ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:悪魔

 
  悪魔とは?
 
 悪魔とは何か? (『釈尊のさとり』増谷文雄著)
 2018年04月24日 楽山日記(LD)
  を批判。
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
楽山は、悪魔とは何かを語れるのでしょうか。超常ホラー趣味の楽山は、人間とは全く別の超常の存在として考えているように思われます。ゆえに、楽山は、自らの悪魔性に気づかないのでしょう。
 
 
『釈尊のさとり』を読んだ。講演録とのことで読みやすくてよかった。
多少の補筆修正はあるらしいが、やはり口述したものはわかりやすくてよい。
ところで著者によると、釈尊は、悪魔とは何かと問われた時に、
以下のように答えたと経典 (南伝・相応部経典、23の11、魔。漢訳、雑阿含経、6の14、魔) に書いてあるらしい。孫引きだけど、その部分をここにおいてみる。
「ラーダよ、色(肉体)は悪魔である。受(感覚)は悪魔である。想(表象)は悪魔である。行(意志)は悪魔である。識(意識)は悪魔である。
ラーダよ、そのように観じて、わたしの教えを聞いた聖なる弟子たちは、色を厭い離れ、受を厭い離れ、想を厭い離れ、行を厭い離れ、識を厭い離れる。厭い離れることによって、貪りを離れる。貪りを離れることによって、解脱するのである」  
(『釈尊のさとり』〈講談社学術文庫〉増谷文雄著、講談社、1996年、pp.62-63)
 」
 
この著者の文章で「わかりやすくて」とは、到底、思えません。ホラー映画の悪魔ではなく、その邪悪さは、人間の性質に深く関係している者という捉え方のようです。楽山は、いったい何が分かるというのでしょう。
 
 
この部分について、著者は次のように解釈している。
ここにいうところの色・受・想・行・識というのは、人間を構成する肉体的・精神的なる五つの要素をあげたものであります。それを仏教では、古来から「五蘊」(五つの要素の意)と称して、人間はもともと五蘊の和合して成れるものだとするのであります。といたしますと、いま釈尊が、その五つをあげて、それらが悪魔であると仰せられているのは、とりもなおさず、人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔であるといっておられるのであります。 
(同上、p.63)
 」
 
悪魔について、人間とは別の超常ホラー映画に出てくるような存在ではなく、楽山のような、「人間の肉体と精神のまよい」が悪魔であると言っているようです。超常については、人間の手に負えないものとして、作り話にしないほうがよいでしょう。
 
 
これは五蘊仮和合による解釈なんだろうと思う。
それなら、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」という解釈になるのも当然ではある。
ちなみに、五蘊仮和合については、この記事が分かりやすり。
・五蘊仮和合|宇宙のこっくり亭
 
リンクだけで、楽山は引用も解説もしないので
 
(ネットより)
我は無い。
それが、お釈迦さまの教え。
ここで言う「我」とは、インド思想でいう「アートマン」。
アートマンとは、「生まれ変わり、死に変わり、永遠に存続する個の実体」 (真我、要するに霊魂)。
つまり、「霊魂は無い」というのが、お釈迦さまの教えです。
もちろん、「自分」はいます。
でなきゃ、今ここでブログを書いたり読んだりしている、私は一体だれ?・・・ということになる(笑)。
自分は有る。 でも、自分の実体は無い。
言ってみれば、ブッダの人間観とは、実体がなく、中身がカラッポな人間。
じゃあ、人間って何なの?・・・という疑問に答えて、ブッダは「五蘊仮和合」(ごうんけわごう)という人間観を提示しました。
五蘊とは、色・受・想・行・識。
ざっくりと言えば、色は肉体作用。 他の4つは精神作用とでも言おうか。
これらは、人間を構成する5つの要素。 すべて、壊れやすくて、一瞬で壊れるのが特徴。(ただし、壊れるたびに一瞬で再生する)。
人間は、これらの要素の寄せ集めで出来ています。 
ただの寄せ集め。 中身はカラッポ。
永遠に存続するモノなど、何もない。
真実の自己は、たった今、この瞬間(即今)にしか存在しない。
 
壊れやすい、永続するものはない、・・人間の有り様でしょうか。
 
 
また著者は、上の文章に続いて、さらに踏み込んで次のように結論付けている。
さらにいうなれば、その悪魔なるものは、この外界に跳梁する非人間的存在としての悪魔をいうのではなくして、ただ人間の心理を描写するために、神話的文学形式として悪魔なる表現を利用しているにすぎないのであります。 
(同上、p.63)
 」
どうも著者の考えは、悪魔なる存在があるというのではなく、
人のまよいのことを悪魔と表現しているのにすぎないということらしい。
悪意を持って、人をたぶらかし、地獄に引きずり込むという
超自然的な存在としての悪魔について説いているのではないと…。
 
