ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悔い改め

 
  赦すこと3
 
 
※ 人格異常で批判対象となっている楽山が、余計なことを書いてくるので、このところ、後付けの批判のために、記事が長くなっています。
 
 
私が最初に牧師から習ったのは、罪の赦しは、許可ではなく、赦免ということでした。だから、漢字では、許す、ではなく、赦す、を使うのでしょう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
6:14
もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。 
6:15
もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。 
 (マタイ6:14-15、新約聖書)
 
過ちも罪ですから、罪を赦すことについての、赦しなさい、という、キリストの教えです。過ちだと自覚がある場合です。
 
赦されない罪があります。
過ちだと、あるいは、罪だという自覚のない場合です。
罪だと思っていないならば、赦す、ということ自体が無意味です。
 
一つは気づいていない場合。赦すと言われても何の事だかわかりません。もう一つは偽善という罪。罪を犯しながら、罪を隠して善に見せかける罪です。キリストの敵となった者たちは、そういう者たちでした。彼らは、赦しを求めないので、赦すことが意味を持ちません。
 
さて、罪を赦されたら、どうなるでしょう。赦された、ああよかった、これで、清廉潔白になったと思うでしょうか。・・そう思うなら、そう思うことが、罪であります。
 
赦しは、また、これからも罪を犯すであろう罪人としての弁えを学習することです。人間は、この地上では、清廉潔白にはなりません。赦されることで心の解放感はあるでしょう。しかし、ああよかった、と言って安穏とするのは、信仰の態度ではなく、なお偽善者の態度なのです。
 
人間の立場から見ると、赦されて安心することよりも、赦しを神に求めることのほうに、生き方の学習があります。したがって、罪を犯しても大丈夫と学ぶのではなく、罪を犯す自分を知ることであります。その学習があるからこそ、私たちは、また、赦されることを求めるのです。
 
 
キリストの十字架の贖いによって、罪に死んだから、罪はない、などと信じている偽善者もいるようですが、そのような者は、反キリストの役割を果たしているだけなのです。罪はないと信じ込んだ人間がどうなるかということを考え推測して否定するということができないだけの偽善者です。
 
人は、他者の罪を赦すべきか、という問題については、上のほうにあげたように、赦すことが無意味である場合があります。気づかない人は、気づかせる、または、気づくことを待つしかないのでしょう。
 
しかし、キリスト信仰を、自己中心に考えて、あるいは、何も考えないで、何でも赦される、または、赦されることを求めてさえないか、最初から信仰が嘘である場合も含めて、決して、赦してはいけません。偽善と反キリストを増長させるだけです。それは、神に対する罪になります。
 
そういう者を、批判することが苦手なら、無理して批判する必要はありません。神に与えられた務めは、人それぞれです。ただ、批判は、悪口とは違うし、批判する気のある人が、批判しなければいけない場合があることは、承知してください。批判対象にしかならない者がいます。
 
その者は、いつも他者を下に見て、自分を高めるために、教えたがります。放置すれば、会う人ごとに嘘を吹き込み、その人を洗脳して人格をおとしめ、破壊してゆきます。凶悪カルトとカルト支援者は、悔い改めより、赦しが先だと言って、さらに、自分を高める背教を勧めるのです。
 
悔い改めは、祈りによる罪の告白です。罪を認めないで隠して、平気で嘘を吐いている者が、どうして赦されるでしょう。どの罪を赦せというのでしょう。どんな罪も、告白しないまま赦されるなら、地上は、偽善者の楽園になるでしょう。そんなことも分からない愚か者が、実際に、いるのです。
 
カルトは、批判者に対しては、いたずらに決めつけることを繰り返して、疲労させ、批判者の人格を破壊してゆきます。こういうことは、宗教が絡むとき、カルトが絡むとき、とても醜悪な遣り取りになりますから、批判というものは、自分を、ある程度は、コントロールできる人がするべきことです。
 
何でもかんでも総ての罪を赦すのがキリスト教の理想などということでは、決して、ありません。むしろ、罪の自覚があるから赦しが意味を持つのです。罪を認めて、神の前に告白して、罪を犯しやすい自分の性質を反省することで、思い上がることなく、罪を赦される恵みに気づくことができるのです。
 
