ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:恵み

 
  疑い
 
 
人間に分かる信仰、どこまで人間に分かるのか、というテーマについて、これまで考えてきたことを書いてみます。
 
 
神の性質は、全知全能・絶対完全・永遠不変、などと言葉で表します。これらの性質は、人間には手に負えないものです。人間は、全知ではない、全能ではない、絶対ではない、完全ではない、永遠ではない、不変ではない・・からです。すなわち、人間は、不完全ということです。ゆえに、罪を犯します。
 
 
Q.神は、将来起こることもご存じなのか。つまり、未来は、既に、決まっているのか。だったら、何をしても無駄ではないか。
 
A.運命論的な考え方ですが、招来は決まっているとしても、人間は、それを知らないのですから、折々に、最善を考えて、努力するしかないのです。それが、人間の宿命です。努力しないのは、ただの怠慢であります。それが、全知全能の神に対して恐れをいだく信仰の根拠であり、信仰の動機であります。
 
 
Q.神様は守ってくれるのか。ならば、なぜ、この世に悲劇が起こるのだ。
 
A.神が人を守ることが、人の都合に合うとは限りません。神が守ってくれると、人の知恵で思い込む信仰は、ご利益信仰に陥りやすく、起こった出来事を自分で解釈して神の意志を、こうなんだ、と決めつけるという背教にもつながりやすいでしょう。
 
それに、神が統べる世界が、この地上だけかということも分かりはしません。神だけがご存知のことです。私たちは、この地上にいて、この地上で成り立つところの、人が学ぶべき真実と善と正義を学んでいますが、不完全ゆえに、何をもって守られていると言うのかさえ知らないのです。
 
それと、試練ということが、よく言われますが、これから試練が起こると分かるわけではないのですし、見方によっては、一生が試練なのかもしれません。信仰は、未来の安全を保証すると考えるのは、傲慢です。信仰生活は、起こったことに対して、人間として、出来ることをして、祈ることことです。
 
 
Q.信じて、試練だけなら、信じることは空しい。
 
A.私たちは、不完全で罪深い人間です。それは信仰者になっても変わりません。恵みや試練を決めつけてはいけません。恵みと思ったことが試練であるかもしれないし、試練と思ったことが恵みであるかもしれません。全部、恵みと思うことは、人間には酷です。思い込み信仰に陥る危険があります。
 
喜び、感謝し、讃美するのが信仰の務めだと思い、悲しむという人間の陰性の感情を抑制していると、だんだん人間離れになってカルト化してゆく可能性があります。信仰者にとって、多くの目覚めや気づきという恵みは、悲しみを通して与えられるでしょう。神に対して正直であってください。
 
信仰の直接の恵みは、ただ、神に正直に祈る時と所が与えられることです。人に正直になれないことが多い地上では、信仰者にとって、包み隠さず告白できる祈りは、宝物となります。できることをする努力以上の、例えば、自分の人生の成功や失敗という結果は、神に任されることです。
 
信仰は、人に都合のよいことが、生涯にわたって保証されることではありません。信仰は、生命保険ではありません。洗礼受けたから、キリスト者になったから、大丈夫ということではありません。信仰が人生に与えるのは、生きる活性です。絶望の崖っぷちで、それを得た人がいるということです。
 
神は、何か良いものをくださるかもしれません。しかし、人は、それを、良いか悪いか、完全に判断する能力を与えられてはいません。私たちは、地上に生きるあいだ、地上の物事に縛られているのです。信仰が、神秘的な悟りのような達観を与えるというのは、人には分からないことです。
 
 
Q.信仰者は、他者より、悟っていて、優れているのか。
 
A.そういうことはないと思っていたほうがよいでしょう。キリスト者の偉人の話は、多く、死後に語られますが、そういう人々になるために信仰があるのではありません。キリストが、語りかけた人々は、ふつうの人々であり、救いの言葉をかけたのは、ただ、余計な先入観を、持てない人でした。
 
 
Q.善人にならなくていいのか。
 
福音書には、多く善人とは言えない人が救われています。信仰は、人の判断する善では測れません。同様に、信仰は、人の判断する正義でも測れません。信仰は、ただ、精いっぱい、正直な祈りをしているかどうかです。大きな勘違いがあるようです。
 
