ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪意

 
  楽山の限りない悪意2
 
 『あさっての風』三浦綾子著
 2022年01月15日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、書く衝動を抑えられないようです。楽山の書いたものは、誰かを救うことも誰かの糧になることもないのですが、楽山は、書ける人、物を言える人を、気取ってきます。これほど無反省で無分別の醜態は、病質でしか説明できません。
 
 
*概要
これは三浦綾子のエッセイ集である。キリスト教の信仰について書かれている箇所もあるが、副題に「あなたと共に考える人生論」とあるように、おおむね人生について語られており、善く生きようとする人であれば、宗教の別に関わりなく、誰もが興味を持って読めるものになっている。
 
誰とも、独りでも、考えることをしない楽山です。楽山は、学習できず、偏見と先入観しかありません。その結論から、嘘と詭弁を書いて騙してきます。誰もが読める本も、楽山だけは、曲解して、自分の都合に合わせてゆくのです。楽山には、興味をもって読めるなどと人に勧める資格はありません。
 
 
自分の場合も本書を読んで、さまざまなことを考えさせられたのではあるが、ここではそのうちの三点ほどメモしておきたい。
まず一つは、日記についてである。自分は三浦綾子の本に触発されて日記を書くようになって二十年以上は経つのであるが、迂闊ながら、その本のタイトルを長らく失念したままだった。
 
楽山は、いったい何歳なのでしょう。20歳の若者に成りすましたり、学者に成りすましたり、今度は、「日記を書くようになって二十年以上」だそうです。プロの詐欺師ぶりです。そうやって楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が不治であることを示すことになるのです。
 
 
でも今回それが本書であることが分かった。自分は、本書に収録されている「日記のない青春への疑問」を読んで、日記を書き始めたのだった。このことを確認できたのは再読の御利益かな。
 
嘘だと思います。そのような正当な動機は、悲しみを知っている心からしか生まれません。楽山は、まさに、それを失っているのです。動機を確認して、それを「御利益」などと言っていることが、傍証になるでしょう。楽山は、大方、言ったことのどこかに、偏向した世界の用語を漏らします。
 
 
*夢
もう一つは、神秘体験についてである。著者の夢には色や匂いがあるそうだ。いつか硫黄山の夢を見たときは、目覚めた後の室内も硫黄臭かったという。また睡眠の前後には種々の幻覚が見えるともいう。不思議な話だ。
 
楽山は、著者の信仰を、夢や幻の神秘体験の超常信仰でしか語れないようです。有名人に対しても、貶(おとし)めを制御しない楽山が、他者一般に、中庸であるわけがありません。今となっては、自己中からの狂気に近い悪意で、他者を決めつけ、おとしめてくるので、決して、関わってはいけません。
 
 
そういえば著者のエッセイで、虫の知らせについて書いたものを読んだ記憶がある。ある冬の夜、凍結を防ぐために水道の蛇口を開きっぱなしにしてたら、なぜか突然水が止まり、少ししてまた水が流れ出したときがあり、同時間にさる方が亡くなっていたのが後で分かったというような話だったかと…。著者はオカルト的なことはあまり書かない方だとは思うが、不思議なことがあるということまでは否定はしないということなのだろう。
 
著者が「あまり書かない」神秘体験を、楽山は取り上げて、信仰は超常を思い込むことだというイメージの先入観でしょうか。不思議なことも、ときに起こり得るでしょう。しかし、楽山のように、有名人さえ論ってネタにしてきた無遠慮は珍しいでしょう。
 
もはや、ただの意見発表とは違います。真実を追求する人々を滅ぼしたいという衝動です。ルサンチマン、という、不遇に対する憎しみの発露なのでしょう。こういうことを、ずっと、続けておれば、自らの知性も感性も、自らの悪意によって食い尽くされてゆく宿命でしょうか。
 
 
*人生論
三つ目は著者の人生論には大いに賛成できるということである。宗教観、信仰観については、自分はキリスト教徒ではないこともあってか必ずしも賛成できることばかりではないのではあるが、人はいかに生きるべきかということについては素直に肯けることばかりである。この点、自分にとって本書は人生について様々なことを教えてくれる、とてもよい本である。
 
楽山は、誰からも、真っ当な影響など受けることはありません。他者の意見から有意義なものを受容する精神が既に壊れています。楽山は、自己愛性人格障害のフィルターを通してしか見ないのです。楽山を、決して信頼してはいけません。楽山の丁寧語の嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
楽山は、どこからも評価されないゴミ溜めから単方向に排泄してきます。詭弁は、詭弁臭を、嘘は、言葉の腐敗臭を、悪意は、悪臭を放つようになってゆくということです。こちらは、楽山から出てくる悪意の文章を、どこが臭いか、どこが悪意か、その都度、指摘して書いてゆくだけです。
 
楽山は、人を傷つけて悔いない体質的異常者です。他者を下に見て満悦する人です。「人それぞれ」「自分を貫く」「意見を言ってはいけないのですか」と言っていましたが、すべて詭弁です。だまされないでください。3つの言葉は、責任感のある人間についてであり、異常者に当てはまることはないのです。
 
 
闇の眼は歪む

闇の眼は歪む
 
 
(2022年01月)
(2023年01月28日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害者は、世辞や嘘が習慣になっていますが、素直さ正直などは一切ありません。どんな卑怯なことをしても罪悪感を感じません。策略だけで、だまして生きています。楽山は、他者を平気で無視できる心性なので、自らの無知と無恥に気づかないのです。悲しみを知らないからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
  呼べない名前
 
残された光の中を
危うく滑り込んできた
いくら見つめても 夕焼け
見つめ返してくれるはずもないのに
またここへ来て今更のように
呼べないものを呼んでいる
他に誰がいよう
めぐる日は明日を教えず
生きている今の一瞬 と
思う時すでに過去なのだ
 
