ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:心の理論

 
  滅裂な訂正不能2
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、思想が凝固して、妄想となっているのでしょう。
 
 
『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。
 
人類が神を生み出すと書いていることから、既に、人が神を作ったという無神教カルト思想前提となっているようです。恐れを知らぬ高慢~傲慢が、神不在の言い張りを重ねて、訂正不能を面白がっています。こういうのをサディストと言います。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストであります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 
 
内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、
 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出した決めつけの曲解信条です。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。文末に、「だろうが!」・・をつけて読むべき悪口雑言であります。
 
死者に会う夢は、夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者の作為でしかありません。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされるわけではありません。願望には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚か者の繰り言によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることなく、恵まれ続けるでしょう。
 
 
進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。
 
私の記事「心の理論」
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害ではなく、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、妄想性障害か、悪意の妄想として固定している厚顔無恥ということを考えるべきかもしれません。学習する気がないのでしょう。
 
あるいは、背後に、右翼系の無神教カルトのような組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。妄想への執着だけになっているのでしょうか。とても危険で、恐ろしいことです。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「霊」という言葉の、簡単な意味さえも、霊が分かるっぽい自覚?の楽山は区別できないようです。
 
「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことでしょう。楽山が、捨ててしまった能力です。心の理論を捨ててしまったからでしょうか、楽山は、人の迷惑を省みずに書くわけです。
 
他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。楽山の妄想が、壊れた人格によって、進化ではなく、心の闇の深化となり、訂正不能の方向に病理を深めているだけなのです。
 
 
中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェ(モーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルがバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクがヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェがマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。
 
信仰は、昔の王様の、信仰の浮気か不倫のような背教の史実関係をほじくることではありません。楽山は、人の鼻の穴をほじくることが好きなようで、それだけで勉強した気になって、信仰の本質を何も学んでいないのは哀れというしかありません。
 
このように、字面だけ書いて、それで、説明したつもりになるのが、楽山です。しかも、聖書のあらすじをあちこち書いているようですが、あらすじを追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための心がないのです。
 
 
また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテン、ザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。
 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、無関係であればよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。
 
カタカナの名前をいっぱい書いて、歴史や宗教の学者を気取っても、信仰の本質からどんどん離れるだけで、何の役にも立たない、何の益にもならない、いちゃもんに終始して、無理解の尿失禁に一途な、楽山の、独り芝居と独り言に、どうか関わらないでください。人生の大切な時間の無駄です。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、都合の良い箇所を選んで、書くだけの因業です。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだと言い張る根性で書いてくるからです。過剰で無意味な腐ったプライドの成れの果てなのです。
 
 
終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。
 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、人の学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 
ましてや、楽山のような悪意の者が、悪意の方向で、いくら言葉を弄しても、ただ、楽山の愚かさを、楽山自身が目立たせるだけであり、その経過と結果において、楽山の人間性の破壊をもたらしてきたのだということを表しているだけなのです。
 
楽山は、文献を読んで書いてくる感想によって、そのまま、楽山についての実例として、病質と偽善の文献となってゆくのです。
 
 
本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。
 
宗教を、信仰を、インテリ気取りで、何学的視点で・・などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。それで、宗教と信仰の、欠片も表すことはないのです。キリストが出会って救い癒やした心貧しい人々との、典型的な対照を為している楽山です。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、幼稚な疑問のままで、学習による進歩がなく、かつ、そこで慢心してしまって、神を否定してくる嫌がらせに過ぎなかったのです。楽山のようになったら正常に戻ることは困難かもしれないと思わせる記事が楽山日記には満載です。
 
 
また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。
 
「一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう意味でしょう。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。
 
自己顕示欲によって潰してしまった人間性に残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。昨日も今日も、恐らく、明日も、じくじくした膿漏の臭気が漂う楽山です。
 
「ならないとは言えなそうだ」・・こういうのが、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、中庸、中立、優しさ、決めつけでない柔和さ、などを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者についても、自身についても、洞察も思考も出来ないと、こういう雑さになります。
 
本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。
 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、実は、宗教は、多角的視点がない、こだわりで出来ている、という偏見からの悪意の攻撃であります。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山の思考、実際は、楽山の無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。
 
もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
 
排泄の病原

排泄の病原
 
 
(2020年06月08日)
(2022年06月09日、再録+加筆)
 
 
 
  病原
 
光があるから影ができる
しかし光があるから影があるのではないとも言える
夜の闇の恐怖に連なる暗さに似た
影というものの存在を目で見て知ったからこそ
影を作らせ反対側で闇をなくす
方向を持った存在を初めて知り
それを光と名付けた
 
ばい菌やウイルスがいるから病気になる
ばい菌やウイルスなど病原体そして
全ての病気の原因は
病気が起こるから探される
病気があるからそれがない状態を知る
それがありがたいから健康と名付けるがゆえに
予防しようという考えが生まれる
 
