ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:情欲の聖句

 
   賀正
 
 
  誤読の例
    前に思ったこと、今思うこと
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。 
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
私が、最初、読んで思ったのは、厳しすぎて、守ることなど到底できない教えだということです。情欲をいだくことがなくなれば、子孫など出来ない、人類滅亡じゃないか・・と思いました。しかし、どう見ても、守るのが無理な教えを、キリストは、なぜ、言ったのでしょう。
 
これは、その通り守れという教えではないということです。人々は、どうすれば天国に行けるか、どうすれば神のように正しくなれるか、といったことを取り沙汰していて、キリストは、信仰は、どうすれば・・という行為義認ではない、ということを言ったのではないか。
 
つまり、神への恐れが足りない人々に対して、何よりも、神のように正しくなることは出来ない、ということを言っているのではないかと思います。大きな結論としては、罪なき人は一人もいない、誰もが罪人なのだから悔い改めが必要なのだという意味ではないかと、今は思います。
 
聖書では、正しいからではなく、正直に罪を認めた人や、罪に塗れて救いと癒しを必要としているとしか思えない人が、キリストによって救われています。一方、自分は正しいと思っている人は、キリストによって厳しく批判されているのです。
 
キリストは、この教えを、神のように正しくなりたいならば、こうでなくてはならないが、守れるか、守れないだろう、だから、誰にとっても悔い改めの告白と祈りが必要だ、と言っているように思えます。
 
キリスト信仰の条件は、善でも義でもなく、神の前に正直に祈るかどうかなのです。
 
なお、神の前で正直に祈る人は、悪意をもって、故意に不正や悪を目指すことは、しないということでもあります。嘘と詭弁でキリスト信仰を汚している楽山やシャロームshalomのような、一部の嘘つきに、どうか、だまされないでください。
 
 
 
※ 
 
楽山が引用していた "佐倉哲" という人のプロフィールや学歴を記したページが見つかりません。これで、ますます、嘘っぱちインテリ気取りの、楽山の成りすましである可能性が大きくなります。
 
 
 
年賀状。今日は、これだけです。すみません。
 
 
 
教えのパラドックス

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(2022年01月01日)
 
 
 
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深夜帯に接続サーバーの工事がありました。予定所要時間が210分ということでしたので、投稿が遅れました。前もって告知しなくて、申し訳ありませんでした。
 
 
  自由と解放2
 
 
信仰は
欲望や、世俗のしきたりや、先入観や偏見などの
戒律みたいなものに縛られる心から
基本的に
神の御心を思う世界へ
生き方の方向を変えることです。
神様のほうを向くという表現もあります。
つまり生き方の方向転換と言えるでしょう。
 
こだわる物事が別のものへ変わるのではなく
こだわりという不自由からの解放
つまり自由ということです。
そうでなければ信仰は無意味だからです。
 
信仰は取引ではありません。
何かを捨てて別の何かを得るという交換ではありません。
信仰は気づきの世界であり
物事の集合を本質としてはいないからです。
 
つまり信仰は
自分を縛っていた様々な不必要なことへの隷属から
人を解放することであり
世俗への強迫的こだわりからの自由になります。
 
それが新たな"信仰?"への縛りに強迫するのでは
もはや望ましい信仰ではないのです。
つまり
信仰は信条への束縛ではなく
世俗へのこだわりからの解放であり
どこまでも
自由意志によるところの信仰です。
そうでなければ意味がありません。
 
ゆえに信仰は
決して強制できない本質を持つと言えます。
 
ゆえに信仰は
人間の自由意志による可逆性を持つとも言えます。
 
ゆえに信仰は
縛られることではないということです。
 
信仰者になって
様々な信条や教理に
新たに縛られたのでは話になりません。
 
ゆえに
信仰において忘れてはいけないことは
神への正直な祈りだけです。
 
あとは折に触れて聖書に親しむこと
というようなシンプルさであることが必要です。
信仰の知識はその中で自然と学ぶこと以上ではありません。
 
 注意してください。
 信仰を
 神についての妄想的教理に誘うもの
 何でも神が味方という自己中に誘うもの
 優しくて穏やかな神だけを伝えるもの
 逆に教条の戒めにうるさいものとするなら
 これらはキリスト信仰ではありません。
 
信仰は
神に対する善でも正しさではありません。
そんな正しさ、地上の誰も持ち得ません。
 
信仰は
神に対する正直だけが本質です。
それだけが神に対して人の出来ることだからです。
 
ですから、また、
信仰は道徳の寄せ集めではありません。
 
世俗からの解放は
世俗の物事を全否定することではなく
世俗にこだわり縛られる心を解放することであります。
 
ですから信仰は
世俗のあらゆることを捨てて
世捨て人になることではありません。
 
また信仰は
教理や信条だけで言動するように
他の関心事を捨てることではありません。
 
というのは
そのようになってしまうことは
信仰に献身したというより
信仰から人間性を外して
信仰?マシーンになるようなもので
むしろ神が与えた心や自由意志を捨ててしまうことであり
一種の強迫神経症に過ぎないからです。
 
