ウソの国-詩と宗教:st5402jp

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タグ:悪魔性

 
  楽山の児戯滅裂
 
 「ブログ村騒動」発言集(番外編 楽山論争)
 2021年08月15日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
だらだらとURLばかり書いてい、URLをいっぱい並べていますが、クリックで跳べるようにはしていません。楽山は、ブロガーとして怠け者です。このような雑な出来というのは、楽山が、本気では、何も言えないことや、言うつもりもないことと、符合しているようです。
 
リンク先のアドレスを書いているだけなので、この記事では、いちいち、自分でURLをブラウザで確認するようなことはしません。恐らく、読み手を、批判者を、疲れさせたいのでしょう。そういう楽山の邪悪な意図だけが明らかになること、それが、この批判記事の意義であります。
 
飛べないリンクを、いちいち、こちらが、わざわざ追うことはしません。殆ど、楽山の、暇つぶしの記事だと思います。事情を知っている人だけが見れる設定ですが、事情を知っている人が、こんな記事を読むでしょうか。楽山が仕掛けている徒労への誘導は無視したほうがよいと思います。
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
この騒動ではさまざまな争いがありましたが、今回はその番外編として、楽山論争を紹介したいと思います。楽山は「ブログ村騒動」を観察しつつ、その発言を保存し、感想を書いていたのだが、レオ氏はそこにあるレオ批判を見咎め、いわゆる当てこすりのような手法で楽山批判を書き、楽山の方もそれに応じて同様の手法でレオ批判をしたのでした。
またここでは、ついでにぽん吉氏による楽山批判も載せておきます。これによって、ぽん吉氏による楽山批判と、レオ氏による楽山批判との比較が可能となり、両者の性格の違いがよく分かると思うので…。私見ながら、批判というものは、批判対象よりもむしろ批判者本人の姿をあらわにさせるものなのだと思います。
編集方針は前記事と同じです。 
 
編集方針が、先ず、記事として成り立っていません。URLの林のような記事ですが、飛べませんし、楽山(自由)として書いていても、コメントも記事も分かりにくく、かつ、少ないのに、アドレスだけでクリックで飛べないのですから、何かを伝えようという態度ではありません。
 
楽山は、途中で投げ出したのでしょうか。ちゃんとやってるふうの見せかけだけなのでしょうか。主張が、全く見えてこない記事を書いて、いったい、何が言いたいのでしょう。ひょっとして、誰も見ないだろうということを承知の上での、自己満足なのでしょうか。
 
*発言集
 では、以下に双方の発言、記事を貼ってみます。(注 「自由=楽山」です)
楽山くーん、君ね、
人の意見ばかり集めて
自分の意見、ないんじゃないか??
君のポリシーは??
君の生き様は??
それが一番、大事なんだよww
楽山くーんww
シャキッと生きろや!!
シャキッと!!
2017/2/13(月) 午前 1:50 [ sle***** ](注 ぽん吉氏です)
http://mn266z.blog.jp/archives/17512695.html
 
確かに、楽山には、自分の意見などないと思います。どうでもいいのでしょう。かっこつけることだけが目的なのでしょう。だから、こんな不親切な記事を書いて、人が面倒くさがることを、サディスティックに見て、笑いたいのでしょう。こういうところが、迷惑男、楽山の本性なのです。
 
かしこまりました! (笑)
2017/2/14(火) 午前 7:36 [ 自由 ]
http://mn266z.blog.jp/archives/17512695.html
 
おふざけです。本気など、一度も、持ったことのない楽山らしいコメントです。しばしば、そういうときに「(笑)」を付けてくるのも、今に始まったことではないと分かります。これだけ、見苦しい自分を出しながら、平気でいられるのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDだからです。
 
*これも偶然?
自分は、霊的なことにのめり込み過ぎてはいけないという記事を出したのだけど、その後に、悪魔は霊的なことから目をそらせようとするという記事が出ていたようだ。おもしろい偶然だ。何気に悪魔呼ばわりされたような気分がしないでもない(笑)。
 
楽山の悪魔性については、すでに書いてきました。ここでも「(笑)」で済ませられるところが、ますます、それらしいことを示していますが、楽山は、崩壊人格のために、感受できないでいるようです。にもかかわらず、こうはなりたくない病質というものを隠せなくなっているようです。
 
まあそれはともかく、この方も、悪魔は、菩薩以上の魂に限らず、それ未満の魂も狙ってくると考えているっぽい。でも、悪魔は基本的には、凡人は狙わないが、真理の団体の一員であれば、凡人レベルでも狙われることがあるという教義もあったように思うので、これはこれで従来の教義でも許容範囲かもしれない。
2017/3/14(火) 午後 7:36[ 楽山 (自由) ]
 
