ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:心

 
  祈りとは3
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
言葉が変わらなくても
心は変わります。
 
言葉が違えば気づくでしょう。
心が違うことは気づきにくいのです。
心は変わるものと思っておくべきです。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうでしょう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして出来ることをして
待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
さらに
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
まるで悟りの境地に達した気分で
人が完全不変を自分で保つかのように
神が開いた心を変わらないようにすることは
新たな導きを拒む姿勢なのです。
 
赦しに加えて
癒しと
落ち着きと
安らぎという恵みは
信仰によって
神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
揺るがない信仰というのは
忍耐強さのことであり
けっして不変や固定を意味してはいません。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
悪魔性に
信仰の確信?を貼りつけてはいけません。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
他者に刷り込みを繰り返し
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」
(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし
無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書)
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
人間の自由意志に働くのであって
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
祈る 心

祈る 心
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月22日、再録+加筆)
 
 
 
  小屋から
 
小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら
 
小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
 
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)

私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ

 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか

私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、祈りとも詩ともつかぬものを書いたことがあります。飾り言葉だけで書いたつもりになるのは、やはりナルシストでしょう。しかも、反省せず、学習せず、ゆえに成長しないのは、病的なナルシスト、即ち、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
 
 楽山についてですが
 
昨日の楽山の記事を読んでいて、つくづく思うことですが、楽山が、言葉を並べても、何か思想を書いていると思ってはいけません。楽山は、病質に従って、症状として、悪臭と病原付きの排泄をしているに過ぎません。楽山の生理~病理現象なのです。楽山の糞尿を飲み食いしてはいけません。
 
"自分で考え、判断することのすすめ" という言葉で、自己中を正当化する、とんでもない楽山です。楽山は、まともに考えたことはないと思います。判断は、すべて、自己顕示の我欲のみから発しています。自由意志の尊重を言っても、楽山にあるのは、自由ではなく、訂正不能の我執だけです。
 
楽山の病状は、ますます、悪化してゆくだろうと思います。整理がつかないまま、推敲できずに、量を書くだけのようです。もしパニックにでも至るならば、優しさ芝居は出来なくなるので、何をやらかすか分からないと思います。本性剥き出しになってゆく楽山に、どうか近づかないでください。
 
 
 
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  心の波動3
   (過去記事再録+)
 
 
心の波動は、心の活性と呼んでもいいと思います。
 
心を表し伝えるために言葉を使います。しかし、私たち人間は罪深いゆえに、人間の心を表すために使う人間の言葉も罪深く、心を、いつも、間違いなく正確に言葉にすることは出来ません。ゆえに、伝えたつもりで伝わらない、分かったつもりで分かっていない、ということが起こります。
 
心を表すために対応させている言葉は、それこそ人それぞれの学習経過により、微妙に、時に、著しく、人によって違うものを伝えてしまい、誤解を生じ曲解に至ることがあります。人間も、人間の言葉も、絶対ではないのです。
 
 
心と言葉が正確な対応でないゆえに、言葉を確定することによって言葉に対応させているつもりの心が確定されるものではないのです。言葉は心を伝えるための暗号であり、言葉で対応するための心は、喩えるなら波動のようなものなのでしょう。
 
固定した形を持つ言葉と、揺れ動く現象である波動を持つ心、一対一の対応などありようがないのです。心の波は振幅を持っていて、言葉および感覚可能な媒体によって、あるとき感動という大きな波を生じても、別の時には振幅は減衰しています。
 
感動は、いつも新しいものであり、一方、過去の感動は、感動したという記憶に過ぎず、感動そのものではないことがあります。ゆえに、感動を伴うべきこと、例えば信仰において、言葉としての信条を唱えるのは、記憶を強化するが、感動を強化しません。ゆえに、信仰を強化しません。
 
感動、癒し、慰め、恵み、赦しなどの、信仰にとって、なくてはならないものは、言葉の反復によっては強化されないのです。しかし、私たちは、信仰を表すのに言葉しか持ちません。言葉に関わることで、信仰を新たにすることについて、聖書は、端的に述べています。"悔い改めなさい"と。
 
悔い改めるためには、特に祈る時には、訂正不能ではない反省する心と学習意欲が必要です。悔い改めることは、求道者が信仰者になる時だけではなく、信仰者の信仰生活の主軸であります。何故なら、それは祈りに他ならないからです。
 
