ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪用

 
  楽山のカルト性
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてきたカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとしています。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
https://www.weblio.jp/content/%E6%9C%B1%E3%81%AB%E4%BA%A4%E3%82%8F%E3%82%8C%E3%81%B0%E8%B5%A4%E3%81%8F%E3%81%AA%E3%82%8B
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という平板な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な、社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという場合もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないからです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。前にも書いたことです。楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があると言うことです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条だと思ったら、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の妄想的心霊理解を、HSへの批判の反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。
 
楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書き、かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格であります。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという、自分に欠損しているものの言葉だけを書いて、柔和を装う偽善者の手練手管を振り回しているのです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山が、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めることだけを熱望しないではおれない人格破綻者であるならば、決して、その言を受け入れてはいけない、という実例であります。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりを感じ得ない情性からの他者が傷つくのを楽しんでいる心性を表し、何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、不都合を人のせいにする他罰性を表す、等々によって特徴づけられることが、ここ2年ほどの批判で明らかになっています。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけたカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、汚いということです。ブログを書かないときは、何事か、その他のメディア、例えば、ツイッターで、企んで書いてきます。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすことは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えなければならなくなることです。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、詐欺師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思いますが、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、まだ、誰かを騙すつもりでいるのしょうか。怖いことです。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。楽山には、人間に相応しい理性はないと思います。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
 
また騙すつもりか

また騙すつもりか
 
 
(2021年02月21日)
 
 
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  楽山の縋りつくもの
 
 ヨブ記についてのツイートを見た
 2021年01月11日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、自分で書けないことを認めているかのように、過激な反キリスト思想の、宗教学者の言を、引用してきました。これこそが、楽山の無理解を表しています。
 
また、こういう記事を書くことに、反論・弁明が一度も成り立たなかった楽山の悲惨な無知と無恥と無視と無反省が表れているのです。これこそ、心で聖書を読むことのできない、つまり、良心を持たない欠陥人格の宿命であります。
 
*まえおき
ヨブ記に関する一連のツイートを見つけたので、ここに感想をメモしておきたい。
これらのツイートは、昨年12月30日あたりから、数日にわたって書かれていて数が多く、そのすべてに感想を書くのは難しいので、特に印象に残ったものについてだけ書くことにする。
 
他者の言葉と、他者の権威に、頼るしかなくなった楽山の、小蝿のような器と、自分と同じだと思ったら、鵜呑みにしてしまう自主性の欠損が表れています。勝手な欲望の思い込みで同じ方向だと思い込んだ人の言論の沼に呑まれて、溺れてゆく楽山です。
 
主体性を持たず、自分ではない名前に縋りついて、信仰をけがしてゆく姿勢は、悪意というものの行き着く末路を暗示しているようです。こちらとしては、どうしようもなく、そういう楽山の悲劇を、この約2年と同じように、記録に残してゆくしかありません。
 
*ヨブ記の論理
 まず、ここではヨブ記全体が簡潔にまとめてあって有り難い。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
1月1日
結局「ヨブ記」が描いているのは、①たとえ絶対神を信仰しても納得がいかない不条理が存在すること、ヨブは②人間らしく理由をぎりぎりまで問うたが、③不条理の事実を受け入れ、④自己の基盤を呪わず、しかし⑤世間の因果応報説の言いがかりには徹底抗戦した、ということです。筋は通っています。
 」
ヨブ記は、冒頭部の神と悪魔のやりとりなど、トンデモに思える場面も無きにしも非ずだが、それでも物語の中の論理としては筋が通っているところは魅力である。トンデモなのに筋が通っているというのは、ひどく矛盾しているようではあるが、それだからこそいい。
 
不条理は存在します。ゆえに、人は宗教を求め信仰によって耐えようとします。自己の基盤が宗教であるなら、神に徹底抗戦など出来ないことを知っているからです。ここにしか筋道はありません。
 
