ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪口

 
  楽山の攻撃2
 
 「ウソの国ー詩と宗教」を見てみた 2
 2020年10月04日 楽山日記(LD)
   を改めて批判。
 
 
2年前の楽山の記事ですが、決めつけの凄まじさが表れています。楽山の、未熟さと破綻が、どんどん漏れ出しています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の害毒が、今回は、露骨に表れているようです。荒らしであることを自ら証明していることに気づかないようです。・・長いです。
 
 
*切っ掛け
知名度の高い人気ブログであれば、批判、炎上によってアクセス殺到ということもあるかもしれないが、楽山日記のような閑散ブログの場合は、もとから興味を持っている人は稀であるし、そういう楽山の批判が書かれたり、コメ欄炎上したところで、誰も読まないということなのだろう。
 
楽山の記事やコメントが、読む価値がなく、読んでも嘘と間違いだらけで、むしろ害毒のほうが大きいと判断して、批判しています。信仰を知っているキリスト者にとっては、楽山は、嘘を宣伝しているわけだから、甚だ迷惑で、しばしば、書くのをやめるようにも言ってきたのです。
 
楽山が、読む価値のないブログを書いているのなら、もとから興味を持っている人が稀で、批判も読まないのなら、しかも、今は、コメ蘭も炎上することはないなら、なぜ、こちらに文句を言ってくるのでしょう、なぜ、しつこく書くことだけはやめないのでしょう。なぜ、反応して、悪口を並べるのでしょう。
 
 
いやいや、それは後付けの理屈にすぎないでしょう。
実際には、st氏は、当初、私の記事をほめてました。たとえばこんな風に。(コメント中の「自由」とは楽山のことです)
2020-09-02一応キリスト者のつもりの私より
http://mn266z.blog.jp/archives/17513036.html
 
楽山は、私が、好意的であった頃のコメントを出しています(画像なので省略)。前にも、似たようなことをしてきましたが、それは、私が、楽山の丁寧語に、だまされていた頃の話です。
 
 
でも私が、st氏のシャローム氏に対するストーカー行為を注意しはじめると、だんだんと私に対して批判的になり、最終的には敵認定し、私の書くことは何でもかんでも否定するようになったのです。
ようは、st氏は自分のストーカー行為を注意されたことを逆恨みして、楽山攻撃をはじめたにすぎず、信仰うんぬんというのはそれを正当化するための後付けの理屈にすぎないということです。st氏は、自分の恨みつらみをはらすために、キリスト教を利用しているのです。
 
何だか、前にも見たようなことを書いています。シャロームと楽山を批判することは、信仰者としての私の務めだと思っています。その最終的な裁きは、神に委ねています。
 
「st氏は自分のストーカー行為を注意されたことを逆恨みして、楽山攻撃をはじめたにすぎず」・・とんでもない、これが嫌がらせです。楽山の言っていることは、それだけで、十分に悪質です。今までの批判において、明らかであり、これからも、明らかにしてゆくことが、大事だと思っています。
 
 
「嘘と間違いだらけ」というのは、この記事を読んでいる読者には、例のごとく、st氏が自分の姿を、楽山に投影しているだけだと理解していただけると思います。
 
また、知ったかぶりで「投影」という心理学用語を出してきました。シャロームも同様でした。恐らく、それ以外、何も言えないということでしょう。どちらも、同じ学問用語に、しがみついて、悪用し乱用しているさまを見ても、とても、見苦しいと思います。大人になりそこなった人かもしれません。
 
 
*嘘
また仮にわずかながらも楽山日記を愛読してくれる人がいたとしても、そういう人はstさんとは考えは合わないだろうから、stさんの楽山批判を読んでもそれに影響される人はいないだろう。
 
楽山と一蓮托生のお仲間たちにとっては、自主性も創造性もなく執念深さだけの根性にマインドコントロールされているわけだから、私とは考えが合わないのが当たり前ということです。犠牲者は、やがて、加害者になる可能性があります。
 
私は、私と同じ考えになってくれとか、私と一緒に批判してくれとか、頼むために、批判記事を書いているわけではありません。私の務めとして、誰も関わらないように、楽山やシャロームなどの易坊類が邪悪だという情報をできるだけ広めるために書いています。
 
 
いやいや、先にも書いた通り、st氏は、他も自分に同調することを求める人でしょう。私がシャローム氏と話をしていた時に、シャロームと話してはいけない、話すなら、楽山も批判対象にするといって自分に同調するように強要したでしょう。
 
楽山は、無理やり、こちらの言い分を否定して、「同調することを求める」などと言っていますが、私に同調しようがしまいが、私は、このように、知らせるために、批判を続けているのです。楽山が、不正であるという結論が、この3年以上変わることは、なかったからです。
 
批判は、特に、楽山やシャロームのような、不感不応の無視をする者たちに対しては、難しいもので、対象がキレてしまうと、ここにあるような、決めつけの悪口のシャワーも覚悟しなければなりません。それに、反応がなくても、注意喚起のために、書き続けなければいけないのです。
 
私が、まるでジェラシーでも抱いていたかのように、楽山は、言っています。正直言って、気持ち悪いです。楽山は、理路を正すことが出来ず、反論も弁明も出来ないので、そういう言い方しかできないのです。それが自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)ということです。
 
 
あとは、マリア氏は、st氏が自分に同調しない者を攻撃した事例を挙げてました。
シャロームさんを守ろうとしたクリスチャンにも噛みつきにいき、火の粉がかかっていってました。
それで心苦しくてコメント欄をとじたりしてて、
シャロームさんは、最終的にサイトを閉じたものと推測しました。
 
シャロームは、自主的にサイトを閉じたのでしょうか。違います。ヤフーブログが終了して、所在不明になっているだけです。楽山とシャロームが、同一の成りすましである可能性も、未だ、否定されていません。リアルでは出来ない成りすましですが、ネットには、事実は分からないという性質があります。
 
 
守ろうとした人にまで噛みつきサイトを荒らす、それは異常行動です。普通の神経を持つ人はターゲットは一人ですし、誰彼かまわず見境なく敵とみなして噛みつくのは病気ですね。 
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。- マグダラのマリアの部屋
 
批判対象が、一人とは限りません。集団ということもあるでしょう。シャロームと楽山は、明らかにお仲間です。一度に二人以上を相手に出来るほどの、時間も気力も不足しているので、今は、楽山を批判しているというだけのことです。
 
サイトを荒らす、ということなら、自称キリスト教を名乗るカルトの、自称マグダラマリアの仲間である自称ヨシュアが、私に対して、精神病、人間失格など、たくさんの罵詈雑言を言っていました。怒り狂うところは、楽山も同様なのです。楽山は隠しているだけです。
 
自称ヨシュアと自称マグダラマリアは、"完全になれるんです" と言って、仲間を誘うためにキリストを利用していた偽キリスト教のカルトです。そのままでは、キリスト教とキリスト信仰とキリスト者を台無しにしていゆく人たちです。そういう人は、他にもいるだろうと思っています。
 
楽山は、こちらの弱みを突いたつもりで、いつも、的外れです。いい加減、ふつうなら、破綻に気づくはずなのですが、気づかないところが、楽山の自己愛性の病質と悪意なのでしょう。
 
 
ちなみに、私がアメブロではなく、ライブドアブログに書いているのは、これが理由でもあります。アメブロでは横のつながりができやすいようなので、私に話しかけてくる人や、義侠心から擁護発言をする人が出てくるかもしれないし、st氏がそういう人に噛みつかないとも限らないわけで、それなら横のつながりが薄いライブドアブログの方で書いた方がいいだろうという判断です。
 
横のつながりというのは、そんなに、サーバーによって違うものなのでしょうか。また、実際、そんなに、つながるものなのでしょうか、違うと思います。楽山は、つながりたくない、あるいは、つながるとヤバい、ということなのでしょう。
 
「アメブロではなく、ライブドアブログに書いている」・・楽山は、楽山日記(a)というアメーバブログも書いています。そこは、趣味の記事が多いようだから、アクセスを増やしたいのでしょう。知らないと思っているのでしょうか。リンク集に書いてあるではないか。
https://ameblo.jp/aankzf2019/
 
楽山は、他者とつながるのが嫌なのだそうです。閲覧数の多いアメブロだと、トラブルになりやすいのでしょうか。普通の記事ならば、そんなことはないのです。楽山の書く記事は、嘘と詭弁と誘導の個人カルト思想の記事です。まさに、今回のように。
 
