ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪用

 
  詭弁の空しい楽山
 
 嫌な感じのする批判、しない批判(マグマリのブログ)
 2021年11月18日 楽山日記(LD)
 
 
自分の悪を人のせいにする偽善の典型です。引用された自称マグダラマリアは、キリスト者ではなく、カルトだと思っています。異を唱えると興奮して「ぷぷぷ」「けとっ」などと言って、あざ笑い、怒号を吐く人で、ヤフーでは自称ヨシュアとともに偽キリスト教を宣伝していました。
 
一緒に宣伝していた自称ヨシュアが「教えを守って完全になれる」と言ったことから、化けの皮がはがれました。酷い勘違いでした。教えを守れない自らを知って、正直に告白し祈ることがキリスト信仰なのです。聖書の登場人物の名を悪用する自称マグダラの罪は深いと思います。
 
自称マグダラマリアは、自称マグダラと略します。楽山は、楽山ですが、ヤフー時代から、様々なHNを使ってきたと思っています。まさに、楽山は、丁寧語と悪口を使い分ける荒らしなのです。決して巻き込まれないように、気をつけてください。
 
*批判されてる?
マリアさんのブログをみたら、「スルー、無視はよくない」という主旨の話を書いてた。自意識過剰かもしれないが、最近は無益な議論は避けるようになっているので、つい自分が批判されてるような気がしてしまった。
ただそれでも少しも嫌な感じはしないのは不思議だ。
 
楽山は、批判され、かつ、それを無視してきました。楽山が、自称マグダラに嫌な感じがしないのは、ほぼ同類だからでしょう。訂正不能の妄想的思想をもって、自称マグダラはカルトを広めようとし、楽山はキリスト教を否定しようとしてきます。
 
*批判それぞれ
考えてみれば、一口に批判といっても、その中には嫌な感じがするものと、しないものとがある。ネチネチした批判もあれば、公明正大でさっぱりした批判もある。
この違いは、一体どこにあるのだろう?
 
楽山は、凶悪であるにもかかわらず、長い間、ボンヤリ言語という丁寧語で、ごまかしてきました。ネチネチしているのは、自己正当化の詭弁が執拗な楽山のほうです。それもバレて、他者にすがるようになったのでしょうか。同じ穴のムジナなのでしょうか。
 
*妄想
まず一つは、妄想のあるなしが影響しているような気はする。
「あいつは内心では悪い事ばかり考えているくせに、口では綺麗事ばかりいってる」「あいつは私を貶めようとたくらんでいるにちがいない。きっと陰では悪口ばかりいってるはずだ」などなど。
こういう邪推、被害妄想ばかりの他者批判は病的で気味が悪いものだ。
 
口で「綺麗事」ばかり言っているのは、他でもない楽山です。そして、この記事のように、他者のHNを出して、「悪口」を当てつけているのも、楽山に他なりません。他者の被害妄想ということにして、すり替えの詭弁を吐いているのも、楽山の常套手段です。信頼度、ゼロです。
 
*偏見
もう一つは、偏見、決めつけ、差別も影響しているだろう。
「あいつは邪悪な奴だ。いつも悪い事をたくらんでいるに決まってる」「あいつが善行なんてするわけがない。もししたとしたら何か邪悪な目的があるからだ。みんな騙されてはいけない」などなど。
こういう差別心が剥き出しになっている発言には、多くの人が嫌悪を感じないではいられないだろう。
 
このように、他者の捏造のセリフを書いてくるのも、芝居好きな楽山の趣味ですが、痒くなるほどの白々しさに、楽山だけが気づかないのです。だから、私は言います。邪悪な楽山には、決して、だまされないように、関わらないように、近づかないようにしてください。
 
「差別心」と書いていますが、差別ではなく、楽山を人類の敵だと言っているのです。こういう男を、常識人と平等に遇することは出来ません。凶暴な性根を持っている楽山という悪と偽善に対しては、決して、一部でも肯定的な文言はあり得ないのです。
 
*人格攻撃
もう一つは人格攻撃のあるなしも関係してそうだ。
「あいつはエゴイストだ! 自己中だ!」「あいつは傲慢で、思い上がっている! 謙虚ということをまったく知らない」「あいつには愛がない。愛がない奴は何を言っても、やってもダメだ」「ああいう卑劣な奴には、意見をいう資格はない!」などなど。
こんな風に議論のテーマそっちのけで、「お前は心懸けが悪いからけしからん!」という人格攻撃ばかりだと、ただの悪口にしかならないものだ。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という人格の病気です。治す薬がありません。したがって、人格が悪いことを指摘してゆくしかありません。だから、はっきり言います。楽山は、嘘吐きのペテン師の人格の腐った病質者です。
 
*理由
想像するに、マリアさんの記事を読んで、自分が批判対象にされてるとは思っても、嫌な気分にならなかったのは、マリアさんの記事からは上の妄想、偏見、人格攻撃などの要素が感じられなかったからなのだろう。
自分も批判記事を書かねばならなくなったときには、この三要素に染まらないように気をつけたいものである。
 
