ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:引用と悪用

 
  楽山のダークサイト
 
 三島由紀夫とスウェーデンボルグ
 (『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』)
 2021年05月12日 楽山日記(LD)
 
 
カルトを信じていた人は、脱会しても、霊の話などが、記憶に残ることがあるだろうと思います。楽山が、元々大好きな、超常・魔法・心霊・心霊・霊能者、などの話です。これらは、カルトが、信者を獲得するために、好んで、話題やテーマにするものです。
 
楽山は、子供のときから、"仏様の気持ちが分かるっぽい" そして、霊が分かるっぽいという自覚があるために、結局、こういう霊の話に飛びつくのでしょう。
 
書いて公開すれば批判される、という繰り返しで、楽山が選んだことは、自粛ではなく、反省でもなく、"秘密" であります。体質から逃れられない因業の魔物を持っていることが、公開から、秘密の情報にすることで、むしろ、明らかになっています。
 
楽山に好意的に関わってきた人は、不幸というしかありません。霊能者気取りだが、人の心が、まるで分からないということが、書いてくる文章に表れてきた楽山です。
 
*三島由紀夫とスウェーデンボルグ
『川端康成・三島由紀夫の往復書簡』をつまみ読みしていたら、三島由紀夫がスウェーデンボルグに触れている箇所があったので、メモしておきたい。
十一日は籠をにげだした小鳥のやうに神田の古本屋を歩きまはり、六年来探してゐた、スウエーデンボルグの「天国と地獄」をみつけて有頂天になりました。
(『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』新潮社、1997年、p.42)
 」
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
 今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
(ネットより)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(Emanuel Swedenborg, 1688年1月29日 - 1772年3月29日)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家。スウェーデンボルグ、スエデンボルグとも表記される。生きながら霊界を見て来たと言う霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されている。スヴェーデンボリは貴族に叙された後の名。
・・・
1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版し、出版で得た全報酬は寄付(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、王室の庇護により、回避された。イエス・キリストからの啓示をその僕として書き記す霊覚者への転向はあったものの、その後国会議員にまでなった。
・・・
カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った(『スヴェーデンボリ その生涯と教え』トロブリッジ著より)
 
スウェーデンボルグは、霊について、不思議な能力について、大量に書いた人のようです。霊能者気取りの楽山にとっては、霊だから検証しなくてよく、考えなくて済むような、うってつけのテーマなのでしょう。秘密に教えますよ・・というやり方が、既に、あざといのです。
 
スウェーデンボルグの語る霊とは、聖霊なのでしょうか、悪霊なのでしょうか。楽山と似たような自己愛からの霊能者気取りなのでしょうか。私は、楽山を見てきて、うんざりしているので、興味はないです。
 
類は友を呼ぶ、というところでしょうが、著名人と楽山では、落差が大きく、楽山の語る霊の話も宗教の話も、幼稚だったことを考えると、関わらないほうがよいと思われます。
 
川端康成がスピリチュアリズムに関心を持っており、その影響を受けた作品も書いているという話は聞いてはいたが、三島由紀夫もその方面に興味を持っていたとは不覚ながら知らなかった。もっとも川端康成に話を合わせてそのようなことを書いたのかもしれぬが…。
今度からは三島由紀夫の著作を読むときは、この点に気をつけて読もう。
 
楽山にとって、霊は、疑うこともなく、存在が前提となっているようです。スピリットには、心という意味も含まれていて、スピリチュアリズムと言えば、心霊・霊能・霊魂と言うより、身近に感じられるというところがあります。
 
要するに、無条件で受け入れるしかない超常であり、楽山にとって、考える必要もなく、努力する必要もなく、反省もしないで言って気持ちがよいテーマなのです。
 
キリスト信仰において、霊は、労力の要らない便利ツールではなく、聖霊は、聖三位の一つであり、人間には届かない存在です。悪霊は、悪魔性の活動として、邪悪の代名詞のようなものです。
 
聖書では、病気や災いは悪霊のせいだと見なされ、病人は差別されていました。そこに救いの手を差し伸べたのが、イエス・キリストであります。キリストは、人間的な共感に溢れた御方であります。
 
つまり、問答無用・議論不要の霊に帰するところには、人間の心や共感が無くなり、超常の魔術的な結論だけが意味を持つのでしょう。努力しないで安きに流れてきた楽山には、霊と超常に傾倒する必然があるような気がします。
 
それにしても、また、三島由紀夫や川端康成などの著名人を引き合いに出して、恐らく右翼寄りの思想もあるのでしょう。楽山は、有名人が大好きで、自己満悦のために、書いていいのだろうか?という疑問も遠慮も節操もなく、好きなように利用しています。ずっと、節度なき我欲と我執を表しているのです。
 
