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キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

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  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が、キリスト者(信仰者)でもないのに、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
「人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている」・・これは、人間だから、信仰に疑いはつきものだという意味です。人間としての信仰者には共感できることです。信仰の欠片もない楽山が、これを書いているのは、反キリストの企みであり、余計なお世話なのです。
 
反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。何も明らかにできず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を、信仰者と読者に刷り込む企みの詭弁です。
 
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・真っ赤な嘘です。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりません。つまり100%の信仰など気色悪いばかりで、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。
 
楽山は、自身のカルト教祖願望の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊だけの我欲のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。楽山は、キリスト教を1%も理解していません。
 
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、信じる心の1%の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
嘘や詭弁をチャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、発言の断片だけの悪用であろうと思います。狙いが、とても、卑しいのです。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山は、その作為のわざとらしさから、3年余り、どこにも見るべきところがなく、ずっと真っ黒だと思います。
 
信仰は有無であります。何%ではありません。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)を見て、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類で、理路が成立しません。
 
楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。人のことを言う資格の全くない人であり、自分の不能に、全く不覚の病者であります。
 
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
「ミスを認めることができない」「我が強い」「間違ったということが認められず」・・楽山に当てはまることが書いてあると思います。「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」・・楽山の宗教批判を貫く妄想です。
 
楽山という無神教カルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないのです。児戯にも等しい思い込みから書いているので、書いた文章に斬られる結果になっても気づきません。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性があります。ゆえに、体質として未熟で浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきています。
 
まさに、我が強く、いつまでも、いつまでも、楽山自らの過ちを認めることなく、自分が正しいと判断した自分は正しいという循環に陥って、自覚なく、自分には本質を見抜く眼力がある、という自己催眠によって、書き続ける亡者となっているのが、楽山その人です。
 
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、楽山の嫌らしさと愚かさが増幅されて表れるだけなのです。自己顕示欲のベースから何を書いても、表れてくるのは、人に向けた悪口が自分に返ってくるブーメランだけになり、いかなる救済の余地もなくなってゆくのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習障害だけではなく、感動経験のなく鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機だけで、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
「思い込んでしまったら」「修正することは困難になることはよく分かっているつもり」・・まるで分かっていません。幼稚な先入観と偏見に凝り固まっている訂正不能が、議論不能となって、今の楽山を作っているのです。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型動物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、無反省と無責任で、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある成長可能な人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、という単純なことです。よって、楽山の、言い訳がましく人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ批判を貼りつけてゆく方針です。
 
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の言辞を平気で続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような者には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という判断が、3年余りの間に、減ることはなく、次から次に、積み重なってきました。
 
そういう嘘とともに、楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。
 
他者に「頑張ってほしい」と言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者が、言論のブログから去るまで、甘く見てはならず、妥協してはならないのです。
 
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、今は、もう、誰も、だまされてはいけません。楽山は、神ではなく、人として欠格している自分を、インテリ気取りで飾って自己顕示してくるだけの異常者なのです。
 
楽山は、精神的な疲労だけを与える人であり、青空を曇らせる人であり、何の実感もなく字面のきれいごとの無感動を並べ、高慢によって膨れ上がり、経過と結果において情緒障害を来たして、まともに見せかける芝居だけで、口先だけのインチキを、インテリに見せかけようと必死です。
 
楽山は、自分を見つめるという機能を育て損なっているので、他者のことばかり云々していますが、知性と共感性がないために、わがままな幼児が拗言(すねごと)を繰り返すような堂々巡りばかりしています。そして批判というより揶揄になって、ニヤニヤ笑うのが生き甲斐となっているようです。
 
 
破綻者の気取り

破綻者の気取り
 
 
(2020年)
(2022年07月02日、再録+加筆)
 
 
 
  祈り・エレジー
 
捧げまつるひとつの哀歌
紡いでは千切れ
織っては破れ
綴っては綻(ほころ)びる
狂おしげに病める韻律
あまりに私(わたくし)に過ぎた形
が私を拒み形を拒む
他には何も編めませんでしたと
細い手に乗せて差し上げ
一日の糧(かて)を求めてはなりませんか
あなた様だけには物乞いをしたいのです
すすんで切に切に求めたいのです
 
糧がもはや不要と尽きるまで
事切れるその日までは
私には肉体があります
だから肉欲のように祈り求めます
 
 
 