楽山の味方をするのは、シャロームのようなお仲間か、だまされている人たちでしょうから、早く、多くの人が、楽山やシャロームの、嘘とペテンに気づいてほしいと思います。
 
 
ところで、st氏の他者批判は、何度もいっているようにブーメランばかりですが、「執念深さだけの根性にマインドコントロールされている」というのもそれです。
 
執念深いのではなく、放置しておくことの害が大きいという判断です。私が、誰でも批判しているかのような言い方を、楽山がするのは悪口を広めたいからでしょう。この記事がそうです。「ブーメラン」「執念深さ」など、自分に当てはまることを相手に向けるのもそうです。それこそブーメランなのです。
 
 
st氏は、シャローム氏に対して何年にもわたって粘着していたわけであるし、楽山に対しても同じことをしようとしているでしょう。しかも自分に対する批判に反論するというだけでなく、それとはまったく無関係の記事についても、シャローム氏や楽山が書いたものであれば、すべてチェックして、何でもケチをつけるというやり方です。執念深い云々というのは、誰よりもst氏にこそ当てはまります。
 
楽山が書いてくる文章には、一見、違うように見えますが、遣り取り不可の病質が表れます。「粘着」は楽山の得意技です。何を言われても同じことを繰り返し書いてきます。ときに、悪口と嘘と詭弁だけを返してきます。この記事に表れています。誰も楽山に関わってほしくないから批判を続けるのです。
 
シャロームと楽山については、批判しなければ、世辞でごまかすところがあるので、私は、楽山の異常な体質の表れを文章の中に見れば、指摘して批判することになります。全て、邪悪な自己愛性パーソナリティ障害によるものとして説明できるでしょう。病的な悪質であります。
 
この記事こそは、ネチネチと、まるで、やみくもに、ボンドかセメダインをあちこちに貼り付けてくるようです。長い長い、不快を与える言葉が続いています。嫌がらせ以外ではないと思います。しかも、ひとつも、まともに言えていないのです。無反省、無責任に、無理解、無節操が加わってくる暴虐です。
 
 
*人恋しい
ようはstさんが、楽山がああだこうだといくら書いても、現実は変わらないということ。おそらくこれは、shalomさん、マリアさんについても同じだ。stさんがマリア批判をしたところで、それ以降もマリアさんとこは人気ブログであり続けてるし、shalom批判をしたところでshalomさんが皆から糾弾されるということもないし、shalomとの会話を拒否する人もいないだろう。
 
ネットでは、興味本位のブログが多いですから、だいたい、批判記事というのは、嫌われる傾向であることも知っています。突っ込んで批判とか書かないほうが楽でしょう。そのことが、病質者に温床を与えることにもなっています。
 
時間と意欲のある人だけが、偽善者、サイコパス、異常人格などを指摘し、彼らがネットの交流やコミュニティに参加することを否定し批判します。病質者は、基本的に、不治で、変わりませんから、彼らにダメージを与えることよりも、むしろ、閲覧する人への注意喚起という意味があります。
 
相手が変わるかどうかではなく、間違っているということを、書けるのに書かないでいることは反信仰を放置したという罪であり、自分の信仰に反することになるので、批判を書ける人、あるいは、書こうという意欲のある人は書くべきなのです。ただ、とても疲れることを覚悟しないといけません。
 
訪問者数に依存したブログを書くなら、興味本位の書き方を工夫したりするのは、ありなのですが、本来、私のブログが信仰の記事を正直に書くということ動機なので、批判についても、嫌われ、読まれなくなっても、言いたいこと、大事だと思うことを最優先に書くように努めています。
 
楽山もシャロームも、お仲間や訪問者数が少ないことを、おとしめる目的で書いてきますが、それは、節操も使命感も持っていない、例えば、極端な場合、流行るかどうかだけを判断の基準としているような香具師(やし)か的屋(てきや)みたいな下劣な姿勢と体質を表しているということです。
 
 
st氏は、人から嫌われても、訪問者数が少なくても構わないかのようなことを書いていますけれども、実際の行動はそれとはちがいますね。
ヤフーブログ時代、st氏は、他ブログの記事に「ナイス」を押しまくっていたでしょう。このことを、マリア氏から、自ブログのアクセス稼ぎのため、ナイスのお礼返しを期待してのことだと指摘されてた。
 
ヤフーブログにまでさかのぼって、ナイス、という懐かしい言葉が出てきました。お気に入りや訪問者を大切にするということを、してこなかった者の言い分です。そして、アクセス稼ぎという、汚い言葉遣いになっている、ディスりまくっている楽山です。ボロが出ています。
 
アクセスは、稼ぐものではなく、知らせることによって、見てくれたら感謝・・という希望であり、それ以上を期待していはいないのですが、楽山は、そういう記事ではなく、多くの人をだまそうとしているので、アクセス稼ぎなどと言って、自分で何とかするものだという先入観のようです。
 
私は、許されたことはしている、できることはしている、というだけのことです。ブログ巡りして「いいね」を入れることは多いけど、それは、ときに心が和むことへのお礼であり、お互い頑張りましょうという無言の挨拶でもあります。哀れなほど、楽山の精神の貧困が浮き彫りになっています。
 
楽山は、自己愛・自己中だから、巡ることもせず、「いいね」も入れないんでしょうか。それは、独自性というより、冷酷な人間嫌いだからです。自分が正しいという我執から、人を低く見ているから、どうでもいいのです。ボタンがあれば楽山に「わるいね」「ひどいね」をいっぱい押したいところです。
 
 
st氏のアメブロを見た限りでは、今も同じようなことをやっているみたいですね。相互フォローを期待して、フォローしまくったり、いいねをしまくっているのではありませんか。
 
しまくってはいませんが、フォローするのは、悪いことでしょうか。いいねを入れるのは、悪いことでしょうか。楽山は、頭がおかしいのでしょうか。他者の気持ちを何とも思っていないから、こういうことが言えるのです。楽山の、悪質な、人間嫌いと厭世モードが表れています。そういう人生なのでしょう。
 
 
また、st氏はスルーされるとすごく怒ります。自分の批判にこたえないのはいけないとか何とか。もう二度と口をきいてもらえないような酷い悪口を言っておきながら、相手が自分と話してくれなくなると怒るのです。何をいっても不感不能はけしからんとか何とか言って。
 
私の人生は、基本的には孤独な時間を愛するタイプです。社交家ではありません。スルーという単純な問題ではなく、宗教を侮辱しながら、人の意見を無視する楽山に対して批判を書きます。楽山は、共感性に欠けており、悲哀の感情を持たず、悪意と敵意を、丁寧語でごまかしているのです。
 
他者の意見を無視して、自らの安穏を図るのは、シャロームと楽山の得意技であり、まるで、自己中を勧めるアドラー教のようですが、アドラー教について、シャロームは肯定、楽山は宣伝者です。なお、楽山は無神教カルト、シャロームは偽牧師だと思っています。同一の成りすましなら最悪です。
 
 
今はどうか知りませんが、ヤフーブログ時代は、心身の不調をよく訴えていました。まるで死期が迫っているかのような書きぶりでした。でも今もブログを続けていることからすると、実際はそこまで状態が悪いわけではなく、誰かにかまってほしくて大袈裟なことをいっていただけなのでしょう。
 
高齢ですし、持病もありますから、体調は、今も不良で、進行中ですが、それを、あげつらうことに、抵抗を感じないのは、楽山が、高等感情のない冷酷な人間で、今は、さらに逆上している証拠です。このように、個人の事情をあげつらうのも、荒らしなどのネット不良の特徴です。証拠になります。
 
 
こういう過去からすると、人から嫌われてもいいから、自分の思いを正直に書くというのは、ただの強がりとしか思えません。本音は、〈人恋しくてたまらない。自分の心を正直にさらけ出し、ありのままの自分を理解してもらった上で、自分の欠点も含めてすべてを受け入れてほしい。そういう人と出会いたい〉ということでしょう。そしてその期待が満たされないと、逆ギレして、ストーカー化する。自分を受け入れてほしいのに受け入れてくれなかった人、自分が甘えたかったときに、甘えさせてくれなかった人を逆恨みして、復讐しようとする。
 
吐き気がします。道徳に真っ向から反している楽山が、道徳を教えるのでしょうか。こういう白々しさも病質の特徴です。ストーカーするほどの魅力は、楽山にも、シャロームにも、皆無です。批判対象に対しては、その文章を見るたびに、不快で、吐き気や寒気を催すこともあります。
 
しかも、さらに、楽山は、惑わし言葉のボンヤリ言語で、無責任に、評論家気取りで書いてくるから、詐欺であり、悪事であると判断して、批判しているわけです。今回、決めつけの悪口しか言えないことを、ごまかしようがなくなっています。吐き気がします。
 
こういうことは、何度も言っているのに、理解力がなく、批判返しが、シャロームに酷似していて、同じ悪口の繰り返しで、投影という決めつけも今に始まったことではありません。読者が、間違って近づくことのないように、批判を続けてきました。今回、悪意を隠さないようです。
 
 
これは見当外れの推測にすぎないかもしれませんが、いいね、フォローをしまくり、相手に酷いことを言っておきながらその相手からの返事を欲しがったり、拒絶されても拒絶されても執拗に絡んでいったり、他から酷いことをされただとか、今にも死にそうなほどに苦しいと泣き言を繰り返したり、さらにはシャローム氏や楽山など、一時は親しくしていた相手に対して、苦言を呈されて以降、一転して、悪口を言いふらすようになったこと等からすれば、当たらずも遠からず…といったところではないかと思います。
 
