ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪用

 
  楽山の余計な感想
 
 『私の死亡記事』文藝春秋[編]
 2022年09月16日 楽山日記(LD)
   を批判。
 
 
楽山は、短くて、上手とも思えず、深い考察もなく、なぜ、感想を公開するのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自己顕示欲によって、それが、まともだと、楽山には思えるのでしょうか。思考と意志の異常なのでしょうか。
 
いつものように「すごい」「すきだ」「考えさせるものがある」「さすがだ」で、独自の思想など、一言もありません。恥を知らなくなると、このように、短くて、粗雑な記事を書いてくるという例になります。楽山も、自分の死亡記事でも書きたいのでしょうか。
 
 
本書は著名人が自分自身の死亡記事を書くという企画によるもので、100人あまりが参加している。このような企画を思いついた編集者はすごい。
 
楽山は、永遠に生きるつもりでしょうか。自分自身の死亡記事を読んでも、楽山は自身の、記事にならないかもしれない死亡や、無名の死について考えることがないのでしょうか。深い心がないと、このような、乱暴で雑なことを、ぽろっと書くしか出来なくなるという例です。
 
 
ではその中身はどうかといえば、ざっと見たところでは、ほとんどの記事が自己の業績を事細かに並べ、意識が高く、幸福感に満ちており、いかにも著名人らしい文章となっている。そんな中で中野翠だけはたった二行の文章と墓の絵だけで済ませているのは微笑ましい。この方のユーモアと美意識はすきだ。
 
見れば本のようですが、「事細かに」・・細かだからなんだというのでしょう。「意識が高く」「幸福感」・・何が言いたいのでしょう。いったい何を伝えたいのでしょう。ゴシップ好きの、好事家の、趣味以上ではないところの、雑文を書いて、楽山は、どこに満足できるのでしょう。
 
 
死因については、老衰や病死としているものが多いが、安楽死としている人も少しいる。奥付を確認すると本書の出版は2000年10月となっているが、この頃はすでに延命治療を厭う空気はあったということだろう。ちなみに西部邁の「私の死亡記事」は老いと自死について記されており、さまざまに考えさせるものがある。
 
「さまざまに考えさせるものがある」・・どう考えたのでしょう。それを書かないで、ブログ記事になるのでしょうか。主題は何なのでしょう。楽山は、自分の死について書くのでしょうか。死なないと思っているのでしょうか。また、いつものように、高みから眺めるだけでしょうか。気色悪い。
 
 
最後に本書中でもっともおかしかった文章は、自分にとっては横尾忠則のものだった。それは死んで霊となった横尾忠則本人が霊言をするという体裁になっているのだが、「波動」「送信」「受信」というスピリチュアリズムの設定に則っているところはなかなかに芸が細かい。さすがだ。
 
「おかしかった」で「さすがだ」だそうです。楽山は、人の死に、おかしさを求めているのでしょうか。「霊」「霊言」「波動」とは、HS回帰でしょうか、それとも、スピリチュアル賛歌でしょうか。「芸が細かい」・・どこが細かいのでしょう。「さすがだ」・・どう、さすがなのでしょう。
 
身の程知らずのインテリ気取りの、楽山の、評論家気取りが、有名人について、ふつうやらない自分の死亡記事を書いたことを述べて、述べるだけの記事です。本一冊分を、ブログの薄く浅く短い記事一つで済ませて、何が言いたいかというと、自分の有名人気取りを表しているようなものです。
 
自己顕示欲が強いために、生について、特に死について、何も考えられない人なのでしょう。だから、他者の死についても、遊び道具にして、深刻味もなく、スパイスもなく、褒めたからええじゃろ・・という安易さになります。思いつきだけで、いつも、書いては捨ててゆく楽山です。
 
楽山には、自分の死亡記事は書けないと思います。病質のために、知性と感性がなく、つまり、理路と共感がなく、生も死も考察できないからです。いつまでも、偉くなる夢を見ているのでしょう。楽山の老後と死は、とても恥ずかしいものになるだろう、という予感しかありません。
 
いつもながらの、楽山の、小学生レベルの作文です。これで文章を書いたつもりでしょうか。何が言いたくて書いているのかが、全く不明です。何も求めておらず自己顕示欲だけで書くと、こうなる、という例です。3年以上見ていますが、何の魅力もなく、何のためにもならない駄文への誘導です。
 
騙されることのないように、楽山に、誰も関わらないでください。関わる価値はありません。楽山の自己満足なら、ノートに書いて、机にでもしまっておくべきです。それを見せて、さらには、嘘と詭弁で、誘導し、騙してくるから、楽山は、いつまでも、どこまでも、病質からの、悪質なペテン師なのです。
 
私は、過去に数か月遣り取りをして、こちらの発言を全く受け取れないことから批判に転じて、今に至っています。3年以上批判しても変わらないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDという病質だからです。本人だけが、それを理解できず、ヘラヘラと、正常人を気取って書いてくるのです。
 
この楽山の記事は、自分は読書家で書評もするのです・・ということを顕示したいのでしょう。騙すための世辞は言っても、共感力がない楽山の丁寧語に騙され続けると、楽山の文章に誘導されて、疲労して奴隷みたいになるか、人格が鈍麻して、それこそ、読む人が、おかしくされる恐れがあります。
 
 
拙文の豆まき

拙文の豆まき
 
 
(2022年09月18日)
 
 
 
  人間不信と手袋
 
誰も信じることができない
と君はいう
 
自分だけが頼りかと聞けば
その自分自身が
いちばん信じられないと君は言う
 
信じるに足る人がいるものかと
食ってかかる君がいる
 
君は限りなく零下へ凍りつくことで
冷たさを凌(しの)ごうとしている
冷たさにそれ以上の冷たさで
 
されど君よ
そういう冷たさに耐えるための手袋を
人は全く持っていないだろうか
 
信じるに足る人はいない
しかし逆に全身を任せるように
信じられることに
君は耐えられるだろうか
 
君が誰かを凍りつかせないために
資格のない不遜の礫(つぶて)だが
砕けることが出来るうちに投げておこう
 
絶対零度に人は耐えられないように
絶対孤独もあくまで離人の世界だ
 
氷結しているような孤独でも
人が温もりのゆえに苦しみ
冷たくなろうとすればするほど
冷たさに痛く赤く染まる頬があり
手袋で隠そうとするから
手袋で温(あたた)めている
 
そういう手袋は常に懐(ふところ)の奥に
はにかむように柔らかく用意され
出番が始まるのも終わるのも待っている
 
 
  千巌山・二
 
「血」の果てまで続く復讐
は神様に任せるとして
もう一度ぐらい
行ってみたい 千巌の
お山へ
絶筆かもしれぬ
老人会の落書きを見に
乱暴に刻まれた岩の
下手くそな相合い傘を呪いに
 
景色はしばらく眺めるだけにして
何も書かずに帰って来よう
いずれすべては消されるのだから
もう一度だけ行ってみたい
消えないのは感謝で
消えるのは悦(よろこ)びになる日
 
それぞれの孤独の上に
何も置かない
天と地の山へ
 
 
  氷の泡
 
氷の中の気泡である
身動きが取れない
殻を破ってあげようと
氷を割れば
消滅する
 
氷の中の気泡である
位置は分かるし
見えているようだが
見えるはずはないのである
気泡は空気なのである
 
氷にしたって
求めて取り込んだわけではない
氷は無色透明だ
 
気泡にしたって
望んで入り込んだわけではない
空気は無色透明だ
 
せいぜいできることといえば
出来上がる前の
水や温度と出会(でくわ)したときに
弱いものの常套手段だ
できるだけ小さく
できるだけ多く
できるだけ速く
できるだけ密に寄り添い合って
白い氷にしてやった
 
透かして見ることできないだろう
ざまあみろというわけである
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
地獄に堕ちるのが怖くて、やめたいけど、やめられないというのは本当につらいだろうな。
宗教は違うけど、自分もそういう恐怖心に悩んだことがあるから分かるよ。
>>
紀藤久保内弁護士「私たちはサタンではありません/私たちはあなた方の敵ではありません/家庭連合を離れてしまうと"地獄に落ちてしまう"そう信じてやめられない方がいるかもしれません/でも大丈夫です/家庭連合をやめて地獄に落ちた人はいません」霊感商法対策弁連が集会で呼びかけ
<<
午前7:36 · 2022年9月17日
 