何でも赦してくれる神?を信じているカルトは、罪人の自覚を全く持たないで、神に対しても、極めて、お気楽に構えており、平気で罪を犯し、嘘を吐いて、偽善者となり、神のしもべたる自身を永遠に弁えないまま、罪業の穴へ、ぬるぬると滑り落ちてゆくでしょう。
 
悔い改めより赦しが先だなどという詭弁を弄する者は、悔い改めなくても赦されるという我欲からの妄想欲求が、そう言わせているだけです。
 
罪の自覚のない者に、赦しを与えることは、いったい何を赦されるのか悟ることもないのだから、赦すこと自体が無意味です。悔い改めない者に、赦しを与えれば、勝手放題の地獄が開かれるだけです。
 
 
罪の自覚があり、それを神に対して正直に告白することで、世俗や我執から、神へと、自らの向きを正すことが悔い改めです。そのために祈りの機会が与えられているのです。
 
 
罪の赦しは無罪ではなく赦されて生きること

罪の赦しは、無罪ではなく、赦されて生きること
 
 
(2020年02月)
(2022年03月02日、加筆して再録)
 
 
 
信仰者が、聖書の言葉から、弱いからこそ強い、という逆説を、理解不十分なまま、説明せずに豪語すると、生き馬の目を抜くように、反キリストから、それこそ、キリスト教の嘘と偽善だと言われ、広められるでしょう。
 
(ネットより)
生き馬の目を抜く(いきうまのめをぬく)
生き馬の目を抜くとは、すばしっこく人を出し抜き、抜け目がなくて油断できないさまのたとえ。
 
強いのは、いつも神であります。神のみであります。神が憐れむのは、弱さを知っている人であります。ゆえに、神の憐れみがあるから、信仰者は忍耐強いということの、逆説の真実なのです。ゆえに、豪語していいような性質の言葉ではありません。
 
私たちは、神でもなく、キリストでもなく、預言者でもないのだから、力比べは、いけません。
 
信仰を超常奇跡物語としてしか見ていない人もいます。私たちキリスト信仰者は、神の業(わざ)であって人には手に負えない超常奇跡ではなく、人として生きてゆくために必要な、愛に通じる共感として、神とは違う低さと罪深さを弁え、祈りの信仰生活を送ることが大切です。
 
 
 ※ 批判における厳しい表現について
 
まじめなことを淡々と書いている記事は、一般の読者に対しては、十分ではなくても、意志の伝達として成り立ちます。
 
しかし、私の批判対象は、批判をスルーつまり無視すると公言していますし、言葉も理路も理解する能力も失っている人なので、普通の批判をしても何も受け取らないでしょうし、気にもしないでしょうし、脅威にならないから、読むことさえしないでしょう。
 
一般に、厳しい表現や、辛辣な比喩は、文章の中で目立ちます。ゆえに、批判対象だけでなく、一般にも嫌われるでしょう。無反省と無責任そして体質的に鈍感であるために無視してくる批判対象に対して、表現を大人しくすることは、こちら側の体面のために本音を隠しがちです。
 
それに、破綻した理路と要領を得ない筆致や詭弁を見続けることは、ストレスがたまってくるという、こちらの精神衛生の問題でもあります。即ち、辛辣な比喩など、厳しい表現は、激情に駆られて用いるのではなく、激情を治めるために用いるという意味があります。
 
というわけで、今まで、批判対象に向けてきた辛辣な比喩をあげると、亡者、ヒト型生物、疲労物質、放屁、排泄物、糞尿、病原、寄生虫、害虫、ゴキブリ、ドブネズミ、狂犬、等々あります。とうてい全部は思い出せません。
 
なお、嘘吐き、詭弁屋、精神詐欺師、偽善者、病質者、人格障害、高等感情鈍麻、サイコパス、エナジーバンパイア、などは、比喩表現ではありません。
 
以前、キリスト教系カルトの者が、私の批判に対して、それこそボロクソに、個人情報まで持ち出して、ギャーギャー吠えるように、罵詈雑言を連発してきたことがあります。それを読んで、私は、この人はギャーギャー言っているんだ・・としか受け取れませんでした。
 