「推測にすぎない」と言いながら、ここまで書けるのが、傲慢不遜の、楽山という病質者です。これが、ボンヤリ言語です。優しさを気取りながら、相手を、地獄に落とすようなことを平気で書いてくるのです。罪悪感も、良心の欠片も、元から、ないのでしょう。
 
「一時は親しくしていた」ことを恨んで指摘してきますが、相手に対する評価は、良いほうにも悪いほうにも、変わってゆくものです。楽山は、親しくしたら、一生親しくしなければならないと言いたいのでしょうか。そういう思い込みは、怖いです。これも病質だと思います。
 
もはや人間とは思えないのを、病質、人格障害と言います。精神病とは違います。精神病には、効く薬があり、正直な人が多いです。楽山のような、平気で嘘を吐く、いわゆる虚言癖は、人格障害に多いようです。バレるたびに、憎まれるでしょう。だから、末路が悲惨になるです。
 
ブログを書いて公開して、何らかの反応を希望しない人がいるのでしょうか。それは、楽山のような、自己中からの芝居で、評論家気取りで、大きなテーマに、いちゃもんをつけることで、お安く満悦するような、自己愛の病質者だけだと思います。
 
フォロー対象サイトを巡るのは、悪いことでしょうか。「いいね」を入れるのは、悪いことでしょうか。言うまでもないことですが、楽山やシャロームには、以前、善人だと間違えて、騙されて、入れたかもしれませんが、当然ながら、今は、もはや、彼らに、「いいね」は入れません。
 
また、返事が来て、喜ぶのは、悪いことでしょうか。返事を欲しがるとは、具体的に、できることでしょうか。返事を欲しがらないとは、そんなに立派なことでしょうか。気をつけてください。楽山は、批判に対して、こちらの悪口だという、いちゃもんだらけの悪口だけを返してきています。
 
総てを、私の悪意だと言っていることで、自分が悪口マシーンになっていることを自覚していないことが明らかになっています。これが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。同格の他者の存在を認めていないのです。
 
ストーカーなどと、私は、楽山に粘着しているのではありません。楽山の、一途な、自惚れです。楽山を否定しているのです。楽山は卑劣だから、ネットからいなくなって、楽山の詭弁を読まなくてよくなったら、それが一番いいと思っているのです。
 
 
こんなことを、ずけずけ指摘するのは酷かとは思いましたが、人恋しがっている、人に甘えたがっているなどの結論だけを書くと、オウム返しが好きなst氏のことですから「それは楽山の投影だ」と言いつのるだろうことを見越して、その根拠となる事例をいろいろと並べてみた次第です。あしからず。
 
楽山とシャロームこそ、雑言のオウム返しでしょう。間違っても、人恋しいときに、楽山やシャロームみたいなサイコパスに、好んで親しむなどということはしません。楽山は、切れ味など何もない雑言を、いくら書いても無駄だと分からないようです。
 
私は、投影、という心理学の言葉を使うことには、慎重でありたいです。特に、人に対して単純に使うのは、それ自体が悪口にもなり、責任逃れの嫌がらせにもなりますから、控えています。楽山は、自分が何を言っているのか分からないから平気で使っているのです。
 
 
*類似
私から見た現実はこのようなものではある。stさんは、マリアさんのブログでは下のような決意表明を書いていたし、命がけでカルトと戦っているつもりかもしれないけど、そろそろ現実に気づいてもいい頃ではないかと思う。
 
楽山から見た現実は、バーチャルであることがよく分かる文章です。楽山は、核心に入ってゆけないために、深みの無い文脈と言葉に頼って、批判しても無駄だと、おとしめてきます。楽山は、一生、現実に気づかないのかもしれません。悪夢が楽山の暮らしになっているのかもしれません。
 
批判が無駄でもよいのです。真善美から程遠く、高慢から礼節も弁えず、だらだらボンヤリ言語を垂れ流し、社会悪につながりそうな自己中の邪悪に対して、できることをしているだけです。楽山批判は、3年以上にわたる自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の資料です。
 
 
例によって、ここもブーメランになってます。もういちいち細かく指摘するのも面倒だけども、一つだけ触れておけば、何人もの人たちに、ストーカー行為は止めるように注意されても、自分はあくまで正しいと強情を張ってるst氏が、他の人のことを自己中というのは、ちゃんちゃらおかしいことです。一番の自己中は、ご自分でしょう。
 
何人も、ではなくて、批判対象と、そのお仲間だけです。批判は、まさに、そういう者に左右されてはいけないのです。楽山は、好きなように、でっち上げて、悪口だけを書いてきます。これも、自己愛性人格障害の特徴です。文章を書けば、表れてくる哀れな姿なのです。
 
楽山には、ネットの言論から、早く、いなくなってほしいだけです。あわれなほど、悪口マシーンになっている楽山です。これだけ連発するのは、めずらしいようです。よほど、何も言えなくなったのでしょう。自分の悪を、全部、私に当てはめて、獣性を剥き出しにしています。
 
楽山は、批判に正当な弁明が出来ないものだから、怒り、興奮すると、見境もなく、激しい決めつけだけを向けて、このように一方的な機関銃みたいになる人だということを、知ってほしいと思います。楽山は、自我の赴くまま、制御が効きません。自省ということを学んでこなかったからでしょう。
 
全部、楽山に向けたことを、こちらに向けてブーメランと言っていますが、ブーメランは、相手に返すことではなく、自分に返ってくることです。そして、ブーメランを、しばしば投げてくるのは、そして今、盛んに返されているのは、楽山その人なのです。
 
 
またHSでは、退会者や批判者のことを、「神(大川隆法)を信じず、その言葉に耳を貸さず、エゴを優先する自己中だ」という風に非難しています。ようするに、自分らの言葉に従わないのは、高慢、エゴイスト、自己中だという考え方です。
こういうところは、st氏とHSは共通しているし、それだからこそ、HS信者であるLEO氏は、st氏を高評価するのでしょう。
st氏は、シャローム氏をカルト呼ばわりしていましたが、なんのことはない、自分こそがカルトHSと同じような思考回路を持っていたということです。
 
楽山は、ORに賛同しているのでしょうか。アンチではなかったようです。アンチであるかどうかに、楽山には関心はないのだろうと思います。3年以上見てきて、楽山は、ORのような教祖になりたいのでしょう。それにしては、言ってることが、宗教観が、幼稚すぎます。
 
楽山は、私が、HSと共通していると言っていますが、これこそ、楽山には、批判についても、宗教についても、気取った読書についても、読解力、理解力が、極端に、不足していることを自ら表しています。劣悪なカルト精神の視野狭窄と単方向性が表れています。
 
シャロームも楽山も、ここまで本性が明らかになってくると、病的ナルシスト、サイコパス、と言ってよいと思います。すなわち、罪悪感、悔いる心、反省など、自らを洞察する心が欠落しているので、他者のせいにするしかないのです。楽山は、荒らしの本性を剥き出しにしてきたようです。
 
楽山は、今回のように爆発していることから、とんがっている崖っぷちなのに、日頃は、柔和を装っていたことになります。こういう生き方をして、どこが気持ちいいのか分かりませんが、これを続けてゆくのでしょうか。嘘っぱちの余裕を、枯れ葉のように、ひらひらさせながら落ちてゆくのでしょうか。
 
 
幽霊のように嘘を吐く

幽霊のように嘘を吐く
 
 
(2020年)
(2022年10月11日、再録+加筆)
 
 
 
   傷口(改)
 
顔も知らないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  人が生まれて
 
人が生まれて
罪が生まれた
人が増えて
罪に罪を重ねた
言葉が生まれて
嘘が生まれた
心にもないことを言い
心にあることを隠した
 
虐げられた救い主のように
人は長い間
ウソの中から真実を見つけなければならなかった
人は長い間
ウソを並べて真実を表わさなければならなかった
産みの苦しみは
楽園を追われたときから
長く
長く続いた
 
「罪は決して許されることはない」
「あなたの罪は許された」
二つの言葉は
言う人と言われる人によって
正しかったり間違っていたりする
反対だったり同じだったりする
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
批判対象は2年前の楽山の記事ですが、長い悪口の機関銃でした。決めつけも、被害妄想も、理路の破壊も、手段を選ばないのも、嘘も詭弁も、悪意も敵意も、精神の不快も不安定も、傲慢不遜も、剥き出しの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。これが楽山の本性なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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  議論と保身(11)3
 
 嫌われる勇気
 楽山ブログのコメント欄の続き。
 私のコメントは、大方、記事用です。一部編集。
 批判対象:楽山と、シャローム(shalom、シャロム、あなた、彼 )
  を改めて批判。
 
