例外
 
 
パリサイ人と律法学者は、キリストを、殺すほどに憎んだ反キリストの代表ですが、例外がいます。いかなる悪の集団にも、善の種を持つ例外がいます。パリサイ人のニコデモであり、そして、律法学者にもいるようです。一方、いかなる善の集団にも、悪の種を持つ例外がいます。ユダが、その例でしょう。
 
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
3:1-2
パリサイ人のひとりで、その名をニコデモというユダヤ人の指導者があった。この人が夜イエスのもとにきて言った、「先生、わたしたちはあなたが神からこられた教師であることを知っています。神がご一緒でないなら、あなたがなさっておられるようなしるしは、だれにもできはしません」。 
 (ヨハネ書3:1-2、新約聖書)
 
このように、ニコデモは、キリストを讃えています。この時のキリストとの対話に、何か不思議な魅力を感じたのでしょうか。ニコデモは、恐らく人目を忍んで、キリストの葬儀に訪れています。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
19:39
また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。
 (ヨハネ書19:38-39、新約聖書)
 
 
次は、キリストに褒められた律法学者の話です。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
12:32-33
そこで、この律法学者はイエスに言った、「先生、仰せのとおりです、『神はひとりであって、そのほかに神はない』と言われたのは、ほんとうです。 また『心をつくし、知恵をつくし、力をつくして神を愛し、また自分を愛するように隣り人を愛する』ということは、すべての燔祭や犠牲よりも、はるかに大事なことです」。 
12:34
イエスは、彼が適切な答をしたのを見て言われた、「あなたは神の国から遠くない」。それから後は、イエスにあえて問う者はなかった。
 (マルコ12:32-34、新約聖書)
 
「遠くない」という表現が微妙ですが、キリストの敵となり、キリストに激しく批判された律法学者とパリサイ人ですが、キリストは、やたら批判したのではなく、人の話を聞いて受け取る御方であることが表れています。
 
 
これらのパリサイ人や律法学者が、のちに、キリストに従ったかどうか、書かれてはいません。聖書に書かれているのは、今、罪に塗れていても、希望が失せているわけではないということでしょう。
 
 
ユダは、キリストを裏切り、敵に売りましたが、その後、悔いて、自死します。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
27:3-4
そのとき、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、「わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、罪を犯しました」。しかし彼らは言った、「それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい」。 
27:5
そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。
 (マタイ27:3-5、新約聖書)
 
ユダは、政治的な実践家を志していたのかもしれません。キリストが、ユダの考える実益や名誉を実現することとは合わない道を進んだことで、キリストを裏切りましたが、のちに悔いていることから、ユダはサイコパスではないということが表れています。
 
一人の悪人の、悪の精神の中にも、善の精神が全くないとは言えないことを表しています。しかし、ユダは、後悔のあまり、自殺してしまったので、詳細は分かりません。
 
 
 
さて、偽牧師シャロームと、反キリストの楽山についてはどうでしょう。シャロームは、ネットでも現在、所在不明です。楽山は、自分で書いて、または、無神教徒の言を引用して、キリスト教をおとしめ続けています。ゆえに、宗教ペテン師の資料となっています。
 
資料となっているというのは、反キリストの偽善者は、どう言動するかという見本となっているということです。彼らが書かなくなっても、訂正もないのだから、批判を続けることになります。批判しか方法がありません。真の裁きは、神のみの専権事項であります。
 
二人と議論するつもりはありません。既に、二人と遣り取りをすることの、無駄、無意味、徒労、そして、言い知れぬ疲労を与える性質が明らかになっているからです。彼らの記事が出たら、批判記事を当てることになります。さらに、過去記事についても、必要があれば、改めて批判記事を書いてゆくつもりです。
 
 
反キリストたち

反キリストたち
 
 
(2022年01月23日)
 
 
 
  共感の主
 
人の言うことには裏がある
という項目が心理テストに上がるほどに
何て人は疑い深く弱いのでしょう
 
あらゆる時と所に
楽になりそうに見えて乗りやすい
悪魔の天秤を携えているほど
何て人は狡賢く弱いのでしょう
 
目には目を
歯には歯を
死には死を
同害報復が
失われた目も歯も命も
戻してはくれないのに
心情的に理解できるほど
何て人は感情的で弱いのでしょう
 
突然襲いかかる理不尽な不幸に
崩れた戦時の教会の
キリスト像を投げて割ってしまう映画
今も覚えているほど
何て人は背教へ走りやすいのでしょう
 
割ったのは実は作り物の像ではなく
自分の心だと分かる前に
怒りの黒い種を育み
死と復讐を結びつけて
嘆きの赤ブドウ酒に溺れてしまうほど
何て人は弱いのでしょう
 
キリストは
このような人々に
罪から逃れられない人に
その悲しみに共感し
共感する信仰を説いているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が「実践するのは難しい」なら、楽山は、人間ではないということです。ゆえに、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと書いてきました。楽山は、また、書いてくるのでしょうか。私は、高齢ですが、書けるあいだは、批判を続けようと思っています。
 
 
 
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