ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:心理学

 
  楽山の子供だまし2
 
 宗教とアニメは同じもの?
 2020年07月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の本音がむき出しになっています。宗教も、ゆえに信仰も、アニメとしてしか考えられない楽山です。これでは、楽山が、救われないのは当然ですし、この無知と無恥によって、楽山は、反宗教、反キリストとなっている証拠となり、有害であります。これが楽山の正体なのです。
 
前記事の後半においては、つい宗教とアニメを並べて書いてしまったのではあるが、改めて考えてみれば両者はすごく似たところがある。
とりあえず両者の共通点を挙げてみると、こうなる。
世界観…宗教も、アニメ(漫画)も、それぞれ独特の世界観を持っている。その世界観では、現実にはあり得ないことが実現可能とされることも多い。
 
世界観は、実際の世界を表すとは限らない、ということが、楽山には分からないのです。理想であったり、その反対であったり、希望であったり、というような世界を、真に受けるのが宗教と信仰だと思っている、そうでないと気の済まない楽山の、驚くような幼稚さです。
 
共通点と楽山は言っていますが、同じ思考で考えてよいことではありません。アニメは娯楽であり、宗教と信仰、さらに思想は、リアルをどう生きるかなのです。アニメレベルの楽山の知能には、アニメのように与えられているのだとしても、私たちは違うはずです。
 
物語…どちらも独特の世界観を持つように、独特の物語も持っている。
 
独特の物語と独特の世界観を仮想して想像するのがアニメでしょう。宗教は違うという当たり前のことが、楽山には分からず、楽山には、宗教は嘘、と言うことと同値なのです。常識も何も弁えずに、空想レベルの世界観で人生を語りだすと、自己の空想から自己中心になる必然です。
 
物語の虚構性とか、作者が伝えたいテーマとかいったものを考える正常な知性と感性がないために起こるところの、未熟~退行であり、楽山が、いい年した大人だなんて、到底、思えません。その楽山が、背伸びして、本を読んだとばかり、嘘と詭弁を、ずっと垂れ流してきたのです。
 
楽山こそ、想像~空想の世界の物語と、現実の世界とを、分離できてないところの、"自他未分化" の特徴的なパーソナリティです。人に何かを教えるよりも、小学校に入ったら?・・という次元の話です。楽山は、道徳と節操が育っていないために、先ず、常識的な判断力がないのです。
 
人物…主人公(教祖)、援助者(神や天使)、脇役(弟子)、悪役(悪霊、悪魔)などが設定されている。
 
この登場人物の類似によって、やすやすと、アニメや童話を、宗教や信仰と同じように扱えると思い込む、という、楽山の救いがたいほど、浅はかな虚構の妄想的曲解の人生観であります。
 
こういう子供だましにもならないような思考に至ってしまうのは、無反省、訂正不能、そして、自信の超過剰、という自己愛性パーソナリティ障害(人格障害)NPDの特徴なのでしょう。これからも、増悪して、最後には、混乱して日常生活も困難な支離滅裂になるだろうと思われます。
 
こういう楽山と、同根のような通過点として、シャロームのような妄想信条と自己絶対の偽善者の、滅裂な豪語の世界があり、偽宗教の幻想世界があるのです。まるで、病気の進行のステージを見ているようです。この二人は同一人物という可能性があります。
 
目的…世界を救うだとか、正義を実現するというような目的がある。大雑把に言えば、願望充足ということ。
 
世界を救うアニメの物語と、人間を救う宗教と信仰を、同一視してしまう未熟性は、楽山本人が、霊が分かるっぽい自分を信じ込んだ時点にさかのぼるのでしょう。アニメには、暗示される道徳に似たものがあります。だから、小学生も、楽山も、夢中になるのです。
 
つまり、子供の時、既に、空想の世界があり、それを空想と認識できないために、何の根拠もなく、何の力もなく、おとぎ話を、宗教と、信仰と、思想と、大人になるまで、信じ込んで、のぼせ上がっている楽山の病の根の深さが表れています。
 
