ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悔い改め

 
  修正可能(改)2
 
 
信仰を語る上で
私が何度も強調してきたことに
修正可能ということがあります。
 
人生の学習を可能にすることであり
これは一般的にも
成長するためには必要なことです。
 
罪を認める、悔いる、
祈り、告白する、赦され癒される、
 
反省する、学習する、成長する、
ゆえに、修正可能であります。
 
これらが、個人の信仰において、
密かに起こり続けます。
 
とりわけ信仰については
これこそが神の恵みだと思っています。
むしろ
これだけが神の恵みなのかもしれません。
もちろん
人間に分からないところで
神の導きもあるでしょうけれど
人間が認識できる恵みとしては
唯一だろうとも思っています。
 
そして何よりも
悔い改めこそ他でもない修正なのです。
 
その機会が一生を通じて与えられていることは
あるとき間違えて
ふてくされて神のもとを去ったとしても
いつでも悔い改めることで
すなわち
苦難も罪も正直に告白することで
神のもとに戻ることが許されているということです。
 
悔いる必要も改める必要もないのは
唯一絶対の神だけであるのに
その神に対して
人が悔い改めをしなくてよいなどというのは
まさに人が神に成り上がろうとする背教
そして反逆に他ならないのです。
 
キリスト者になるとき
洗礼を受けるときには
私の経験から言うと
罪について殆ど分かっていなかったと思います。
教えられるから認めることにした概念のようなもので
やさしい神様、やさしいキリスト、
そのイメージで一生付き合うと決めただけなのです。
 
悟ったかのように思い込み
のぼせ上がり
預言者気取りになって
思考が誇大的になり
世界を相手に
それこそ天国から物を言いそうなほどの
有頂天の陶酔気分があったような気がします。
 
つまり
修正可能は
すなわち折々の悔い改めは
キリスト者になってからも
ますます必要になってくるということです。
 
神の民になったから完成ではなく
完全になるわけでもなく
目指すべきは
信仰者として人間としての成長であり
ゆえに修正可能
すなわち悔い改めは必要であり
その機会と
そうしなければいけない機会とが
必ず訪れてくるということです。
 
誰かの解釈を真理として
信じ込むことをしてはいけません。
 
自分の生きる力になることを
時々に受け取ってください。
たとえその後に人が外れることがあっても
神は
いつでも悔い改めの正直な祈りに答えて
帰りうる道と機会を用意しておられるということです。
人間が勝手に固定してはいけません。
 
洗礼の機会も大事ですが
洗礼は人から神への決意表明です。
信仰を問われて受洗証明みたいな書類を
出してくるような人もいますから
洗礼という儀式は絶対ではないと言わざるを得ません。
 
それよりも
善悪問わず陰性の感情が激しくなるとき
怒り、憎しみ、恨み、
悲しみ、失望、絶望、
それらのときに祈りのうちに
慰めと癒しを得て
悔い改めて自らの信仰の姿勢を正してゆくことは
キリスト者の義務というより
神が誰にでも与えている恵みであり
はっきり言えば
洗礼の有無にかかわらず
そのときそこに信仰があるという証なのです。
 
全知全能の神はそれを見逃すことはないということです。
 
それが全知全能の恐るべき神でありながら
愛の神とも言われる所以であります。
 
救われる条件は
ただ神の前で
本気で精いっぱい正直に祈ることだけであります。
 
全知なる神は
それ以上を人に求めることが無理だということを
すでにご存知であります。
 
ゆえに
悔い改めは
信仰の修正可能を表しています。
 
 
修正可能な道

修正可能な道
 
 
(2018年11月25日、同日一部修正)
(2020年09月18日、一部修正)
(2021年09月24日、再録+)
 
折々(おりおり)
証(あかし)
 
 
 
  ある朝
 
浅い眠りののち
終わろうとしている秋の
まだ暗い朝に目覚める
 
昨日のことを
「だったようだ」という
思い出し方をする
 
頭の中に靄(もや)のように
場所も定まらず
迷う悔い
何か言い損ねた
言葉でもあったのか
 
メモ帳に小さく書き留める
今日の予定
すでに果たされなかった夢の色
映して小さなバラ色だ
 
空が白む頃には
今日の命たちの
また喜びと悲しみが始まる
捨てかねている命に幸いを
 
昔の歌を口ずさみながら
泣けてくる心に別れを告げて
朝の祈りをこめて
昨日にさようなら
 
もう少し眠れていたら
見たかもしれない夢に
さようなら
 
 
  契約
 
今ここに保証のない契約をたてて
旅立つ前の支度のように
転がるプライドを箱におさめ
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
虚言と余言?を手紙にしたためて送ろうと思う
 
奴隷がしもべに変わるように祈りながら
呪いを自らに向けて
一つの段を降りて
また一つを降りて
もう降りようのないほど降りて
降り尽くしたとき
通じ合えることの乏しさを
触れることもなく
触れられることもないほどに
低く造られたことの喜びを
分かち合える友の少なさを
パン屑の奇跡になぞらえて
汚れの中に身を置いた
空しさの故に約束しよう
 
あなたがたは栄え
この身はいつか森の中に行って罪を悔い
見せない涙のように土に帰る幸いを知ると
 
 
※ 昔、前書きとして書いたものです。
 
(90年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
水子といえば、丹波哲郎の話を思い出す。
霊にとって天上界はいいところだから、困難だらけの地上に生まれなくていいとなれば、さっさと天上界に還る、だから水子はいないし、たたりもないという話。
人は天国からしか生まれ変わって来られないとすれば、確かにそういうことになるよなとは思う。→
午前9:57 · 2021年9月23日
 
大霊界の丹波哲郎と、HSの教義の話に、相づちを打っているような楽山です。「確かにそういうことになるよな」・・本気でしょうか。死後のこと、誰が知っているというのでしょう。楽山が、どっぷりカルトの超常話に浸かっているのが分かります。今までずっと超常の沼に棲んでいるのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
HS教義では、幼くしてなくなった魂は、天上界の保育施設で大切に育てられるとしていたように思う。
地上の両親の気持ち…産み育てることができずにごめんなさい…は、天上界の子供にも伝わり、慰めになるとも。→
午前10:03 · 2021年9月23日
 