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
そこから良心も人間としての正義も生まれます。
しかし人間に絶対はないので
意見があり、また、批判があるのです。
 
最悪なのは、神の名によって、それらを封じることであります。
 
二番目に悪いのは、神の名によって、
都合の良いほうを残し、不都合なほうを封じることであります。
 
次に悪いのは、封じることはしないが、無視することであります。
それは、信仰においても、人間性においても、まともではありません。
 
カルトや自己中やサイコパス的人物は、
そういう、隠蔽、無視、などをする者たちであります。
いかなる社会においても、まともに付き合えない者たちであります。
 
信教の自由と言論の自由は
信教の責任と言論の責任を負う
という前提において保証されるべき自由であります。
 
カルトや自己中やサイコパスは、
自由勝手に言動し、かつ、責任を負わない者たちです。
ゆえに、平気で、人を無視し、嘘を吐けるのです。
 
 
信仰において許される自由は
信仰によって与えられる解放に伴うものです。
 
人間の知情意は
神からの恵みの賜物であります。
信仰は決して人間の知情意を束縛するものであってはいけません。
それは、神をけがす行為であります。
 
信仰は人間の知情意の良心を促進するものであり
縛られていた心の束縛からの解放によってもたらされます。
 
いつのまにか人間の心をだまし束縛する者がいて
そういう者を、誤って信頼したり、鵜呑みにしていると
いつのまにか自由を失って人格が破壊されてゆきます。
 
間違っても信仰が神?による束縛や縛りになりませぬように。
 
信仰が魂と心の自由への解放となりますように。
 
 
信仰は禁欲に置き換えられるものではありません。
禁欲は、修養としてはありますが、
それで信仰が成るわけではありません。
 
欲に縛られるから、
縛られないように欲を捨てる
という幼稚な戒めで信仰は語れません。
欲は死ぬまでついてくるからです。
 
信仰は関係であり絆であり共感であります。
ゆえに生きる希望と愛になりうるのであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:28、新約聖書)
 
情欲の聖句は
情欲についての戒めにとどまりません。
聖句のモジリを書いておきます。
 
人を欲の目で見る者は姦淫を犯したのである。
 
つまり人はしばしば欲の目で見ており
すでに、そして、これからも、姦淫を犯します。
姦淫は、情欲だけでなく、偶像崇拝であり、
この場合、欲への崇拝を意味しています。
 
"他人の妻" には情欲の目を慎みましょう
などと言う説教では決して表せないものです。
 
したがって罪なき者は一人もいないのであって
信仰者は、心の向きを変えて、
神とキリストのほうを向いて祈るでありましょう。
 
欲から自由になることが信仰なのではない。
欲は誰にでもあり、信仰者だから清潔ということはない。
何を仕出かしても、
神の義のほうを向く心があるかどうかだけが信仰の有無であり
すなわち
正直に罪を告白し祈る心があるかどうかだけが信仰の有無であります。
 
祈りは、おもに、悔い改めのためにあります。
悔い=人に言えなくても、罪悪感を持ち、罪を自覚し、罪を後悔すること。
改め=折に触れて、祈ること、
   即ち、そのとき、"神のほうを向く"ことになる。
   それが、世俗から神へ、拠り所の向きを改めるということです。
   そして、正直に罪を告白して、赦しを乞い、願いを述べる。
   というのが信仰者の務めであります。
 
信仰は取り引きでも魔術でもありませんので
すぐ何もかも解決したり幸福が訪れたりするわけではありませんが、
祈ることで、何らかの心の安らぎを得る
というのは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
地上の現象としては、心理的効果と言われるでしょう。
まあ、それでもよいのです。
神のもたらす効果を、地上の人は、
いちいち、これは神が、きっと神がと、確認できるわけではありません。
 
神という絶対者に、キリスト・イエスの御名によって、
祈るということを旨とする暮らしが、何よりも大切であります。
 
祈ったことは、すべて、神によって、聞かれている
というのは、祈りの信仰の中心であります。
 
しかしながら、
その祈りは必ず神に受け入れられている、ということは言いにくいのです。
というのは、偽善者も、欲望実現のために、偽りの祈りはするからです。
 
神は、確かに、一言一句漏らさず、聴かれるでしょう。
しかし、届く意味は、信仰者と偽善者では、正反対になります。
 
ちなみに、私が聖書を読んで考える善悪の言葉は、
悪性度の高い順に、偽善>悪>善>偽悪、と考えています。
 
キリスト信仰は
偽善を最も忌み嫌うことが聖書に表されています。
 
 
悔い改め

悔い 改め
悔い改めとは、完全になることではなく、生きる方向を改めること。
悔いても、過去も未来も、改められないことが人間にはあるでしょう。
 
 
 