辛辣な表現も、質が問われることを、そのとき思いました。あまりひどいので、サーバーに報告したところ、相手の記事が削除されることもありました。
 
一方、病質者の書くところの、大人しく見せかける文章は、大方、概念的な言葉や熟語を並べただけのものであり、そこに、生活者としての実感が表れていない、という特徴があります。つまり、概念遊び、即ち、机上の空論なのです。
 
そういう文章は、書いた人に学習意欲も真摯さも向上心も反省力も見られないから、繰り返し読まされるほどに、うんざりするか、がっかりするか、ろくな気持ちにならない、ゆえに、疲れるという体験だけを与える文章になります。
 
また、過去の非を認めないまま、きれいごとを書いてくれば、それだけで、嘘吐きだと分かるわけです。人間の歩みとして、成り立っていないからです。パンツに漏らしたウンコを洗わず拭かないでいて、ニオイが、むわ~と伝わってくるようなものなのです。
 
 
 
  前進か後退
 
前には足跡がある
後ろには足跡がない
戻ることはあり得ない
止まることも許されない
嫌だ嫌だの挙げ句の果て
後ろを向いて後退(あとずさ)り
だから転んでは気を失い
目覚めればいつも仰天している
 
 
  罪の足跡
 
まっすぐ歩いたつもりが
振り返れば随分と曲がっている
右に左に
無駄な道のり
それら徒労
受け容れるしかないものたち
 
無数の足跡に紛れたり
別の足跡と交叉して離れたり
途切れているところもある
一度は死んだのかも知れぬ
 
いずれ満ち潮が
すべてを攫(さら)って消してゆく
足跡一つ残せませんでした
と泣きながら倒れるようにひれ伏して
許しを乞わねばならないだろうか
 
後ろがどうであれ
後でどれだけ消えてしまおうと
今ここで決めねばならぬことがある
 
目の前で一歩踏み出せば
足跡は一つ増える
踏み出すことは
踏みしめること
踏みつけること
踏み拉(ひし)ぐこと
何かを
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
発作のように、コピペで大量の記事を書き、どんなもんだいとでも言いたいような楽山ですが、当たり前のことさえ、ずっと出来ないままなのです。反省、責任、どれもこれも、できないばかりか、理解さえしていないで、いかなる霊が分かるっぽい?のでしょう。呪いの悪霊でしょうか。
 
過去のコメントを断片的に引用して、「議論とは関係ない挨拶、雑談にまで、ずうっとケチをつけてくるというのはどうかしている。st氏にもこういうバカバカしさに気づいてほしいが、多分それは無理なのだろうな。残念。」などと書いています。無理な楽山に対しては、実際、ずうっと無理なのです。
 
NPDの症状は、日記的な話にも表れてきます。しかし引用された記事とコメント、私は覚えていません。楽山は、執念深く、細かいところまで引用したつもりでしょうが、今に至るまで、ずっと、楽山の無法は、表れてきたのです。それが、体質というものです。ピントをずらそうとしても無駄なのです。
 
 
 
 st氏から、つきまとわれる理由
 2022年02月28日 楽山日記(LD)
   さらに批判します。
 
st氏からつきまとわれる切っ掛けになった場面があったので保存しておきたい。
 
「つきまとわれる」という言い方をしていますが、つきまとうのではなく、批判するということです。楽山が、こんなふうに、しらばくれるわけですから、批判は、書けるあいだ、一生にわたります。根腐れを放置することは出来ません。
 
st氏は、シャローム氏と話をする私を異常だとして、批判しはじめている。
 
楽山とシャロームshalomにだまされたことに気づいたころの話だと思います。楽山とシャロームは、異常な偽善者です。ここに至っては全否定で、これからも批判を続けているということです。凶悪な訂正不能の悪の根性を持っています。
 
次に、st氏は、私の記事に対する反発心をあらわにしている。「人は人、自分は自分」という考え方は、よくあるものだけども、st氏にはどうにも我慢がならなかったらしい。
 