私たちは地上で完全になることはありません。ということは、気づかぬうちに罪を犯しているということです。だから、私たちは精いっぱい正直に祈る必要があり、それこそが悔い改めです。悔い改めによって反省して改めて学習することが、信仰の成長なのです。
 
私たち信仰者は悟ってなどいません。完全なる神の前には、いつも恥ずかしい存在なのであり、その恥じらいを敬虔と呼びます。恥を知らない者になってはいけない。言葉に頼るしかない祈りも不完全であり、神の前には恥ずかしい言葉なのです。
 
人の祈りは、完全な祈りではありません。しかし、いかに不完全で恥ずかしくても、繰り返し、折に触れて、正直に、祈る必要があるのは、私たちが、不完全の自覚を持つゆえにこそ、神は、寛容をもって、神の民である私たちが正直に祈るのを、いつも待っておられるからです。
 
正直な祈りは人から神への唯一の音信であります。
生ける神への、生ける人からの、唯一の音信であります。
 
正直な祈りを覚えることが信仰生活の初めであり始めなのです。
 
 
 
  序
 
自らの信仰を暴き
すなわち十字架を倒し
墓を掘り起こし
死地を招き
振り返ったものすべてを否定し
背教の命題と
血の反証を繰り返し
繰り返し
我に問い
かかる実験の後にも
否むことのできない像
拒むことのできない絆
それだけを
信仰と呼ぶ
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
※ 夥しい(おびただしい)
 
 
 
心の波動

心の波動
 
 
(2020年02月17日、同日一部修正)
(2021年02月23日、再録+)
(2022年02月27日、再録+)
 
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートです
 
楽山は、また、人のツイートを悪用して、自分の破綻した人格を、不相応に、高く尊く見せようとしてきます。届きようもない人の話に飛びついて、まるで、自分であるかのように、同列であるかのように、努力と才能の人を装います。楽山に努力と才能の跡が見られたことはありません。
 
楽山は、いつも、我が身を反省せずに、楽な山の上から見当違いの物を言っているだけなのです。この楽山の高慢に付き合うことだけはしないでほしいと切に思います。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
新無神論bot
@AtheismBotJP
学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知であるかを思い知らされる。自分の無知に気づけば気づくほど、よりいっそう学びたくなる。―アルベルト・アインシュタイン
午後9:22 · 2021年2月21日·twittbot.net
 
楽山は、他者の意見をリツイートして、自分は「無知に気づ」いていると言いたいようですが、ならば、上から目線で物を言ったり、人の意見を無視したりは出来ないはずなのです。しかも、アインシュタインです。楽山のような減らず口の怠け者が引用するのに最も相応しくない人物です。
 
学ぶ気もなく人のことばかり、評論家気取りで文句言ったり、笑ったりしているのが、楽山です。さらに、自分の無知と無恥にいちばん気が付いていないのが、楽山です。わざとらしい丁寧語を使っても、無反省、無責任、無神経な、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は隠せません。
 
このように、楽山は、他者を利用して "謙虚アピール" をしてきますが、実際は、自己愛の先入観と偏見で、訂正不能に、同じことを繰り返し言ってくるだけなのです。そして、バランスが取れているつもりのようですが、それどころか、自分を改善しようとする動機さえ、まるで持たない人です。
 
バランスというより、動いたり変わったりする必要を感じない人です。無知に気づくというより、無知と無恥を、徳や柔和や謙虚や視野の広さと勘違いして訂正しない人です。そういう人ほど、自分とはスケールが甚だしく異なる有名人の言葉の引用に飛びつくのでしょう。全然、見習えていないのに。
 
楽山のように無反省・無責任・無神経の自己愛からは、人が自分を褒めているように見えるのでしょうか。読んでも何の糧(かて)にも参考にもならない文章を書き続けています。自分の非を認めない者は、ゆえに成長できない者は、他者に何かの良い影響を与えることなど出来ません。
 
固定した病質の精神から、都合のよいことだけを表し、都合の悪いことは無視して人のせいにするような、楽山の訂正不能は、関わる人に、結局、言い知れぬ徒労と疲労を与えるだけなのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
1.のコメント者は、楽山について、よく知っている人かもしれません。目上の、近親者か、あるいは、師に相当する人なのでしょうか。楽山が、削除しないのは、大事な人だからでしょうか、それとも、そういう約束か条件でもあったのでしょうか。
 