 
シャロームは、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい・・などと言ったことから、偽牧師であることがバレています。楽山は、無反省の決めつけで、嘘と詭弁で信仰を否定する自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 
stさんの意見は、的外れのことが多いけれども、
その原因は、この辺りにあるのでしょう。
気の毒なのは、
stさんは、構造、本質が分からないために、
自分が的外れなことを言っていることも分からず、
それがために、
なぜみんな自分の意見を理解してくれないんだという
不平不満、苛立ちを抱えているだろうということ。
 
楽山の筆致です。相手を可哀想な人に仕立てても、根拠のない決めつけです。私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。それが文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
 
 
これは本当に気の毒だけども、
本人が気づかない限りは、
外から何も言っても無駄であるし、
誰にもなんともできないのだから仕方がない。
 
楽山は、丁寧語で、ボロクソに言ってきます。仕方がないと言いながら、なお、おとしめてくるのも、私が楽山を批判する大きな動機になっています。楽山は、化けの皮がはがれて、もろに侮辱しています。何を言っても無駄なのは楽山であり、ゆえに、誰も近づかないようにと、批判しているのです。
 
 
stさんが、他人の意見に素直に従うタイプであれば、
別だろうけど、
 
楽山は、奴隷を集めているのでしょうか。楽山が「他人の意見に素直に従うタイプ」と言っているのは、騙されやすくて従順な、楽山の犠牲者のことでしょう。楽山は、理路を持たず、詭弁によって、相手の理路を混乱させて、いい気分になる悪魔性のナルシストです。
 
 
そうではないのだから、傍からはどうもできない。
結局は、stさんと話しても徒労に終わるという結論になる。残念。
2019/8/30(金) 午前 9:39[ 楽山 (自由) ]返信する
 
「どうもできない」「徒労」「残念」と書いていますが、私のほうは、徒労は承知の上で書いています。ある時点から、言っても無駄だろうとは思っています。批判として、有害で邪悪な言説に、貼りつけるやり方です。楽山を変えるのではなく、楽山に、誰も近づかないようにと願っているわけです。
 
 
>shalomさん
私の方でも、この辺りで終わりにします。
あとは、stさんに反論してもらい、
記事保存、ブログ整理するだけ。
最後まで、
優しいお心遣い、ありがとうございました。
2019/8/30(金) 午前 9:46[ 楽山 (自由) ]返信する
 
偽善者同士の仲間ぼめは、何とも言えない気色の悪さです。楽山とシャロームは、和みに誘ってきますが、決して和んではいけない相手です。こういうところから、楽山とシャロームは、同一人物ではないかと疑うようになります。PCが2台以上あれば、できることです。
 
 
stさんの反論があったら、
それでコメ欄を閉めて、コピペ保存するつもりでしたが、
相変わらず、おかしなことばかり書いてます。
もうそれらをいちいち指摘する気にはなれませんが、
分かりやすい箇所を少し書くと、この辺りです。
2019/8/30(金) 午後 1:26 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
「おかしなことばかり書いています」・・このように病質的無神教カルトの浮かれ具合は、侮辱することしか出来なくなることに表れてきます。このような人たちに、誰が導かれたいと思うのでしょう。それ以前に、誰かを正しく導こうという意志は、楽山にもシャロームにもありません。
 
また別の発言ですが「stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。」・・楽山から「愚か」も飛び出してきました。丁寧な楽山の、面影はありません。楽山の本性は、こういうことなんです。恐らく、真摯に誰かのためを思ったことなど、一度もないと思います。
 
 
私は自虐的なことは、わりとよく書いてます。
自分のことを、愚か者、迂闊者、ばか…いろいろ。
だから上の文章は、いつものことです。
でも、stさんは、どうも
私がstさんのことを「愚か」と言ったと誤読してるっぽいです。
stさんはこの手の勘違いから
ああだこうだ騒いでることが、ちょいちょい見受けられます。
2019/8/30(金) 午後 1:27 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
誤読ではなく、楽山は、相手と遣り取りする自分が愚か、ということは、相手にしてはいけない愚かな者を相手にしているからという侮辱になることを知らないようです。言葉の表面しか理解できず、人の気持ちが分からない者の特徴が出ています。だから言葉の表面だけを利用してきます。
 
楽山が、文脈とも筆致とも理路とも言わず、構造と言ったのは、ニュアンスが把握できないために、機械的に考えているからのようです。日本語のニュアンスが分からない人のようです。これは、自虐に見せかけた侮辱です。
 
「stさんとやり取りしてる自分が、ますます愚かに見えてきた。」と言ったのは、あんな奴と付き合ってる自分が嫌になったというのと同じで、stについては、どう思っているかと考えてみると、相手している楽山自身が愚かに見えるほどに、愚かだと言っているわけです。自虐ではなく、悪意です。
 
 
マリアさんは、モラハラ男は拒否するという当然のことをしただけ
>>(私)
楽山から「モラハラ男」とか飛び出しました。
2019/8/30(金) 午前 11:19st5402jp
<<
stさんのなかでは、私は「モラハラ男」は使わないことになってるのでしょうか。モラハラ男、DV男…普通に使いますけどね。
 
ふつうに相手に向ける言葉ではありません。人間離れした楽山の常識のなさが表れています。楽山の言は決して丁寧ではなく、中身は悪意の罵詈雑言がベースだということです。人のためを思うことがなく、隠すことが多いですが、いつも、人を下に見て、しばしば、あざ笑うのが、楽山です。
 
 
モラハラ野郎、DV野郎でも使えます。
マリアさんの記事を読んだら、そういう感想を持つのは当然でしょう。
ここは何というか、
楽山のまちがいを批判するというよりも、
楽山のことは全て否定したい、ケチつけたいという本音が、
あからさまになってしまってます。
カルトだから批判するのでなく、
憎くてたまらないから批判するという感じ。
これは恥ずかしいことです。
2019/8/30(金) 午後 1:32 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
楽山が丁寧ではなくなったことを言ったのですが、「モラハラ男」のどこが普通なのでしょう。蔑称です。楽山が平気で使うということです。楽山の丁寧な言葉遣いが嘘だったということです。やさしそうな三文芝居をしてきた楽山が、野獣の本性を出しているということです。
 
侮辱しかできないため、侮辱の度合いを酷いものになっています。これが、ケダモノの性根というのでしょう。嫌悪感は、半端なくありますが、憎しみではありません。憐れみでもありません。この者たちは公共での話をする資格がないという判断の実感です。
 
 
上の点について、
stさんは、修正釈明するかしないか自由に決めてください。
その後は、コメ欄は閉じて、stさんとの交流は終わりとします。
2019/8/30(金) 午後 1:33 [ 楽山 (自由) ] 返信する
 
相手が悪いと決めつけたうえで、修正釈明する自由と修正釈明しない自由いう選択を与えていますが、楽山が決めることではなく、余計なお世話なのです。言えることがなくなっている表れです。
 
俄然、命令調になってきた。ふざけないでください。荒らしの本領発揮の筆致が出ているということは、
今までの丁寧な書き方が、読者を騙すための三文芝居だったということです。野獣登場ということです。あなたは、そういう人。
 
 
>(シャローム)
st5402jpさん こんにちは
 
この白々しい挨拶を書きながら、一方で、軽蔑を書いてくるのは底意地の悪い証拠で、前にも書いたと思いますが、シャロームは、またしても、むしろあざ笑うかのように挨拶を入れてきます。これが、シャロームの、不感不応のモンスターたるゆえんです。
 
 
>(シャローム)
「(私)
私が書く動機は、何度も言ってきたことです。不平不満や苛立ちではありません。
それが、文章から分からないのは、楽山の読解力不足です。
それに、最初から、あなた方の話で満足できる人は、いてもお仲間だけだと思っています。
2019/8/30(金) 午前 11:37st5402jp返信する」
 」
長いお付き合いですが、stさんの批判に同調し、支持し、交わりを続けている方はおられますか。
stさんの執拗なたくさんのコメントを読まれ、stさんにやめるようにたくさんコメントされた方を思い出しますが、stさんも覚えていて、それらの人はみんな荒らしであって、私のなりすましであるとか、仲間であるとか繰り返し書いておられますね。みなさん読解力がなかったのでしょうか。
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
私は、シャロームと楽山をいっしょに批判しよう、ではなく、何よりも二人に関わらないようにと、いつも、お願いしています。だから、シャロームに関わる人が少なくなればよいのです。いなくなれば、もっとよいのです。
 
私に、批判をやめるように言ってきた人は、事情をよく知らないか、シャロームの丁寧語に騙されている人です。シャロームは、悪性度が、普通とは違うということが、このシャロームの嫌らしい嘲りのコメントに表れて、しかし、シャロームにだけは、分からないのです。
 
シャロームは、お前には仲間がいないだろうと、私をおとしめています。神に従っている人は、このような、自分のほうが偉いみたいな言い方はしません。シャロームが、神もキリストも聖霊も信じておらず、恐れてもいない証拠です。
 