決して、楽山を、まともだと思わないように、決して、楽山に、関わらないように、決して、楽山に、近づかないようにしてください。思考も情緒も異常です。
 
修復…設定(教義)のほころびを修復しようとするファン(神学者や信者)が存在する。
その他
 
アニメでは修復されることが多いですが、創作物だから自由にできるわけです。現実では修復されない場合があります。まさに、その実例が、これを書いている楽山その人だと、楽山自らが証明しているのです。対応の設定が滅茶苦茶です。これで、よく公表できるものだと思います。
 
楽山は、現実の人生も、修復すればよいとでも思っているのでしょうか。それが、全然できていない今の自分を見ていないからでしょう。空想のルールに嵌って何も見えなくなっている、それが、楽山だと思います。
 
思うに、人は無目的、無意味には耐えられない生物だ。「一切は無意味である」というような考え方を受け入れることが出来るのは、ごく一部に限られる。
 
フィクションという捏造された目的や意味には、リアルで違和感があるのが正常です。楽山は、自分の捏造した、霊が分かるっぽい自意識のために、リアルを、アニメのように感じて、リアルに感じられないのだろうと思います。とても異様な感じ方になっています。
 
無常というものを考え、認めて、真実を追求している人々は、いっぱいいるでしょう。そういう人々は、例えば聖書の、風を追うようなものだ、ということを理解します。楽山は、それを認めずに、我こそは意味があると見せかけながら、リアルに虚しいだけの風を追い、悪臭を送風しています。
 
「無意味には耐えられない生物だ」と断定しながら、「ごく一部に限られる」と認める発言を加える、という、この理路の破綻に惑わされないためには、楽山を、いっさい、信用も信頼もしないことが必要になってきます。「ごく一部」の中には、楽山が本尊として居るという幻想でしょう。
 
だから人は自分はどういう流れの中で、どういう目的を持ち、どういう世界で生き、その後どこに行くのかということに興味を持たないではいられず、それがために神話が生れ、宗教が生まれたのだろう。
 
知性と感性が、一方は、アニメとして結実し、一方で、現実を見る者は、宗教と信仰を進めるのです。アニメはエンタ、信仰はリアルです。求めるものが違えば、創造力や思考力を向ける方向が別になるということです。どうして、宗教とアニメは同じもの?になるのでしょう。
 
楽山だけが、想像力も思考力もなくて、にもかかわらず、どちらも知っていると言いたい欲望から、方向性の違いをわきまえず、おのれが宗教も信仰も理解できない欠格者だから、・・アニメといっしょや・・とばかり、安易に同一視して、宗教と信仰をおとしめたいだけだと思います。
 
宗教を、アニメと同じ方向性で見ている時点で、楽山は、アウトなのです。
 
視野が狭くて狭くて、同じ世界に見てしまっているのです。空想と現実が未分化なのでしょう。子供のまま、成長がないのは、反省せず、学習せず、成長して来なかったからなのです。
 
そして今なお、新しい物語(神話、宗教、主義、思想、歴史観、アニメ、漫画、映画、小説…など)が作り続けられている。この点において、宗教やアニメはもちろん、すべての物語は同根なのだろう。
 
楽山は、宗教とアニメを同根だと言っています。その根拠は、共通のテーマがあるから・・というわけです。しかし、リアルと娯楽、という決定的な違いを、楽山は無視しているのです。この在り方は、殆ど、精神症状です。
 
以上より、アニメなどの物語と、現実が、同根みたいな言い分は、妄想なので、到底、受け入れられません。宗教は、ましてや、個人の生き方の問題に深くかかわる信仰は、物語では済まされません。楽山が、いかに、宗教を軽く見ているかが分かります。
 
アニメで、現実に人は死んだりしません。宗教では、多くの人が死んだ歴史があります。宗教は、人を救うが、間違えば人が死ぬ、という、その重さを楽山は、考えてもみないようです。
 
ゆえに、楽山は、軽々しく、持ち前であるところの、のぼせ浮かれ頭で、アニメと同じ次元で考え、宗教の真実を、趣味のアニメと同等に、気楽なものに貶めようとしているのです。反宗教全開ですが、言っている楽山は、自分の霊を信じ込んで破滅に向かう妄想の自分教の信者~教祖なのです。
 