人の不幸と自己正当化について、神への徹底抗戦と言い、筋が通っていると言う人に尻尾を振っている出来の悪い飼い犬のような楽山は、神を、余計なことを言う敵として抗えると考える時点で、既に、キリスト教理解からは、激しく逸脱して地獄の底無し沼に向かっているということです。
 
ずっと今まで嘘と詭弁で人心を惑わせようと陰謀をめぐらし、自我の快楽のために信仰をあざけり、自我の勝ち気分を求めて、他者の言に縋りつく楽山こそ、総ての信仰者にとって、懲らしめるべき敵であり、駆除するべき害虫なのです。
 
まさに、楽山の、仰向けに転んだ虫ほどの理解で、天空と地上を語る傲慢の、醜い姿であります。
 
*キャラ設定?
ここに書いてある「ヨブの強気は必要な演出」とは、つまり、「ヨブの強情はキャラ設定である」ということだろうか。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
色々ご質問があったので、フォロウしましょう。Q神父が言った《ヨブは神の前に自己主張しすぎた》というコメントについて? Aヨブが単に謙虚だったらそもそも「ヨブ記」が書かれる意味がない。ヨブの強気は必要な演出であり、背景には神観念の歴史的変化がある。そういう力学として読解すべきです。
 」
 
楽山は、批判を全く読んでいないか、読んでも理解できないのでしょう。私は、ヨブは、強情ではないと書きました。だから、信仰の危機を表す登場人物として、神に選ばれました。ゆえに、ヨブは私たち人間であるからこそ、意味があるのです。
 
それを、人間について、何も理解できていない楽山は、マンガのような宗教理解の、実は、無理解の果てに、またしても、いちゃもんを並べることしか出来ていないのです。実に悲惨です。
 
演出といえば、冒頭部で、ヨブは義人であったということが強調されているのも、「義人の苦難」という不条理さを際立たせるための仕掛けなのだろうと思う。
ちなみに、これと似た演出は映画でもよく使われている。たとえば復讐ものでは、こういう展開はよくある。
 
ヨブが義人だというのは、世間的に、当時の宗教世界において、戒めや燔祭などを決められたとおり守っていた、いわゆる善人だったということです。そののち、神の試みによって、自己正当化の罪を犯します。そして、神の介入によって、目覚めることになります。
 
そのことを、自分を含めた人間の罪の性質の問題として受け取れない楽山は、同じような境遇でも自覚したことがあるのか、神に対して、訂正不能の否定を向け続ける因業に支配されています。つまり、際立っているのは、楽山の不条理と悪意だけです。
 
主人公は善人であり、友人知人からも信頼され、妻子とともに幸福に生活している。
ところがある日、主人公が遠出をしているときに、家で留守番をしていた妻子が惨殺されてしまう、何の罪もないのに。
主人公は復讐の鬼となり、犯人一味を追い詰めてゆく。
そういえば、「鬼滅の刃」でも、これと似た構図になっていた。冒頭部で主人公の善良さを強調することで、その後の悲劇の不条理さを際立たせるという手法。
 
分かると思いますが、楽山は、聖書ではなく、「鬼滅の刃」というフィクションの勧善懲悪の物語と同じレベルで、信仰を考えていることが明らかです。実際には絡み合う善悪の要素を、いかに安っぽく考えているかを、楽山自身が表しているのです。つまり、楽山が誰を引用しても、楽山にとっては娯楽であり、真実からは遠く離れているということです。
 
正直言って、楽山は、信仰というテーマで、なんて不条理で、くだらない文章を書いているのだろうと思います。ずっと、そのことについて、根拠といっしょに書いているのに、分からないのです。
 
