ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪用

 
  安楽の果て2-2
 
 『はじめての宗教論 右巻 見えない世界の逆襲』佐藤優著
 2021年03月29日 楽山日記(LD)
  を改めて批判2
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己愛によって、有名無名お構いなしに、俎上に置いたつもりで語りますが、結局、みじん切りにされるのは、自己顕示欲だけのペテン師そして偽善者の楽山のほうなのです。楽山が書くたびに起こる現象となるでしょう。
 
 
自分は遠藤周作の語るイエスに共感するところは多いのではあるが、遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていたとのことであるし、
 
今までの記事から、楽山は、誰にも共感したことはないと思います。みな、楽山が自分を飾るための嘘です。遠藤周作は、私が、一部、読んだ著作からも、神からも、教会からも、乖離した信仰だったわけではないと思います。
 
「遠藤周作は日本人に理解できるキリスト教を求めていた」と言いながら、そのキリスト教も信仰も、全く理解していないから、読者に理解できるように説明できないのが、楽山です。こういうことから、もはや、思い上がりからの飾りに過ぎないということがバレているのです。
 
同氏は、著名な小説家ですから、人間の立場から考えるのは当然でしょう。それは、同氏の器としてあるもので、いかに楽山が共感すると言っても、嘘吐きの楽山の発達不全の器では理解できるものではないということです。このように、病質者は、嘘の報いとして、いたるところで否定されます。
 
楽山という我執による短絡魔が、宗教から、文学まで、何か、見なして決めつけたいようだが、度外れた無理解の誇大妄想から、誰よりも自分を真っ当に見せかけようとして滑り続けるという破廉恥を、さらしてゆくだけです。自己愛者は身の程を知らない、という症状に過ぎません。
 
 
それなら遠藤周作の語るイエスに共感したところで、それは氏によって日本的に再解釈されたイエスに共感することにはなっても、本来のキリスト教の語るイエスに共感したことにはなるまいと考え、若干さみしい心持ちがしたものだが、上の話からすればこれはさほど気にする必要はなさそうだ。
 
「日本的に再解釈されたイエス」と言って切り捨てているところで、いかなる器も縁の無い楽山の言は終わりです。キリスト者の共感ということが分からない楽山は、有名人も侮辱するような、傲慢で、かつ、それを "気にしない" だけの、無視の鈍感を持ち合わせていることを、自分で漏らしています。
 
今まで、有名人や学者の名前を、自分の満悦や快楽のためだけに、好きなように、見なし、悪用して、"気にしない" 楽山です。思想と言論の邪気として、追放されるべき人格でしかありません。舌足らず、ではなく、心無い楽山の、悪あがきであります。
 
反省力や責任感という最小限の節操さえ持たず、身の程を弁えない楽山は、社会人として成り立たず、言論者としてはワームかバグという回路の混乱を招くだけの虫です。したがって、いかなる真実追求の思想にも議論にも、参加する資格はないのです。人間として成り立っていないからです。
 
実際、楽山の言は、日常会話のゴシップ以上の深みを持っていませんし、そのような恣意の罪業(ざいごう)だけを、発言・発信として、もたらしているだけの、煩わしい自己循環性のモノローグに過ぎません。執拗な欲望くずれの因業だけで投稿を続けています。
 
 
人は純粋なキリスト教は知り得ず、その文化と融合させた形でしか認知できないのであれば、自らの属する文化を通してキリスト教を理解することの是非を論じても仕方なく、それはそのまま受け入れる他ない。
 
「純粋なキリスト教は知り得ず」と思うなら、書かないことです。自分だけは、高所大所にいて分かるんだと言いたいのでしょうか。その実質は、フケほどもない質量なのです。欺きの軽口、そして、罪悪感の欠如が表している楽山の正体であります。
 
人間は、神ではないのだから、完全性と純粋性の総てを知ることは出来ません。まさに、信仰がそれを教えています。人間には、人間の弁えるべきことがあります。その不完全の自覚にこそ信仰の中心があるのです。楽山は、受け入れることも考えることもしない、怠慢粘液の、伝染性ジュクジュク発疹です。
 
楽山は、無理な辻褄合わせをしているようです。「そのまま受け入れる他ない」・・・楽山が、いったい、何を受け入れたというのでしょう。楽山が受け入れてきたのは、まるで実感の無い、賛同と、世辞と、褒め言葉と、ごまかしなさいという悪魔の誘惑だけです。
 
いかなる文化を通しても、自己愛性人格には、宗教の是非など分かりません。根底から、宗教を見くびって、言葉の恩恵を、慢心だけで、超えたつもりになっている短絡志向の楽山だけが「是非を論じても仕方なく」なっているだけのことなのです。楽山の、ただ一言も、正当な意味などありません。
 
今に至るまで、宗教の是非とか理路とかを、外し続けているのが、楽山その人です。しかも自覚がないから、学習もせずに、書物や学者の名前を出しては、読解不能・説明不能の自我に、いつも、慢心を塗りたくって、見せびらかし、その結果、救いがたい有り様を呈しているわけです。
 
弁えるどころか、あざ笑うように、宗教を机上でもてあそんできた楽山が、宗教について、受け入れる気もないくせに、幼稚な見方で、宗教理解を是非の論外のように言っています。病質者というのは、ここまで外れて、自己正当化してしまう、ということが分かります。楽山に分からないだけなのです。
 
個人の事情によって異なる部分がありますが、そのことと矛盾なく、共有できるところがなければ、宗教も信仰も成り立ちません。楽山は、実際に信仰に救われた人々がいることを無視して、自らの成り立たないことを、自らの不遇の怨念の反発で、望み、言い張っているに過ぎません。
 
楽山の、嘘八百の言論力で、だまされる人はいても、活躍できる仕事場は、どこにもありません。せいぜい、インチキ占いで、悩める人から、金銭を巻き上げるくらいしかないでしょう。ネットだから、まともそうなことを言って、いい気持になっていられるなど、鼻つまみの醜さに他なりません。
 