戒めを守って、正しい人に、良い人になる、これは、パリサイ人が目指したことです。キリストは、それを打ち破るために、神に相応しい人を、悪人や病人から選んでいます。守っていると言う青年には、守れない教えを告げました。信仰の真実が、高が知れている人の善や義ではないことを教えています。
 
 
Q.いつも祈っておればよいのか。
 
A.祈らなければ・・で、祈るのは、強迫症状です。祈りの本質は、神経症の症状ではありません。祈りたいときだけ、祈ってください。祈るときは、精いっぱいの正直を心得てください。正直でなかったと気づいたときには、また改めて祈ればいいのです。神は寛容です。
 
信仰者なら、祈りたい時は必ずあります。神は、既に、人が不完全であることをご存知です。正直な祈りを待っておられます。飾った祈りや讃美だらけの祈りで、義務を果たした気分になるのは、強迫神経症の症状です。神の前で、嘘で飾ることは、罪であって、祈りではありません。
 
神は、正直な祈りだけを、寛容さをもって忍耐強く待っておられます。それが、人間が、神に対して出来る精いっぱいであることを、神はご存知だからです。そういう祈りでないと、心の解放にも、魂の救いにもならないのです。
 
 
Q.なぜ、祈りの終わりに、イエス・キリストの御名によって、御名を通して・・と言うのでしょう。
 
A.聖三位の中で、イエスキリストだけが、地上で、人間に直に接した神格だからです。そして、命を捧げるという犠牲によって、人間の死を超克し、人間への命を惜しまない共感すなわち愛を成就したからです。私たちキリスト者には、キリストを通さずに、信仰はありえません。
 
 
Q.異教徒に対しては?
 
A.全能の神が、神の目的そして計画のために、キリスト教を通さずに、何らかの使命を与えて導くということを否定できません。キリスト者が優っている、キリスト者だけが救われる、キリスト者だけが正しいというのは、信仰に思い上がった優越思想であります。
 
キリスト者が特別優秀ということは全然なく、尊敬に値する異教徒も無宗教も求道者も、同じ人間として、平等に、尊ぶべきと考えます。非キリスト者の偉人も、ふつうの人も、人類の敵以外は、尊ぶべきであります。
 
 
Q.信仰の敵とは? 人類の敵とは?
 
A.人類の敵は、国家でも組織でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。邪悪な集団に、さらに、少数ですが、あらゆる集団の中に、必ずと言ってよいほど含まれている異常人格です。一方的で自己愛と笑いと怒りしか持ち合わせず、しんみり悲しむ情感と罪悪感がありません。
 
 
Q.人類の敵は殺して良いか?
 
A.殺してはいけません。特定して隔離するべきかもしれないが、法制度は、未だ、そのようには出来ていません。サイコパスからは、即、逃げたほうがよいのですが、サイコパスかどうかの判断は、その知情意と理路と感性とを経時的に見なければならず、気安く決めつけることは出来ません。
 
 
 
疑いと希望

疑いと希望
 
 
(2022年2月23日)
 
 
 
  離人
 
自分の生活の味を忘れ
どこにもいない
他人の生活の味と感じるときから
疑いは始まる
他人の夢を見、
他人の汗をかき
他人の冷汗をかき
足踏みと徘徊を繰り返す
ペンを持って自分を探す
果てしないウソの国を旅する
知らない人になって遊ぶ
そして挨拶する
誰もいない砂漠のはてに向かって
自分という友人に向かって
 