自称マグダラは、世辞や丁寧語には、見かけの、やさしさを返してきます。偽善者は、多く、そのような特徴があります。妄想、偏見、人格異常、楽山には揃っています。まさに、楽山が批判者の人格を、今、批判者が攻撃すると、そういう人だと、印象を刷り込んでいるだけです。
 
楽山は、批判と、攻撃や悪口の、区別がつかないのでしょう。批判されると攻撃されたと言い、自分の、気色悪く臭い宗教否定の屁理屈のことは、棚に上げています。根拠のない婉曲的な丁寧語の悪口は、悪だと分かりやすい悪口より悪質です。丁寧だからと、そのまま信用しないでください。
 
自称マグダラは、表立っては、キリスト教?のブログを書いてきました。反キリストの楽山と同調するのは、実際にはキリスト教を全く理解していないし、信じる気もないことと、カルト妄想者という共通部分があるからでしょう。改めて言います。だまされないでください。
 
今回、楽山が自称マグダラを引用すること、自称マグダラは承知しているのでしょうね。いつも、引用は、無責任に、許可など得ない楽山ですから、一応、心配にはなります。相手の許可を得なくてもいいとされているのは、批判の場合だけなのです。
 
 
何でも利用するペテン師

何でも利用するペテン師
 
 
(2021年11月19日)
 
 
 
  きっと恥
 
引きつって声にもならず
みすぼらしい人格を残したまま
端から端へ滑って転んで
探し物でもしてるふり
山に入るか川に潜るか
きっと答えは街の中
こだまして泣いてこぶだらけ
 
 
  亡霊妄想
 
働きのない熱は
真冬の硬質な大気に
曝(さら)され刺されながら
凍てつく駐車場へ向かう
 
やがて外の風を通さない
走る車の温められた鍋の中で
シートにべったり沈み込んで
フロントガラス越しに
冷たい光へ首だけを晒(さら)して
首から下は煮汁になってゆく
 
とにかく仕事もせずに
給料だけ盗んでいるという
とんでもない人ですから
と思う人がいて言う人がいて
人を貶(おとし)めるために
人の名を騙(かた)る人がいる限り
 
社会の片隅で益々(ますます)動けず
動かないまま流れてゆくだけの
働きのない熱は
帰ってきて車を降りてから
再び大気に曝され
凍り付いた灰汁(あく)から澱(おり)までを
今度は部屋の暖房で
再び融(と)かそうとしている
 
これほど浮かばれぬ
亡霊になろうとは
生きながら鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう)
いつまでも不十分な
凍結と融解のまま
 
 
※ (ネットより)
きこく-しゅうしゅう【鬼哭啾啾】
悲惨な死に方をした者の浮かばれない亡霊の泣き声が、恨めしげに響くさま。転じてものすごい気配が漂い迫りくるさま。
 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録(1.が誰のコメントかは不明)
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
注意しても聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。一般の「人間の性」などではなく、ゆえに、「自分もそんな風です」などという言い訳は成り立ちません。楽山固有の悪と罪と偽善です。これは、正常では考えられない病質の反応です。
 
記事を書き、その大方に、批判記事があり、それらに、一切、反論も弁明も出来ないならば、正常なら、記事を控えるものです。楽山が無反省に記事を書いてくること自体が、楽山の、訂正不能の自己愛性人格障害を証明しています。楽山の、もはや不可逆の病質的欠陥なのです。
 
丁寧語を返せば、楽山が、世辞をいうのは、やっていることがペテン師の技だからです。詭弁、捏造、当てつけ、いちゃもん、そして、無反省、無責任、妄想的訂正不能、自己中、思考と感情の未熟と障害、不祥事を人のせいにするなど、現時点で、救いが全く見られない楽山です。
 
 
 
 
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  昔々書いた詩のようなもの
 
 
  祈り・実感を
 
もうしばらく傍(そば)に
いて下さいませんか
さびしい
と声に出してしまいそうですから
しかも調子外れの怒号のように
すでに出しているのです
 
でも声帯は震えているものの
咽喉(のど)の吸い殻の
泡沫を振動させて
歯間を開閉しているだけなのです
 
いつも傍にいて下さる
と教えられるだけでなく
すべての体液が覚えるほどに
染(し)み込ませることが出来たなら
ずぶ濡れになった厚紙の五感のために
五臓六腑に満々と
湛(たた)えられた廃液のために
動きの取れなくなった五体も
眠りすぎた疲労も
声なき吠(ほ)え面も
澄んだ自虐のうちに
然(しか)りは然り
否(いな)は否
と捌(さば)き捨てて
液体へ気体へ
霧散・昇天お許しを
流れるままに乞いゆきましたものを
 
(1999年06月21日)
 
 
  問いの小道
 
ある日
問いは
どこかの小道を
歩いていました
きれいな花や
しぼんでゆく花びらや
ささえている茎や
はぐくんでいる土にも
ときめいたけれど
切り取ったり根こそぎ
摘んでしまっては
わるいからと
めぼしいものを見つけては
クレヨンでスケッチ
クエスチョンでマーク
したりしたり
していました
 