 
*イエスの教え
とはいえ、現実のイエスはどのような教えを説いたのかということは、やっぱり気になる。
 
こちらのほうが二千年前のことだから、いっそう確定できない、ということを、楽山は、分からないために、「やっぱり気になる」などと軽口で言う始末です。小学生レベルの欲望でしょう。これで、中庸な宗教と信仰を説くつもりなのです。自分の罪の問題さえ、考える気のない楽山の空転です。
 
「どのような教えを説いたのか」ということは、聖書に書いてあります。楽山は、そのレベルでも、聖書を、まともに読んだことはないと思います。宗教、特に、キリスト教について、楽山の言うことを信用しないでください。楽山が、キリスト教を語るとき、その目的は否定と侮りだけです。
 
 
 (▼不勉強の楽山の無知がバレています。▼)
 
関連書籍を調べてみれば、現代のキリスト教はイエスというより、パウロによるもののようであるし、悔改めよ天の国は近づいた云々というのは洗礼者ヨハネの言葉ではあってもイエスのそれとはいえないだとか、安息日についての教えはイエス独自のものとは言えず、ユダヤ教ですでに説かれていたともいう。
 
誰によるもの?という意味はありません。新約聖書にパウロの名が多いから、あるいは、そう聞いたから、言っているだけです。安い見なしが、楽山の常套手段です。実質となる見解など、何も用意していないことが、今まで、嫌というほど明らかになっています。
 
楽山は、教えについて述べず、誰によるものかに興味があるようです。洗礼者ヨハネといい、使徒パウロといい、イエス独自ではない、という、教えそのものを理解してない楽山の、安っぽい、いちゃもんに過ぎません。聖書から、何かを学ぼうという気が、元々ないからです。
 
楽山は、自身の未熟人格によって、すべてがイエス独自の教えでなければならないという子供じみた条件を付けたいのでしょうか。イエスは、公生涯以前に、律法や戒律について、知識と、その実情を見て学んだであろうという解釈が、楽山には出来ないのです。尻を拭く紙さえ見つからない楽山です。
 
パリサイ人の戒律主義と対立して、イエスは、人間の心に寄り添い、心と命を生かす信仰を宣べ伝えたことが、楽山は、知識として入っておらず、学ばないままで、文句を言っているのです。人頼みの、受け売りの、安っぽさが、随所に臭ってきます。誰の糧にもならない楽山の言です。
 
律法を、廃するためではなく、成就するために来た、という、イエスの言葉(マタイ5:17)も知らないようです。ゆえに、昔から安息日というものがあったけれど、安息日が戒律となっていることを批判して、イエスは、人の子は安息日の主である(マタイ12:8)と言ったことも知らないのでしょう。
 
事前に調べるということをしないのでしょうか、思いつきで書いているのでしょう、楽山は、何も勉強しないで、文句を言って、キリスト教を否定しています。怠慢の上で、慢心する楽山です。
・・うわぁ、呆れる・・とでも言うべきで、底が知れる・・楽山、最低です。
 
自分では大事なことを何も言えないために、大昔のことですから、誰が書いたかについては、正しいとも間違いとも言えないことを利用~悪用して、漁って拾ってきたらしいことを書いて、否定したつもりで満悦している楽山であります。
 
上の聖句は、キリストの使命に深く関わることです。楽山は、聖書を、全く理解していないことが明らかです。それで、キリスト教を否定して、どうするんでしょう。楽山に学べとでも言いたいのでしょうか、永遠にありえないことです。毎度、怠慢からの愚かさだけを公共に垂れ流している楽山です。
 
また、他者の言うことを持ってきて、けなしていますが、楽山には、全く独自性がないという表れなのです。「・・によるもののようであるし」「だとか」「ともいう」・・この情ない曖昧な愚言は、おとしめ、けなし、否定する、という目的だけで書いてくる欠陥人間の筆致として資料になります。
 
 (▲楽山が無知であることの証拠になります。▲)
 
 
果たして現実のイエスの真意はどのようなもので、どのような教えを説いていたのだろうか。どうもこれは現実の釈迦は何を説いたのかという問いと同等か、それ以上に難しそうだ。
 
キリストと、釈迦を、楽山が、十把一絡げと見なしていることが表れています。こういう人なのです。何も分かっていない、にもかかわらず、何でも分かっているふうを装う芝居、何度、見せられてきたことでしょう。自己愛性人格障害、もはや、人間性の大部分を損なって、不治となっているようです。
 
 
*人それぞれ
ある人にとって絶対的なものはある。しかし、それはその人にとってのみ絶対的なものである。人は複数存在するのであるから、絶対的なものも複数あるのは当然のことです。そして人は、自らの信じる絶対的な原理に従って、この世界について語る。そこで語られた異なる言説の間で折り合いをつけるという作業を繰り返していくしかありません。
(同上、p.214)
 」
人には絶対は知り得ず、自分にとって絶対的なものしか分からないのであれば、それを他に強要はできず、自他の信じる絶対的なものの差異を受け入れ、折り合いをつけてゆくしかないというのは当然のことではある。
 
絶対でなくても、個人が生きる上で、必要とするものがあり、それに答えるのが宗教であり、それを、縁(よすが)とするのが信仰であります。キリスト信仰は、自分絶対を否定することから始まります。決して、自分絶対の楽山のようになってはいけないからです。
 
つまり、楽山が、楽山を斬っている結果です。愚かな自己中は、他者を斬っているつもりで、実は、熱心に自分を斬って、その醜さを表してゆくのです。自分を見る目を持たない楽山においては、必然であり、これからも、ずっと続いてゆくことでしょう。
 
自分にとって絶対的なものが何なのか、楽山には分かるのでしょうか。そんなこと、誰にとっても、分からないと思います。だから、思想・宗教などを学ぶ意義があるのです。学ばないで慢心している楽山ならではの発言です。楽山は、神髄はもちろん、初歩的なことも分からないまま書いています。
 
