ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:悪魔性

 
  楽山の悪魔性2
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。むしろ、楽山は、そのサイコパシーを、書いて表すことによって、逆説的に、明らかにしてゆくのです。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、省略します。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ですから、また、実際に読んでみても、決して、対立を超えて日本文化の将来を考えられるような人ではありません。
 
 
*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。
 
このように学識経験者の名前を挙げるのは、自己顕示の強い者が、憧れ、そして、妄想的に同一性をいだいている症状として、それこそ、自らの傲慢と高慢を表している症状なのです。
 
 
座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。
 
楽山の主張の特徴は、全ての発言において、その根拠が全く示されていないことをもって妄想だと判断できることです。有名人なのでしょうか、私は、よく知りませんが、楽山の決めつけであれば、意に介する必要もないということです。
 
 
一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。
 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして、むしろ無知と無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、哀れなほど、ランダムでインチキです。
 
 
*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。
 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にもなりません。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
 
*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。
 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、既に使われているのに、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらに無宗教と結び付けるとは、言葉の現実的な中身を失っています。
 
 
*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。
 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうか、つまりご利益の有無で判断しています。祈りの心が無い証拠なのです。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の無思慮の揶揄以外、皆無です。
 
 
*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
神の計画的な導き、思想展開
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた
 
神の計画を、人間は完全に走りえない、という分別を持つべきです。軽口で、しかも決めつけて豪語するから、このように、楽山のような外道の企みに利用されるのです。新生される神の計画など、誰も知っているとはいえず、毛ほども知る由もない楽山が、勝手な豪語に至っています。
 
 
キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。
 
キリスト教に折れる来世問題は、推測と創造であって、決定事項ではありません。おとぎ話的なところもあるでしょう。キリスト教の世界観を、キリストの愛と共感を知らずに考えてしまう楽山のような、無節操こそが、あらゆる宗教と信仰の敵となります。
 
 
また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。
 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。大本教は神道の一派でしょう。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁を吐く人も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、理路がない、深い情緒がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
 
横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。
 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて、語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。真善美に、いちばん邪魔になる自己中です。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
 
信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。
 
楽山が、そういう判断をするということは、自分は、絶対の立場に立っていると言っているようなものです。楽山は、絶対に絶対ではなく、人間としても、情けないほど、人間としての自立した思考を持っていない人です。偏見だけで、宗教をまとめたつもりでしょうか。・・病気です。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
 
自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。
 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教なんかクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な、自己破滅的な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったと思います。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして、人格が壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
干からびる無神教カルト

干からびる無神教カルト
 
 
(2021年06月29日)
(2022年07月01日、再録+加筆)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・、人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。それに対して、逐一、批判する以外に方法はないのです。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしているとは思えないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、ヒステリックになって、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えているようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上捧げるものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  悪魔
 
悪魔とは何か。
それは今、私の中に満ちているものである。
と考えてみる必要があろう。
他人について魔女狩りをする前に、
自らの中に潜んでいる悪魔狩りをしてみるべきである。
それが到底できないことに気づくであろう。
私はさびしく語るほかはない。
他人を見る心において
私はしばしば悪と親しく、
絶望のふちにおいて
私は魔と友人である。
私は人をむさぼり
自らをむさぼり
むしばまれてゆくだけなのか。
父なる神はどこにおられるのか、
わが救い主はどこにおられるのか。
皿に盛られた料理を汚く残したまま
私はかつて笑いの中で主の盃に加わり、
今は嘆きの中で顔をそむける。
そむけた顔の後ろに、忘れようとして
忘れることのできない言葉のまなざしに
主よ、あなたの御名によって・・・
私という名の悪魔が
父の手によって裁かれますように。
私はさびしくつぶやき
不遜の祈りを語り続けるだろう。
 
 
  悪魔の臨終
 
軽い手帳はめくられた
涙のように
パラパラと
安い花は乾いて散った
時計を手にした信仰が
秒針のように優しくうなずいて
病者を見つめ
死者を送るとき
哀れみという哀れみが
牢獄のように彼を囲んだとき
そこにいる誰もが知らないところで
とてつもなく激しい嘔吐が起こり
病者は墓穴を求め
はじけた煙のように消え失せた
かわりに年老いた天使が目覚めて言う
「あなたがたが安い施しをしたので
あなたがたが天国を約束されているなら
地獄へ落ちたいと彼は望んだ」
 
 
  自棄と慈悲
 
人と人との適正な距離を
維持するだけの平静な
路面さえも失いつつある
復讐の念に燃え狂い
のたうちまわる欲求不満に
無気力・無為が横たわる
そういう自閉の距離を取るだけで
今世界中の人が死んで
自分一人になっても
冷蔵庫があって食べ物があれば
普段と同じように食べるかもしれない
今世界中の人がいても
同じだから
いや少し違う
 
これ以上近づきませんから
何もしませんから
と昔ハンセン氏病の慈悲深く
心貧しき偉人が言ったのを
真似ようとするかのような
苦し紛れの距離の取り方
 
二十年あまり前に戻って
二十年後を見てきたと
ひとこと言って
胸を突いて果てたいのだが
それができる仕組みではないし
今できないことを
二十年前に戻ってできるはずもないから
神様でも悪魔でも
恥さらしと知って恥をさらす
この生ける屍の肉体の
後始末をお任せするしかないのだが
少し楽になったことがある
 