家に持って帰って
スケッチを並べて
あいだをひらひら
舞う蝶には
なれないから
いつかスケッチを見ながら
スケッチブックをふくらませて
なつかしい小道を
目の前にありありと
うかべることができたら
そのときは生きてもいー
死でもいーと
ため息をつきました
 
とぼしいビジョンをかかえて
ため息はまた
すこしやせた問いになって
どこかの小道を
歩いていくのでした
問いは問いを生み
どこまでも問いのまま
いつか問いのまま
問われる先に
名前のないお墓が
明るく陽を浴びて
小道の花々に
隠されていくことを
願うばかりでした
おこってくれー
かくれないでくれー
 
(1997年4月1日)
 
 
  夢の肌
 
眠れない夜は
ひとつの世界
重なりあう思いに
乱れた欲望に
解き放たれようと
夢の肌を探る
天井と床の間で
さまよう視線が
繰り返す明滅のうちに
苦しみながら呼んでいる
ひとつの旅
光も闇も
夢と眠りの跡を
ゆるやかに流れ
消えて
忘れた言葉のような
弱々しい悔いと気分を残して
新しさにまだ気づかない
朝を迎える
夢の肌のあせるころ
 
(96年、またはそれ以前)
 
 
  夢の予告
 
目の前に丸い太い
ぶ厚い重い輪が
ぎらぎら毒々しく光る
これは経験から明らかに
(夢の中で経験が生きる?)
持病の偏頭痛の前兆だ
 
というところで目が覚めた
視野の中心から広がる
いびつな三角形の閃輝暗点
今度は紛れもなく経験から
偏頭痛の前兆だ
 
急いで頭痛薬を飲む
起きてしばらくすると
頭の左半分に軽い頭重感
痛みというほどではない
薬は効いている
 
夢が予告した?
網膜と神経に生じた異変を
浅い眠りの
夢の乱れた思考が
取り込んで表現したのか
肉体に対する警告
とても稀な
夢と現実の接触
 
(2006年03月29日)
 
 
  生死の拠りどころ
 
生きることが
死ぬことよりも怖くなるときでも
そうではないときでも
いちばん怖いものは
死ではない だから
いちばん大切なものは
生ではない
生よりも大切なことがある
だからといって それは
死でもない
それは生きることの
拠(よ)りどころとしているもの
と それに関わるすべてのもの
例えば信仰について
例えば詩のようなものを
書いている時間は
生よりも大切だ だから
その時間に事切れても
たとえ未完のまま息絶えても
その死ではなく
その生でもなく
その結実でもなく
その時間は
永らえるためにでも
けっして惜しんではならない
生よりも大切な命の時間だ
 
(2006年03月08日)
 
 
  静けさ
 
心静かに
静かな夜に眠れない
心静かに・・・
 
それは
暇人にも追い詰められるような
瑣事や心配事は
いろいろあるのだけれど
眠れない夜に
不安がいっぱい周りで騒いでいるけれど
負えない荷物に潰れてしまいそうなのに
重さは別のところにあって
ぽつんと独りの
しかも眠れない夜にあるのだ
 
もう将来と呼べるものもないのに
自らの死と
肉親の死に狼狽することしか
待ってはいないのに
やけっぱちでも投げやりでもなく
あきらめでも達観でもなく
とても無さそうな時と所に
眠れない夜
苛立ちとは別に
経過してゆくのだ
 
(2007年06月01日)
 
瑣事(さじ)
さ‐じ【×些事/×瑣事】 の解説
取るに足らないつまらないこと。ささいなこと。小事。「―にこだわる」
 
 
真実 孤独

真実 孤独
 
 
(2021年11月12日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
·4時間
こんな話は、はじめて聞いた。
星と三日月サラディンに会いたい
@saladin4733
以前聞いたことある話
ブラジル人の現地信者でもの凄い伝道成果を上げた人が日本に来た。
日本の信者は彼ほど伝道実績がなく、彼を褒め称えた。
最初は謙虚だった彼は
「なんだ日本の信者は主のもとに生まれたから素晴らしいと思ったがたいしたことはない」
と慢心し、ブラジルに帰って教祖になった。
午後0:04 · 2021年11月10日
 」
午前6:20 · 2021年11月11日
 
「はじめて聞いた」話を、楽山は、議論に耐えるセンスがないために、キリスト教への悪口として無節操に書いてきます。どこでも、宗教には、曲解する人々は当然いるわけですが、楽山が面白がって書いてくるのは、生産性がなく陰湿な反キリストそして偽善者だからです。
 
理路も情緒も整わないために、検証とか考察とかが全くできない楽山ですから、悪口を言って溜飲を下げたいだけで、結果として、卑しい性根を表して、どこまでも、どこまでも、とても原始的な自己愛性人格障害という自分を、自分で証明しているのです。どうか関わらないでください。
 