「人は人、自分は自分」・・・公共の福祉に反しない限りでという条件があることを知らないのならば、楽山は、無知であります。キリスト教について、嘘と詭弁で、デタラメなことをばらまいている楽山を容認することは出来ません。
 
年始の挨拶をしたのであるが、たったそれだけのことでst氏は敵意をあらわにし、悪口を言うようになった。
 
年始の挨拶をしている場合ではないということです。しらばくれる楽山は、人間とは思えない不感不応です。傍らで人が傷ついていても死んでいても、あけましておめでとう・・などと挨拶を交わしそうな者たちです。冷酷で、情がなく、攻撃的で、卑怯です。全否定で臨みます。
 
st氏から敵と認定された後は、すぐに次のようなモラハラを受けた。
質問だと思ってこたえたら、「明確な質問ではなく、疑問です」って…意味分からん。
 
何かを問うているのではなく、そのような場合ではなく、疑問を持って批判しているという意味です。質問などはしません。応答が、全く信用できない楽山だからです。今は疑問はありません。楽山とシャロームは異常者です。一人による成りすましも疑われます。
 
私が楽山を批判する理由について、楽山は、何も分かっていない、または、分かっているのに言い逃れと悪口しか返せないでいるのです。健全な社会には、いてはならない病質者です。くれぐれも、関わることのないようにしてください。相手を消耗させるエナジーバンパイアでもあります。
 
神からも、人からも、許されては、赦されては、いけない者たちがいます。強制力もなく、言論だけが頼りになるところで平気で嘘を吐き人をだます者たちです。いずれ、あるいは、既に、何らかの犯罪者であるかもしれません。匿名のネットをいいことに、怠慢と虚偽の地獄に生息しているのです。
 
人類の敵とは、国でも組織でもありません。楽山のような、人間の心を持たない輩、反社会性人格障害者のことであります。戦争を始める者、戦場で残虐行為をする者、その群れの中に、楽山のような高等感情を持たない者たちがいるのです。
 
 
 
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  この俺が説教か
 
 
映画「ロッキー」
 
夜中に通りをうろついている子供に、ロッキーが「夜遊びするな、家に帰って勉強しろ」とか説教めいたことを言う。子供が大声でメチャクチャ悪たれ口を返して逃げてゆきます。それに対してロッキーが言った台詞。このやろうと怒って追いかけるかと思ったら、
 
「この俺が説教か・・」と自嘲するのです。
 
私は感動しました。自分を低くできる人は幸いです。
 
 
 自嘲
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
思いを述べるだけなら
人の欲求として当然であり
そっと差し出す気持ちがあれば
好ましいこともあります
 
しかし
自分の言うことが人のためになる
という訂正不能な
使命感さえ持ってしまうことがあって
それは結局
人が自分と同様になることが望ましい
という判断を繰り返すことになると気づかないまま
自分と異なるものを悪と見なして排除し
狂わせてゆきます
 
しっかりすることを岩石と勘違いし
うわべだけ柔和なことを語っているつもりだが
真面目でも自由に発言したら
お利口になれないのです
言動において既に横暴なのですから
 
何かを崇(あが)めることが
ときには人間性を失わせることがある
という例なのです
 
そういう人は
誰かが忠告しても無駄なようです
染み付いているからです
欠点ならば自覚も可能ですが
染み付いたものは自覚されにくいようです
だから「染み付いた」というのでしょう
 
そういう人に限って何度でも
救われた導かれたと
たやすく立ち直る特性を持っていて
過ちを正さず
同じ過ちを繰り返すことになるのです
 
この俺が説教か
フッ・・と
自分を笑える人は幸いです
 
 
低き身ゆえに 真実

低き身ゆえに 真実
 
 
(2011年06月30日)
(2011年07月01日、若干修正)
(2022年01月26日、再録+加筆)
 
自分の言うことが人のためになると思っていないか、少し思っていることがあるかもしれません。反省と自戒のない信仰は、無意味以上に有害です。
 
 
 
