楽山のブーメラン2
 
 信者ブログを見てみた(読書、HSの自由論など)
 2020年08月28日 楽山日記(LD)
 抜粋です。
 
 
楽山は、自身の言った言葉によって、自身に返されてゆきます。それをブーメランというのだそうです。また、長い文章なので、抜粋して批判します。私がよく知らないHSのことが多いようですから、引用のリンクを省略しているところもあります。
 
楽山は、HSの信者に批判されて、返しているつもりです。しかし、それは、また、ブーメランのように楽山批判となって返されてゆきます。そして、楽山は、そのブーメランを自覚せずに無視しているのですから呆れます。
 
 
*投影
まずここでは相手の本音、願望を悪く想像した上で、批判を加えてあるが、これはいただけない。
自由という言葉の奥に隠された本音は、自分の好きなようにさせろ、気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手にすぎず、それを自由という美名に置き換えているだけ、という人。
気ままで楽ちんな生活を望んでいるだけなのに、それでいて自由という美名を使いたがる。
 」
 
(ネットより)
心理学における投影(とうえい、英: Psychological projection)とは、自己のとある衝動や資質を認めたくないとき(否認)、自分自身を守るためそれを認める代わりに、他の人間にその悪い面を押し付けてしまう(帰属させる)ような心の働きを言う[1][2]。たとえば「私は彼を憎んでいる」は「彼は私を憎んでいる」に置き換わる[2]。これには責任転嫁(Blame shifting)が含まれ、たとえば習慣的に失礼なふるまいをしている人は、いつも他者を失礼な人だと言って回っているケースがある。一般的には悪い面を強調することが多いが、良い投影も存在する。
投影は日常生活においてよく起こっている。例えば、なんとなく嫌いだった人物が、実は自分の否定的な、認めたくない面を体現していたなどである。
 
「相手の本音、願望を悪く想像した」・・この投影は、いつも、何度も、やってきたことです。今回も。相手を悪者にするためです。楽山自らの不整合や矛盾や能力不足を投影しているのか、あるいは、総て作為で、投影していると決めつけているかでしょう。
 
このような心理学用語を出せば出すほど、楽山は自分の説得力が増すと思うかもしれないが、その心理学を全く理解していない楽山が明らかになるだけなのです。何度も引用しましたが、楽山の「心の理論」において、特に明らかになっています。
 
私が約10年批判してきた偽牧師シャロームも、投影ですね、という言い方を気安くしてきました。恐らく、何も分かっておらず、批判されたら言っておく・・くらいのものでしょう。つまり、相手のせいにするためのインテリ風味の便利な言葉として使っているだけです。
 
「気ままに生きることでもってよしとさせろ、というワガママ勝手、それを自由という美名に置き換えているだけ」・・楽山の、以前のHNは、"自由" でした。楽山の自由こそは、ワガママ勝手であり、自慢して気持ちよくなるための楽山の習癖だったのです。
 
上の楽山の言葉が当てはまるのは、まさに、楽山なのです。"自由という美名" と言ってよいような丁寧語が、楽山の、だましのテクニックなのです。そういう習癖が、約一年半、慎重に、楽山の書いた文章を見ることで明らかになっています。
 
今回も、楽山は、理路も感性も拙劣でありながら、批判する資格のないまま、誰かを批判して、かえって自身の根性の劣悪さをあらわにしています。まさに、楽山がしてきたことを批判されています。楽山が何か言われて返すときの常套手段が「投影」です。
 
 
お節介かもしれないが、相手の本音を悪く想像して、こき下ろすというのは、自己紹介にしかならないし、止めた方がいいと思う。
 
悪口を自己紹介というのは、ブーメランということでしょうか。しかし、「相手の本音を悪く想像して、」ボンヤリ言語の丁寧さで、ごまかしながら「こき下ろす」・・これは、実に、楽山に、よく当てはまります。しかし、楽山は、このブーメランさえ自覚していないようです。
 