楽山のような、羞恥心も罪悪感もない反キリスト・反宗教は、自分の言ったことに責任を負わないし負えない卑怯者で、他者の忠告を無視し、一方では、他者の話を食い物にします。そういう醜態を繰り返すほどに分別がないのは、楽山には、まともな自分という人格の尊厳がないからでしょう。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。ほとんど、ワームと言っていいくらいです。
 
 
 
 
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  渇き、悲鳴、再録2
  
    終わりに楽山ツイッター批判
 
  渇き
 
 
カラコロチリンと
グラスの中の氷が奏でるように
乾ききった手に雫を運んで
顔も見ないままに
私たちは狭い風穴を共にした
 
噛み合わないシナプスで
血液の味を免疫に高めるのに
静止画の乾いた表面で
動画のピクセルを節約する拙筆が
支離を閉じようと短絡し
取り残された玩具の
ヒョレアの座標を集めては
籠る狂気の微睡む限界を超えようと
やたら草色や肉色を集めようとした
 
命の懐に絆を確かめようと
幾つもの唖然と沈黙を
塗っては乾かしてみるけれども
ほどよく設えた春の夜に
少なくともそう呼んだ時間に
スリットを抜ける光の誤差を
罅割れそうな器に
語らうように
魂の欠片をよそっていた
 
ここだけの反乱は抵抗にもなり得ないで
青白い光子の掠め去る暗闇に
ひとつひとつの屈折を
グラスの濡れた咽喉の非対称が描くものに
私たちは息を潜めるしかない
 
 
(2016年03月21日、同日一部修正)
(2020年02月29日、さらに一部修正)
 
奏でる(かなでる)
雫(しずく、滴)
風穴(かざあな、ふうけつ)
玩具(がんぐ、おもちゃ)
ヒョレア=舞踏病
籠る(こもる)
微睡む(まどろむ)
懐(ふところ)
絆(きずな)
設える(しつらえる)
罅割れる(ひびわれる)
欠片(かけら)
掠める(かすめる)
咽喉(のど、いんこう)
潜める(ひそめる)
 
 
 
  悲鳴
 
 
いつからか
私の目の前には
いつも悲鳴が鳴り響いているようだ
 
それは通り過ぎるときに
刃物のように何かを
切り裂いてゆくようなのだが
紙のように何か
切り裂かれているようでもある
 
飛び散るものが音も声も
さらに引き裂いてゆくようで
 
耳を塞いでも聞こえてきて
眼を閉じても見えてくるのに
一度も正体を見せないのだ
 
私はそこに
自分の泣き顔を
置いてみたくなることがあったけれど
それは一度も
乗せてはくれない
 
とても冷たくて
なのに
血のように熱して
しぶきのように
閉塞の壁にぶち当たっては
そこから行方知れずなのだ
 
夕焼けだろうか
それは一度も
消息など告げてはいないのだったが
 
いつの日からか
曲線の
細くふるえて
声が声であることを否みながら
この世で最も激しく
沈黙のように打ち消しあって
 
私は耳を塞いで
首を激しく振りながら
なぜか大きく口を開けようとしている
 
 
叫び

叫び(さけび)
 
 
(2017年10月18日)
(2019年10月17日、一部修正)
(2020年11月08日、若干修正して再録)
 
(2021年11月10日、再録+)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
「>なにか行動を起こす上では、なにか「目的・目標」があるはずだと。その事です。」
話はズレるかもしれませんが、この考え方はやばい臭いがします。
「人生には目的がある」「あなたには尊い使命がある」という教えに染まりすぎです。
午前7:13 · 2021年11月9日
 
楽山には「人生には目的がある」が、やばい臭いだそうです。楽山は、目的もなく生きているのでしょうか。夢~妄想で、身にそぐわない教祖願望を望んでも、叶えられそうにないからでしょうか。人をだましてばかりで、本当の自分を見失っているからでしょうか。
 
「あなたには尊い使命がある」・・「染まりすぎ」なのではなく、楽山のように、無反省、無責任、無学習では、望むこと自体が、おこがましいのです。楽山は、病質によって、書いても書いても、人を目覚めさせるどころか、人の役には立たず、迷惑ばかり掛けているのです。
 
楽山は、短く呟いても、自己愛性人格障害の我欲によって、中身が自己中になるだけでなく、言葉遣いも成長せずに、雑になり、弾力性も創造性も、欠けてゆくのでしょう。短文に詰め込もうとして、勢いだけになり、ズレた書き方になっています。
 
短い文章さえ、言葉が全か無の雑な短絡になり、教えや使命を信じるな・・みたいな姑息になって、質の問題を、「染まりすぎ」などという程度の問題にして、まとめてしまいます。言葉を使うのが面倒になると、焦点が定まらなくなります。
 
「染まりすぎ」と言って、"染まる" ということについて、肯定してしまい、豪語の一面性や欠点を暴けなくなっています。楽山のように、言葉を疎かにして、訂正不能に生きていると、言葉がメインなのに、乱暴な短絡表現が増えてゆくという例になります。
 