影によって光を知る
病気によって健康を知る
 
 
  眠りの音信
 
別れて久しく
音信も途絶えた人が
見知らぬ地にて永眠するとき
揮発のアンダーグラウンドに
泡沫(うたかた)の
嘗(かつ)ての縁(えにし)
は胸に巣くう鬼畜を眠らせ
血腥(ちなまぐさ)い流れを冷水に
冷水を雫(しずく)に
そして雫が形を失うとき
二つの問いを残すのです
「俺はそんなに悪かったか」
「水さえも永遠ではない」
契(ちぎ)りもなくて罪に濡れ
柵(しがらみ)を越えるよりも先に
冷たく遠く離れ去って
眠り続ける土塊(つちくれ)深く
失われゆく形骸は
永遠の水を求めて
地上からの吸引に逆らうでしょうか
 
 
  蜘蛛
 
ハンドル周りの蜘蛛(クモ)の巣を払い
殺虫剤をざっとスプレーしてまで
久し振りにオートバイに乗る
地を掃(はら)えばいい何もかも
 
山上のパーキングでバイクから降りるとき
手に絡みつきぶら下がる
蜘蛛
手を振って地面に落とす
生きていたのか ここまで
バイクにしがみついてきたのか
ヘルメットを脱いで抱えた小脇に
すっぽり抜けた俺の首
 
帰り道バイクを走らせながら
ふと古い傷口から糸のように
ぴゅっと細く噴き出す出血の痛み
殺した殺そうとした置き去りにした
ぴりぴりと折節に
覚えのある痛みだった
 
玄関に入ろうとすると
顔に引っ掛かる
蜘蛛の糸
揺れている蜘蛛を見上げながら
も少し上に張れ
と呟いて以来 出入りの際に
はっと首を竦(すく)める習いが続いている
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省が大事だと分かっているなら、「人間の性」などと、誰でもそうでしょ・・みたいことを言わないはずです。書く文章の、いたるところに不心得が表れてくる楽山です。「難しいんだよなあ」・・このラフな言い方に、楽山の、孤独で荒涼とした精神の砂漠が表れています。
 
 
 
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  心の理論3
 
   楽山日記(LD)
   に対する私の批判「心の理論」
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。殆ど妄想だと思います。楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。
 
今回、「心の理論」という心理学の話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
(ネットより)
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
マクシ課題
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 
 」
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路になるでしょう。楽山は、思った以上に理解力がないようです。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。これは、私たちが「心の理論」を持っているかどうかということです。大方の人は正解を出せるでしょう。楽山は、心霊の話に持ってゆくという恐ろしい誤謬に至っています。
 
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、子供だけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達しているということです。
 
発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
心の理論は、心理学的な理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
自他の誤信念を考えること、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 
 
先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)
 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 
 
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、言い換えると、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。
 
既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが「感じないっぽい」ことを異常のように楽山は言っていますが、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 
 
もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。
 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは「分からない」と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは「感じるもの」だ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。ボンヤリ言語の詭弁となっています。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常が分かるという自分を表しています。それは、そのまま、楽山の誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、異常で、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感受性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を全く理解しないまま妄想に結びつけて、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 
 
ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉
 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。これが、楽山の、だましの理路と自己正当化なのです。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の楽山が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
心理学である「心の理論」は心理学という学問であり、スピリチュアルっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、その意を全く理解していないばかりか、注意を向けてもいません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。自閉症にしては、厚かましい男です。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は「専門家ではないので確かなことは言えない」と言いながら、著しい誤謬を、堂々と披露しています。
 
「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 
 
・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
 
このサイトに書いていること:
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だと言うためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百の超常カルト妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者の教祖願望からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあります。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 
誤謬 妄想

誤謬 妄想
 
 
(2019年03月31日)
(2021年03月02日)
(2022年03月08日、再録+加筆)
 
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  不眠と対抗(一部)
 
危ない情動を青白い顔の端末に隠して
先祖のぶら下がりの血の重み
妄想の救い難い正直さ
あらゆる血の徘徊を
飲み込もうとして咽頭が裂ける
薬で癒されぬ重い風の迷いの中

無理な睡眠に逃げていこうとする
無理な答えに問いに
また悪夢から悪夢へ
のめり込む遊びの前に
明日はすでに数え始めている
眠れなかったとは言えない速さで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
元々妄想癖のある楽山が、宗教や、カルトや、超常アニメ、などを好むのは、他に何も出来ないことからの必然かもしれません。著しく現実感を欠いているから、今も、いつものように好きなことをやっているつもりなのでしょう。人は人、自分は自分、・・その自分の狂気に、今も気づかないのです。
 
 
 