  信仰告白
 
人間がなしうる
最も良質な
精一杯の信仰告白は
不信仰告白である
 
 
 
(2020年06月20日)
(2021年06月22日、再録+)
 
 
 
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  分からないと言える勇気2
 
 
B:私

キリストの教えについて、分かることと分からないことがあります。
ずっと分からなかったが、あるとき分かったということもあります。
キリストの教えを理解することは、信仰の成長に伴います。
分からなければと、思い込もうとしたり、決めつけたりしないでください。
 
Q:「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」
  (マタイ5:27より、口語訳)
  「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
  (同、新共同訳)
  
A:情欲をいだいてはいけない。
 
B:情欲をいだかなければ人類は滅亡する。
 
A:子供を造るためにだけ許される。
 
B:さあ子作りを始るぞ・・だけでセックスする男女はいない。
   いたとすれば、偽善者の嘘か、気色悪いかだ。
 
A:「他人の妻」ということなら、守れるだろう。
 
B:情欲は、湧いてくるものであって、湧かないようにすることは出来ない。
 
A:だから、できるだけ心掛けようということ。
 
B:そんな教えなら、ありきたりの道徳と同じ安っぽさだ。
 
A:無意味だというのか。キリストの教えを。
 
B:守れという教えではないということだ。
 
A:教えは守るためにあるんじゃないのか。
 
B:この教えは、守れない私たちのためにあると思う。そして、できるだけ・・みたいな甘いものではない。信仰の根幹にかかわることだ。
 
B:恐らく、神のように完全になるには?と問う者が多かったゆえに、キリストは、守れないことを承知の上で、完全になるため?の教えを説いた。これは、到底守れないことの例示である。つまり、完全になることが信仰ではないという教えだ。
 
B:ゆえに、信仰は、守れない不完全な人間である罪人が救われるための信仰である。したがって、この教えは、結局、罪なき人は一人もいない、信仰者も罪人でなくなるわけではない、ゆえに、祈って、赦しを乞いなさい、という教えである。他に解釈のしようがない。
 
 
偽善者は、守れと言って、守っていない自分を隠して偽ります。
 
こまごまと、ああせよ、こうせよ、こうするな、などを考えるのは、行為義認に走りやすく、また、傲慢な偽善者の自慢話のネタになるだけでしょう。
 
神の前に、不完全で罪深い自分を正直に告白することが、信仰です。それ以上でも、それ以下でもありません。
 
 
聖書には、分かりにくいところが、いっぱいあります。そのような場合に、気安く分かったと言わないでください。聖書は、人間存在のあり方について、奥が深いのです。
 
信仰は、誰でも理解できるように、上の解釈が可能なように、すぐれてシンプルでもありますが、たとえ、分かったつもりでも、もっと深い話~解釈によって、信仰を新しくすることが必要な場合があります。自分の理解を固定しないことが大切です。
 
なんとなく言葉の辻褄が合った気がして、そうですね・・と言うのと、分かる、すなわち、理解する、ということは別です。分かったと思ったときに解放感を伴うのが理解です。伴わないのは実感のない辻褄合わせに過ぎません。
 
全能の神と、不完全な人の、決定的な違いを弁えることが信仰です。キリストは、それを伝えて、人々を救う使命をもって来られました。その上で、愛と共感を示されたのです。
 
信仰が、守れという教えならば、教条主義となり、欺瞞によって、守っていると言って、守っていない自分を隠して、パリサイ人のようになるでしょう。そういう偽善者は、現にいます。
 
人が守れないことを承知の上で、人が完全でないことを承知の上で、そのような人々を救いに与(あずか)らせる福音を宣べ伝えるために、キリストは来られたのです。
 
中途半端に納得して頷いて、分かったことにしないでください。知識の優れた人も、いちばん大事なことを分かっていないかもしれません。信仰は、知識自慢ではありません。
 
私たちは、神の、計画も、意志も、教えも、行ないも、心も、分かるから信じるのではありません。分からないほど不完全であるゆえに、神の憐れみによってのみ救われるのです。
 
ですから、肯定でもなく、否定でもなく、分からないことは、分からない箱に入れて、保留にしてください。分からないことを分かったことにしないでください。また、分かっても、それに従って行動するときに、神の意志として絶対化しないでください。
 
分かっても、分からなくても、よりよい理解を求めるために、再考と反省の余地を残すこと、これは、人間そして信仰者が、学習し成長するための務めとして、とても大事なことです。
 
信仰において、いちばん大事なことは、分かることではなく、分からないことを分からないと言える勇気なのです。それゆえに、キリストの荷は軽い、つまり、キリストは、人の荷を軽くする、人を解放する、ということになるのでしょう。
 
 
わからないのにわかったなんて言わない

分からないのに分かったなんて言わない
 
 
(2020年03月03日、同日一部修正)
(2021年03月04日、再録+、同日一部修正)
 
 
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