  ルナティク・顔 (冬)
 
世馴れした顔が気軽に友と呼び
話す語尾の後にハ行とも?行とも
濁音とも清音とも
撥音とも促音ともつかぬ笑いを付けて
きっぱりと冷たい締めを弛ませる
 
世馴れできない洟(はな)垂れ顔は
やりきれなくて夜独りああ~と笑う
二つ目の「あ」に濁点をつけて
ときに強勢を付け語尾を上げてまで
 
それは血迷いの狂(ふ)れ姿か
少なくとも装うのではなく
自己の在るべき領域が崩れゆくとき
隠せなくなった濁りも澱(おり)も灰汁(あく)も
何もかもが締まりなく流れ出しているのだ
 
それで少しでも楽になるなら
目一杯溜められるだけ溜めてきた生ゴミの
袋の破れ目から液汁は流れるだろう
(それで少しでも楽になるなら)
 
人に物に風景にまで
蔑(さげす)まれ責められるかのようなとき
夜ふらりと外に出て空を眺めれば
手に受けようとする白い息を散らせ
顔を刺すような寒気の向こう彼方に
月も星も冷たくきっぱりと無関係
どうしようもなく有り難く無関係
光り輝く無関係
泣くことを忘れた顔に
目汁鼻汁冬の夜
 
 
  主観
 
今が一番幸福なのかもしれない
と考えることがある
過去そして人生は大方
現在によって評価される
今が不幸なら
過去のいかなる幸運も
転落のための落差に過ぎない
今が幸福なら
過去のいかなる不運も
懐かしい思い出になる
未来だけでなく
過去も変わるのだ
 
未来はもちろん変わりうるものだが
どこへ向かおうとしても
門があり玄関があり
守衛か受付が居て
冷淡に丁重に
断られ拒まれそうな現在に在って
ただ自分にとって大切な
一片の希望を捨てない限り
未来も現在も
それゆえ過去も変わる
 
底の薄い小舟
揺れる細い吊り橋
踏めば破れそうな床
進むしかない
希望よりも見通しの利かない
過去の移ろいへ
 
今が一番幸福なのかもしれない
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)される
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山とは数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。疑問を指摘しても、的を射た返事はなく、自らの同じ前提でしか応答しません。だらだらと続く応答に異常に疲れました。ゆえに、楽山とは二度と遣り取りはしません。楽山が楽山のサイトに何か書けば、それを批判対象にするだけです。
 
楽山は、否定を書き、肯定を書き、断定していないのだから、責任問題は生じないと言いました。。楽山は、否定すれば否定の、肯定すれば肯定の責任が、その都度、発生することを弁えていません。小学生以下の未熟です。楽山は理路を組み立てられずに詭弁に走る幼児性の嘘吐きに過ぎません。
 
自己中に固まっている楽山は、誰の味方にもなれません。何かを批判するときに楽山に頼ってはいけません。楽山は、図に乗れば乗るほど頼った人を虫食んでゆく寄生虫です。深みにはまる前に離れてください。自分の体験を語り、気持ちを語ることが、誰かを頼るより、はるかに人を動かします。
 
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
またもや棒氏は、ストローマン手法で嘘をばらまいてる。
私の意見は「アンチは悪い事はしてない」というのではなく、「棒氏は、自分がアンチにしたことをやり返されてるだけで自業自得だ。自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」というものですよ。
 
「自分の加害行為を隠して、被害者コスプレしている」・・楽山のことでしょう。被害の自覚はあっても、自分の、無反省、無責任、詭弁などによる加害を無視していられる体質の病気なのです。これは、自己愛性人格障害から来ているので、人格を批判し続けることになります。
 
もはや、楽山は、人間としての良識と感受性が欠落して、反省も出来ないわけですから、言論者としては成り立たないのです。まだ、ふつうみたいに、物を言ってくることが、症状であり、こういう人には、関わることが、何らかの影響を受けることが、既に、病魔にさらされることになります。
 
楽山自身が、既に、ストローマンあるいは藁人形か案山子(かかし)のように、実体が無いのかもしれません。だから、楽山は、好きなように屁理屈を宛がって、かつ、責任を負わないのでしょう。もはや、人間を相手にしているとは思わないほうがいいと思います。
 
