ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:想うところに

 
  想うところに3
     シモーヌ・ヴェイユ
 
 
人には想像する自由がありますが、信仰の本質は、想像ではありません。また、事実でもありません。信仰は、悲しみを知る心に生まれ、いちばん酷い孤独からの解放を与えます。確定は出来ないが、否定できない真実として受け取って、信仰者が生まれます。ゆえに、神秘と呼ばれます。
 
人が想い描く人物像は、人格も含めて想い描いた像ですから、その人ではありません。常にその人の偶像を相手にしているようなものです。想うところに人はいないのです。しかし、人は、想い描かれた人の偶像の間違いを、完全ではないが、ある程度、態度や言動で知ることが出来ます。 
 
人間関係は誤解で成り立っているところがありますが、お互いの偶像を修正しながら、不安定ながら、未知に立ち向かって、良かれ悪しかれ活性化してゆくことが可能です。衝突しても学習が可能だからです。
 
人の像と違って、想い描く神の像の間違いを、導きによって啓示するのが神だという証拠を人は持ち得ません。また、自力で、神と偶像を、完全に区別することも出来ません。聖典を通して学んで、深く知ったと思えば思うほど、神と人との関係は、人にとって、誤解の中にしか存在しないのです。
 
想うところに神はいない。想うところに人はいない。さて想うところに自分はいるであろうか。この問いを尋ねる御方を仰ぎ、祈り、生きる縁(よすが)とすることが、信仰です。しかし、私たちは、答えを、確定的には知りえません。
 
 
神は、いつまでも黙ってはおられない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます。
 
 
シモーヌ・ヴェイユという哲学者がいます。
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象があります。それは神です。神を信じているから、神に祈ります。神はいると信じています。しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、イメージであり、極端な言い方をすれば偶像であります。
 
偶像は神ではありません。人が想い描くイメージの神は実在しない。真の神は偶像でもイメージでもない。ゆえに、信仰は、神を確信することではなく、信仰の心を、唯一の希望にささげることです。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉があります。「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、神は存在しない、と思いつつ祈る。」という。どう受け取ったらよいのでしょう。
 
つまり、このヴェイユが言うように、祈るときにも、祈る相手として想い描いた神のイメージがある。つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」・・・が繰り返されます。
 
人は、本当の神を想い描けない。神は人が想い描けるような御方ではない。想い描くところに神はいない・・・これは、真実であります。この真実に背くのは、人が、全能の神を決め付けることになります。
 
現実に祈っている相手としての神の実体を人は知らない。存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。しかし、キリスト者は祈る。キリスト者にとって、そこにしか希望はないからであります。
 
しかし、想い描いている神がいなくても、想いの始末を任せる神への信仰は希望として存在します。信仰は、検証できる客観ではなく、信仰者ひとりひとりの必要として生まれてくるものです。
 
神は、人が勝手に想い描くところではなく、人の身勝手を超えたところに、信仰者の生きる縁(よすが)ととして、祈りを聞く主体として存在します。祈りは、孤独が癒やされるところだからです。
 
その神が存在しないとか、人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できません。祈りは確信に支えられてはいません。祈りは、唯一、希望のみに支えられている。正直が癒しに変わるところ、・・世々のキリスト者が証人である。
 
 
(ネットより)
シモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ、Simone Weil, 1909年2月3日 - 1943年8月24日)は、フランスの哲学者である。父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄である。
ヴェイユは第二次世界大戦中に英国アシュフォード(ケント)でほぼ無名のまま客死した(享年34)。戦後、知人に託されていたノート(カイエ)を編集した箴言集『重力と恩寵』が出版され、ベストセラーとなった。その後もあちこちに残されていた膨大な原稿・手紙・ノート類を、知人やヴェイユの思想に感銘を受けたカミュが編集・出版するにつれてその深い思索への評価は高まり、多言語で翻訳されるようになった。
シモーヌ・ヴエイユ:wiki
 
 
おもうところに神はいない

おもうところに神はいない
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
(2022年01月31日、再録+加筆)
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
無神論者、即ち、無神教カルトの信者である楽山は、神の存在を証明することを要求して、それが出来ないから神はいない、という心ない妄想を繰り返します。神の不在も証明できません。そもそも、神の存在も不在も、人が証明することなど決して出来ません。
 
神は超常の存在、人は地上の存在です。その位格の決定的な違いが、楽山には理解も区別もできないのです。それは、楽山が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であるため、自分より高い存在を、全く考えることができない病質人格だからです。
 