「考えているっぽい」という楽山の言い回しに惑わされないでください。楽山の記事は、無視しても、何も失うことはありません。真に受けると、徒労と疲労、そして、楽山と同じような精神の鈍麻が待っているのです。良いことを何も提供できない楽山の意地悪なあがきです。
 
*おもしろい流れ
ははは。こうして並べると、この流れはおもしろい。
●宗教の見分け方|楽山日記
 
「ははは」と独りで笑ってる・・こういうことは、独りの部屋でやってほしいのです。流れは、少しも面白くありません。バカバカしいだけです。楽山は、バカだけが笑うところと言われることを予想しないのでしょうか。もはや、完全に孤立して、自己満足だけのベロベロになったのでしょうか。
 
●価値観は人それぞれ|楽山日記
http://mn266z.blog.jp/archives/17512678.html
https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/40713379.html
◇人それぞれ、というだけではなく、万人に共通する普遍の真理もやはり要る|LEO幸福人生のすすめ
 
楽山は、人それぞれ、人は人、自分を貫く、という言葉を、盛んに、ついには、必死に、自己正当化のために利用してきました。自由には責任が伴います。嘘と詭弁と悪と偽善は、自由から、自由によって除かれるのです。何も知らないで、古く酸っぱくなってゆく楽山の酢の物です。
 
●聖人の道は、平坦で、誰もが通れる道である?|楽山日記
◇自分を正当化するための屁理屈を編み出しても、意味は無い|LEO幸福人生のすすめ
 
自己正当化の屁理屈のために、誰よりも、自分の人格を壊してしまった楽山であります。しかも、数年前のことを蒸し返して、何になるのでしょう。今の問題が、それで、解決するとは、到底思えない記事の有り様です。こういう記事を書くしかなくなったのでしょうか。
 
●人生で、一番大切なこと…|楽山日記
●人生で、一番大切なこと…(その2)|楽山日記
◇自分はどうしたいか、ではなく、人はいま何をすべきか、を考える|LEO幸福人生のすすめ
 
自分のしたいことだけしか目に入らず、何をすべきかを考えない楽山の、末路の1シーンがここにあります。どうにもならないことになり、どうにもできないまま、記事を書くという体裁だけを作って、書いたことにするのは、何も見えて来ず、手も足も出なくなった楽山です。
 
●本にがっつりハマれない?|楽山日記
◇読んで、理解して、考える|LEO幸福人生のすすめ
◇「清水幾太郎の新霊言」を読みながら … その1|LEO幸福人生のすすめ
●恩にこだわると、正義を見失うのか?|楽山日記
◇単なる言葉遊びと、本当の理解とは、ぜんぜん違うのだということ|LEO幸福人生のすすめ
●知的正直、自己本位、聖賢におもねらないということ…|楽山日記
 
楽山は、読むことも、理解することも、考えることも、できない人だと思います。また、恩も知らず、正義も知らず、普遍的なことを何も知らずに、原始的な恨みだけに生きていると思います。そして、言葉の字面だけを並べて、出来たと思ってしまう自意識だけの理論家気取りです。
 
パーソナリティ障害の観点からいえば、日本社会は、どんどん自己本位になっているといえるだろう。
 
パーソナリティ障害の観点というのは、精神病理の症例報告であり、あってはいけないことなのです。楽山は、こう言われて、わざわざ書いてくるわけですから、いかに、楽山の理解が的外れであるかが表れてしまうのです。
 
自己本位と、自己中心は、違います。自分を大切にするという人間本来のあり方と、自分のことしか考えないという他者を傷つけて悔いない悪意の本性という違いです。後者こそが、楽山です。楽山には、全く病識が見られません。
 
●宗教を止めてよかったこと(恐怖心からの解放)|楽山日記
●自己変革にこだわっていたころ…(変えられることと、変えられないこと)|楽山日記
◇正しき心の探究 ~自分に都合のよい偏ったモノの見方は、ダメ~|LEO幸福人生のすすめ
 
宗教を恐怖としか思えない楽山は、殆ど自主性・主体性がないように思われます。ゆえに、変えられるものを変えられず、「自分に都合のよい偏ったモノの見方」だけで書いてくるために、当然のごとく、齟齬を来たし、矛盾を呈し、批判を浴びせられて、何も答えられないのです。
 
この退転アンチの悪質さは、ブログ村騒動では、第三者の仲裁があって、騒動の原因が明確になったにも関わらず、その後も延々と、相手方の方が正論であるかのような悪質な印象操作を交えた、事実改竄記事を書き続けて粘着していたこと。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 
どういう仲裁があったというのでしょう。仲裁というだけでは、誰なのか、どういう立場の人なのか、分かりません。説明できないのであれば書かないことです。印象操作、改竄、これに説明も説得もないのです。これが楽山の屁理屈です。難しそうな用語を並べるだけの自己満足に過ぎません。
 