どちらの意味でも、楽山は、自分が当てはまることに、まるで気づいていないのです。そして、「非人間的存在」として、関わる人を「たぶらかし、地獄に引きずり込む」悪意と詭弁と嘘しか持ってはいないのです。超常であろうと人であろうと、良心の敵であります。
 
 
これはどうなんだろう?
上にある部分についていえば、
確かに、「人間の肉体と精神のまよい、それが悪魔である」と説いているようである。
この部分については、これ以外の解釈はなさそうではある。
 
迷い、というより、悪意、なのです。迷っているなら、自覚することもあるでしょうが、悪意を生き方としてしまうと、もはや、迷いでもなく、笑いになってしまいます。笑いと怒りしか持っていない人格障害を、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)またはサイコパスというのです。
 
 
でも、だからといって、
経典の他の部分についても、すべてこれと同じ解釈が成立しうるだろうか。
経典のなかで、悪魔について語っている部分はすべて、
人間の心理を神話的文学形式で表現したものだと断言できるのだろうか。ここは疑問である。
 
だから、特別に悪性の、楽山のような、悪意しか持たず、だますことで快感を得ているような病質者もいることを、注意・警戒する必要があります。そうなると、もはや、心理ではなく、精神病理ということになるのでしょう。
 
 
ただ著者は、こうも書いている。
初期の仏教経典には、よく梵天説話や悪魔説話がでてまいります。だがそれらは、単なる神話ではございません。それらは、初期の経典の編纂されたころに、よく用いられた一つの心理描写のための文学形式であります。  
(同上、p.61)
 」
これによると、悪魔、または梵天を用いた表現形式は、
初期の経典の成立したころには、かなり一般的なものだったということらしい。
 
少なくともいえることは、超常や神霊についての話は、人に置き換えて教訓とする以外に、人にとって、手に負える話ではないのです。私たちは、地上の日常に生きており、超常に注意を向けてばかりだと、楽山のような妄想性になってしまい、人間性が壊れてゆくでしょう。
 
 
とすれば、
悪魔は現実の存在ではなく、心理描写の一つに過ぎないという解釈は、
上にあげられた部分に限定されるものではなく、初期の経典全般について言えるということになりそうだ。
 
心理描写だけにとどまらず、精神病理、精神異常、精神病質、精神破綻、精神破壊なども考えてよいと思います。それを、発症し、体現し、まるで基盤のように持ち歩き、そこから、自他の人格破壊が進行してゆく例が、まさに、楽山やシャロームとして存在しているのです。
 
 
著者は続けて書いている。
たとえば、釈尊の心中において、すぐれた思想が生れ、すぐれた所信が成立したという場合には、それがしばしば梵天説話をもって描写されているのであります。
それに反して、釈尊やその弟子の心のなかに、なんぞ疑惑やまどいなどが生じたという時には、それを描くにしばしば悪魔説話なる文学形式をもってしているのであります。 
(同上、p.62)
 」
「しばしば」という言葉からすると、
初期の経典に記されている梵天、悪魔の話は、
その多くは心理描写の一形式にすぎず、
そういうことが現実にあったということではないということらしい。
 
聖書にある超常のことは、現実にあったかどうかも併せて、人間が云々する能力はないのですから、そこからは、イメージや教訓として受け取って、分からないところは、恐れをもって、神に任せるしかないことです。一方、そういう超常にこだわって悪霊のようになっているのが楽山です。
 
 
悪魔が現実に存在するかどうかは、確認しようがないことではある。
ただ著者の意見からすると、
悪魔の存在の根拠として、仏教経典にそのことが明記されているとか、
釈尊がそれを説いたなどと主張するのは無理があるようである。
 
悪魔、悪霊は、聖書に書いてありますが、それを、そのまま、超常ホラーのことだと考えるのは早計であり、もしそうだとしても、人間に悪魔を解き明かすのは不可能と知るべきでしょう。卑近には、楽山のように、良心が無い人を、悪魔のような人と比喩~仮称しているに過ぎません。。
 
 
換言すると、悪魔それから梵天などの存在を信じるのは自由であるが、その存在証明として、仏教経典や、釈尊のことばを用いるのは無理だということ。初期の経典を読むと、釈尊はリアリストのようでもあるし、これも当然のことなのかなと思う。〈了〉
 
ここまで見てきても、楽山の書く文章は、因業のように「らしい」「ようである」「かなと思う」という曖昧な語尾が多いボンヤリ言語です。曖昧と、丁寧や柔和は、違います。とんでもないことを言っているのに、断定してないから責任はない、などという言い分は、決して成り立ちません。
 
 
悪魔みたいな?