それにしても、この忠告を無視し続ける楽山の心境というのは、いったい、何なのでしょう。楽山の心底が、闇だと書きました。楽山は上のコメントを削除しない。しかし、楽山は、このコメントを見ながら、何も感じないでいられるのでしょうか。人間なら、信じられないことです。
 
 
 
過去記事のコメント欄などをコピペしてコピペして一度に多量の無駄に長い記事を書く楽山の精神と目的は何なのでしょう。楽山は、これが自分の集大成です・・とでも言いたいのでしょうか。焦点がなく、数と量の多さを誇示したいのでしょうか。
 
熱心さを買ってほしいのでしょうか。しかし楽山に情熱はありません。楽山には、正当な高等感情がないのです。ないものは伝わりません。楽山の異常人格が暴発することにうんざりするだけです。勝手であり、自由であり、楽なのかもしれないが、その間も、生きる時間が消費されてゆくのです。
 
読者も、生きる時間を有効に使いたいわけですから、恐らく、楽山のトンデモ衝動に付き合うことはないだろうと思います。異常人格がブレーキを失ってゆく症例となるけれど、そういう症例報告は、症例自身には、症状なのだから、治癒からは、どんどん遠ざかってゆく方向でしょう。
 
楽山は、陰性の感情に駆り立てられて自分を見失い衝動的となり、さらに、量で圧倒できると思っているのでしょうか。執着なのでしょうか。発作なのでしょうか。どれだけ多量に書いても、読者を考えない自己中と自己顕示欲だけが嫌味なほどに表れて、自ら節操のなさを、わざわざ公開している楽山です。
 
 
 
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  イデオロギー2
 
 
ここでは、イデオロギーと題していますが、信条や教条など、思想が言葉や理屈で固定され、心の直感的共感を持たないものを意味しています。宗教にも、政治にも、あらゆる分野に深く関係する非人間的な固定・固着です。
 
(ネットより)
 
イデオロギー(独: Ideologie, 英: ideology)とは、観念の体系である。文脈によりその意味するところは異なり、主に以下のような意味で使用される。観念形態、思想形態とも呼ばれる。
 
通常は、政治や宗教における観念を指しており、政治的意味や宗教的意味が含まれている。
 
世界観のような、物事に対する包括的な観念。
日常生活における、哲学的根拠。ただ日常的な文脈で用いる場合、「イデオロギー的である」という定義はある事柄への認識に対して事実を歪めるような虚偽あるいは欺瞞を含んでいるとほのめかすこともあり、マイナスの評価を含むこともある。
主に社会科学の用法として、社会に支配的な集団によって提示される観念。殊にマルクス主義においては、階級的な立場に基づいた物の見方・考え方。
 
 」引用終わり
 
 
イデオロギーは
心の面倒を見ません。
 
論理は
心の面倒を見ません。
 
言葉は
それだけでは
心の面倒を見ません。
 
だから
右も左もイデオロギーは
悲劇をもたらしてきました。
 
宗教も
言葉だけの
思想・信条・イデオロギーと化してしまえば
同様でしょう。
 
文字で固定されたものは
ときに
心を凝固させ変形させます。
 
言葉は
心を伝えるための
暗号に過ぎません。
 
聖書が神の言葉でも
読む私たちは人の言葉しか持っていません。
神の言葉だからと振り回す人は
心を失いつつあります。
 
人は人の言葉を絶対化してはいけません。
 
人は絶対ではないのだから
人は何も絶対化できないはずです。
 
思想、宗教、政治、総てにおいて
 
ときには
言葉によって表されたものが
心を解放することがあります。
 
そのとき
心は
様々な表現と
様々な伝え方を生み出すでしょう。
 
心が真理になったからではなく
心が目覚めてアクティブになるからです。
 
心の努力は
惜しむべきではないのです。
 
信仰は不変の平安の境地ではありません。
 
信仰は生きて学ぶ道です。
 
 
文字で表された言葉は、いつも、決して固定されない本質を暗示しています。
 
歌は、悲しいかな、ときに、心を伝え、動かして、流れ、去ってゆきます。
 
知情意が不可分であるように
思想と記憶と情感は不可分であります。
 
目を通して見せるものや
耳を通して聴かせるものは
心を動かし
記憶されることへの希望となります。
 
言葉が心を動かすのは
言葉によって表されたものを
心が受け取れた場合だけです。
 
心が動くのは
人間の心として受け取れるものだけです。
 
 
全知・全能・絶対・完全・永遠・不変、
これらは、人間の手には負えません。
神の性質を表していますが、人が神を理解するための言葉ではありません。
神に比べれば、はるかに不完全な人間自身に
限界があることを気づかせるための言葉です。
 