肉親の安否を前より気遣わなくなった
自分の安否はもっと気遣わなくなった
 
(※ 40歳頃の作)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山の気楽さで宗教を考えていると、宗教も信仰も何の意味もないものになるでしょう。そういう刷り込みを楽山はしているのです。そうやって、楽山自身が、全く救いようのない前途を自ら表しています。楽山に期待するのは、とうに諦めています。楽山の影響を誰も受けることのないように願っています。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
 > 長期間「攻撃的プロフィール」の被害に遭っています。
棒氏は、自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けているかのように書いてるけど、そういう嘘はよくない。
しっかりと霊的人生観をもち、閻魔様と向き合うときのことを想像し、反省して下さい。
 
楽山は、数えきれない嘘を吐き、詭弁を弄してきました。楽山こそ「自分は何もしてないのに、一方的に不当な攻撃を受けている」つもりで、自らへの批判を無視しているわけで、その時点で、楽山の発言の信頼度は、ゼロなのです。
 
「嘘はよくない」・・ブーメランです。楽山が、楽山に言われています。自分の嘘を省みず、よくも、そんなことが言えるものだ・・と、ブーメランは帰ってくるわけです。自分が言えば言うだけ、自分が落とされてゆきます。楽山は地獄の憑き物です。
 
人生観に「霊的」を付けるのも教祖願望の表れでしょうか。「閻魔様」と向き合うことになるのは誰でしょう。超常趣味で、嘘吐きで、詭弁屋の、楽山は、焼きが回って、いずれ、焼き切れるのでしょうか。良きものを、一度も、しっかり持ったことのない楽山が、身の程を知らずに、吹いています。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
(省略)
自分は間違ったと気づいても、だんまりを決め込み、うやむやにする人が多いですから、これだけでも立派なことだと思います。
 
「自分は間違ったと」気づかず、あるいは、認めず、隠して、無視するのが、「うやむや」人生の楽山です。人に「立派なこと」を教える資格など、あるはずもありません。堕ちてゆく楽山は、落山でしかありません。このブーメランは、隠し事の報いでしょう。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
では、HSの場合はどうかと言えば、他の方が提示してくれた画像を使わせてもらうと、こうなってます。
伝道目標は、教祖が期限を設けて決めていることが明らかになった時点で議論終了です。
 
教組みたいになって目立ちたいだけのペテン師、楽山の、議論に見せかけた自己中妄想語りは、楽山の嘘と詭弁と無反省と無責任と自己愛性パーソナリティ障害が明らかになった時点で、邪悪な言論無資格であり「終了」というより、始まってもいなかったということです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  祈りとは3
 
 
祈りは
人から
神への
言葉による唯一の音信であります。
 
そこにのみ、言葉での
神に対する人の自発性が表れます。
 
出来事
思うこと
感じたこと
学んだこと
悔いていること
罪の告白
赦しと導きを乞うこと
 
信仰を固定してはいけません。
 
心の中が定まったからと思って
心の中をそのまま変えないことが
信仰だと勘違いしてはいけません。
 
定まって変わらないのは
神の御心であって
人の心ではないのです。
 
人が自分の心を変えないようにと思っても
人には心を不変に保つだけの強さはありません。
 
言葉が変わらなくても
心は変わります。
 
言葉が違えば気づくでしょう。
心が違うことは気づきにくいのです。
心は変わるものと思っておくべきです。
 
人の心を変えないようにすることは
人が自らを弁えず無理をすることであり
神が人を変えようとすることを
つまり成長させようとすることを
拒む行為であります。
 
信仰において
人が自らの分を超えて無理することは
かえって心を損なうでしょう。
しかも、御心に背く行為なのです。
 
罪なら罪の
願いなら願いの
ありのままを正直に神に告白し
そのとき告白できなかったことは
気づいたときに改めて告白して
改めて神の導きを乞い
そして出来ることをして
待つのが信仰です。
 
不安定になってはいけないと
いつも同じようなことを祈るのは
人が不完全であり罪の性質を持っていて
さらに
元々不安定であることを知らないからです。
 
人間ならば
日々、様々なことをして
様々なことを思うのであり
日々がまるで一緒ということはないはずです。
 
人の避けられない変化を
やみくもに変わってゆくことから
神の御心によって変わることが出来るように
神によって心が解放されるのが信仰です。
 
まるで悟りの境地に達した気分で
人が完全不変を自分で保つかのように
神が開いた心を変わらないようにすることは
新たな導きを拒む姿勢なのです。
 
赦しに加えて
癒しと
落ち着きと
安らぎという恵みは
信仰によって
神から与えられるのであって
 
人が自分で癒えるように落ち着くように安らぐように
自分で心の姿勢や態度を固めようとするのは
神の導きを拒むことであり
信仰を自分で保てると慢心することなのです。
 
揺るがない信仰というのは
忍耐強さのことであり
けっして不変や固定を意味してはいません。
 
人は地上に生きているあいだ
頻繁に他者の影響を受け
さらに我執の誘惑に直面しています。
 
それは悪魔の誘惑に近く
つまり
人は悪魔性を内蔵しているということです。
 
悪魔性に
信仰の確信?を貼りつけてはいけません。
 
偽善者は
まさに自らの悪魔性に動かされて
癒えることなく落ち着くことなく安らぐことなく
他者を下に見る分
いつも他者を気にして
他者に刷り込みを繰り返し
神の御心から離れてゆきます。
 
要は努めるべきこととして
人として
神の前でだけは
何よりも正直を心掛けることだけが
信仰において唯一正しいと言える弁えであります。
 
"ねばならない"
ということは多くはないのです。
「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである」
(ルカ10:42)
という教えは
信仰がシンプルであることを教えています。
 