楽山が、信じないのは、楽山の勝手ですが、「折り合いをつけて」などという言い方は、宗教と信仰に対する侮辱でしかありません。人付き合いの折り合いを付けることと、信仰とは違います。楽山が、いかに宗教を軽く見なしているかという証拠です。自分に折り合いをつけすぎた報いでしょう。
 
今までもあったことですが、似て非なることを同一視して、いい加減なものだと見せかけようとする楽山の、卑しく汚らしい印象操作の企みです。こういう手段しか楽山にはないのです。まっすぐに物を見て物を言うことから、最も遠いところで満悦し、のぼせあがって、ふやけている楽山です。
 
楽山は、真面目・真剣・真摯を旨とする求道者と信仰者への、言論による迫害者と言ってよいでしょう。はっきり言わず、語尾でごまかすのが特徴の、ボンヤリ言語の慇懃無礼による悪魔性が全開です。こういう人にだけは成りたくない、という典型例であります。
 
 
一神教は他に不寛容になりがちだという意見があるけれども、こうしてみると、一神教だからといって必ずしもそのようではなく、人としての相応の謙虚さを持つならば多神教的な側面を持たざるを得ず、必ずしも寛容を拒絶するとは限らないのだ。一神教は不寛容で、多神教は寛容だという単純な決めつけはよろしくない。
 
楽山のような者に、寛容になる人は、だまされている人だけです。「人としての相応の謙虚さ」を、欠片も持っていないのが楽山です。「多神教的な側面」も「相応の謙虚さ」も、楽山の妄想的勘違いの世界です。神を見下ろす報いを、楽山が、目を背けたくなるようなほど表している醜態です。
 
加えて、不寛容という成り立たない固定観念をもって、「一神教は不寛容で、多神教は寛容」などということを持ち出すのは、信仰を持たない者の、刷り込みであり、ごまかしても、むしろ、まさに「よろしくない」楽山のような人が企むものだと分かるのです。
 
楽山の言葉を信用してはいけません。何の責任も負う気はないのです。思考と感性が、滅裂に近いほど整っていません。楽山は、信仰という大切な問題について、全く圏外に向かって、呆れるほど的を外して、空中分解してゆくのです。楽山の俎上には、自身の鼻クソを載せるのが精いっぱいでしょう。
 
非信仰者とは、限界はあっても、常識の範囲であれば、ある程度、話が通じるものです。実際、そういう話し合いの中から、新しい信仰者が生まれることもあり、私も、かつて、その一人だったわけです。しかし、謙虚さも良心も持ち合わせていない楽山のような自己愛性人格障害者は害毒でしかありません。
 
楽山には、どのような話し方をもってしても、やはり言論は無理です。今回、それを再確認しています。理路に、接点のない妄想的破綻をきたしている楽山です。整合性も、共感も、成り立ちません。未熟で成り立たない、いちゃもんだけをつけてくる楽山は、100%迷惑なだけです。
 
「多神教的な側面を持たざるを得ず」などという言い方で、一神教からの、否定の短絡を許してはいけないし、さらに、それが、寛容であるかのような詭弁を許すことは出来ません。楽山の、思いつきの嘘、皮肉、詭弁、どれをとっても、無分別で無節操な、荒らし以上ではありません。
 
いつもながら、詭弁と捏造で、無思考と鈍感を表して、丁寧に、ボンヤリした言葉を使って、理路の厳密性を全く考慮せず、捻じ曲げて、結論に持っていく婉曲というより歪曲のボンヤリ言語は、楽山の悪意と悪臭の催吐作用しか持ってはいないのです。
 
今回、楽山の病質が、惜しみなく、高慢、慢心、傲慢、気取り、不感不応、訂正不能、無遠慮、という形で、文章に表れています。いつもと同じように、汲み取れるところが、どこにもなく、恐ろしいほど無自覚の、言論者として欠格と言ってよい非常識の、感受性の鈍麻と理路の破綻を見ています。
 
今までの楽山の言から、楽山が持っているのは執念深い悪意と共感性の欠如でしかないと思います。感情鈍麻であり、理路と感性の欠如であり、もたらしてくるのは徒労と疲労であります。楽山の行く先は、真実ではなく、排泄でしかありません。汚染しないように気をつけてください。楽山は疫病です。
 
 
テカる手垢(てあか)の刷り込み

テカる手垢(てあか)の刷り込み
 
 
(2021年03月31日)
(2022年04月02日、再録+加筆)
 
 
 
  虫
 
許してくれ
幾度お前は
焼けるような
熱い光を浴びようとして
その手を伸ばしたことだろう
私はお前を
汚れた筆箱の中に
手垢のついた革の袋に
閉じ込めたのだ
 
私は今
しおれた雑草の捨ててある
湿った日陰に来てしまって
小さな手のふるえにも
くずれていきそうな
お前の屍を抱いて
 
まっすぐな国道が見える
あそこに私の車がある
扉(ドア)が開(あ)いたままだ
 
 
  叫び
 
叫びがある
叫びになりたい
 
命ある人ではなく
命になりたい
夢見る人ではなく
夢になりたい
歌う人ではなく
歌になりたい
 
何を見つめたらいい
 
無意味な人ではなく
無意味になりたい
死ぬ人ではなく
死になりたい
 
叫びがある
叫びになりたい
 
 
 
★こも/楽山日記3
結論は、塩氏は、自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう議論があったかのような画像を作成したということ。
しかも、「海乱鬼様、田中満様らのツイートから引用」と自分の名前を隠してもいる。
こういうのはよくないと思います。
 
また他者をせえているようですが、楽山こそ「自説に都合のいいように、あちこちのツイートを切り貼りした上で、さもそういう」恣意的な解釈に沿う事実があったかのように片寄った印象付けをする性癖があります。楽山に、だまされないでください、関わらないでください。
 
ゆえに、楽山と本気で議論をすると理路が混乱させられ疲労という病魔の餌食となります。受け入れると感情鈍麻の無神教カルトに呑み込まれるでしょう。精神衛生を保つために、くれぐれも楽山と時間を共にしないでください。楽山は、誘導の詭弁の罠だけを用意して待っているのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山に騙された人は、恐らく、楽山について、死ねばいい、と思うでしょう。私も、そう思っていますが、大人の節操くらいは持っていますから、冷静に、というより、冷淡に、というか、冷徹に、楽山を批判してきたし、これからも、そうするでしょう。誰も出会わないことが幸いとなる楽山です。
 