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  楽山の子供だまし2
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の本音がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であり、宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然です。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
この登場人物の類似によって、やすやすと、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込む、という、楽山の救いがたいほど、浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂になるだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
世界を救うアニメの物語と、人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、信じ込んで、のぼせ上がっている楽山の病の根の深さが表れています。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。思考も情緒も異常です。
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっている、それが、楽山だと思います。
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
フィクションという捏造された目的や意味には、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルに感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山が本尊として居るという幻想でしょう。
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるということです。どうして、宗教とアニメは同じもの?になるのでしょう。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、殆ど、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を軽く見ているかが分かります。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が死んだ歴史があります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしているのです。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化してゆくのが、宗教です。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリストからなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という典型です。
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できないようです。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実に必要なのです。
 
このような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの特徴であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん、悪質です。
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
楽山の話は、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害も、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
  親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  私の批判記事「心の理論」
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ

子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ
 
 
(2020年07月26日、同日一部修正)
(2021年09月25日、再録+若干加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
(90~2000年代か)
 
楽だけを貪っている者を批判しています。
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 
takaさんがリツイート
(引用元は省略)
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
 」
 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、一般には、無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの援助や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からない箱に入れておきます。
 
この引用をしている taka 恐らく、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるなどということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書)
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  滅裂な訂正不能2
 
 2020年06月07日
 『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』レザー・アスラン著、白須英子訳
 楽山日記(LD)
 
 
前に否定されて、何も返せなかったのに、また「心の理論」のことを、前と同じように持ち出して、同じ主張をしているようです。もはや、妄想化しているのかもしれません。ひどい詭弁しか、楽山は、書けなくなっています。その評価も無視しますから、これで、言い得たと満悦する病気です。
 
『人類はなぜ〈神〉を生み出したのか?』を読了。同著者の『イエス・キリストは実在したのか?』も面白かったが、本書もそれに次ぐくらい面白い。
 
人類が神を生み出す、という題から、既に、人が神を作ったみたいな、無神論前提だろうということは分かるわけです。それを面白がるわけですから、真剣味などないということです。
 
その本を読んで、この記事を書いている楽山は、クリスチャン芝居をしたり、キリスト教の悪口を言ったり、幼稚な疑問で神不在を言い張ったり、逆に肯定したりと、言ってることがメチャクチャな、反キリストであります。書いて自慢することだけはやめられない自我の奴隷です。
 
内容はといえば、まず序盤では宗教の起源について、さまざまな仮説を紹介している。人は夢で死者と会うことで死者は今も別世界で生きていると考えるようになった、自然の脅威を目の当たりにして創造主の存在を意識するようになった、宗教による連帯団結は生存に有利であった、宗教は願望の充足のために用いられた、
 
これは、宗教の起源ではなく、楽山が、宗教を否定するために、持ち出したものです。ここに書いてあることから生まれる宗教は、例えばシャロームの偽キリスト教や、キリスト教系カルトの発想であります。
 
夢は夢です。夢での不思議物語は、人間を生かす信仰にはなりません。死者と会う・・楽山の超常ホラー趣味に過ぎません。自然の驚異・・楽山の大袈裟に走る宗教観です。楽山の好みに過ぎません。個人の生き方と命のことを、何も書けないのが、楽山なのです。
 
自然の脅威は、脅威であり、自然の驚異は、驚異ですが、それが何らかの恐れを感じるものであっても、人間を支える信仰にはなりません。楽山は、宗教に恐れしか感じないので、本当の宗教と信仰を、まるで理解できないのです。それで、慢心しているから、害毒なのです。
 
連帯は連帯であり、生活様式に影響はあっても、それを信仰と呼ぶのは、楽山のような、信仰の心を全く持たない者です。「生存に有利」「願望の充足」・・楽山の生き方を表しているようです。
 
願望の充足は、必ずしも、宗教や信仰によってもたらされません。願望には欲望が含まれることがあるから、という以上に、神を、人の願望に従わせることは出来ません。
 
楽山のような足らざる者が、上のような軽口の悪口をあげて、宗教と信仰をおとしめても、宗教と信仰は、神に対して不遜で不敬虔の愚かな者によって左右されることはなく、信仰を必要としている人々の正直さに答えて、変わることのない神から、恵まれ続けるでしょう。
 
進化の過程で獲得された「心の理論」などが宗教を生んだ等々。ここでは著者はどうも最後の仮説を支持しているらしい。
 
私の記事「心の理論」
 
「心の理論」は、進化の過程で獲得されたと楽山が書いていますが、楽山は、それを、霊感が獲得されたかのように曲解して受け取って記事を書いていたのです。しかも、今回、それを、宗教の起源として書いているのです。
 
楽山は、単なる学習障害からの無知ではなく、妄想性障害か、故意の悪意の妄想として固定している無恥ということを考えるべき人です。あるいは、背後にカルト組織があるのかもしれません。楽山は、その指示を実行していて、それゆえに、責任を一切負わないのかもしれません。実態は不明です。
 