相手方の非が数多く証拠もあがって、事情がいっそう明確になった後でさえも、それらのことはスルーして、わたしを貶めたいあまりの、自己都合の解釈論でもって、延々と相手方を弁護し、こちらを誹謗中傷するという邪悪な行動を行ってきました。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 
楽山の解釈は、"論" になったことはありません。嘘と詭弁だらけです。それが、新たな証拠となってゆくのです。不毛なのは、楽山自身であります。議論の気もなく毛もないのです。
 
ブログ村騒動は、いくつもの論点があるので、これだけでは、どれについて言ってるのか分からない。
>LEO氏には確実な証拠が示され、事実は明らかになったにも関わらず、楽山は屁理屈をいって、事実をひっくり返し、誹謗中傷していたように見えているのかもしれないが、自分としてはたとえ証拠が提出されていてもそれだけでは事実確定できず、解釈の余地があるなら、ああでもない、こうでもないといろいろな可能性を考えることになるし、はっきりした事実が確定できるものなら、はっきりした考えを持つことになる。ただそれだけのこと。
信者ブログを見たけれど 2(古い話の蒸し返し)|楽山日記(LD)
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPDですから、総て自己中心に回っており、解釈の余地など分かりません。事実が確定されることを、真実と思うのは、間違っています。心の問題を考えることの出来ない障害者である楽山の自閉世界に過ぎないからです。
 
「ああでもない、こうでもない」と、何事にも難癖をつけてきた自分の事実関係さえ、楽山は自覚していません。はっきりした事実確定も、はっきりした考えも、楽山には生まれないと思います。何故なら、人格が、自己中心では、結論など出しようがないからです。
 
まともな結論も経過も分からないから、意地の悪い婉曲の誹謗中傷しか出てこないのです。自己愛・自己中の軸しか持たない者は、議論自体が不可能です。何故なら、自己中の結論が前提になってしまっているからです。
 
議論は、正否を明らかにするためですが、楽山自身に、妄想的な正はあっても、否を思う要素がないからです。楽山は、いつでも、いつまでも、今のままでしょうから、議論をしたい人は楽山に関わってはいけない、という結論にしかなりません。
 
さて、自己愛性パーソナリティ障害の症状全開の楽山はどうなるのでしょう。記事の文脈も整理できなくなっています。主張もまとまりません。楽山は、ついには、繰り言にも疲れて、パニクって、何かのケダモノのように、ブラッパッパッパァァ・・とでも吠えてまわるのでしょうか。
 
理路の成り立たない度合いが、ひどくなっている楽山、ゴールは廃人でしょうか。なにはともあれ、おぞましくなってゆく楽山には、近づかないほうがよいと思います。昔の話をほじくり返して、まとまらないまま、長々と乱雑に並べても何にもならないことさえ、分からなくなっている楽山です。
 
あの頃は、輝いていたと懐かしみたいのでしょうか。思考がまとまらないから、まとまらない箇条書きにしかならないのです。今の問題から顔を背けて、なお、インテリ気取りで、整ってるふうを装うのでしょうか。整うことは、最初から、なかったのです。
 
 
整理しても滅裂の造花

整理しても滅裂の造花
 
 
(2021年08月16日)
 
 
 
  情報人間だ
 
多くの人が歩いている街
それぞれは血も涙もある人間だし
会って話している人もいるけれど
出会うことないお互いは
動く障害物にすぎない
障害物をよけながら
多くの人が上手に歩いている
群がり移動するお互いは
えさを運ぶ蟻以上の無関係
整然と群衆が移動する風景
確か複数のファイルをまとめてコピーする方法があったな
 
情報化社会のシステム
マルチメディア・ネットワーク
規格の統一
バーコードになった言葉
会話?
その恩恵から取り残されるとよっぽど怖いことになるのかな
 
今でさえテレビにも新聞にも本屋にも
情報はあふれているのに
どう選択したらいい
人間の記憶には限界があるのに
どう整理したらいい
コンピューターに保存しておけばいい
コンピューターの記憶装置が整理してくれる
コンピューターと記憶装置はつながっているが
人間とコンピューターはどうつながっている
人間の記憶の中にあった大切なものが
コンピューターに移されて
 
大切な約束のために訪ねたある日
ちょっと待ってねと
彼は部屋に入った
入ったきり出てこない
心配で見に行くと
パソコンがやさしい声で言った
「もうすぐですから少々お待ちください」
パソコンの前に座っている彼は
背筋をまっすぐ硬直させたまま
ディスプレイに向かって
複雑なバイナリーのコードらしきものを
さかんに左右の眼を点滅させながら
口から泡をふきながら叫んで発信し続けているのだった
 