神の全知全能を人が理解することはなく
神の全知全能は人が自らの罪性を理解するために語られます。
 
人間が何を受け取れるかを考えるべきなのです。
 
勘違いしてはいけない。
神の全知全能という言葉は
人が全知全能そして神聖を得るためではなく
人が全知全能ではないことを知るために存在しています。
 
 
神の寛容は
悪や偽善をも赦すということではありません。
讃美の言葉なら、無難で正しいというわけでもありません。
神には正直以外通用しません。
 
神は
人に対して正しさや善を求めるのではなく、
神は
人の不完全と罪深さを知っておられるので、
御前に捧げられる祈りにおいて
精いっぱいの正直だけを求めておられ、
それだけをもって信仰の義とされる御方です。
 
神は、正直な告白の祈りを待っておられます。
 
祈りの言葉を間違えたら、また、祈ればよいのです。
それが、神の寛容と言われます。
 
 
神と人、共感と言葉、信仰と人の絶対、これらを同一のように語って、訂正不能に陥っているカルト的自己愛性パーソナリティ障害NPDがいます。
 
神と人の敵、楽山とシャロームを、十分に警戒して、近づかないようにしてください。
 
 
神と人、言葉と心

神と人、言葉と心
 
 
(2020年08月08日)
(2021年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  見えない
 
雨のために見えない
その向こうの雨
霧のために見えない
その向こうの霧
その中を走っているバイク
光と闇
光のために見えない
その向こうの闇
闇のために見えない
その向こうの闇
光のために見えない
その向こうの光
その中を走っている人々
人々と人
人々のために見えない
その向こうの人々
誰が誰を虐げたわけでもない
かどうか知りようもない
見えるもののために見えないもの
その中を走っている
自分のために見えない自分
 
 
  不眠症と祈り
 
何もかも呑み込んで夜が来る
のみ込まれて黙り込む
静けさに目を閉じる
さまざまな夜の形を打ち消して
最後に犬が吠える
眠れない人が闇に驚く
 
 祈りは夜とともにあった
 言葉は夜であった
 光は夜のかたすみに
 あやうい形で揺れていた
 祈りは涙と親しく
 いつしかお互いに拒んでいた
 涙は形にならなかった
 祈りはさまざまに否みながら
 光となって揺れていた
 光は言葉であった
 それらすべてを包み込む
 形は夜であった
 
何もかも解き放って朝が来る
沈んだ眼の水平線が離れる
あらゆる隙間から光が射し込む
数々の挨拶を抱えて出かける人々
さまざまな光の形に打ち抜かれて
眠れない人は黙り込む
 
昼となり夕となった
それがいつも一日目の終わりであり
終わりの日の始めである
 
 
(90年代か)
 
 
 
 「ブログ村騒動」発言集
 2021年08月29日 Comment(0) 楽山日記(LD)
 
 
今まで、楽山が、他者にかけてきた迷惑など、何とも思っていないのに、まとめたことにして、整理したことにして、ちゃんとやっているふうを見せないと、楽山は気が済まないのでしょうか。整えることを、いちばん、妨害してきたのは、楽山その人です。
 
*発言集まとめ
他所で、ひさしぶりにブログ村騒動の記事をまとめたので、ここにも保存しておこうと思う。
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・「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)ブログ村騒動とは何だったのか?
・「ブログ村騒動」発言集(編集後記)2【追記あり】
ちなみに、ブログ村騒動というのは、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内における信者同士の喧嘩のことである。これは数年に渡って断続的に続いた。主な参加者は、ガン、レオ、ぽん吉、ピア健、コウ(敬称略)などであり、ぽん吉、ピア健はこの騒動の途中で退会し、アンチHSとなったのだった。
 