今は、すっかり、悪と偽善が身について感じなくなっていることを、楽山は、前は地獄に落ちるだろうと「恐怖心に悩んだ」が、今は、悩まなくなったと言っているのでしょうか。それこそ、罪悪感の欠如であり、自分の悪に気づいていない証拠になります。最近は、証拠になることが多い楽山です。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
カルト教祖も、この流れになってるかも。
<<
じゅんご
@jungo_FanMarke
9月16日
嘘をつかれたら「信じてあげる」ことです。そうすると、もっと大きな嘘をついて自滅していきます。
<<
午後7:57 · 2022年9月16日
 
楽山の言うことを信じなくても、楽山は「もっと大きな嘘をついて自滅して」ゆくようです。ふつうの作文も、無味乾燥になって、自己正当化と、正常人芝居に、明け暮れているのでしょうか。芝居では、何の改善もしないし、自分を見ない限り、悪と偽善に変わりはないでしょう。
 
批判の目的は、一般の読者に、病質者そしてペテン師である楽山の存在を知らせて近づかないようにしてもらうことと、併せて、楽山の、ネットの言論での居心地を悪くすることであります。したがって、楽山が批判を読むかどうかは分からながら、見ても、いい気持はしないように書いています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
最近は、短い記事を書くことが多いようです。自分でも、まとまらなくなってきて、長い文章を書くのが面倒になったのでしょうか。くどくど、ネチネチと、長文を書かれるより、そのほうがマシかもしれません。いずれにしても、理路のない賛辞が多く、人格の荒廃が進んできている可能性があります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の悪用3
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、自分を省みることもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、否定だと、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストの楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、つまり、悪魔のように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 
楽山は、信仰を日常感覚のレベルにおとしめて、信じる気持ちが勝っているから続けられるなどと言っています。信仰は絆(きずな)であって、日常の当たり前感覚とは全然違います。楽山は、何も知らず理解せず吠えている格好です。
 
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・いつもの嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言は、結局、全ての良心の敵となるでしょう。信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰には不完全という自覚が必要です。
 
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定してきて、ここで「美しい」「感動的」などと肯定しても、嘘吐きですし、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしているので、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、楽山の狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからのです。楽山の、無反省と無責任から、他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用すると酷い目に遭うという悪意のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この3年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が高じて、悪魔性です。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、醜さを重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、楽山の腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
「自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。」・・自我が病的に訂正不能な男というのは、容易に妄想的に短絡し自己満悦に堕ちてゆくのです。そして、決して、自分の非を認めないのも、楽山に特徴的です。また、ブーメランです。
 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の、だらしなさと嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰と妄想自我は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山の虚妄です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを批判しても自分の間違いを認めたことが一度もない、という楽山には、文章を書くたびに矛盾と詭弁が表れてきて、批判してゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約3年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。もっともらしく整えたつもりでも無思慮と無反省は表れてきます。
 
芝居好きの楽山は気安いことを言っていますが「自分の間違いを率直に認めること」は「頑張って」できることではありません。楽山は、今に至るまで、間違いを訂正したことは一度もありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの嘘吐きという病質によるものでしょう。
 
他者に「頑張ってほしい」などと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 
はてしなく空転する因業

はてしなく空転する因業
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月18日、再録+加筆)
 
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外界
 
失意の狭窄に補えるなら
円(まど)かなる空と雲の
意思があるなら
失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
 
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
 
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
 遠い遠い昔
 「一応働いてもらってるから」
 君は笑いながら言ったのち
 求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
  いつのまにか
 
時計がいつのまにか止まっていた
人がいつのまにか死んでいた
そのあっけなさ
唐突さ
忘れることの幸い
忘れないことの不幸
両方味わうのが
尾を引くという鈍さなのだ
その鈍さの表面を
滑らせ
変えられるのは
時間だとは限るまい
長くもなれば短くもなり
味わおうとして
匂いさえかげず
ましてやつかむことも
追うこともできず
五感でとらえきれないまま
意識するときだけ
その人の記憶の中
その人の形で
存在する時間
 
時計がいつのまにか止まっていた
時計で計れない長さを
人はいつのまにか生きてゆく
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
こういう人はいますね。
事実と信仰がごちゃまぜになって、
自分が信じていることは事実であり、
自分が信じないことは事実ではない、
という思考回路になってしまっている宗教信者とか。
「(引用)
「洗脳」された証拠は、「事実認識」よりも「価値判断」先行することだ。
ポリコレを含めて、これは左右に関係なく、共通している。なんでもすぐに正誤、善悪、美醜といった価値判断を持ち出す。
 」
2022年7月17日
 
事実(あること)と当為(あるべきこと)の混同なら、その典型が、人を無視して、自らの意見を訂正不能にしている楽山なのですが、楽山は、自身のことには気づかない病質者です。そして人のことばかり言って、評論家気取りでいるのです。自意識が未熟で成長しないからです。
 
そして信仰においては、「信じていることは事実」ではなく、事実は出来事を言うことが多いから、信仰の真実と言うべきです。信仰における真実とは、体験と学習から否定できなくなったことで、それなしでは生きることが出来なくなるような、心の支えとなる温もりと潤いです。
 
真実こそ、楽山が、ひとかけらも持っていないものです。だから、信仰を、表面的な事実かどうかでしか判断できないのです。楽山の世界には、しみじみとした深い感慨や感動が何もないので、安い三面記事のような文章を書いてきますが、その辻褄には雑言やゴシップが並び、まるで真剣味がありません。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、幸福の科学の教えが裏目に出てますね。
一つは、悪霊に操られたアンチが、幸福の科学の活動を邪魔しているというもの。
もう一つは、信仰は絶対に失ってはいけない。信仰を奪おうとする悪霊のささやきに惑わされるなというもの。
「(引用)
「アンチ」を忌避する2つの状況。
1つは、責任転嫁。失敗の責任をアンチに転嫁する。そのアンチは実在あったり時々仮想敵・虚構だったりする。
もう1つは、同調追求。異見を排除し、同調者の集合で安全安心、形だけの共同体を求める。
 」
2022年7月17日
 
悪霊が付いているかのような楽山は、人のことばかり批判して否定します。自分を見ることをしません。異見を無視して、同調者を欲しがっています。しかし、楽山のような病質者は、自分発信が誰にも見られることなく霧散してゆくことが、公衆の精神衛生上、必要です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
怠慢の砂漠に遊んでいるだけの明日を望めない楽山には、一時の快楽をつないでゆくことだけが命なのでしょうか。暇つぶしのような雑な文章で大きな思想を表そうとして、いつも失敗します。全ては、楽山の因業であり、病質であり、刹那の自己満足を得ようとするので、決して関わらないことが大切です。
 
 
 
 『本好きの下剋上 
  ~司書になるためには手段を選んでいられません~』読了
 楽山日記(a)2022-06-23
  を批判。
 
*面白い
『本好きの下剋上』は大長編なので、はじめは一日1ページずつ、ゆっくり読もうと思ったのだが、読みだしたら面白くて止められず、結局、まいにち余暇時間すべてを投入してしまった。
とりあえず通読したけど、すぐには作品から離れられないので、今は特に印象に残った場面をちょこちょこ読み返してる。これも、なかなか楽しい。
実際に読んでみて、なるほど、本作が大人気だというのも合点がいったよ。 
 
この記事の文章には、楽山の感想文の特徴が表れています。「面白くて止められず」「なかなか楽しい」「大人気だというのも合点がいったよ」・・中身のない褒め言葉だけです。長編と書いてありますが、何を、どう読んで、どこに、どう感じたのでしょうか。楽山の「余暇時間」の空疎が伝わってきます。
 
楽山の感想は、いつも、褒めればよいという気安さだけで、世辞を言うのと同じで、中身が何も伝わってきません。本当に読んだの?・・という疑問も湧いてきます。楽山は、ストーリーや文脈を読み取れないのではないか・・と思われてきます。小学校で叱られたほうがいい文章です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の極悪引用2
 
 2021年07月03日
 『大川総裁の読書力 知的自己実現メソッド』大川隆法著
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
ブログ記事の批判の前に、楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
先日、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、かんたんな感想を書いてみました
顔文字(にやにやした顔)
2021年7月3日
 
揶揄しようという気持ちが顔文字に表れていますが、他者のことを言うより先に、何よりも、楽山自身について、読書力は皆無であることが、今までの記事に表れてきました。自分に都合のよい文言を漁っては、引用して、一切の責任を負わない楽山だということは、何度も書いてきました。
 