 
 
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  他者の口を利用3
 
 2020年03月22日
 神との対話の危険性(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 
 
楽山は、自分の霊感を主張して止みません。しかし、楽山は、霊感の働く人であるならばありえないような、無理解、異なる意見に対する不感不応、理路の破綻と情緒の欠落、などの人間的欠陥だけが露呈してきた経過です。もはや悪意以外何もないのでしょう。それで、また、人格を自ら破壊してゆくのです。
 
 
下の文章によると神の言葉は耳に聞こえるのではなく、心にうかんでくるのだという。
神は、わたしにとってはまったくの実在である。わたしは神に語りかける、するとしばしば答えを得る。わたしが神に指図をこうと、わたしがそれまで懐いていたのとはまったく違った思想が、突如として、わたしの心にうかんでくる。 
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.111)
 」
これは体験者の手記として、本書に引用されているものなので孫引きになってしまうのではあるが、こういう風に、霊的存在の声が聞こえるのでなく、その思いが直に心に伝わってくるという話は、その相手が神、高級霊、守護霊、生霊などの違いはあれども、他所でも読んだり、聞いたりしたことはある。
 
引用書籍の人が、どういう体験をしたのか、事実なのか、比喩的に表現しているのかは分かりません。しかし、実在の神が語りかけて答えを得る、というのは、自分は絶対正しいと言っているようなものですから、敬虔な人ならば、控えるようなことなのです。
 
しかし、キリスト教も信仰についても、何も理解していない楽山は、元々超常や神霊が大好きなので飛びついて、○○霊などと、自分も霊能者だから分かるんだとアピールしてきます。学者タイプではなく、香具師(やし)の本性を漏らしています。
 
今まで楽山の記事とコメントで見てきたことからは、カルトが自身を言い表すのに、全く説得力が無いために、超常や神聖や心霊の体験を持ち出して騙すしかないという習性によって、悪意の偽善者である楽山やシャロームなどが物を言えば、ひどいインチキしか表れてこないということです。
 
 
たとえば、某スピリチュアル系のブログで、自分の心にうかんだ思いについてよくよく吟味してみれば、それが自分の思いではなく、自分以外の存在(指導霊、守護霊、生霊、悪霊など)の思いであることが分かるということを書いているのを読んだことがある。このブログ主は、そのようにして心の中の他者との対話を試みているようだった。霊好きの人のなかには、毎日、霊と話しているという人がいたりするけれども、こういう心の中での対話をそのようにとらえている場合も少なくなさそうだ。
 
霊が分かるっぽい自覚の楽山の、妄想的な霊の話です。霊能者が分かるというのは、自分も霊能者だという主張です。身の程を弁えない者は、反省しないために、他者の異常な能力を鵜呑みにして、自分もそうだ・・と言いたいのです。毎度毎度、楽山から表れるのは悪霊の方向だけです。
 
楽山が霊能者であったなら、霊について敬虔であるはずだし、現実との調和を目指すはずですが、実際には、極めて無遠慮に現実から乖離して自慢したがるだけなので、このように悪意の不祥事を批判されることになっています。
 
直感、直観、インスピレーション、ひらめき、思いつき、そして、理解に至るまで、人間の精神活動は、複雑ですが、楽山は、人が書いているからと、霊の分類まであげて、見せびらかします。つまり、説得力のないことを、他者の口を悪用して補おうとする醜さです。
 
都合の良い他者の口を正しいとして取り上げ、都合の悪い他者の口を無視するのは、まさに、自己中カルトの生業(なりわい)であります。霊能者どころではなく、とても下品なペテン師の因業なのです。
 
この楽山の、人が書いていると楽山が言うことも、指導、守護、導き、誘惑など、心に起こっている活動や作用を分けてみたのかもしれない、という思考力を、楽山は、持っていない人であることを表すだけなのです。楽山の超常への悪趣味は、いわゆる引き寄せではなく、寄せ集めの悪癖です。
 
楽山には、可能性がありません。根拠のない空想の思い込みを暗示的に繰り返しています。そもそも人格が、既に、自己中絶対の方向に進行性に病んでいるからです。だまされて人格が破壊されるより、だますほうが人格破壊は不可逆になりやすいと思います。しかも、本人は気づかないのです。
 
 
タロット占いをする知人も、これと似たことを話していた。この人の占いはよく当たっていたので、その理由を問うと、何となく分かるのだという。カードのケースにある説明には、カードの意味について抽象的かつ簡潔にしか書いていないのに、なぜカードの意味をそんな風に具体的かつ詳細に語れるのかを問うても答えは同じで、何となく分かるのだという。どうも語るべき言葉が自然と心にうかんでくるらしい。
 
楽山は、よほど、人に影響を受けやすい人格のようです。あるいは、人の口を利用しなくては、何も語れないのでしょうか。こういう情けない有り様も、楽山の知性?と感性?が、実は、欲望だけによることを物語っているのです。
 
楽山は、「語るべき」でない言葉が、不「自然に」浮かんでくるようです。これが、楽山が、ケロッと平気で、人を疲れさせ、傷つけるケース(事件)でしょうか、カース(呪い)でしょうか。
 
 
自分は世界には人知ではうかがい知れぬ不思議なことがあっても別におかしくはないと思うので、オカルト、神秘主義を頭ごなしに否定しようとは思わないのではあるが、心の中での対話は、心の健康のためにはよくないという話は聞くし、霊的存在との対話にハマり込んでしまうと段々とその命令に逆らえなくなり、やがては自分の人生を乗っ取られたり、現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れがあるという話も聞いたことはある。実際自分もこの手の注意の大切さを実感した経験がないでもない。
 