 
★こも楽山/楽山日記3
@komo266
こういう理想の背景には、メサイアコンプレックスというものがあるともいいます。
自己肯定感の乏しい人が、人のために尽くすことで、自分には存在価値があると確認、満足しようとする心理らしい。
午前6:56 · 2021年11月9日
 
「(ネットより)
 
 メサイアコンプレックス、メシアコンプレックス:
 
救世主妄想とも呼ばれる。個人が救済者になることを運命づけられているという信念を抱く心の状態を示す言葉である[1]。狭義には誇大妄想的な願望を持つ宗教家などに見られる心理状態を指すが、広義には基底にある自尊心の低さを他者を助けることからくる自己有用感で補償する人々をも含める。
 
自分は不幸であるという感情を抑圧していたため、その反動として自分は幸せであるという強迫的な思いこみが発生するとされる。さらにこの状況が深まると、自分自身が人を助ける事で自分は幸せだ(自分には価値がある)と思い込もうとする。
 
このような論理になるのは、幸せな人は不幸な人を助けて当然という考えを自らに課す事で「自分は幸せである、なぜなら人を助けるような立場にいるから」と考えられるからである。本来は人を援助するその源として、まず自らが充足した状況になることが必要であるが、この考えは原因と結果を逆転させている。
 
そうした動機による行動は自己満足であり、相手に対して必ずしも良い印象を与えない。また相手がその援助に対し色々と言うと不機嫌になる事もある。しかもその結果が必ずしも思い通りにならなかった場合、異常にそれにこだわったり逆に簡単に諦めてしまう事も特徴的である[2]。 
 
メサイアコンプレックス
 」
 
まさに、楽山の、教祖願望に、よく当てはまることです。人のことを言って、あるいは、人に言ってるつもりで、自分を表してしまう例でしょう。楽山の実際は、人に迷惑ばかり掛けているのです。自分が上という意識で、批評したり、アドバイスすることのマニアになっているのが、楽山です。
 
楽山の批評やアドバイスを真に受けてはいけません。人に意見していますと見せかけているだけです。自己満足の部屋から、無責任に、何の役にも立たないことを言ってみても、他者の立場に立って考えたり、自己を見つめることがないので、独り笑って籠の中をうろついているだけなのです。
 
楽山の本質は、自己肯定が成り立たない人生であり、その分、嘘吐きのカルト教祖と変わりがないのです。誰も聞いていなくても、上から見下ろして、ああだこうだと言うが、実は、ああでもないこうでもない戯れ言であり、聞いている仮想の聴衆を想定するだけで満悦するのでしょう。
 
読んでみると、自己愛性人格障害のエゴのために、まとまらない自己中の独り言でしかありません。短い文章がそうだから、長い記事になると、詭弁と自己正当化だけが支離滅裂に、胡散臭さを放つだけの、それこそ、自己満足からのお邪魔虫に過ぎないのです。
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。楽山は、人間であり続けることが、ずっと出来ないままなのです。
 
 
 
 
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  楽山の痴的生活
 
 『知的生活を求めて』渡部昇一著
 2021年10月17日 楽山日記(LD)
 
 
(ネットより)
渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930年〈昭和5年〉10月15日 - 2017年〈平成29年〉4月17日[1])は、日本の英語学者、歴史家、評論家。上智大学名誉教授。専攻は英語文法史。
 
批判されて、弁明できないのに、また書いてくるというのが、不感不応で、病識のないサイコパスの特徴です。自己愛性人格障害だからでしょう。楽山は前に、"スルーする" とか言っていましたが、要するに、無視することしかできないという証拠の履歴になります。
 
*概要
本書の前半は、体が弱い著者がいかにして健康を保ちつつ知的生活を送ってきたかが語られ、後半はもっぱら健康法について語られている。その中では下痢対策はいかにも効果はありそうである。興味のある方は本書で直接確認することをおすすめしたい。
 
楽山は、自分が精神の健康を保ち得ないために、健康法について読んでも偏向し、書いても偏向してゆく特徴があります。ここでは、不健康に気づいておらず確認できない楽山の欲望と意地から、破綻して危険な自己満悦の下痢が続いているだけです。
 
したがって、健康のための対策や効果など、全く期待できない雑言だけになっています。本を読んで、このような短い記事一つで感想を終わらせること自体が、異常なのです。今までも、ずっと、そのような安易な短絡で書いてきたことに、気づくことはなかったのです。
 
*肉食肯定
本書では宗教に関連した話題もあり、その中で興味深かったのは肉食に関しての話だった。
著者は元々は肉は食べられない質だったが、大学に入って神父の話を聞き、人間には魂はあるが動物はそうではないと確信し、その後は肉を食べられるようになったという。この確信と行動を一致させるために一度だけ蛙を踏み潰してみたこともあったそうだ。
 
「大学に入って」から「神父の話を聞」いてから「人間には魂はあるが動物はそうではない」と確信するというのは、少し変ではないでしょうか。だから、肉を食べられるようなったというのは、もっと変ではないでしょうか。本当に著者のことでしょうか。
 