(ネットより)
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
「心の理論」はもともと、霊長類研究者のデイヴィッド・プレマックとガイ・ウッドルフが論文「チンパンジーは心の理論を持つか?」("Does the Chimpanzee Have a "Theory of Mind")において、チンパンジーなどの霊長類が、同種の仲間や他の種の動物が感じ考えていることを推測しているかのような行動をとることに注目し、「心の理論」という機能が働いているからではないかと指摘したことに端を発する(ただし、霊長類が真に心の理論を持っているかについては議論が続いている)。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
 
霊長類とは書いていますが、それは、ヒトやサルなどの動物の種類のことで、心霊現象や霊感とは何の関係もないことです。「心の理論」は、宗教の起源とは関係ありません。他者の正誤を見分けるという発達しうる知性のことです。楽山が、怠慢によって育て損なった能力です。
 
楽山が書いてくるのは、すべてが、書籍や聖書などの、他者がどうしたという話です。自分はどうだということを考えることが出来ないのです。それを、心の理論という心理学を曲解した話や、心的状態などという学術用語を並べて、もっともらしく見せても、底が知れており、無駄なのです。
 
楽山は、人の迷惑を省みず、聞かずに書いてきます。他者に迷惑かけることを、罪悪感がないために、全く気にしない楽山という異常人格だから平気で嘘を吐くのでしょう。楽山の妄想が、壊れた人格によって、訂正不能の妄想の方向に病理を深めているだけなのです。
 
中盤では一神教の起源について語られている。ユダヤ教は元来は多神教であり、「初代王サウルでさえ、息子をヤハウェにあやかってイェホナタン(ヨナタン)と名付けるのと並行して、他の二人の息子をバアル神にあやかってエシュバアル、メリブバアルと名付けていた」(p.149)し、エル(アブラハムの神)とヤハウェ(モーセの神)は別々の神(p.150)だったので、イスラエルがバビロニアに敗北したときには、「バビロニアの神マルドゥクがヤハウェより強かったというのが神学的結論」(p.139)となり、多くの人々が「名前もバビロニア風に変え、バビロニアの言葉を学び、彼らの神々を拝むようになった」(p.139)のであるが、その後イスラエルの敗北はヤハウェがマルドゥクに敗北したためではなく、すべてはイスラエル人を罰するためのヤハウェによる計画であり、「マルドゥクなど、そもそもいなかった」(p.140)とされて、神は唯一ヤハウェだけが存在するという考え方が生まれたという。
 
このように、字面だけゴチャゴチャ書いて、知ったかぶりをするのが、楽山です。国と神の名前を追うだけでは、聖書の理解など出来るはずはないのです。楽山には、聖書に共感するための人間らしい心がないから、こういうことをひけらかして、勉強家を気取ってきます。
 
また一神教については、ユダヤ教に先んじて、アクエンアテン、ザラスシュトラらの試みがあったが、そのどちらも長くは続かず忘れられるか変質させられてしまったとのことである。キリスト教については、初期には旧約の神と、イエスの神とは別個の存在だという考え方もあったが、「キリスト教会が唯一の司教――つまり、ローマの司教下の統治システムを法的に有効にしよう」(p.172)という意図によって、唯一神とは異なる多神教的な考え方は排除されたという。
 
唯一神信仰が、陰謀の産物であるかのように書いているのは、楽山が、唯一神信仰を必要としていないからでしょう。ならば、書かなければよいものを、自己顕示欲と、妄想のために、自分が勝ってるということにしないと気が済まないのでしょう。
 
何の役にも立たない、何の益にもならない、楽山の、独り芝居と独り言に、決して関わらないでください。上の2段落は、長い話を書けばよいというものではない、ということが分かるような、楽山という知ったかぶりの独り満悦悪です。理解していない者ほど、言葉だけ過剰になるのです。
 
楽山は、本を選んで、本を曲解して、都合の良い箇所を選んで載せているだけだと思います。何故なら、聖書についても、良いものを何も受け取らないまま、自尊から、分かってるんだという高慢だけで、書いてくるからです。過剰で無意味なプライドのゴミ捨て場になっている楽山ブログです。
 
終盤では、著者は一神教から汎神論的な信仰観を導き出している。神は唯一であり、不可分であるならば、神が創造を行う時、その材料は神以外のものではあり得ず、神自身であったことになる、創造の前には神のみが唯一存在し、不可分であれば当然にそうなる、とすれば神は神を材料として創造を行ったのであり、神と被造物とは別個のものではなく、同一である、つまりすべては神であり、神ではないものは存在せず、神はあらゆるところに遍在している云々。
 
すごい詭弁です。創造の材料も、被造物も、神だと、楽山という神がかりが決めつけて、汎神論に持ってゆこうとしています。ただの一度も、神に、キリストに、聖霊に、信仰に、巡り合ったことのない者の筆致です。
 