楽山は、ネットというバーチャル世界でのみ存在に見えているゴーストだから、いつでも好きなように物を言って、無反省で無責任でいられるのでしょう。ネットは無責任と言われますが、それを、空っぽの人格で体現し、害だけが働いている状態なのでしょう。だから何も感じない案山子でいられる。
 
ネットだけの存在ということは、実体のないゴーストと同じです。だとすると、楽山の発言は、バーチャルのゲームのようなもので、言ったら言いっぱなしの無責任ということなら、放屁と同じようなものでしょう。そう言えば、楽山の発言には、一度も、感動も感心もしたことはないのでした。
 
 
★こも/楽山日記3
@komo266
大川隆法は、『仏陀再誕』で、仏陀である自分を信じないのは偽物の信仰だとし、
『フランクリースピーキング』では、イエスの悟りが掌の上に見えたと豪語し、
『永遠の仏陀』では自分を信じることを止めれば地獄に堕ちるとしてます。
幸福グループで説く信仰には、こういう一面があります。ご注意を。
 
このように、楽山は、カルトの奇妙な発言を指摘し揶揄していますが、一方で楽山自身が超常と心霊への傾倒があるために、理路や感受性が歪んでいます。そのために、霊が分かるっぽい自覚だったり、思考が、まとまらなかったり、平気で嘘を吐き、詭弁を弄して、印象操作や、刷り込みをしてきます。
 
楽山は、言論の基礎である公共の福祉に合わないような、趣味と真実追求を混同して、宗教を趣味的に扱ったり、調子外れに長い記事や引用を書いたりします。ゆえに、人を批判する資格はないと思うのですが、自己顕示欲がどうしても働いて、執拗に、自身の地獄を表しています。
 
今さらのように「ご注意を」と、HSを批判するのも、正常人そして賢者アピールなのでしょう。しかし、無反省、無責任、無視、無頓着、無神経、無節操な書き方を止めることが出来ず、自分の状況が分からないままです。ご注意を、というより、警戒、にとどまらず、近づかないようにしてください。
 
どうしても、我執から、評論家気取りや、インテリ気取りで、やっていけるという思い込みが、妄想的な前提になっているのでしょう。ここでも、人の悪口や異常を振り撒きたいようですが、楽山の異常のほうが、楽山が隠している分、災いが大きいのです。どうか、楽山の発言を受け取らないでください。
 
 
 
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  楽山の悪用2
 
 「信仰と懐疑」羽仁もと子著
 2020年06月25日 楽山日記(LD)
  を改めて批判。
 
 
キリスト者でもない楽山が、人が信仰と懐疑の間で揺れているなどと言っています。信仰を知りもしないで、楽山が言うのは、余計なお世話であり、何でも分かるつもりの楽山の凄まじい自分信仰の思い上がりなのです。
 
「信仰と懐疑」は、『羽仁もと子著作集15 信仰篇』に収録されている文章であるが、タイトルにひかれて読んでみた。
まず著者はこの二つについて、「信仰と懐疑とは、いつでも並んで私たちの心の中にあるものです」と書いている。これはその通りだと思う。まんが的な表現で、心の中で天使と悪魔が議論するというものがあるが、そのように人の心はいつも信仰と懐疑の間で揺れている。
 
楽山は、反キリストですから、「その通りだと思う」ことはないと思います。勝手に、懐疑という言葉で、いつもの短絡理路によって、我が意を得たりとばかり、言っているに過ぎません。ただ否定したいだけの楽山は、言葉の表面に反応していますが、児戯に過ぎません。
 
キリスト者の懐疑は、今までの楽山の記事に書かれたような低劣な短絡ではなく、もっと深く、もっと真剣なものです。そういう懐疑には、この世の必然があり、試練があり、むしろ目を背けることのほうが、罪深いと言えるでしょう。そこから、信仰は新しく成長するからです。
 
実に余計なお世話なのです。反キリストである楽山は、キリスト者が信仰に疑いを持っています、というような、こういう話が大好きなので、本を漁っては、攻撃材料にしてきます。神から人を離反させるのが、使命であるかのように、心の隙をうかがっては、信仰を蝕みたいのでしょう。
 
次に著者は、信仰と懐疑の関係について、「私たちのどんな小さな行動でも――いわんや大きな行動になると――信の力が疑いに勝っているから出来るのです」という。たとえば人生を続けているということは「人生を否定するよりも肯定している部分がいくらか多いため」であろうし、その他、結婚、子育て、旅行などについても、そのよい結果を信じている気持ちが、それを疑う気持ちより勝っているから出来るし、それを続けられるのだろうとする。
 