楽山が、神とキリストと信仰について何か書くことは、常識的にも、約3年間余り言い続けた嘘と詭弁を、反省し修正した後でなければ成り立ちません。楽山が、厚顔無恥のまま書き続けるあいだ、楽山否定の批判記事が地に積まれ、楽山の背教の証しが天に積まれるだけなのです。
 
 
 
   傷口
 
面影さえもはっきりとは思い出せないのに
傷口だけは鮮明に存在して
時に血を吹く
いつこの血は絶えるのか
絶えはしない命のある間は
時に激しい出血とともに
嘔吐するのはやさしかった夢たち
喉に引っ掛かるのは空しいギャンブル
血は冷血となって足の下を流れる
感情の線を一本また一本と引きながら
 
 
  絶望から生まれて
 
絶望から生まれてきたものがある
やさしそうな
さびしげな顔をしている
それでいて 安らかな笑みをうかべている
肩の力が抜けてゆく
 
私は眠っているのか
夢を見ているのか
 
何か言いたそうに
こちらを見ている
 
私の体は動かない
夜明けは遠い
 
光は遠いのに
そこにいて
静けさでまわりを包む
存在
 
存在は不安
不安は友だち
君は誰?
 
答えず
話しもしない
ある深夜気づく
そのとき
もう誰もいない
 
ひとり思いがまわっている
君が私を
支えてきたのですか
 
 
 
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  想うところに2
 
 
人について
想い描く人物像は
人格も含めて
想い描いた像であるから
その人ではない
常にその人の偶像を相手にしている
想うところに人はいない
 
ここで人は
神と違って
想い描かれた人の偶像の間違いを
完全ではないが
ある程度
態度や言動で知り
また示すことが出来る
 
人間関係は誤解で成り立っているが
お互いの偶像を修正しながら
不安定ながら
未知に立ち向かって
良かれ悪しかれ活性化してゆく
正面衝突が可能だからである
 
人の像と違って
想い描く神の像の間違いを
導きによって啓示するのが
神だという証拠を人は持ち得ない
 
聖典と祈りを通して学んで
深く知ったと思えば思うほど
神と人との関係は
人にとって
人の誤解の中にしか存在しない
 
想うところに神はいない
想うところに人はいない
さて想うところに
自分はいるであろうか
 
この問いを尋ねる相手だけを
見上げたつもりでいるが
この地上に
確定的な答えはないと知っている
 
 
想うところに

想うところに
 
祈り「神様は、いつまでも黙ってはいない、と思うのですが、私は、時々、失敗しています。学ぶことを新たにする日々にも、折に触れて、癒しをいただきたく存じます」
 
 
(2011年04月29日)
(2021年01月30日、一部加筆)
 
 
 
  存在しない神に祈る
 
キリスト者が祈るとき、必ず祈る対象がある。それは神である。
神を信じているから、神に祈る。神はいると信じている。
 
しかし、その祈る対象は、祈るとき常に、祈る人が想い描く神であり、
イメージであり、極端な言い方をすれば偶像である。
 
偶像は存在しない、人が想い描くイメージの神も存在しない。
神は偶像でもイメージでもない。
 
シモーヌ・ヴェイユという人の言葉がある。
「神に祈る、人々から離れてひそかに祈る、というだけでなく、
 神は存在しない、と思いつつ祈る。」
どう受け取ったらよいのか。
 
つまり、このヴェイユのように祈るときにも、
祈る相手として想い描いた神のイメージがある。
 
つまり、どう祈っても、祈っている相手がいて、避けられないこととして、
それは即ち思い描いたイメージであり、そこに「神は存在しない」
・・・を繰り返すしかない、繰り返すしかない・・・!
現実に祈っている相手の神がいない。
存在しない神に祈りが聞かれるはずはない。
 
しかし、キリスト者は祈る。
キリスト者にとって、そこにしか希望はないからである。
 
人は神を想い描けない。
神は人が想い描けるような御方ではない。
想い描くところに神はいない。
 
しかし、想い描いている神ではなくても、想いの始末を任せる神は希望である。
 
その神が存在しないとか、
人と全く無関係で、人を聴いていないこともまた、証明できない。
 
祈りは確信に支えられてはいない。
 
祈りは、唯一の希望のみに支えられている。
 
 
(2010年12月8日)
(2019年03月18日、一部修正)
(2021年01月30日、さらに一部修正)
 
 
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