悪魔みたいな?
 
 
(2022年08月07日、再録+加筆)
 
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深い
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
 
  ある一日の告白
 
神様が一日無事に生かしてくれた
手を組み跪(ひざまず)いて
感謝すればよいのか
悪魔が一日無駄に殺してくれた
拳を握り胸を打ち
悔(くや)しがればいいのか
お前ではないか
一日を生きたのも
一日を殺したのも
充分に生きれなかったのも
充分に死ねなかったのも
お前自身ではないか
 
脅(おび)えさせるものが来る
底なしの闇から現れて
すぐそこまでやって来ている
根こそぎ掴(つか)み取ろうとする
底なしの臓腑へ落とそうとする
首の骨を潰す
脆(もろ)くなった首を吸い込む
首が伸びてゆく気が遠くなる
ぎしぎしと何処かで音がする
遠ざかる
灯がちらつく
最期に呟く
夢のようでした
声にならない
フッと蝋燭(ろうそく)が消える
消すのは作ったものだ
脅えるお前を追いかけて止まない
お前自身が生み出したものだ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
反省しないのは、非人間の性です。悪魔の性です。悪霊の性です。他に、どう喩えたらよいでしょう。決して人間の性ではありません。異常な精神または人格を持っている人、および、それに近い状態になった人に表れてくる現象~症状です。
 
現代の悪魔は、サイコパスと呼ばれる者たちでしょう。良心が無い、罪悪感が無い、平気で嘘を吐く、あざ笑いと怒り~憎しみだけで、悲しむことがない、自己中の満悦だけを求める、・・それらは、遺伝と環境から生まれてきます。交わること自体が不幸と言える対象者です。
 
 
 
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  楽山の大好物
 
 『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著
 2021年01月09日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、キリスト教の功労者と言われている神学者・伝道者を引用していますが、書いてあることは、キリスト信仰に沿うものではないと判断しています。
 
キリスト教も一枚岩ではない、というところを、楽山は、大好物のように、しゃぶりまくっています。そういう侮辱が、良心を持たない楽山の生き甲斐なのです。
 
*良書
ヨブ記のことを知りたいと思い本書を読んでみた。文章は分かり易く、時折、余談としてヨブ記に関連した興味深い話が紹介されているところが有り難い。おかげで初学者の自分でも、最後まで退屈することなく楽しく読めた。
 
そもそも、分かる・理解するということが、楽山に見られたことはありません。そういう内容の文章を書けたことがないということです。したがって、今回も、楽山にとって興味深いのは、ストーリーを表面的になぞって、分かったと言って自慢するためのネタ探しでしかないと思います。
 
初学者の姿勢とは全然かけ離れた高慢によって、楽山は、キリスト教と神を、見下してきました。初めてだろうが、熟練だろうが、楽山のように無反省・無責任の態度を改めないでは、決して学ぶ者にはなれないのです。
 
「あとがき」によると、本書はNHKの古典講座という番組のために語ったものに筆を加えたものだそうで、平易で読みやすい文章になっているのはこのためかもしれぬ。
次に本書のなかで、特に印象に残った箇所についてメモしておきたい。
 
楽山が、平易というより安易に受け取り、勝手に、読みやすいと見なしているだけです。聖書の深みに、無反省・無責任のまま、到達することはありません。楽山のような心の無い者に、聖書から与えられる良きものは何もないのです。
 
*サタン
まず一つ目は、三人の友人たちとサタンとの関わりについてである。
サタンはこの敗北以後再びその姿をヨブ記の中に現わさない。三章以下のヨブの友人との論争においても、四二章後半の物語においてもその顔をのぞかせていない。これはサタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.36)
 」
前の記事で、三人の友人たちとサタンとの関わりについて、wikiの記述をひきつつ書いたのだが、本書では「サタンが友人にその姿を変えているためだとみることができよう」とさらに踏み込んだ解釈がされているのには驚いた。
 
楽山にとっては、ヨブの友人が悪魔だということにしたほうが、面白いのでしょう。この友人は、私たちなのです。そして、ヨブも、私たちなのです。そうでなければ、読む意味がありません。
 