  夢Ⅰ
 
雪が降って
凍った道に
若い女が転んだ
立ち上がろうとしてまた転んだ
手を貸して起こしてやった
寒くなかった
 
名も知らぬバス停に
待ち続ける子供らがいた
バスは来なかった
まだ待ち続ける子供らに
ここはどこですか
ここは小さい明日(あした)です
 
駅に着くと
並んでいる客車を二、三台飛び越えて
動き出したばかりの貨物列車に飛び乗った
 
木造であった
古くて床は所々抜けていた
屋根はなかった
ひどく揺れて 
しがみついているのがやっとだった
路(みち)は台形に傾斜していた
行く先は覚えていない
 
下顎骨は二つに割れて
中央は欠損していた
 
歯科医が骨を削り始めた
管を通すのだという
痛みは我慢しろと言ったが
しばらくして鎮静剤を打とうかと言った
 
 
ここはどこですか!
ここは小さい明日です
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーー
まあ、大昔、失恋の傷・・
 
 
 
  悔い改め
 
キリストの民と称して
罪を形而上の供え物とし
飼犬を神と名付けて
乞食にくれた残飯を愛と錯覚して
受難に耐えんとする信仰の下で
見逃されたものが
黴(かび)のように陰を好み
知らぬ間に はびこっていく
それゆえ暴かれると
あるいはひそかに垣間見られたときでさえ
ぞっとするほど陰惨な風景を見せ付ける
 
それに気づいた者が
今一度(ひとたび)悔い改めんとして
祈りを捧げたとしても
血の海に沈んでいくキリストをよそに
またしても
虐げられたと十字架をかかげ
憎しみにさえ旗を
そして旗は なびく 旗を呼んでくるのだ
 
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)
 
私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ
 
誰が神を
神と名付けたか
誰がやさしい父を呼ぶように
神を呼んだか
流された夥しい血を
皿の上の相づちで受けながら
誰が気安く許される
罪を認めたのか
 
私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「人間の性」と一般化して自己正当化しようとする楽山の詭弁です。反省しない、責任を負わない、このような無責任言動は、「人間の性」ではなく、個人、即ち、楽山の、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)によるもので、病質であり、決して人間共通の罪で正当化は出来ません。
 
 
 
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  カルト発言2
 
 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マリア型)
  (嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。)
  (キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない)
  (キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない)
  (キリスト信仰は呪術ではない)
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけません・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
●神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
  《キリスト者も注意するべき発言》
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
  
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があるのです。
 
不完全で罪深い自分を憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直であることだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、忍耐強い信仰のことです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には隠しているようなことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。
 
 
否定、決めつけ、神聖、妄想

否定、決めつけ、神聖、妄想
 
 
(2019年12月11日)
(2020年12月27日、加筆して再録)
(2021年01月02日、加筆して再録)
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見ての感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、ストーキングというより、因果応報だと思います。
 
 
 
 
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  悲しみと信仰2
 
 
偽善者は、相変わらず、弁明が出来なくても何も感じないで、繰り返し言い張るだけのようです。
聖書でも現実でもネットでも、偽善者が悲しむのを見たことがないです。偽善者は悲しみの感情を持っていないのではないかと思うことがあります。
 
聖書でも現実でも、偽善者の感情は、得意げに笑うことと、怒りと憎しみだけのような気がします。深い悲しみは、抑制がかかって鬱になることもありますが、心が沈んで、激しさが涙になるなら正常で、出口があるということです。
 
悲しみはつらいけれど、心を潤し、心を濡らして、悲しみを洗い流す作用があります。泣けない時には人からも受容が必要です。出口がないと思ってしまう鬱の時にはは、時に任せて、じっとしていても、流れてゆくのに任せて、生きています。
 
しんみりと悲しむことができるときには、悲しみは、その沈んだ思いのうちに、猛る思いを静めて、内へと向かう思考によって、やがて内省することもできるようになるでしょう。
 
悲しみを知る人は、悲しく辛くても、やがて、悲しみが去ることを喜ぶことが出来ます。悲しみの克服が、悲しみの過ぎ去ることが、喜びとなり、楽しみへ導かれることになるのでしょう。そのときに、人間は、成長するのだろうと思っています。
 