楽山には、読解するための理路や、感受するための共感力が、備わっていません。人の読書力を云々する資格は、少なくとも楽山にはないということを申し上げておきます。楽山に反省力がないことが、こういうところにも表れてきます。無反省・無責任では、いかなる言い分も成り立ちません。
 
楽山が、有名人や、学者など、他者を引用して、書いてくるのを、真に受けてはいけません。楽山は、そういう人を、少しも尊敬しておらず、同格みたいな筆致であり、敬意を払ってもいないのです。楽山の引用は、自己愛・自己中からの揶揄のためであり、悪用なのです。
 
 
ここから、ブログ記事の批判に入ります。
 
*印象に残ったところ
ツイッターにて、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、どんなことが書いてあるのかと思いチラ見してみた。印象に残ったのは大体こんなところである。
霊言を再開したのは、元会員のなかに大川隆法は霊能力を失ったという者が出てきたからである
仏教を勉強した結果、高橋信次の仏教論は間違いであること及びそのネタ元もわかった
情報量が増えれば、体系化や見切りができなくなる?
速読できる本とできない本がある。
夏目漱石に霊界知識があれば…云々。
 
「チラ見してみた」と書いているように、楽山には、他者を云々するときの真摯な態度や動機がありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山にとっては、他者は、自分より下で、自分を飾る材料に過ぎません。元信者としての切実な動機など、楽山にはないと思います。
 
なお、楽山は、霊能など微塵も持っていません。何か言えば、破綻し、妄想と詭弁と嘘で逃げるしかなかったからです。それで、苦し紛れに、他者を引用し云々するしかなくなっています。いろいろ引用しても、霊能者気取りの嘘とはこのようなもの・・という例でしょう。
 
 
*思ったこと
以下に、上の論点について感想を書いてみる。
どうやら大川隆法が霊言を再開したのは、「大川隆法は堕ちたので、高級諸神霊からの通信を受けられなくなり、霊言はできなくなった」というレムリアのアマーリエ氏への対抗意識のためだったようだ。
 
楽山らしく、やはり、超常の霊言がらみです。こういうことしか言えないのは、カルトと同じ穴のムジナ、即ち、楽山が、超常霊能者気取りであることを表しています。地道なアンチたちに袋叩きにされても仕方ない楽山です。知らない名前が出てきますが、気にする必要はないでしょう。
 
 
仏教を勉強したことで、高橋信次の仏教論が間違いであること及びそのネタ元がわかったとしているのはおかしい。大川隆法は時々、HSの設定を忘れることがあるが、ここでは自身が仏陀の生まれ変わりという設定を忘れているのではあるまいか。
 
「HSの設定を」忘れずに覚えておいてほしいのでしょうか。楽山は、アンチ気取りですが、今までも、アンチとは思えない超常寄りの発言がありました。恐らく、楽山にとっては、アンチとかも、どうでもいいのでしょう。楽山自身が、人の上に立つ教祖気取りの教え方をしてきたということです。
 
 
情報量が多すぎれば、情報に溺れてしまい、かえって決断ができなくなるという見方もあるが、自分には情報量が多いほど、その構造、本質は明確となり、情報の価値判断も容易になるとする見方の方がリアリティはある。
 
楽山に「情報の価値判断」を任せてはいけません。楽山こそが、嘘と詭弁と誘導と印象操作の発信元です。楽山が絡めば、カルト批判は、自慢話に変わり、真実から遠く離れてゆくでしょう。楽山は、何でも利用するでしょう。人の良心さえも、楽山には、具材なのです。
 
今までの記事から、「情報量」が多くても、楽山には、そして、楽山からは、「その構造、本質」は明確にはなっていません。生まれてくるのは詭弁だらけです。分かるのではなく分かったことにしているだけです。だから楽山の「情報の価値判断」は、デタラメです。
 
 
本には、速読できるものとそうでないものがあるという見解には同意する。本は大別すれば、情報を得るための本と、味わうための本があると思うが、後者は速読向きとはいえないだろう。
 
楽山の、ご自慢の、いい加減な読書観?です。だから、速読したつもりで、その真意を曲解して、自己正当化に当てる・・などということが平気で出来るのです。楽山が、何の情報を得るでしょう。何を味わうつもりでしょう。楽山には、我執の我欲しかないのです。
 
 
夏目漱石はスピリチュアリズムの知識を持った上でそれを捨てていたので、もし霊界知識があれば…云々というのは無意味である。
本書には、他にも論点にできそうな箇所はたくさんあったが、とりあえず今回はこれで一区切りとしたい。
 
楽山は、恐れもなく、夏目漱石のことを、楽山曲解のスピリチュアルとして持ち出すのでしょうか。お仲間だと思いたいのでしょうか。楽山自身も、このように語り継がれるであろうと言いたいのでしょうか。見苦しいピエロは、何も見抜けないのに、論点と言い、分かる超常自慢を捏造しています。
 
 
*おまけ
としつつも、最後に参考として、漱石の言葉を貼っておきたい。
 
つまり、引用だけで、楽山自身は、他に何も言えないということです。能力以上に思い上がった者の、情けない処世が表れています。
 
これは大正四年の畔柳都太郎宛書簡にある言葉である。
私は死なないといふのではありません。誰でも死ぬといふのです。そうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも考へてゐないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石、岩波書店、昭和51年、p.440)
 」
 
楽山は、実は、自分は違うと思っています。でなければ、楽山が、仏様の心が分かるっぽい?という立場にならないからです。スピリチュアル漬けと言ってよいでしょう。漱石は、死後について、楽山の言うようなスピリチュアルについては否定しているように思われます。
 
 
さらに楽山日記の記事から、漱石の死生観がわかる文章をうつすとこういうものもある。
まず意識不明の重体になったときのことについては、こう書いている。
余は余の個性を失った。余の意識を失った。たゞ失つた事丈が明白な許である。どうして幽霊となれやう。
(『漱石全集 第八巻 小品集』「思ひ出す事など」、岩波書店、昭和50年、p.320)
 」
 
丈=だけ、許=ばかり・・と読むのでしょうか。いつものように、楽山は、解説が出来ないものだから、説明も書く気にならないのでしょう。自己中に加えて不精な男です。こういう者がリーダーにでもなったらと考えると背筋が寒くなります。
 
引用からは、漱石は、幽霊を否定しているので、リアリストという感じがします。空想~妄想屋の楽山とは全く違うので、楽山が漱石を読み取っているとは思えません。個性と意識を失ったなどと、なぜ漱石が言えるかが、楽山には、推測できないのです。
 
死について、楽山よりはマシな芝居を、漱石は演じているのでしょう。そうすることで、幽霊じゃないと言いたいのか、幽霊の怖さを退けたいのか、そこは分かりませんが、楽山のように、「死生観が分かる」などと、真に受けることは出来ないと思います。
 
というより、楽山は、引用するだけで、どう評価したかを書いていません。このように、楽山は、大した動機も考えもなく、気安く有名人の言葉面だけをを引用して、悔いることがありません。それで、箔をつけたつもりで、インテリを気取って満悦するのですから、読者には、迷惑でしかないのです。
 
 
スピリチュアルな話にはこうも言う。
假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出來ない。
(同上、p.319)
 」
自分に經驗の出來ない限り、如何な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
(同上、p.320)
 」
私がHS会員だったころは、夏目漱石は菩薩とされていたように思うのだが、HS的には今はどういう評価になっているのだろうか。
 
假定=仮定、然したゞ=しかしただ、・・でしょうか。楽山は、アンチを気取っていますが、実際には、「漱石は菩薩とされていた」など、HSの見なすことに影響されたり、霊言と言ったりして、むしろ、アンチではなく、香具師的なインチキ霊能者ではないかと思うことがしばしばです。
 
(ネットより)
香具師(やし、こうぐし、かうぐし)とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師[1]とも表記する。的屋(てきや)や三寸(さんずん)とも呼ばれる[2]。
 
漱石は、幽霊など超常不思議を夢見ることを、信じたり、賛成したりは、できないと言っています。なのに、楽山は、菩薩云々と書いているだけです。何も読み取っていないから、解説がまるで成り立っていない楽山です。いい加減にしてほしいです。
 
 
混濁 陰気

混濁 陰気
 
 
(2021年)
(2022年07月09日、再録+加筆)
 
 
 
  選択
 
ここに二つのボタンがある
一つは
「読み方が悪い」と言うボタン
もう一つは
「書き方が悪かったのでは」と考えるボタン
もし君が書く人なら
どちらのボタンを先に押す
 