「天上界の保育施設で大切に育てられる」・・上と同じような超常話を続けています。HSを批判するのではなく、HSはこう言っていると、説明しているのです。影響が抜けていない証拠でしょう。というより、楽山こそは、そういう話をしたがる人なのです。誰よりも超常志向なのです。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
こう考えると、水子供養のための特別な儀式が必要だとか、水子の祟りだとかは、スピ的にも、その影響を強く受けていた初期HS教義からも、ちと違うんじゃないかと思う。
午前10:10 · 2021年9月23日
 
人に分かるはずもない超常を前提に信じ込む楽山だから、「ちと違うんじゃないか」程度の言い方になります。「水子供養」「水子の祟り」「スピ的」「初期HS教義」という言葉が抵抗もなく並びます。いずれ教祖になりたいから超常話に肯定的になるというのが楽山の本性だと思います。
 
スピ系とも言っていますが、楽山に、そういう、はっとさせるような悟りの鋭い感性など、一度も表れたことはありません。欲望だけの根暗の陰謀の、湿ってヌルヌルした、どす黒い泥水のような、臭い作り話ばかりが、秩序もなく共感もなく、楽山の口から流れ出てきたのです。
 
 
 
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深夜帯に接続サーバーの工事がありました。予定所要時間が210分ということでしたので、投稿が遅れました。前もって告知しなくて、申し訳ありませんでした。
 
 
  自由と解放2
 
 
信仰は
欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの
戒律みたいなものに縛られる心から
基本的に
神の御心を思う世界へ
生き方の方向を変えることです。
神様のほうを向くという表現もあります。
つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。
 
こだわる物事が別のものへ変わるのではなく
こだわりという不自由からの解放
つまり自由ということです。
そうでなければ信仰は無意味だからです。
 
信仰は取引ではありません。
何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。
信仰は気づきの世界であり
物事の集合を本質としてはいないからです。
 
つまり信仰は
自分を縛っていた様々な不必要なことへの隷属から
人を解放することであり
世俗への強迫的こだわりからの自由になります。
 
それが新たな"信仰?"への縛りに強迫するのでは
もはや望ましい信仰ではないのです。
つまり
信仰は信条への束縛ではなく
世俗へのこだわりからの解放であり
どこまでも
自由意志によるところの信仰です。
そうでなければ意味がありません。
 
ゆえに信仰は
決して強制できない本質を持つと言えます。
 
ゆえに信仰は
人間の自由意志による可逆性を持つとも言えます。
 
ゆえに信仰は
縛られることではないということです。
 
信仰者になって
様々な信条や教理に
新たに縛られたのでは話になりません。
 
ゆえに
信仰において忘れてはいけないことは
神への正直な祈りだけです。
 
あとは折に触れて聖書に親しむこと
というようなシンプルさであることが必要です。
信仰の知識はその中で自然と学ぶこと以上ではありません。
 
 注意してください。
 信仰を
 神についての妄想的教理に誘うもの
 何でも神が味方という自己中に誘うもの
 優しくて穏やかな神だけを伝えるもの
 逆に教条の戒めにうるさいものとするなら
 これらはキリスト信仰ではありません。
 
信仰は
神に対する善でも正しさではありません。
そんな正しさ、地上の誰も持ち得ません。
 
信仰は
神に対する正直だけが本質です。
それだけが神に対して人の出来ることだからです。
 
ですから、また、
信仰は道徳の寄せ集めではありません。
 
世俗からの解放は
世俗の物事を全否定することではなく
世俗にこだわり縛られる心を解放することであります。
 
ですから信仰は
世俗のあらゆることを捨てて
世捨て人になることではありません。
 
また信仰は
教理や信条だけで言動するように
他の関心事を捨てることではありません。
 
というのは
そのようになってしまうことは
信仰に献身したというより
信仰から人間性を外して
信仰?マシーンになるようなもので
むしろ神が与えた心や自由意志を捨ててしまうことであり
一種の強迫神経症に過ぎないからです。
 
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
そこから良心も人間としての正義も生まれます。
しかし人間に絶対はないので
意見があり、また、批判があるのです。
 
最悪なのは、神の名によって、それらを封じることであります。
 
二番目に悪いのは、神の名によって、
都合の良いほうを残し、不都合なほうを封じることであります。
 
次に悪いのは、封じることはしないが、無視することであります。
それは、信仰においても、人間性においても、まともではありません。
 
カルトや自己中やサイコパス的人物は、
そういう、隠蔽、無視、などをする者たちであります。
いかなる社会においても、まともに付き合えない者たちであります。
 
信教の自由と言論の自由は
信教の責任と言論の責任を負う
という前提において保証されるべき自由であります。
 
カルトや自己中やサイコパスは、
自由勝手に言動し、かつ、責任を負わない者たちです。
ゆえに、平気で、人を無視し、嘘を吐けるのです。
 
 
信仰において許される自由は
信仰によって与えられる解放に伴うものです。
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
信仰は決して人間の知情意を束縛するものであってはいけません。
それは、神をけがす行為であります。
 
信仰は人間の知情意の良心を促進するものであり
縛られていた心の束縛からの解放によってもたらされます。
 
いつのまにか人間の心をだまし束縛する者がいて
そういう者を、誤って信頼したり、鵜呑みにしていると
いつのまにか自由を失って人格が破壊されてゆきます。
 
間違っても信仰が神?による束縛や縛りになりませぬように。
 
信仰が魂と心の自由への解放となりますように。
 
 
信仰は禁欲に置き換えられるものではありません。
禁欲は、修養としてはありますが、
それで信仰が成るわけではありません。
 
欲に縛られるから、
縛られないように欲を捨てる
という幼稚な戒めで信仰は語れません。
欲は死ぬまでついてくるからです。
 
信仰は関係であり絆であり共感であります。
ゆえに生きる希望と愛になりうるのであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
情欲の聖句は
情欲についての戒めにとどまりません。
聖句のモジリを書いておきます。
 