考える職業の人とは思えないです。楽山は、文脈を間違えて読んではいるのではないかとさえ思います。楽山のように、自己中に、自分に都合のよいところだけ読んで書いてゆくやり方だと、文章の随所に誤読や曲解が入ってくるのかもしれません。
 
健康法と知的生活について書くのに「蛙を踏み潰し」たことを書く必要があるでしょうか。著者が楽山と同じ残酷な変態だと言いたいのでしょうか。楽山は、不正直な虚言が当たり前になっている変態ですから、文章を書くセンスがないことが分かっています。
 
また、霊媒師が死んだペット(犬)の霊を呼び出すことができなかったことも動物には霊魂はないことを確信する遠因になったともいう。人霊を呼び出すことができる霊媒師であっても、もとから存在しない動物霊は呼び出せないのだと。
 
霊魂がないのを、霊媒師によって知るというのは、本当に、著者の文章なのでしょうか。楽山が書きそうなことです。学者が、霊魂を信じているのでしょうか。楽山なら、霊が分かるっぽい自覚の変態で異常者だから考えられますが。
 
これらは自分には理解し難い考え方ではあるが、著者のようにはっきり割り切ることができるなら余計なストレスはなくなるだろうし結構なことではあるかもしれない。
 
楽山は、自分に似ているから、「理解し難い」と書きながら「はっきり割り切る」「ストレスはなくなる」「結構なこと」などと、賛同しています。ここで疑問をいだかない楽山は「かもしれない」などと語尾を濁しても、異常です。
 
*蓄積効果
知的生活についての話では、勉強の遅れていた者が地道な努力を重ねるうちに急に周囲が目を瞠るような実績を上げはじめただとか、クラシック音楽のよさが理解できなかった著者が、クラシックを聴き続けるうちにある日突然クラシックに感動できるようになったというように蓄積効果に触れた箇所は実に興味深かった。
 
著者は、楽山が好きになりそうな心霊オタクなのでしょうか。楽山が勝手に妄想を込めているだけなのでしょうか。「蓄積効果」について書いています。それは、努力した人に恵まれるものであって、自己中の怠慢は、幻の満悦に依存して悪酔いするだけです。
 
(ネットより)
蓄積効果:
薬剤を反復投与したとき,初回の投与時よりも著しい効果が発現する現象.
蓄積作用:
〘名〙 薬物をつづけて服用する場合に、薬物が体内に蓄積して、過量に服用したのと同じ中毒作用を現わし、危険な中毒症状を呈すること。
 
楽山は、恐らく、心霊的インスピレーションみたいに受け取って、自分も今そうなんです・・とでも言いたいのでしょうか。しかし、楽山ブログのどこにも、そのような目覚めは感じられません。いつも、うんざりするような退屈で幼稚な文章ばかりです。自己愛毒の蓄積作用でしょうか。
 
努力は必ず報われるとは限らないことは承知しているが、それでも自分のように天分に恵まれない者にとっては努力が報われた話は愉快なものである。こういう希望を持てる明るい話はいつ読んでもいいものだ。渡部昇一の著作は、ただ読むだけで前向きな気持にさせてくれるのでありがたい。
 
楽山に「天分に恵まれない」自覚があるなら、とっくに書くことを遠慮しているでしょう。ずっと、学者気取りで思い上がって書いてきたことが、そして、批判されても、返せないことと、ブレーキが効かないことが、既に、この謙虚芝居を全否定しているのです。
 
楽山は、努力したことはないと思います。何故なら、自己愛性パーソナリティ障害NPDは、既に完全に出来ている自分を訂正不能にしているからです。「希望を持てる明るい話」「前向きな気持にさせてくれる」・・楽山は、無根拠に、努力もないで、希望ではなく、欲望と妄想を持っています。
 
楽山は、このように、有名人の話を、自分の都合に勝手に引き寄せて、自己正当化に結びつける病質者です。楽山の引用は、悪用と言っていいでしょう。楽山の読書は、妄想から多幸症を呼び覚ます手段に過ぎません。有名人を引き寄せる謙虚芝居、だまされてはいけません。
 
 
※ 
 
前の記事で、楽山が画像で示して、賛同していたツイートについて、引用元のツイートをあげておきます。
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
 元ツイート
 
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
たまに「自分の意見を言うなんてそんなわがままなことできません」とおっしゃる方がいますが、自分の意見を言うことは普通です。わがままではありません。
午前0:27 · 2019年2月1日·Twitter for iPhone
 
「自分の意見を言うことは普通です」・・これで楽山は自己正当化したいようです。自分の意見に責任を持つ範囲での話です。楽山は、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、訂正不能の自己愛性パーソナリティ障害NPDです。精神衛生のために、誰も関わることのないように、批判を続けています。
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
·7月12日
返信先: 
@takeheart_dさん
「状況を考えずに自分の意見を何が何でも押し通す」というのならわがままになりますが、「自分の意見を言う」という段階ではわがままにはなりません。モラハラ加害者や毒親は、相手が自分の意見を言う、というその段階で、相手のことを「わがままだ」と言うことによって意見を言えなくさせて支配する。
 