ここに二つの刃物がある
一つは両刃の剣
人を斬るときには自分も斬ることになる
もう一つは片刃の刀
人を斬ることにしか使わない
もし君が斬る腕を持っているなら
どちらを選ぶ
 
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
 
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  うたた寝の先
 
うたた寝の中に
忘れてしまった夢がぎっしり詰まっていて
体が重く感じられ
ふと星がよぎるように
身近な人の訪れさえ
ときに驚きに似て
 
こういう人がいて
どういう関係がある
関りはいつも違う事情にあって
その日その時一回きりであるのに
相対する人は疑うことを知らぬかのよう
そのように思慮はあいまいな現実で
そのくせ指示は明確な夢のよう
そういう混濁した明証性の先に
張られた綱の上を
この日一日と渡っていく
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
現代ビジネス
@gendai_biz
·7月3日
〈私たちは、自分が知らず知らずのうちに持っている思い込みをもとに、それに合う事実を無意識に選択して認知するからです。そして、無意識に選択した事実を頭のなかに取り込んだうえで、「ああやっぱり自分の思っている仮説は正しいんだな」と自分の信念を強化します〉
午前7:14 · 2021年7月3日
 
引用元を批判するつもりはありません。他者の言を悪用する楽山を批判します。
 
楽山は、「知らず知らず」ではなく、「事実を無意識に選択」するのでもなく、故意に事実を選択し曲解して、「選択した事実を頭のなかに取り込ん」で、信念の強化ではなく、偏見と妄想を捏造して、捏造した正義気分に酔い痴れるのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
返信先: 
@komo266
さん
さっそく、この人は、これまでと同じことを繰り返してます。
ついさっき、私が、この人のツイートの難点を指摘したら、すぐにそのツイートを削除し、逃亡しました。
引用ツイート
★こも/楽山日記3
@komo266
 · 21時間
風刺画にノーと言うのは自由でしょうけど、他人の書いた絵を流用するのは著作権侵害の可能性があるでしょう。
また後から、バツ印を加えたなら、他人の創作物を改変したことで、これもダメでしょう。
これらはツイートのスクショよりヤバいです。お気をつけ下さい。
午後11:39 · 2022年7月6日·Twitter Web App
 
楽山は、批判されると、弁明することもなく、完全に無視してきます。卑怯で、罪悪感なき逃亡者です。元々議論など出来る人ではありません。検証可能な理路はなく、言っていることは、当たり前の通念的なことか、偏見か、でなければ、嘘と詭弁です。何も新しいことは言えない人です。
 
「著作権侵害」「創作物を改変」などと言っていますが、通らない理路と学者気取りで、人をだましてきたのが楽山です。読書感想文でも、聖書を読んでも、白々しい褒め言葉か、偏見に満ちた悪口で、深みを汲み取ることが出来ず、それで批判したつもりになるような自己満足疾患です。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
自他未分化の楽山は、引用と自分の意見の区別がつきません。他者の都合のよい意見を自分の意見のように言っているうちに、自尊が妄想的に増してきたのでしょう。また、一方、だんだん他者か自分か分からなくなる自我同一性障害から、倒錯へ、そして、人格崩壊~破綻に至るかもしれません。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  有名人を悪用する楽山3
 
 『人は、なぜ他人を許せないのか?』中野信子著
 2020年06月14日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
楽山の偽善性:今までに表れてきたこと。
1.自己愛が強く自己中である。
2.後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。不感不応。
3.議論や交流が、できないし、する気がない。
4.反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
5.キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込んでいる。
6.ボンヤリ言語:直球ではなく、曖昧で婉曲的な言い方をして印象を刷り込もうとする。
7.平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
8.相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。
9.深い情感がなく、共感性がない。
10.理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
11.学者・批評家・読書家気取りで、分かっているという我執から離れられない。
12.罪悪感、羞恥心が見られない。不感不応。
13.トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。
14.アドラー心理学の宣伝をしていた。その影響が抜けていないと思われる。
15.HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
16.霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
今回も、楽山は、学者気取り、読書家気取り、インテリ気取りの、醜い婉曲的嫌がらせだけで、何の反論にも弁明にもなりません。また、有名人の記事を悪用しています。つまり、字面だけ、都合の良いところだけを引用し、箔を付けたつもりで、もっともらしく見せかけています。
 
 
中野信子氏の著作は何冊か読んだことがあるが、どれも面白かったので今度は本書を読んでみた。やっぱり面白い。その内容は自分の理解ではおよそ次のようなものだ。
 
以下のようなテーマを「やっぱり面白い」と言う楽山は、やっぱりおかしい、と思います。興味本位で話のネタにしても、加害者は、ことごとく、楽山に当てはまるからです。
 
 
誰かの加害行為によって被害を受けたら、それに憤りを覚えるのは当然である。しかしネット上においては、有名人の不祥事などに対して、自分は直接被害を受けていなくとも、当事者とは何の交際もなくとも、激しく怒り、攻撃的な書き込みを執拗に続ける人たちがいる。なぜそのようなことになるのか。その一因としては、人は「他人に『正義の制裁』を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質であるドーパミンが放出され」るということが考えられる。「この快楽にはまってしま」うと、いつも他人を攻撃せずにはいられなくなり、「いわば『正義中毒』」のような状態に陥ってしまうこともあるのだ。こうなると「自分と異なるものをすべて悪と考えてしま」いもする。
 
憤りを覚えるのは当然と書いていますが、ならば、楽山は、なぜ、憤って書いているこちらの、上の箇条書きに結び付く指摘をしている批判に答えず、無視して、婉曲的な記事ばかり書いて、当てつけてくるのでしょう。やり口が卑怯で汚い楽山は、また、斬ったつもりで、斬られています。
 
こちらからの批判とは関係ないと楽山が仮に言ったとしても、こちらが書いた批判の後、批判に関係のあることを、他者の文章を引用~利用して書いてくるという自己正当化のための作為的な当てつけの特徴が出ています。当てつけしか出来ない楽山です。
 
楽山は、"正義中毒"と書いていますが、正義は中毒なのでしょうか、否、本当の正義には反省機能があるので、実際は、中毒ではありません。偽の正義は、楽山が、今、有名人の本をネタにして書いているこの記事のことです。"自己中毒" とでもいうべきものです。
 
楽山の、慢心や自己中こそ、正義の振りをして、中庸の振りをして、実際は、キリストと神を幼稚な疑問のまま貶めてきた偽善であり反キリストなのです。楽山は、自分で理路を組み立てることが出来ません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴が今までも表れてきました。
 
楽山は、この記事で、批判している奴は正義中毒じゃ・・とでも言いたいのでしょうか。批判を無視して、他者の口を利用して、当てつけを書き続ける楽山こそ、正義に見せかける自家中毒です。楽山の毒は、他者を疲労させ、かつ、加害者の楽山自身を、いっそう、腐らせ、破壊してゆきます。
 
それが、反キリストで偽善者であるシャロームの、"罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい"、という反キリストの信条に無条件賛同をするという経過になっています。キリスト信仰とは、真逆の信条で、これが、シャロームが、偽キリスト者、偽牧師であることの証拠になっています。
 
この記事もですが、楽山の正義は、本当の正義ではなく、自己正当化の保身に過ぎず、自我への執着のために、正面を向いて答えられず、他者の意見を悪用するという卑怯な経過が続いているのです。楽山の企みは、有名人を引用し、評論家の筆致に似せて、気取って見せている醜悪な詭弁であります。
 
楽山は、批判と悪口の区別が出来ず、自分と異なる意見、また、自分に対する批判を、総て悪と考えて無視します。そして、有名人まで利用して当てつけのような記事を書きますが、それが悪である根拠を示したことがありません。判断の基準が、楽山自らの快楽原則にしかないからです。
 
 
ここから抜け出すには、どうして人を許せなくなってしまうのかという「脳の仕組みを知っておく」ことが肝要である…云々。この後著者は、正義中毒と脳の働きとの関係を説明し、その予防と対策についていくつもの提案をしているのだが、これについてはネタバレになるのでここでは控えておく。
 
楽山は、脳の仕組みを知る、という、たいそうなことを、さらっと書いて、予防と対策などと言っていますが、肝心の中身は、今回 "ネタバレ" などという俗語を使って、書こうとしません。以前、"神通力" とかについても許可制などと言って同様でした。楽山に著作権はないのですが。
 
有名人の著作であり、自分が書いたわけでもないのに、どうして、ネタバレを気にするのでしょう。恐らく、楽山は、他者の者と、自分のものの、区別がつかないのだろうと思います。他者の文章が都合がよいと利用して、自分が書いたような幻想に生きているのでしょうか。
 
