ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:怠け者

 
  楽山の世辞と無責任
 
 「第十七講 ヨブの見神(一)」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年05月01日 楽山日記(LD)
 
 
批判されて、答えることも返すことも出来ない反キリストの楽山は、今回、見苦しくも、伝道者である内村鑑三を、褒めているようです。ここで、褒めて舞い上がるのは、卑怯者だけでしょう。
 
このように、批判したが、褒めたから、責任はない、という文脈は、以前にもありました。責任逃れに過ぎません。本当に汚い男です。
 
楽山は、楽ではなく、山ではなく、落石です。危ないから、よけてください。
 
「第十七講 ヨブの見神(一)」を読んだので、要点をメモしつつ感想を書いてみたい。
「第三十八章の研究」。
「人の声は人を救うことは出来ぬ。神の声のみ人を救い得るのである」。
第三十八~四十一章について、「これ真の見神実験記である。人もし信仰と祈禱の心とを以てこれに対せば、これが真の見神記なることを認め得るであろう。いたずらにこれを貶するが如きは敬虔の念乏しく真摯において欠くる所の態度である」。
 
神を見る、と解すれば、大いに誤解がありそうなことを、楽山は、気遣いや思いやりが皆無なので、説明をしません。恐らく、故意に、キリスト教の信仰は、神を目で見ることだ、という誤解を広めて、その上で、否定したいのでしょう。こういう男だから、信頼度は、とっくにゼロ~マイナスなのです。
 
(ネットより)
けん‐しん【見神】 の解説
霊感によって神の本体を感知すること。神霊の働きを感知すること。
 
神の御心であろうか、導きであろうかと、いつもではないが、感じることはあります。しかし、それで、人に、いちいち説明のつくような生き方を、神は、人に、与えないだろうと思います。
 
何故なら、人は、神よりも低い存在として造られており、一気に、神を目で見たり、神のように完全になることはないからです。だから、前から言っているように、神を目で見るとか、耳で声を聞くとか、神秘が与えられることに執着するのは、キリスト信仰ではないのです。
 
楽山は、"見神" ということが気に入ったのでしょうか。今までも、楽山の興味は、超常や神聖、そして、霊など不思議な力や現象に向かっていました。それは、恐らく、楽山が、勉強する気のない怠け者で、霊能や超能力で、一気にスーパーマン的なものになりたいからでしょう。
 
楽山が、そういう霊の話、スピリチュアル、霊言、ホラーや冒険アニメを、好んでいることに表れています。そのような怠惰なのに欲望だけが強い者を、神が是とするでしょうか、どう考えても否であります。
 
つまり、楽山は、神にも、真実にも、もちろん真理にも、正しさにも、感動にも、共感にも、縁のない人だということを、楽山の書いたものによって、書くたびに自ら証明しているのです。
 
「エホバの声はとかく人の道が窮まった時に聞ゆるものである」。
 
神の声が聞こえるといっていますが、実際はどうなのか、ボイスなのか直感なのか感動なのか、誰も知らないと思います。幼稚な超常趣味の楽山ごときに利用~悪用されるような伝道者ではないから、内村鑑三は信頼を得ているのです。
 
私は、神については、人が、姿を目で見たら目がつぶれる、耳で声を聴いたら鼓膜が張り裂ける、さらに燃え尽きる、・・くらいに、思っておいたほうがよいと思っています。神を、甘く見て、舌で舐めている楽山の、罪業の深さは、楽山を、反信仰、反キリストに、どんどん向かわせています。
 
「神は地とその上に住む人を空しく造ったのではない。されば我らは地を見てそこに神の愛を悟るべきである。そして安ずべきである」。
 
書いてあるように、内村鑑三の言う見神は、「地を見てそこに神の愛を悟る」ことではないかと思います。神を目で見る、奇跡を起こす、というのでなくても、「地を見て」だけでなく、人に起こる様々な信仰の表れを見ることは、恵みであり、救いであり、平安をもたらし、人を生かします。
 
これら福音の一切を、自己愛性人格障害によって捏造の観念から偏執固定している楽山は、全く知りません。楽山は、何も知らないことが表れているのに、書くことをやめません。書くと恥ずかしいのでは?という羞恥心がないのです。
 