*憑依
本書の巻末には、佐伯彰一と川端香男里の対談が収録されているが、そこにはこんな発言があった。
佐伯 四十一年六月号の「文藝」に載った「英靈の聲」は、ふっと何かにとりつかれたように一気に書き上げた、と三島さんご自身の口からうかがったな。その後、美輪明宏に会った時、「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとしたという話を、三島さんは例の誇張したおどけた調子でおっしゃられたことを覚えています。
(同上、p.215)
 」
以前、某匿名掲示板にて、三島由紀夫は「英靈の聲」を書いたときに、226事件の首謀者の霊に憑依された云々という話を読んだことがあったが、その元ネタはこれかもしれぬ。
「英靈の聲」は最恐ホラーよりもさらに怖いと思ってはいたが、やはりいわくつきの作品だったということか。
 
「「三島さん、あなたに霊がついてるよ」って言われてギョッとした」「誇張したおどけた調子で」・・これって、賛同でしょうか。楽山は、「最恐ホラーよりもさらに怖いと」受け取ったようですが、笑い話として書いているという見方はできないのでしょうか。
 
三島由紀夫原作の映画「午後の曳航」のセリフに、「殴られるより悪いことがある」というのがありました。楽山は、まとも芝居で、丁寧語で、婉曲的に、そういう、"殴られるより悪いこと" をしては、人を疲労させ、傷つけて、何とも思わないでいる人です。
 
(以下は、心霊的な話題に踏み込むのでプライベートモードで失敬)
続きを読む
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宗教も信仰も理解できないのに批判だけしてくる楽山は、こういう不思議話を、まるで、吸い取り紙のように、何の疑念もなく無批判に、受け入れるようです。超常オタクで、人間として、いかにあるべきかという問題には、まるで関心を示さない楽山です。
 
"霊的"右翼の秘密結社でも作るつもりなのでしょうか。気の短かそうな、血しぶきの飛びそうな、掟のありそうな世界に、無反省・無責任の楽山が、通用すると思っているのでしょうか。
 
以前から、楽山については、人間としての、思考力、判断力、客観性、および、共感性に、問題を感じていましたが、いよいよ、とても怪しい領域に、本格的に、のめり込んで、誰かに刷り込んでゆくのでしょうか。公開すると叩かれるから、秘密のモードを使って(?)。 
 
結局、ペテンに終始するだけの楽山ブログのサイト、ダークサイトで、暗黒面ダークサイドまで行くかどうかは分かりませんが、もちろん刷り込まれたりしないように、また、とばっちりや巻き添えを食らうことのないように、決して楽山に関わらないでください。
 
 
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(2021年05月14日)
 
 
 
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  悪い例だけ刷り込む2
 
 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。
 
一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
まず、自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、学者気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要です。楽山は、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の反キリストです。
 
宗教を否定し、おとしめる発言を続けながら、楽山自身は、宗教に変わる救いを、何も用意できません。楽山は、自己中なので、人のことなど気にしていないからです。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変形する宗教ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように、「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。そして、その上でサーフィンでもしているかのように、宗教=空想、という妄想を、吹き込んできます。
 
信仰の真実は、何一つ分かっていない楽山が言うような物事の解釈の空想的な意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのが楽山ですが、楽山が、代わりの生きるよすがなど何も提示することはなかったし、これからもないのです。
 
楽山は、自らの不遇と不幸に、人を巻き添えにしたいだけなのです。その結果として、とても冷たい自らの人格を、世辞や、オトボケや、丁寧語で、ごまかすしかないのです。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。
 
しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。実際は、楽山は、楽山の言う超常についても、キリスト教と信仰についても、何も知りません。知らないのに、知ったかぶりをするのが、自己愛性人格障害の症状であります。ゆえに、書くたびに、幼稚な無理解を露呈してきました。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛によって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいという自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようになっています。本業は詐欺師ではないかと思うほど、嘘と詭弁だけが、楽山ブログの大半を占めています。
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。
 
しかし、宗教が悲劇をもたらすのは、楽山の訂正不能の偏見もそうですが、信仰者の場合、信仰が、神への勝手な思いこみの固定観念みたいな持ち物になった場合であり、間違った信仰の場合であります。
 
したがって、楽山が「宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ」と言うのは、無知と無恥のなせるところの、路地裏の濁った水溜まりで跳ねているだけの、仲間外れの瀕死の虫の泣き声に過ぎません。
 
聖三位は、決して、人の持つ観念で扱われる御方ではありません。神を観念として扱う者は、その報いを受けているだけなのです。
 
宗教って人に奉仕するものでしょうか。楽山の的外れです。何らかの生きる力を与えられたから、人は、神を救いと信じるようになるのです。それゆえに奉仕もするでしょう。楽山のような怠け者の人生観には、そういう要素がないのでしょう。だったら黙っておれ、ということです。
 