つまり、自他未分化が見られ、付随して、本についても詳しい理路を理解していないか、秘密性で気取るのが好きなだけだと思います。結論だけ当てはめても、引用するだけ悪用になり、無駄なのです。自身の言に説得力の無い楽山の策略に過ぎません。
 
 
自分にとって本書中で特に面白かったのは次のような意見だった。正義中毒は特定の誰かに限ったものではなく、「人間である以上、どうしようもないこと」であり、誰もがそのようになりうるということ、近年の研究によって、保守かリベラルかは先天的に決まっている部分がないとはいえず、いわば生まれつきの保守脳、リベラル脳といった分類は不可能ではないことがわかってきたということ、
 
楽山の理路は、どうしようもないことは、どうしようもない、誰もが成りうる、先天的に決まっている部分がある、生まれつき、などという、その中間にあるものを考えない短絡なのです。どうしようもないことなら、近づかないことですが、その対象は、まさに、楽山であります。
 
分からないことを保留に出来ず、分からないと言えず、何でも分かっている自己愛によって、場当たり的に、バタンバタンと薄板を叩いて当てはめるような雑な思考で、結論を書いて、ひと仕事したかのように満悦してゆくのでしょう。
 
"決まっている部分がないとはいえず" というボンヤリ言語ですが、曖昧ながら、印象付けるために、その場で、のぼせて書いてくるのは、曖昧でも、当てつけと刷り込みには十分という計算があるのか、今までも繰り返されてきたのです。
 
自己愛性人格障害の楽山は、こういう印象操作や刷り込み的な物言いしか出来ないのです。自らの独創性で書くことが出来ず、理路と共感の貧困な楽山の中には、暫定的にも確かに主張できるものが、何も無いからでしょう。発想できない貧困が、病質の思い上がりだけを持っていることになります。
 
 
脳には正義中毒を抑制する働きをもつ部位があり、それは25~30歳頃に成熟し、加齢とともに脳の他の部分と同様に衰えるものであり、これはキレる高齢者、暴走老人と呼ばれる人々と無関係ではないこと、
 
"キレる高齢者、暴走老人" とは、読んだ本では一般論であったとしても、楽山は、老人である私に批判されているという経過において書けば、恐ろしく侮辱的な当てつけになる、ということを狙っていると思います。逆らう者には病名を当てて貶める楽山の処世なのです。
 
楽山の病質から、こういう言葉選びに、自己愛と他者侮蔑の症状が出てしまいます。つまり、反論も弁明も出来ないために、楽山は自身に対して批判する者を、異常者としてしか見れないのです。丁寧語の裏に隠された楽山の悪意が、今回も表れています。加害性として重症だと思います。
 
表面だけ丁寧な言葉を連ねても、引用とはいえ、このような言葉を選び、使うところに、楽山の、決して穏やかではない原始的で暴力的な体質・情動が表れます。引用し丁寧語で婉曲的に書いたことで責任回避しているつもりの一種の罵詈雑言なのです。
 
つまり、またしても、自己中で無反省で、引用元を含めて他者の迷惑などは、いっさい考えない楽山の厚顔無恥が表れています。丁寧だが、暴力的、ということがありうるという例です。そのような例がもたらす悪は、暴言以外にも、白々しい偽善や嘘や当てつけがあるということです。
 
 
脳の機能にはネガティブフィードバックというものがあり、他を攻撃すればそれを抑制しようとする働きがあること、同一人が正反対または矛盾する価値観を持つことがあるのは、社会的な価値観の大変化があった場合に対応するためではないかという仮説があること…などだ。
 
フィードバックなど、抑制機構は、価値観の大変化に対応するためでしょうか。個人の、生存のための日常的な他者との人間関係の学習などが関係しているのではないでしょうか。話を大きくして、正論に見せかけています。
 
楽山の筆致の特徴として、自分を除外して、大方、受け売りから、単方向に執着して誇大的になる傾向が認められます。冷静な学問なのだと見せかけたいのでしょう。
 
概念の字面だけを追ったような書き方です。フィードバック、矛盾する価値観、攻撃と抑制、というような、抽象的な、それだけでは中身の具体性・現実性が乏しいような高尚に見える書き方を、楽山は好むのです。そして、それで辻褄があったような専門家気分になって満悦するのでしょう。
 
だから、楽山の文章には、説得力が無いのです。うっかり、なんとなく、鵜呑みにして、褒め言葉など書いてしまうと、疲労だけを味わわされる地獄が待っています。
 
 
自分は、他人を批判した後に、もの言えば唇寒し秋の風という気分になることは多いし、
 
嘘です。執拗に、中身の無い自説を、他者の本の言葉を借りてまで、書き続けることは、そのような恥を知っている人なら出来ないはずです。楽山は、明らかに違います。同情をひくための、トホホ言語の典型で、つまり、常套手段としての、嘘の芝居なのです。
 
やんわりでも、きびしくでも、否定は否定、当てつけは当てつけ、嫌がらせは嫌がらせなのです。見た目は控えめに、中身はドロドロ、という偽善者が使う口車です。"キレる高齢者、暴走老人" という楽山の言葉の選択に、楽山の凶暴になりうる攻撃性が潜んでいるのです。
 
 
保守とリベラル、有神論と無神論、唯霊論と唯物論といった正反対の思想、価値観のどちらにも共感してしまうこともあるので、どうして自分はこうなんだろうと疑問に思うこともあったのであるが、
 
楽山は、どちらにも共感してしまうなら、矛盾ですから、書けないはずです。その時その時で、好きなように書いている自分の精神不安定と厚顔無恥に気づいていない楽山の愚痴です。これも自己正当化のために同情を誘う詭弁屋の、芝居がかった嫌らしい "トホホ言語" の三文芝居なのです。
 
 
本書によればどうやらこれはネガティブフィードバックだとか、価値観の大変化に適応するための生存戦略という面があるということらしい。
 
ネガティブフィードバックは、調節機能だと思いますが、生存戦略ではなく、反省の向上の動機になることです。説明抜きで、そう言うだけで、楽山は、満足するのでしょうが、嘘です。楽山の価値観は、ずっと、我欲に他なりません。
 
こういう分かったふうだけのきれいごとは、偽牧師シャロームshalom の大仰な誇大言語の筆致に、よく似ています。楽山やシャロームや易坊などの易坊類と呼んでいる者たちには、一人による成りすましの疑いを持っています。
 
 
終戦時、日本の勝利を信じていた熱心な愛国者のなかには、自決したり、発狂したりした人もいたというし、これから類推すれば、相反する価値観を同時に持つというのは、価値観について社会的な大転換があった場合に備える生存戦略としては確かに有効ではありそうだ。
 
楽山の、まとまらない言論を、こういうことで正当化できるものではありません。楽山は、相反する価値観を包含するような、いかなる言論も持ち合わせてはいません。どちらにも無責任で無反省であることが、うんざりするほど、表れてきたのです。楽山は、刷り込み屋であって、言論者ではありません。
 
楽山は、反省と学習を経ていない分、思想も言葉遣いも、未熟で、いい加減です。ここでは、また、短絡して、「相反する価値観を同時に持つ」というアンビバレンスか統合失調的な結論を書いて満悦し、疑問を感じないようです。
 
楽山は、"相反する価値観を同時に持つ" という字面だけを受け取って、批評家気取りで、自分もです!、有効ですね!、という気になって、辻褄合わせだけの満悦気分に浸っていますが、矛盾した言動の正当化と、相反する価値観の受容は、全然、違います。
 
相反する価値観とは、楽山のように両方持ってふらふらすることではなく、結局は、あらゆる価値観を、絶対とせず、訂正不能とせず、相対化して学習可能としておくことでしょう。自己中という訂正不能の単方向に固執する楽山とは、正反対の考え方です。
 
 
本書のおかげで、自分の心の動きについて長年に渡って疑問に思っていたことについて解決の糸口を見つけたようでうれしい。
 
何も解決していませんし、糸口さえも、楽山は、勘違いしているようです。このように、本を読んでも、そのたびに、勘違いし、誤読し、曲解し、偏見を強化して、妄想化して、決めつけて、自己満足して、独りよがりの思いこみを深めてゆくだけの楽山です。
 
 
それにしても、人というものは、脳の機能、適者生存といった視点から見ると、本当に面白いものだ。道学者的な視点からこのような問題を論じれば、「精神修養が足りん!」ということで終わってしまうのであるが、人を生物として見れば人をより深く理解できるし、さまざまなことを考える切っ掛けにならないとも限らないということなのだろう。
 