楽山は、誰の助けにもならない口であり、何も語ってほしくない反キリストであり、嘘吐き宗教ペテン師なのです。
 
本講は内村鑑三の体調不良のためか短いものになっている。ただ体調はよくないにしても情熱はいささかも衰えてはおらず、一言一言に力があり、心に迫ってくるものがある。これが信仰というものなのだろう。
 
伝道者の、志や、情熱や、言葉の力や、真に迫ることなど、受け取る気がない楽山には、信仰というものについて、語る資格などありません。語れば、信仰の邪魔になるだけであり、無理解からの反信仰が表れるだけです。病質者の楽山の言葉は、広まれば広まるほど、不幸を、関わる人に及ぼすでしょう。
 
信仰というと静寂に向かうイメージがあるけれども、それとは反対に非常に活動的、積極的な方向に進む場合もあり、ここでの内村鑑三は後者のようだ。
 
信仰の静寂のイメージも、楽山においては、理解されていないと思います。何故なら、信仰による静寂とは心の安らぎであり、活動性や積極性の反対ではありません。何も分かっていない者が、何も分からずに、分からないことを書いています。迷惑も甚だしい。
 
楽山の口は、いつも災いです。嘘吐き楽山からの、溝も水路もないままに流されるインスタント腐食廃液を浴びないよう注意してください。
 
楽山は、嘘を吐いて空振りばかりして、ずっと前から、この記事のように中身も理解もない口だけ宗教を発信してきました。楽山の情報の信頼性は皆無であり、災難の時には、楽山のような良心カラッポ人格は必滅であり、人々はその巻き添えを食わないように警戒が必要です。
 
前に書いたことのある「狼と少年」は、いずれ、狼が、羊を食べつくし、嘘吐き少年をも食べてしまう話です。それに喩えれば「災いと楽山」であり、つまり、楽山は、いつも嘘を吐いて、自身の災いを感じず、知らせず、本当の災いの時には滅びをもたらす厄病神の機能しか持っていないのです。
 
 
うっ血性ピエロ

うっ血性ピエロ
 
 
{2021年05月03日}
 
 
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 宗教は幸福感を得るための手段である!
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 楽山日記(LD) 2020年04月25日
 
 
楽山の、偏向した、安っぽい、悪い材料だけ見せてくる詭弁の、宗教への執拗な侮辱が、全開です。
 
一部の間違っているところだけを論(あげつら)って、キリスト教全体を否定してくる楽山の詭弁は、吐き気を催すだけです。
 
この文章からすると、著者は宗教は目的ではなく手段であると考えているようだ。
幸福! 幸福! 宗教は人々がこの賜物を手に入れるための方途の一つでしかない。容易に、半永久的に、そして有効に、宗教はしばしば、もっとも耐えがたい悲惨をも、もっとも深くもっとも永続的な幸福に変形するのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.265)
 」
 
まず、自己愛に陶酔することによって、他者や人間一般を無視し、自分だけの勝手な幸福感を得ようとしている楽山が、自分を棚に上げて書いていることを強調しておきます。
 
キリスト教と称して、神を恐れぬ傲慢や、学者気分や、陶酔気分や、ルサンチマンによる被害意識などといった間違った信仰?が、キリスト教内外にあり、それは、勘違いから生じているわけです。また、キリスト者に成りすました自己中妄想のシャロームのような偽キリスト者もいます。
 
そのことは、私のブログの記事にも、信じ込み思い込み信仰の罪として、長く批判してきたところであり、人間的な潤いと温もりがあれば理解できるはずですが、楽山は、恐らく、そのような人間の深いことが全く理解できないのでしょう。
 
誰も避けようのない死とか不幸とかの運命に対しては、慰めの必要な人に、それを与える救いが必要です。楽山は、その必要を考えないので、間違った信仰の例をもってキリスト教とキリスト信仰をおとしめないではおれない悪意の宗教知ったかぶりの異常者であります。
 
楽山は、自己陶酔のプライドを傷つけられた、というより、元々根拠のない自尊を批判され否定されると、寸足らずの言論で、露骨に、おとしめてくるところの、カルト妄想の反キリストです。
 
