ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:戦争

 
  戦争の時代2
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡で生まれたそうです。日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。
 
そして、父と母は、ともに、今のJTBの前身の、前身の、・・中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういうことが可能になる時代に私の親は生きていました。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。
 
 
そして、平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているのではないか・・という若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、特に映画など、見ていたところもありました。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画などと同じような、アクションの視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマンまで、裕次郎や、若大将の時代でもあり、1950~60年代です。私は、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
75年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。75年というのは、平均寿命より短いわけです。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言われます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
美辞麗句を、やさしい顔で語るだけの政治家はいないでしょうか。
 
皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃということだったのでしょう。ジージツ、ジージツ、・・
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。
 
美しい、正しい、ということが、目標ではなく、無条件の前提になってはいないでしょうか。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 
きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか

きなくさい、うさんくさい、そこに愛はあるんか
 
 
(2020年09月02日)
(2020年10月28日、一部修正)
(2021年09月14日、再録+)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
(90年代~?)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害である楽山の特徴です。楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 
 
 信仰について、2年前の記事より断片
 
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
 
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
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  楽山のねっとり右翼
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰著
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張し誘導したいようです。楽山は、そこでアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性パーソナリティ障害者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。
 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合う・・などということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだ、という、体験者とは別の話なのです。面談したというのは、また、楽山の、インテリ気取りの作り話の自慢話ではないでしょうか。
 
*概要
まず本書は前半において、ガダルカナル、ポートモレスビー攻略戦、ニューギニア、インパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。
 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の臭いがプンプンしてきます。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性パーソナリティ障害は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 
立場など無い者

立場など無い者
 
 
(2021年08月23日)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らない、謝ったからいいじゃろ・・という言い訳は成り立たない、という話です。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話でもあります。
 
決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、謝りもしない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。
 
楽山は、また、勘違いして、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、いっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山は、そういう印象操作をする人です。だまされないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより「ほととぎす・・・ほととぎす」
と自分の名を頻(しき)りに唱えている
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない
・・・
から
 
 
  忸怩
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
(二千年代か)
 
 
 
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