楽山の短絡~安楽思考は、神と被造物には厳然たる違いがあることを直観できないのです。主体と客体の区別もつかない誤認識は、それこそ、「心の理論」の育っていない病質者の症状を表しています。自他未分化~神と人未分化の我執だけで捏造した安い神細工(紙細工)です。
 
神の一神遍在論というのはあります。一人の神が、全能ゆえに、普く存在している、ゆえに、ひとりひとりの祈りを聞いておられる、という考え方ですが、学説に過ぎません。そもそも、神の存在のあり方を、存在の次元の限られている人間が解明することなど、ありえないのです。
 
本書全体を通読すると、著者の視点はテーマによって移行しており、宗教の起源については進化論的視点で語り、一神教のはじまりについては現実的政治的視点で語り、一神教から汎神論的な信仰観を導くときは宗教的神秘的視点で語っているようだ。
 
宗教を、インテリ気取りで、何学的視点で、などと言う楽山は、まず、しっかりした視点も論点も持っていません。何学を勉強しても、聖書に表された心を学ぶことがなければ、聖書を読んだことにはなりません。聖書学習の、最も避けるべき迷路を、楽山は徘徊しています。
 
今まで、楽山が書いてきたのは、幼稚な作り話か、詭弁か、いつまでも、小中学生レベルの疑問のままで、学習と成長による進歩がなく、そこで慢心してしまっているだけの、神否定の嫌がらせに過ぎなかったのです。まことに、自分を見ないということのもたらす堕落の惨劇であります。
 
楽山のようになったら正常に戻ることは困難かもしれない、と思わせる記事が楽山日記には満載です。自己愛性人格障害によって、整った説得力のある話が、まるで書けないために、自尊のためには、誇大的になり、妄想的になり、詭弁になり、寄せ集めの言葉だけになるという堂々巡りの末路です。
 
また一神教を突き詰めると汎神論に行き着くというのは、アニミズム的なものからはじまった宗教が、多神教から一神教へと移り、しまいにはまた元に戻っているようにもみえる。ものごとはなんでも円環をなすという話があるけれども、宗教もその例外ではないとすると、これもまた解脱すべき輪廻であり業であるということにならないとは言えなそうだ。
 
「一神教を突き詰めると汎神論に行き着く」・・どういう妄想でしょうか。わざと複雑なことを言ったり、しかもそれを説明しなかったりするのは、君らには分からないだろうね、という、救いがたい自慢・高慢・傲慢を表すこと、楽山は、全く気づかないのです。
 
一神教は一神教、汎神論は汎神論です。被造物まで、神に仕立て上げる楽山の混乱と迷走です。自己顕示欲によって人間性の器を潰してしまったあとに残るのは、原始反応の本能から、快楽原則のみから、自慢だけしてくるような、みじめさだけになります。楽なお山は、虫食いだらけです。
 
輪廻まで持ち出して、「ならないとは言えなそうだ」・・こういう婉曲表現が、ボンヤリ言語の典型です。楽山は、これで、決めつけでない柔和さを示したつもりなのです。言っていることの内容について、他者について、自身について、考えることが出来ないと、こういうゴミになります。
 
本書は宗教を信じ、かつ進化論や歴史的視点から宗教を判断することに嫌悪を感ずる人にとってはあまり愉快なものではないかもしれないが、その辺りのことにはこだわらず多角的視点から宗教とは何か、または神とは何かを考えてみたいという人にとっては興味深く、一読して損はない本であると思う。ちなみに自分は後者なので、冒頭に書いた通り本書は面白く読めた。
 
宗教は、信仰のためにあります。学問は、その糧になります。しかし、偏向した妄想的観念が支配している楽山のような者が、学問に関わり、本を読み、「こだわらず多角的視点」と言っているのは、まさに、楽山が、宗教憎しの妄想的確信の固まりだからなのです。
 
結局、楽山は、記事を書くことによって、神も人間も宗教も真実も、妄執からの針の穴を通して見ており、それで、通ったつもりの愚かなラクダになっていて、言い換えれば、全く多角的視点のない、妄執で出来ている、ということだけが、次から次への、明らかになるのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:23
それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。 
19:24
また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 
 (マタイ19:23-24、新約聖書)
 
この「富んでいる」は、単にお金だけでなく、楽山のように、自分は出来るんだ、分かってるんだ、知っているんだ、という、心を固定観念だらけで満たして固めている思い上がりを含んでいると思います。そういう慢心した人は、心を砕かれない限り、実に、信仰から遠いからです。
 
信仰とは神とは何かを考えてみたいという人にとっては、楽山のような無思考と偏見は、何の役にも立たないばかりか、同じ偏向を、ボンヤリ言語で、刷り込もうとする我執~企み~陰謀でしかないのです。どうか、楽山に、決して、近づかないでください。
 