ですから、何でも他人事として眺めて批評家気取りで独り言を書いて、一歩も踏み込むことのできない無反省・無責任の楽山が、ヨブ記を読んでも、全く無意味であります。
 
ヨブの信仰は度重なる艱難にも揺らぐことはなく、
 
ヨブは、甚だ揺らいでいます。ゆえに、自己正当化に走りました。楽山は、いったい、何を読んでいるのでしょう。また、言葉面だけ、都合のよいところを拾っているだけのようです。
 
サタンは敗北して姿を見せなくなるが、その後はヨブの友人の姿をして再登場し、ヨブを誘惑しているのではないかというのだ。
 
こういう筋書きのほうが、楽山のようなホラー好きの半端者には、面白いのでしょう。本も、聖書も、読めば、至るところで、短絡して決めつけてきたのです。そして、それを、そのまま、考えもせずに、評価として書いてくる厚顔であります。
 
サタンともなれば立派な説教をし、真理を語ることができるので、
 
サタンは、悪意しかないので、立派な説教など出来ません。ましてや、真理を語ることなど論外です。ゆえに、サタンは、楽山と同じように、真理や幸福に見せかけて、だますだけです。楽山は、サタンが、大好きなのでしょうか。よく似ています。
 
傍目には正しい人のように見えて、そう簡単にはサタンだと見破れなくなるともいうが、これもその一例であるといえそうだ。
 
そうして、サタンの餌食になるのは、楽山と、楽山にだまされた者たちでしょう。
 
また本書では、ヨブに神を呪って死ぬことをすすめた妻についても次の指摘している。
ヨブとその一家が今までたびたび述べてきたような大きな不幸に出会い、そのいわば巻き添えを食った妻の言葉としては至極もっともなことである。このような彼女の言い分は妻の仮面を被ぶったサタンの言葉と称してもよい。そればかりでなく後に登場する三人の友人のいうところもまた突き詰めればヨブに対するサタンの誘いの言葉だと見ることができよう。
(同上、p.34)
 」
こういう見方は、ヨブの妻や三人の友人たちには酷なものではあるが、ヨブ記の設定からすれば一理ある見方ではあるだろう。
 
やはり、楽山が引用するだけあって、まるで、何でも悪者と見たら悪魔にしてしまうような、楽山と似たような短絡があります。このように、自分で善悪を決めつける人は、楽山のように、自分を見ることができなくなる恐れがあるので、要注意です。
 
善悪の裁きは、神の専権であります。信仰者は、判断して行動し、反省して祈ります。その姿勢を失ったら、楽山のような無反省・無責任・無節操・無理解・無知と無恥の者になるだけです。楽山の、その有り様は、もはや、惨劇であります。
 
*エレミヤ
二つ目は、エレミヤについてである。
本書では、エレミヤとヨブの共通項を繰り返し指摘しているが、たとえば、エレミヤ書、ヨブ記のうちで、本書で論じられている部分を貼ってみるとこうなる。
正しいのは、主よ、あなたです。
それでも、わたしはあなたと争い
裁きについて論じたい。
なぜ、神に逆らう者の道は栄え
欺く者は皆、安穏に過ごしているのですか。
(エレミヤ12-1)
わたしのはらわたよ、はらわたよ。
わたしはもだえる。
心臓の壁よ、わたしの心臓は呻く。
私は黙していられない。
(エレミヤ4-19)
わたしが話しかけたいのは全能者なのだ。
わたしは神に向かって申し立てたい。
(ヨブ13-3)
 」
この部分は通して読んでも違和感がないし、両者に共通するものがあるという指摘はもっともである。
それにしても聖書を読むと、人は神に対して頭を垂れて従うだけでなく、強く自己主張をする場面があって驚かされることがあるが、それができるヨブも、エレミヤも、とてつもない勇者であるといえるのではあるまいか。
 
いつもの、神とキリストをおとしめる楽山の常套手段です。悪者が安穏に暮らすなんて不当じゃないか・・等々、神に文句を言い、神に人が評価を下してよい、という口実を捏造しています。偽善者は、このように、自分が幸福いっぱいに過ごせるのでなければ、神を認めないという自己中です。
 