神の前に、正しさをいくら述べても通用しないのです。
最も正しい御方が相手だからです。
 
神の前に、どれだけ愛を語っても通用しないのです。
最高の愛を持っている御方が相手だからです。
 
神の前に、正直以外は、通用しない。
 
このことは、私たちが、
余計な荷を下ろし
無くてはならないもののほうを選ぶためです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
 (マタイ11:30、新約聖書)
 
信仰は
他者に対しても
自分に対しても
人間の自由意志に働くのであって
脅迫でも強迫でもありません。
 
 
祈る 心

祈る 心
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年06月22日、再録+加筆)
 
 
 
  小屋から
 
小屋から屠殺(とさつ)場まで
死ぬのは一瞬で
死んだあと食われること
など分からないから
殺されるとも知らずに
飼葉(かいば)をのんびり食(は)んでいます
涎(よだれ)を垂らして何度も何度も
反芻(はんすう)しながら
 
小屋から刑場まで
飼葉桶(かいばおけ)から十字架まで
殺されると知りながら
血と肉の
ブドウ酒とパンの福音を
罪人とされた人々に述べ伝えながら
来し方・行く末を何度
反芻されたのでしょうか
 
民族も人種も違う東の国の
家畜以下の怠け者が一人
深い罪の淵(ふち)で
あなたに こだわっています
気の遠くなるような時を超えて
 
 
  ウソの胸
 
風通しのよい胸だ
ほとんど風化している
どんな風が吹き抜けたのか
吹き抜けた風は
今どこに
見知らぬ野原で
草を揺らしているのか
昔懐かしい人の前を
一瞬でも通り過ぎたか
答えようもない問いが
ぽっかりあいた胸の中で
ときに胸をひらひらと揺さぶっている
 
風通しのよいことが
気持ちよいとは限らない
空っぽの胸はウソの胸
吹き抜ける風はウソの風
通いなれた道を通り
なじみの街を過ぎ
風化した穴に
今も聖なる心と
聖なる血を求めて
ため息で祈る
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
  不信仰告白
     (キリスト以外の
      神を知らない)

私は一本の髪の毛を
恐る恐る
火にかざしてみるのだ

 誰が神を
 神と名付けたか
 誰がやさしい父を呼ぶように
 神を呼んだか
 流された夥しい血を
 皿の上の相づちで受けながら
 誰が気安く許される
 罪を認めたのか

私は生きるのに向かない
私は宗教に向かない
私は神の国に向かない
私は神を知らない
私は主に仕える水の泡である
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、祈りとも詩ともつかぬものを書いたことがあります。飾り言葉だけで書いたつもりになるのは、やはりナルシストでしょう。しかも、反省せず、学習せず、ゆえに成長しないのは、病的なナルシスト、即ち、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
 
 楽山についてですが
 
昨日の楽山の記事を読んでいて、つくづく思うことですが、楽山が、言葉を並べても、何か思想を書いていると思ってはいけません。楽山は、病質に従って、症状として、悪臭と病原付きの排泄をしているに過ぎません。楽山の生理~病理現象なのです。楽山の糞尿を飲み食いしてはいけません。
 
"自分で考え、判断することのすすめ" という言葉で、自己中を正当化する、とんでもない楽山です。楽山は、まともに考えたことはないと思います。判断は、すべて、自己顕示の我欲のみから発しています。自由意志の尊重を言っても、楽山にあるのは、自由ではなく、訂正不能の我執だけです。
 
楽山の病状は、ますます、悪化してゆくだろうと思います。整理がつかないまま、推敲できずに、量を書くだけのようです。もしパニックにでも至るならば、優しさ芝居は出来なくなるので、何をやらかすか分からないと思います。本性剥き出しになってゆく楽山に、どうか近づかないでください。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  病質者対策2
 
 
凶悪カルト・サイコパス・病質者とは、具体的には、言うまでもなく、3年批判している楽山と、10年批判してきたシャロームshalom のような自己愛性人格障害者のことです。罪悪感がなく、いつも、社交の世辞であしらいながら、実際はバカにして、心で笑い、舐めている人です。
 
罪悪感がないために罪の意識がなく、悔いるという高等感情もなく、反省もせず、他者に優っているという慢心だけで、いつも自分が正しくて、まともだという捏造の立ち位置から、実際には、ねじ曲がった理屈と、平気で嘘を吐く習性をもって、壊れた理路の迷惑物質を投げてくるのが、楽山です。
 
恐らく、一生、治らないのでしょう。ということは、話し合う余地がないということです。つまり、楽山と話し合おうなどと思ってはいけない。楽山から何も受け取ってはいけない。楽山の言うことを何かの参考にしてもいけない。楽山の投げかける言は、楽山の仕掛ける罠(わな)です。
 
最初から、楽山は、惑わすために、あるいは、優越感と自己顕示欲のために、言い逃れのために、書いているだけだということを意識して、関わってきたら、追い返すか、逃げるしかないのです。世辞コメントなど書くと、楽山の思うつぼです。
 
他には、批判する気のある人の場合、楽山の書いていることの、卑怯な言い換えや、作為的な言葉と理路の選択や、常識に見せかけた一面的な視野狭窄の言を、決して真に受けることなく、一つ一つ指摘して、資料として警鐘とすることだけが、楽山という自己愛性人格障害者に対して出来ることだと思います。
 
楽山は不治の病と言ってもいいような欠損した人格ですから、はっきり言って、人間だと思ってはいけません。和解の余地を残してはいけません。今まで楽山が書いてきたことから、楽山には良心がありません。思いやり、共感、羞恥心がありません。平気で嘘を吐きます。
 