著者へのおべっかです。楽山は、必要とあれば、なりふり構わず、世辞も言う人です。社交の言葉で、お付き合いを始めて、楽山の、致命的な無明の世界に誘い込んでゆきます。楽山は、何も明らかにならず、信仰もほどほどに、というような、社交と同じレベルの結論を刷り込む輩です。
 
そしてこの後、著者は「信」の強さや、質についての話に進んで行く。この辺りは、なるほどと納得できる話ばかりである。
自分は過去に、「信仰は100パーセントでなければならぬ。99パーセントではゼロに等しい」という話を聞いて、そんなことは可能であろうかとあれこれ考え込んでしまったことがあるので、著者のように現実に則したバランスのとれた話は非常にありがたい。おかげで余計な悩みを抱えないですむ。
 
「なるほどと納得できる話ばかりである」・・嘘だと思います。だから中身を書きません。信仰は完全にはなりませんが、代わりに、祈りによって、成長することで、生きてゆくのです。99%も100%もありません。定量で表せるものでもなく、喩えられるものでもないです。
 
楽山は、自身の、いい加減な詭弁の気安い信仰?でもいいんだ、と思いたいから賛同しているのです。はっきりした、敵も味方もなく、肯定も否定もなく、利用できるものを全て利用し、自尊のために悪用するような、楽山の言を信用してはいけません。
 
信仰は、パーセントのような、数量的比較などは、できない性質です。人においては、100%などあり得ず、御心の寛容な憐れみによって歩む道です。楽山の詭弁に、くれぐれも、だまされないように願います。人間の信仰は、いつも、不完全、という自覚が必要です。
 
そういえば他の本で、信仰とは90パーセントの疑いと、10パーセントの希望であるという話を読んだことがある。この表現は美しいと思うし、この10パーセントの希望は、90パーセントの疑いよりも質において勝り、強いかもしれないという考えは感動的でもある。これはつまり信仰は物質ではなく、心の話であるから、黒か白かという単純なものではないということなのだろうし、羽仁もと子の文章もこのことをよく分からせてくれる名文だと思う。
 
信仰を字面の小理屈で語り、否定したり、肯定したりして、しかも、嘘を吐き、かつ、神も、キリストも、他者も、上から見下ろしている楽山は、求道する心がないために、それこそ、1%の信じる心の切っ掛けにも至っていないと思います。
 
今まで言ってきた嘘や詭弁を、チャラにするために、有名人を引き合いに出して、楽山が、世辞を言っているのは、他者の言葉を借りて、自分を高めるために他なりません。あの人も、この人も、こう言っている、という進め方ですが、総て、発言の断片だけの悪用であろうと思います。
 
ろくなことは書けないくせに、狙いが、反キリストであり、かつ、とても、卑しいからです。楽山の、無反省と無責任から他者の言葉を利用すれば説得力があるじゃろ・・という気安い企みに、だまされないようにしてください。信仰は、最終的に、神に評価をお任せします。
 
楽山が信仰を「黒か白かという単純なものではない」と言うのは、自分のいい加減な話を、否定せず、反省もせず、正当化するためです。楽山の言は、大方、都合に合わせた芝居なので、信用するとひどい目に遭う、という性質のペテンであります。
 
信仰は有無であります。心の無い楽山の、信仰についての言は、逐一、的外れです。神もキリストも、対象物として、屁理屈で見なし、屁理屈で否定してきたのです。もはや、この1年余りの、楽山の、鼻が曲がりそうな臭い話は、反省しない限り、人間とさえ思えないようなことです。
 
この、既に1957年に亡き人である明治生まれだからクレームも来ないであろう著者に対する、おべっか的な、楽山の記事は、手段を選ばない楽山の悪知恵に過ぎません。どうかどうか、決して真に受けないように願います。
 
恐らく、楽山やシャロームは、大人しいキリスト者(クリスチャン)に出会って、こいつらアホやと、組みやすしと、にらんだのでしょう。よく言われるところの、敬虔な、悪口を言わないし批判もしないキリスト者を、すっかり、舐めてかかっています。
 