人を欲の目で見る者は姦淫を犯したのである。
 
つまり人はしばしば欲の目で見ており
すでに、そして、これからも、姦淫を犯します。
姦淫は、情欲だけでなく、偶像崇拝であり、
この場合、欲への崇拝を意味しています。
 
"他人の妻" には情欲の目を慎みましょう
などと言う説教では決して表せないものです。
 
したがって罪なき者は一人もいないのであって
信仰者は、心の向きを変えて、
神とキリストのほうを向いて祈るでありましょう。
 
欲から自由になることが信仰なのではない。
欲は誰にでもあり、信仰者だから清潔ということはない。
何を仕出かしても、
神の義のほうを向く心があるかどうかだけが信仰の有無であり
すなわち
正直に罪を告白し祈る心があるかどうかだけが信仰の有無であります。
 
祈りは、おもに、悔い改めのためにあります。
悔い=人に言えなくても、罪悪感を持ち、罪を自覚し、罪を後悔すること。
改め=折に触れて、祈ること、
   即ち、そのとき、"神のほうを向く"ことになる。
   それが、世俗から神へ、拠り所の向きを改めるということです。
   そして、正直に罪を告白して、赦しを乞い、願いを述べる。
   というのが信仰者の務めであります。
 
信仰は取り引きでも魔術でもありませんので
すぐ何もかも解決したり幸福が訪れたりするわけではありませんが、
祈ることで、何らかの心の安らぎを得る
というのは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
地上の現象としては、心理的効果と言われるでしょう。
まあ、それでもよいのです。
神のもたらす効果を、地上の人は、
いちいち、これは神が、きっと神がと、確認できるわけではありません。
 
神という絶対者に、キリスト・イエスの御名によって、
祈るということを旨とする暮らしが、何よりも大切であります。
 
祈ったことは、すべて、神によって、聞かれている
というのは、祈りの信仰の中心であります。
 
しかしながら、
その祈りは必ず神に受け入れられている、ということは言いにくいのです。
というのは、偽善者も、欲望実現のために、偽りの祈りはするからです。
 
神は、確かに、一言一句漏らさず、聴かれるでしょう。
しかし、届く意味は、信仰者と偽善者では、正反対になります。
 
ちなみに、私が聖書を読んで考える善悪の言葉は、
悪性度の高い順に、偽善>悪>善>偽悪、と考えています。
 
キリスト信仰は
偽善を最も忌み嫌うことが聖書に表されています。
 
 
悔い改め

悔い 改め
悔い改めとは、完全になることではなく、生きる方向を改めること。
悔いても、過去も未来も、改められないことが人間にはあるでしょう。
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
 
(2020年06月20日)
(2021年06月22日、再録+)
 
 
 
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  知らないこと(改)2
 
 
神と神の国、私は、よく知らないです。聖書を読んで、知らない自分を弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
 
キリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力で、人間と交わったことだけです。
 
キリストが、二千年前そうであったように、今も、人間と神の仲保者として、同伴していることを、生きるために否定できなくなった人が、信仰者となります。
 
感動することで、止まっている人間は動き出します。それが、人間にとって、いちばん大切なことです。いつもいつも感動しているわけではありませんが、感じて、受け取り、考えて、わが身を省みて、祈る日々に、何かを学んでゆくことが、その人なりの人生と信仰の成長であります。
 
それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、一気に悟るものではないので、人間において完成することはありませんが、生きる "道" となっています。
 
私たち人間は、生涯のうちに、未完成の自分と、未完成のまま地上で学んだことと為し得たことを、そのまま神に見せて、祈り、捧げて、その懐に生き、いつの日か、帰るのです。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの偽善者とカルトの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい」と言う。実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。また「悔い改めは神が与える」とも言うのだが、
 
これは、悔い改めないことの言い訳の詭弁。これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。
 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。神秘体験は、人間としての感動体験に他ならない。
 
カルトは、信条だけでなく、不都合に際しても、自分に都合の良い魔法をでっちあげる。決して本当の反省をせず、総ての不都合を、他者のせいにする。
 
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格の自由意志において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
「アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」・・信仰の義と神の義の混同。
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」・・自己正当化・無罪化は反信仰。
「教えを守って完全になれる」・・パリサイ人と同じ完全欲の偽信仰。
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを、また、神と人の関係を、まるで学んでいないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、キリストの弟子たちも、罪を犯したのち、悔い改めて、祖となり、王となり、あるいは、使徒となった人々です。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
   ↓
 (マタイによる福音書/ 05章 28節、新共同訳)
しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
 
新共同訳は嫌いです。女 → 他人の妻、という書き換えは、キリストの教えを、守りやすい道徳に変質させる邪悪な意図を感じます。信仰は、道徳ではありません。キリストが、守れないことを承知で言っていることを忘れてはなりません。
 
それに、「女」を「他人の妻」に言い換えても、情欲は湧いてくる欲望であって、情欲を湧かせないようにすることはできない。つまり、教えを守れる人はいない。
 
ゆえに、罪なき人は、一人もいない。だから、正直な悔い改めの祈りが必要なのです。
 
これなら守れるでしょうと、易い行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにするだろう。
 
守れる、完全になれる、という方向性に走っては、前に、完全欲のカルトが、勝ち誇ったかのように喜んでいました。これは、神への冒涜であり、背教です。
 
完全なのは、ただ神お一方のみです。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神性と人間性を兼ね備えた御方であり、
 
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。
 
これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間らしい感動ではなく、人間を人間として成長させることはないからだ。
 
これらについては、否定する必要はないが、史実性は不明として保留するべきである。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性への共感力である。二千年前に、現代も悪の本質である偽善を見抜いて赦さなかったイエス・キリストの、人間性への慈しみに溢れた共感力である。
 