楽山は、人のために役に立つヒントになることを書こうなどとは、毛ほども思っていません。ただただ、インテリ気取りで、客観を装い、煙に巻くような婉曲的な言い方で言い逃れを向けてくるだけです。楽山の文章に主旨はありません。企みだけがあります。真面目に見せかけているのです。
 
ゆえに、楽山の文章を読むときには、症例を見ている、場合によっては、症状を記録するという姿勢が必要で、先ず、楽山の主旨を読み取ろうとすることだけはやめないと、病原からの疲労の罠に嵌ります。楽山に、主旨はありません。否定を書いて、肯定を書いて、責任を負いません。
 
批判においては、楽山の文章から、言い逃れの詭弁の細工や、意味の違う方向への言い換えで、ごまかしてくるところを、できるだけ見逃さず、指摘し、批判し、資料とするためだけに記録することに専念するべきであります。楽山を出禁にしてください。批判するなら記事に書くことです。
 
共感性のない楽山との、分かち合いや交流は、決してありえないことなのです。楽山について書く場合は、そのことを最初に弁えることが、自己愛性人格障害の害毒から身を守る唯一の方法であります。出入り禁止として、批判記事を書き、楽山の無法を知らせるやり方しかありません。
 
そして、それが、自己愛性人格障害者、病的ナルシスト、精神病質サイコパスに出会ったときの、心構えでもあります。楽山は、まともな人間ではありません。ふつうに付き合ってはいけない、資料にするしかないヒトなのです。そういう非人間は、多くはないが、いるということです。
 
楽山は、宗教、特に、キリスト教に、いちゃもんをつけて、神を否定してきましたが、その責任を負わず、批判にも答えず、スルーすると言って無視する卑怯者であることに加えて、宗教を否定しても、それに代わる救いや助けになるものを、何一つ提示する洞察力も共感力もない人です。
 
この自己顕示欲と自己愛だけで出来ている楽山のような病質者だけは、決して信頼しないでほしいです。中身の無さを、丁寧語で体裁を整えて、中庸芝居でで中立の人物を装う、これが、楽山の生き方・書き方・筆致なのです。
 
ちょっと注意して読めば、楽山が、誰でも言いそうなことを書いたから誰でも共感してもらえるじゃろ、という予定調和を書いているに過ぎないことが分かります。真実の追求とは、かけ離れた狙いで、ありきたりのことを並べて、好意を装うペテン師だからです。
 
 
楽山のキーワードとしては、無反省・無理解・無責任・無神経・嘘吐き・詭弁・偽善者、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、病的ナルシスト・罪悪感と良心の欠如・自己中心、高等感情鈍麻、反キリスト・反宗教、などを使っています。
 
 
悪は笑い、善は悲しむ、それが、この世です。ゆえに、悲哀が、最も高等な感情は、悲哀です。ゆえに、今悲しむ者は幸いなり(マタイ5:4)。
 
良心は、地上の悲しみを知っています。悪魔性は、地上の悲しみを知らず、感じず、笑いと快楽を求め、うまくいかないと怒り、怨念を燃やします。
 
笑いと怒りは感じても、悲しみを感じられない人格があります。それが、反社会性を内在する自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、精神病質サイコパスなのです。だから、いい気になるだけで、実際には、謙虚さが皆無なのです。
 
 
評価もなしに木に登るのか

評価もなしに木に登るのか
 
 
(2021年04月25日)
(2022年05月03日、再録+加筆)
 
 
 
  思い出
 
つくられなかった
思い出が去ってゆく
いつのまに しのびより
どのあたりを過ぎていったのか
遠くでこだまする気配さえする
 
いつどこで
つくられなかったのか
ほんのちょっと
注ぐものがあったら
なつかしさに
なれたかもしれない
 
思い出のない
思い出
偽り
つくりもの
思い込み
勘違いの
シーン
 
風景が揺れる
ふっと遠くなる気を
うろたえて
身震いのように首を振って
懷にしまう
 
思い出にふるさとはない
空の下、山と森と道と草木
知らない人たちの生きる姿
小さな生き物
それで十分だと
思い出されることもなく
 
振り返れば
いつもの家並み
隠された思い出の並びから
子供が飛び出してくる
犬が走っていく
蹴られていない小石
転がっていく
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです

人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  はね
 
しずく はらい
あめの ぬくみ はねて
かえろう いまいちど
ひざかりの つみくさの
のはらの ゆめ まどろみ
あしたの つゆに あずけて
にたものどうしの わかれみち
はおと なく しののめに
とびたつのは ぬれて
ただひとひらの はね
ふきすさぶ くもの まつ
いつも ひとつの そらへ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
★こも/楽山日記3
@komo266
×徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
●徳ある者が上に立つ徳治制が望ましい
午後0:41 · 2022年5月2日
 
徳のない楽山が、言葉だけ、訂正か、指摘を、書いています。正直さがない。反省しない。責任負わない。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のための自己中から来ています。つまり、自己満悦のために記事を書くので、学習と成長も見られません。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ざっくりまとめると、大川隆法総裁は自分こそが宗教的にも政治的にもトップに立つべきだと考えていたことがうかがえます。
自身が選挙に出たときも、国会を幸福党でしめて憲法改正し、大統領になる気満々だったでしょう。
初夏氏はそんなことはないといいたいらしいが、それは無理かと…。
午後0:39 · 2022年5月2日
 
ということを言う楽山は、自分がトップに立つべきだという教祖願望を表しているのです。そのための評論家気取りです。何かを書けば、自己愛からの尊大な自己満足・自己満悦が、そして、自己愛からの誇大妄想が、噴き出して、漏れて、表れてくるのです。楽山は、不変の厚顔無恥であります。
 