自分に奉仕する宗教と神なら信じてやろう、という楽山のトンデモ欲望があらわになっています。自己愛性病質の症状ばかりが目立ちます。宗教は、楽山に対してだけは、奉仕どころか、安らぎも癒しも救いも、もたらすことはないでしょう。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵について、また、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい宗教荒らしになってしまったのが楽山であります。
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「熱心信者からは嫌悪されるだろう」と書いている楽山の言う熱心な信仰は、楽山の視野で捏造したものです。このような、程度の低い思い込みで、宗教批判を書けると思っている楽山の重症度が表れているだけなのです。
 
キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
楽山の言こそ、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいのは、すべて、楽山の病的な自惚れが書かせているに過ぎないからです。この楽山の自惚れは、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっている楽山の病気なのです。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって、批判にならない悪口だけを書いて、刹那の自己満悦を得たいだけの自慰行為になっています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習拒否によって知らないままの楽山の、物知り顔の丁寧語を、実際は、無知と無恥からの暗示と刷り込みの言葉を、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
腐ってゆく攻撃性

腐ってゆく攻撃性
 
 
(2020年04月26日、同日一部修正)
 
(2021年05月02日、再録+、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
言葉による表現や主張が成り立たない者は、曖昧な暗示による印象操作に走ります。その意図が見抜かれれば、成り立たないのはいっしょなのですが、病的な自己満足の楽山は、学習と成長がないので、卑怯な書き方をしても、正常で正当だと思い込み続けるのでしょう。自覚も病識もあったものではない精神病理の中に、どっぷり浸かっているのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
wikiによると、幸福実現党の党首は2013年から8年近く変わってないですね。党首選挙をした話も聞かぬ。党総裁にいたっては一時的に空席の時期はあれども、2009年から大川隆法氏が独占している。
幸福実現党が専制、独裁に反対してたとは意外です。
午後8:18 · 2021年4月30日·Twitter Web App
 
人の言うことは聞かない、進歩も成長もないことを繰り返し言ってくる、など、自己中の専制と独裁の妄想的執念で、病的に自分勝手なのは、楽山です。恐らく、体質的で人格的なものだから、生まれ育ってから、変わっていないのでしょう。
 
カルトはいろいろあれど、楽山は、幸福の欠片も、もたらすことのない詭弁屋です。どうか、だまされないように、関わらないように、近づかないように、注意してください。
 
楽山は、反省せず責任を負わない人ですから、人のことをとやかく言う資格はないのです。病気のせいで、それが分からず、今も、自らを省みないまま、書いてきます。
 
楽山の言は、殆ど、独りの部屋で、ぼやいているだけのようなものなのに、それを公開してくるのは、病識がないことに加え、異常に過剰に執拗な自己顕示欲の我執がそうさせるのでしょう。一途に我執だけを信じ込んで、正当化してきた楽山です。
 
楽山の書く文章には、欺瞞の臭みはあっても、個性につながる味がないのです。楽山が、前に言った台詞、"・・ていうか・・"、という無味の曖昧さが繰り返されているだけの文章です。これが、だますために、または、自慢するために、拵え、設えてゆく筆致なのでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田尚樹氏は、かの団体について、宗教ではあっても、カルトではないと考えてるんだな 絵文字(考えている顔)
引用ツイート
百田尚樹
@hyakutanaoki
 · 16時間
「日本第一党」と「幸福実現党」が一議席ずつでも取れば、国会も少しは面白くなるのになあ…
「幸福実現党」は宗教やからと言う人がいるが、公明党よりは100倍いい!
 」
午前6:38 · 2021年5月1日·Twitter Web App
 
A級戦犯を支持しているネトウヨの楽山は、改憲派で右翼の作家の言を引用しています。批判しているのか、賛同しているのか、はっきり書いていないツイートです。
 
自分の主張が、偽物ばかりになってゆくと、引用に付けるツイートも偽物になってゆきますが、考えるということが、病質のために、自省を含めた中立な思考にならないので、いっそう曖昧な筆致に逃げることになるようです。
 
いわゆる暗示という筆致で、これも誘導の詭弁なのでしょう。こんなこと言ってる・・と書いて、あとは、分かるでしょ・・という感じになります。
 
楽山の言にあっては、宗教の定義も、カルトの定義も、楽山の恣意によって決まるので、当てになりません。自己愛性人格障害の楽山には、自分の主張以外は、邪悪なカルト扱いになるのではないかと思います。
 