ずらっとリンク(省略)が並んでいます。今まで書いてきた記事ですから、このように、楽山は、自分を責めることが出来ず、その分、それぞれの記事で、また、まとめて、ここで、他者を責めてくる人です。他者のHNを、並べて、さらし首でしょうか。
 
楽山が言いたいのは、"自分は悪くない、自分は悪くない、分析すればですね、あれが悪い、これが悪い"、などと自己中に言い続けて止まないということです。つまり、楽山という人は、どこまでも、他罰的で、共感性がなく、自分を省みない人なのです。
 
どうか、楽山と付き合わないでください。楽山と付き合って、何も、良いことはないと思います。そして、後になって、上の一覧と、それぞれの記事として、ネチネチと悪者にされてゆきます。この間、反省は、皆無です。これほど、非人間となるのは、自己愛性人格障害としか考えられません。
 
楽山に対するには、楽山の執拗さと同じように、逐一批判をもって、終わることのない批判を続けるしかないのです。楽山に対して、病んで、または、逃げて、黙り込む人にもならず、批判し続ける人にもならないためには、関わらないこと以外にはないのです。
 
楽山には、罪悪感がありません。もし、生存をかけて闘っていた戦国時代であれば、信頼への裏切りは決して許されることはなく、はりつけ、やりぶすま、八つ裂き、さらし首、火あぶり、それ以上となったでしょう。今の時代に、個人は、批判と非難を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山の「反省、とほほ」は、"無反省、えへへ" だと思ってください。楽山は、臆病だから恐慌状態にはなっても、しんみり悲しむことも泣くことも出来ない人です。嘘と詭弁で世渡りして、言ってくることに、真実の欠片もない人格の形骸です。
 
ドラマなどで、ときに出てくるサイコパス(精神病質)というのは、反社会性人格障害の旧名です。罪悪感がなく犯罪性が高い人格障害です。サイコパスは、自己中で自己愛性なので、楽山の、自己愛性パーソナリティ障害は、近縁の人格障害です。
 
楽山のような病質者は、逃げられない状況で説教をされると、頷くかもしれません。しかし、説教が終わると、さーっと立ち去って、また同じ悪さを、さっさと続ける、平気で繰り返す、という具合に、訂正不能の無反省を基調とします。
 
恐らく、表情は基本的には乏しく、感情は、根深い怒り憎しみと嘲笑いで、本当の思いやりの温もりと悲しみの涙という潤いが、欠落しているのだろうと思います。
 
つまり、感情に深みがありません。だから、反省、共感、理解、よく分かった、読んだ、などの、言葉だけの表面的な言い方を多用し、とほほ、かなあ、と言えなくもない、などと、曖昧にして、断定していないと、後で問われる責任を逃れているつもりです。
 
味も素っ気もなく生きていて、我執の自己顕示欲で出しゃばって言って、他者のことを書きながら、他者に関心はなく、他者を全く必要とせず、ただ、自己を受け入れさせようと芝居をするのが、自己愛性病質者の症状であり、目的であり、非人間性の生き甲斐です。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·3時間
私もそんな感じに考えてます。
信者は、現実の教祖というより、自分好みに理想化した教祖像を信じている
この両者の差異に気づき、理想像を維持できなくなったときは、教祖に失望し、信仰の危機となる…と。
午後7:00 · 2021年8月29日
 
楽山は、キリスト教と信仰についても、信じ過ぎてはいけない・・など、似たような決めつけをしてくる反キリストです。楽山は、自分の言うことはバランスが取れていて適切だと思い込んで訂正不能の妄想となっていることから、楽山には、教祖になりたい願望があるように思われます。
 
楽山は、人を操りたいのです。しかし、言うことは、ことごとく、嘘と詭弁であり、印象操作であり、刷り込みであり、誘導であります。そういう楽山の言から、私は、楽山が自己愛性人格障害であることを何度も書いてきましたが、楽山は、反論も弁明も出来ていません。
 
 
 
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  教条主義
 
 
教条は、心の面倒を見ない。
 
教条化した思想は、心の面倒を見ない。
 
教条化したイデオロギーは、心の面倒を見ない。
 
(ネットより)
きょうじょうしゅぎ
【教条主義】
権威者が述べた事を、その精神を深くも理解せず、杓子定規(しゃくしじょうぎ)に振りまわす態度。独断論。
▷ dogmatism の訳語。
 