キリストは、人の敬虔の本質の有無を洞察し、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、キリストは、誰もご自身を本当には理解していない状況を承知の上で、命をささげた。心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに、共感して信仰に至る。
 
共感とは、悲しみと愛の情感を共にすること。真善美は、そこから生まれる。
 
 
キリストは、偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者は、キリストの愛と共感を忘れられず、キリストから離れられないのである。
 
キリストの犠牲から、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、その言葉自体だけを語っても、教理的な概念以外、何も表したことにはならないからである。
 
キリストの死を、罪を背負って死んでくれてありがとう、などという、軽はずみの感謝の言葉にするのは、贖罪の教理が字面の理屈になり、理屈のうわべを辻褄合わせで滑っているだけの、心無い鈍感である。教条は心の面倒を見ない・・ということの表れた弊害である。
 
 
キリストの共感力に、次は、人間が共感して、言葉を紡ぐ努力が必要である。私たち信仰者は、アガペー(神の愛)を与えることは出来ないが、キリストの死によって、そして、キリストの同伴という希望によって、アガペーを既に受けている。
 
信仰者の努力は、少なくない失敗を経て、反省し、そのたびに正直な祈りによって告白し悔い改めて新しくなることで、学習し、少しずつ成長する生き方である。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治などによって、迫害され、利用され、また、カルトの宣伝にさえ利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、キリストは、今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルトや、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している厚顔な偽善者に、決して騙されてはいけません。
 
これらの者たちは、神を、本当には、信じてなどいないし、恐れてもいない。また、キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのです。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼ら反キリストたちは、もっともらしい言葉?の字面のみを武器に、超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならば分かるはずの理路と共感を捨ててしまった者たちです。
 
つまり人間らしさを持たず、むしろ人間を嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、かつ、尊大であり、無反省で自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
(2020年06月06日、修正再録、同日一部修正)
(2021年06月08日、再録+) 
 
 
知らないということを知るべきなのに

知らないということを知るべきなのに
 
 
 
  無能の面
 
計算される数式の値として作表される
片隅の一つのセルのように
あまりにも危うく日々に過ぎて
収まっては壊されやすい
脆い仮面であるのかもしれない
 
歩みを止め足を踏む木彫りの面
古びた皺と凹凸は罅(ひび)と剥離を伴い
熱を押し殺し秘めた息を舞う
計算も予測も不能な傷の
責め際に割れかけて
なお私を離れぬ面
紐で括るか
内側で噛みつくか
 
 
  今は今
 
記憶は澱(おり)の底から上ってきて
臭ってくる
匂ってくる
聞こえてくる
見えてくる
触れてさえくる
ときに鮮やかな
生々しくも今は幻
記憶を再び実行することはない
今は今
されど記憶に頼らず
実行できるものは何もない
 
 
(90年代か)
 
 
 
楽山の記事
救い、悔い改め、予定について(『聖なるもの』オットー著)
2021年06月04日 楽山日記(LD) 
に対する批判について補足。
 
恵みの体験について、楽山は、
「この感覚については自分にも多少の経験はあるし、前に記事にも書いたことがあるのでよく納得できる。」
と言っていました。
 
神からの恵みの感覚は、「多少の」で修飾できるものではありません。原体験としての宗教体験であり、信仰の原初となる有無の体験です。だから、楽山は、謙虚のつもりで書いて、結果、大嘘を吐いていることがバレるわけです。分かるのではなく、分かったようなふりをすることの崩れ方です。
 
楽山が「多少の経験はある」と書いているのは、楽山のホラー超常気分の空想で、何やら神秘的な気持ちになったことを言っているに過ぎないと思います。それは、気分次第の一時的なもので、宗教的な恵みの体験ではありません。その証拠に、楽山は、変わらず、今も、反キリストです。
 
楽山は、何でも、経験している、分かっている、自分の視野に納まる、という立場で書いて、受け入れの器を演じているのです。しかし、その自己顕示と不正直によって、楽山は、さらなる不祥事を加え、こともあろうに、それを自慢する結果となっている醜いピエロなのです。
 
分かってるふうを装い、知識人を装い、他者を言いくるめようとする楽山の企みは、このように、言葉の端々に、破綻が表れ、そのみすぼらしい安っぽさが、あらわになります。命果てるまで、嘘を吐き続け、一生が虚偽になり、共感せず、共感されないペテン師、楽山の因業が表れています。
 
神からの恵みは、楽山の言うような超常体験でも神秘体験でもありません。「多少」あるとか無いとかではありません。神秘は、神の秘密であり、人が知ることは出来ません。
 
神からの恵みは、人間としての感動体験です。支えを失った者が、支えを与えられる、という、絶対孤独からの解放とでも言うべき体験なのです。
 
(2021年06月08日)
 
 
 
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  詭弁について2
 
 st、楽山 問題を振り返る 2019年12月22日
 楽山日記(LD)の批判記事を再録+
 シャローム( shalom、シャロム、あなた、彼)
 
 
楽山ブログは、ほぼ、カルトと詭弁の資料となっています。去年の楽山の記事にシャロームの言をみつけたので、カルトの詭弁について考えてみます。楽山は、シャロームが正当だと主張するために引用しているわけですが、結局、シャロームの詭弁がまとめられていて、楽山は肯定しているのです。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
2:3
ああ、このような事を行う者どもをさばきながら、しかも自ら同じことを行う人よ。あなたは、神のさばきをのがれうると思うのか。 
2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:3-4、新約聖書)
 
神が導く、ゆえに、悔い改めは神によって与えられる。これを、シャロームは、自分で悔い改めることをしないことの言い訳にしています。
 
悔い改めるのは人であること、そして、シャロームが悔い改めていないのは、神の導きがない、または、シャロームが導きを無視している証拠、それは、そのまま、シャロームがキリスト者ではないことの証拠です。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていれば、悔い改めは必要ない?」
悔い改めなしにイエスの十字架の死による罪のあがないを信じることはあり得ません。しかし、重要なことはイエスの十字架による罪のあがないによってのみ、人はまことの悔い改めに導かれるということです。ですから、悔い改めは人のわざではなく、神によって与えられる恵みの賜物なのです。
 
