悪用する楽山
 
 念仏を悪用する善人?
 (『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著)
 楽山日記(LD) 2021年06月16日
  を批判。
 
楽山は、字面の机上の表面的理解?だけですから、実質が何もないということだけが表れてきます。キリスト教において、そうであり、今度は、仏教において、また、同様です。言ってることと、してきたことが、まるで、整合しない、という病的な人物の日記です。
 
『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』を読んでいたら、念仏について書いてあったのでメモしておきたい。
まず念仏には、次の誤解がつきものだったという。
「どんなに悪いことをしても、死ぬ前に念仏を唱えれば阿弥陀さまが救ってくれるんですよね。じゃあ、どんどん悪いことをしちゃいます。よし、おまえら! 偉いお坊さんのお墨付きが出たぜ、ヒャッハー!」
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶著、河出書房新社〈河出文庫〉、2018年、p.382)
 」
 
楽山やシャロームの意地悪な笑いじゃあるまいし、念仏を唱えれば何をやってもいい、なんてことは、恐らく浄土宗・浄土真宗の人も考えていないと思います。楽山は、今度は、すさまじい仏教への侮辱です。楽山は、野良犬から、狂犬へと向かっているようです。
 
ヒャッハー!・・は、楽山の笑いでしょう。また、楽山へのブーメランか吹き返しとなっています。いかなる良書も、自分を飾り正当化するためだけの、言葉あさりとなってしまう楽山には、実りなき砂漠の乾燥した痛い風が、返ってくるだけなのです。
 
しかし実際のところ、「そういった誤解をする者は、すべて「(親鸞が言うところの念仏の効能が働きにくい)善人」なのだという。その理由は次による。 
なぜなら、彼らは「他人に迷惑をかけようと、最後に自分だけが救われればよく、それが賢い『うまい生き方』なのだ」という価値観を持っており、その価値観のとおり「自分が正しいと思うこと」をやって満足しているのだから、実際には悪事を働いていようとも彼らは「善人」であり、「他力」の境地にいたることはないのである。
(同上、pp.382-383)
 」
なるほど、悪人正機説でいう悪人は、罪の自覚が強くあり、正しくありたいと願いつつも、それができず、残された道は他力にすがるしかないという心境にある者とすれば、上の念仏を誤解する者は罪の自覚なく、他力にすがることもなく、自分で自分の生き方を決定できると思い込んでいるのだからそれとは正反対である。
 
恐らく、親鸞の言う善人は、善人の自覚だけか、偽善者に近いのではないかと思います。人間が、完全な善の人になることは不可能です。私たち人間は、自分の言動の影響を、果てまで追うことは出来ません。ゆえに、善かれと思って傷つけることがあり、善とは言えないのです。
 
ゆえに、悪人、そして、罪人の自覚は、最低限、必要なのでしょう。その自覚のベースにおいて、キリスト信仰においては、赦しと祈りがあるわけです。それを、全く自覚しないで、無反省と無責任の生き方をしている楽山は、対立軸以外の意味はありません。
 
楽山は「自分で自分の生き方を決定」して、宗教をオモチャにしているのだから、仏教においても、キリスト教においても、正反対のあり方ということです。よりによって正反対の楽山が、他者一般のことを「正反対である」などと言うのは、自分を見ない者の宿命であり、とても、滑稽です。
 
「死ぬ間際に念仏を唱えれば救われるんだったら、それまでは好き勝手にヤリたり放題して生きようぜ」というのは間違いだと感じはしても、どこがどう間違っているかはうまく説明できなかったのだが、この解説を読んでよく合点がいった。いい気分。
とはいえ、この定義でゆけば、自分はまだまだ「善人」の傾向が強く、「悪人」になりきれていないのがつらいところだ。とほほ。
 
楽山は、そういう意味では、"善人" でもなく、罪人より悪質の、偽善者という言葉がぴったりなのです。それで、善が分かったとばかり「いい気分」なのです。自分を人間として俎上に載せることのできない自己愛性人格障害の楽山ですから、真剣味が表れたことなど一度もない人です。
 
詭弁屋そして嘘吐きの楽山の「とほほ」=テヘヘ(ごまかしウソ泣き)と思ったほうがいいと思います。病質者なので、書くことを止められないのです。おそらく、一生、しらばくれて、善人ぶっては、裏切り、疲労と徒労だけを他者に与え続けることでしょう。
 
楽山の今までを見れば、否定を言って、のちに反省も訂正もなく、肯定を言う繰り返しですから、矛盾であり、平気で言い続けるのは、責任感がなくて、高等感情もなくて、いい加減な人格であることを示すと同時に、内実は何もないということを示し続けているだけなのです。
 
 
自らの不毛を知らず

自らの不毛を知らず
 
 
(2021年06月17日)
 
 
 
  切符
 
前触れもなく場面が変わって
切符がない
切符を切る人もいない
大事な仕組みだったような気がする
探す街並みは区別がつかない
名前を忘れていることさえ忘れて
切符を探す
ここに住んでいる埃(ほこり)は
どこにでも入っていって水や油と親和する
埃を逃れて郊外へ続く道すがら
幾つもの大小の跳躍が道の限界を教えるが
切符さえあれば
切符
片道でもいい
なくした顔の数々を刻んで
切符
数々の挨拶を葬りながら
辿(たど)り着き立ち尽くす
廃線の廃虚の駅から
敷き詰められた砂利の下に
どこまでも続く線路が
片道切符を教えている
 
 
  烏兎怱怱(うとそうそう)
 
太陽が烏(カラス)だったころ
烏は金色の熱と霜を連れてきた
 
月が兎(ウサギ)だったころ
兎は満ち欠けと星を連れてきた
 
烏兎怱怱(うとそうそう)
 
兎は逃げて切り株に転び
逃げ回って草を食(は)むことに長じた
 
烏は人里を飛んで黒い雲に染まり下りて
啄(ついば)んで嘴(くちばし)を曲げた
 
日が昇ると人里に幾つもの縮んだ瞳が瞬き
月が昇ると森に光る瞳が開くのだが
 
霜から泥濘(ぬかるみ)に落ちた
かつての縁(えにし)を
星はもう映さなかった
 
(90年代か)
 
 
 
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