人間らしい心を持たない楽山とシャロームは、反キリストであり、すなわち、キリストと、質朴なキリスト者の、敵です。腐った性根は、それぞれの記事に表れてきました。シャロームは所在不明ですが、楽山は、今も、時々書いてきます。罪悪感と羞恥心がないからです。
 
 
 エゴと信仰(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』)
 2020年06月27日 楽山日記(LD)
 
 
批判を始めて、1年以上たっても、まだ書き続ける楽山の我執の強さが、表れています。反省せず、学習することがないために、楽山が、批判者を悪者として、自らを、批判の被害者、または、批判を返す者という自覚で、実際に、書いているのは、当てつけ、愚痴、言いがかりの類です。
 
理路が全く成り立っていません。楽山は、こちらの批判に対して、一度も、根拠を示して返したことがなく、自分は正しい、相手は間違っている、という前提で書いてくるので、悪い人だと、偽善者だと、卑怯者だという印象だけが積み重なってゆきます。
 
人のことなど言う資格の全くない人であり、そういう状況に、まるで、気づかない病者であります。いつまで、恥を重ね、罪を重ね、偽善を重ね、悪意に悪意を重ねたら気が済むのでしょう。他者の、特に有名人の言葉を悪用してまで、神を否定したいだけの人です。
 
楽山が認める信仰は、信じ過ぎるのもよくない、信じないのもよくない、という、とても、いい加減な、無理解な楽山の、腐った理路の中の、平板で実体のない粗暴な道徳律に過ぎません。しかも、そういう、ありふれた道徳さえ、楽山は守っておらず、嘘と詭弁を繰り返し書いてくるのです。
 
福田恆存の本で読みやすいものはないかなあと思いつつ、その名言を集めた本書を手に取って何の気なしに開いたら、次の言葉をみつけた。
自我の強い男といふものは容易に自己催眠にかゝるのがつねである。
(『滅びゆく日本へ 福田恆存の言葉』佐藤松男編、河出書房新社、2016年、p.12)
某カルト信者をみていると、どうして自分の判断ミスを認めることができないのだろう? どうしてマインドコントロールが解けないのだろう? と疑問に思うことがあるが、結局のところ、この言葉にある通りであって、我が強いから、自分は宗教選択を間違ったということが認められず、「この宗教は正しいと判断した自分は正しい。自分には本質を見抜く眼力がある」という自己催眠をかけないではいられないのだろう。
 
今度は、信仰を、自己催眠と言い出しました。楽山というカルトは、自分を教祖とする、即ち、自己満悦からの、自分信仰であります。だから、反省することがなく、自分の言動のあやまちを認めることが出来ないまま、人に意見してきます。楽山に出会うこと自体が、不幸の始まりなのです。
 
楽山は、自らの理路を組み立てることが出来ないために、他者の言葉を悪用して、その辻褄を悪用して、自分に都合の良い言葉を見つけては、当ててくる習性・性癖・悪意があります。ゆえに、この浅薄な楽山を説得するのではなく、否定し続けることが、使命となってきました。
 
まさに、楽山は、我が強く、我欲・我執となり、いつまでも、いつまでも、自らの過ちを認めることなく、自分が「正しいと判断した自分は正しい」という循環に陥って、反省することなく「自分には本質を見抜く眼力がある」という妄想的確信から書き続ける亡者となっているのです。
 
自分もカルトにハマり、なかなか抜け出せなかった経験があるので、あまり人のことは言えないのではあるが、
 
だったら、反省して、人のことは言わなければよいのに、言うわけですから、馬脚をあらわして、楽山の嫌らしさが増幅されてゆくだけなのです。しかし、恐らく、嘘です。楽山は、もはや、嘘を吐いて、自分を保つしかなくなっているのです。
 
字面の辻褄合わせだけを常習として、学習せず、感動経験のない、鈍麻した情性の、無表情・無感動・無反応の人ではないかと思います。深みのない感情で、快楽原則だけの原始反応の動機で、概念の字面を並べている発言が、おびただしく連なってきました。
 
それだからこそ、我が強いほど、いったんこうと思い込んでしまったら、それをあとから修正することは困難になることはよく分かっているつもりだ。だから、カルトから抜け出せるかどうかは、エゴを捨てることができるかどうかにかかっているとも思う。
 