悲しみを知らない人は、出口のない感情と思考のために、憤怒だけを、どこかにぶつけることになるのではないでしょうか。悲しみの感情を知らない人がいて、悲しめない不都合に際して、怒り、憎み、恨んで、他者のせいにして鬱憤を晴らす場合があります。
 
悲しみを知らない人は、不快な感情を処理するにあたって、焦燥感が強いあまり、他者を貶めるか
他者をあざ笑うことになるでしょう。そのような処理の方法は、他罰または責任転嫁となって表れるでしょう。特殊な人格~病理として注意が必要です。
 
 
負の感情の出口がない間、静かな思考に向かうか、それとも、停止と遮断に向かうか、衝動と攻撃性につながるか、という違いがあります。
 
自分の感情をモニターできるか、正直に相談する相手がいるかどうか、モニターは反省に、正直は祈りに通じます。
 
つまり信仰において、悲しみは、悔い改めにつながる大切な感情のように思います。人生において、悲しみは必ず訪れるものです。その時に、成長するか、成長をやめてしまうかが、決まるような気さえするのです。イエスキリストは、悲しむ人に、近づきました。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
 (マタイ5:3-10、新約聖書)
 
悲しむ人は、おごらないゆえに、心貧しく、うなだれるゆえに、慰められ、求める心があるゆえに、義に渇き、むさぼらないゆえに、憐れみを受け、余計なものがないゆえに、心が清く、一途であり、安らぎたいゆえに、平和を求め、悲しんだゆえに慰めを感受し、癒しが与えられるのでしょう。
 
悲しみを知ることが信仰と偽善を分ける、と言ってもよいほどに、悲しみは大切な感情なのかもしれません。
 
 
悲しみと癒し

悲しみと癒し
 
 
(2019年01月15日)
(2021年12月25日、再録+)
 
猛る(たける)
鬱憤(うっぷん)
憤怒(ふんぬ)
焦燥感(しょうそうかん)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
しんみりと悲しむことを知らない人は、しんみりと深く考えることも出来ません。そして、罪悪感を感じないようです。ゆえに、自分の恥と罪と偽善の悪を「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」などと白々しく言って、ペロッと舌を出すような軽さの悪ふざけをするのでしょう。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
@houndmen@tadamitsu824
犬ジジィ氏と忠光氏の議論を見た。犬ジジィ氏は批判リプを10以上もしながら、忠光氏が反論リプをつけるのをブロックしたのかな? もしそうなら、ズルすぎる。
ブロックするなら、忠光氏が犬ジジィ氏の批判に反論リプをつけ終わるのを待ってからにすべきだったと思う。
 
他者に「すべきだった」などと意見する資格は、楽山にはありません。双方向など、一度も成り立ったことのない楽山です。「ズルすぎる」などと非難する資格もありません。無反省、無責任、無視で、罪悪感欠如、羞恥心欠如の楽山です。厚顔無恥も甚だしい。
 
★こも/楽山日記3
@komo266
信者の中には、アンチ批判をしていながら、アンチが反論しようとすると即ブロックする人がいる。
まるで、「自分が言いたいことを言えればいい。異論、反論は聞く必要なし。その機会を与える必要もなし」と考えてるみたいだ。
HSではこういう考え方を容認してるんだろうかと疑問に思うよ。 
 
キリスト教を侮辱しながら、批判されると、スルー・無視を決め込んだのが、楽山です。あらゆる言論の資格も能力もないのです。「異論、反論」を聞かず、批判すれば、悪口だけを返して、しまいに無視するしかない楽山です。楽山は、「疑問に思う」よりも、全否定するべき対象です。
 
 
 
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  修正可能3
 
  2018年11月25日
 「修正可能」を修正再録。
 
 
キリスト教に傾倒する人で、しばしば完全なる成就が一気に自分のものになることを、そして完成して揺るがない平安を他者よりも早く欲しがることがありますが、そういう悟りの境地は、有限で成長可能な人間性に、そぐわないもので、人間の獲得するものではないような気がします。
 
私は何度も、修正可能ということを強調してきました。キリスト信仰は不変の境地ではなく、成長するための道だということです。修正可能は、一般的にも、成長するためには必要なことです。修正可能だから成長可能になるのです。
 