楽山は、状況も、それまでの文脈も、無視して、詭弁で、繰り言のような宗教否定を繰り返します。その多くは、印象操作であり、キリスト教に対する偏見を語り、訂正不能です。その都度、否定してゆくしかありません。丁寧だというだけで肯定し、刷り込まれてしまう人がいるからです。
 
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
当たり前のことを書きますが、「自分の意見を言う」ことと「自分の意見を押し付けない」は両立しますからね。
「自分の意見を言う=相手に押し付ける」と思ってしまっている人が結構います。
「私はこう思う」は意見を言っているだけで、「私はこう思うからあなたもそう思いなさい」が押し付けです。
午後11:55 · 2021年8月2日·Twitter for iPhone
 
趣味とか語っているのではなくて、真実というテーマで語る場合、相反する意見がある場合は、説得するか、修正可能であるか、控えることです。根拠もなく言い張り続ける楽山は、訂正不能の自己愛性人格障害なので、修正することも、控えることも出来ません。言論が成り立たない人です。
 
 
恣意の謙虚芝居

恣意の謙虚芝居
 
 
(2021年10月18日)
 
 
 
  秋の日・一
 
歩いているようないないような
振り返れば誰もいない
前を向き直しても誰もいない
そういうシーンが幾度となく繰り返されて
芝居は終わった
帰ろうと立ち上がれば舞台もない
出口に向かおうとすると客席もない
さわやかな秋の日だ
 
 
  点滅信号
 
いつまで繰り返すのだろう
不在と存在の
今夜も独り芝居
丸く浮かんだ眼は
フロントガラスに一瞬
するりと映りはするのだが
目指す先はいつも違っていて
差し伸べる小さい光は
バックミラーからも逸れて
すでに次の光の道程へ
車の喘ぐような
吐息が遠ざかる
 
 
  繰り言の目
 
また引っ張り出すのか
泣くこともできないくせに
それとも時々引きつけみたいに
顔をわなわな震わせるのは
泣いているつもりか
 
それに時々独りの部屋で
ホーとかガーとか奇声を発するのも
笑っているのではなさそうだな
テレビのお笑いにも
顔の肉は薄暗く弛んだままだ
 
最近ちょっと変なのは
前にも言ったようなこと
また今になって並べるのは
言ったこと忘れてしまったのか
 
繰り言という兄弟だ
愚痴も兄弟だ
引っ張り出すことが勝手でも
長いこと涙したことないだろう
 
歪んだ分別が邪魔しているのか
その赤い結膜の炎症の眼
涙一滴も落としていないくせに
つり上がって尖った細い眼で
強がるのだけは止めてくれ
 
 
 
 
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  楽山の猿真似芸
 
 『私と宗教』渡邊直樹編
 2021年10月09日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の、身の程を知らず、言葉の重さをはかることも出来ない人格障害が表れています。このようなやり方で、宗教、信仰、スリピリチュアル、政治、思想などを、好きなように、自分は分かるんだとばかり、吹聴してきました。何一つ、楽山自身のオリジナルはないのです。
 
*概要
本書は、宗教をテーマにしたインタビュー集である。インタビューを受けているのは、高村薫、小林よしのり、小川洋子、立花隆、荒木経惟、高橋惠子、龍村仁、細江英公、想田和弘、水木しげる。
*金光教
個人的には、本書に収録されたインタビューの中で、もっとも情緒を刺激されたのは小川洋子のものだった。まず第一には、小川洋子の信じている金光教の「お取次」のやさしさである。「お取次」では信者の話を神様に伝えてくれるらしいのだが、その際はああだこうだとお説教をしないで黙って話を聞いてくれるらしい。これは信者からしたら有り難いだろうと思う。
 
「黙って話を聞いてくれる」人が大好きなのは、楽山に他なりません。何故なら、疑問にも、批判されても、楽山は、何も弁明できないからです。楽山自身に対して、やさしくて、楽山を無条件に盲信する人を、楽山は求めているのです。そのために、楽山は、こういう記事を書いてきます。
 
金光教は布教活動に積極的ではないという話も興味深かった。その理由は、「世界にはキリスト教が必要な人も、ユダヤ教が必要な人も、イスラームが必要な人もいる」「金光教が必要な人は向こうから来るという考え方」をしているからだというが、これは神を信じ、人を信じているからこそなのだろうと思う。
 
「必要な人は向こうからくる」でしょうか。何も知らされないで来るでしょうか。人間は伝える努力をするべきでしょう。楽山は、伝える言葉を持たないので、インチキや、三文芝居や、詭弁や、ウソまで言って、人を釣ろうとしてきます。だから、楽山は、こういう記事を書くのです。
 