カルトには仲間がいるものだから、このように、仲間がいないだろうと、侮辱してくるのは、今に始まったことではないのです。シャロームの本質は、他者を下に、自分を上に置くことだという表れなのです。仲間が多いかどうかで、測れると思っている偽善者の吐く息の臭さを覚えてください。
 
 
>(シャローム)
stさんに同調し、支持し、私に対して注意された方のHNを教えてくださいませんか。私は一度もSTさんのきびしい度重なる警告にもかかわらず、一人もおられませんよ。
 
こういうとき、誰々とHNを書いてしまうと、その人が攻撃されて、大いに迷惑するわけです。実際は、私は、今のところ、一人であり、独りであり、その方が、自分の言葉を鍛えながら書くことが出来るので、誰かの助けは必要としていません。
 
さらに、私を含めて、キリスト者には、祈りがあります。祈りは一人でするものであり、そういう時間が大切で、そこで、一息ついて、かつ、内省することも、静けさのうちに、慰めを得ることもあります。
 
キリスト信仰の神は、キリストに表されたように、愛の神ですが、一方で、戒める神でもありますから、いつも神が自分の味方ということではないのです。しかし、神の前でのみ、人を気にせず、正直に告白できることがあります。
 
そこが、いつも訂正不能の妄想を味方とする楽山やシャロームとは、根本的に違うところです。シャロームは、私が孤独であることをもって、仲間のいる自分を誇っているのです。このように、数に物を言わせることが、何よりも、シャロームが下種であることの証明なのです。
 
こういう、卑怯で、低劣で、嫌らしい皮肉を言ってくるのが、化けの皮の剥げつつあるシャロームの特徴なのでしょう。もっとひどくなるでしょう。
 
真実は、孤独のうちに、目覚めとして、開かれるものです。
 
シャロームのように、誰かを騙して誰かに褒められる数によって開かれるものではないのです。ましてや、シャロームの最悪な皮肉や当てつけで、真実が明らかになることは永遠にないのです。
 
 
>(シャローム)
確かに自由さんは初め、私のコメントが皮肉のようで、そんなコメントがSTさんの批判を招くのではないのではないかと注意されたことは覚えています。
 
批判を自分の務めと意識している批判者にとっては、偽牧師で偽善者のコメントなど、全く当てにはしていないのです。ネットでは知りようもないが、シャロームと楽山が同一人物である可能性も考えています。
 
 
>(シャローム)
はじめ好意的にstさんにかかわっておられた方は私がSTさんの思いや気持ちをよく理解されると思ってSTさんに紹介したverさんと今から一年ほど前から関わりが始まった自由さんでしょうか。
しかし残念ながらおふたりとも結果はご存知の通りです。
いくつものブログを開設して、つづけるのも大変でしょう。
stさんも5402生まれなのですから、若いとは言えませんが、徒労に終わるのではないでしょうか。
それともまた新しい人を探し出して続けられますか。
続けるのも自由、やめるのもSTさんの自由な意思にかかっているのであって、誰の責任でもありませんよ。
Shalom!
2019/8/30(金) 午後 1:58 [ shalom ] 返信する
 
ずっと前に関わった人のHN"ver"を持ち出してきました。手段を選ばないシャロームです。"ver"がシャロームを批判できなかったため、シャロームは、ネット寿命を延ばしていますが、それを正しいことのように言っているシャロームのは、妄想宣伝家の、パリサイ人以上の偽善者ならではなのでしょう。
 
この「Shalom!」という挨拶も、嫌がらせとして、いつも付けてくるのです。シャロームは、悪意の人、時々の最後には脅迫しか手段がありません。シャロームについて侮辱して悦ぶサディストだと書いたのは間違いではなかったようです。
 
そして、恩着せがましく、丁寧語で、お前しだいみたいなことを書いてきます。この丁寧語に騙される人が、いなくなることを願って止みません。私は、もとより、孤独を覚悟の上で、批判しています。新しい人を探し出して世辞を言って、認められたがっているのは、シャロームに他なりません。
 
私の「自由な意志」は当たり前のことです。言論の自由を勝手と勘違いして、言論の責任を負わないシャロームは、長きにわたって、嘘八百の妄想を宣伝してきました。総ては、シャロームの無責任で起こっている闇の不祥事を、私は、私の責任の範囲で批判しています。
 
verさんは、神学者のようで知識があったと思うけれど、なぜか、シャロームに反発することが出来ないようでした。こういうことから、キリスト教を悪用する、楽山やシャロームを含む怖い群れか、同一人物の成りすましか、という推測になってゆきます。
 
シャロームは、社交の世辞で物を言うので、シャローム批判を始めた頃、別の人から、私が、失礼なことを言ってる・・という叱責のコメントをもらいました。また、楽山には、やさしいお人柄・・という褒めるコメントが寄せられていました。だます者たちが脅威となり得るところです。
 
詐欺師は、うわべだけ、やさしいのです。そういう言葉に、人が弱いことも承知の上なのです。今の時代、だまされないための教育・・なされているでしょうか。そのためには、必ず、人の言うことを、鵜呑みにするのではなく、真意、深み、文脈を読み取ることが必要になります。
 
シャロームshalomは、平和という意味のヘブライ語の挨拶の言葉だそうです。楽山は、中国の観光地の名前から取ったのでしょうか。いずれにしても、あくどい2人、というより、同一の一人かもしれません。楽山は、他にも、多数のHNを使っています。
 
 
楽山の名は、隆かもしれません。それで、ツイッターの raku も taka も、楽山である可能性が高いです。筆致や内容も、ほぼ似たような方向性で、内容が薄く、ゴシップや興味本位のものばかりです。つまり、何かを真剣に考えて思想をまとめるということをしない人です。ひやかしだけなのです。
 
このシャロームと楽山の思想には軸がなく、ゆえに視野が広がらず、その場その場で、体裁のよさだけを書き、真っ当な理路もなく、一定の結論もなく、いいかげんな先細りに終始します。求めているのは、分かっているらしいと受け取らせて好意的なコメントで満悦するということです。
 
ゆえに、言ったことに一切責任を負いませんし反省もしません。その時その場限りで、言いたいことを言い、後は、大方、忘れているのでしょう。じっくり考察して真実を追求する人ではありません。自分の満足だけを求める自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思っています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPDは、自己中のせいで、自分を見ることが出来ません。自我が既に病質で訂正不能だからです。ちゃんとしていると見せかけるために、反省、共感、とほほ、痛い、などという言葉だけを書きますが、反省も共感も後悔も出来ない人です。
 
信仰は、神の辻褄を分かることではありません。キリスト教の信仰は、聖書に表されたイエス・キリストに共感し惹かれることです。悲劇が起こっているのは神のいない証拠のように言うのは呆れた的外れです。逆であって、悲劇が起こっているから支えを求めるという動機から信仰は始まります。
 
キリスト教批判には多くの共有できる実がありますが、楽山の言には実がありません。信仰を受け取る心の問題を、楽山は、全く理解できません。出まかせの幼稚な辻褄で欺いて、他者の信仰の始まりを妨害しているのが、楽山であります。楽山とは意見交換が成り立ちません。
 
キリスト信仰者は、神の辻褄によって信じるのではありません。ゆえに、神がどうのと、辻褄ばかり語っている楽山は、だいたい無神論者でさえなく、楽山には、いかなる論も成り立っていません。小学生が、屁理屈を繰り返して駄々をこねているようなものです。
 
信仰は、理屈では表せません。信仰は、人間らしい温もりと潤いを持った心で受け取るものです。もちろん、受け取らないのは、個人の自由です。しかし、受け取っていないのに、文句だけ言って、信仰と神を、机上の空論として扱う弊害をもたらしているのが、心無い楽山その人であります。
 
真実の信仰者からは、体験と心情が表れてくるでしょう。偽信仰者もたくさんいて、シャロームがその典型です。楽山と同一人物かもしれませんが、宗教と信仰を、手のひらで、机上で、いじれると思っているこの二人には、どうか近づかないでください。信仰について恐ろしく愚鈍なのに執拗です。
 
楽山とシャロームのような破壊人格にならないために必要なことは、自らの不完全を認め、それを言えるようになることです。完全な人間はいません。完全の自覚で訂正不能な病質者がいるだけです。そして、そのような病質を、まともな人間だと見せかけることが、病質者の悪だくみなのです。
 
信仰者の立場から言えば、神に対しては、正直な祈りだけが救いの条件です。人間には、それしか出来ないからです。正しい善人になって完全になって救われることは、地上の人間には、不可能です。自分を完全だと思い込めば、楽山やシャロームのような、悪人より最悪な偽善者になってしまいます。
 
 
悪意の澱(おり)

悪意の澱(おり)
 
 
(2019年)
(2021年)
(2022年10月07日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
欲で着ぶくれした楽山とシャロームは、今後も、嘘と詭弁で、だましてくるでしょう。その都度、批判できればいいけれど、HNを変えれば、また、振り出しというのがネットです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の自己中は訂正不能であることなどが手掛かりになります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  楽山の空想~症状2
 