(90年代か)
 
 
 
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  楽山の悪魔性
 
 『對立を超えて 日本文化の將來』安倍能成著編代表者
 2021年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
楽山の言う道学が道楽であるように、楽山が積読を減らすというとき、妄想を積んで置くことになります。今回の、文章の質の悪さは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
 
楽山は、茶色に変色した本のページを画像として出していますが、問題は、楽山が、どう理解しているかなので、画像は省略します。
 
*積読本を減らしたい
この間から積読本を減らそうと頑張っているのだが、残念ながらなかなかうまくゆかぬ。でも今回はとりあえずこの本にざっと目を通してみた。
本書は昭和23年の座談会をまとめたものであり、昭和25年に出版されたものである。座談会の参加者は表紙にある通り、和辻哲郎、渡辺慧、前田陽一、谷川徹三、竹山道雄、小宮豊隆、木村健康、安倍能成である。
座談会の話題は、冒頭から明治維新は上からの革命で本当の革命ではなかっただとか、世界国家の建設を目指すべきだという主張があって失笑させられるが、その後は日本文化について有意義な対話が為されていて勉強になる。
一読したかぎりでは、この中ではやはり和辻哲郎がもっとも尊敬され、一目置かれているようだ。安倍能成も存在感がある。ただ個人的には竹山道雄の意見にもっとも共感できた。
以下には、この座談会において特に興味をひかれた話についてメモしておきたい。
 
楽山は、有名人や学者の名前一人では物足りないのか、座談会の本を持ち出してきました。人数を増やしても無駄なのは、具体的でない記事の質と、記事の短さに表れています。楽山は、面倒臭いのでしょう。でも、読んだことにしたいのでしょう。読んだとアピールして無理解を表す結果です。
 
そういう短絡が、記事の短さに表れます。読んだことにはならないことが、記事に表れるのです。「興味をひかれた話について」の記事がこの量と質でしょうか。名前だけは、たくさんあげて、興味と言い、積読を減らしたいそうです。楽山は、楽山の妄想を積んで置くことになります。
 
誰が尊敬されているかが重要でしょうか。「一目置かれて」「存在感」「共感」・・思った通り、これが感想か・・と呆れるほど中身の空っぽな自慢の、誰がどうこうと、単純な褒め言葉を並べているだけです。読んだことにしたいだけだと分かります。楽山のメモは、ひどくランダムです。
 
*内村鑑三
まず本書には、師としての内村鑑三について次の証言がある。
Scan0047 内村鑑三と武士道、儒者
これは人によっては、封建的でけしからんだとか、古臭く堅苦しいととる人もいるかもしれないが、自分には非常にさっぱりしていて愉快に思える。
 
画像を出してこれだけです。何が "けしからん" のでしょう。これで、書籍の案内にならないです。推測するに、内村鑑三、武士道、儒者のうち、武士道のことでしょうか。どう、さっぱりしているのでしょう。どうして愉快なのでしょう。楽山は愉快犯ということになってゆくだけでしょうか。
 
*日本語
二つ目は、日本語には「信ずる」という言葉はないという話。
Scan0048 日本語に「信ずる」はない
これは意外だが、「信ずる」は訓読みでなく、音読みであることを思えば合点が行く。
日本に無宗教者が多いのも、これと関係があるのかもしれぬ。
 
信だけでなく、愛、介、感、禁、高、講、察、・・等々、音読み+『する(ずる)』で出来ている言葉は多いですが、それが、どうして、日本語にないと合点が行くのでしょう。メチャクチャ雑な話です。さらには、無宗教と結び付けるとは、楽山は、思いつきだけで、言葉の中身がないです。
 
*祈り
三つ目は、祈りについてである。
Scan0050 祈りの効果。カレル著「祈り」より。
祈りについては、良い効果があるという話を聞いたこともあれば、そうとばかりもいえないという話も聞いたことはある。たとえば入院患者たちを自分の病気平癒を祈ってくれている人々がいることを知らされたグループと、知らされないグループに分けて、その後の患者の様態を調べると、前者は後者よりもよくなかったという結果が出たという話など。
祈りは効果があるのかないのか、一体どちらが本当なのだろうなと思う。
 
楽山は、祈りについて、治癒したかどうかで判断しています。祈りの心が無い証拠と言えるでしょう。ここまで、おかしなことになっている楽山です。祈りは治療効果があるから祈るのでしょうか、薬じゃあるまいし、否です。祈りというものを効果の有無で判断する楽山の甚だしい無理解です。
 
もはや楽山の知能を疑いたくなりますが、ひょっとしたら悪質な揶揄かもしれません。判断の基準について、一般教養としても稚拙すぎます。上と併せて、もはや、マンガでしょう。しかも、面白くもなく、中身が、悪意の揶揄以外、皆無です。
 