過ぎ去ったお伽話が呼ぶ
砂のめぐりも絶えて
何処の静脈を流れる
知られぬまま古びた血よ
 
また帰る日もないものを
人はまた呼ぶであろう
暗闇の前の熱い血の光に
ひととき心を染めて
呼べない名前を
たそかれ と
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
 
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
 
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
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  楽山の反省芝居2
 
 『知的生活の方法』渡部昇一著
 2021年12月27日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
ウイルスか荒らしのせいで、キー操作が約10秒ほどフリーズと復旧を繰り返す、という異常が続いています。つまり、文章作成に要する時間が約2倍になります。こういうことをして、いわば、他者のネット寿命を半分に短縮することしか出来ない犯罪者がいます。
 
この犯人には、大きなテーマについて、個人が、未熟を承知の上でも、それなりに情熱をもって、命を込めて、文章を作成して公表する心が、理解できないのです。自己中の欲求不満の憎しみから直情的に行為に短絡して、後先を考えない衝動的なサイコパス人格なのでしょう。
 
 
楽山は、反省文らしきものを書いてきました。とても浅い、おふざけに過ぎません。既に、4年近くが過ぎ、無反省と無責任では済まないのです。それでも、呆れるほど、全ての非を無視したまま済ませようとしてきます。楽山が書けば、批判記事が付いてくる、という成り行きが続きます。
 
 
*内容
『知的生活の方法』を読み返してみた。前半は知的生活の基本(自分に正直であること、繰り返して読める愛読書を持つべきことなど)が説かれており、後半は知的生活を継続する上での注意点、教訓などがいくつも紹介されている。
 
知情意の全てが不足~欠損している楽山が、「知的生活」などと言っています。気取っていないと気が済まないのでしょう。正しい教訓を真摯に受け止めているなら、現在のような嘘と詭弁のお気楽山にはならなかったはずです。また、嘘を吐きました。信頼度ゼロらしい日々を過ごしているようです。
 
 
*反省
前は本書を読んで、わくわくして前向きな気持になったものだったが、今回はそれよりも自分の未熟さを思い知らされた気分である。
 
「わくわく」しなくなったのは、高等感情鈍麻が進行したからでしょう。ますます生きるセンスが壊れてゆきます。それを反省せずに正当化する嘘の生き方です。「未熟さを思い知らされ」ているなら、今回の記事など書かなかったはずです。楽山の言葉が、楽山の嘘を知らせています。
 
 
まず一つは、自分は克己心が弱まり、背伸びした読書をしなくなっているということである。著者は楽しみとしての読書だけでなく、意志を用いた読書もしているらしい。でも最近の自分は、後者の読書はさぼっているので、ここは直したい。
 
「背伸びした読書」とは何でしょう。楽山が、現にしていることであり、恐怖です。「意志を用いた読書」とは何でしょう。楽山は、誇大妄想的に、いい言葉を拾っては自分に当てはめてきただけです。実にお気楽に「ここは直したい」と言って、忘れてゆく楽山です。全部、嘘です。
 
 
もう一つは、未読本を追いかけてばかりで、同じ本を繰り返し読むことを怠っているということである。本を十冊読むとしたら、そのうち二、三冊は過去に面白いと思った本の再読にしてみようかと思う。三つめは空間確保である。こればかりは良い案は浮かばず、今後も改善できそうにないのが残念。とほほ
 
楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の精神病理から言葉を選んでいるので、「とほほ」が読者に対して失礼だということが分からないのです。ならば、反省して、自らの書いてきたことを否定するしかありません。この3年間は、「とほほ」で済む話ではありません。
 
病質のために無反省だから、おかしな文章を書いてくるのです。言い換えれば、「とほほ」と言えば反省したことになると思う心性が異常であり病質なのです。真剣味がない方向に人格破壊が起きているのです。「とほほ」と書くくらいなら「改善できそうにない」なら書くべきではないということです。
 
 
この他にも反省点は多くあるのだが、とにかく今回は自分のふがいなさを痛感した次第である。でも落ち込んでいても仕方がないので、自分なりに状況を改善する努力をすることにしよう。
 
「反省点」「ふがいなさ」「痛感」「改善する努力」・・今までのことがなかったら、うっかり真に受けてしまいそうな、謙虚芝居の楽山です。しかし、無反省で、言葉だけで、実際は、努力というものをした跡が表れたことはないのです。楽山が、否応もなく、楽山の失格を表すブーメランです。
 
「状況を改善する努力」という当たり前のことを、全然してこなかった楽山が、今さら、何をするつもりなのでしょう。楽山には、何を言っても信じてもらえず、相手にされなくなって、独り言だけの日々が待っています。人間で在り続けることから、どんどん、遠くなってゆきます。
 
 
(ネットより)
イソップ童話のひとつ「オオカミ少年」。「嘘をつく子供」というタイトルでも知られています。ではまずあらすじを簡単に紹介していきましょう。
ある村に、羊飼いの少年が住んでいました。退屈しのぎに「オオカミが来たぞ!」と叫んでみると、大切な羊が襲われたら大変と、大人たちが武器を持って大慌てで飛び出してきます。しかしオオカミはどこいもいません。
大人たちは少年を叱りますが、少年はその後も懲りることなく嘘をついては、慌てる大人たちの姿を見て面白がっていました。
ところがある日、本当にオオカミが現れます。少年は慌てて「オオカミが来たぞ!」と叫びましたが、もう大人たちは誰も彼の言うことを信じてくれません。
結局助けは来ないまま、大切な羊たちは皆オオカミに食べられてしまったのでした。
このあらすじから転じて、「オオカミ少年」という言葉は、嘘をくり返して信用されなくなった人という意味をもつようになりました。
 
まさに、楽山は、ひどい目に遭うまで恐れを知らぬ、嘘吐きの、オオカミ少年の、成れの果てに向かっています。本当に危ない時に、崖っぷちの大事な時に、誰にも助けてもらえない人生です。
 