こういう考え方は、熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが、そういう人であっても自分が信じている宗教以外については、アニメなどの物語とそう変わらないという見解には強いて反対はしないだろうし、そうだとすれば自分の信じている宗教も、異教徒から見たらアニメなどの物語と変わらないとみなされるだろうことは推測できるはずだ。
 
「熱心な宗教信者からは反感を買うかもしれないが」・・この台詞を、楽山は、免罪符のように、しばしば使ってきます。宗教信者だけでなく、楽山は、もはや、無遠慮で執拗な、公共の害毒となっているとしか言えません。
 
自分が信じている宗教についてさえ、分からないことがあります。分からないと答えてよいのです。それが出来ない人や、それを赦さない人によって、間違えば、空想化し、カルト化してゆくのが、宗教です。
 
楽山は、何ごとにつけ、分からないという保留が全然できない人であります。だから、大方、嘘と妄想と詭弁の世界から、書物を悪用しながら、あざ笑いと悪口だけを、それこそ、訂正不能の体質から、宗教、特に、キリスト教に向けてきたのです。
 
この記事で、楽山は、宗教をアニメの趣味に貶めていますが、それだけではなく、そのアニメ趣味では済まされないところの、霊が分かるっぽい体験と自覚によって、自家製の霊能者妄想を信じ込んで訂正不能の個人カルトになってきたのです。
 
よく読めば、楽山の言は、何の説得力もない、ヤジか荒らしのレベルではありますが、楽山の丁寧語には、だましの作為が入っているので、十分、警戒してほしいと思います。
 
ようは、どのような宗教であれ、ある程度の距離をおいて観察し、判断すれば、一つの物語にすぎないということである。宗教という物語の中にどっぷりつかっている場合は分かり難いかもしれないが、これが現実である。
 
どのような宗教であれ、距離を置いて見ている限りは、知らない世界という謙虚な態度を持つべきであり、それが常識なのです。ここで、また、アニメというフィクションと、現実を生きるための宗教を混同して、宗教を軽く見ているのは、楽山の、根深い反宗教と反キリストからなのでしょう。
 
楽山には、常識~良識~良心が欠けているので、愚かな妄想まじりの詭弁を、のぼせ上がって、いつまでも続けています。恥を知らずであり、反省をしなくなると、こうなる、という典型です。
 
ちなみに宗教とアニメは物語という点では同じだと考えれば、近年の宗教離れの原因については、人の物語に対する欲求は、アニメなどによって満たされているので、わざわざ宗教を信じる必要性はなくなったためだと考えることができるかもしれない。
 
アニメを見れば、満たされて、宗教不要と言っています。趣味で生きることは出来ません。楽山は、どこまで退行するのでしょう。本当に、虚構と現実が区別できないようです。アニメは、ときに教訓を与えるが、それは、昔話的なシンプルな教訓です。宗教・信仰は、今の現実に必要なのです。
 
このような者は、いかなる宗教においても失格ですが、常識においても失格と言わざるを得ません。だんだん、本性の暴力的断定が増えています。はっきり言って、楽山の、もう一つの特徴であるネトウヨよりも、分かりにくいぶん、悪質です。
 
また新興宗教のなかには、ずいぶん漫画的なものもあるが、これにはアニメを超える良質な物語を提供できない宗教が、アニメに近付くことで生き残ろうとしているという解釈もできるだろう。
 
たとえ話以上に、アニメを真似する宗教と信仰があるなら、それは、子供だましでしょう。ここでの詭弁は、カルトと、宗教を、一緒にしている点です。こういう、隙間に仕込むのが、楽山の詭弁のやり方です。シャロームに劣らず、楽山の凶暴なところが、どんどん、明らかになってきます。
 
宗教とアニメを同列に考えることは素っ頓狂のようではあるが、これによって宗教がより理解しやすくなるということはあるのだ。
 
楽山の話は、素っ頓狂というより、未熟で邪悪で卑怯な、髭の生えた狡い駄々っ子の話です。やり口が卑しく、理路がでたらめで、情緒がないために共感が成り立たず、説得力は皆無なので、嘘や刷り込みや印象操作などの詭弁を使うしかないのでしょう。あきれた愚かさです。
 