 
  バベル
 
こがねの中でバブルははじけ
大地の下でバブルはつぶれ
多くの人々が死んでいきました
高い高いビルの中で
長い長い道の上で
人々は徒党を組み
同じ志と呼んでも
人々は集いあって
同じ情と呼んでも
ウソは暴かれることもなく
さらに高い塔をあがめるのです
人は群れとなり数となり
互いを石ころのように数え
互いをコードを頼りに送り迎え
高みを高みをと求めるのです
通じ合うルールのような暗号があふれ
通い合わない心が満たされないまま
失われたもののために
低みを流れる川のように
静かな潤いを求めたとしても
求めるとき川は枯れ
渇いたとき泉はなく
飢えたとき食物は尽き
くずれてゆく群れが
カオスの集散を重ねて
いつか恨めしく見るのです
まぶしく光るきらめきを
無機質の異星のような高い塔を
そしてようやく
自らのバブルとバベルに気づき
少しずつ届かない塔を疑い始めるのです
 
 
  喪失の部屋
 
孤独の人が私に賑わいを与える
虚無の人が私に癒しを与える
不信仰の人が私に喜びを与える
 
しかし依然として私は
疑いの中にしか生き得ない
賑わいに和むことはない
癒しに治癒を得ることはない
不信仰にも信仰にも
信仰を理解することはない
 
得るもののために落下するとき
失うもののために落下するとき
私は落下する私を失うだろう
そして何も残りはしないだろう
歌い尽くせなかった悔いさえも
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自分を正すのは、自分の過ちや罪や悪や足らざるものに気づく人です。気づけない人がいて、嘘を吐き詭弁を弄して人を惑わすなら、放ってはおけないはずです。かといって、捕まえる権利が私たちにはありません。批判を続ける以外にないのです。
 
楽山は、ツイッターや記事、私のツイッターにも、厚かましく何か書き込んで、批判返しを書いたつもりのようです。私は、さらに批判するのに3記事3日を要しました。無駄でしょうけど、それが、批判するしかない対象に対する私の立場だということです。
 
前から言っているように、楽山の信頼度はゼロなのです。つまり、全く信頼していないのです。遣り取りなどしないのです。楽山は、まだ、言論者のつもりでいるようだが、楽山は、害毒を対話に撒き散らすだけです。自分の中の化け物に気づかないのです。楽山からは離れてください。
 
 
 
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  修正可能3
 
  2018年11月25日
 「修正可能」を修正再録。
 
 
キリスト教に傾倒する人で、しばしば完全なる成就が一気に自分のものになることを、そして完成して揺るがない平安を他者よりも早く欲しがることがありますが、そういう悟りの境地は、有限で成長可能な人間性に、そぐわないもので、人間の獲得するものではないような気がします。
 
私は何度も、修正可能ということを強調してきました。キリスト信仰は不変の境地ではなく、成長するための道だということです。修正可能は、一般的にも、成長するためには必要なことです。修正可能だから成長可能になるのです。
 
とりわけ信仰については、人は不完全であるがゆえに修正可能こそが神の恵みだと思っています。もちろん、人間に分からないところで神の導きもあるでしょうけれど、人間が認識できる恵みとしては、恵みを受け取る人間側の条件として修正可能の心がけだろうと思います。
 
そして何よりも、悔い改めこそ他でもない修正なのです。その機会が一生を通じて与えられていることは、あるとき間違えて、ふてくされて神のもとを去ったとしても、いつでも悔い改めることで、戻ることが許されているということです。
 
キリスト者になるとき、洗礼を受けるときには、私の経験から言うと、罪について殆ど分かっていなかったと思います。教えられるから認めることにした概念のようなもので、やさしい神様、やさしいキリスト、そのイメージと一生付き合うという決意のようなものでした。
 
洗礼によって自分が俗人と違う特別の存在になったという自己神格化みたいになってはいけません。神の民となることは、より御心に適う人間として成長する、という人から神への、決意の意志表示であり、洗礼の神秘つまり神の秘密については、人は知り得ないのです。
 
信仰は完成ではなく成長です。信仰者になって、悟ったかのように思い込み、のぼせ上がり、預言者気取りになって、思考が誇大的になり、世界を相手に、それこそ天国から物を言いそうなほどの有頂天の陶酔気分が、若かった私にはあったような気がして、反省しています。
 
つまり修正可能は、すなわち折々の悔い改めであり、キリスト者になってから、ますます必要になってくるということです。悔い改めは、一生にわたることですから、信仰告白と洗礼で、完成して済むということはありません。
 