 
HSでは、守護霊霊言と称して、論敵は心の中で悪いことを考えていることにして貶めているけれども、いくら信者でもこういう手法は真似しない方がいい。
 
楽山がやっていることを、弁明もなく、論敵という相手に向けています。今までの私の批判記事から、理論家気取り・評論家気取りの楽山は、霊が分かるっぽい霊能者気取りがベースにあるのです。楽山は、決して理論家ではありません。決めつけて刷り込む詭弁屋です。
 
 
*意外な発言
LEO氏は本好きだと思ってたので、この発言は意外に思えた。
本をたくさん読む、とか、読書の習慣がある、ということであっても、それのみで勤勉である証拠とはならないんですよね。
 」
本を読まない人であれば、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人のことを、「自慢してるんだろう」「勤勉アピールしてるんだろう」と悪く言うこともあるかもしれない。
でも本好きの人にとっては、読書習慣があり、いろいろな本を読んでいるのは当たり前のことであるし、それを勤勉アピール、勤勉ポーズととることはないのではなかろうか。
 
またしても白々しい楽山です。たくさん、本と、著者の名前を出して、読書家ぶっていたのは、楽山です。「勤勉アピール、勤勉ポーズ」は、楽山の生業です。それは、同時に、インテリ気取り、読書家気取りでもあります。楽山の生き方は、まさに、"気取り" だけで出来ているのです。
 
しかし、楽山の読書は、自分の都合の良い字面を漁って、引用するだけであり、楽山自身の書く文章は、理路が成り立っていなかったし、説得力もまるでない、ということだけが、明らかになってきました。気取りは気取り、実質は何もないことが分かっています。関わってはいけない人です。
 
楽山は、文脈を読めない、理路を読めない、理路を組み立てられない、さらに、共感性がないから感動もしないのです。「楽山は、読書習慣があって本をたくさん読んでいる人」ではありません。楽山は、読書したかのように、引用と誘導で、人を欺く人、すなわち、読書家をおとしめる敵であります。
 
 
少なくとも自分はそうは思わない。本好きの人とか、読書ブログに対して、「どんな本を読んでるの? へえ、そんな本を読んでるんだ。おもしろそうだな。自分も読んでみよう」とは思っても、「読書の習慣があり、本をたくさん読んでいるようだが、それだけで勤勉とは限らないゾ」なんて考えることはない。
 
本を読んでいるから、自分は勤勉だと言いたいのでしょうか。楽山の読書は、読書と呼べるものではないことが感想文の稚拙さに表れてきました。楽山の例示する会話の台詞は、楽山が書いてきた独り芝居と同じように、平板で、月並みで、わざとらしい。このような台詞は、小学生がするものでしょう。
 
 
*知的生活
もう一つ、自分にはこの発言も意外に思えた。
他の人にも役に立つ、生産性のあるアウトプットまで行かない場合の読書は、単なる暇つぶしや趣味と言われても仕方がないもので、自分だけの独りよがりの好みでしかないことも多いわけで、
 」
そうした読書が真に役に立っている、というためには、アウトプットしてみて、他の人にとってもそれが役に立つ考え方であるか、知識であるか、モノの見方であるかを問う必要があるのだと思います。
 」
タイトルは失念したが、渡部昇一のエッセーで、とある人は論文などは書かず、知的生産はしていないが、その蔵書はゆっくりとではあるが着実に良書が増えており、読書を楽しんでいることがわかる、これも立派な知的生活だという話を読んだ記憶がある。
自分はこの考え方を支持するので、「生産性のあるアウトプット」がないとしても、論文なり、文学なりを読んで感動したなら、それだけでも充分に価値があるのであって、これに対して、「単なる暇つぶし」「独りよがりの好みでしかない」などとは思わない。
 