 
自滅ガイド

自滅ガイド
 
 
(2021年)
(2023年01月12日、再録+加筆)
 
 
 
  書いていたい
 
一日に一つ二つ
日記のような
ポエムのようなものを書いて
故意に嘘はつかず
あまり人になつかぬくせに
一人芝居が癖で
過ちは悔い
罪は背負い
背負いきれずに倒れ
倒れたままにも耐えきれず
倒れた先に小川でもあれば
小川に映る泡の光に
泡の笑みを流して
古い韻律の流れを見送って
見送る人はなく
居場所はなく
在る場所にいて
一日に一つ二つ
過ちのようなものを書いていたい
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな君の住む国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  臨終
 
見ている
多くの顔が
眠ろうとする信徒の
最後の告白を聞くために そして
 
賛美の言葉の一つも出ようものなら
久しく流さなかった涙を
その時には浮かべてもよいと
 
期待するものと
期待されるものの間で
つり上げられた信仰が
病気の小魚のように
しずかに はねた
 
彼の不幸はついに
思い出に変わることはなかった
もはやどのような約束をもってしても
過去も未来も変えることはできない そう
人生は一度だ
 
「わが生まれた日は滅び失せよ
幼子が胎に宿った
と言われた夜もそのようになれ
わが愛する人々は遠く去れ
二度と私を見ないように」
 
去る者と
残る者との間の
凍った段差の裂け目から
音もなく
転げ落ちていったものがある
 
こうして
全く別の涙は流され
人々は蒼ざめて去り
 
彼を見つめる基督と
顔を背ける彼が残った
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の嘘と詭弁と罪と偽善が「人間の性」であるなら、とうに人類は滅びています。楽山の被害者は、おとなしく退いてゆく人ばかりではないと思います。楽山が良心のある人ではないように、この地上には、良心のない人が、いっぱい、います。心からの反省は、そういうこの世を生きるためです。
 
人間でなくなってゆく危うい道を、楽山はさまよっているのです。オオカミ少年みたいな楽山が、同類の、嘘吐きやサディストに出会う、という、ヤバいプロセスでは、相手の暴力性によって、路地裏に転がり、がけの下に潰れ、海面に膨らんで浮かぶような惨事もあり得るでしょう。
 
 
 
自己愛性人格障害の男性の行動の特徴について
 
自己愛性人格障害の男性の行動面の特徴は、女性のケースとも共通しているものもあります。しかし、女性とは違うのが、自己愛の強さからくる行動が「男らしい行動」として好意的に解釈されてしまい、受け入れてしまうことがある点です。
 
(最近はめっきり聞かなくなりましたが)男尊女卑、家父長制、亭主関白といった文化・風習に通ずるものがあるために、自己愛が強くて面倒な男性として見られるのではなく、昔気質な男性として、自己愛の強さからくる迷惑な行動が許容されてしまうのです。
 
しかし、傲慢で自分勝手な行動に出る割には、内心は非常に臆病で小心者な一面がある。しかし、そんな「男らしくない」内面を他人に知られれば、自分の自尊心が深く傷つく恐れがあるからこそ、更に傲慢さに拍車をかけたり、他人を威圧するかのような言動に出てしまうことがあります。
 
 
 
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  信仰の節操
 
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 加筆して再録
 おもに偽牧師シャロームshalom 自称ヨシュア、などが言った驚くべき背教コメント。
 
 
● 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。
  悔い改めは、神が与える。
   (絶対自己正当化、シャローム型)
 
● 見かけだけの丁寧語に皮肉や悪意を込める。
   (丁寧は敬虔とは限らない。偽善者の侮りの特徴でもある。)
 
● 完全になれる。
   (神と人の違いの無理解、自称ヨシュア型、パリサイ型)
 
● 何かをすれば救われ、しなければ救われない。
   (行為義認の主張、善行でないと非難、パリサイ型)
 
● 信仰と関係のない個人情報をバラして罵る。
   (信仰以外で批判、卑怯な罵倒型)
 
● 神の啓示と聖霊の導きなど神聖を根拠とする。
   (全能全知を自分に当てはめる冒涜、神がかり型)
 
● 自己正当化に固執。(同上、正体は自己中)
 
● 他者を無視してよい。
   (思いわずらうほどこだわる必要はないということを曲解)
 
● 神の愛がストーカーのようについてくる。
  (自己愛を信仰に結び付ける、
   キリストを忘れられないことを誇大妄想化、犯罪に喩える?)
 
● 罪に死んだから、罪はない。死んだから、叩いても蹴ってもびくともしない。
   (罪に死ぬ、ということの誤解~曲解、揺るがない信仰の不適切な比喩
    信仰を死体に喩える?)
 
● 命を懸けるようなことを、ことあるごとに言う。
   (信仰自慢、芝居的な讃美。信仰者は豪語しません)
 
● 霊の祟り、悪霊憑き、呪いなどを言い、あと何日などと脅す。
  (自称ヨシュア・マグダラマリヤ型)
  嫌な予感や悪い予想を言うことはあるが、根拠を示せなければただの脅し。
  キリスト信仰に、戒めはあるが、脅しはない。
  キリスト信仰に、報いはあるが、呪いはない。
  キリスト信仰は呪術ではない。
 
● 頻りに讃美と感謝を繰り返し、さらに、自らの悲劇を語り、命をかけるなど大仰なことを言う。
  (自称マグダラマリア型、あるいは、魔女型)
 
 
● 情欲の聖句の「女」を「他人の妻」と書き換えて、キリストの言葉を、不倫はいけませんね・・という、安い道徳におとしめて、人間の根源と、救いの根源を、骨抜きにしてしまうのは、神に対する大罪であります。
● 神を「恐れる」を「畏れる」と書き換えて、神に対しては、恐れるのではなく畏(かしこ)まればいいのですよ・・ということにして、救いの根源を、骨抜きにしてしまう。
  (新共同訳の訳者たちによる聖書の曲解とキリスト教形骸化の過ちあるいは悪魔的な企み)
 