キリストだけに罪の贖いをさせて、自分は、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、といって訂正する気のないシャロームの言い訳の詭弁です。
 
シャロームは、神が悔い改めに導くと、人は操り人形のように悔い改めをするとでも思っているのでしょうか。祭りの見世物のように、極めて幼稚な解釈です。
 
このように、シャロームは、心で悔いることがないために、聖書を、超常の奇跡~魔法のようなこととして受け取っていることが分かります。ゆえに、カルトでしかありえないのです。あるいは、キリスト教遊び~ごっこをしているだけです。
 
言うまでもなく神への冒涜ですが、それ以上に、シャロームの言は、人への嘘吐きそして詐欺行為ということです。だまされた人は、トンデモ偽善クリスチャンもどきになるだけです。
 
悔い改めることの主語は人です。人の悔い改めに答えて人を赦す主語は神です。人が悔い改めるのです。与えたり人がもらったりするものではありません。シャロームは、言葉も理路も、主客の区別も、分からないので、メチャクチャなことを言っています。
 
神は、悔い改めの道を用意して導き、人が悔い改めるのを、即ち、正直に祈ることを、愛の寛容をもって、待っておられます。
 
神のほうから救いの約束を反故にすることはありません。したがって、悔い改めない者が赦されることも、決して、ないのです。
 
だからといって、キリスト者以外は地獄行きなどというのは、恐らく、自らの信仰に舞い上がった未熟者の言うことでしょう。天国か地獄か、死後の沙汰など、人に分かるはずもありません。人が決めつけて語るのは、神を恐れないトンデモ信仰になります。
 
肉の働きから悔い改めは決して生じないのです。
 
恐ろしいことに、シャロームは、人が、自分の意志で悔い改めることを、肉の働き、つまり、欲望のなせる悪しきわざと見なしています。まさに、シャロームは、自分に悔い改める意志のないことを、自分で証ししているのです。
 
これは、シャロームが、悔い、ということを、高等感情が鈍麻しているために、直感できず、全く理解していないからだろうと思います。
 
人が自分の意志で悔い改めなくては、人が、神のもとで、人自身の意志で生き続けることは出来ないということです。つまり、シャロームは、自分が生きているのではない、という、超常魔術妄想を語っています。
 
シャロームは、信仰者は、神が信仰者を何でも良いほうに導かれるのだから人として考えるのは止めろ、と言っています。だから、人の意志を汚れたものと見て、人の意志で悔い改めることを肉の欲望と言っているわけです。
 
シャロームは自身のことを神が動かすオートマタのような人形となっているという信仰です。この男が、クリスチャン、そして、恐ろしいことに、元牧師を名乗って記事を書いていたのです。人間離れの化け物に過ぎません。
 
楽山は、このシャロームに、無条件賛同しています。楽山の、聖書と神とキリストと信仰についての言は、全く信用してはいけないということが、これで明らかになっています。
 
悔い改めをもって自分を義としたり、誇ったり、人を裁くこと、だれも他の人に悔い改めを要求することは出来ないのです。そのような悔い改めは神から与えられた悔い改めではなく、人の自我から生じた肉のわざなのです。
 
キリスト信仰に、悔い改めは必須です。それをしない偽者を、偽者だと言わなければ、この世は、カルトの天国あるいは地獄となって混乱するでしょう。
 
悔い改めを要求してはいません。悔い改めていないならば、キリスト者ではありえないと言っています。悔い改めは、神に対して、正直に罪を認める祈りであります。
 
私は、できることをしているだけです。私は自分を義としてはいません。私は折に触れて精いっぱい正直に祈っています。キリストの荷は軽いから、出来ることです。
 
シャロームが、真逆を言っていることが分かります。このように、自分が言われそうなことを、言葉だけいじくって、詭弁をしつらえて、あたかも主張であるかのように言ってくるのは、今に始まったことではありません。それも、詭弁を生業とする者の手段なのです。
 
自我の欲望のほうを向くのをやめて、神のほうを向くことが、祈りであり、悔い改めなのです。
 
悔い改めて、行いが神に相応しくなることは、比較的にはあるでしょうが、完全には、ありません。
 
すなわち、神のほうを向くとは、行いを正すことを努力することではありますが、必須としてはいません。神のように正しくはなれないからです。精いっぱい正直に・・と前に書いたのは、そのためであります。
 
シャロームは、神のほうを向くことのない、信仰の欠片もない、職業的宗教詐欺師なのでしょう。これまでのことから、良心の欠片もありません。信仰者らしい良心を見せたことがないからです。
 
自分を義としたり、誇ったり、人を詭弁で騙したり、裁いたりしているのはシャロームに他なりません。そして、これは、シャロームの欲望が為せるわざに他なりません。
 
>「イエスの十字架によるあがないを信じていても、悔い改めは必要?」
必要ですね。イエスの十字架による罪のあがないを信じることによって、罪の赦しを与えられますが、私たちは人としての弱さをもった存在には変わりませんから、罪を犯し、過ちを犯さないでで生きていくことは出来ません。
2018/12/12(水) 午後 6:29[ shalom ]返信する
 
シャロームは、今までの、おびただしい偽善と背教を隠していますが、どういう顔をして、神の前に立つつもりなのでしょう。また、今までも悔い改めの祈りなど捧げたことはなく、自動的?に赦されたかのような妄想的な思い込みに過ぎないのに、罪を犯し、偽善を働くたびに、また、嘘を積み重ねるつもりでしょうか。シャロームは、今、所在不明です。気をつけましょう。
 
しかし、それも神の恵みによって、私たちを罪の性質から清め導く神の恵みの御業のなかにあるのです。罪を犯し過ちを犯すたびに聖霊様がわたしたちをイエスの十字架のもとに導き、悔い改めに導いてくださるのです。
 