ここで、杓子定規とは、書いてある言葉を、文字通りに受け取って、人間として中身を吟味せず、その通りに守っていると思い込み、行動が、画一化、儀式化することを表している。
 
偽善の多くが、教条主義の所産である。そして、偽善は、悪が善のふりをすることで、悪よりも、悪性度が高い最悪である。
 
その典型例は、聖書のパリサイ人の戒律主義に見られる。パリサイ人は、定められたとおりに実行したと思い込み、人間の心を忘れていた。よって、キリストにとって最悪の敵となったのである。
 
多くの思いは言葉で表される。言葉は伝達のための暗号である。つまり、ダイレクトに思いを伝えているわけではないことを弁えておく必要があるだろう。
 
しかし、暗号である言葉に頼らなければ生きるのに支障をきたすことも明らかである。口頭や書面で話が出来ない人は別の手段を工夫し、何とか伝達する手段を持つことになる。
 
人によって、時によって、状況によって、言葉の表すものは違ってくる。思想・哲学・宗教・信仰など、人文系では、特に、そうなってくる。
 
真実と言っても、ある分野の正解であったり、それを目指す心がけであったり、当為と事実が混同している場合もある。
 
神は偉大であるといっても、その偉大さを、人はつぶさに知ってはいない。神を信じている、という意志表示に過ぎない場合がある。神の偉大さを知って信じるのではない、しかし、神の偉大さに触れて信仰に至ることはある、などというように、言葉による表現は、曖昧であることが多い。
 
しかし、それは、変えてはいけないと思い込み、同じ言葉に基づいているから正しいと思い込むところに、教条主義は生まれてくる。
 
そこで、失われるのは、人間的な情感であり、さらに、人間的な配慮であり、言い換えれば、良心の所産が、損なわれてゆくといってもよいだろう。
 
すなわち、思いやり、罪悪感、悔いる心、反省、罪を認めること、などがあり、これらが欠けてゆくと、救いの教条と思ったことが、災いをもたらすこともある。多くは、言葉を盲信することで、その込められた心を、損なってゆくのである。
 
また、教条主義に陥ると、直観的に、または、直感的に、おかしいと気づけることを、心が無いために、気づかず、言葉に沿っているから正しいと思ってしまうことがある。
 
典型は、やはり、パリサイ人である。また、理屈倒れになって、人間として必要なことを汲み取れないで、慢心して言い張るということもある。
 
人格においては、訂正不能の教条を持ってしまうと、自己愛性人格障害として、非人間的な言動が目立つようになる。進行すると、論理性が、辻褄合わせになり、さらに、故意に合わせるために、的外れな理路になったり、人間ならば分かるはずのことが分からなくなり、無理を押し通す欲動となって、破綻してゆく。実際は、とても不自然な言動となって表れるだろう。
 
思想・宗教・信仰に関わる人々は、このことを、しっかり心に留めておかないと、自分の人格を損なうだけでなく、他者の人格を傷つけてゆくだろう。
 
教条主義に陥っている自己愛性の人格は、根拠に基づく説明や説教が出来なくなってゆく。いつのまにか、自分を、教条に沿っている自覚から完璧だと思うようになり、何事につけ自己正当化をして、修正不能となって他者の意見を聞かなくなり、教える立場の自覚から、受信をしなくなり、発信だけをするようになる。
 
そして、人間らしい考え方や感じ方が出来ないので、生き方にも破綻をきたすことが多いだろう。理路も情緒も深く考えたり感じたりすることが出来なくなって、単純化しやすく、短絡しやすく、不祥事や欠点を、反省せず、ことごとく、他者や相手のせいにする特徴を持つ。
 
心から、思いやり、共感、感動、罪悪感、反省力、修正能力などが欠けてゆき、学習せず、成長せず、批判や苦言に対する反応として、怒り、恨み、憎しみ、怨念などの陰性の感情が目立ってくる。
 
その例は、やはり、聖書のパリサイ人であるが、卑近なところでは、長らく批判してきたところの、偽牧師のシャローム、反キリストの楽山、さらに、恐らく、多くのカルト教祖と信者も似たような人格の変容を来たしやすいだろう。
 