もはや、私の、楽山批判は、恐らく、道に糞が落ちているを見つけて、糞を踏まないで、と読者に言っているようなものでしょう。楽山は、おびただしい病原を含んでいます。
 
楽山は、徒労と疲労と偏見と病質と絶望の宣伝者です。楽山批判は、楽山を変えるためではなく、楽山のような者に関わって訂正不能の偏見だらけになることのないように、楽山にだけは近づかないでほしいという気持ちを伝えるために書いています。
 
 
"楽山" というネーミングは、名所であるとか、縁起が良いとかで、ひょっとしたら、食堂などの施設の名前になっているかもしれません。これらは関係ありません。私が批判しているのは、自己愛性人格障害で偽善者の楽山です。
 
 
偏見は理路にならない

偏見は理路にならない
 
 
(2020年06月08日、同日一部修正)
(2021年06月11日、再録+加筆)
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
 
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
 
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
他の人の「宇宙戦艦ヤマト」についての霊言みたいなHS話があったとかのツイートに反応している楽山です。笑えない世界に住んでいる楽山は、いつものように、笑いに飢えています。宗教・信仰と、趣味のお笑いを混同してきた楽山です。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·12時間
ヤマトの話が出てるね。
「宇宙戦艦ヤマト2199」だったら、今、gyaoで無料公開してるよ。
午後10:13 · 2021年6月9日·Twitter Web App
 
楽山は、なごみ、そして、笑いたいのでしょう。誰かを、笑いのネタにして、楽しむ趣味なのでしょう。今まで、楽山が、かき乱してきた命と宗教の問題からの、無責任な現実逃避もいいとこです。楽山は、現実問題は、何も解決していないのに、平気でいられる冷血の人です。
 
趣味と真実追求の深いテーマを混同して、同じ軸の上で、ヤジってきた報いを、楽山は受けるべきです。楽山の大好きな霊言や超常フィクションと、キリスト信仰の生き方と言葉を、混同し、問題を無視してアハハと笑う顔と、命を賭した救い主を、混同し、侮辱してきたのが、楽山です。
 
 
 
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  楽山の崩壊
 
 2021年03月25日
 家田荘子さんをめぐって(宏洋と広報チャンネル)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
(ネットより)
家田 荘子(いえだ しょうこ)は、日本のノンフィクション作家、高野山高等学校非常勤講師、高野山真言宗大僧都。家田荘子オフィス所属。マネジメントはエクセリングと業務提携。
 
*霊言は信じる? 信じない?
宏洋氏と家田荘子氏のコラボ動画が発表され、それに対して幸福の科学の広報チャンネルが物申してた。
ここでは動画の発表順に並べておく。
 
霊が分かるっぽい?という霊能者気取りの楽山が、「霊言は信じる? 信じない?」などと言っています。白々しい限りです。
 
(動画省略)
 
*感想いろいろ
以下には、動画を見た感想を書いてみる。
広報チャンネルでは、家田荘子氏は「霊言は本物」と明言したかのような言い方だけども、実際はもっと控えめな言い方だと思う。
 
ちなみに、楽山が、前に自分について言っていた「霊感の一種」は、丁寧語ですが、決して控えめな言い方ではないと思います。何故なら、霊と霊能力について、しばしば、話題にしてきたからです。また、「心の理論」という心理学の話を、心霊の話にすり替えたこともあります。
 
「自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。」
「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」
「ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。」
 」
 
心理学の話である心の理論を、いくら延長しても、霊感の話にはなりません。推測する機能がいくら拡大されても仏様やご先祖様などの超常の存在を推測することはありません。推測するには根拠がありますが、楽山の霊の話には根拠が全くないからです。
 
特に、楽山は、精神も推測も貧弱ですから、こういう、あからさまな間違いでさえ、訂正することがありません。訂正不能の確信~信条だと思います。自分には、霊能力があるんだ・・と言いたいために、とても幼稚な詭弁を振り回しています。
 
家田荘子氏の動画の方が、宏洋氏の動画よりも和やかな雰囲気のように感じられる。宏洋氏の動画を先にとり、家田荘子の動画はあとに撮ったということだろうか。
とすると、家田荘子氏は宏洋氏に気を使って霊言を信じているといった可能性はあるのではないか。会って間もない対談相手の実父をエセ霊能者呼ばわりすることなんてできないだろうから。
 
「気を使っ」たかどうかについて、楽山に分かることはないでしょう。楽山は全く気を使えない人だからです。心が無いものだから、机上の辻褄で思いつくことを言っているに過ぎないと思います。人間を見るセンスの無い人は、宗教を見るセンスもないようです。
 
霊現象を信じる人は、霊現象の真偽判定はゆるくなりがちだが、家田荘子氏もその傾向はありそうだ。
 
宗教についての楽山の真偽判定は、ゆるいどころか、全くのデタラメです。自分のことを棚に上げて、他者のことばかり、どうのこうのと言うのは楽山の特徴ですが、人のことを、とやかく言う資格も能力も、楽山にはありません。
 