だから、悔い改めたのかと言っています。その代わりに、上のような、いちゃもんが返ってくるのです。
 
神の恵みの御業の中にあって、平気で、嘘を吐き、偽善を働き、詭弁を弄してきたシャロームです。どうやって清められるつもりなのでしょう。導きに気づかず、悔い改めず、どうやって、キリストの十字架のもとにゆくのでしょう。キリストを騙すつもりでしょうか。神は、総てを既に見抜いておられます。そして、いつまでも黙って見ておられる御方ではありません。
 
そのように御言葉と聖霊の助けによって私たちの心の闇が明るみに出されることによって、はじめて、私たちの心の闇が御言葉の光にさらされ、悔い改めに導かれ、その光にさらされることによって闇の力は砕かれ、清められるのです。この点においても悔い改めは神の恵みによって与えられるのです。
罪の増すところ恵みもいや増せり(ロマ5:20)
 
詭弁を弄するとは、このことです。御言葉、聖霊、助け、闇が明るみに、光、悔い改め、闇の力は砕かれ、清められ、・・美辞麗句の聖書語を、こんなに安っぽく並べて、何より"悔い改めない"シャロームは、どうやって、救われるつもりなのでしょう。
 
罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)
という聖句ですが・・
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)5:20
律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである。しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。 
 (ローマ5:20、新約聖書)
 
律法を曲解して信仰を堕落させる者たちによって、むしろ、罪が増し加わったが、そのために悔い改めによる恵みもますます満ち溢れた、という意味のパウロの言葉でしょう。
 
パリサイ人は悔い改めずキリストを殺しました。人自身が悔い改めないところに信仰は生まれず、恵みが増し加わることはないのです。
 
そういう深く悔いる罪人は深く悔い改めるから恵みが満ち溢れる、という意味の聖句を、悔い改めなくても恵まれるからと、罪を増し加えているシャロームは、自分に都合よく解釈をして、自分の意志で悔い改めないでいられるわけです。
 
それで救われるつもりでいるのは、シャロームだけです。シャロームも楽山も、日本語訳の通常の理路さえも、理解しているとは思えません。つまり、キリスト教について、何も知らないのです。
 
偽キリスト者、偽牧師の、シャロームの、詭弁の言い逃れです。もう、たくさんです。
 
口語訳エペソ
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、/「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。
2018/12/12(水) 午後 6:30[ shalom ]返信する 
 
シャロームが隠れて行なっていることは、口にするだけでも恥ずかしいことであります。光にさらされるとき、総てのものは、明らかになる。シャロームは、まだ嘘を吐き続けるのでしょうか。キリストがあなたを照らし、総てのものが、あなたが大嘘吐きであることを明らかにするでしょう。
 
シャロームは、これだけ、聖句が自分を斬っていても、笑っていられる男です。なぜかと言えば、シャロームは、神を、全く信じていないからです。だからこそ、シャロームは、今までのような悪意と嘲笑いの嘘から出てくる詭弁を平気で得々と言ってくるのです。
 
カルト、偽善者、詐欺師、など、嘘吐きは、批判されると、嘘を守るために、また嘘を吐くしかありません。それが、嘘吐きの宿命であり、現象として起こってくる必然の報いなのです。
 
嘘を吐いていると、その嘘によって個人が、他覚的にも自覚的にも、規定されてゆき、嘘が癖となり、普通となります。つまり、嘘が常態化すると、本当の自分が、嘘を吐かない自分がいなくなるのです。
 
シャロームは、現在、所在不明です。ひょいと、丁寧語の世辞で挨拶をして、コメントを書いてくることがありますから、くれぐれも、丁寧語や世辞に騙されないように、注意してください。
 
 
恐怖の群れ

きょうふのむれ
 
 
(2020年03月15日、同日一部修正)
(2021年03月18日、再録+)
 
 
 楽山のリツイートですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
>>
水木しげるZZ
@shigerumizukizz
「自由には責任が伴います」
まじで「どの口が言う」だな幸福の科学。
周庭氏の守護霊を騙って垂れ流した発言が国際問題レベルで騒がれた時、信教の自由だ表現の自由だと言って訂正を拒んだお前らが一体どんな責任を取ったと?
こういう団体をきちんと取材し続ける存在は絶対に必要だと思いますけどね。
>>>引用ツイート
 藤倉善郎YoshiroFujikura@やや日刊カルト新聞総裁
 @SuspendedNyorai
  · 22時間
 幸福の科学のコメント「自由には責任が伴います。」
 そうだよ。幸福の科学だって、信教の自由と同時に社会的責任がある。だから取材するんだ。これ からもな。
 取材で「幸福の科学」施設に立ち入り ⇒ 罰金10万円の有罪判決。
 「報道の自由が大きく損なわれる」と控訴へ
<<<
午前5:37 · 2021年3月17日·Twitter for iPad
<<
 
引用元2人を批判する気はありません。
 
2人は、「自由には責任が伴う」というHSの発言を、HSもだと、HSの社会的責任を追及しています。正論だと思います。
 
しかし、楽山がリツイートして賛同する資格はありません。
 
楽山こそは、反省せず、責任を負わないでいる自己中カルトに過ぎないのです。楽山は、楽山として責任を問われるべき人です。
 
この楽山のリツイートは、盗人が、盗みをしてはいけない、と説教しているようなものです。
 
楽山は、批判者にはなれません。楽山は、アンチにはなれません。
 
楽山は、アンチHSではなく、HSでもなく、嘘と詭弁と誘導と印象操作で、人を疲れさせ、傷つけて悦ぶだけの異常者です。
 
楽山は、まともな応答が出来る理路も共感も持っていない病質的エゴイストです。決して関わらないでください。相手にしないでください。近づかないでください。
 
 
(2021年03月18日)
 
 
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  背教の繰り言2
 
   私の「神の与える益」コメント欄
   シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
   記事は、コメント欄を一部編集しています。
   さらに偽善の典型として、過去記事再録+です。
 