楽山は、何を面白がっているのでしょう。人を生物として見れば、と言っていますが、今まで、どう思っていたのでしょう。楽山は、人を無生物として、物として、見てきたのでしょうか。それとも、人間が厄介だと言いたいのでしょうか。非人間性の辻褄合わせが表れています。
 
生物として見れば、深く理解できるのでしょうか。違うと思います。楽山の言は、何の切っ掛けにもならないと思います。人は人です。人として生きたくないのでしょうか。脳科学の本を読んで、いや、眺めて、何を受け取ったつもりでいるのでしょう。空恐ろしいものを感じます。
 
「切っ掛けにならないとも限らない」・・こういう婉曲表現がボンヤリ言語の典型です。楽山は、謙虚のつもりで、随所に書いていますが、中身は同じであり、無理解で無意味の責任逃れにしかなりません。楽山自身の人格崩壊の切っ掛けになってゆくでしょう。
 
 
自分は元来、道学者であり、精神論者の傾向は強いのではあるが、唯物論のこういうところは有用だとつくづく思う。
 
道学:
(ネットより)
1 道徳を説く学問。また、道徳を学ぶこと。
2 儒学。特に、中国宋代の朱子学。宋学。
3 江戸時代の心学(しんがく)のこと。
4 道家の学問。道教。
 
楽山のどこが学者なのでしょう。楽山は、道学と、体の良い "学" をつけても、道徳を学ぶことなどしていません。また、楽山は、いかなる論者にもなりえておらず、いわば見栄張りと遠吠えだけです。だから自尊と保身のために、ボンヤリ言語を、まるで体質のように多用し、平気で嘘を吐くのです。
 
楽山の言論は、嘘と飾りの化粧くずれです。中身がないから、失敗して、病識もなく、それこそ、精神が、小梅太夫かチンドン屋のような、ふざけた装いになっているとしか思えません。道学というより道化であり、誰にとっても有害無益なチンドン屋だと、つくづく思います。
 
 
まとものつもり?ちんどん

まとものつもり? ちんどん
(ちんどんは、チンドン屋が安い宣伝でチンチンドンドン鳴らす擬音語でしょうか)
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年07月05日、再録+加筆)
 
 
 
  美しい表情
 
人間の表情の中で一番美しいのは
笑顔だと思っていたことがある
しかし愛想笑い・軽薄な笑いや
悪意に満ちた笑みもある
嘲笑や
謀(はかりごと)がうまくいったときの
ほくそ笑みなども。
 
どんな無益なことでもいい
仕事・学術・研究と呼ばれなくてもいい
何かに夢中になって
興味と
苦悩の色さえ入り交(ま)じった
一途なときの表情が
今は一番美しいと思っている
 
大真面目な漫画の落書き
誰にも読まれない滅裂な文章を書く夜
血が上り巡り巡る孤独な机上の空想は
冷血の川下へ寒く流されて
賽(さい)の河原の石積みに崩れながら
なおも求めつづける熱意によって
直(ひた)向きに凍り続ける顔
 
本当の楽しみは
誰からも与えられず
誰にも見えないもの
冷血の俎(そ)上において燃え上がり
常同行為のうちに焼け落ちる作業場だ
 
 
  知識と視野
 
知識が乏しくて視野が狭いと思っている人、一面的な知識しか持っていないために視野が狭いと思わざるをえない人は幸いです。何故ならこの世には自分の知らないことがたくさんあると思わざるをえないが故にこそ自分の視野の外に無限の未知の空間・キャパシティを残しているからです。
 
全知でも全能でもない人の知識・知恵・視野など、たかが知れています。人の視野の狭さを指摘する者の心の中には、相手より自分の視野が広いという思い上がりのようなものを感じます。
 
視野は
その狭さを痛感しているとき最も広く
少しでも広いと思ったり
狭さを自覚しないとき最も狭い
 
私に誇れるものがあるとすれば
私の知恵と知識の乏しさの自覚であり
私の視野の狭さであり
私の愚かさであり
私の不信仰であり
私の信仰である
 
 
  自信
 
かつて
思い上がりや
うぬぼれなら
体験したことがあるが
自信というものを味わったら
どんな気分になるのだろう
 
キリリと座しているコンピューター
今は何も映さぬディスプレイ
ディスクの中には山ほどの情報が
壁を作っておさまっている
 
朝になったら
いろんな人達がいて
おしゃべりや
物忘れをします
 
謙遜と自信
オペレーティングシステムの上で
ソフトな対話
電源を入れれば
カラフルな画面の上で
動きまわるソフトウェア
 
小さな扇風機がこちらを向いている
お前は回るだけだだったな
まわりはハイテクがいっぱい
 
お前は居眠りするだけだったな
まわりは複雑な自信がいっぱい
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
記事、読みました。「死人に口なし」ということを連想しました。立花隆氏とご遺族に同情します。
幸福実現党には、こういう死者を貶める恥ずべき行為には毅然としてノーといえる正義の政党であってほしいと思います。
午後1:10 · 2021年6月26日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1408638768739799040
 
「死人に口なし」「死者を貶める恥ずべき行為」と書いていながら、「正義の政党であってほしい」これ、アンチHSのスタンスでしょうか、希望を申し上げる書き方になっていると思います。幸福実現党の総裁はOR、つまり母体はHSでしょう。心ない楽山の、虚言に心なしでしょうか。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
mi-mollet/ミモレ
@mimollet2015
·6月15日
心に深い傷を残す、親に虐げられた記憶――。大人になってなお、そのトラウマに苦しむ人は少なくないといいます。
「毒親」でも介護するべきなの?
しんどい親子関係を今すぐ終わらせる方法とは
午後1:26 · 2021年6月15日·Twitter Web App
https://twitter.com/mimollet2015/status/1404656537159700480
 
引用元を批判するつもりはありません。引用した楽山を批判しています。
 
楽山のような病質、即ち、心に深い傷を残す自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の加害は、徒労と疲労と、ネットだけでなく人間を信じられなくなるトラウマを与え、全く気にすることなくキレイごとを言い、もてあそんで笑うことです。
 
楽山のような慮外者に、自らの人権と尊厳を踏みにじられてはいけません。害毒となる悪しき人間関係からは、直ちに逃げるべきです。自分を守るために、楽山を相手にしないでください。決して楽山に関わってはいけないと思います。
 
楽山は、批判されると、批判者を、"善魔" と言っていましたし、また、"正義中毒" と呼んでいます。善は、魔でしょうか。正義は、中毒でしょうか。それについて詳しい説明が、楽山は、全く出来ないのです。人間に分かる根拠を、霊能者気取りの楽山こそ、善魔そして正義中毒だからです。
 
誰よりも、楽山こそが、偽善者、善の仮面をかぶった悪魔性、すなわち、善魔、そして、逆らうものを、正義中毒と呼んで、呼ぶだけで、何も説明できない不全の者です。楽山は、だますための詭弁だけで、整った理路を持ちません。丁寧語に、だまされないでください。
 
楽山が、善魔と言い、正義中毒と言っても、妄想話、超常話、批判を無視した自己正当化などを書いても、楽山自身が根拠のある反論も弁明も出来ません。こういう欠落の経過が、逆に、楽山が詭弁屋であることを示しています。楽山は、善ではなく魔であり、正義ではなく自己中毒です。
 
つまり、楽山の言は、他者に言ったつもりでも、ブーメランのように自分に返ってきます。そして、そのことが表すのは、無反省・無責任の、善の見かけの魔、そして、正義を中毒におとしめる偽善者、楽山です。このようなブーメランは、楽山が、でっち上げの正論を書くたびに起こってくるでしょう。
 
楽山が、いくら、目新しい学術みたいな用語や、善魔、正義中毒、などと言っても、そこに、根拠という実がないのです。NPDの楽山は、靄(もや)のような言辞で、理路をごまかし、詭弁と誘導をもって、嘘っぱちで無責任な楽山の詭弁を刷り込んでくるだけの地獄の木っ端役人です。
 
 
楽山が、いくら論理ぶった書き方をしても、自己愛のために、冷静な理路にはなりません。だから、見栄を張って、学者を引用し、見かけだけ学問を気取ります。実際には、楽山は、学問より、超常話が好きですが、自己愛者だから、のめりこんで、現実離れして、膨張して、破れてゆくのです。
 