他の人の意見では、家田荘子氏は、大川隆法による霊言のことをよく知らないで言っているのではないかだとか、大川隆法の霊能に疑念を提示すると、自身の霊能の真実性にも疑念が及ぶことを恐れたのだろうというものもあった。どれも一理ある。
 
どこが「一理ある」のでしょう。人の霊能力の話です。つまり、信じるかどうかの話です。楽山は、人の霊能の真実性を云々しても、自身の霊能を疑う気はないようです。
 
楽山は、何も学ばず、何も反省せず、何の責任も負わず、何の根拠もなく、霊能を気取れば気持ちがよくて、その勢いで、人のことばかり書けるのは、自己愛性パーソナリティ障害だからでしょう。
 
家田荘子氏が駆け込み寺の話をしているのを聞いて思い出したが、幸福の科学は清水富美加の出家騒動の時に、自分たちは駆け込み寺の役割を担っているとしていたのだった。今でもそのようなことを行っているのだろうか。
「設定崩壊」って、これまでさんざん言われてきたから、同じ言葉を言い返したいだけだろう(笑)。
 
意味がよく分かりませんが、楽山の場合、いかなる設定も、自己愛から出ていて、根拠を示すことがないため、理路として崩壊してゆく必然になります。あるいは、何らかの精神病理や欲求不満や怨念で、楽山が時に見せるところの、時と場合にそぐわない不自然な「(笑)」は、真剣味や深みのない異常者の笑いとして説明が可能になるかもしれません。
 
自分は、大川隆法による霊言は信じていないせいもあってか、それを本物だとする意見には厳しい見方になってしまうのではあるが、上の動画を見て、大体このような感想を持った次第である。
 
楽山は、誰も、何も、信じていないと思います。誰かを、何かを、信頼することも信用することもないでしょう。楽山にとって、他者は、都合のよいところを利用するだけの対象物なのです。
 
楽山が、HS批判をしているつもりなのは、自分が変質ナルシスト批判を受けていることを隠すためなのでしょうか。楽山は、一方では、キリスト教への、批判ではなく、否定を続けているのです。
 
 
 
 宏洋氏はまた嘘をついたのか?(宏洋と広報チャンネル)
 2021年03月27日
 幸福の科学とは何だろう?・・楽山ブログ
 
*しつこい
広報チャンネルの宏洋批判はよく続くなあと思うのだが、もうかれこれ「宏洋氏に物申すシリーズ」は110回なのか…。まあ、しつこさについては、自分も人のことは言えないのだが(笑)。
 
「(笑)」・・またしても、楽山は、真剣味もなく、何を笑っているのでしょう。これは、批判でも忠告でもなく、揶揄、ひやかし、あざ笑い、の類であります。自虐にしても、楽山は、こういうことしか書けないのでしょうか、他に実のあることを何も書いてないのは。
 
批判者の資格もなく能力もなく、楽山が、しつこく書くことは許されないのです。しかも、楽山のしつこさには、根拠が無く、説明の理路が破綻しているために、説得力がありません。退屈で、真に受けると、疲労と徒労が増すだけであります。
 
そして、楽山を批判すると、それに対して、楽山は、基本的に無視してきますが、前に、st問題などと題して、悪口、いちゃもん、詭弁、そして、明らかな嘘までも、平気で書いてきました。楽山は、そういうことしか書けないのです。楽山は、うさんくさい詭弁の例でしかありません。
 
・出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄で教団教祖の父と絶縁/名誉毀損で2億の請求
 
動画省略。
 
・宏洋また嘘!「出家で芸能界電撃引退のトップ女優と婚約破棄」?両性の合意なしに婚約などありえない。【宏洋氏に物申すシリーズ110】
 
動画省略。
 
このように、引用・悪用、つまり、ゴシップでも何でも、他者の言葉と資料を借りる、本の言葉を恣意的に利用する、・・それ以外、何も出来ないのが、楽山です。正常な議論の邪魔でしかない、余計な宣伝マンなのです。しかも、すべて、楽山自身の自己愛と快感のためです。
 
理路が成り立たない、高等感情が鈍麻していて、共感、罪悪感、羞恥心、反省力、修正能力、学習と成長の意欲と能力、などがない。不備の自覚がないのは、自己愛性パーソナリティ障害のために、自分を斬ることが出来ず、反省せず、学習機能がないためです。
 
*話題
広報チャンネルの動画は、ツイッターで話題になっていたので見てみたのだが、自分もこのツイートと同じ感想だ。婚約があったかなかったかは傍からはわからないし、現状では事実上の引退だろうし、女優として優れているにもかかわらず、一般の映画、ドラマに出演できていないのであればその方面では干されているということなのだろう。
 