 
 
  《キリスト者も注意・警戒するべき言動》
 
 
「神は、いつも守ってくれる。いつも愛してくれる。永遠に変わらない愛」について、どのように守るのかを、自分の都合ではなく、神に任せるのなら是であります。戒める神、懲らしめる神、試練を与える神を忘れてはいけません。神は、地上での死も与える御方であることを忘れないように。
 
信仰が偽物だったり堕落したりすれば、ずっと神が愛してくれるというのは、妄想です。それは、陶酔感から罪の自覚を失って、神を侮り、むしろ、神の赦しと救いを拒む態度だからです。
 
 
「ほめたたえよ」という聖句があることで、讃美しておれば信仰だからと偽善者やその傾向のある人は盛んに讃美をします。一方で、自分の罪や反省や悔い改めを語ることが全くないのが偽善者の特徴です。
信仰についての発言を、大きく勘違いした的外れは、背教の暴言に等しいのです。
 
神への讃美であるはずが、讃美したから信仰が成ったとばかり納得してしまうのは、心からの讃美ではなく、むしろ、信仰自慢になってしまうことを自覚してほしいです。また、讃美しなければならないという義務を自らに強いるのは強迫神経症の症状です。
 
問題となるのは、発言そのものよりも、その心にあります。神の、愛、恵み、賜物、など、めでたいことばかり強調するのは、特に、継続して繰り返される場合は、カルト傾向です。そこに信仰の祈りや発言が集中してしまうのは、偽善者の特徴であることを覚えてほしいのです。
 
 
私たち信仰者が、いつも考えるべきは、不完全であることの罪の自覚であり、それが敬虔であり、それゆえの罪の赦しであり、それゆえのキリストの共感と愛なのであり、それゆえの神の愛と寛容があり、それが、人を生かす赦しと救いなのです。聖書の教条ではなく、聖書の心を学ぶことが大切です。
 
不完全で罪深い自分を、神が憐れんで、生きてゆける者として、折々の悔い改めを受け入れてくださる御方への、人間が出来る唯一の捧げものが祈りであることを忘れないでください。人の行いなど、信仰の義において何の根拠にもならず、ただ、正直な祈りだけが必要十分なのです。
 
多くの信仰の恵みは、めでたいことばかりではなく、自分が生きるために不可欠の動機~試練として、与えられているのです。悲しみは反省と忍耐のために与えられるでしょう。揺るがない信仰とは、思い込みの確信ではなく、共感であり、それが忍耐強い信仰を生み出してゆくのです。
 
正直に祈ることが悔い改めであります。悔い改めないのは、悔い改めの祈りをしないことであり、神の救いを自ら拒むことです。悔い改めは、信仰者の人生において、しばしば、必要です。洗礼を受けたから安心とか大丈夫とかではなく、洗礼を受けたから、祈りと悔い改めの信仰生活が始まるのです。
 
なお、いつでも、信仰に、キリストのもとに、神のもとに戻ることは可能です。いつでも、正直に祈ることが出来ますし、神は、それを待っておられると思います。それが、神の寛容であり、永遠に変わることのない愛であります。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の寛容さゆえに、神のほうから救いを拒むことはありません。ゆえに、悔い改めの祈りの機会は、それぞれの人の全人生にわたって与えられています。それゆえに、キリストの荷は軽く、神の寛容は絶えることがありません。飾らずに、ただ、神の前に、正直な祈りだけを捧げてください。
 
神の永遠不変の愛とは、祈りにおいて、いつでも、いつまでも、人には言えないことでも、正直な告白と願いを祈り、それを聞いてくださる御方がいるということです。願いの成就は、神に任されており、そこに、信仰者の使命と忍耐があります。その上で出来ることをするのが信仰者の人生です。
 
 
信仰の節操と偽善

信仰の節操と偽善
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2023年01月06日、再録+加筆)
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう意見が出るほどに、自分が手を合わせてる神様に無頓着な宗教観は実に面白い。
なにごとの おはしますかは 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる」とはよく言ったものだ。
引用ツイート
島田裕巳@2版出来『宗教対立がわかると「世界史」がかわる』晶文社
伊勢神宮のアマテラスは弟スサノオの前に軍装で現れたし、八幡神は武士が崇めた戦の神。神道と戦というのは深く結びついているので、どの神社に行っても、境内に神明社や八幡社があれば、軍神に参拝したことになる。
 」
午後8:10 · 2023年1月5日
 
「面白い」は嘲笑いでしょう。「神様に無頓着な宗教観」とはよく言ったものです。楽山は、神について知っているつもりなのでしょうか。楽山のように、幼稚な辻褄で神を否定し、人を傷つけてゆく慢心は、知識不足だけでなく、訂正不能の自己愛性からの病的な悪意の偏執です。
 
楽山は、笑うことと怒り憎むことはあっても、「涙こぼるる」ように悲しむ情感を持ちません。だから共感性もなく、神について物を扱うような安易な辻褄で知ったかぶりをします。楽山は、思い上がりの醜態から崩れてゆく人格を表し、慢心して良心のないインテリ気取りの末路にいるのです。
 
 
 
  悪い顔
 
また顔が悪くなった
と鏡の前で気づくか気にするか
また顔が悪くなった
という
顔が悪くなる瞬間というのは
何か嫌なことや
好(よ)過ぎることがあって
あるいは何もなくて
皮膚が乾くのだろうか
変色するのだろうか
顔の肉が強張(こわば)るのだろうか
弛(たる)むのだろうか
特に目や口の辺りの
しかし若(も)しも逆に
年齢相応ですが
少し顔が好くなりました
なんてことが
ないだろうけれど
仮にあるとしたら
身の毛も弥立(よだ)つ
を通り越して
人間は疾(と)うに死んだのに
人体だけ死に損なって
残ってしまったような
顔のどこかに責任が持てるだろうか
 