宗教を否定し、おとしめる発言を続けながら、楽山自身は、宗教に変わる救いを、何も用意できません。楽山は、自己中なので、人のことなど気にしていないからです。
 
無理解のために、勘違い、さらには、知識不足、怠慢、自己愛、霊能者気分、超人気分の陶酔、ルサンチマンの裏返しによる神を恐れぬ傲慢、などによって、凶暴な悪意をもって、キリスト教を毛嫌いして、あくどく、嫌味ったらしい貶めをしてきたのが、楽山その人であります。
 
まさしく、反キリストとして、楽山は牙を剥いてきました。どれもこれも、こう書いてあるとばかり、学者の説をあげないと何も言えない、というより、学問を悪用しているだけの楽山の煽動です。どこまでも空疎で、災いしか与えない楽山です。
 
キリスト教は、陶酔気分によって、悲惨を幸福に変形する宗教ではありません。その勘違いの例をもって、キリスト信仰の救いも恵みも踏みにじろうとする悪魔性の迫害者が、楽山その人であります。楽山は、本性を表し、牙を剥いてきました。
 
これは確かにその通りだ。宗教は一見したところでは、事実、真実を教えているようだが、実際にはそうではなく、物事の解釈、意味づけをしているにすぎず、宗教はこれによって人の苦しみや悲しみを軽減しようとする。たとえば近親者の死を嘆く者には、生死には意味があるとしたり、死者の魂は天国で平和に暮らし、地上で生きている者を見守ってくれているとしたり、いずれ時がくれば死者と再会できると説くなどして、その苦しみや悲しみを癒そうとする。
 
楽山は、個人的にも、自分発想でも、独創性による宗教理解を追求することが全くできないので、このように、「これは確かにその通りだ」と言うしかないのです。そして、その上でサーフィンでもしているかのように、宗教=空想、という妄想を、吹き込んできます。
 
信仰の真実は、何一つ分かっていない楽山が言うような物事の解釈の空想的な意味付けではありません。宗教が不幸を勝手に意味付けして騙しているとでも言いたいのが楽山ですが、楽山が、代わりの生きるよすがなど何も提示することはなかったし、これからもないのです。
 
楽山は、自らの不遇と不幸に、人を巻き添えにしたいだけなのです。その結果として、とても冷たい自らの人格を、世辞や、オトボケや、丁寧語で、ごまかすしかないのです。
 
さらに、では、どうしようもない不幸に対して、楽山は、何をどう言えるというのでしょう。何も癒しを持ち得ず、教えることが出来ない楽山、愚かです。この人にだけは、人生の相談をしないでください。自分のことしか考えない人です。
 
この他、神、天使、仏、菩薩、守護霊、生まれ変わり、カルマ、神の試し…なども、どれもこれと同じような効果を持っている。この点、宗教は悲惨を幸福に変えるための不思議な道具ではある。
 
私は、神聖の言葉、超常の奇跡、などは、人間には手に負えないから、それを信仰の根拠にしてはいけないということを、何度も書いてきましたが、楽山は、また、同じような、けなし言葉しか使えないのです。
 
しかも、超常神聖の霊の分かるっぽい自覚に生きているのは、他でもない、楽山であります。実際は、楽山は、楽山の言う超常についても、キリスト教と信仰についても、何も知りません。知らないのに、知ったかぶりをするのが、自己愛性人格障害の症状であります。ゆえに、書くたびに、幼稚な無理解を露呈してきました。
 
楽山は、私の書いたものを理解する気もないということです。このことは、楽山が、受け取らずに、勝手に書きたいことを書く、受信せずに発信する、という、自己愛を振り回すだけの言論失格者であることを示しています。
 
楽山は、霊が分かるっぽい自慢と自己愛によって、ブログを書いています。教祖にでもなるつもりなのでしょうか。そのための学問的味付けを求めて書物を漁(あさ)っているのでしょうか。ただの好事家ではなく、人間離れの神がかりの超人意識に生きているのでしょう。
 
楽山は、前に「心の理論」という記事で、自分の親族を仏様の気持ちが分からないっぽすぎると言い、ゆえに、霊の話に興味があって、仏様や霊の気持ちが分かるっぽいという自覚を表し、神霊や超常に興味を持っていることを明らかにしています。
ろくに、本の真意も理解できないのに、インテリ気取りで、人をボンヤリ言語と詭弁で騙すのは、楽山の生業のようになっています。本業は詐欺師ではないかと思うほど、嘘と詭弁だけが、楽山ブログの大半を占めています。
 