 『小説 地球万華鏡』大川隆法著
 2021年09月21日
 幸福の科学とは何だろう? by 楽山
   を改めて批判。
 
 
楽山は、結局、脱会とアンチは表札のようなもので、実は、ORのようになりたい、教祖になりたい、多くの自分の信者に崇拝されたいのでしょう。実質のないリーダー願望は、超常趣味を通して、結局、無神教カルト妄想へ向かいます。空想の故郷から、離れられないのでしょう。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、何でも、誰でも、上から見下ろして、自らの先入観の決めつけを客観のつもりで刷り込んできます。それを真に受けると、後に続く詭弁と嘘に、まんまと騙されてゆくのです。決して関わってはいけない男です。
 
 
*はじめだけ
 『小説 地球万華鏡』がツイッター上で話題になっていたので、はじめの三編ほど読んでみた。以下に感想を書いてみたい。
*あらすじ
まずは、はじめの三編のあらすじをメモしてみる。
第一話では、天災地変のことを天照大神、天御祖神の神罰と考えている人が、カエルやヘビになった人たちと会って問答してる。
第二話では、閻魔大王が現代人の宗教心のなさに苛ついている。特に不可知論にダメ出ししている。最後は一話目と関連をもたせている。
 
「カエルやヘビになった人たち」「閻魔大王」・・楽山の大好きな超常ホラー話のようです。お伽噺とも言えるでしょう。大人になれなかった楽山の、憩いのひとときなのでしょうか。それで、カルト批判を書くとは、どれだけの勘違いと嘘と虚妄に生きているのでしょう。
 
 
第三話の主人公は、著者自身がモデルらしい。心臓の病で重体となり、一人目の妻がどうした、再婚してどうしたとか書いている。後半は広瀬すずがモデルらしい霊がでてくる。最後は、すず霊とは前世で男女の仲だったのではないかと期待したのだが、そうではなく父娘の関係だったと分かって残念がるのがオチになっている。
 
結婚、女優、前世の話、男女の仲、・・楽山の夢想と願望が無意識に抽出されているような気もします。楽山の父子の関係はどうだったのでしょう。恋愛と結婚はどうだったのでしょう。こういうことを本にするORへの憧れでしょうか。羨ましいのでしょうか。どこがアンチHSなのでしょう。
 
 
*場面
上の三編を読んで脱力してしまったので、あとはぺらぺらと飛ばし読みするだけにしたのだが、その時に目に入った場面をメモしておく。
白人女性とホテルに入ったのだが、シャワーを浴びている間にお金を盗られた話。
ゲイは当時はホモと呼んでいたという話と、パンツを下ろされた話。
…ふう、自分はここらでぺらぺら飛ばし読みでも力尽きてしまった(笑)。
 
ぺらぺらと飛ばし読みしたところを、わざわざ書いてくるのは、「お金を盗られた」「パンツを下ろされた」ことでもあるのでしょうか。しかし、余計なことばかりですから、全体の感想文を、くだらないものにしてゆくでしょう。そういうことに気づかないようです。
 
 
*感想あれこれ
以上のことについて、自分はこんな感想を持った次第である。
大川隆法とその周辺の人々がモデルとなっているらしい作品は、HSウォッチャーにとっては面白かろう。
 
HSウォッチャー、まさに、楽山自身ではないかと思われます。自分を見ることだけは出来ない楽山は、他者を批判すれば、批判する資格がないことを指摘される立場です。ゆえに、古巣?に、回帰するような気分が動機なのかもしれません。居心地が、よかったこともあったのでしょうか。
 
以上の文章では、HS批判者の立場を守っている自分を見せるために、表面的な事柄について、ゴシップのように、いちゃもんのクレームをつけています。本質的な宗教と信仰の問題から、空想の方向に目を逸らしていることに注目するべきでしょう。
 
 
三作品については、小説としての味わいは皆無。名句のような趣、名歌のような情感もなし。
文体、雰囲気は、鼻につくところがある。
 
予測できそうなものです。予測したら見ないでしょうが、楽山は、もはや、ORの書いたものだから、何を言ってもいいだろうと思っているような気楽さで書いているのでしょう。「味わいは皆無」「情感もなし」という評論家気取りが、ブーメランで楽山を表していることに気づかない哀れさです。
 
つまり、以上の楽山の文章には、味わいがあるでしょうか、「名句のような趣き」があるでしょうか、「名歌のような情感」があるしょうか。皆無です。あったのは、ボンヤリ言語の曖昧さと、トホホ言語のわざとらしさだけだったのです。厚顔無恥の自己中だから書けることです。
 
 
「僕のユーモアは最高に機知がきいてるだろう」「僕の書くものはすごく面白いだろう」という得意気分が丸見えになっていて軽佻浮薄。どっしり腰を落ち着けて、よく考え、推敲を重ねようとする真摯さは感じられない。
 
楽山は、高慢が表れているORの筆致に、軽佻浮薄と書いています。私は、この四字熟語を、楽山に当てはめたことがあります。言いたいのは、上のような高慢は、誰よりも、楽山に当てはまるということです。しかも、楽山の場合、それをごまかす丁寧ボンヤリ言語付きなのです。
 
まさに、これは、深く考えてもおらず、推敲もしていない楽山の筆致のことです。そのまま、楽山の無反省・無責任に対応します。しかも、楽山は、その自己愛性人格障害から、おとしめ、だます意図をもって、書いてきたということです。自らの優越意識から悪意を表してしまう楽山です。
 
 
昼間、一般女性に対してさえ、「やあ、ねえちゃん」と呼びかけ、ニヤニヤ、ベタベタする昭和のセクハラオヤジの雰囲気があちこちに見え隠れしている。そういう人のギャグセンスと同質のものがある。
 
「やあ、ねえちゃん」・・この例示だけだと、ギャグセンスの問題ではなく、下品なだけのような気がします。例をあげないで、「ニヤニヤ、ベタベタ」「セクハラオヤジ」・・などと汚い悪口を並べれば、楽山の、文章のセンスが問われてくるのです。
 
 
神秘というけれど、自分が見た範囲ではどれもHS教義にそった物語になっている。マジックリアリズムの作家のような驚くべき発想、神秘、迫力はない。著者はラテンアメリカの作家の作品はまったく読んでなさそう。
 
(ネットより)
マジックリアリズム(英: magic realism)、魔術的リアリズム(まじゅつてきリアリズム)とは日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。幻想的リアリズム、魔法的現実主義と呼ばれることもある。
1940年代ヨーロッパから帰国したアレッホ・カルペンティエールやミゲル・アンヘル・アストゥリアスなどがラテンアメリカの文学表現として使い始めたことにより主にラテンアメリカ作家が好んで使う技法となった。
 
HS教組がHS教義に沿った話を書くのに、楽山の趣味に合わせることはないでしょう。また、ラテンアメリカの作品を読むべき必然がどこにあるのでしょう。楽山は自慢したいのでしょうか。むしろ、子供みたいに、自分中心に世界が回っている精神が表れているだけのようです。
 
 
不可知論、懐疑論に特にダメ出ししてるところは面白い。大川隆法は何でも分かる、知っていると言いたがるタイプだから、人の知には限界がある、分からないものがある、何も知ることはできないという考え方が好きでないのは了解できる。
 
「了解できる」の了解というのは、理解して了承するニュアンスを含む言葉ですが、楽山は、不可知が好きでない、即ち、知っている、というORの考え方に賛成なのでしょうか。教祖願望から、アンチではなく、擁護するようなことを言っています。
 
ここの引用も、今まで、訂正不能に、神聖の辻褄合わせが成り立たないから神はいないと、何でも分かっている妄想的自己愛から、いちゃもんをつけてきた楽山に、そっくり当てはまるのです。他者のことを言うが自分だけは見ない楽山の病質が表れています。
 
やはり、楽山は、オレなら、もっと知的で、優秀な教祖になれると教祖願望を夢想しているようです。しかし、楽山には、今まで、ずっと、他者に丁寧語でごまかして取り入ろうとしても、病的ナルシストの悪臭があるだけで、カリスマ的な非凡さも魅力も、皆無であります。
 
 
無神論者には「神も仏もあるものか」という単純な考えの人は多いし、そういう人はHSに関心を持たず、いちいち批判したりもしなかろうが、懐疑論者はHS教義を吟味し、細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようとする傾向はあるだろうから、大川隆法が前者以上に後者を毛嫌いするのもある意味当然かもね。
 
「細かい所までつつき回して矛盾点を暴き立てようと」して、キリスト教と信仰を否定してきた楽山の言は、極めて幼稚な超常話の延長にある子供じみた駄々に過ぎませんでした。心の問題について、楽山は、ひと言も語れなかったのです。代わりに、わざとらしい感動芝居が臭かっただけです。
 