*藤井武
最後に本書中で、もっとも興味をひかれた箇所について保存しておきたい。内村鑑三の弟子の藤井武という人物は、次の主張をしていたという。
Scan0045 内村鑑三の弟子・藤井武「羔の婚姻」
Scan0046 神の計画的な導き、思想展開
要点をまとめると、こういうことか。
堕落した日本はいったん滅ぼされたあとに新生される
神の計画によって、各時代、各地域において新たな教えが説かれた
キリスト教において来世問題(霊界? 転生?)を明らかにする
これらは一見したところでは新規なものにも思えるが、よく考えてみれば必ずしもそういうわけでもないことがわかる。たとえば一つ目についてはその根っ子にはキリスト教的な世界観があるのだろう。また戦前の日本では大本教が、近々、世の中が立て直されることを予言し、騒ぎになっていたというからその影響もあるのかもしれない。あとの二つについては、スピリチュアリズム方面で語られていることだろう。よってこれらの考え方には目新しいところは特にない。
 
「新生」も「転生」も、キリスト教の中心ではありません。神の業は、神に任せる、という重要なポイントを抜きにして、心の問題を語れない楽山が、知ったかぶりで語る座談会は、もはや、楽山流に歪曲されたチープな雑言短絡のゴミ箱になっています。
 
宗教やスピリチュアルを気取って、ここまで、説得力のない詭弁も珍しいでしょう。楽山の記事には、陳腐だったり、詭弁だったり、曲解だったりしますが、目新しい卓見のようなものはあった例がないのです。
 
宗教を知らない、神を知らない、聖霊を知らない、そして、人間を知らない、さらに、読書できない、理解できない、分別がない、節操がない、立小便のようにメモと言って垂れ流す・・ネタにされた古本も気の毒です。
 
>思うに、宗教思想というものは個別に見ればあっと驚かされることがあったとしても、<
 
「あっと驚かされる」という、どこかで聞いたようなセリフでしか表せないことが、先ず、感想になっていないということです。この記事が、本の言葉とは思えなくなります。楽山は、知的にも、成人男性とは思えない遅れを、今回、あらわにしています。
 
横断的に広く見渡してみれば相互に影響されており、それぞれ単独で発生しているわけではないということがわかるものだ。新たな宗教は、神の啓示によって突然に説かれるのではなく、人と人の間から生まれてくるものなのだろう。
 
来世問題や世界観が、どう相互に影響しているのでしょう。楽山の説明が拙劣なために、宗教が、人と人の間から生まれるというのは、無神論が前提になった暴論に過ぎなくなっています。来世問題を語りながら、人と人の間?・・寄せ集めて語ろうとして、滅裂です。
 
信じないなら、信じなくていいが、その無理解で、人を惑わすような、知ったかぶりをされては、たまりません。楽山は、宗教について、神と人の関係について、何も分かっていない。来世どころか、この地上、そして、人間について、何も分かっていません。
 
これも、憎まれ口として、楽山が、故意に言っているなら、その質と量が、そのまま、楽山の体質的な悪魔性だということです。理解できず、理解しようとも思わないで、迷惑な雑言だけをまき散らす楽山には、一日も早く黙ってほしいとだけ、切に思います。
 
信者にとっては自分の信じる宗教こそが絶対的なものに見えがちではあるが、実際のところはどの宗教も相対的ものにすぎないのである。
 
何が絶対ということなのか、全く分かっていないまま、軽口で絶対性を否定する楽山です。神の絶対性は、信じる前提ですが、絶対性自体を、人が理解することはありません。神に対しては、人は、絶対性ではなく、ただ、神と違う己の、人としての相対性を弁え、恐れ、正直に祈るべきなのです。
 
そういうことが全く理解できない楽山は、宗教を、ゆえに、神を、相対のオモチャ箱に入れようとするような、恐ろしい傲慢を表しています。やはり、この記事は、本の中の文章ではなく、楽山が歪曲した理解つまり曲解を書いているだけです。人間を見ないで宗教を語るとこうなります。
 
自分はこの辺りのことに気づくことができず、上の三つと同じようなことを説くとある宗教を絶対視し、のめり込んで失敗した過去があるのでひたすら反省である…。
 
それ以前に、このクズのような記事を反省してほしいと思います。こうやって、自己愛性人格障害の楽山は、宗教の評価をクズだよ・・と、言いふらすつもりなのでしょうが、ここまで来ると、宗教と神に対する、楽山の病質からの、悪魔性に満ちた、あからさまで不細工な侮辱でしかありません。
 
よく、反省・・などと書けるものです。過去を反省した今の自分は正しいというニュアンスを読み取ってほしいと思います。楽山が、本当に悔いて反省することは、一度もなかったのです。病質から言っても、記事を見ても、これからも、あるとは思えません。
 