*宗教を信じてるなんて…
他に刺激を受けたことはといえば、知的方面では、高村薫と立花隆の話が愉快だった。
まず高村薫がいうには「宇宙のすべての存在というのは、目に見えないごく小さな素粒子が永遠に運動を続けている」「死んで灰になっても消えたわけではなくて、素粒子はどこか別のところに移動して、また消滅を繰り返す。これが私の中では仏教の「空・縁起」の世界にものすごく近いんです」とのことである。ものの材料となるものが何らかの法則によって離合、集散、構成、分解ということを繰り返しているというのはよく分かる。
 
小説家の高村薫と評論家の立花隆の、自ら証明したわけではないところの、物理学談義を広げているかのような話は、想像力を掻き立てる話として書いているわけです。したがって、そのまま、真理として分かる話ではありません。
 
こういう談義を、楽山のような、一気に偉くなりたいだけの自己顕示欲は、まるで、真理を得たかのような「よく分かる」という賛辞を送ります。これで、真理が分かったことにされては、たまったものではありません。
 
楽山は、自身の、蚤のような器に納まれば、神のような真理を得たと思う人だということです。楽山の浅薄さにすっぽり納まるので、楽山は分かると言っているだけなのです。つまり、幼稚な話以外には分からないということを、楽山自身が白状しているということになります。
 
立花隆の話では、宇宙全体のうち、光で認識できるのは4パーセント(望遠鏡で分かるのはその半分)、あとは光で認識できない暗黒物質23パーセント、暗黒エネルギー73パーセントだという。さらにこういうことに関心がある立場からすると、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」なのだそうだ。これはさすがに言い過ぎではないかとは思うが、心の癒やしを求めるならともかく、世界を理解するためには宗教より科学の方がよく、これを反対に考えるのはどうかしているというのなら理解できなくもない。
 
持ち前のボンヤリ言語「理解できなくもない」という言い方で、楽山が刷り込もうとしているのは、結局、「宗教を信じてるなんていうのはばかみたい(笑)」ということでしょう。評論家の軽率な発言を、楽山は、自己の正当化と美化のために、悪用するのです。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDなので、罪悪感がなく、恐れを知りません。楽山が、有名人の発言を、ケースバイケースで重みを分けることもなく、専門分野の区別もしないで、大仰に褒めるとき、必ずと言ってよいほど、下種な刷り込みの狙いがあることを知ってください。
 
 
真似をする猿の赤いケツ

真似をする猿の赤いケツ
 
 
(2021年10月10日)
 
 
 
キーワード: 真似
 
 
  末路に立つ
 
人が生きている
と言えるほどに
私は生きているだろうか
人が死んだ
と言えるほどに
私は日々死につつあることに
気づいているだろうか
ああ何という末路に立って
情の絡みをほどこうとしている
舌の痺れか
目の回転か
手足の不随意か
肉体は常同の仕草で
ところかまわず真似続けるのだ
人が生きている
と言えるほどに
私に殺すべきものがあったかどうか
 
 
  悪い奴め
 
好きなことをすればよい
今なら暇(ひま)はいくらでもある
いくらか貯(たくわ)えもある
 
好きなことをすればよい
テレビもある
バイクも車もある
足まである
 
好きなだけ影を踏みなさい
好きなことをすればよい
印鑑もある
パスワードもアドレスもある
家まである
 
好きなだけ光を取り込みなさい
何でも好きなことをすればよい
 
物があって範囲が決まる
場所があって動かない
免許があって限られる
 
それら皆かつては
手の届かなかった自由たち
 
暇はある時間はズレる
写真はいつも手配される
鏡はいつもこの眼を見ている
好きなこと好きなこと好きなこと
免許はいずれ無効になる
貯えはいずれ底をつく
手はいずれ後ろに回る
 
見苦しい真似(まね)はせず
文句は言わない人には温和に
ひっそり乱れて暮らす
衣食は倹約無精大好き
 
でも光に写せる影がない
影に成り立つ人がいない
光に倒れる影ばかり
影に潜む陰(かげ)ばかり
 
 
  祈り・最後の誘惑
 
最後の最後が訪れたとき
耳元で囁(ささや)く者がいるだろう
イエスはキリストと呼ばれるほどに
偉大であったかもしれないが
そのイエスが
誰にも真似のできないことを行い
真似のできないことを言ったがために
お前はキリストの幻想に騙(だま)されたのだ
 
未来があったとしても
過ごす間は耐えがたく
過ぎてしまえば束の間に過ぎない
もうこの歳で
良い未来が待っているとは思えないけれど
そんなこの世の未来以上に大切な
現在の希望を失うことなく
自分の過去と人生を
思い込みの不幸で塗り潰さないために
死を視ること帰するが如し
 
その囁きに対して
永遠の友なるキリスト
我が慕いまつる主
イエス様になら騙されても構わない
 
父なる神の御手のうちに
壊されるのが望みである
と言えるほどの信仰だけを下さい
 
私を絆(ほだ)して下さい
そして離さないで下さい
 
悲しみだけではない時を
知るでありましょう
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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