ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:心貧しさ

 
NTTより電話がありました。今日が、光接続の工事です。私はネットの仕組みが分かっていないので、ブログを休むのかどうか分かりません。
 
 
 「排泄の口、誰の前で幼子?」3
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 余計な先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子 =  敬虔
 
精神の貧困= 余計な先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
少なくとも現代において、神・キリスト・聖霊は、目に見えません。神にお任せするのは、非力でも人が精いっぱい、できる範囲で、正しさを求める言動に努めた上でのことです。神にお任せすると言って、努めず、学ばず、考えないのは、安穏教であって、キリスト信仰ではありません。
 
人には考えることと感じることがあります。このことに無頓着になっているような信仰はありません。神は、人を、感じて、考え、行動する存在として造られたからです。聖書の、悲しみ苦しむキリストを忘れてはいけません。精いっぱいを尽くしたのち、祈りに答えて、安らぎは与えられます。
 
"精いっぱい" というのは、作業や結果の量ではありません。
 
マタイによる福音書22:37,39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
 
"精いっぱい" は、個人によって違います。病気の人は治療と療養で精いっぱいでしょう。怠慢で人をだましてあざ笑う楽山などは、精いっぱいだったことは一度もないのだろうと思っています。
 
 
信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想

信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想
 
 
(2011年)
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月09日、再録+加筆)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)のように
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)のうちに
崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
 
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  いだかれて眠るとき
 
昔覚え
昔忘れた幼い言葉に
包まれて眠る夢の中に
生き生きと遊んでいる
雫の時
まるで未知のように
幼子とひとつ
そのときは長さではなく
そのときは広さではなく
そのときは名前ではなく
滴り落ちる前に
影絵のように切り抜かれて
短い目覚めの朝
心残りに細い記憶を
たどれば呟くのだ
何か低く
きらめいていたと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、自己顕示欲から、多数のHNを使って成りすまし、無責任に、あちこちで言いたい放題で、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。そういうのは、混乱させるだけだと分からず、百害あって一利ないことを繰り返しています。
 
 
 
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詩のようなもの2つ、宗教詩2つ+。
 
 
  好きです
 
悔いが作らせるような
悲しい歌が好きでした
 
自分を責めることのできる人が好きです
過ちを悔いることのできる人が好きです
それは近寄ってくる人々からの
賞賛の笑みも報酬も
勝ち取ることはできないかもしれない
わからない けれど
利得による関係は人間関係ではありません
論理による関係は人間関係ではありません
ときには他者を激しく憎み
しばしば社会に馴染(なじ)めず
何よりも自分を好きになれない
矛盾だらけでも
そういう人は好きです
悔いる者は幸いなり
彼らは人の国を受け継ぐであろう
と不遜にも言いたくなるくらい
好きなものは好きなのです
 
小さく弾(はじ)ける孤独な叫びが
最後に身を投じる暗い静寂(しじま)の潜熱のような
哀しい歌が今も好きです
 
(2002年07月12日、HPにアップ)
 
 
  茶柱
 
私の夢よ
憧憬(あこがれ)よ
その茶柱を取ってくれ
そして息になぞらえて
吸い込む姿勢で待ってくれ
私は去りはしない
 
絶え間なく裏切りの
喪章をつけた野良犬が
喜びに餌も忘れて
茶の間から宵闇への道
半旗の中を走っていくよ
 
私の歌よ
悲しみよ
その茶柱を取ってくれ
そして眉間にながらえて
戸惑う息に耐えてくれ
私は去りはしない
私は笑っては いない
 
(1997年3月19日、HPにアップ)
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
信仰告白より
不信仰告白のほうが
嘘が少ないからだ
 
 
  宗教は
 
いるともいないとも証明されない
神様を信ずるのだから
宗教は
無神論と同じくらい
あやしげなものである
 
しかもそれを
人の筆でつづり
人の口で語ろうというのだから
宗教は
無関心と同じくらい
あやうげなものである
 
 
 
信仰の危うさは
信仰者の成長を進めるためである
危うい時には
強く思い込むことではなく
人間として考えることが勧められている
 
 
 
信仰には、詳しい知識・知性・知能などの
特別のインテリジェンスが必要ということはありません。
 
信仰に必要なのは、人間らしい心です。それだけが必要です。
 
人間らしい心というのは、信仰者であってもなくても、成長可能な心ということです。
 
何かを訂正不能にした人間離れした心では、
一生かかっても、理解ではなく、誤解しか生じません。
 
訂正不能が続けば、曲解になり、妄想またはカルトに至るでしょう。
 
カルト化したキリスト信仰を見ることは、実に、稀ではありません。
 
 
今まで、何度も書いてきたように、キリスト信仰は、聖書を読んで、キリストを好きになった人が、キリストと父なる神に、生きる希望を寄せることであります。
 
したがって、神の完全性の辻褄など、分かりもしないことを、楽山のように、この世の先入観的な辻褄合わせで神を否定する屁理屈の輩などは、最初から、全く信頼するに足りないのであります。
 
 
大事なことなので、また書いておきます。
 
信仰者になって、先入観だらけになってはいけません。
 
 キリストに愛される心の貧しさとは、先入観がないことです。
 キリストに憎まれる精神の貧困とは、先入観しかないことです。
 
 
夢と憧れ

ゆめとあこがれ
 
 
(2021年03月17日、再録+)
 
 
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