 
シャロームは、根拠を示せず、批判を否定する言葉だけ、つまり、繰り言ばかり書いています。典型的な偽善者の例として、加筆して再録します。さらに、みにくい言い訳の嘘を、見抜かなければなりません。
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月27日 12:46
「シャロームは何をしてきたかと言うと、
 1.罪と認めず、悔い改めをしない、という、キリスト信仰とは真逆な信条、
 2.1を批判し、おかしいと指摘すると、悔い改めは神が与える(だから今はしない)などと言う言い訳。
 3.さらには、人間の自由意志を、聖霊による自由意志とは違う、という詭弁。聖霊を知っているかのように、自分を神格化しているだけです。
 4.おびただしい偽の解釈と、詭弁だけでなく、平気で嘘を吐く、でっち上げの作り話で、批判者をおとしめる、など、悪意だけが明らかになってきたのです。」
 」
わたしに対するすべての評価全く的外れではありますが、
 
シャロームが決めつけは、根拠を示せないから反論になっていないです。
 
>ありがとうございます。
 
これが、典型的な、的外れ、常識的な感受性の欠落です。
状況を弁えず、丁寧な挨拶をすればよいと思っている。
 
st5402さんのブログ記事からご家族、ご親族の病気に根差した不安と不信や怒り、悲しみに根差した不安、不信、怒り、悲しみ・・・などがst5402さんの 固定的な妄想となり、他の人に対する関係や理解理解も妄想による怒りや不信を駆り立てて的外れになり、その評価も、推測も.歪められているようです。
 
個人情報をバラしたい、または、バラすぞという脅し。
 
「悲しみに根差した」を付けて、安易に、感情の言葉をいじくっているようだが、不安、不信、怒りは、悲しみ(?)ではありません。特に、あなたシャロームは、悲しみではなく、あざ笑いと怒りしか、表したことがないのです。
 
なにさまか、わたしのじじょうをしりもせず、びょうりのせつめい、つくりばなしの
 
罵詈雑言使わなければ冷静、ということにはなりません。
丁寧なぶん、偽善性の高い暴虐であります。
 
内なる妄想による怒り、悲しみを解消するために、敵意を他者に投影して、いくら怒りをぶっつけても、内なる怒り、悲しみははますます固定化されてしまうでしょう。敵は本能寺にありです。
 
煩悩寺シャローム、あなたは、無根拠に人をおとしめる悪魔の自己中神です。内なる妄想を外に及ぼさないでください。
 
2. st5402さん おはようございます
 2019年11月27日 12:47
イエスさまを十字架につけたひとの敵意、憎しみ、悲しみは
私たちすべての人が例外なく抱えている敵意、悲しみのようです。
 
嘘です。悲しみは殆どの人が経験しますが、敵意、憎しみになるのは、悲しみからではなく、自己正当化をする者たちの場合です。
 
あなたシャロームには、悲しみを感じる心が無い。悪意、敵意、怨念、憎しみだけに溢れて、攻撃しているのです。そして、罪悪感がないから、執拗に続けているのです。
 
あなたシャロームは、人間というものが、全然わかっていない。にもかかわらず、自己顕示欲で、語ることを止めないのは、ホラーです。
 
オウム返しの、私と同じ言葉を出してこちらに向けても、通用しない。根拠にならないから。
 
持って行き所のない、だれかにぶつけずにはいられない私たちの怒り、悲しみ、怨念の刃によって十字架に釘付けられたのです。
 
大方の人は、無関心だったし、今も無関心だと思います。
怨念の刃は、あなたシャロームと同類のパリサイ人です。あなたは、現代のパリサイ人です。
 
私たちの中に、あなたシャロームは自分を含めていないでしょう。
それが、あなたシャロームの悪魔性です。
 
今も、イエスさまは私たちの怒り、悲しみ、怨念の刃を黙ってその身に受けて下さり、“父よ、彼をおゆるし下さい。彼らはなにをしているのかわからずにしているのですから”と祈っておられます。
 
彼らの中に、あなたシャロームは自分を含めていないでしょう。
それが、あなたシャロームの悪魔性です。
 
十字架につけられたイエス差(様と訂正)と出会うことによってのみ、私や、あなたを苦しめている怒り、悲しみから癒し、解放してくださるのです。
イエス様のみが私たちの心の妄想、罪から解放してくださいます。
 
あなたは、キリストを信じていないから、解放されないで、今も、シンバルを叩き、ホラ貝を吹き鳴らしています。どこまで、堕ちるつもりなのでしょう。
 
本日の一日畜尿や今日の血液検査により腎臓内科の診断は健康優良児?ですとのことでした。めでたし!めでたし!
shalom!
 
あなたシャロームの繰り言はたくさんです。検査が正常で自分は大丈夫だと当てつけてくる気持ちの悪さ。ここに、排尿しないでください。あなたの血は、ばい菌だらけです。涙が出たら老化です。公共の真実追求の場をけがさないように。
 
 
  病的説教
  コメント欄:シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼)
 
1. st5402さん おはようございます
 2019年11月29日 09:10
 「与えられて初めて、与えられる」・・何を言ってるんですか。
 表せないんだったら、書かないことです。
 」
st5402さん
申し訳ありません。ちょっとわかりにくい書き方でしたね。
st5402さんはやはり、文章校正が上手ですね。
もっと良い書き方であれば、
「私たちは自分で持っていないものを人に与えることは出来ない」ように、「神に対する悔い改めは神がおられ、その神から自分が愛されていることを知らされ、その愛を体験することによってはじめて、神に対して自分の罪を悔い改めることができます」ということですが、わかりやすいでしょうか。
 
急に低姿勢になったようだが、あなたシャロームの言っていることは、神が悔い改めを与えるとは言いません。わかりにくいのではなく、嘘なのです。あなたシャロームは、悔い改めは神が与える、ということを否定して、修正しなければなりません。ここにきて、保身の言い訳、見苦しいだけです。
 