明らかにゴシップですが、宗教について、真面目な話が出来ない楽山は、こういうネタに飛びついて、興味本位の悪意を増幅しています。しかも、それで、「(笑)」って満悦しているのです。
 
どういう病気になれば、このように、遊びだけで、真剣なカルトの問題に、口を挿んだり、それで、笑ったりできるのでしょうか。恥ずかしくないのでしょうか。どこまで、サディスティックに他者を舐めたら気が済むのでしょう。
 
真実の追求から最も遠いところで、滑りっぱなしのピエロが、楽山です。
 
 
崩壊

崩壊
 
 
(2021年03月29日)
 
 
 
 楽山のツイートです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
『運命の開拓』は、大川隆法の著作の中では、最も格調高い文体だったし、自分の先輩会員もかなり熱心に読み込んでたのだけど、だからこそ落とされてたのかもね。
大川隆法は自分より人気があるものは、人でも霊でも神でも、みんな嫌いみたいだから…。
絵文字(青ざめた顔)
午前9:03 · 2021年3月27日·Twitter Web App
 
「格調高い」と、褒めたり、「落とされてた」と、けなしたり、忙しい楽山です。
 
似たようなこととして、取り入るために書いているだけで、明確な主張がないために、肯定を書いて、否定を書いて、断定していないからと責任を全く負わない、という、以前からの楽山の特徴です。
 
楽山は、自分と、自分を満悦させてくれる霊の話以外は、人でも神でも「みんな嫌い」です。楽山に受け入れられていると思ったら、だまされているということです。
 
その結果、楽山の書いたものを「熱心に読みこんで」近ければ近い人ほど「青ざめた顔」文字の用途にしてしまう楽山です。
 
分かりやすいカルトとも違います。楽山は、ボンヤリ言語で真面目を装い、トホホ言語で同情をひきます。全部、「絵文字」のような芝居です。
 
楽山の言の、うわべだけの中身の薄さと軽さ、生きている実感と真剣味の乏しさ、非を求めない無反省と無責任、という、自己愛性人格障害の特徴を、見抜けるようになってほしいです。反省、共感なども、字面の抽象だけ書きますが、前後の文脈につながっておらず、実感のないものです。
 
楽山の、言葉をわざとらしく書くだけで、感情・情緒の深さを表せない筆致に気づいてください。楽山は、深く考えることも、共感することも、病質のために出来ないのです。
 
楽山の、高等感情鈍麻による基本的に乏しい表情と、時に前の「(笑)」のようにニヤニヤするのとか「ははは」の高笑いとかを、思い浮かべながら、楽山の文章を読めるようになってください。
 
他者の感情を表す「みんな嫌いみたいだから…」という婉曲表現と、「絵文字(青ざめた顔)」で、それこそ、ヒエーこわいよね・・、みたいに誘導する書き方しかできない楽山です。
 
楽山は、感情・情緒について、表現する標(しるし)としての言葉を持っていても、切実な中身を持っていない、すなわち、真に喜ぶことも悲しむことも出来ない人です。
 
自分の表現がないのです。楽山が、本や他者の文章を読むのも、リツイートするのも、学ぶためではなく、自分の都合に合わせた言い回しを拾って、利用・悪用するためです。
 
 
 
 楽山に似た筆致の raku という人のツイートです。
 
raku
@rakusyo34
宗教アンチを見てて、素朴に思ったこと。
僕も宗教反対なのだが、
アンチ同士でなぜ反発するんだろう?
同じ目的、目標なら手を取り合っていけばいいのに、と思う。
なぜなんだろう?
同質は反発するから?
#宗教 #反対 #あんち #アンチ
午後0:21 · 2021年3月5日·Twitter for iPhone
 
自称アンチの楽山は、誰とも、「手を取り合」うなんてことは出来ないと思います。「同質」でもありません。書くものによって、真実を求める人々の邪魔だけをしてきます。
 
楽山は、偽者です。アンチではなく、野次馬です。いないほうがいい人です。自己顕示のために、アンチのふりをして、実は、自分の霊能を信じていますし、自分信仰の自己カルトを、宣伝しているような楽山ブログなのです。楽山とは、誰も、信頼関係は成立しないと思います。
 
楽山は、いくつかのキャラへの成りすましの疑いがあります。疑われていながら、それでも書いてくるのは、楽山が、危機意識もなく、罪悪感もなく、分別・反省力・責任感もない病質者だからなのです。高等な精神機能がないために、深いものを感じることが出来ないのだろうと思います。
 
楽山のような、思い込みが前提となって、訂正不能になっている心性では、正常ならば気づくことが、汽車の窓から見る風景のように、実感のない乾燥した絵の流れように見えるのかもしれません。深い意識を集中することが出来ないのです。
 
自己愛に囚われることは、人間を人間らしくする一番大事なものを捨てることです。
 
 
(2021年03月29日)
 
 
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