こういう主張にも、今までの宗教は、よろしくないという印象操作が入ってきます。そして、楽山が導こうとしているのは、宗教と信仰を、いい加減に文化として受け止めるのがよい、耳ある者が聞くがよい、・・みたいな教祖願望なのです。人格が腐ると、何にでも成りすましてくるでしょう。
 
オカルトを否定しないだけでなく、むしろ、自分に当てはめている楽山ですが、そのことを「否定しようとは思わない」という言い方で、客観に見せかけて、自らの霊感を受け入れさせようとするのが、楽山の、ボンヤリ言語、という、とても卑怯な細工なのです。
 
「生きている他者との会話ができなくなってゆく恐れ」というのは、「注意の大切さを実感した経験がないでもない」と言って、つまり、自分は霊能者だ、という印象操作の、ボンヤリ言語のインチキのやり方だということを忘れないでください。どんどん、怪しさが増しています。
 
楽山には、能力や洞察に相当する特別なものが、書くものに表れたことはありません。むしろ、楽山の文章と理路は、退屈なだけでなく、歪曲しているところや、足らざる点や、救いがたい欠陥があることだけが、2年の間に明らかになってきました。楽山の文章は、品がなく、とても下劣です。
 
昔、見かけたことのありますが、お祭り騒ぎの乗りみたいに、祭りの出店でタコの入ってないタコ焼きを売るような、下品なインチキ商売だということを、楽山自身が、次々に表しています。
 
楽山やシャロームのような人物が、いちばん、真実を追求する人たちを、自分のインチキレベルにおとしめたり、カウンセリングする人たちの邪魔をしたりする、とても悪質な半端者なのです。まさに「現実にこの世で生きている他者との会話ができなくなって」だまし続けているのが楽山です。
 
 
世の中には霊好きな人…この手のことにどうしてものめり込んでしまわないではいられない人もいるだろうけれども、一般的にはそういうことはほどほどにしておいた方が無難だろうし、できればはじめから近付かないのが一番だろう。触らぬ神に祟りなしというのは本当だと思う。
 
霊好きな人と、まるで他人事のように言っていますが、霊に固執してきたのは楽山です。というより「触らぬ神に祟りなし」と言うなら、霊のことなど、書かなければよいのです。ここは、ある意味、批判者に対する脅迫とも受け取れるでしょう。ヤバい本性です。
 
「触らぬ神に祟りなし」・・悪質です。遠回しに宗教を否定しています。しかし、今までのことから、楽山が考える宗教は、オカルトであって、真の宗教ではないと判断しています。楽山が、分からないくせに、宗教を語るのは、結局、自分のインチキ霊能を宗教がらみで、認めさせる詭弁なのでしょう。
 
知情意の整わない者が、自己愛が高じて、自分は特別なんだと思い込みたくて、数々の思慮と情緒の破綻を指摘されても、他者に笑われても、なお、お気楽に、霊が分かるっぽい自分を、安易に短絡した記事を書いて、霊能妄想を吹聴しているだけなのです。
 
何故なら、霊が分かるっぽい楽山は、まるで、人間が分かっていおらず、つまり、人間の信仰が分かっていないからです。さらに、理路が詭弁だらけで通っていません。情緒が鈍くて、感受することが、いずれも幼稚な夢物語か、おとぎ話の類(たぐい)になっています。小学生の背伸びと同じです。
 
実質が何もないのに、自分を特別な霊的存在だと思いたがるのは、ナルシスト+オカルト趣味の、末路なのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、その不思議世界に妄想の足を伸ばしているのです。
 
かつ、楽山は、その欠陥を全く自覚せず、反省せず、学習による訂正をせず、自分が特別という前提に、しがみついているので、成長のない訂正不能の穴グラに居て、過大な自己愛によって、ひたすら、発信という流涎だけを繰り返して、恥に恥を重ねていることに気づかないでいます。
 
どこにも通用しないし届かない妄想世界の作り話ですから、騙される人が出てこないように、私は、批判記事を書いています。よく平気で、ネットとはいえ、公共に出てきて書けるものだ、というレベルの文章ばかりなのです。
 
こういう、見かけだけ優しい易しいボンヤリ言語で、妄想、虚言、詭弁、印象操作、刷り込み、マインドコントロール、というのは、知らずに感染して、いつのまにか同じような人格破壊の病巣に進行してゆく危険があり、それが楽山のやり方だということです。
 
楽山は、決して、スピリチュアルを云々できる人ではありません。要警戒、というより、要否定だと思います。罪悪感の無いことも併せて、社会の敵としての特徴がそろっています。
 
決して、楽山の言を、吸い込んだり飲み込んだりしないでください。既に受け入れてしまった人は、できるだけ早く、汚物入れか何かに吐き出してください。そして、逃げてください。
 
楽山の影響下にいることは、とても危険です。楽山は、ボンヤリ言語で、どこが詭弁や誘導であるか、ちょっと読んだだけでは分かりにくい書き方をするからです。
 
 
共感を装う下心(したごころ)

共感を装う下心(したごころ)
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年03月31日、再録+加筆)
 
 
 
神と人の違い、神とキリストへの思いの違いについて書いたこと。
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
 
 
※ 
 
屁理屈をこいて、神がいるなら悪がはびこるのは変じゃないか、という、整っていたら信じるけど整わないから信じない、神はいない、と言う者の詭弁に惑わされないでください。神は、人の合理では説明できませんが、人が共感することは出来ます。
 
楽山は、詭弁を弄します。つまり、詭弁だらけの文章を書きます。数か月だまされていた体験に基づいて、私は、約3年余りの批判記事に、そのことを書いてきました。
 
楽山は、あらゆる精神の生産活動において、人間性の健康な精神活動の阻害因子でしかありません。楽山が自分を出してきたら、生産的な心の活動が阻害され、疲弊してゆきます。今まで、ずっとそうです。そこで、ニヤニヤして自己満悦することことが、楽山の生き甲斐であるかのようです。
 