楽山には、しんみりと悲しんで自分を悔いて振り返るような高等感情がありません。同様に、罪悪感や、羞恥心や、共感や、反省する心がありません。ゆえに、言葉だけの同情や卑下を繰り返します。トホホ、反省、共感、胸に刻んで、・・などです。言葉だけなので、正体を知ると吐き気がします。
 
楽山は、遣り取りが核心に触れると矛盾が噴出します。否定を言い、肯定を言ったから、責任問題は発生しない、と言って、非常識が信条?~妄想なっているので、無反省、無責任です。楽山に、だまされ続けると、以上に述べたような、楽山に似たような他害的な崩壊人格になってゆくでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、謙虚芝居を書いても、自分が正しいという自己愛妄想がベースになっていて、自分を正すことが出来ません。既にバレています。代わりに、他者の人格を破壊する方向に嘘と詭弁を弄する加害者となっています。楽山のイメージとして、狐のような、しかも、陰気臭いニヤケ顔を想像しています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
これは、その通りですね。
ゴリ押しは奪う愛なので、人は逃げて行くのでしょう。
 
「ゴリ押しは奪う愛」・・ごり押しの、どこが愛なのでしょう。ゴリ押しすれば、それは愛に反する圧力です。どうして「奪う愛」などと楽山は言うのでしょう。楽山自身に、愛のつもりで奪ってきた履歴があるのでしょうか。今も続いているのでしょうか。
 
楽山は区別できないようだが「ごり押し」は、自己中が、よかれと思って押し付けてしまう偽善です。愛に反することであり、愛の要素は少しもありません。楽山が、また、軽薄な判断をして、言語の未熟を表しています。楽山からは、早く逃げてください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  安楽の果て2-2
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
  を改めて批判2
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己愛によって、有名無名お構いなしに、俎上に置いたつもりで語りますが、結局、みじん切りにされるのは、自己顕示欲だけのペテン師そして偽善者の楽山のほうなのです。楽山が書くたびに起こる現象となるでしょう。
 
 
自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、
 
今までの記事から、楽山は、誰にも共感したことはないと思います。みな、楽山が自分を飾るための嘘です。遠藤周作は、私が、一部、読んだ著作からも、神からも、教会からも、乖離した信仰だったわけではないと思います。
 
「遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていた」と言いながら、そのキリスト教も信仰も、全く理解していないから、読者に理解できるように説明できないのが、楽山です。こういうことから、もはや、思い上がりからの飾りに過ぎないということがバレているのです。
 
同氏は、著名な小説家ですから、人間の立場から考えるのは当然でしょう。それは、同氏の器としてあるもので、いかに楽山が共感すると言っても、嘘吐きの楽山の発達不全の器では理解できるものではないということです。このように、病質者は、嘘の報いとして、いたるところで否定されます。
 
楽山という我執による短絡魔が、宗教から、文学まで、何か、見なして決めつけたいようだが、度外れた無理解の誇大妄想から、誰よりも自分を真っ当に見せかけようとして滑り続けるという破廉恥を、さらしてゆくだけです。自己愛者は身の程を知らない、という症状に過ぎません。
 
 
それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 
「日本的に再解釈されたイエス」と言って切り捨てているところで、いかなる器も縁の無い楽山の言は終わりです。キリスト者の共感ということが分からない楽山は、有名人も侮辱するような、傲慢で、かつ、それを "気にしない" だけの、無視の鈍感を持ち合わせていることを、自分で漏らしています。
 
今まで、有名人や学者の名前を、自分の満悦や快楽のためだけに、好きなように、見なし、悪用して、"気にしない" 楽山です。思想と言論の邪気として、追放されるべき人格でしかありません。舌足らず、ではなく、心無い楽山の、悪あがきであります。
 
反省力や責任感という最小限の節操さえ持たず、身の程を弁えない楽山は、社会人として成り立たず、言論者としてはワームかバグという回路の混乱を招くだけの虫です。したがって、いかなる真実追求の思想にも議論にも、参加する資格はないのです。人間として成り立っていないからです。
 
実際、楽山の言は、日常会話のゴシップ以上の深みを持っていませんし、そのような恣意の罪業(ざいごう)だけを、発言・発信として、もたらしているだけの、煩わしい自己循環性のモノローグに過ぎません。執拗な欲望くずれの因業だけで投稿を続けています。
 
 
人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。
 
「純粋なキリスト教は知り得ず」と思うなら、書かないことです。自分だけは、高所大所にいて分かるんだと言いたいのでしょうか。その実質は、フケほどもない質量なのです。欺きの軽口、そして、罪悪感の欠如が表している楽山の正体であります。
 
人間は、神ではないのだから、完全性と純粋性の総てを知ることは出来ません。まさに、信仰がそれを教えています。人間には、人間の弁えるべきことがあります。その不完全の自覚にこそ信仰の中心があるのです。楽山は、受け入れることも考えることもしない、怠慢粘液の、伝染性ジュクジュク発疹です。
 
楽山は、無理な辻褄合わせをしているようです。「そのまま受け入れる他ない」・・・楽山が、いったい、何を受け入れたというのでしょう。楽山が受け入れてきたのは、まるで実感の無い、賛同と、世辞と、褒め言葉と、ごまかしなさいという悪魔の誘惑だけです。
 
いかなる文化を通しても、自己愛性人格には、宗教の是非など分かりません。根底から、宗教を見くびって、言葉の恩恵を、慢心だけで、超えたつもりになっている短絡志向の楽山だけが「是非を論じても仕方なく」なっているだけのことなのです。楽山の、ただ一言も、正当な意味などありません。
 
今に至るまで、宗教の是非とか理路とかを、外し続けているのが、楽山その人です。しかも自覚がないから、学習もせずに、書物や学者の名前を出しては、読解不能・説明不能の自我に、いつも、慢心を塗りたくって、見せびらかし、その結果、救いがたい有り様を呈しているわけです。
 
弁えるどころか、あざ笑うように、宗教を机上でもてあそんできた楽山が、宗教について、受け入れる気もないくせに、幼稚な見方で、宗教理解を是非の論外のように言っています。病質者というのは、ここまで外れて、自己正当化してしまう、ということが分かります。楽山に分からないだけなのです。
 
個人の事情によって異なる部分がありますが、そのことと矛盾なく、共有できるところがなければ、宗教も信仰も成り立ちません。楽山は、実際に信仰に救われた人々がいることを無視して、自らの成り立たないことを、自らの不遇の怨念の反発で、望み、言い張っているに過ぎません。
 
楽山の、嘘八百の言論力で、だまされる人はいても、活躍できる仕事場は、どこにもありません。せいぜい、インチキ占いで、悩める人から、金銭を巻き上げるくらいしかないでしょう。ネットだから、まともそうなことを言って、いい気持になっていられるなど、鼻つまみの醜さに他なりません。
 
 
*イエスの教え
とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。
 
こちらのほうが二千年前のことだから、いっそう確定できない、ということを、楽山は、分からないために、「やっぱり気になる」などと軽口で言う始末です。小学生レベルの欲望でしょう。これで、中庸な宗教と信仰を説くつもりなのです。自分の罪の問題さえ、考える気のない楽山の空転です。
 
「どのような教えを説いたのか」ということは、聖書に書いてあります。楽山は、そのレベルでも、聖書を、まともに読んだことはないと思います。宗教、特に、キリスト教について、楽山の言うことを信用しないでください。楽山が、キリスト教を語るとき、その目的は否定と侮りだけです。
 
 
 (▼不勉強の楽山の無知がバレています。▼)
 
関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 
誰によるもの?という意味はありません。新約聖書にパウロの名が多いから、あるいは、そう聞いたから、言っているだけです。安い見なしが、楽山の常套手段です。実質となる見解など、何も用意していないことが、今まで、嫌というほど明らかになっています。
 
楽山は、教えについて述べず、誰によるものかに興味があるようです。洗礼者ヨハネといい、使徒パウロといい、イエス独自ではない、という、教えそのものを理解してない楽山の、安っぽい、いちゃもんに過ぎません。聖書から、何かを学ぼうという気が、元々ないからです。
 
楽山は、自身の未熟人格によって、すべてがイエス独自の教えでなければならないという子供じみた条件を付けたいのでしょうか。イエスは、公生涯以前に、律法や戒律について、知識と、その実情を見て学んだであろうという解釈が、楽山には出来ないのです。尻を拭く紙さえ見つからない楽山です。
 
パリサイ人の戒律主義と対立して、イエスは、人間の心に寄り添い、心と命を生かす信仰を宣べ伝えたことが、楽山は、知識として入っておらず、学ばないままで、文句を言っているのです。人頼みの、受け売りの、安っぽさが、随所に臭ってきます。誰の糧にもならない楽山の言です。
 