 
  未熟な象形
 
読解が受け取る側の
誤読と誤解で出来ていて
伝えるべき想いが
思い込みに変わっていて
責任が伝える側の
ただただ未熟さにあったとしても
伝えたい想いがある限り
走るペンが細く描く象形の紙で
不器用に折られた紙飛行機は
やはり飛ばされ続けるだろう
どちらからともなく裏切りとなって
紙飛行機は思いも寄らない方向へ飛び
あるいは落ちて踏み拉(ひし)がれて
たとえ幻滅から失望への傷ついた夜に
沈黙の痛みだけが帰ってきたとしても
未熟は
未だ熟(こな)れないという
未来を持っているし
未熟は何よりも
走ってゆくペンや
飛んでゆく紙飛行機を
止められないほど未熟なのである
 
 
 
心機一転★こも楽山
@komo266
傍から見ての感想だけど、
KENTO氏は継続的にアンチに関連したツイートしてるので、アンチから継続的に反論があるのは当然だし
すぐツイート削除するのでスクショ撮られるのも当然
直接対話を拒否するので、他所でいろいろ言われるのも当然
これはストーキングというより、因果応報だと思います。
 
いつも傍から見て、薄っぺらな感想しか書けない楽山です。楽山は、無反省、無責任に、記事を書いて、そのあとも、責任を負わず、無視して反省も学習もしないのだから、他所でいろいろ言われるのも当然で、批判されるのも、「ストーキングというより、因果応報」となってゆく自己中の必然です。
 
楽山は、他者を批判しますが、その批判が、不思議なくらい、楽山に当てはまってしまいます。それに、書いてくることも、大方、雑言の類で、何か生きるヒントになるようなことなど、一度も書いたことはないのです。書けば書くほど、楽山の言が、楽山を責めることになるブーメランです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山関連の罪と偽善: 無反省で謝罪しない。世辞か、嘘と詭弁。自己中。非を認めない。無責任で、弁明できない。理路も情感も未発達。笑いと怒りと憎しみだけで、しんみり悲しむ情がない。不祥事を人のせいにする。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)。
 
楽山の因業は、改まることがありません。いつも、楽山の通念的な言葉が表すのは、そういうことしか書けない楽山の体質的異常の証拠になってゆきます。反省せず、責任を負わないでいると、結局、同じようなことしか書けない無学習のもたらす貧相な悲喜劇だけを表すことになってゆきます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。しかも犯罪行為に及ばなければ強制的に抑制は出来ません。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを置かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して誘導し、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
精神構造はカルトに似ているので、無神教カルトと呼んでいる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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  楽山はホラー2
 
 キリスト、パウロ、ガンジーと非暴力
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 楽山は、読者への思いやりなど全く持っていませんのでご注意ください。
 
 
病質者らしいことを書いて、説得力はゼロなのに、独りで「理解できた」と満悦する楽山です。こういうのが、本当の、リアルの、ホラーなのです。楽山に対する説得は無駄であります。全く、気づきがなく学習機能がない病気の脳ミソ単独の暴走です。
 
 
前の記事を書きながら思い出したのだが、ガンジーの説いた非暴力について次のような説明を読んだ覚えがある。
暴力は自らの望みを実現させるために相手に肉体的苦痛を与えるが、非暴力は自らが肉体的苦痛を受けることで相手の良心に働きかけ、真実への目覚めを促すものである云々。
 
楽山は、「自らの望みを実現させる」、即ち、快感を得るために相手に精神的苦痛を与えます。暴力について他人事のように言っていることで、楽山に、その自覚のないことの証明になります。楽山は、「良心に働きかけ」「真実への目覚めを促す」気もないのに、また、嘘を吐いて、正義感気取りです。
 
 
自分はこれこそキリストの「悪人に手向かってはならない。だれかが右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5.39)という教えの意味だろうと理解したのだった。
 
キリストは、人が出来ないことを承知で言っているのです。それゆえ、キリストは十字架につくことになります。それも承知の上です。救い主キリストの、洞察力と共感力なのです。
 
それを書かずに「理解したのだった」は、理解できない自分をも無視して意地を張る身の程知らずなのです。恐らく、何を読んでも実際は理解抜きで、理解したつもりになる見栄張りの嘘つきです。吐き気がします。
 
言われても実際には出来ないことを言っているキリストの意図は、罪なき者は一人もいないということとです。神の前に、罪を認めよ、正直になれ、という大きな教えにつながります。
 
 
でも、パウロは次のように書いている。
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。
(ロマ12.19-21)
 」
 
(一つの解釈としてネットより)
この地域の人たちは水瓶、果物や野菜のかご、火のついている壺などほとんどを頭の上に乗せて運びまし た。 隣人から新しい炭を受け取った後で、頭に火鉢を持ち上げて家に出発します。もし隣人が本当に寛大な人なら、その人は火鉢か壷に更に新しい熱い炭を「積み上げる」のです。壺に燃えている炭を入れて あげます。
古賀バプテスト教会
 
このパウロの発言は、慣習なのか、殉教を意味しているのか、私は分かりません。キリストの敵となった者たちは、律法を曲げて、褒められることを悦ぶ者たちであり、信仰の心が無く、思いやり・罪悪感・修正機能などがなく、キリストを殺した者たちです。楽山との共通点が多々あります。
 
 
これはキリストの言葉と関連しているのか判然としないのではあるが、もしかしたらキリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、このように解すべきなのだろうか。相手に逆らわないのは、相手の良心への働きかけではなく、神による復讐を期待してのことであると。
 