自己愛性の病質とはこういうものなのか、進行すると、これほど人間離れして壊れてしまうものなのか、という感を新たにしています。澱(おり)のようなものになって、掬いようがなく、救いようがない、それほど、手の施しようのないものになっています。
 
 
悪魔性

悪魔性
 
 
(2021年06月29日)
 
 
 
  罪と神の御業(みわざ)
 
病むことの苦しみは
病んだ者にしかわからない
 
病気は罪の結果であり
病人は罪人であり
近づく者さえ汚(けが)れた者とされた時代
一人の盲人について
「誰の罪ですか」と問う弟子にイエスは
「誰の罪でもない
ただ神の御業が現れるためである」と答えた
そのように公然と言うことが、ゆくゆく
どれほど危険な結果を招いていくか
百も承知で
 
負わされることの苦しみは
負わされた者にしかわからない
 
長い間いわれもなく
負わされてきた「罪」が
「神の御業」に言い換えられたとき
そう公言して憚(はばか)らない人が
目の前にいることが
癒し・奇跡と言えるほどの
驚くべきことであったのだと思う
 
聖書はそのあと
盲人の目が見えるようになったと記している
あげれば忘れてしまいそうなくらい
同じような奇跡物語が多く記されている
奇跡が実際起こったのかどうか
私は知らない
どちらとも信じていない
疑いの中をさまよいながら私は思う
それでも使徒たちが伝えないではおれないほどに
驚くべき何かがその時々にあったのだ
それはきっと
肉体や物を揺さぶるよりはるかに強く
彼らの魂を揺さぶったのであろうと
 
(90年代か)
 
最終2行は、そうでなければ、物や肉体の奇跡話だけでは長続きしないし、救われないと思うからです。現代、物や肉体の奇跡は、少なくとも滅多に起こっていないわけだし・・。人間の心を疎かにするのは信仰ではないと思います。
 
超常の話が増えれば増えるほど、楽山のような、何も分かっていない部外者が、偽善者として、蔓延り、霊能者気取りや学者気取りで、本来のキリスト信仰を、否定しようとするでしょう。
 
楽山の攻撃性は、罵詈雑言よりも、理路の散逸と、共感の欠如です。人間と遣り取りをしていることにならないのです。自己愛性人格障害の怖いところは、罪悪感がなく、極めて諦めの悪い執拗さです。こちらの頭も心も、煙に巻かれたように、疲労しボンヤリしてきます。
 
楽山は、また、新しいツイッターを立ち上げて、文句を言っているようです。良心の欠片もない楽山です。明日の記事に批判を入れますが、既に批判していることを蒸し返しています。
 
 
 
あるカルトの人は、キリスト者であることを疑ったところ、何やら書類のようなものを写真に撮って出してきました。それが信仰の証明になると思っているのです。役所の手続きか生命保険の契約のように信仰を考えていたようです。
 
信仰の証しは、免許証でも保険証でもありません。信仰の救いは、神に向かって祈り、自分を見ていただく以外にありません。人が祈る時、既に、神によって全て見抜かれています。神は、人間からの正直な告白を待っておられます。人には、それ以上の捧げものは無いからです。
 
聖書において救われた人々を見ると、救われるためには、完全な正義ではなく、完全な善でもなく、神の前に、努めて正直であることだけが必要十分であります。正直以外、神には通用しません。神の前で人は生きていますから、常習的な神への嘘吐きは、救いから、最初に除外されます。
 
教条絶対を語る者は、言葉だけでなく心の底まで見抜かれる神の存在を信じていないと思います。私たち信仰者が地上を生きることは、神の前で生きることであり、神に向かって祈ることであり、人の体裁も善行も正義も誉れとはならず、正直な祈りだけが信仰の義となる生き方なのです。
 
(2021年06月29日)
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
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  楽山の神噛み
 
 神に通じる祈りとは?(『神皇正統記』北畠親房著)
 2021年05月08日 楽山日記(LD)
 
 
楽山は、祈りません。ただ、あの神、この神と、批評して回るのです。したがって、救いの「す」の字も与えられることはありません。神について少しでも知りたいという求める動機ではなく、神々を見物して知ったことにしたいだけなのです。
 
最近の楽山は、自分の言葉が成り立たないものだから、書かない時の原始反応として、引用が大部分を占めるようになっています。同じことです。引用部分の内容とつながりから、楽山が何を暗示しようとしているかを考えます。そこに、曲解に基づく作為と悪意が満ちているからです。
 