楽山は、自我が過剰に強いために、神を机上のキャラクターのように扱って、理屈に合わないからと、あざけってきたのです。その楽山は、神が合理ではないと言っているが、いちばん不合理なのが自分だということに全く気づけないのです。
 
反キリストと言っていいような体質的悪意の詭弁屋が、手段を選ばずに、キリスト教の信仰に、屁理屈で、いちゃもんをつけてきます。無反省・無責任・無理解・無神経です。加えて、何を返しても、不感不応・訂正不能です。交流も議論も、全く成立しません。
 
インチキな反キリストは、何も答えられないほど、理路は破綻し、心は鈍麻しています。他者に文句をつけてきますが、自分を斬ることも見ることも反省することも出来ません。
 
どうしようもない災いがあるから、人は神に救いを求める、という心情が、楽山には分からないのです。それで、逆に、神が、災いが起こるのをどうして止めないのかと文句を言い、神を否定して悦に入る始末です。楽山には、人の悲しみに共感する心が無いのです。
 
自我絶対の自分信仰から、常識も弁えず、同じ屁理屈を繰り返しています。罪悪感がなく、恥を感じることが出来ないのです。楽山とシャロームと易坊という安っぽい唯我独尊の宗教詐欺師のことです。
 
 
神が、キリストが、聖霊が、神聖が、人の理屈に合っているから信じるのではありません。
神が、人に分かるような合理なら、そもそも信じる必要はないのです。
 
信仰は理屈ではなく、聖書を読んでキリストに共感することです。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
「だよなあ」などの、くだけた言いまわしも、柔和で話の分かる人を装うために、楽山が体質として身に着けてきた誘導の詭弁です。心は、全くの訂正不能の偏見と妄想に支配されています。くだけた、ではなく、破壊された精神病理に侵され支配されている異常人格です。近づかないでください。
 
 
 ※
 
楽山は、超常奇跡を信じ込むことが信仰だと思っているようです。それは、思い込み~妄想であって、キリスト信仰とは何の関係もありません。聖書を読んで、キリストの共感に共感することが信仰です。ゆえに、楽山が、執拗に粘着して信仰を否定しても、無理解による戯言(たわごと)でしかないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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  詭弁の空しい楽山
 
 嫌な感じのする批判、しない批判(マグマリのブログ)
 2021年11月18日 楽山日記(LD)
 
 
自分の悪を人のせいにする偽善の典型です。引用された自称マグダラマリアは、キリスト者ではなく、カルトだと思っています。異を唱えると興奮して「ぷぷぷ」「けとっ」などと言って、あざ笑い、怒号を吐く人で、ヤフーでは自称ヨシュアとともに偽キリスト教を宣伝していました。
 
一緒に宣伝していた自称ヨシュアが「教えを守って完全になれる」と言ったことから、化けの皮がはがれました。酷い勘違いでした。教えを守れない自らを知って、正直に告白し祈ることがキリスト信仰なのです。聖書の登場人物の名を悪用する自称マグダラの罪は深いと思います。
 
自称マグダラマリアは、自称マグダラと略します。楽山は、楽山ですが、ヤフー時代から、様々なHNを使ってきたと思っています。まさに、楽山は、丁寧語と悪口を使い分ける荒らしなのです。決して巻き込まれないように、気をつけてください。
 
*批判されてる?
マリアさんのブログをみたら、「スルー、無視はよくない」という主旨の話を書いてた。自意識過剰かもしれないが、最近は無益な議論は避けるようになっているので、つい自分が批判されてるような気がしてしまった。
ただそれでも少しも嫌な感じはしないのは不思議だ。
 
楽山は、批判され、かつ、それを無視してきました。楽山が、自称マグダラに嫌な感じがしないのは、ほぼ同類だからでしょう。訂正不能の妄想的思想をもって、自称マグダラはカルトを広めようとし、楽山はキリスト教を否定しようとしてきます。
 
*批判それぞれ
考えてみれば、一口に批判といっても、その中には嫌な感じがするものと、しないものとがある。ネチネチした批判もあれば、公明正大でさっぱりした批判もある。
この違いは、一体どこにあるのだろう?
 
楽山は、凶悪であるにもかかわらず、長い間、ボンヤリ言語という丁寧語で、ごまかしてきました。ネチネチしているのは、自己正当化の詭弁が執拗な楽山のほうです。それもバレて、他者にすがるようになったのでしょうか。同じ穴のムジナなのでしょうか。
 
*妄想
まず一つは、妄想のあるなしが影響しているような気はする。
「あいつは内心では悪い事ばかり考えているくせに、口では綺麗事ばかりいってる」「あいつは私を貶めようとたくらんでいるにちがいない。きっと陰では悪口ばかりいってるはずだ」などなど。
こういう邪推、被害妄想ばかりの他者批判は病的で気味が悪いものだ。
 
口で「綺麗事」ばかり言っているのは、他でもない楽山です。そして、この記事のように、他者のHNを出して、「悪口」を当てつけているのも、楽山に他なりません。他者の被害妄想ということにして、すり替えの詭弁を吐いているのも、楽山の常套手段です。信頼度、ゼロです。
 
*偏見
もう一つは、偏見、決めつけ、差別も影響しているだろう。
「あいつは邪悪な奴だ。いつも悪い事をたくらんでいるに決まってる」「あいつが善行なんてするわけがない。もししたとしたら何か邪悪な目的があるからだ。みんな騙されてはいけない」などなど。
こういう差別心が剥き出しになっている発言には、多くの人が嫌悪を感じないではいられないだろう。
 
このように、他者の捏造のセリフを書いてくるのも、芝居好きな楽山の趣味ですが、痒くなるほどの白々しさに、楽山だけが気づかないのです。だから、私は言います。邪悪な楽山には、決して、だまされないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
「差別心」と書いていますが、差別ではなく、楽山を人類の敵だと言っているのです。こういう男を、常識人と平等に遇することは出来ません。凶暴な性根を持っている楽山という悪と偽善に対しては、決して、一部でも肯定的な文言はあり得ないのです。
 