吠えてる分だけ、真実追求の邪魔をしている自分に気づかないから、自己愛性人格障害も、やはり進行するのだろうと思います。どこまでも、有益、誠実、正直、真実というところから、はてしなく遠ざかる楽山であります。良心というものが少しでもある人は、こういう記事は書かないでしょう。
 
 
 ここで、何回目か分からないけど、
 「心の理論」という発達心理学の話の記事を引用しておきます。
 楽山の著しい曲解と妄想の個人史的な起源のようです。
 
  親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
  楽山日記(LD) 2019年03月30日
  私の批判記事「心の理論」
  
(ネットより)
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
楽山は、自閉症だったのでしょうか。
ブログタイトルには(LD)と書いていますが、サーバーの livedoor のことのようだが、学習障害 Learning Disability と言っても、当てはまると思います。
 
引用元から、まず、マクシ課題というのが書かれています。
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 」
 
「誤信念を理解すること」というのは、誤信念を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
霊感とは何の関係もありません。しかし、ここが、楽山の、霊が分かるっぽい出発点なのです。楽山は、「心の理論」を、勝手に間違って解釈して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの妄想的曲解であります。
 
「心の理論」の延長線上に、霊感のような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な無理解+曲解です。楽山は、最初に述べた「心の理論」を、心理学として全く理解しないまま、妄想に結びつけています。やっぱり、思い出すたびに、楽山は狂っているのではないかと思います。
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
スピリチュアルとは何の関係もありません。専門家でなくても分かります。心理学~発達心理学の、学問の話です。楽山は、こういう、ひどい曲解をする人です。しかも、いつまでも、妄想的に、わがままが通用すると思い続ける人のようです。
 
楽山は、霊能者どころではなく、ふつうの心がないために、理路の理解も、共感も出来ない人なのです。こういう人が、傲慢だけ持ってしまうと、とても危険です。楽山は、その実例です。決して、肯定的に関わってはいけない病質者です。
 
 
良い言葉、プラスの言葉、やさしい言葉、丁寧な言葉を、使ったほうがよいと思っている人は多いかもしれませんが、そこに、つけいってくる偽善者がいます。楽山は、自己愛性人格障害者であり、丁寧語を使ってインテリを気取る変質者なのです。
 
 
子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ

子供だましのお兄ちゃんが、だましに来たよ
 
 
(2020年07月26日、同日一部修正)
(2021年09月25日、再録+若干加筆)
 
 
 
  腐った暇
 
暇(ひま)は腐るほどあって
大方腐らせているが
食いたいときに食う
寝たいときに寝る
好きにすればいい
 
好きにすればいい
何を好きにすればいい
何がしたい
何をすれば夢中になれる
一途(いちず)に 直向(ひたむ)きに
何をするために生まれ生きている
何をしないために生まれ生きている
 
ひとつの夢が叶い
そして破れて久しく
何故生まれてきたのか
父と母が交尾したからだ
以外の答を見つけるために
凍り付きそうな
暇も楽も食いちぎって
思い切り腐らせて
 
楽といえば
楽だ
しかし腐った暇は必ずしも
楽ではない
 
さらに身に凍(し)みるのは
楽 と
楽しい は
全く別だということ
 
 
(90~2000年代か)
 
楽だけを貪っている者を批判しています。
 
 
 
 taka のツイッターですが
 恐らく楽山なのでしょう
 
takaさんがリツイート
(引用元は省略)
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」というような、負わされている者の救けにならず、負わせている者の罪悪感を緩和し、更なる荷を押し付けさせかね無い言葉はなんとかならないものだろうか、、
午後7:52 · 2021年9月22日
 」
 
上のような「神は」を主語にした言葉は、神について保証するかのような内容になっていて、言った人は何も保証できないのだから、一般には、無責任発言ということになります。信仰者同士なら、背負ってゆくしかないだろう、生きてゆくしかないだろう、という意味にはなるでしょう。
 
神を主語にして何かを断定することは思い上がりという印象を免れず、重荷についての何らかの援助や共感をもって言うのとは違って、救いの聖句からの教義という動機だけですから、実感のない教条主義に近いので、慎むべきことです。分からないことは、分からない箱に入れておきます。
 