楽山には、まともな秩序の意識を持っていません。だから、憲法改正にも、独裁にも、賛成するでしょう。いちばん、大統領や、王様に、なりたがっているのは、楽山であります。その夢想が誇大妄想として固定しているので、隠したつもりでも、丁寧語とは裏腹に、不変の厚顔無恥を表してしまうのです。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
ところで、私の理解では、大川隆法総裁の主張はこうです。
・自分は地球における最高の権限を持っている
・自分の言葉が法となり、善悪を定める
・民主主義は衆愚政に陥る危険あり
・徳あるものた上に立つ徳治制が望ましい
・神近き者が上に立つのが天上界の秩序
・祭政一致であるべき
午後0:32 · 2022年5月2日
 
楽山は、自分が一番上だという誇大妄想を持っています。だから、いつも、上から見下ろす発言になります。指導者気取りです。楽山は、おびただしい言葉の破綻を見せておきながら、善悪を定めたいようです。他者のことを、とやかく言う資格は全くないのが、楽山です。
 
民主主義を憎んでいるのも楽山であり、ネトウヨとして、A級戦犯を讃える記事を書いています。楽山は、放置すれば、人々を詭弁で誘導して、衆愚へと誘導します。あらゆる徳に背いているのが、楽山です。神近き?楽山という自覚でしょうか、むしろ、我は神なり・・でしょう。。
 
楽山は、結局、王様気取りであり、その根拠が、自らの、霊が分かるっぽい?体験と、心霊大好き趣味なので、小学生並みの知恵で辻褄を合わせで記事を書いて悦に入るのです。楽山は、人間としての罪悪感も羞恥心も持たないので、サイコパスの性質が、書くことに表れてくるのです。
 
楽山とは、決して、議論や交流をしてはいけません。楽山は、論理?めいた迷路を用意しています。そして、気に入らないとテーマの実質から外してゆく人です。楽山の害を避けるには、出禁しかないのです。私はそうしています。楽山の思想は、ずっと詭弁だけです。悪知恵だけです。企みだけです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
3年余り、批判を当てても、同じように書いてくる慢心こそが異常です。その間、当てつけや悪口は書いてきても、真っ当な反論など、全く書けないのです。論理遊びの罠を仕掛けてきますが、理路が分からず受け取れないことからの詭弁に過ぎず、それがバレてからは、ただただ見苦しいだけなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ここは、たまにブログ記事をリンクする程度)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ 
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山は邪悪に満ちている
 
 『世界は邪悪に満ちている だが日本は……。』
 日下公人、髙山正之著
 楽山日記(LD) 2021年10月16日
 
 
神を恐れない楽山が、神の怒りを買うシーンのようです。まことに、身の程を知らないということが、いかに、災いであるかが、表れています。本人は、何をしているのか、まるで気づいていないのです。しかし、その分別も思慮もない軽口が向かっている先は、神であります。
 
本書は、アメリカや中国などの悪辣さを指摘しつつ、日本の美点を強調しているものだが、キリスト教についても随分と厳しく批判をしており、その中には自分の知らなかったこともあったのでその一部をメモしておきたい。
 
キリスト教について悪口を並べているのは、楽山です。批判と違って、汲み取れるものが何もありません。楽山の悪辣な本性が、もはや、悪意だけの詭弁となって表れています。読むほどに、楽山に欠けている人間性の大事な部分を、逆に読み取るべきでしょう。
 
まず本書では、欧米人の残虐さは聖書の影響があるとしている。
彼らは、主がモーセに命じられたとおり、ミディアン人と戦い、男子を皆殺しにした。
(民数記31:7)
 」
 
神の裁きであり、その厳しさは、筆舌に尽くしがたいものがあります。このような話は、絶対ではない人間に、絶対正義の存在である神を恐れよということを表しているのです。キリスト教について、やさしい神ばかりイメージするのは、間違いです。旧約聖書から、神への恐れを学びます。
 
モーセは預言者であり、神の意志を代弁している役割です。それを欧米人の残虐さに結びつけているのは、誰よりも冷酷で、温もりも潤いもない楽山その人です。何か個人的な憎しみを発散しているような記事になっています。神を、怨念の具材とする楽山は、狂っています。
 
神はこんなに残酷なんだよぉ・・とばかり、楽山は吹聴したいようですが、その楽山は神を恐れていないから、こういうことが書けるのです。神を恐れず、即ち、絶対正義の存在を恐れない者には、何を言っても無駄です。
 
ゆえに、批判は、こんな酷い人がいるから、楽山を読んでも、決して、真に受けないように、近づかないように、という警鐘を鳴らすためにあります。神に対する信仰とは真逆の、そして、悪魔に奉仕していることに悦楽をおぼえる、サディスティックな欲望が、楽山の記事に表れています。
 
直ちに、子供たちのうち、男の子は皆、殺せ。男と寝て男を知っている女も皆、殺せ。女のうち、まだ男と寝ず、男を知らない娘は、あなたたちのために生かしておくがよい。
(民数記31:17-18)
 」
後の方はモーセの言葉であるが、彼らはこういう考え方に馴染んでいるから、女はプレゼント、ボーナスという発想が生まれ、「慰安婦は天皇陛下からの贈り物だ」という日本的には理解できないおかしな発想も出てくるのだという。
 
歴史上、略奪・暴行によって、女性が戦の犠牲になるのは、恐らく、世界中であったことだと思います。つまり、歴史の負の遺産であります。モーセも、その時代の戦争のあり方から自由ではなかったということです。
 