根拠無き高みに自分を置いて、人の悪口を言うのが生き甲斐になる自己愛性人格障害は、こういう不幸と罪悪をもたらすのです。
 
自己愛と、自己の人間としての尊厳とは、全く違います。自己愛に、人それぞれが成り立たない根拠でもあります。つまり、自己愛は、宗教にも信仰にも思想にもなりません。強いて言うなら、自分信仰という最悪の偶像崇拝になるだけです。楽山を信用しないでください。
 
 
(2021年05月02日)
 
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  楽山の失格 (映画)
 
 『美しき誘惑-現代の画皮-』のルーツを探る
 2021年04月17日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
抜粋して批判
 
真意は分からないが、同じ材料、テーマの先行作品があったり、影響を受けた作品がある場合には、それを無視するのではなくて、きちんと作品名を明らかにして敬意を示したらいいのにと思う。それがないのは残念。
 
「敬意を示したらいいのにと思う」「それが無いのは残念」・・楽山の、心の無い丁寧語です。アドバイスのように見せかけていますが、敬意がないので、丁寧に書けばいい、という安易さだけが、鼻を突いてきます。
 
いつも形だけ丁寧語で、かえって嫌らしいと思います。上から批評家気取り、という獣性をごまかす書き方です。楽山の厚顔無恥を知って、何度も味わってきたブログの流れにおいては、中身のないことが分かっているからです。
 
批判でも丁寧に書けばよい、角の立たない書き方をしているつもりのようだが、そういうものでは決してないという例です。丁寧は、楽山の思い込みだけなのです。要は、言葉だけ丁寧で、中身は、あざ笑いながら、こき下ろしているわけです。
 
薄汚い性根を隠すために、どんなときも、善人アピールをしたい楽山の無理が、悪意を隠す卑怯な偽善の丁寧語になってきたのです。言い方だけ丁寧であることに自己満足する楽山です。
 
丁寧に書けば、冷静だと思われるだろう、という楽山の安易な思い込みの先入観が表れています。
 
楽山は、こういう丁寧語で、自分はいつも冷静な紳士だからと言いたいのでしょうが、中身はと言えば、実は嘲笑いを伴う否定に、理解があるとうわべだけ見せかける保身が加わり、楽山固有の、何とも言えない、陰湿な印象になります。何度も見ていると、"偽善者" という言葉が浮かんできて吐き気を催します。
 
楽山が書いてきた「反省。トホホ」というのがありますが、ただ反省という言葉を付ければよいという気安さが、気持ち悪くて気持ち悪くて、楽山には、真心が無いのだと知りました。これは、ふざけた態度であり、「トホホ」ではなく「テヘヘ」なのです。
 
 
※ 
 
 楽山の失格 (読書)
 
考えてみれば明らかなこととして、有名人や小説家や学者が、楽山のような自己愛性人格障害者に賛同することなど、ありえないわけです。
 
相手が、既に死んでいるか、縁のない人だからといって、楽山が、あたかも同じレベルの学識経験者であるかのように、自己愛のために勝手に利用~悪用していいわけはありません。それくらいのことも分からないのでしょうか。楽山の読書は、自他の両方にとって、害毒です。
 
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
15:11
口にはいるものは人を汚すことはない。かえって、口から出るものが人を汚すのである」。 15:12
そのとき、弟子たちが近寄ってきてイエスに言った、「パリサイ人たちが御言を聞いてつまずいたことを、ご存じですか」。 
15:13
イエスは答えて言われた、「わたしの天の父がお植えにならなかったものは、みな抜き取られるであろう。 
15:14
彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」。 
15:15
ペテロが答えて言った、「その譬を説明してください」。 
15:16-18
イエスは言われた、「あなたがたも、まだわからないのか。 口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり、そして、外に出て行くことを知らないのか。 しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 
 (マタイ15:11-18、新約聖書)
 
 
口から出るもの

口から出るもの
 
 
(2021年04月22日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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近況:

 

認知症と腰椎圧迫骨折で歩行困難の98歳の母は、小規模多機能介護施設 → 肺炎と尿路感染で病院入退院 → 老健施設、そして、昨日、デイサービス付きの有料老人ホームに転所となりました。

建物は元々整骨院だった3階建ての古いビルを施設にしたもので、グーグルマップでは整骨院の看板が出ていて更新されていません。向かいがジョイフルで、田舎だけど道路沿いに店は多いようです。

相変わらず、コロナのせいで、自由にに面会は出来ず、内科にも定期通院させるわけですが、あちこちで、ふつうに手指の消毒をして、時に熱を測ります。

新しい病院なので、一応、X線や血液尿検査して、乳癌疑いと言うことで、胸に薄い影があるようです。「98歳くらいになれば誰でも癌はあります」と、思い切りのいい先生です。こちらとしても、生物学的延命は望まないが、痛みが出たら軽減してほしい旨申し上げました。
 

(2021年04月22日)
 

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