ただこれがために宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ。宗教によって幸福感を得た者が、宗教に依存するようになり、そのあげくに宗教は手段ではなく目的であると勘違いして、宗教に奉仕させるのでなく、宗教に奉仕するようになってしまうことがある。宗教が人に奉仕するのでなく、人が宗教に奉仕するようになってしまってはおしまいだ。ここが宗教の怖いところではある。
 
宗教は、勘違いすれば、悲劇をもたらすことは明らかですし、事実でもあります。ですから、私は、超常意識に思い上がるような誤ったキリスト教への批判も書いてきました。
 
しかし、宗教が悲劇をもたらすのは、楽山の訂正不能の偏見もそうですが、信仰者の場合、信仰が、神への勝手な思いこみの固定観念みたいな持ち物になった場合であり、間違った信仰の場合であります。
 
したがって、楽山が「宗教が悲劇をもたらすこともあるからやっかいだ」と言うのは、無知と無恥のなせるところの、路地裏の濁った水溜まりで跳ねているだけの、仲間外れの瀕死の虫の泣き声に過ぎません。
 
聖三位は、決して、人の持つ観念で扱われる御方ではありません。神を観念として扱う者は、その報いを受けているだけなのです。
 
宗教って人に奉仕するものでしょうか。楽山の的外れです。何らかの生きる力を与えられたから、人は、神を救いと信じるようになるのです。それゆえに奉仕もするでしょう。楽山のような怠け者の人生観には、そういう要素がないのでしょう。だったら黙っておれ、ということです。
 
自分に奉仕する宗教と神なら信じてやろう、という楽山のトンデモ欲望があらわになっています。自己愛性病質の症状ばかりが目立ちます。宗教は、楽山に対してだけは、奉仕どころか、安らぎも癒しも救いも、もたらすことはないでしょう。
 
しかし、私は、信仰がもたらす、絶対孤独からの解放という恩恵について、また、キリストの愛と共感、キリストへの愛、という、絶望を希望に変える信仰を書いてきたつもりです。これらについて、全く感受性を持たないで、何も受け取らず、嫌らしい宗教荒らしになってしまったのが楽山であります。
 
こういう考え方は、宗教を目的とする熱心信者からは嫌悪されるだろうけれども、宗教の奴隷にされて骨までしゃぶられるようなことになりたくない人は、宗教は目的ではなく、あくまで手段にすぎないという考え方は知っておいて損はないはずだ。酒は飲んでも飲まれるなというけれども、宗教もこれと同じで信じても飲まれたらいけないし、適切な距離を取ることを忘れないようにしたい。
 
「熱心信者からは嫌悪されるだろう」と書いている楽山の言う熱心な信仰は、楽山の視野で捏造したものです。このような、程度の低い思い込みで、宗教批判を書けると思っている楽山の重症度が表れているだけなのです。
 
キリスト信仰は、真実の可能性に導くものです。楽山が持っていない人間としての理性と情緒を養うものです。骨まで腐った楽山のようにならないために。
 
楽山の言こそ、飲むな、飲まれるな、関わるな、真に受けるな、と言いたいのは、すべて、楽山の病的な自惚れが書かせているに過ぎないからです。この楽山の自惚れは、皮も、肉も、骨も、髄も、しゃぶりたがっている楽山の病気なのです。
 
ゆえに、宗教を理解できないのを、宗教のせいにして、ナルシストの低劣な本性がバレた今となっては、安っぽい引用と、成り立たない理路をもって、自らのカルト精神を省みもせず、宗教を、未熟な理屈で決めつけ、それこそ、理路もなく悪あがきの詭弁の反復によって、批判にならない悪口だけを書いて、刹那の自己満悦を得たいだけの自慰行為になっています。
 
こんなことしか言えないのかというほどに、楽山の反キリストの主張は、定型的となり陳腐になってきました。そのことさえ学習拒否によって知らないままの楽山の、物知り顔の丁寧語を、実際は、無知と無恥からの暗示と刷り込みの言葉を、すなわち、良心を食い尽くす牙を、どうか真に受けないでください。
 