とりわけ信仰については、人は不完全であるがゆえに修正可能こそが神の恵みだと思っています。もちろん、人間に分からないところで神の導きもあるでしょうけれど、人間が認識できる恵みとしては、恵みを受け取る人間側の条件として修正可能の心がけだろうと思います。
 
そして何よりも、悔い改めこそ他でもない修正なのです。その機会が一生を通じて与えられていることは、あるとき間違えて、ふてくされて神のもとを去ったとしても、いつでも悔い改めることで、戻ることが許されているということです。
 
キリスト者になるとき、洗礼を受けるときには、私の経験から言うと、罪について殆ど分かっていなかったと思います。教えられるから認めることにした概念のようなもので、やさしい神様、やさしいキリスト、そのイメージと一生付き合うという決意のようなものでした。
 
洗礼によって自分が俗人と違う特別の存在になったという自己神格化みたいになってはいけません。神の民となることは、より御心に適う人間として成長する、という人から神への、決意の意志表示であり、洗礼の神秘つまり神の秘密については、人は知り得ないのです。
 
信仰は完成ではなく成長です。信仰者になって、悟ったかのように思い込み、のぼせ上がり、預言者気取りになって、思考が誇大的になり、世界を相手に、それこそ天国から物を言いそうなほどの有頂天の陶酔気分が、若かった私にはあったような気がして、反省しています。
 
つまり修正可能は、すなわち折々の悔い改めであり、キリスト者になってから、ますます必要になってくるということです。悔い改めは、一生にわたることですから、信仰告白と洗礼で、完成して済むということはありません。
 
偽牧師シャロームshalom のように、悔い改めをしなくてよいなどというのは、まさに人が神に成り上がろうとする背教、そして、反逆に他ならないのです。そして、それに賛同したのが、楽山であり、何も分かっていない証拠となります。楽山とシャロームは、反キリストであります。
 
神の民になったから完成ではなく、完全になるわけでもなく、目指すべきは、信仰者として人間としての成長であり、学習による修正可能すなわち悔い改めが、さらに必要であり、その機会と、そうしなければいけない機会とが、必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として、訂正不能に信じ込むことをしてはいけません。解釈は人の解釈であり絶対ではなく、学びの糧とするべきものです。変わらないのは、神聖であり、人ではありません。そして、人においては、同じ言葉も、聖書と体験を通して、その都度、新しくなってゆくのです。
 
自分の生きる力になることを時々に受け取ってください。たとえその後に人が道を踏み外すことがあっても、神は、いつでも帰りうる道と機会を用意しておられるのです。人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが、信仰を問われて受洗証明みたいな書類を出してくるようなカルトもいますから、もはや洗礼は人にとって完成とか到達とかの意味ではありません。はっきり言えば、洗礼の有無にかかわらず、悔い改めるとき、そこに信仰があるという証なのです。
 
生きていて、陰性の感情が激しくなるとき、怒り、憎しみ、恨み、悲しみ、失望、絶望、それらのときに正直な祈りのうちに慰めと癒しを得て、悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは、キリスト者の義務というより、神が誰にでも与えている恵みであります。
 
正直に祈る人は、祈りを聞いておられる神によって、改めて癒しと赦しを与えられ、神と人の双方向の絆に包み込まれ、秘密のうちに恵まれる温もりと潤いによって、愛と共感の悔い改めを通して、心と体の、新しい時と所へ導かれるでしょう。
 
前に引用した聖句ですが
 
 (詩篇、口語訳)51:17
神の受けられるいけにえは砕けた魂です。
神よ、あなたは砕けた悔いた心を
かろしめられません。
 (詩篇、旧約聖書)
 
私は、社会的には落ちています。仕事も出来ず、心身の病気も患って、老化して、今以上に、よいことがあるとは思えません。この地上を去る時を待っているような暮らしです。ただ、正直に祈ったときの解放感を忘れられないので、できる唯一のこととして、ブログを書いて過ごしています。
 
 
悔いることが成長

悔いることが成長
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
(2020年12月10日、修正加筆して再録)
 