あなたシャロームは、悔い改めは神が与えると言って、悔い改めていないわけです。今まで、悔い改めていないことが、いたるところに表れているあなたシャロームが、「悔い改めることができます」と、またしても、いつものように、他者に教えるような筆致で書いてきても、ならOKですよ、となるわけがないでしょう。あなたシャロームの悔い改めが、何も伝わって来ないのですから。
 
つまり、自分は今まで神がおられ、自分を愛しておられることも知らずに、神に対する不信仰の罪によって、まるで自分が神であるかのように、善悪の木の実を食べて、善悪の剣を振りかざし、神をも人をも裁き、神のようなものとして生きていた自分の過ちに気づき、神と人に対する罪を認めてはじめて神と人に悔い改めることができますではいかがでしょうか。わかりやすいでしょうか。
ありがとうございました!
shalom!
 
低姿勢で良さそうなことを言葉面だけで整えたつもりで書いて「ではいかがでしょうか」ではなく、今までは、間違えていたのです。ここで、言い方だけ変えて、良さそうにして、めでたし、めでたし、ではありません。偽りの信仰者の、嘘は、捏造した中身の軽さによって、バレるのです。
 
自分の「神と人に対する罪」を認めたことのないシャロームが保身のために書いただけの教義的な言葉など、何の意味もありません。
 
あなたシャロームは、神と人に対する罪、すなわち、今までの、誤謬、嘘、妄想、詭弁、自己中心、失言、などを認めて、訂正し、悔い改めなければなりません。それが出来るまで、あなたシャロームは反キリスト・反信仰者です。
 
5. shalomです。 お久しぶりです。
 2019年11月29日 10:23
「ではいかがでしょうか」ではなく、今までは、間違えていたのです。ここで、言い方だけ変えて、わかりやすくなって、めでたし、めでたし、ではありません。 
あなたシャロームは、神と人に対する罪、すなわち、今までの、誤謬、嘘、詭弁、自己中心、を認めて、訂正し、悔い改めなければなりません。
それが出来るまで、ここには書かないように。
 」
残念ながらお分かりではないようですね。
なぜでしょう?
それはあなたが神がおられることも、神にご自分が愛されていることを
まだ知り、体験しておられないからでしょうね。
自分の思いこみ、妄想を正当化するために、イエスさまを利用しておられるようですね。
またお訪ねします。
shalom!
 
そんなことだろうと思っていました。あなたシャロームは根腐れだから。
言ったのに、また、私の言ったことを、オウム返しで、私に向けています。
まるで、なかなか取れない口臭のようです。
 
このあと、《シャロームの背教》を載せています。何度も載せることになるでしょう。
 
 
8. st5402さん おはようございます
 2019年11月29日 17:49
口語訳 ロマ
2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
st5402さんの聖書にはありませんか?
だれも神の導き、助けがなければ悔い改めることは出来ないのです。
これは口語訳聖書ですが、st5402さんがどんなに校正、翻訳が上手でもst5402訳聖書ではありません。
shalom!
 
導きがあれば、悔い改めているはずですね。言ってることが、まるごと、矛盾です。
 
自分が、まるで、神の助けを得ているかのような言い方ですが、神をずっと裏切り続けているあなたシャロームだから、今までのことを恐れもせずに、言えるのでしょう。
神をどれだけ冒涜すれば気が済むのでしょう。
 
あなたシャロームが、いかに恥を知らないかが、表れています。恐ろしいことです。
 
 
   《シャロームの背教》
 
これからも、しばしば載せることになるでしょう。このシャロームのお仲間で、無条件賛同をしているのが、楽山です。個人~集団のカルトを考えるべきでしょう。
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、と言って、訂正していない。
悔い改めは必要かと問われて、悔い改めは必要だが、それは、神が与えると言って、その後も、二度三度と同じことを言って、訂正していない。
 
シャロームの2つの発言は、悔い改めなくてもいい、悔い改めは必要、という矛盾を来たしています。さらに、悔い改めなくていい、というのは、キリスト信仰とは、真逆であります。さらに、悔い改めを神が与える、というのは、自分はしなくてもいい、という詭弁です。メチャクチャなのです。
 
悔い改めというのは、やり取りできるようなものでしょうか、否であります。悔い改めは、主語となる本人以外にはできない、というより、本人以外はしないことなのです。与えたりもらったりできるものではありません。シャロームは、それさえ理解せずに、神が与える、神が与える、と言い続けています。
 
さらに、シャロームの言には、さらなる自己矛盾があります。悔い改めていないということは、神は悔い改めを与えていないことになり、キリスト者になっていないということになるのです。
 
悔い改めは、自発的でなければ意味がありません。
悔い改めは、神に対して、正直に罪を告白し祈ることです。
 
すでに、シャロームの信仰が偽物であることは、十年にわたって、数々の嘘と妄想と詭弁と失言を指摘することによって、証明されたと言ってよいレベルだと思います。
 
 (ローマ人への手紙、口語訳)2:4
それとも、神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじるのか。
 (ローマ2:4、新約聖書)
 
聖句の、神が悔い改めに導く、とは、ゆえに、悔い改めよ、ということです。そうしないことは、神の慈愛と忍耐と寛容との富を軽んじることだ、と言っています。
 
まさに、シャロームは、神を軽んじ、それだけでなく、真逆の信条と詭弁を豪語して、はばからなかったし、そのことを訂正してもいないのです。
 
以上は、理路が明白であり、共感も直観的に可能なのに、シャロームは、無視して、とぼけていますから、これから、シャロームの発言を"エヘヘ言語"と呼ぶことにします。
 
決して、シャロームを、キリスト者(クリスチャン)だなどと思わないでください。
シャロームは、キリスト教とキリスト信仰をネタにした詐欺師です。
 
 
偽者

偽者
 
 
(2019年11月30日)
(2021年01月04日、再録+、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(更新、コメント不可、12月消える)
 
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