偽牧師シャロームshalom のように、悔い改めをしなくてよいなどというのは、まさに人が神に成り上がろうとする背教、そして、反逆に他ならないのです。そして、それに賛同したのが、楽山であり、何も分かっていない証拠となります。楽山とシャロームは、反キリストであります。
 
神の民になったから完成ではなく、完全になるわけでもなく、目指すべきは、信仰者として人間としての成長であり、学習による修正可能すなわち悔い改めが、さらに必要であり、その機会と、そうしなければいけない機会とが、必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として、訂正不能に信じ込むことをしてはいけません。解釈は人の解釈であり絶対ではなく、学びの糧とするべきものです。変わらないのは、神聖であり、人ではありません。そして、人においては、同じ言葉も、聖書と体験を通して、その都度、新しくなってゆくのです。
 
自分の生きる力になることを時々に受け取ってください。たとえその後に人が道を踏み外すことがあっても、神は、いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが、信仰を問われて受洗証明みたいな書類を出してくるようなカルトもいますから、もはや洗礼は人にとって完成とか到達とかの意味ではありません。はっきり言えば、洗礼の有無にかかわらず、悔い改めるとき、そこに信仰があるという証なのです。
 
生きていて、陰性の感情が激しくなるとき、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、失望、絶望、それらのときに正直な祈りのうちに慰めと癒しを得て、悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは、キリスト者の義務というより、神が誰にでも与えている恵みであります。
 
正直に祈る人は、祈りを聞いておられる神によって、改めて癒しと赦しを与えられ、神と人の双方向の絆に包み込まれ、秘密のうちに恵まれる温もりと潤いによって、愛と共感の悔い改めを通して、心と体の、新しい時と所へ導かれるでしょう。
 
前に引用した聖句ですが
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
私は、社会的には落ちています。仕事も出来ず、心身の病気も患って、老化して、今以上に、よいことがあるとは思えません。この地上を去る時を待っているような暮らしです。ただ、正直に祈ったときの解放感を忘れられないので、できる唯一のこととして、ブログを書いて過ごしています。
 
 
悔いることが成長

悔いることが成長
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
(2020年12月10日、修正加筆して再録)
 
(2021年12月12日、再録+)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように
 
要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般にあることみたいに、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などの高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山は、極端に走るのがよくない、ということを言っていました。つまり、自分は極端ではなく、バランスが取れて柔和と思っているのでしょう。その前提に自分を置いている既に人格の偏奇なのです。楽山は、自己愛によって、無反省な訂正不能の極端さを示してきました。
 
殆ど死んでゆくしかないようなほど傷ついた魂を癒すのが信仰で、その体験を持つ人は、楽山のような自己愛性人格障害から語られる神?についての反証めいた机上の理屈など、何の意味もありません。
ただ、楽山の婉曲な丁寧語を受け続けると、ひどい疲労か、人格破壊に至る可能性があります。
 
楽山が嘘と出まかせを広めることに対して、できることをするのが、信仰者の務めです。批判をする普遍的な必要性は、楽山の、一見まともで、付き合えば付き合うほどに疲労しか与えない無反省と無責任とキリスト教の曲解を指摘し否定し、情報を敷衍することにあります。
 
一生の間に、楽山のような病質人格に出会わないならば、それだけで、無上の幸運であろうと思っています。出会ったからには、半端な根性では乗り切れない攻撃性を、楽山は、結局、表してきます。それは、人が傷つくのを見て得意になるサイコパスならではのことなのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは信者あるあるですね。
信者は、自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき、
「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」
といって事実と向き合うことを避ける。
これを乗り越えてこそ、本当の信仰者になれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する。
 
楽山「あるある」です。楽山は「自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき」「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」と、現実と向き合うことを避けるのです。そうして、自分を見ずに、正義の味方気取り、助言者気取りで、今日も、罠をかけ続けます。
 
今日も、人のことばかり言って、「これを乗り越えてこそ、本当」に「なれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する」ので、なおも、オレがオレが・・を、書き続けるのです。しかし、楽山は、何も乗り越えたことはないから、楽山は、何の助けもにならないからです。
 
 
 
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