この引用をしている taka 恐らく、楽山は、負わされている人への共感の出来ない人で、真剣に考えるなどということが出来ない、情感というものを持たない、自己愛性人格障害であり、キリスト教をおとしめるのに都合がよいから引用しているだけだと思います。
 
「神はその人が背負える重荷しかお与えにならない」・・これは、むしろ、何からの出口はあるからという意味として、信仰者が、自分で心得るべき言葉でしょう。安心や保証ではなく、生き続けるための、一種の激励の意味でしょうが、語弊があるので、私は、言わないようにしています。
 
 (コリント人への第一の手紙、口語訳)10:13
あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。
 (1コリント10:13、新約聖書)
 
最終的に、殉教して、逃れる先は天国、ということになれば、現代では、伝道としては、なかなか、使いづらい聖句ではあるのです。迫害という切羽詰まった時代の状況では、使えたのかな・・くらいに思っています。はっきりと分からないことは、分からない箱に入れて保留しておきます。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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  心の理論2
 
   楽山のブログ「楽山日記」
   親戚に笑われた話 (仏様の気持ちは分からない?)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41513954.html
    (ヤフー終了によって削除)
    楽山日記(LD)同名記事あり。
   に対する私の批判「心の理論」
   を加筆して再録。
 
 
楽山の原点のような見当違いの曲解です。心理学を、著しく歪曲して、心霊の話にしています。
 
楽山は、まだ、何かを人に教えられると思っているのでしょうか。今回、「心の理論」という学問的な話を、楽山自らの霊感みたいな経験を正当化する曲解によって、書いてきています。理路の読解力のなさが明らかとなり、インチキも甚だしい、というところを見てほしいと思います。
 
先ず、心の理論について引用しておきます。
 
心の理論(ウィキペディアより)
他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである。
この能力があるため、人は一般に他人にも心が宿っていると見なすことができ(他人への心の帰属)、他人にも心のはたらきを理解し(心的状態の理解)、それに基づいて他人の行動を予測することができる(行動の予測)。
哲学者ダニエル・デネットは子供が「心の理論」を持つと言えるためには、他者がその知識に基づいて真であったり、偽であったりする志向や信念をもつことを理解する能力、すなわち誤信念を理解することが必要であると示唆した。これに基づきハインツ・ヴィマーとジョゼフ・パーナーは心の理論の有無を調べるための課題を提案した。これを誤信念課題(False-belief task)という。この課題を解くためには、前述したように他人が自分とは違う誤った信念(誤信念)を持つことを理解できなければならない。
 
マクシ課題
 
1.マクシは、母親が買い物袋をあける手伝いをしている。
2.彼らはチョコレートを<緑の棚>に入れる。
3.マクシが遊びに行った後、母親はチョコレートを取り出して、今度は<青の棚>に戻す。
4.母親が卵を買うために出て行ったあと、マクシが遊び場から戻ってくる。
上記の場面を被験者に示し、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」と質問する。正解は「緑の棚」だが、心の理論の発達が遅れている場合は「青の棚」と答える。
 
最初、何のことか、よく分かりませんでしたが、「誤信念を理解すること」というのは、誤信念の存在を正当化することではなく、誤信念を他者が持っているということを理解することのようです。ゆえに、直観的であっても理路があるから、理論というのでしょう。
 
批判というのは、多くの場合、そのような誤った信念があることを発見し、その根拠と理解によって為されるものです。楽山の引用した「心の理論」は、まさに、例えば、ここでは、楽山の誤信念を批判する根拠と理路を表しています。
 
マクシ課題について:
 
注意してほしいのは、問われていることが「チョコレートがどこにあるか」ではなく、「チョコレートがどこにあるとマクシが思っているか」というところです。
 
マクシは遊びに出ていたので、母親がチョコレートを<青の箱>に入れたことを知りません。したがって、「マクシはチョコレートがどこにあると思っているか?」という質問の正解は、「緑の箱」です。マクシは、誤った信念を持つ例として書かれています。
 