当時の宗教勢力であるパリサイ人などの者たちは、結果としてキリストを殺したことに表れており、良心がないので働きかけても反応しません。現在の現実の人格としては、楽山が、その典型例であります。だから、信仰について、平気で「神による復讐を期待」などといえるのです。
 
楽山は、恥知らずで、良心がなく、自分は偉いんだ!正しいんだ!という意地だけで書いています。書けばいいと思っているのでしょうか。反キリストの偽善者らしく、文章だけ丁寧だが、根拠もなく、わめき散らしているだけなのです。
 
 
内村鑑三にもこのような言葉がある。これはおそらくはパウロの言葉を前提にしているものなのだろう。 
我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。 
・ヨブ記講演 内村鑑三 - 青空文庫
 」
「愛を以って敵人の首に熱き火を積」むことを健全とするとは、はたしてどういう論理によっているのだろうか。
 
上の「燃える炭火を彼の頭に積むことになる」というパウロの言葉を前提にしているならば、類似の「愛を以って敵人の首に熱き火を積む」という表現は、殺して呪うことを言ってはいないようです。解釈の難しいところですが、楽山のような悪意の短絡をしないことが大切です。
 
もし敵を殺し死体を呪う行為ならば、論理ではなく感情であり、正直言って、欠点の多い私は、楽山について、軽くない陰性感情をいだくことがあります。内村鑑三も、楽山のような訂正不能の偽善者に出会ったのでしょうか。しかし、信仰があるからこそ、暴力を自制するわけです。
 
楽山が、いかに、飢えた狼のように、よだれを垂らして、内村鑑三の、おかしな発言と思えるものを漁っていたかが、うかがえます。これが楽山の炭火という怨念です。ずっと、悪意の種火となっているのです。肯定し共感しているように装う楽山の嘘に、惑わされないでください。
 
楽山は、書いたものが、何も成り立たないし、何の役にも立たず、何の教えにも理解にもならないものだから、それこそ、内村鑑三とキリスト者の存在を殺して火でもつけたい気持ちでしょうか。とても危険な楽山の邪悪さが発言に、陰湿に表れています。
 
 
聖書的には、キリストの言葉は、ガンジーのようにではなく、パウロのような理解の仕方が正しく、これができてこそ、内村鑑三の言うがごとく「健全に達した」とされるなら、自分にはやはり聖書は異文化であって理解するのは難しいようだ。
 
言葉面を整えるだけで、一滴の慈愛も持っていないのに、楽山は、愛について、ガンジーと内村鑑三を秤にかけています。その時点で、アウトだと気づかないのです。病質者とは、そういう者です。人間も神も、オモチャとして扱い、いちゃもんをつけては満悦するのです。
 
「異文化であって理解するのは難しい」・・分からないというシンプルなことが言えず、代わりに、理解できないのは異文化だからだ!と言っている頑固な自己愛と自己中を見逃さないでください。反省するのではなく、災いを全て他者のせいにするのは、サイコパスの特徴です。
 
 
とはいえ理解できないからこそ理解できたときは嬉しく、ここが聖書の魅力でもあるのだが…。
 
上のほうで「理解できた」と言っておきながら、理解できない」と言い、「理解できたときは嬉しく」と世辞を添えているのが、楽山の、何とも言えない気色悪さなのです。
 
楽山には、理路も共感もありません。反省も責任感もありません。ゆえに理解などあり得ないのです。だまされないでください。無反省で罪悪感のない楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。サイコパス精神病質と同様です。
 
「ここが聖書の魅力でもあるのだが」・・楽山の嘘です。反キリストの病質者は、まともに考えることも感じることも出来ません。聖書の魅力など分かるはずはないのです。騙すための褒め言葉は、楽山の常習であります。自己顕示欲のために、反キリストが卑怯な知恵だけ身に着けているのです。
 
 
 
 「第十六講 ゾパル再び語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2021年04月10日 楽山日記(LD)
 
 
飛び飛びに聖書を読んでいることが分かります。伝えようという意志がない我欲からなので、けなしたい箇所が優先されるのでしょう。じっくり考えることも冷静に計画を立てることもないのが楽山です。楽山は、自ら、自身の悪性を表してゆくのです。
 
 
「第十六講 ゾパル再び語る」を読了したので、その内容と感想をメモしておきたい。
第二十章の研究。
ヨブ記は十九章で完結とすべきところではあるが、さらに「二十三箇章」が続いている。聖書ではこのような例が他にもある。イザヤ書では五十三章で「光明の絶頂に達」するが六十六章まであり、ヨハネによる福音書では十七章で「絶頂」となるがそこでは終わらないなど。
 
何様のつもりで楽山は「ヨブ記は十九章で完結とすべき」などと著者の口を利用して言えるのでしょう。極めて安易な気持ちでしか読んでいることが明らかです。理解ではなく、言葉面だけを求める姿勢です。自分の都合でしか聖書も他の本も読んではいないと思います。
 
大事なことが何も分かっていない楽山は、分からないと遠慮する態度を持ちません。これが、楽山の学者気取りです。余計なお世話だけして、求められてもいないのに出てきます。しかし、いつも、こんなことまで知ってるんだ!と言いたいだけなのです。信仰の響きがなく、婉曲の悪口を言うだけです。
 
恐らく、最後の、神が出てきて、ヨブが悔い改める最終章へのストーリーなどは、あとで書かれたものだと言いたいのでしょう。だから何なのでしょう。信仰を求める人は、聖書が何を伝えているかを求めるのです。大昔の事実など、それにこだわる楽山など、どこにも必要とされることはないのです。
 
楽山は、事実性に、いちゃもんをつけてきます。そして、史実か否かにこだわり楽山の幼稚すぎる机上の辻褄をもって、合わないから神はいない!キリスト教は嘘っぱちだ!と言いたいのです。真実を求めて、得られると感動する、という正常人の心がありません。
 