読書して "知的生活"しているからと言って、その人が、知的だとは限らないという例が、楽山です。だます目的で、読書したふりをして、殆ど説明できないのに、良かった、分かった、驚いた、などと、自分は分かるんですアピールをしてきたのが楽山です。これは自慢のための嘘です。
 
褒め言葉だけがわざとらしく並んでいて、読解の結果が感想に表れていないことをもって、楽山の欺瞞が明らかになってきました。そのような文章は、感想文としての意味がないと言われるわけです。さらに、だまそうと、刷り込んでくるならば、真実を追求する言論の敵ということになります。
 
楽山は、学習することなく、自己愛の自己中に好都合な言葉を漁って引用するだけですから、本と著者を侮辱していることになるでしょう。どこまでも、言い返してくるのは、反省することのない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人間らしい真っ当な反応とは真逆の方向にしか返してこないような、自己愛と慢心で動いている楽山は、とても見苦しくて、人間であることさえ疑いたくなります。このような記事を書いてくることが、さらに、訂正不能のインテリ気取りを表すことさえ気づかないのです。
 
 
ついでに書くと、名画、名曲、名演奏によって感動したということはそれ自体が素晴らしいことであって、画が描けなくても、曲を作れなくても、演奏ができなくても、他のことにつながらなかったとしても、その素晴らしさは変わらないとも思う。
 
その素晴らしさと感動を表すのが感想ですが、それが全く見られず、いつも、陳腐な褒め言葉を並べるだけなのが、楽山です。
 
さらに、驚くべき詭弁ですが、「素晴らしさは変わらないとも思う」・・ひどいものです。素晴らしくないのは楽山であって、感想の対象となる作品ではないのです。
 
また、感動するだけでも素晴らしいというのは、少しも楽山を弁護しません。感動したと書くだけでは、その中身は伝わらないのですから、伝わらないものを、ネチネチと執拗に書き続けて、正当化ばかりしてくる楽山の神経は、自己顕示欲の作為か、でなければ精神か性格の異常なのです。
 
楽山の自己顕示欲からの自己正当化の詭弁は、ことごとく、今まで成り立たなかったし、今も成り立たっていないし、今後も成り立たないでしょう。感想文を書くたびに、何を読み取ったのかという疑問が表れてだけだからです。
 
 
*指標
LEO氏は、ブログについて次のように考えているという。
独りよがりでは意味が無い。閑散ブログでは存在する意義がない。
 」
読まれる内容を書けないのなら、まだまだ他の人に感化を与えられる内容を持っていないのであって、そのレベルであってみれば、まだまだ自己研鑽が足りていないということを、自覚しないといけないのでしょうね。
他者が読んでも、そこに参考になるような何かが発信できているかどうか。
これが、自分がブログ記事を書く際に注意している、ポイントの一つですね。
自戒の意味を込めて。 
 」
これはこれで個人的信条としてはよいのだろうとは思う。ただブログの目的は人それぞれであるから、自分の考えをブログで発表し、多くの人に読んでもらい、影響を与えることを目指す人もいれば、アクセス数は気にせず、自分と向き合うためにブログを書くという人もいるだろう。
 
いえ、個人的信条ではなく、中身のない文章を公表されることは、さらに、そこに、恣意的な意図のある場合には、言論において、はなはだ迷惑だということです。楽山は、何も気にしないし、自分と向き合うこともないのです。だから、人に向けるためのネタを探しているだけの読書?です。
 
つまり、気取りだけの主張ですから、書けば、正常な言論に対しては妨害行為に匹敵します。前から言ってきたように、悪質な疲労物質である楽山の記事は、公表せず、誰にも見せず、楽山が独りで読んで、したければ独りで自画自賛し、独りで疲労していてくださいということです。
 
 
このような多様な価値観を認める立場からすれば、自分のブログ観とは異なるブログに対して、「意味が無い」「存在する意義がない」というのは、いささか行きすぎであり、乱暴である。大川隆法は著書の売れ行きや、社会的影響力の大きさを自慢げに話す人なので、信者がそんな風な考え方になるのも仕方ないことではあるが、これが唯一の判断基準であって、それ以外の判断基準は認めないとしたら、おかしなことだ。
 