*人格攻撃
もう一つは人格攻撃のあるなしも関係してそうだ。
「あいつはエゴイストだ! 自己中だ!」「あいつは傲慢で、思い上がっている! 謙虚ということをまったく知らない」「あいつには愛がない。愛がない奴は何を言っても、やってもダメだ」「ああいう卑劣な奴には、意見をいう資格はない!」などなど。
こんな風に議論のテーマそっちのけで、「お前は心懸けが悪いからけしからん!」という人格攻撃ばかりだと、ただの悪口にしかならないものだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という人格の病気です。治す薬がありません。したがって、人格が悪いことを指摘してゆくしかありません。だから、はっきり言います。楽山は、嘘吐きのペテン師の人格の腐った病質者です。
 
*理由
想像するに、マリアさんの記事を読んで、自分が批判対象にされてるとは思っても、嫌な気分にならなかったのは、マリアさんの記事からは上の妄想、偏見、人格攻撃などの要素が感じられなかったからなのだろう。
自分も批判記事を書かねばならなくなったときには、この三要素に染まらないように気をつけたいものである。
 
自称マグダラは、世辞や丁寧語には、見かけの、やさしさを返してきます。偽善者は、多く、そのような特徴があります。妄想、偏見、人格異常、楽山には揃っています。まさに、楽山が批判者の人格を、今、批判者が攻撃すると、そういう人だと、印象を刷り込んでいるだけです。
 
楽山は、批判と、攻撃や悪口の、区別がつかないのでしょう。批判されると攻撃されたと言い、自分の、気色悪く臭い宗教否定の屁理屈のことは、棚に上げています。根拠のない婉曲的な丁寧語の悪口は、悪だと分かりやすい悪口より悪質です。丁寧だからと、そのまま信用しないでください。
 
自称マグダラは、表立っては、キリスト教?のブログを書いてきました。反キリストの楽山と同調するのは、実際にはキリスト教を全く理解していないし、信じる気もないことと、カルト妄想者という共通部分があるからでしょう。改めて言います。だまされないでください。
 
今回、楽山が自称マグダラを引用すること、自称マグダラは承知しているのでしょうね。いつも、引用は、無責任に、許可など得ない楽山ですから、一応、心配にはなります。相手の許可を得なくてもいいとされているのは、批判の場合だけなのです。
 
 
何でも利用するペテン師

何でも利用するペテン師
 
 
(2021年11月19日)
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
 
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
※ (ネットより)
きこく-しゅうしゅう【鬼哭啾啾】
悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
記事を書き、その大方に、批判記事があり、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
丁寧語を返せば、楽山が、世辞をいうのは、やっていることがペテン師の技だからです。詭弁、捏造、当てつけ、いちゃもん、そして、無反省、無責任、妄想的訂正不能、自己中、思考と感情の未熟と障害、不祥事を人のせいにするなど、現時点で、救いが全く見られない楽山です。
 
 
 
 
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  昔々書いた詩のようなもの
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
(1999年06月21日)
 
 
  問いの小道
 
ある日
問いは
どこかの小道を
歩いていました
きれいな花や
しぼんでゆく花びらや
ささえている茎や
はぐくんでいる土にも
ときめいたけれど
切り取ったり根こそぎ
摘んでしまっては
わるいからと
めぼしいものを見つけては
クレヨンでスケッチ
クエスチョンでマーク
したりしたり
していました
 
家に持って帰って
スケッチを並べて
あいだをひらひら
舞う蝶には
なれないから
いつかスケッチを見ながら
スケッチブックをふくらませて
なつかしい小道を
目の前にありありと
うかべることができたら
そのときは生きてもいー
死でもいーと
ため息をつきました
 
とぼしいビジョンをかかえて
ため息はまた
すこしやせた問いになって
どこかの小道を
歩いていくのでした
問いは問いを生み
どこまでも問いのまま
いつか問いのまま
問われる先に
名前のないお墓が
明るく陽を浴びて
小道の花々に
隠されていくことを
願うばかりでした
おこってくれー
かくれないでくれー
 
(1997年4月1日)
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が
繰り返す明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
(96年、またはそれ以前)
 
 
  夢の予告
 
目の前に丸い太い
ぶ厚い重い輪が
ぎらぎら毒々しく光る
これは経験から明らかに
(夢の中で経験が生きる?)
持病の偏頭痛の前兆だ
 
というところで目が覚めた
視野の中心から広がる
いびつな三角形の閃輝暗点
今度は紛れもなく経験から
偏頭痛の前兆だ
 
急いで頭痛薬を飲む
起きてしばらくすると
頭の左半分に軽い頭重感
痛みというほどではない
薬は効いている
 
夢が予告した?
網膜と神経に生じた異変を
浅い眠りの
夢の乱れた思考が
取り込んで表現したのか
肉体に対する警告
とても稀な
夢と現実の接触
 
(2006年03月29日)
 
 
  生死の拠りどころ
 
生きることが
死ぬことよりも怖くなるときでも
そうではないときでも
いちばん怖いものは
死ではない だから
いちばん大切なものは
生ではない
生よりも大切なことがある
だからといって それは
死でもない
それは生きることの
拠(よ)りどころとしているもの
と それに関わるすべてのもの
例えば信仰について
例えば詩のようなものを
書いている時間は
生よりも大切だ だから
その時間に事切れても
たとえ未完のまま息絶えても
その死ではなく
その生でもなく
その結実でもなく
その時間は
永らえるためにでも
けっして惜しんではならない
生よりも大切な命の時間だ
 
(2006年03月08日)
 
 
  静けさ
 
心静かに
静かな夜に眠れない
心静かに・・・
 
それは
暇人にも追い詰められるような
瑣事や心配事は
いろいろあるのだけれど
眠れない夜に
不安がいっぱい周りで騒いでいるけれど
負えない荷物に潰れてしまいそうなのに
重さは別のところにあって
ぽつんと独りの
しかも眠れない夜にあるのだ
 
もう将来と呼べるものもないのに
自らの死と
肉親の死に狼狽することしか
待ってはいないのに
やけっぱちでも投げやりでもなく
あきらめでも達観でもなく
とても無さそうな時と所に
眠れない夜
苛立ちとは別に
経過してゆくのだ
 