『神皇正統記』を読んでいたら、祈りについて書いてあったのでメモしておきたい。
天照大神はただ正直だけを御心としていらっしゃる。
(『神皇正統記』北畠親房著、松村武夫訳、教育社、1990年、p.109)
 」
皇太神・豊愛の太神が倭姫命に神がかりして託宣なさったことは「人というものは元来神に通じた霊妙なものである。したがって心神(正直な心)を失ってはいけない。神は誠意をもって祈る者にまず現れ、神の冥加はまず第一に正直な者の上に加えられる」ということであった。
(同上、p.109)
 」
これは「心だに誠の道にかなひなばいのらずとても神やまもらむ(菅原道真)」に通じるものがありそうだ。
 
楽山は、正直ということを語るのに、人間としての当たり前に理解できる正直では分かったことにならず、「神に通じた霊妙なもの」というのを持ち出してきます。人として当たり前のことが、楽山には成り立っていないからでしょう。
 
そして、楽山は、次には、祈らなくても、神は守ってくれるだろう、と引用しています。しかし、楽山は、人間として、誠の道に、ことごとく背いているのです。
 
何が「通じる」というのでしょう。自分を見ない者が、いくら、キレイごとを言っても、そのキレイさが、自分を斬ってくるという例になってしまいます。
 
こういう自動的な返り討ちブーメランは、楽山の常態です。まともぶれば、まともぶるほど、自分が自分の言葉にズタズタに斬られてゆくのです。呆れるほど、いつまでも、気づかない楽山です。
 
私事ながら随分前に、とある宗教の信者だったころに信仰のことで悩んだことがあった。「自分はこの宗教はどこかおかしいと感じるようになってきており、信じきることができていない。信じきろうと努力しても、どこかおかしいという思いを消し去ることはできない。教祖は信仰の綱を手放せば地獄に堕ちるとしている。自分は地獄に堕ちるのだろうか…」と。
 
また、正義ぶって、まとも芝居をしています。どこか、軽々しい楽山劇場ですが、いちばん、おかしいのは、いつも、楽山です。しかも、関わると、関わった相手をも、おかしくしてゆきます。
 
「自分は地獄に堕ちるのだろうか」・・あざとい楽山の、お悩み芝居です。言葉だけで、深刻味が、まるでありません。楽山の、こういう台詞を真に受けて、巻き込まれないようにしてください。言っておきますが、楽山は、既に地獄にいるのです。だから、言葉も、心も、信仰も、嘘だらけです。
 
最後はこういう結論となった。「信じきれないないなら、信じきれないとするしかない。もし神様がすべてを見通せる正しい存在なら、信じきれていないのに信じきっているふりをするより、信じきれないものは信じきれないと正直になる方をよしとしてくれるだろう。
 
恐ろしい詭弁です。信じていない楽山は、その本質的な自己愛の性根から、正直の欠片もないモンスターになっています。楽山は、詭弁で、ごまかしていますが、楽山は、信じ切れない正直ではなく、信じる心が、まるでない、ウソッピ物語なのです。これで、自分は正しいと思い込めるなら、ホラーです。
 
もし信仰の綱を手放したら地獄に堕ちるとしても、信じていると嘘をついて天国に行くより、信じられないと正直にいって地獄に堕とされる方がましでもある。少なくとも自分の心に正直でいる限りは、どこにいたって気がとがめることもないだろう」。
 
信じられないのではなく、信じる気など最初から無いのが、楽山です。どうでしょう、これで、正直な自分を表したつもりなのです。いったい誰に、嘘つき楽山が「信じられないと正直に」言って、受け入れられると思っているのでしょう。
 
しかも、楽山は、それで「気がとがめることもない」のだそうです。良心が無い凶悪性の証明でしょう。狼が来たと嘘を吐いていると、本当に狼が来たとき、誰も信じてくれなくて、狼に食われてしまうという「狼と少年」の嘘吐き少年そのままでしょう。一言も正直のない手遅れ地獄か。
 
信仰芝居も、お祈り芝居も、神否定も、反宗教・反キリストも、様々、ほしいままに、三文芝居で欺いてきて、今さら「信じられない正直」などと都合のよい新作造語で言われても、笑止であるにとどまらず、地獄へのガイダンスに過ぎません。まさに悪魔のプレゼンです。堕ちるなら、独りで地獄に堕ちてください。
 
いくら正直であることが大切だといっても、世の中は決して嘘はつかず、正直でありさえすればよいというほどは単純ではあるまいが、信仰という自らの心の内に関することについては自らに嘘をついて誤魔化すよりも、正直でいる方がいいと思うので、自分としてはこの結論に満足している次第である。
 
世の中には、こういうことでは決して嘘を吐いてはいけない、ということがあるのです。それは、自らの信用問題と存在についてのことです。楽山は、そこを踏みにじったわけです。
 
さすが地獄の大根役者そして偽善者、「この結論に満足している」と自画自賛しています。楽山は「自らに嘘をついて」いるのではなく、他者に嘘を吐いて、だましてきたのです。
 