楽山は、"多様な価値観"、という言葉で、自分勝手な雑言を自己正当化してきます。以前、シャロームが、"人それぞれ"、という言葉を多用していたのと同じようなものであり、曖昧で、意味の広い言葉の中に、批判の中心を紛れさせようというボンヤリ言語の詭弁です。
 
自らの与えている害に全く気づかず、無視して、言い逃ればかりを書いてくる、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であり、言論のサディスト、またサイコパス、という体質を、自ら証明し続ける楽山なのでしょう。
 
 
*全体の感想
LEO氏の考え方は、自己の向上が大切であって、自分がどれだけ向上できたかどうかは、ブログの影響力によって確認でき、これに益しない読書も、書くことも意味がないというものであるようだが、自分は、読書そのもの、書くことそのものに価値を見出したく思うタイプなので、申し訳ないけれどもLEO氏は、読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさをご存じないように思えた。
 
「書くことそのものに価値を見出したく思う」・・楽山の場合、害だけを生み出しています。この楽山の言い分は、全否定されるべきであります。多様だから、人それぞれだから、何でも書いて公表していいということはないのです。無責任は無責任、迷惑は迷惑と指摘され続けます。
 
言論の責任を負わない者には、しかも多様性という詭弁で言い逃れできると思うような者には、言論の自由はないのです。楽山の読書は、多様性ではなく、恣意の自己顕示です。
 
反省もなく公表され、詭弁で言い逃れても、迷惑は、迷惑と指摘され続けますし、その結果は、楽山の自業自得となるわけです。そのとき、詭弁で何を狙って、その欲望の結果として何を失ったのか、楽山は体現することになるでしょう。
 
「読書そのもののおもしろさ、書くことそのものの楽しさ」を知っているとは、到底、思えないような、読んでも何も得られないような、空疎で、関われば、疲労だけを被(こうむ)るような記事を、何の自覚も病識もなく、自己愛によって偏向し歪曲した恣意によって書いてきたのが、楽山です。
 
 
もし読書および書くことそのものを目的とすることはできず、それらを自己実現の手段としてしか見れないとしたら、自分とはまったくちがった感性、価値観であるし、話が合わないのも致し方ないなと思う。
 
今度は、批判に対して「自己実現の手段としてしか見れない」という言葉を当ててきました。楽山が何を自己実現してきたでしょう。嘘と詭弁で刷り込んできただけなのです。言葉をすり替えて本質を逸(そ)らせる詭弁です。楽山の厚顔無恥の攻撃性が出ています。
 
自己実現するかどうかなど分かりません。必要なのは、良識と良心であり、最低限の責任感です。楽山には、それが無いと言っているのです。楽山には、人間としての最低限の反省力と罪悪感がないと判断しています。楽山が実現したのは、結果としての、悪意の企みによる害だけでした。
 
また、楽山には、しんみり悔いたり悲しんだりできるような共感性がないと思います。だから、いつも、本筋と外れたところで、自己顕示欲に塗れた感情と意志が、的外れに働くだけなのです。反省と学習のない刷り込みだけの楽山の記事の果てには、いつも離人的な自己満悦しかないのです。
 
 
*経緯
最後に、これまでの経緯をご存じない方もおられるかと思うので、その点について書いておきたい。
まずこの信者氏と、楽山とのかかわりは、言論の自由についての意見が対立したことが始まりだった。
・★ 言論の自由について 2
 」
その次は、ブログ村の幸福の科学カテゴリーにおいて、信者と信者が対立した際に、自分はこの信者氏には批判的な立場をとって不興を買ったのだった。
・★「幸福の科学村」騒動のまとめ
 」
傍から見たら、こういうことはどーでもいいことだろうけれども、こういう経緯を知ってもらえれば、信者氏がかなり感情的で、極論的な発言をしている理由についての理解が容易になると思うので、一応、参考までに書いておくことにする。
 