律法を、廃するためではなく、成就するために来た、という、イエスの言葉(マタイ5:17)も知らないようです。ゆえに、昔から安息日というものがあったけれど、安息日が戒律となっていることを批判して、イエスは、人の子は安息日の主である(マタイ12:8)と言ったことも知らないのでしょう。
 
事前に調べるということをしないのでしょうか、思いつきで書いているのでしょう、楽山は、何も勉強しないで、文句を言って、キリスト教を否定しています。怠慢の上で、慢心する楽山です。
・・うわぁ、呆れる・・とでも言うべきで、底が知れる・・楽山、最低です。
 
自分では大事なことを何も言えないために、大昔のことですから、誰が書いたかについては、正しいとも間違いとも言えないことを利用~悪用して、漁って拾ってきたらしいことを書いて、否定したつもりで満悦している楽山であります。
 
上の聖句は、キリストの使命に深く関わることです。楽山は、聖書を、全く理解していないことが明らかです。それで、キリスト教を否定して、どうするんでしょう。楽山に学べとでも言いたいのでしょうか、永遠にありえないことです。毎度、怠慢からの愚かさだけを公共に垂れ流している楽山です。
 
また、他者の言うことを持ってきて、けなしていますが、楽山には、全く独自性がないという表れなのです。「・・によるもののようであるし」「だとか」「ともいう」・・この情ない曖昧な愚言は、おとしめ、けなし、否定する、という目的だけで書いてくる欠陥人間の筆致として資料になります。
 
 (▲楽山が無知であることの証拠になります。▲)
 
 
果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。
 
キリストと、釈迦を、楽山が、十把一絡げと見なしていることが表れています。こういう人なのです。何も分かっていない、にもかかわらず、何でも分かっているふうを装う芝居、何度、見せられてきたことでしょう。自己愛性人格障害、もはや、人間性の大部分を損なって、不治となっているようです。
 
 
*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。
(同上、p.214)
 」
人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 
絶対でなくても、個人が生きる上で、必要とするものがあり、それに答えるのが宗教であり、それを、縁(よすが)とするのが信仰であります。キリスト信仰は、自分絶対を否定することから始まります。決して、自分絶対の楽山のようになってはいけないからです。
 
つまり、楽山が、楽山を斬っている結果です。愚かな自己中は、他者を斬っているつもりで、実は、熱心に自分を斬って、その醜さを表してゆくのです。自分を見る目を持たない楽山においては、必然であり、これからも、ずっと続いてゆくことでしょう。
 
自分にとって絶対的なものが何なのか、楽山には分かるのでしょうか。そんなこと、誰にとっても、分からないと思います。だから、思想・宗教などを学ぶ意義があるのです。学ばないで慢心している楽山ならではの発言です。楽山は、神髄はもちろん、初歩的なことも分からないまま書いています。
 
楽山が、信じないのは、楽山の勝手ですが、「折り合いをつけて」などという言い方は、宗教と信仰に対する侮辱でしかありません。人付き合いの折り合いを付けることと、信仰とは違います。楽山が、いかに宗教を軽く見なしているかという証拠です。自分に折り合いをつけすぎた報いでしょう。
 
今までもあったことですが、似て非なることを同一視して、いい加減なものだと見せかけようとする楽山の、卑しく汚らしい印象操作の企みです。こういう手段しか楽山にはないのです。まっすぐに物を見て物を言うことから、最も遠いところで満悦し、のぼせあがって、ふやけている楽山です。
 
楽山は、真面目・真剣・真摯を旨とする求道者と信仰者への、言論による迫害者と言ってよいでしょう。はっきり言わず、語尾でごまかすのが特徴の、ボンヤリ言語の慇懃無礼による悪魔性が全開です。こういう人にだけは成りたくない、という典型例であります。
 
 
一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。
 
楽山のような者に、寛容になる人は、だまされている人だけです。「人としての相応の謙虚さ」を、欠片も持っていないのが楽山です。「多神教的な側面」も「相応の謙虚さ」も、楽山の妄想的勘違いの世界です。神を見下ろす報いを、楽山が、目を背けたくなるようなほど表している醜態です。
 
加えて、不寛容という成り立たない固定観念をもって、「一神教は不寛容で、多神教は寛容」などということを持ち出すのは、信仰を持たない者の、刷り込みであり、ごまかしても、むしろ、まさに「よろしくない」楽山のような人が企むものだと分かるのです。
 
楽山の言葉を信用してはいけません。何の責任も負う気はないのです。思考と感性が、滅裂に近いほど整っていません。楽山は、信仰という大切な問題について、全く圏外に向かって、呆れるほど的を外して、空中分解してゆくのです。楽山の俎上には、自身の鼻クソを載せるのが精いっぱいでしょう。
 
非信仰者とは、限界はあっても、常識の範囲であれば、ある程度、話が通じるものです。実際、そういう話し合いの中から、新しい信仰者が生まれることもあり、私も、かつて、その一人だったわけです。しかし、謙虚さも良心も持ち合わせていない楽山のような自己愛性人格障害者は害毒でしかありません。
 
楽山には、どのような話し方をもってしても、やはり言論は無理です。今回、それを再確認しています。理路に、接点のない妄想的破綻をきたしている楽山です。整合性も、共感も、成り立ちません。未熟で成り立たない、いちゃもんだけをつけてくる楽山は、100%迷惑なだけです。
 
「多神教的な側面を持たざるを得ず」などという言い方で、一神教からの、否定の短絡を許してはいけないし、さらに、それが、寛容であるかのような詭弁を許すことは出来ません。楽山の、思いつきの嘘、皮肉、詭弁、どれをとっても、無分別で無節操な、荒らし以上ではありません。
 
いつもながら、詭弁と捏造で、無思考と鈍感を表して、丁寧に、ボンヤリした言葉を使って、理路の厳密性を全く考慮せず、捻じ曲げて、結論に持っていく婉曲というより歪曲のボンヤリ言語は、楽山の悪意と悪臭の催吐作用しか持ってはいないのです。
 
今回、楽山の病質が、惜しみなく、高慢、慢心、傲慢、気取り、不感不応、訂正不能、無遠慮、という形で、文章に表れています。いつもと同じように、汲み取れるところが、どこにもなく、恐ろしいほど無自覚の、言論者として欠格と言ってよい非常識の、感受性の鈍麻と理路の破綻を見ています。
 
今までの楽山の言から、楽山が持っているのは執念深い悪意と共感性の欠如でしかないと思います。感情鈍麻であり、理路と感性の欠如であり、もたらしてくるのは徒労と疲労であります。楽山の行く先は、真実ではなく、排泄でしかありません。汚染しないように気をつけてください。楽山は疫病です。
 
 
テカる手垢(てあか)の刷り込み

テカる手垢(てあか)の刷り込み
 
 
(2021年03月31日)
(2022年04月02日、再録+加筆)
 
 
 
  虫
 
許してくれ
幾度お前は
焼けるような
熱い光を浴びようとして
その手を伸ばしたことだろう
私はお前を
汚れた筆箱の中に
手垢のついた革の袋に
閉じ込めたのだ
 
私は今
しおれた雑草の捨ててある
湿った日陰に来てしまって
小さな手のふるえにも
くずれていきそうな
お前の屍を抱いて
 
まっすぐな国道が見える
あそこに私の車がある
扉(ドア)が開(あ)いたままだ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
結論は、塩氏は、自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう議論があったかのような画像を作成したということ。
しかも、「海乱鬼様、田中満様らのツイートから引用」と自分の名前を隠してもいる。
こういうのはよくないと思います。
 
また他者をせえているようですが、楽山こそ「自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう」恣意的な解釈に沿う事実があったかのように片寄った印象付けをする性癖があります。楽山に、だまされないでください、関わらないでください。
 
ゆえに、楽山と本気で議論をすると理路が混乱させられ疲労という病魔の餌食となります。受け入れると感情鈍麻の無神教カルトに呑み込まれるでしょう。精神衛生を保つために、くれぐれも楽山と時間を共にしないでください。楽山は、誘導の詭弁の罠だけを用意して待っているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に騙された人は、恐らく、楽山について、死ねばいい、と思うでしょう。私も、そう思っていますが、大人の節操くらいは持っていますから、冷静に、というより、冷淡に、というか、冷徹に、楽山を批判してきたし、これからも、そうするでしょう。誰も出会わないことが幸いとなる楽山です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