何の罪もないのであれば、信仰者であったヨブは、神に最後まで従ったはずです。これも書いたのですが、楽山が、いかに人の意見を読まないかが表れています。
 
ヨブが試されたのは、薄い殻のような楽山レベルの従順ではなく、神への信仰なのです。それゆえ、大きなテーマとして、ヨブ記が今も残っているのです。
 
*屁理屈
これは自分にもよく分かるなあ。本当にその通りだ。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
神学の歴史は破綻の歴史です。素朴に神を信じていたら、神概念に矛盾がたまってきた。そこで神学者が新たな神学をひねくりだす。「ヨブ記」が暗示する因果応報の破綻は、とりあえず「死後・終末後の審判」の発明で回避できます。善人がこの世で不幸になっても来世が幸福なら因果の帳尻があうからです。
 」
宗教教義は破綻と補正の繰り返しだとか、因果応報は人の一生だけでなく、過去世のカルマや来世(死後)の裁きを仮定すれば辻褄を合わせられるというのは、過去に、とある新興宗教を信じていた自分としては、大いに思いあたるものがある。
 
低次元の因果応報の辻褄によってしか宗教も信仰も考えられないのは、まさに、楽山であります。全く理解から遠く、かつ、理解しようともしないで、楽山は、自分の妄想的なマンガ的思想を、他者の言葉を借りて、批判されても答えずに、懲りずに書き続けているのです。
 
信仰は、神の国、即ち、天国を書いても、今を生きるためであり、楽山のようにマンガのような空想に遊ぶためではありません。以下の表現も、楽山は、理解しないし、理解できないでしょう。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
17:20
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。 
17:21
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。
 (ルカ17:20-21、新約聖書)
 
神の国を、超常にこだわって見つけようとしても見つからない。それは信仰者の日常の心に働いているものだという解釈を書いておきます。
  
毎度毎度、楽山の程度の低い話には、うんざりします。ひきつった顔で、マンガのような、あらすじを、唾を飛ばしながら、わめいてくるのですから。
 
楽山は、大昔に超常奇跡が、事実としてあったか無かったかに拘泥します。そのことが、既に、楽山の考える信仰が奇跡信仰・超常信仰に過ぎないことを表しています。大事なことは、超常ではなく、人間が生きている日常にあり、人間の心に起こっているのです。
 
ゆえに、大事なことは、聖書が、そう書かれるしかなかったことで、何を伝えようとしているかであります。それを受け取れば、奇跡がどうのということは、終末まで保留できることです。その一番大事なことを受け取っていないという証拠を、楽山は、自ら証明してゆくだけなのです。
 
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
終末思想があれば、宗教の因果応報思想の破綻はいちおう回避できます。しかしそういうアンチョクな方向で満足できない人は、因果応報の問題点にこだわり続けるでしょう。「ヨブ記」自体は、「神は人間の推理を超えた存在だ」というオチで逃げ切っていますが、それで解決ついたことになるのやら?
 」
どうにも解決不能な問題については「神は人間の推理を超えた存在だ」とすればけりをつけることができるというのも分かる。自分は宗教を信じていたころも、退会後も、相変わらずこの論法を濫用しているので。
 
引用された宗教学者が、キリスト教を正当に論ずるのならば、必ず、安直でない話になるはずですが、そういう人ではないようです。アンチョク、オチ、という書き方に表れています。
 
人知を超えた神という言葉は、人が、神に比べて劣っており不完全であるという身の程を弁えるために存在します。人知を超えているところに、人知は及ばないことを知り、神に比べて不完全であることから罪の性質を持つことを知るためであります。
 
カルトは、まず、神を知りたがります。楽山も、同類であり、さらに病質者なので、神を知ったという傲慢があり、宗教も信仰も、全く正当に理解できないのです。宗教的な総てを駄目にしてゆく作業を続けているに過ぎません。
 
それにしても、楽山は、ヨブが救われたことを書きません。あざといやり方です。自分に都合のよいところだけ書いて、主張して、あとは不感不応なのです。ずっと、そうです。人間として、欠陥だらけの楽山です。どうか、楽山に、関わらないでください。近づかないでください。
 