信仰は、思い込みではありません。思い込み信仰は、人間を破滅に導くでしょう。聖書において、救われた人々には、思い込みはなく、悲しい現実がありました。そういう心の危機において、キリストに出会っているのです。自分を、何か言える人と思い込んでいるのは、楽山です。
 
つまり、楽山は、エゴだけのヒト型生物になっているということなのでしょう。自己愛性人格障害の我執の強さは、人間離れした思想と信条から抜け出すことが出来ないために、このように訂正不能だということを、毎回、自ら、本能のように表しています。
 
活性のある人間性においては、「あとから修正することは困難になる」ということはなく、良心があれば修正可能であり、良心のない楽山は出来ないでいる、ということでしかありません。
 
こちらとしては、楽山の、言い訳がましく、またしても、人を悪者にする記事に対して、ひとつひとつ、批判を貼りつけて否定してゆくしかない、という成り行きになっています。
 
自分がカルトにハマっているとは全然気づいていない人はともかくとして、そのことにうすうす気づき始めている人には、エゴから離れ、自分の間違いを率直に認めることができるように頑張ってほしい。
 
人のことをとやかく言う資格は、楽山にはありません。嘘を平気で吐く、偽善の詭弁を平気で言い続ける、人の間違いを言っても、自分の間違いを真摯に認めたことが一度もない、というような楽山には、出てくる文章ごとに、批判を当ててゆくしかないのです。
 
楽山の、反省の言も、思いやりの言も、一切、信用できない、という、私が関わってきたところの、約2年以上の履歴が、積み重なってきました。もう、恐らく、楽山が、まともに戻る可能性は、絶望的ではないかと思っています。
 
楽山が、シャロームの反キリストの信条に賛成したのが、実に、遠い昔のように思われますが、今に至るまで、訂正などは、一度もしたことがないのです。芝居好きの楽山と、シャロームは、キャラを変えていますが、同一人物の成りすましではないかという疑惑が続いています。
 
他者に頑張ってほしいと言いながら、自分が頑張ることだけはしない楽山という偽善者の慢心を見逃していると、どこまでも、図に乗ってしまう履歴ゆえに、さらなる精神の詐欺的詭弁の被害を防ぐ意味でも、楽山という異常者に、一切、妥協してはならないのです。
 
そしたらきっと迷いから抜け出せるし、とても神とは思えぬ人物を神だと信じなければならぬという精神的な拷問から解放され、広い青空の下で自由を実感できると思う。
 
私は、楽山の思いやりめいた嘘の文章に、出会ってしばらくの数か月の間、楽山に、まんまと、だまされていましたが、楽山の無反省と無責任に気づいた後、とんでもない人だと気づきました。もう、誰も、楽山に、だまされてはいけません。
 
楽山は、こちらの理路を混乱させて、じわじわと精神的な拷問のような疲労だけを与える人であり、何の実感もなく、字面のきれいごとを並べ、高慢によって増長し、経過と結果において、さらに情緒障害を来たして、気色の悪い芝居で欺いてくる口先だけのペテン師です。
 
 
詭弁・欺瞞・誘導

詭弁・欺瞞・誘導
 
 
(2020年07月01日)
(2021年07月12日、加筆して再録)
 
 
 
  楽な痛み
 
何もしない日
何かしている
楽しくはない
ぴりぴりと痛む
楽だが
気楽ではないこと
後頭部だろうか
ずっとぴりぴり
ピリオドが打てない
 
 
  失意
 
失意の意思を想う
外を見るための窓は
視野を四角に区切り制限している
その死角の向こうを
実は補って見ている外
 
失意の狭窄に補える
円(まど)かなる空と雲のような
意思があるなら 失意よ
もはや緩急はなく
寒暖は滅却され
沈めるために空を見たい
 
 
  病める「べき」
 
「べき」は頭が痛い
到達点や目標は気が遠くなりそうだ
苦痛にしかならない重荷だ
何の癒しにも励みにもならない
暇は腐るほどあって
そのまま腐らせている
「べき」にも無数のステップがある
今日のステップ
今のステップ
短く低い身近なステップ
暇は腐るほどある
それはよろしい
そのままを何か
読み書き
一章あるいは一節
一頁あるいは一行
祈り
小声あるいは内語
思いの丈(たけ)あるいは一言
「べき」のステップほんのちょっと踏んで
休んでいる
暇は腐るほどあって
大方腐らせている
 
(90年代か)
 
 
 
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