楽山は、今、残虐であり、共感も愛情も知らず、反キリスト・反宗教・背教者として、預言者をおとしめることに必死です。恐らく、笑いながら、自らの不能・不全の裏返しとして、残虐行為を楽しむ部類の人間でしょう。
 
恐らく、戦争でも起こったら、いちばん残酷なことをするのは、思いやりなどの高等感情を失うのではなく、元々、持っていないために、冷血漢に徹することの出来る、楽山のような輩です。それが、神と預言者を、恐れもなく、心を受け取ることもなく、こき下ろせる理由です。
 
またスペイン人の南米における残虐行為の背景には、先住民にキリスト教を布教して受け入れたら理性の持ち主といえるが、受け入れなかったら猿と同じだから奴隷にしてよいという教会からの回答があったという。
 
このように、歴史上の一部のキリスト教徒の過ちを、得意げに吹聴して、今のキリスト教をも否定するのが、楽山の快感なのです。つまり、一部の悪い例をもって、全体を否定する詭弁となっています。卑しい煽動者は、多く、このような詭弁の悪意ある辻褄を振り回して印象を植え付けてゆきます。
 
日本でキリスト教系の女子校が多い理由は、「母親がキリスト教徒になれば娘もキリスト教徒になる。娘がキリスト教徒になれば、やがて孫もキリスト教徒になる」というたくらみがあるのだという。
 
キリスト教系の女子校について、私は、よく知りません。楽山が、詳しく知っているとも思えません。つまり、おとしめるのに都合のよい材料と思ったら、無遠慮に持ち出して「たくらみ」と言う楽山こそが、恥も知らず、企むために発狂峠を越えているわけです。人間じゃないです。よだれです。
 
マヤにおける布教活動では十字架ではなく、マリア像を用いたそうで、その理由は先住民たちの儀式(心臓を取り出す)は残酷だと批判したら、磔刑だってそうじゃないかと反論されたので、十字架像は隠さざるを得なくなったからだそうだ。
 
マリア信仰を持ち出して、これで、キリスト教批判になるでしょうか。否です。いちばん残酷な冷血漢が思慮もなく持ち出してきた話には、信仰の本質の欠片も表れてはいません。このような話をしても、楽山の汚い自慰行為に過ぎないということです。
 
楽山は、キリスト信仰について、何も知りません。楽山は、誰も救えません。楽山は、自分教の薄汚い精神病質性カルトに過ぎません。
 
十字架は、キリストが被害者であり、これをもって罪の贖い、そして、罪人への究極の共感を表しているのです。
 
本書にはこの他にもさまざまな批判が書いてあるが、残念ながら自分は無知なので、これらの批判の真偽、妥当性を判断するのは難しい。本書で語られていることがすべて本当であったとしたなら非常に残念なことだと思うばかりである。
 
ボロクソに言っておきながら、「自分は無知」「妥当性を判断するのは難しい」「本当であったとしたなら」という無責任が通るでしょうか。否、はてしない愚かさであります。楽山の、反キリストぶりが、制御を失って、それでも、ボンヤリ言語で責任回避しようとする偽善を覚えてください。
 
楽山における人格破壊は、これからも、進行するでしょう。肯定的に関われば、人格破壊が待っています。もはや、最小限の分別も持っていない楽山に、ブレーキが外れて自分が何を言っているか分からない楽山に、どうか、関わらないでください。身と心を、楽山から守ってください。
 
 
 
  わがままではなく自己中
 
 自分の意見を言うのはワガママなのだろうか?
 幸福の科学とは何だろう? 2021年10月16日
 
 
詭弁が体質となって、日々、それを書くことが自慰行為となっている楽山です。
 
ツイッターを見ていたら、「自分の意見を言うこと」と「自分の意見を押し付けること」の違いを説明しているツイートがあった。
20211014 (2)自分の意見を言うことはワガママではない
 
意見を言い、他者の言うこと聞き、考えて、必要なら修正し、学習するなら、成長につながりますから、わがままではありません。しかし、楽山のように、他者の言うことを無視し、考えず、修正せず、学習もしないなら、わがままというより、自己中であり、邪悪であり、迷惑~害毒です。
 
以前、私が自分の意見を言っただけで、「ワガママだ!」「自己中だ!」と非難してきたHS信者がいて呆れつつも不思議に思ったりもしたのだが、多分この信者は上のツイートにあるように萎縮した考え方をしていたのだろう。
 
楽山は、誰からも、自己中だと言われるべき人です。そいう言わない人は、楽山の嘘と詭弁の丁寧語にだまされて、楽山に盲従しており、知性と感性が鈍麻してゆき、結果として、人格を破壊されることになります。楽山は、それを好んで企んでいる人です。
 
HSでは、エル・カンターレへの絶対的な帰依を求めているので、その信者はエル・カンターレとは独立した自分独自の意見を持つことをワガママ、自己中、高慢として抑圧しており、だからこそ私が自分の意見を言ったことをもって、ワガママだと非難せずにはいられなかったのだろう。
 
楽山は、自分独自ではなく、自分快楽原則の意見だけを持っており、我がまま、自己中、訂正不能、高慢、傲慢、偽善者、嘘吐きの、ペテン師です。ボンヤリ丁寧な筆致と、同情を引くためのトホホ言語に、だまされないでください。能力もないのに、無反省・無責任に、教えたがる変質者です。
 