それが、楽山のベースにあるところの、自らの不遇に対する怨念なのです。毎回、それだけが、明らかになります。もはや、楽山の読書は、節操も弁えもなく噛みついてくる狐か狸の類でしょう。ゆえに、人の話を無視し続けて、逃げ隠れして、平気でいられるのです。
 
最初から、楽山がキリスト教について書くのは、謀略だということです。だから、信仰の欠片もなく、偽善でいっぱいの楽山に、耳を貸してはいけないのです。伝染性があるので、楽山は、疫病です。罹ると、知性と感性が愚鈍になり、ついには、人格が破壊されてゆくでしょう。
 
 
ヨブ記が十九章で終わらない理由は、愛を学ぶ必要があるためである。ヨブは「信仰による勝利」は得た。しかしこれは「愛による勝利ではない。故にこれは最上の勝利ではない」。ヨブは「愛を以て友を赦し得るに至らねばならぬ」。
「我らは信仰を以て人に勝ちて満足してはならない。これいまだ人を敵視することである。愛を以て人に勝つに至って――すなわち愛を以って敵人の首に熱き火を積み得るに至って初めて健全に達したのである。信仰よりも希望よりも最も大なるものは愛である」。
 
上のほうに書いたように、内村鑑三の真意は、私には、はっきりとは分かりません。しかし、分からないと言えない楽山は、餌を見つけた野良犬のように、「愛」を含む引用をして、これでええじゃろ・・とばかり、独り満悦しているのです。こういう気取りが、楽山の言には満載です。
 
楽山は、自分の言葉で書くと理路にならないために、引用が多くなってきました。引用だけという感じでもあります。なお、本の一部を選択して引用するという行為は、偏った刷り込みをするときの詭弁であります。そして、引用した責任を負わない楽山は、全くの無責任なのです。
 
 
本講の一つの勝利で終わりではなく、その先があるという考え方は、仏教でいうところの悟りを得てからの悟後の修行、上下菩提下化衆生、さらには釈尊の大悟の後の梵天勧請などを連想させるところがある。
 
何かを得て、さらに、学習する、という当たり前の態度が、楽山にはありません。楽山は、仏教の知識を見せびらかしたいから言っているだけでしょう。キリスト教と仏教、似たところもあるけれど、同じ宗教ではありません。楽山の粗忽(そこつ)の極みであります。
 
 
こうしてみると、巷でも言われるとおりに、キリスト教と仏教は異なる宗教ではあるが重なるところはあるようだ。
 
楽山には、何を語る資格もありません。楽山は、少なくともキリスト教を、全く理解していないからです。誰も関わらないでください。自己顕示欲だけの楽山は、無反省、無責任、無神経、無理解、訂正不能、罪悪感欠如の、自己愛性人格障害そしてサイコパスです。
 
 
万教帰一的な考え方によっても、どちらも人によるものであると唯物的に考えても、キリスト教と仏教に似たところがあっても当然ではあるが、それでもやっぱり異なる時代、場所、人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である。
 
(ネットより)
万教帰一(ばんきょうきいつ)とは、すべての宗教は一つに帰するという概念である。主に新宗教で使われる。
ウィキペディア
 
楽山は、言葉だけ、なじみのない学問や宗教の言葉を説明なしに多用します。インテリ気取りからでしょうが、今となっては、説明しないで専門家を気取って自慢したい気色の悪さだけということになります。しかも、理路を説明せず、結論だけを書いて利用するのです。万教未明の楽山です。
 
「人の間で共通のものが発生したとすれば不思議である」・・何が不思議なのでしょう。世の中は、楽山の理屈で動いているわけではありません。楽山は、人も、神も、自分も、見ないで書いてくる厚顔無恥の荒らしとして、求道者を混乱させ、信仰者の平安を荒らしてくる者です。
 
言ってることが、ことごとく、詭弁であり、ゆえに、そのまま不祥事となってゆく楽山です。どうか、楽山と同類にならないために、精神衛生のために、決して、関わらないでください、相手にしないでください、近づかないでください。
 
 
光から逃げる者

光から逃げる者
 
 
(2021年04月11日)
(2022年04月16日、再録+加筆)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  夜明けのオートバイ
 
初夏の夜明けは早い
深夜眠れない男が
いそいそと仕度を始めるのは
たかだか二時間の旅
夜明けの前から後までの時を
旅立とうとしている
今日が始まる前に
求めるために?
逃げるために?
旅立たないではいられない
途中で眠くなって
永遠に帰って来ないかもしれない
愚か者は小さなオートバイに乗って
飛行機にでもなった気分
暁の中を
赤い逆光の中を
ヘルメット姿の影になって
横切ってみたい
最後の記憶の
最後の縁を
見て
確かめて
打ち砕いて
飛び去ったと 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
反省するどころか、ずうっと、中立を装って、読者を欺いてきたのが、楽山です。根は、サイコパス(反社会性人格障害、精神病質)だと判断しています。「難しい」「人間の性」で済ませて、「恥ずかしながら、自分もそんな風」ならば、いかなる発言も、するべきではない人です。
 
 
 
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  楽山の限りない悪意
 
 『あさっての風』三浦綾子著
 2022年01月15日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、書く衝動を抑えられないようです。楽山の書いたものは、誰を救うことも、誰かの糧になることも、全くないのですが、楽山は、書ける人、物を言える人を、気取ってきます。これほど無反省で無分別の醜態は、病質でしか説明できません。
 
*概要
これは三浦綾子のエッセイ集である。キリスト教の信仰について書かれている箇所もあるが、副題に「あなたと共に考える人生論」とあるように、おおむね人生について語られており、善く生きようとする人であれば、宗教の別に関わりなく、誰もが興味を持って読めるものになっている。
 