*因果応報の限界
「神と悪魔のイタズラ」「お伽噺的設定」とは、すごい表現だが、話の内容については、その通りだと思える。
中村圭志 神話・宗教学
@seattlelubbock
2020年12月31日
そもそもは神と悪魔のイタズラなのですから、ヨブのほうが正しいわけです。善因善果・悪因悪果の因果応報を信じている友人たちのほうが間違っている。「ヨブ記」に哲学的側面があるとすれば、この「因果応報説が成り立たないこともある」というお伽噺的設定がそれです。人間の推理が及ばないこともある
 」
神が悪魔の挑発にのせられてヨブを苦しめることをよしとする場面は、あまりの不条理さに呆れてしまうのではあるが、「因果応報説が成り立たないこともある」というテーマを強調するための舞台設定としては合点が行く。ヨブの苦しみが不条理であればあるほど、このテーマは際立つだろうから。
こういう見方はヨブ記を神聖視する熱心な信仰者からは反感を買いそうではあるが、これはつまりヨブ記の作者は、宗教家、思想家としてはもちろん、物語作家としても素晴らしかったということなのだろうと思う。
以上、一連のツイートにはこの他にも興味深い論点が語られているのだが、とりあえず本記事ではここで一区切りとしたい。 
 
神よりも、人のほうが正しいと言っている、この宗教学者は、キリスト教も信仰も理解できていないことの証拠を表しています。それを肯定的に引用している楽山は、とっくに同類の反キリストです。
 
神の意志と行為を、自分で決めつけるのは、自分信仰です。また、神の意志と行為を、自分で決めつけて、おかしいと否定するのも、自分信仰です。信仰者は、ただ、神の導きにしか寄る辺がなくて、疑問を抱えながらも、キリストゆえに、神を仰ぐ人々です。
 
不条理な苦しみや悲しみは、この現実の中に、いっぱいあるでしょう。楽山は、不条理が赦せないようだが、神が不条理を試練として与えるのも許せないようです。
 
楽山が信じてもいい神は、楽山の都合に合わせて恵みだけを与える神のようです。そのような神は、どこにもいません。当たり前のことですが、楽山の信じることの仲間には、誰もなれません。だから、楽山は、吹き込んで、だまそうとしてきます。
 
そういう身勝手で自己中の楽山が、病質者ゆえか、救われそうにないものだから、自らの不幸を神のせいにして、反キリストの獣になっているのでしょう。
 
そして、いくら私が批判記事を書いても、批判が山のように積まれてきても、答えず、弁明しないまま、楽山が山のように記事を重ねるのは、やはり、病的な感受性の欠如による不感不応があるからでしょう。
 
シャロームの批判記事は約10年分、楽山に対しては約2年分、蓄積されて、偽善者についての資料になっているのですが、なおも、批判記事を書くことになっています。
 
楽山は、現実検討能力がなくなっているのかもしれません。その辺、現実より、超常とホラーが好きということと関連しているのでしょうか。読者をだませると思っているのでしょうか。常識では考えられないことです。
 
健康なブロガーは、反論はするでしょうが、和解も図りますし、そういうことなしに、長く書き続けて、それによって、長く批判されるということはないでしょう。和解も、もはや、不可能ですし、これほど、楽山には、解決する意志がなく、自己絶対に凝り固まっているという証拠でしょう。
 
楽山は、また、書くのでしょう。そういう、人を困らせるだけ、というのが宿命だからでしょう。私は、楽山の記事に反応して、必然をもって、批判記事を書くだけです。まあ、こちらとしては、何を書こうかと考える手間が省けているということです。
 
楽山については、無反省、無責任、無理解、嘘、詭弁、等々、何も変わっていません。まともな記事は、一つもないです。人間的な温もりも潤いも持たず、狡猾さだけで生きてきたような人です。
 
楽山は、反キリストの自己中であり、その異常なパーソナリティによって訂正不能となって、次から次に、自らの不治を表し続けています。決して近づかないでください。
 
 
楽山が神を否定するのは、2次元の蟻が、2次元の神?を想定して、けなしているようなものです。蟻は、3次元の存在を想定できません。つまり、自分より高次元を、自分より高次の存在を考えることができないために、存在しないと言っているわけです。
 
楽山は、自分と同じ存在様式のものしか考えることができません。ゆえに、極めて、気楽に、安易に、神を規定してしまって、それ以上の、真実の神に思いを馳せることができないのです。
 