 
腐ってゆく攻撃性

腐ってゆく攻撃性
 
 
(2020年04月26日、同日一部修正)
 
(2021年05月02日、再録+、同日一部修正)
 
 
 楽山のツイッターですが
 
言葉による表現や主張が成り立たない者は、曖昧な暗示による印象操作に走ります。その意図が見抜かれれば、成り立たないのはいっしょなのですが、病的な自己満足の楽山は、学習と成長がないので、卑怯な書き方をしても、正常で正当だと思い込み続けるのでしょう。自覚も病識もあったものではない精神病理の中に、どっぷり浸かっているのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·2時間
wikiによると、幸福実現党の党首は2013年から8年近く変わってないですね。党首選挙をした話も聞かぬ。党総裁にいたっては一時的に空席の時期はあれども、2009年から大川隆法氏が独占している。
幸福実現党が専制、独裁に反対してたとは意外です。
午後8:18 · 2021年4月30日·Twitter Web App
 
人の言うことは聞かない、進歩も成長もないことを繰り返し言ってくる、など、自己中の専制と独裁の妄想的執念で、病的に自分勝手なのは、楽山です。恐らく、体質的で人格的なものだから、生まれ育ってから、変わっていないのでしょう。
 
カルトはいろいろあれど、楽山は、幸福の欠片も、もたらすことのない詭弁屋です。どうか、だまされないように、関わらないように、近づかないように、注意してください。
 
楽山は、反省せず責任を負わない人ですから、人のことをとやかく言う資格はないのです。病気のせいで、それが分からず、今も、自らを省みないまま、書いてきます。
 
楽山の言は、殆ど、独りの部屋で、ぼやいているだけのようなものなのに、それを公開してくるのは、病識がないことに加え、異常に過剰に執拗な自己顕示欲の我執がそうさせるのでしょう。一途に我執だけを信じ込んで、正当化してきた楽山です。
 
楽山の書く文章には、欺瞞の臭みはあっても、個性につながる味がないのです。楽山が、前に言った台詞、"・・ていうか・・"、という無味の曖昧さが繰り返されているだけの文章です。これが、だますために、または、自慢するために、拵え、設えてゆく筆致なのでしょう。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
百田尚樹氏は、かの団体について、宗教ではあっても、カルトではないと考えてるんだな 絵文字(考えている顔)
引用ツイート
百田尚樹
@hyakutanaoki
 · 16時間
「日本第一党」と「幸福実現党」が一議席ずつでも取れば、国会も少しは面白くなるのになあ…
「幸福実現党」は宗教やからと言う人がいるが、公明党よりは100倍いい!
 」
午前6:38 · 2021年5月1日·Twitter Web App
 
A級戦犯を支持しているネトウヨの楽山は、改憲派で右翼の作家の言を引用しています。批判しているのか、賛同しているのか、はっきり書いていないツイートです。
 
自分の主張が、偽物ばかりになってゆくと、引用に付けるツイートも偽物になってゆきますが、考えるということが、病質のために、自省を含めた中立な思考にならないので、いっそう曖昧な筆致に逃げることになるようです。
 
いわゆる暗示という筆致で、これも誘導の詭弁なのでしょう。こんなこと言ってる・・と書いて、あとは、分かるでしょ・・という感じになります。
 
楽山の言にあっては、宗教の定義も、カルトの定義も、楽山の恣意によって決まるので、当てになりません。自己愛性人格障害の楽山には、自分の主張以外は、邪悪なカルト扱いになるのではないかと思います。
 
根拠無き高みに自分を置いて、人の悪口を言うのが生き甲斐になる自己愛性人格障害は、こういう不幸と罪悪をもたらすのです。
 
自己愛と、自己の人間としての尊厳とは、全く違います。自己愛に、人それぞれが成り立たない根拠でもあります。つまり、自己愛は、宗教にも信仰にも思想にもなりません。強いて言うなら、自分信仰という最悪の偶像崇拝になるだけです。楽山を信用しないでください。
 
 
(2021年05月02日)
 
拵える(こしらえる)
設える(しつらえる)
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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