「心の理論」は、そういう、子供の発達過程での、誰でも分かるような、極めてシンプルな理路が書いてあるのです。
 
最初、児童心理学の話かと思っていましたが、それだけではなく、心理学の話であり、さらに、"誤信念" は、思い込みや、先入観、固定観念、カルト妄想にも関係してくる話であり、広く思想形成に関わってくる話だと思います。
 
正解することは、他者(マクシ)が誤った信念(誤信念)を持つことを理解しているということであり、つまり、これを心の理論が発達していると言い、発達していない人は、「緑の箱」に入っていることしか知らないマクシの思考を考えることが出来ず、今「青の箱」にあるからと、そのまま「青の箱」と答えてしまう、ということです。
 
学問の理路の話であって、霊感とも、宗教とも、何の関係もないのです。
 
心の理論とは、他者という存在の心の正誤を知るということであり、それが出来ないのは、前にシャロームが、やたら言っていた、一種の自他未分化だろう、という話なのです。
 
ところが、楽山は、そのことを理解せず、自分の極めて怪しい霊感みたいなもの?を、正当化する話に持っていきます。やめておけばいいのに、ここが、都合の悪いことを無視して反省しない人の、何の意味もないのに、実に執拗な、煩わしい執着となっているのでしょう。
 
誤信念を持つこと、広く、誤解することは、誰にでもあることです。しかし、楽山の場合、事実を知らされても、誤信念を、訂正することが出来ない、というところに、重大な問題があるのです。それゆえに、楽山は、心理学の話を、心霊の話にしてしまうのです。
 
こういう、楽山には発達障害のようなものが前提となって、病質によって訂正不能の嘘吐きとなっています。事実を事実として受け取れず、自己中の妄想話に置き換えてしまうのです。
 
楽山は、アドラー教に従って、気に入らなければ無視して、全く改めずに、また同じような手練手管で書いてくる見苦しさであり、人間性をなくしてゆく方向へと、どんどん進んでいるのでしょう。次に引用するところの楽山の言い分は、目を覆わんばかりです。
 
先日は、お彼岸だったので親戚の家に行ったら、ちょっとしたやりとりが切っ掛けで爆笑されてしまった。その内容は、大体こんな感じ…。
自分 (仏間から、居間に戻る)
おば「仏様、拝んだかい?」
 自分「うん、よろこんでたよ」
おば「えっ?」
 自分「拝んだら、仏様が『ありがとう』ってよろこんでた」
おば「仏様、よろこんでたんだ!? ふははははっ…」 (親戚一同爆笑)
 
親戚の人は、奇想天外のことを言う楽山を笑っています。
 
自分は多少冗談っぽい言い方をしたので、笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった。
 
常識的に、おばさんたちが笑ったのは、楽山が冗談っぽい言い方をしたからではありません。魔法のように現実離れしたことを言う楽山に呆れたから笑ったのです。つまり、なに、バカなことを言ってるの、という笑いでしょう。
 
こういうときの病質者の解釈は、自己正当化のために異様です。楽山は、笑われたことから感じることや考えることが出来ない人だと分かる部分です。
 
カルトの萌芽を感じます。楽山は、自分のことを、仏様の気持ちが分かるっぽい?、と言っているのです。この時点で、自分の誤信念を、訂正できなかったのが、今日の楽山を形成しているような気さえします。
 
楽山は、「笑ってもらうのはいいけど、おばさんたちは仏様の気持ちは全然感じないっぽいのには驚いてしまった」と、わざとらしい丁寧語で書いていますが、恐らく、こういう場面で、本音は、お前たちには分からないんだ・・と心のうちに笑って、慢心してゆく楽山の病質形成が表れているように思えます。既に、自分は霊能者という妄想が表れているのです。
 
楽山は、楽山の書いた2年に及ぶ文章から、目覚めや、感動を、人に与えたことはないと思います。おばさんたちが感じないっぽいことを異常のように楽山は言っていますが、中身もなく、感じたと言っている楽山のほうが病気であります。
 
もっとも仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からないことだけど、仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。こういう感覚は、やはり個人差が大きいのだろうか。
 
楽山は、仏様が何を考えているかなんて本当のところは分からない、と言っておきながら、仏様が喜んでいるか、悲しんでるか、怒ってるかは感じるものだ、と言っています。つまり、仏様の心を自分は感じるから分かるんだ、と言っているのです。
 