楽山の心に信仰はなく、もはや悪意と虚偽性だけをもって、こういう詭弁を仕掛けてくるのです。信仰者が、神の前に正直であるべきということの、対極にいて、あざ笑っているのが、楽山です。いつまでも、嘘で、ごまかそうとしてくることが、悪魔性を証明しています。寒い寒い楽山の世界です。
 
 
嘘と詭弁の孤独

嘘と詭弁の孤独
 
 
(2021年05月09日)
 
 
 幸福実現党の移民政策
 2021年05月08日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 
 
楽山は、批判ツイートの管理人かアドバイザーにでもなってるつもりでしょうか。楽山には、批判する資格もなく、批判を云々する資格もありません。
 
楽山は、嘘と詭弁で刷り込むだけの自己愛性の欠陥人格です。楽山は、何を言われても、反省もしなければ、責任を負うこともありません。この楽山のようなやり方は、言論には通用しません。楽山は、早く消えてほしいだけの偽善者です。
 
*移民政策
幸福実現党の移民政策について、及川幸久氏がツイートしていた。
及川さん
移民万歳だけ改めてください!
そしたら応援したいです!
 」
返信
及川幸久 香港加油!
@oikawa_yukihisa
·5月6日
返信先: 
@viva_mattu
さん, 
@YouTube
さん
実は幸福実現党は移民万歳ではないんです。10年以上前にそういう主張をしたのは確かですが、その中身は逆で、今の自民党の緩すぎる移民政策を批判し、移民受け入れの厳しい基準を主張しています。とくに反日国からの受け入れは。
 」
これには疑問に思うことを、一つ、二つ呟いてみたけれども、いまのところ回答なし。残念。
 
楽山には関わらないでください。回答があってもなくても、楽山は、ずっと、残念で、かつ、残忍な人です。それ以外、何もない人です。楽山は、いつも、ゲーム感覚だと思います。
 
*疑問(一)
疑問内容についてここでも書いておくと、まず一つは移民受け入れには厳しい基準を設けるということは、移民を抑制する方向に行くはずなのに、そうはならず移民一億人をめざすというように移民拡大に向かうのはチグハグではないかということである。
また移民一億人をめざしながら、移民万歳ではないというのもチグハグだ。
ニッポン繁栄 8つの提言【3】めざせ!人口3億人国家
 
「チグハグ」?・・楽山自身は、無反省と無責任で、裏切って、けなして、面白がっているだけなのです。何を、他者のことを、一人前の常識人みたいに言っているのでしょう。そんな資格はありません。まず、楽山を、批判する人々と批判される人々から、つまり、真面目な言論者から、除外するべきであります。
 
*疑問(二)
もう一つは、移民は一億人に限定せず、二億人でも大歓迎としていたが、それについて及川氏はどう考えるかということ、またこれは党の政策として今も変わらないか、もし変わっているなら何故変わったか教えてほしいということ。
下の動画では、55分過ぎから一億人移民が議論になっており、57分過ぎには移民は二億人でも大歓迎という発言も出ている。
 
こういう問題は、理屈遊びができるから、楽山は小理屈をこねていますが、テーマが倫理や道徳や人間性や良心や共感するべきことになると、楽山は、心が無いので、まるで、ロボットのようなことしか書けなくなります。
 
*疑問(三)
ついでにもう一つ疑問を書くと、幸福実現党が提案する移民選定の基準は、深刻な人権問題に発展するのではないかということである。
 
偉そうに書いていますが、他者の人権も尊厳も、屁とも思っていないのが、楽山です。ましてや、神の全能など、何も知りません。約2年間、楽山の書くものに、その卑怯さは、表れてきました。
 
反日国からの移民は認めないだとか、英語圏の白人の移民を期待するだとか、国籍、人種によって選定することは果たして許されることだろうか。また移民には日本国への忠誠を誓わせる…つまりは反日思想を持った移民は認めないということであろうけれども、これは思想信条によって人に対する扱いを変えることになるのではあるまいか。
幸福実現党はこの辺りのことについては見直す必要があると思う。
 
趣味で茶々を入れてくる楽山の目的は、正義でも人道でもなく、自分が評論家みたいに書いて、そう見られることが、悪魔性の悦楽だからです。
 
楽山は、A級戦犯に賛同しているネトウヨです。しかも、しっかりした思想も信条もありません。いわゆる、荒らし的な、いちゃもん屋です。だから、何を言われても、平気で無視します。
 
そのことが、もたらすのは、無反省と無責任で、真面目な議論や批判において、自分が追及されると無視して、逃げるだけなので、話にならず、何の役にも立たないということです。そういうことを、平気で、長く続けているわけです。
 
 
(2021年05月09日)
 
 
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