ヨブは、勇者ではありません。ただ、楽山のような悪意ある偽善者ではなく、結局、神の他には寄る辺のない正直な人間です。ヨブ記の最後に、ヨブは、そのことを知るのです。
 
*ヨブの強情さ
三つ目は、ヨブは強情であったが、それによって救われたという指摘である。
スイスの著名な神学者カール・バルトは「神に対するヨブの強情さ」ということを語っているということである。彼は友人に対して頑固であるばかりでなく、神に対しても強情である。しかしそのような強情こそ最後に彼を導いて救いに至らしめたものであろう。
(『ヨブ記 その今日への意義』浅野順一著、岩波書店、1968年、p.101)
 」
 
神に対しても強情であったために、ヨブは、神に叱られました。ヨブを救いに導いたのは、強情ではなく、神であります。
 
楽山の詭弁は、学者の言から、楽山の都合のよいところだけを拾って載せてくるところにあり、楽山が賛同するときには、楽山の欲望の狙いによって選択され、その結果、糊塗されてゆきます。
 
自分は、ヨブは自己に正直であり、嘘をつくことはできなかったので、納得できないことは納得できないと言うしかなかった、納得できていないのに納得したふりをして黙ることはできなかった、それだからこそ、求めよ、さらば与えられんという如く、神を見ることができ、救われたと考えているので、これを「強情」とするのにはいささか抵抗はあるのだが、まあ三人の友人たちの側から見たら間違いなくヨブは強情に見えたであろうことは了解できるし、この表現にヨブへの親愛の情、ユーモアも含まれているように感じられるところは好ましく感じる。
 
そう言っている楽山は、稀に見る甚だしい詐欺師的な嘘吐きであり、詭弁屋であります。そのことは、記事の文章に自ずと表れるゆえに、また、自分の言っていることに斬られている楽山です。
 
ヨブへの親愛の情とか、ユーモアとか、いい加減な軽口を言うところにも、楽山の、おちゃらけの隙だけに反応する生き方が滲み出ているということです。こういうのは、出てしまうものなのです。何度も、不可避的に、楽山は、自分で自分を切り刻んで、お笑いになってゆくことでしょう。
 
*アダムとエバ
四つ目は、「神の責任」についてである。
アダム、エバは殆ど不可抗力ともいうべきヘビの誘惑に敗れ、そこから彼らの不幸が生れた。ヨブの場合であっても、ヨブを試みることをサタンにゆるしたのは神である。もしこの時神がそれを許さなかったならばヨブはなお幸福な生活を一生続け得たであろう。彼が不幸に陥ったということは彼の責任ではなく、むしろ神の責任である。それにもかかわらず、彼はその不幸のために苦しまねばならなかった。そこにヨブ記が我々に示す大きな問題がある。
(同上、p.167)
 」
これは神義論に関わる問題なので、ほとんど解決不可能であるように思うけれども、だからこそ考えないではいられないのだからおかしなものである。この問題に興味がない人にとっては、どーでもいいことなのだろうけれども、自分はまだ関心を失ってはいないので、もう少し追いかけてみたいと思う。
 
著者は、かなり偏った人物なのでしょうか、それとも、楽山の引用の仕方がおかしいのでしょうか、幸福を世俗的基準で決めつけています。そして、ヨブの不幸が神の責任と言っています。人間の中で、神の責任を問える者などいません。神が試練として与えたということです。
 
聖職者であろうと、神学者であろうと、功労者であろうと、全面的に信頼して、鵜呑みにしてはいけないという例になるでしょう。神の責任を問いながら、併せるべき神の愛を説いていません。楽山が、都合のよい一部だけを引用しているのかもしれません。楽山が、よくやることです。
 
楽山に飛びつかれ、気に入られて、吸い尽くされそうな人物です。しかし、引用が、本当に主旨であっても、護教主義でもない私には、この神学者を弁護する義務はありません。
 
ヨブ記は、神と人の関係のうち、神の全能の権威が、試練と救いによって、人に及ぶことを表している話です。楽山は、自らの罪悪について考えず反省もせず、いつまでも分からない反キリストだから、他者を悪用してでも、けなすだけでしょうが、信仰者は、分かっていてほしいところです。
 
記事全体としては、楽山と似たような者が近くにいて、サタンのような追従と誘惑によって、道を外れる犠牲者がいるのではないか、ということを暗示しています。神義論に関わることではなく、どこまでも楽山の悪意に関わることになってきます。
 
楽山は、学者までも、真実追求ではなく、自我の欲望に従って、都合のよいところだけを漁って拾って、使いまくります。楽山の底知れない闇が、また犠牲者を求めています。楽山には、決して関わらないでください、近づかないでください。お願いします。
 
 
えもの

えもの
 
 
(2021年01月11日)
 
 
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