こういう、いい加減なところから、カルトの詭弁は始まります。楽山は、知りえないはずの超常の存在である仏様を、自分の視野で分かったことにしてしまっています。それこそ、超常を飲食できる自分が表れています。それは、そのまま、誇大妄想であります。
 
楽山が、キリスト教の神を、自分の幼稚な先入観の固定観念で云々して否定してしまう原初的病因が、ここにあるのです。
 
いい加減と言うより、楽山が、仏間の仏像について、「仏様が喜んでるか、悲しんでるか、怒ってるか…そういうことは何となしに感じるものだと思うんだ。」というのは、とても、気味悪く、怖い話だと思います。
 
楽山は、そのまま心が成長せず、体だけ成長して、大人になっても、同じような考え方で、宗教と信仰を、上から見ているということです。
 
楽山は、自分には、心霊が分かるっぽい、という、特別な感性があるんだ、と言いたいのかもしれないが、その誤信念からの超常意識が、訂正されず、人格形成に影響して、病質形成に至っていることを暗示している体験話になっています。
 
楽山は、笑われて恥をかいて、よほど悔しかったのでしょうか、神仏を恐れもしないで、神仏と自分の自他未分化のまま、神秘の世界に入り込める自分を自慢するかのように、また、婉曲表現で自己正当化して、我を張っているのです。楽山という人の、カルト体質の原点を思わせる話です。
 
ちなみに自分としては以前は、これは霊感の一種なんだろうと思ってた。でも近頃は、「心の理論」の延長上にあるという説に説得力を感じてる。相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないかと…。
 
楽山は、「霊感の一種」「相手の心を推測する機能が拡大されて、人以外の存在…仏様、神様、ご先祖様に向けられたのではないか」などと言っています。ここで、既に、日常を超常に結びつける妄想が、訂正不能に形成されているのです。
 
「心の理論」を、勝手に延長して、神仏を、分かる、あるいは、感じることと、受け取っているようです。しかし、これは、全くの誤謬であり、妄想的曲解であります。「心の理論」の延長線上に、霊感によるような神仏理解は、全くないのです。全面的に楽山の危険な妄想です。
 
つまり、楽山は、最初に述べた「心の理論」を、全く理解しないまま妄想に結びつけています。そして、楽山自身は、誤信念を持っていることに、今も、まるで気づいていないということです。
 
心の理論は、少しも誤信念を正当化してはいません。誤りは誤りと書いてあるのを、楽山は曲解して、誤信念の神がかりを、心霊によって正当化しようとしているのです。意図的ならば、悪質な詐欺の企みと言えるでしょう。
 
ただこの感覚は、すごくリアリティーがあるので、人類が進化の過程で獲得した「心の理論」による錯覚にすぎないと割り切ってしまえないのが難しいところである。どうもこの辺りの問題は、一生解決できなそうだ。〈了〉
 
楽山は、自らの神がかった感覚にリアリティーがあると言っています。さらに、それを、人類が進化の過程で獲得した、ゆえに、錯覚だと割り切れない、と言っています。恐怖です。
 
そう言ったにもかかわらず、一生解決できない、などと言い訳して、見せかけの謙譲を装っているのです。こういう騙し文句を出してくることを忘れないでください。どうか警戒して、決して好意的に近づかないでください。
 
知恵と良心の足らない霊能者気取りの自他未分化の者が、自己顕示欲から、自分の霊能は学問に基づいていると言いたくて、詭弁を弄すると、こういうことを平気で言ってくるのです。この記事の虚偽性は、恐ろしいものがあります。
 
念のために申し上げますが、楽山の言に、洞察も、有益性も、深い理解も、一度も見られたことはありません。楽山の言うことは何の役にも立たないと思います。通念的な固定観念から、嘘と詭弁で、超常に飛んでゆく妄想家、それが楽山です。
 
*参考
「心の理論」という言葉は、何となしにスピっぽい雰囲気があるけど、検索してみるとそっち系の言葉というわけでもないらしい。専門家ではないので確かなことは言えないけど。
 