誰とも、独りでも、考えることをしない楽山です。楽山は、学習できず、偏見と先入観しかありません。その結論から、嘘と詭弁を書いて、だましてきます。誰もが読める本も、楽山だけは、曲解して、自分の都合に合わせてゆくのです。楽山には、興味をもって読めるなどと、人に勧める資格はありません。
 
自分の場合も本書を読んで、さまざまなことを考えさせられたのではあるが、ここではそのうちの三点ほどメモしておきたい。
まず一つは、日記についてである。自分は三浦綾子の本に触発されて日記を書くようになって二十年以上は経つのであるが、迂闊ながら、その本のタイトルを長らく失念したままだった。
 
楽山は、いったい、何歳なのでしょう。20歳の若者に成りすましたり、学者に成りすましたり、今度は、「日記を書くようになって二十年以上」だそうです。プロの詐欺師ぶりです。そして、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、不治であることを示すことになるのです。
 
でも今回それが本書であることが分かった。自分は、本書に収録されている「日記のない青春への疑問」を読んで、日記を書き始めたのだった。このことを確認できたのは再読の御利益かな。
 
嘘だと思います。そのような正当な動機は、悲しみを知っている心からしか生まれません。楽山は、まさに、それを失っているのです。動機を確認して、それを「御利益」などと言っていることが、傍証になるでしょう。楽山は、大方、言ったことのどこかに、偏向した世界の用語を漏らします。
 
*夢
もう一つは、神秘体験についてである。著者の夢には色や匂いがあるそうだ。いつか硫黄山の夢を見たときは、目覚めた後の室内も硫黄臭かったという。また睡眠の前後には種々の幻覚が見えるともいう。不思議な話だ。
 
楽山は、著者の信仰を、夢や幻の神秘体験の超常信仰でしか語れないようです。有名人に対しても、遠慮もなく、貶(おとし)めを制御しない楽山が、他者一般に、中庸であるわけがありません。今となっては、自己中からの狂気に近い悪意で、他者を決めつけ、おとしめてくるので、決して、関わってはいけません。
 
そういえば著者のエッセイで、虫の知らせについて書いたものを読んだ記憶がある。ある冬の夜、凍結を防ぐために水道の蛇口を開きっぱなしにしてたら、なぜか突然水が止まり、少ししてまた水が流れ出したときがあり、同時間にさる方が亡くなっていたのが後で分かったというような話だったかと…。著者はオカルト的なことはあまり書かない方だとは思うが、不思議なことがあるということまでは否定はしないということなのだろう。
 
著者が「あまり書かない」神秘体験を、楽山は取り上げて、信仰は超常を思い込むことだというイメージを刷り込もうとしてきます。不思議なことも、日常の不思議なことも、ときに起こり得ます。しかし、楽山のような、あげつらって、他者を、獲物を得たケダモノのように、貪(むさぼ)る衝動は、異常です。

もはや、ただの意見発表とは違います。真実を追求する人々を滅ぼしたいという衝動です。ルサンチマンという不遇に対する憎しみの発露なのでしょう。楽山は、みじめです。こういうことを、ずっと、続けておれば、自らの知性も感性も、自らの悪意によって食い尽くされてゆく道理です。
 
*人生論
三つ目は著者の人生論には大いに賛成できるということである。宗教観、信仰観については、自分はキリスト教徒ではないこともあってか必ずしも賛成できることばかりではないのではあるが、人はいかに生きるべきかということについては素直に肯けることばかりである。この点、自分にとって本書は人生について様々なことを教えてくれる、とてもよい本である。
 
楽山は、誰からも、真っ当な影響など受けることはありません。他者の意見から有意義なものを受容する精神が既に壊れています。楽山は、自己愛性人格障害のフィルターを通してしか見ないのです。楽山を、決して信頼してはいけません。どうか、楽山の丁寧語の嘘と詭弁に、だまされないでください。
 
楽山は、どこからも評価されないゴミ溜めから単方向に排泄してきます。詭弁は、詭弁臭を、嘘は、言葉の腐敗臭を、悪意は、悪臭を放つようになってゆくということです。こちらは、楽山から出てくる悪意の文章を、どこが臭いか、どこが悪意か、その都度、指摘して書いてゆくだけです。
 
楽山は、人を傷つけて悔いない体質的異常者です。他者を下に見て満悦する人です。「人それぞれ」「自分を貫く」「意見を言ってはいけないのですか」と言っていましたが、すべて詭弁です。だまされないでください。3つの言葉は、責任感のある人間についてであり、異常者に当てはまることはないのです。
 
 
深い闇に蔓延(はびこ)る者

深い闇に蔓延(はびこ)る者
 
 
(2022年01月16日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自己愛性人格障害者は、世辞や嘘が習慣になっていますが、素直さ正直などは一切ありません。どんな卑怯なことをしても罪悪感を感じません。策略だけで、だまして生きています。楽山は、他者を平気で無視できる心性なので、自らの無知と無恥に気づかないのです。悲しみを知らないからです。
 
 
 
  蛇と蛭と鼠の人
 
誰しも蛇の腸管や
蛭(ヒル)の下垂体と鼠(ネズミ)の甲状腺
ぐらいは飼っているものである
強い蛇を飼っていれば
いつも毒を吐いているので分かりやすい
しかし多くは鼠が摂食の抑制を掛け
さらに蛭が吸血の抑制を掛けるので
面と向かっては毒を控え
蛭が丸くなり鼠が蠢(うごめ)き出すとき
本人がいなくなったところで
活性化した蛇の舌をぺろりと出して
さりげなく口臭のような毒を吐き
人の印象を吹き込む
 
意識的か無意識にか
思わず或(あ)る時か
という罪の軽重は
人には測り難(がた)い
奸計(かんけい)と小細工を弄(ろう)して世渡りをするような
最も凶悪なホルモン性の動物は
その測り難さを利用する
 
 
 
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