(2021年12月12日、再録+)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
 
  深夜の車
 
寒い
深夜
スプレーをかけて
凍った車のウィンドウを拭く
 
寒くない日に
生まれた言葉や
凍りついた励ましや
やさしさが
冷たい息をかけて拭き取られる
 
残った透明なガラス
見にくい
見通し
 
ハンドルを切る
神経が切られてゆく
 
坂道をのぼる
知性が落ちてゆく
 
憎しみでいっぱいの
車から
小さな音をたてて
落としたらしい愛が
草むらを転がり
暗闇にさらされて
悔いを呼ぶ
エンジンが壊れそう
 
アクセルを踏む
怒りが吹ける
煙が尾をひく
 
短いせりふのように
流れ
走り去った車の後に
夜が残る
 
 
  眠っていたい
 
今日と明日とは別の日なのに
今日と明日と区別のつかない日々を過ごしている
長い廊下のように
まっすぐなのに迷っている
夜もない
昼もない
肩に残る悔いをはらって
眠っていたい
好きなだけ
 
胴体の上に
眠ったような首をのせて
街中を歩いている
遊びもない
仕事もない
頭に残る悪い虫たちを
頭ごと、はねて
眠っていたい
好きなだけ
 
早朝の街中に
紙屑が転がってゆく
枯れ葉が転がってゆく
いつか風の中に
眠ったような首をのせて
要らなくなったものが
みな飛んでゆく
どこかへ集うように
 
要らなくなったものが
集まる場所
風の向こう
街の向こう
何もないもの
それさえ捨てて
眠っていたい
好きなだけ
そこで
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般にあることみたいに、醜い詭弁の言い訳をしていますが、そうではなく、楽山固有の悪と罪と偽善だということです。
 
自己愛性人格障害の楽山には、後悔、反省、自覚、などの高等感情が欠けています。信仰もなく、信仰をあざ笑っているので、救いもありません。超常に遊んで、狼狽して、自己正当化することしかないのでしょうが、これほど、自らに危機意識のない人は、むしろ、珍しいのです。
 
楽山は、極端に走るのがよくない、ということを言っていました。つまり、自分は極端ではなく、バランスが取れて柔和と思っているのでしょう。その前提に自分を置いている既に人格の偏奇なのです。楽山は、自己愛によって、無反省な訂正不能の極端さを示してきました。
 
殆ど死んでゆくしかないようなほど傷ついた魂を癒すのが信仰で、その体験を持つ人は、楽山のような自己愛性人格障害から語られる神?についての反証めいた机上の理屈など、何の意味もありません。
ただ、楽山の婉曲な丁寧語を受け続けると、ひどい疲労か、人格破壊に至る可能性があります。
 
楽山が嘘と出まかせを広めることに対して、できることをするのが、信仰者の務めです。批判をする普遍的な必要性は、楽山の、一見まともで、付き合えば付き合うほどに疲労しか与えない無反省と無責任とキリスト教の曲解を指摘し否定し、情報を敷衍することにあります。
 
一生の間に、楽山のような病質人格に出会わないならば、それだけで、無上の幸運であろうと思っています。出会ったからには、半端な根性では乗り切れない攻撃性を、楽山は、結局、表してきます。それは、人が傷つくのを見て得意になるサイコパスならではのことなのです。
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは信者あるあるですね。
信者は、自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき、
「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」
といって事実と向き合うことを避ける。
これを乗り越えてこそ、本当の信仰者になれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する。
 
楽山「あるある」です。楽山は「自分に都合の悪い事実を突きつけられたとき」「それは嘘だ、本当のはずがない、あなたは何も知らないんだ」と、現実と向き合うことを避けるのです。そうして、自分を見ずに、正義の味方気取り、助言者気取りで、今日も、罠をかけ続けます。
 
今日も、人のことばかり言って、「これを乗り越えてこそ、本当」に「なれるのだけど、多くの信者はこの対決から逃避する」ので、なおも、オレがオレが・・を、書き続けるのです。しかし、楽山は、何も乗り越えたことはないから、楽山は、何の助けもにならないからです。
 
 
 
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