こういうことは、知性と感性の貧困から起こってきます。その貧困を来たらせるのは、過剰な自己愛であり、その自己愛が、自己中という低次元に、人を縛るために起こります。俗に、視野が狭いとか、想像力の貧困とか言われることです。
 
そういう者に限って、自意識だけが高く、思い上がり、自分は、学者レベルのインテリだという気取りによって、他者の上に立とうとしますが、能力の貧困は、誰の目にも明らかとなり、誰にも相手にされないために、ついには、怨念だけで、陰謀をめぐらして、見かけだけを装うことで、自己満足することになります。
 
前にも書きましたが、
聖書の言う心貧しいとは、余計な先入観がないこと。新しいものを受け入れる器であります。
精神が貧困だというのは、余計な先入観しか持たないことです。新しいものを、新しいと気づかず、古くて不快なものと見なして捨ててしまって、高次元に立ったつもりになります。
 
楽山は、自分を、人間を、超えようと勘違いして、宗教と信仰を、マンガ・アニメ・ホラー映画のようにしか受け取っておらず、超常現象の固まりであるかのように霊?を信じる信じないとかでしか考えていないような見なし方をしています。
 
いちばん大事で、いちばん必要な人間理解が、まるで成り立っていないために、理解が子供じみて浅くなって、堕ちた自らに気づかず、無理な背伸びをしているのです。
 
だから、卑しい者の常道として、言葉面が自分に似ている意見とその名前に縋りつくしかなくなって、慌てふためくように、自己満足するためのあがきのように、手段を選ばず、吟味も出来ず、本を、実はゴミ箱であっても、漁って、こともあろうに、わざわざ臭いものを拾ってきて、こんなに分かっていると自慢するしかなくなっています。
 
楽山には、自他の産物である腐ったゴミが、とても美味しい匂いと味として感じられるのでしょう。それを、あたかも、まともな言論の糧であるかのように、学者気取りで言われるのは、非常に迷惑です。当然、それは、腐ったゴミ以外の何ものでもないのです。小さいものをバカにしてきたゆえに起こるところの、思想の味覚障害です。
 
 
縋りつく者

すがりつく者
 
 
(2021年01月13日、同日一部修正加筆)
 
 
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  楽山の大好物
 
 『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
 2021年01月09日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、書いてあることは、キリスト信仰に沿うものではないと判断しています。
 
キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりまくっています。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
そもそも、分かる・理解するということが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたことがないということです。したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったと言って自慢するためのネタ探しでしかないと思います。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、決して学ぶ者にはなれないのです。
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山が、平易というより安易に受け取り、勝手に、読みやすいと見なしているだけです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものは何もないのです。
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが、面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。
 
ですから、何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を書いて、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、全く無意味であります。
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らいでいます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のようなホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して決めつけてきたのです。そして、それを、そのまま、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
そうして、サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた者たちでしょう。
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を決めつける人は、楽山のように、自分を見ることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。悪者が安穏に暮らすなんて不当じゃないか・・等々、神に文句を言い、神に人が評価を下してよい、という口実を捏造しています。偽善者は、このように、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めないという自己中です。
 
ヨブは、勇者ではありません。ただ、楽山のような悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったために、ヨブは、神に叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、その結果、糊塗されてゆきます。
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、稀に見る甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。
 
ヨブへの親愛の情とか、ユーモアとか、いい加減な軽口を言うところにも、楽山の、おちゃらけの隙だけに反応する生き方が滲み出ているということです。こういうのは、出てしまうものなのです。何度も、不可避的に、楽山は、自分で自分を切り刻んで、お笑いになってゆくことでしょう。
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
著者は、かなり偏った人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけています。そして、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたということです。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して、鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、引用が、本当に主旨であっても、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも分からない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、分かっていてほしいところです。
 
記事全体としては、楽山と似たような者が近くにいて、サタンのような追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないか、ということを暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも楽山の悪意に関わることになってきます。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。楽山には、決して関わらないでください、近づかないでください。お願いします。
 
 
えもの

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(2021年01月11日)
 
 
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