信者は「HSは自由な団体だ」と誇るけれども、実際はこのようにパワハラ加害者や毒親と同じやり方で信者を支配していることに早く気づいてほしいと思う。
 
楽山は、個人カルト教祖的な人格であり、自己愛性人格障害、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。毒親となりパワハラが出てくるのは、もっと、うまくいって奴隷が増えてからでしょう。楽山には、正常な、親意識も、パワーも、ありません。恐ろしい疲労だけを与えてきます。
 
楽山は、詭弁と嘘と妄想とを駆使して、だましてきます。個別のことで全体の印象操作をする・・などというやり方です。罪悪感がありません。思いやり、共感などの、高等感情がありません。平気で嘘を吐きます。ネトウヨです。独自の発想も理路も感性もありません。
 
詭弁が体質となっている楽山です。それが、楽山の生存の悪知恵であり、それしかなく、言い知れぬ疲労と徒労ともたらすので、決して、相手にしてはいけない病質者です。
 
 
 
※ 聖句:詩篇
 
 (詩篇64:5-7)
彼らは悪い企てを固くたもち、共にはかり、ひそかにわなをかけて言う、
「だれがわれらを見破ることができるか。だれがわれらの罪をたずね出すことができるか。
 われらは巧みに、はかりごとを考えめぐらしたのだ」と。
人の内なる思いと心とは深い。
しかし神は矢をもって彼らを射られる。彼らはにわかに傷をうけるであろう。
 (旧約聖書)
 
昔から、悪と偽善のパターンって、似たようなものだったようです。楽山や、悪い政治家が、常套手段としている隠蔽と偽装は、昔からあって、その心も、そのパターンも、そんなに変わっていないということでしょう。
 
だから、例えば、孫悟空が、どんなに飛び回っても、如来様の手の内から出られないのと同じなのでしょう。また、ある意味、現象としては、自業自得で、災いを及ぼせば、巡り巡って、結局、自分に返ってくるということでもあるでしょう。
 
 
自慰の照り返し

自慰の照り返し
 
 
(2021年10月17日)
 
 
 
キーワード: 狂
 
 
  感動
 
山の頂に立って
そこから空を飛べとは言わないし
山を移せとも言わないが
もう少し感動させてくれないか
 
目頭を焼いて楽園を追われ
いや捨てて日没へ去れと言うのか
選民を押し潰した被愛の傀儡よ
 
伝わらないことを誰のせいにする
読み方が悪い
書き方が悪いはよしてくれ
賛美も聞き飽きた 十字架を
重い荷物にたとえる愚は
異言を放つ教祖様方
 
溢れるほどのブドウ酒
産みの苦しみに快感を束ね
満腹の上に飽食を重ね
発酵しすぎた唇が
開く赤い闇が
パンのみにて生きるものにあらずと
ずいぶん酢を噛んでいる
 
異臭の迷路から
生まれた詩の永遠が
死の永遠へ昇天する刹那
信仰は迷いさまよい漂いただ酔いながら
久しぶりに口ずさむ
古い讃美歌に泣いて
復古、復古と愛人を呼ぶ
素直すぎる狂気の沙汰だ
 
 
  神と私(わたくし)
 
真理は神にある
人にあるのではない
それを知るところから宗教が始まる
それを「知っている」と言うところから邪教が始まる
 
真実は神による
人によるのではない
それを知るところから信仰が始まる
それを「知っている」と思うところから狂信が始まる
 
言葉は神による
人によるのではない
それを知るところから謙虚が始まる
それを「我がもの」と決めるところから虚言が始まる
 
人には人に
限られた真理
人には人の
知るべき真実
人には人を
生かす言葉
与えられ、蓄えられ
泉のように湧き出づる
 
そうではありませぬのか
主よ
 
そうではないのか
ことばよ
 
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク、最近コピペ)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

 
  楽山の妄想自意識
 
 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む(2)
 2021年08月31日 楽山日記(LD)
 
 
何も知らず、何も理解していない楽山が、また、知ったかぶりをしています。テーマについて、直接、何も語れない楽山は、また、人の口を利用して、キリスト教を、おとしめに来ています。
 
それぞれのリンクは省略します。悪魔性の楽山の文章が批判対象です。
 
*神
このやりとりをみると、「神」についての考え方はさまざまあるのだなと実感する。「イエスは神である」といわれても、さほど抵抗を感じず拝むことができる自分は、どうやらいかにも日本人らしい日本人であるようだ。
・「クリスチャンの少ない日本」
 
引用(省略)は、クリスチャンが少ないことが書いてあります。遣り取りについて、楽山は、完全に傍観姿勢です。入っていって何かを語ることが出来ないのだろうと思います。楽山が語っても、いつものように、楽山の空想の中の、辻褄合わせだけの屁理屈になるからでしょう。
 
「「神」についての考え方はさまざま」といって、楽山にとって、どうでもいい神を、広めようと誘導しています。キリストについて、神について、暴言を吐き続けるのは、毛ほども信じておらず、真面目に考えていないからです。日本人どころか、人間らしさも、どこかに捨ててきたのでしょう。
 
*圧巻
ここでは聖書翻訳、人の子の意味などについて語られているが、もしイエスが、ここで語られているような意味で「人の子」といっていたのであれば、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
またこの頁を読むと、聖書は一言、一文にも深い意味が込められていて決して疎かにはできないというのは本当だと思える。聖書には学ぶべきことがたくさん詰まっている。
・「批判の客観性、新改訳の問題、人の子」
 
イエスが、自身のことを「人の子」と自分を言っていることに、楽山が「かたじけないさに涙こぼれる」と言っているのは、イエスは神ではない・・と思っているからで、悪意ある皮肉です。したがって、そのあとの、聖書の褒め言葉は、嘘だと思います。書けば悪意が漏れ出てくる楽山です。
 