自己愛性人格障害が先なのか、狂信が先なのか、分かりにくい場合もあるが、どちらも、人格にとって、言動において、人間関係において、破綻をごまかしてくる場合が多いことに注意するべきである。
 
一見、柔和で、やさしい人柄に見せかけてくることが多く、自身もそう思っていることが多いと思う。多くは、芝居がかっていて、問い詰めると理路の破綻から馬脚をあらわすことになるが、人によっては、だまされたまま、似たような人格になってゆくことが、大きな災いである。
 
 
心が壊れてゆく教条主義と自己愛性人格障害、そして狂信、などについては、今後も、考察を続けるつもりです。
 
 
人格破壊
人格破壊
 
 
(2021年04月17日)
 
 
  言質(げんち)
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
されど汝と呼んでしまったときの
悪しき思いと浅き知恵は裁かれるであろう
聖なる立場で物を言ってしまったのは誰なのか
何故いつもいつも信仰は
その恵みを垣間見ていながら
悔いと嘆きの中にあるのか
 
 
  絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
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 コメントへ返信 (一部修正してます)
 
 
コメントありがとうございます。気づかなくてすみません。FC2よりメールとして届いて、確認しました。
 
私は、聖職者でも学者でもないので、一人のキリスト者として、ブログを書いているに過ぎませんが、読ませていただいて、共感できることが多いです。
 
確信という言葉は、聖書にも多く出てくるようですが、確信=絶対正しい≒教理は絶対正しい≒説教者は絶対正しい・・になってしまいがちです。その際に、疑問を呈する人を黙らせるのに、一番効果的なのは、"聖霊"(?)でしょう。物言わない存在だから利用されやすいと思います。
 
私も、確かに聖書からキリストに出会ったと思っていますし、信仰は持っているわけです。どう信じればよいのかということを、ずっと考えてきました。おっしゃるように、私は、人間の罪の性質を、ほぼ同値として、神とは違う人間の不完全という言葉で表すことが多いです。信仰者も罪を犯します。神とは違って不完全だからです。
 
罪深い人間の性質は、信仰者も変わりません。人の、いかなる思いも行為も、完全ということはないと思います。このことを弁えておかないと、・・人を裁く豪語になりかねません。
 
確信は、罪深いこと、即ち、不完全であることを弁えることだと思います。弁えないと、神聖と自分が一体化したかのように、自説を言い張るようになるでしょう。
 
取税人はその弁えを知っていました。パリサイ人はそれを知りませんでした。不完全という言葉を使うのは、神の完全との対比であります。
 
いつからか、私は、心に響くことしか受け取らなくなったと思います。信条や教理は、人間の言葉で表され、伝えられています。人間の言葉自体は、伝達のための乾燥した暗号に過ぎません。信仰について共感や感動に結びつくのは、聖書の言葉+人の言葉+個人の心に起こる体験でしょう。
 
人間が、何でも神秘と結びつけたがるのも、罪の性質です。それだけになると、思考が停止して、カルトと同じ思い込み信じ込む強迫的な信仰?になると思います。
 
 
私は、高校生の時に、聖書を無料でくれる教会があるらしいということで、また個人的な悩みもあって、教会に行き、通い始めて、卒業を控えた17歳で、洗礼を受けました。日本基督教団の佐世保教会というところです。半世紀も経ってしまいました。
 
説教について言うと、佐世保教会の牧師も、その後の福岡の牧師も、割と好きなタイプでした。頭ごなしというのは、なかったと思います。でも、何だか誤解されやすく、集団が苦手な私は、転居を機に、教会からは離れています。
 
聖書は、新約を通読、旧約は、ソロモン以後の歴史など、読んでいないところもあります。ずいぶん年を取りましたが、ずっと未熟です。最近は、聖書も、拾い読みばかりです。
 
熱心に勉強なさっていることが伝わってきます。私のこのレスは、記事にするだろうと思います。生き方の問題ですから、これからも分かち合っていけたらと願っています。ありがとうございます。拝。
 
2021-04-04-22:41
トダサトシ URL [ 返信 ]
 
 
信仰は心を大切にするところに生まれます

信仰は心を大切にするところに生まれます
 
 
(2021年04月05日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://stdsts.hatenablog.com/
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