、いつも、嘘と詭弁とインチキの決めつけを用意して、陰にいて、何の説明も弁明も反論も用意できないので、うす笑いと安易で優しげな誘惑のだまし言葉を用意して、出番を待っている闇の存在、それが、悪魔です。・・誰かに似ているということです。
 
 
人のせいにして雲隠れ

人のせいにして雲隠れ
 
 
(2021年03月07日)
 
 
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