 
どうも大川隆法の本音は、法話よりも、詩や小説の方によく出ているようだ。一般の作家は作品とは一定の距離を保つから、作中人物と作者とが完全に重なるとは限らないのだが、大川隆法の場合は自分の考えをそのまま作品に出さないでいられないタイプらしい。
 
楽山は、体質的に、何か書けば、そこに自己愛性人格障害が表れてきました。つまり、楽山は、無反省と無責任に加えて、羞恥心と罪悪感と反省力の欠損が見られ、情緒を受け取れないために大仰な感動言葉や、「反省、とほほ」といったお情けちょうだい言葉を多用するしかないのです。
 
 
作品の完成度より、自己顕示欲を優先してしまっているのだろう。これはHS映画でも同じかな。HS映画の完成度を落としてでも、自分が表に出たがるとか。
 
まるで、楽山は自分のことを楽山が言っているようです。このようなピエロ的な成り行きに、病的ナルシストは、押し出され壊されてゆく必然なのでしょうか。ちなみに、楽山の書いてきた文章は、完成度を云々する以前の段階であり、症状であります。
 
 
とりあえず、今回の感想はここまで。
気力が回復したら、本書の続きを読んでみるつもりだけど、他の作品も、冒頭の三作品のようなものばかりかな。それとも「賢者の贈り物」のようないい話はあるかな。期待はできなそうだけど、きっとあるはずだと思うことにしておきたい。
 
楽山の感想文で、いい話は伝わってきません。何故なら、楽山が、反省せず、自己愛と自己中で、自分を高める方向にしか進めないからです。楽山の無反省は、今まで、見せかけだけの反省や痛いところなどと書いても、その前後で何も変わらなかったことが証拠です。
 
楽山の感想文は、いつも自己正当化と自己賛美のために書かれる、ということが、今回も、くずれた知情意によってあらわになっています。人格崩壊の秒読みが始まっているのでしょうか。文章の質などお構いなしに、書かずにはおれない楽山です。
 
 
脳天気 愚かさを知らない愚か

脳天気 愚かさを知らない愚か
 
 
(2021年09月23日)
(2022年10月03日、再録+加筆)
 
 
 
  白い目のピエロ
 
薬をのむ
白い目のピエロが現れる
鉛のような倦怠が襲ってくる
長いトンネルの無為にふらつく
暗闇で見る幻に
縫合の糸をかける踊り
血を抜いた
平気な顔をして笑う好褥の皮膚
その傷から生えてくる
歯を抜いた
血の味 細菌の熱をのどで飲み込む
昔のんだ鼻血の味が残っている
拳銃と注射器の危うさに
火の粉とガラスをまき散らす
白い目のピエロ
何度も身を引いて
しばらくすると戻ってくる
静まりかえった舞台で踊る
曲もなく詞もなく拍手もなく
そのたびに眼が白くなっていったという
不眠に遊び
白髪を覆い隠して
笑うために ピエロ
また薬をのむ
脳に回った毒が笑う
泣く
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑み
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに濡れ続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  遭遇
 
前にも言ったような?
がデジャブではなく
物忘れの繰り言になるとき
言うのをやめる
ことを覚えるだろうか
記憶を
とりわけ記銘(きめい)を失うことは
日常をそっくり
超常の異土に変えてしまうが
経過の道のりが
日常であるか超常であるかは
経過させるものに任されており
足元から世界までをジャメブの
底知れぬ不安と不穏に落とし入れる喪失も
遭遇から終焉に至るまで
出くわす有象無象と有情非情によっては
穢土(えど)から冥土(めいど)への旅も
安堵から浄土までの邂逅(かいこう)である
これも前に言ったような?
 
 
  超常現象
 
リンゴが落ちる
引力の法則に従って
しかし引力の法則が
明日も成り立つことを
今日のうちに証明できる人はいない
物理現象には法則があり
それはあらゆる時空において成立する
という証明できない前提の上に
物理学が成り立つように
リンゴが明日は逆さまに落ちる
と思う人がいないように
明日は必ずやってくる
法則の成立しない時空が部分的に
あるともないとも証明できないように
明日の中に自らが含まれることは
常に超常だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山の興味は、日常にはなく、超常にあります。だから、宗教と信仰についても勘違いして、超常のこととしてしか考えられないようです。そのような考え方だから、奇跡や史実にこだわりますが、宗教と信仰の、いちばん大事なことについては、かすりもしないのが楽山です。
 
楽山は、最近、続けて、HS批判に見せかけた遣り取りを、だらだらと引用して長文の記事を、次から次へと書いています。自己顕示欲の集大成のつもりでしょうか。楽山の臭い見せびらかしを、誰が熱心に見るのでしょう。まとめることに失敗したデータが、床に散らばってゆくようです。
 
 
 
★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
naru@自己愛人間被害からの脱却
@kokorodrugstore
自己愛人間は他者を過小評価&自分を過大評価することがデフォなので嫉妬深くなってしまうのですね。
>>>
仁科友里
@_nishinayuri
嫉妬って自分より下の人にいいことがあったときに起きるということがわかってるんだけど、これって結局嫉妬はする側の問題ってことだから(勝手に人を下にみて、勝手にショックうけてる)、嫉妬されたときに私が悪かったって思う必要ないんだよ。
<<<
<<
午前0:41 · 2022年10月2日
 
「他者を過小評価&自分を過大評価」・・むしろ、楽山という自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命です。下に見る視線しか持っていません。楽山に「悪かったって思う必要ない」と思います。自分のために引用して、自分が斬られていることに、まるで気づかない楽山です。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@9rBlzF7VUe4k5IA
さん
そうです。神は絶対とすると、運命論、決定論になります。
だから人の自由意志を最優先とすれば、絶対神を否定する無神論者にならざるを得ません。
そこまで人間中心になれず、絶対神を否定しきれないなら、神の絶対と人間の自由意志とを両立させようと、あれこれ悩むことになります。→
午前6:14 · 2022年9月26日
·Twitter Web App
 
神の絶対が、運命論や決定論になるとは、思考も視野も幼児並みに狭い楽山の見解~妄想に過ぎません。神の絶対とは、神の意志と行為を、人が、これがそうだとは確定できないということです。それを、運命だの決定だとと言う楽山は、決めつけに生きているからで、知恵が決定的に足りません。
 
自由意志を、何でも決定できることと思っている楽山の自己中に付き合ってはいけません。楽山は、信仰を何も分からない人です。神の絶対の下で、神が不可知ゆえに、人の自由意志は存在します。楽山は、もはや、結論だけを言い張ることしかできないようです。
 
神の絶対と人間の自由意志の両立を、楽山に聞かないでください。楽山は、コールタールのように鈍重で融通の効かない頭しか持たないので、発想と洞察のないセメントのような頭から、おかしなデマばかりを先入観として刷り込んでくる悪魔性の不能者です。相手にしてはいけません。
 
 
>★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん, 
@9rBlzF7VUe4k5IA
さん
ちなみに、この二つを両立させる考え方としては、「神は絶対で、全てを予定されているが、人には自分は救われるか、救われないか、どちらが予定されているかは知りようがないので、人にとっては未来は決定されておらず、したがって自由である」というものを読んだことがあります。
午前6:21 · 2022年9月26日
·Twitter Web App
 
楽山のように、辻褄合わせで納得してゆくような、信仰理解の道はありません。大事なことは直観的に直感的に共感をもって与えられるでしょう。組み立てられない理屈の積み木を重ねて、いつも、自分で壊してゆくのが、楽山です。楽山からは、いかなる真善美も生まれてきません。悪意だけのようです。
 
神について言われているのは、全知全能、絶対完全、永遠不変、ということです。これらの一つも、人には成り立たないので、人は不完全です。それを理解もせずに、我執の屁理屈を振り回す楽山は、語るたびに、ますます愚かになり、それを人前にさらすことになるでしょう。恥ずかしい人です。
 
 
 
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  批判と悪口2
 
 
私は、カルト的な思想を、訂正不能に自己中に一方的に、批判を無視して、妄想的に書いてくる者たちを、以前はコメントで、その後は記事で、批判してきました。
 
彼らは、こちらの言うことを無視して、一方的に、自慢したり、おとしめたりしてくるだけです。はっきり言って、攻撃だけを目的とする記事やコメントには、罵り言葉だけで、汲み取るべき内容も根拠も全くないという特徴があります。
 
私などは、だいたい、結論だけのコメントには、記事で、結論だけだと指摘しますし、それに対して、正当な反論が来たためしがないのが、彼らの、カルト的、自己満足的、妄想的な、一方的主張であります。しかし、大方、訂正不能です。彼らは、真似だけで、本当の議論が出来ないのです。
 
誹謗中傷してくるだけの悪意と自己中の者の根っこには、自己愛性人格障害、などの、人格の病気の可能性があります。生まれて大人になるまでの、遺伝と成長の過程で、出来上がった人格が原因であるならば、医療によって治る可能性も、なかなか、期待できないのでしょう。
 