*進化論と創世記
この話題は、生物学者としての将来を嘱望されていた若者が、進化論と創世記との矛盾に悩み、生物学の世界から去っていった例もあるというドーキンスが書いていた話を思い出させるものがある。
創世記の記述は数千年前の人々の考えであり、現代科学と異なっているのは当然なのだから、数千年前の人々の考えを絶対化したり、現代科学と合致するようにこじつける必要もないというのはその通りである。
・「進化論と聖書の創世記」
 
創世記のことが史実かどうかについては、私は、分からない箱に入れて保留しています。そのことが、絶対の創造主である神と、救い主であるキリスト・イエスを、否定することにはなりません。分かって信じるのではなく、魂の救いを与えられて、それが生きる理由になっているからです。
 
楽山が絶対化しているのは、楽山自身であります。楽山のほうは、"いい加減に信じる" ことを教えてきました。そのような考えは、自分は、中立ですから・・と、かっこつける楽山ならではであり、ならば、宗教にも信仰にも関わるな・・と言いたいわけです。
 
*予言のトリック、意味づけ
恥ずかしながら、自分は何にでも意味づけしたくなる性質である。何かの拍子に「あの出来事には、こういう意味があったのだ!」と直感して、いま自分は真実に気づいたと興奮してしまうのだ。人の脳は、何でも目的論的に受け取ってしまうようにできているというが、自分はまさにそれだ。
予言、聖書の暗号といったオカルトの類は、こういう人の脳の弱点を突いてくるので注意が必要である。
・「予言、聖書の暗号」
 
まず「何にでも意味づけしたくなる性質」は、間違っているのです。そこが、楽山の出発点ならば、話にならないのは必然です。今まで、楽山は、直感も直観も真実も、指一本触れた跡がないのです。いつまで高望みして、しかも、それが成っていると勘違いしているだけです。
 
そういう楽山の脳の弱点は、正常な人の脳と心を破壊してゆく作用があるので、注意が必要です。楽山には、理路も、目的も、論も、ありません。楽山は、快楽追求だけで、偉そうに書いてくる無責任と無反省の人で、それ以上の、何物をも、持っていません。
 
*信仰とは?
「信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること」とは、なかなかに辛辣な言葉だ。とはいえ、ある宗教の教祖を崇拝する者が「私は正法を信じているのではありません。これは事実なんです」と断言するのを聞いたことがあるので、この言葉は辛辣ではあっても一理あるとは思う。信者は信仰熱心なほど、こういう思考に陥りがちではある。
・「信仰批判ですか」
 
信仰は「知っているかのように確信すること」ではありません。知らないことは知らないと言い、分からないことは分からないと言うだけの、神の前の正直さを養うことです。楽山の言は、こちらの言うことを無視して、こちらを悪者に仕立て上げてゆく落とし穴です。陥っているのは楽山です。
 
*棄教という救い
「信仰を捨てたとき、わたしは救いを見いだしたのです」という言葉は胸にしみる。
これは多分、信仰であっても執着すれば苦となるということなのだろう。「私はこの宗教を信じる」という心境はまずまず平和だけども、「私はこの宗教を信じたい、信じなければならない」という状態になれば、これは執着であり苦であるから、心の解放を望むなら、たとえ信仰であってもそれに執着するのは止めた方がいいということになるのだろう。
・「信仰批判ですか(2)」
 
このように、信仰を、"執着するもの" という偏見に執着しているのが、楽山です。その結果、楽山を聞いたものに、苦しみだけを与え、心の解放から引き離し、楽山の奴隷にして、楽山が勝利の気分に酔い痴れたいだけなのです。これが、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 
*ユダヤ人から見たキリスト教
ここではキリスト教徒の中からユダヤ人が消えていった理由について推理されている。
この問題については、イエスの死後、イエスを信じる者たちは大きく分ければ二派あり、エルサレムを出て異邦人に伝道するパウロたちと、エルサレムに残っていたユダヤ人たちがいたが、後者はローマとの戦乱に巻き込まれて滅び、前者は生き残ったためだという話は読んだことがあったが、ここで書かれているように偶像崇拝の考え方が大きく影響したというのも説得力がある。
・「結局、教条主義?」
 
偶像崇拝は世界の宗教に今もなお蔓延っています。その偶像の中で最も悪質なのは、自分信仰です。楽山は、自らが、中立、中庸、冷静、"バランス" が取れている、と思い込んでいますが、実際は、独自の主張を組み立てることが出来ないために、人のことをとやかく言っているだけなのです。
 
つまり、楽山は、自意識を信じ込んで訂正不能となって、人に耳を貸さなくなった自己愛性人格障害の自分信仰者なのです。"バランス" は、楽山の自我の中だけで成立している妄想であり、実際には、学習せず、成長しなかった楽山には成立しようのないものであります。
 
楽山の知能は決して高くないと思います。それは、書いてくる文章に表れています。自覚がないから、書き続けられるのです。むしろ、知能がゼロであったなら、書かなくて済んだでしょう。書くことで、さらに、自らの知能と情感を、自ら破壊して、非人間になってゆくのでしょう。
 
楽山は、ふつうの人ではありません。変質者であり、根深いアブノーマルな体質です。楽山から身を心を守ってください。注意・警戒してください。相手にしないでください。関わらないでください。近づかないでください。
 
 
滅裂・無根拠

滅裂・無根拠
 
 
(2021年09月01日)
 
 
 
 夜の顔の循環
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
 
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
 
ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したことを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。
 
私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 
(90年代か)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
 
 
 

このページのトップヘ