楽山が、極めて作為的で、詭弁家で、自己愛者で、欠陥だらけの字面言葉で、刷り込みによって、間違った印象を刷り込んでくる策略家であることも、理解が容易になってゆくと思います。
 
私は、楽山の、キリスト教への曲解と決めつけによる誹謗中傷をきっかけに、楽山批判をしてきました。私は、出来ることをしてゆくだけです。
 
この先、楽山が、ネットを含めた犯罪行為に及ぶ場合には、私のできることはなくなるでしょう。
 
どうか、楽山に、だまされないように、決して近づかないようにしてください。
 
 
陰湿な欺きの醜さ

陰湿な欺きの醜さ
 
 
(2020年)
(2022年08月30日、再録+加筆)
 
 
 
  奔流
 
警鐘は朝霧の森の中に吸い込まれてゆく
鳴らす者は余計な波風を立てて
小舟に乗って沈むために
人気のない入り江から漕ぎ出でる
 
しばしば逆流する川の上流には
歳を偽って村人を名乗る者たちがいて
沼の味覚にのめり込んでは
しきりに鏡を震わせ抜いて
白髪を流す あるいは
薄くなった髪を洗うそばから
流れ出すのは顔の方だ
 
うら若い髪の血痕を
拭うことのできないスナイパーとテロリストが
しばしば礼拝堂で出くわしてしまう
兄弟よ このようなベルトの上では
手も足も不要だ
 
未来の神話を語りながら
白々しくも欺いて殺し合えずに
拳銃を実は十字架をポケットの中に握り締め
耳を切り裂く沈黙の中に
谷間の街のしがらみにしがみついて
夥しく浮き沈む白い眼(まなこ)の
奔流の中へ再び身を投じる
 
 
  失われた箱
 
晴天
箱が焼かれる
古き宝
瑠璃も玻璃も
欺かれて漆
焦げてなお煙る
雲間を走る金色の木馬
シーソーが突き上げる
自慰に過ぎないバランス
段差の遊戯を見やりながら
階段を去っていく聖者
過ぎた儀式に埴輪のテーブル
与えあう食事
好き嫌いの食卓
押入れの中でプロペラが回る
人形の目が閉じる
滑るコップ
流れる皿
傾いた信条
広場から湖へ
手に手に合掌
南へ渡る紙飛行機
黙祷 ああ 誰を慰めている
木馬の頃を過ぎて
賂(まいない)に明け暮れる箱
見知らぬ丘
晴天
設計図が舞い上がる
新しき宝 押さえる手
どこかでプロペラが回っている
 
 
  プロテスタントの偶像
 
基督磔刑像も
聖母マリア像も
しみじみと眺めたことはない
崇めたこともない
私はプロテスタントだから
むかし通った教会には
屋根や壁や机に十字架があるだけ
 
私が見た偶像は
石や石灰の無機質ではなく
私の中にあって
うごめく生き物として
あたかも信仰であるかのように
私を縛る戒律
恐怖に駆り立てる地獄と天国
歪んだ微笑を呑み込ませる納得
疑いを隠そうとする欺瞞
 
罪から罪へ走らせる罪
それゆえ疑い否み拒み
異端と背教の果てに
出会う私の前にはいつも
あらゆる悲劇に付き添う
ただひとりの人格しかいない
 
宗教の敷石を持たず
学問の土台を持たない私の
信仰に
信条はない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
今のところですが、最近、楽山は、ブログ記事も、ツイッターも、投稿が少なくなりました。このまま、退散してほしいところです。楽山が記事を書いても、精神の疲労と破壊の不幸が生まれるだけです。どこかで、また、HNを変えて、書き始めているなら、見つけるまでは野放しということになります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター:
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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