なお、私の批判記事一つだけを見れば、言い過ぎと思われるところがあるかもしれません。批判対象について、最初から批判だったわけではありません。
 
批判対象シャロームとの付き合いは、だまされて聖書の先生だと思っていた数年と、批判してきた約10年の経過があります。罪は悔い改めなくとも許されるから気にしなくていい、という、とんでもないことを言い出したことで、偽牧師だと判明しました。
 
批判対象の楽山については、数か月のつ遣り取りの後、批判対象となり、約3年以上の批判の経過があります。その流れで批判を書いているので、一つの記事だけで云々されるのは、的外れであります。
 
楽山は、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、という発言から、全く議論を理解していない幼稚な病的ナルシストぶりが明らかになっています。
 
いずれも、あるときから、とんでもない理不尽なことを書いていることに気づいて、批判が始まっています。元々知らない人であり、理解も、そして結局、批判も、気づきから始まります。最初から批判で始まるということはないのです。
 
彼ら自己中の者たち、楽山やシャロームは、自分は被害者です、酷い攻撃にさらされました、とか言って、記事を書いてきます。彼らは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)そして精神病質サイコパスであるために、罪悪感がないのです。
 
さらに、あくどいのは、一度に、たくさんの記事を書いて、相手が批判して疲れるのを期待する場合もなります。このような企みから、病質者の、根深い病的な性根を見ることもあります。他者のことなど、何とも思っていないのです。その分、彼らの文章も、何の役にも立ちません。
 
 
私のスタンスとして、今では、基本的に、記事は、批判対象が病質者の場合には、反省や罪悪感に期待するのは不可能と思われるので、よりも、むしろ一般読者に向けて、彼らカルト的な宣伝サイトについて、警戒を呼びかけて、近づかないようにしてほしいという目的になっています。
 
彼らの文章は、うわべの言葉や見かけで、受け入れを誘ってくる丁寧語であり、そこに、嘘と詭弁を刷り込んで誘導してきます。関わるだけでも、無駄に疲労し、結局は、人格を破壊される恐れがあるので、こちらは、決して近づかないでください、というアピールをするのが目的になっています。
 
ただ、そういう主旨はもちろん、私の記事の理路についても、自己中で理解力のない批判対象によって無視されるでしょう。いつも、被害者面して、ときに、多量の嫌がらせの記事を書いてきます。しかし、批判と悪口を混同している彼らには、根拠が何もないのです。
 
批判も、罵詈雑言を使うことがあります。その理由は、相手が、全く批判を理解できず、受け取ってもいないからです。私の批判記事は、大方、読者が読むことを意識して書いていますが、加えて、厳しい言い方を批判対象に向けて書いています。辛辣な比喩表現などです。
 
もし批判対象が見ることがあれば、批判対象はお前だ、ということを明確にするために、罵詈雑言≒全否定を書いておく必要があります。このように、罵詈雑言は、根拠を十分に示したのち、コントロールしながら、使うことがあります。
 
相手が、一般的な議論など、全く成り立たない者である場合です。上の二人は、理路を、理解できず、組み立てられず、詭弁と嘘で引っ掛けて、印象を吹き込んできます。さらに、感性的享受ができないので共感が成り立ちません。月並みで平板な文章を書いてきます。正常人とは、全然、違うと思います。
 
 
繰り返しになりますが、私がこの記事を書く理由は、そのように、批判を受け取らず、無視して、好き勝手に書いてくるような者たちが、反論も弁明も出来ないのに、いろいろな事件をネタに、被害者面して、読者に安易に同情を誘うために、何か書いてくる可能性が危惧されるからです。
 
もっともらしい批評家気取りの筆致には、十分、注意してください。結論として、私が思うのは、悪口だけの言と、批判とは全く別だということです。私が批判してきた対象は、記事やコメントで、結論だけを繰り返して書いてくるような、不感不応のカルト的思想の異常人格なのです。
 
彼らの記事自体が、既に、回りくどい雑言と言ってよいような、無益で無意味で、こちらを疲労させるだけの、とても迷惑で、反社会につながるものだから、引き続き、批判対象になっています。
 
 
一般に、罵詈雑言だけの発言というのは、否定の結論だけを繰り返し言い張るだけのような、価値の無いものですから、そんなことのために、めげたり、最悪の場合、死を思ったりなんて、しないでほしいということです。
 
批判というのは、相手を否定する言葉だけでなく、相手の不正について根拠を示してゆくことです。場合によっては、和解が可能です。
悪口というのは、根拠もなく、相手をおとしめる言葉だけを書くことです。和解は不可能であることが殆どでしょう。
 
実質のある批判の中身があれば受け取り、必要があれば反論や弁明も出来るでしょうが、
実質のない悪口だけのコメントに対しては、気にしないでいられる気持ちの強さが必要です。
前者の批判に対して、後者の悪口だけを言ってくる者、サイコパスを疑います。
 
 
批判と悪口

批判と悪口
 
 
(2020年)
(2022年05月29日、再録+加筆)
 
 
 
  貝殻
 
小さすぎて
目立たない貝殻は
無視されがち
お隣りや
御近所の
大きな貝殻を
恋人たちが拾ってゆくのに
小さな貝殻は拾われることもない
同じように海のにおいや
海の響きと歴史と
虹色をもっているのに
 
ある夜
星の輝きの下で
月の光を浴びながら
小さな貝殻は
浜に残ることもまんざら悪いことではないと
すでに主はいない
動いて誰を驚かすわけでもない
小さな位置に
小さく月の光を映していた
 
夜明けて
人が集まるころ
小さな貝殻
波に押され
砂に埋もれ見えなくなった
人知れず命を宿したかのように
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  きらいだ
 
何故そんなことを聞いた
「いやとんでもない僕なんか」
とでも言えば満足だったのか
少なくとも嫌な思いをせずにすんだんだ
そう、済んだことだった
些細なことだった
ずっと後になって
全く別のことで
もっと冷たい目と口が向けられるまでは
 
学生の頃、ずいぶん昔の話
悪意と作為には耐えられなかった
 
最初から用意されたような
答えを期待されて
質問されるのは
きらいだった
 
 
 
 サイコパスについて
 
人間は、やってはいけないこと、言ってはいけないこと、などについて、分別を持っているものです。人間に、そうさせているのは、良心です。良心によって、他者と共感することで、悪の道を避けるようになるのです。しかし、中には、良心を持たない者がいます。
 
生まれ育ったときに既にそうなっているのがサイコパスです。他にも、洗脳や、刷り込みや、偏った教育によって、マインドコントロールされて、後転的に良心を失うことがあります。後者は、良心を回復することが可能であるかもしれませんが、難治であることに変わりありません。
 
前から、何度も言っていることですが、人類の敵は、国家でも民族でも集団でもありません。人類の敵は、サイコパスです。
 
サイコパスは、人口の1~2%いると言われています。それが正しければ、日本には、100万~200万人のサイコパスがいることになります。1クラスに一人となると、少なくはないです。
 
サイコパスには、良心がなく、情緒面では、しんみりとした悲しみの情がありません。サイコパスには、笑いと怒りしかありません。そこからの嘲笑と憎しみ~怨念があります。議論中に、しばしば、笑う人や、あざ笑う人や、怒鳴って返してくる人には、注意が必要です。
 
サイコパスは、理屈を言うことがありますが、整った論理性を持ちません。自分を客観的に見ることが出来ないからです。偏向した屁理屈を言い張ることがあります。感受性については、理性的にも情緒的にも劣っています。自己の発想が、優位性の絶対となっているからです。
 
サイコパスは、反社会性人格障害と呼ばれますが、反社会性は、犯罪傾向が明らかになってから分かることです。サイコパスは、元々は、精神病質の訳で、人格的そして体質的な病態です。自己中心が特徴なので、広く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害、NPD)と呼ぶべきだろうと思います。
 
サイコパス、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、人を相手にする職業についてはいけない人です。表面的には丁寧でも、付き合ってゆくうちに、疲労と破壊をもたらすでしょう。その段階で気づいても、なかなか手遅れなのです。体質ですから完全治癒は困難だと思います。
 
サイコパスは、思いやりがあるような言い方や態度を見せることがあります。それで要職についている場合もあるようです。しかし、それらは、見せかけの言葉や態度であって、付き合い続ければ、結局は、破壊的、自滅的な、経過と結果をもたらすでしょう。関わらないことが大事です。
 
前にも書きましたが、サイコパスは、単に、自慢好きや、怒りっぽい人、押しの強い人とは、違います。そういう見かけサイコパスの人は、のっぴきならない事態では、途端に、慌てるように、真面目になって、自省し、考えることが出来るからです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の書いてくる文章は、なんとなく正しいような気のしやすい文章ですが、よく読むと、根拠がないことや、嘘や、曖昧な言葉を個別のことに当てはめるとか、特殊な言葉を全体に当てはめるとかの、詭弁が含まれています。個人の安全のためには、相手にしないことだけが対策となります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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