心理学である「心の理論」に、スピっぽい雰囲気など、皆無であります。確かなことは言えないと言いながら、上では、自分の霊感みたいなもの?を進化とまで正当化しているのです。騙されないでください。
 
最初に引用し説明したように、私が上記のウィキペディアの記事で見る限り、「心の理論」は、全くスピリチュアルとは関係のない心理学の話です。
 
心の理論(こころのりろん、英: Theory of Mind, ToM)は、ヒトや類人猿などが、他者の心の状態、目的、意図、知識、信念、志向、疑念、推測などを推測する心の機能のことである[1]。
 
正常ならば、そういう、他者の誤信念の推測と判断が出来るようになる、という話です。それを理解できない楽山は、全く学問的ではないところの、霊感話に変えてしまっているのです。宗教と信仰を語る者として、完全に失格であり、恥ずかしい妄想的自己愛性の病質者です。
 
心の理論とは、他者の心を類推し、理解する能力である。特に発達心理学において、乳幼児を対象にさまざまな研究が行われるようになった。ヒトおよびヒト以外の動物が心の理論を持っているかどうかについては、誤信念課題によって調べられる。この課題で他者の信念についての質問に正答することができた場合に、心の理論を持っていると結論される。一般的に4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる。自閉症患者では障害が認められる。
 
これだけネットから引用しておきながら、楽山は、その意を全く理解していません。自閉症患者と同等の障害なのでしょうか。
 
4歳後半から5歳の子どもはこれらの課題に通過することができる、という、誤信念についての課題を、楽山は、自己正当化に使うほどに、正答が出来ていないのです。楽山は、最後の文をどう読んだのでしょう。「自閉症患者では障害が認められる。」・・私は、故意のペテンか、カルトに陥りやすい自他未分化だと思います。こういう心性のままであることは、怖いと言ってよいでしょう。
 
以上より、楽山は、心の理論を持っていないと判断できるでしょう。危険人物です。
 
・進化心理学と「心の理論」が神と同様にプラシーボ効果を見出すのだろうか?
 
このサイトに書いていること:
 
意図や目的を持った知的行為者(=神)を明確に心に描く人なら、こう推論する(物語る)かもしれません。「治癒が得られたのは、神が本来持つ機能(奇跡)のおかげである」
 
キリスト教は、全知全能の神を説いていますが、それは、治癒が神の機能だというためではありません。神を信じれば、病気が魔法のように治るでしょうか、そんな理路も教理も、否です。今の時代の少なくとも滅多に物や肉体の奇跡が起こっていないという現実が、その根拠になるでしょう。
 
キリスト者が信じている神は、信じれば病気を治してくれるご利益の神ではありません。したがって、信仰は、プラシーボ効果でもありません。楽山という心を持たない者の妄想です。
 
楽山は、とても幼稚な神を想定して、それよりも、という、学問の味付けをしたつもりの一種のカルト思想を宣伝しています。警鐘として、はっきり繰り返します。楽山に騙されないでください。行き着くところは、極めて危険です。
 
楽山は、シャロームと同様に、無反省に妄想正当化のために詭弁を弄するペテン師であり、宗教についても、学問についても、語る資格などないと思います。
 
キリスト信仰の立場からは、明確な敵対者として、反キリストとして意識して、私のブログ等々を介して、警戒情報を敷衍してゆくしかありません。どうか、楽山を相手にしないでください。楽山に関わらないでください。楽山に近寄らないでください。危険です。
 
 
キリスト教とキリスト信仰は、むしろ、この地上に溢れている嘘八百のカルト的妄想に囚われることからも、楽山のような軟派カルト宣伝者からも、人間を解放し、人間の学習と成長を促し、より人間として相応しい温もりと潤いを求めるためにあるのです。
 
キリスト信仰は、けっして神がかりの感覚や奇跡や境地などではなく、人間として学びながら歩んでゆく地道で一途な道です。その歩みを支えるのは、聖書を読むことからの、キリストからの愛であり、キリストへの愛であります。
 
 
理路と詭弁

理路と詭弁
 
 
(2019年03月31日アップ、同日一部修正)
(2021年03月02日、加筆して再録)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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