(2007年06月01日)
 
瑣事(さじ)
さ‐じ【×些事/×瑣事】 の解説
取るに足らないつまらないこと。ささいなこと。小事。「―にこだわる」
 
 
真実 孤独

真実 孤独
 
 
(2021年11月12日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
·4時間
こんな話は、はじめて聞いた。
星と三日月サラディンに会いたい
@saladin4733
以前聞いたことある話
ブラジル人の現地信者でもの凄い伝道成果を上げた人が日本に来た。
日本の信者は彼ほど伝道実績がなく、彼を褒め称えた。
最初は謙虚だった彼は
「なんだ日本の信者は主のもとに生まれたから素晴らしいと思ったがたいしたことはない」
と慢心し、ブラジルに帰って教祖になった。
午後0:04 · 2021年11月10日
 」
午前6:20 · 2021年11月11日
 
「はじめて聞いた」話を、楽山は、議論に耐えるセンスがないために、キリスト教への悪口として無節操に書いてきます。どこでも、宗教には、曲解する人々は当然いるわけですが、楽山が面白がって書いてくるのは、生産性がなく陰湿な反キリストそして偽善者だからです。
 
理路も情緒も整わないために、検証とか考察とかが全くできない楽山ですから、悪口を言って溜飲を下げたいだけで、結果として、卑しい性根を表して、どこまでも、どこまでも、とても原始的な自己愛性人格障害という自分を、自分で証明しているのです。どうか関わらないでください。
 
楽山のような、羞恥心も罪悪感もない反キリスト・反宗教は、自分の言ったことに責任を負わないし負えない卑怯者で、他者の忠告を無視し、一方では、他者の話を食い物にします。そういう醜態を繰り返すほどに分別がないのは、楽山には、まともな自分という人格の尊厳がないからでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。ほとんど、ワームと言っていいくらいです。
 
 
 
 
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  渇き、悲鳴、再録2
  
    終わりに楽山ツイッター批判
 
  渇き
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に雫を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプスで
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
(2016年03月21日、同日一部修正)
(2020年02月29日、さらに一部修正)
 
奏でる(かなでる)
雫(しずく、滴)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
 
  悲鳴
 
 
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
なぜか大きく口を開けようとしている
 
 
叫び

叫び(さけび)
 
 
(2017年10月18日)
(2019年10月17日、一部修正)
(2020年11月08日、若干修正して再録)
 
(2021年11月10日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
「>なにか行動を起こす上では、なにか「目的・目標」があるはずだと。その事です。」
話はズレるかもしれませんが、この考え方はやばい臭いがします。
「人生には目的がある」「あなたには尊い使命がある」という教えに染まりすぎです。
午前7:13 · 2021年11月9日
 
楽山には「人生には目的がある」が、やばい臭いだそうです。楽山は、目的もなく生きているのでしょうか。夢~妄想で、身にそぐわない教祖願望を望んでも、叶えられそうにないからでしょうか。人をだましてばかりで、本当の自分を見失っているからでしょうか。
 
「あなたには尊い使命がある」・・「染まりすぎ」なのではなく、楽山のように、無反省、無責任、無学習では、望むこと自体が、おこがましいのです。楽山は、病質によって、書いても書いても、人を目覚めさせるどころか、人の役には立たず、迷惑ばかり掛けているのです。
 
楽山は、短く呟いても、自己愛性人格障害の我欲によって、中身が自己中になるだけでなく、言葉遣いも成長せずに、雑になり、弾力性も創造性も、欠けてゆくのでしょう。短文に詰め込もうとして、勢いだけになり、ズレた書き方になっています。
 
短い文章さえ、言葉が全か無の雑な短絡になり、教えや使命を信じるな・・みたいな姑息になって、質の問題を、「染まりすぎ」などという程度の問題にして、まとめてしまいます。言葉を使うのが面倒になると、焦点が定まらなくなります。
 
「染まりすぎ」と言って、"染まる" ということについて、肯定してしまい、豪語の一面性や欠点を暴けなくなっています。楽山のように、言葉を疎かにして、訂正不能に生きていると、言葉がメインなのに、乱暴な短絡表現が増えてゆくという例になります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
こういう理想の背景には、メサイアコンプレックスというものがあるともいいます。
自己肯定感の乏しい人が、人のために尽くすことで、自分には存在価値があると確認、満足しようとする心理らしい。
午前6:56 · 2021年11月9日
 
「(ネットより)
 
 メサイアコンプレックス、メシアコンプレックス:
 
救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。
 
自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
 
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
 
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 
 
メサイアコンプレックス
 」
 
まさに、楽山の、教祖願望に、よく当てはまることです。人のことを言って、あるいは、人に言ってるつもりで、自分を表してしまう例でしょう。楽山の実際は、人に迷惑ばかり掛けているのです。自分が上という意識で、批評したり、アドバイスすることのマニアになっているのが、楽山です。
 
楽山の批評やアドバイスを真に受けてはいけません。人に意見していますと見せかけているだけです。自己満足の部屋から、無責任に、何の役にも立たないことを言ってみても、他者の立場に立って考えたり、自己を見つめることがないので、独り笑って籠の中をうろついているだけなのです。
 
楽山の本質は、自己肯定が成り立たない人生であり、その分、嘘吐きのカルト教祖と変わりがないのです。誰も聞いていなくても、上から見下ろして、ああだこうだと言うが、実は、ああでもないこうでもない戯れ言であり、聞いている仮想の聴衆を想定するだけで満悦するのでしょう。
 
読んでみると、自己愛性人格障害のエゴのために、まとまらない自己中の独り言でしかありません。短い文章がそうだから、長い記事になると、詭弁と自己正当化だけが支離滅裂に、胡散臭さを放つだけの、それこそ、自己満足からのお邪魔虫に過ぎないのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。楽山は、人間であり続けることが、ずっと出来ないままなのです。
 
 
 
 
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