ウソの国-詩と宗教:st5402jp

キリスト信仰、カルト批判、詩のようなもの、思想・理念、数学・図形、などを書いています。

タグ:教祖願望

 
  楽山のカルト性2
 
 
カルト批判に見せかけて、無反省・無責任・無理解・無神経に、放言して、評論家気取りで、自己愛を満たそうとしてくるカルト思想宣伝者、楽山のツイートとリツイートですが、なりを潜めたかと思えば、またしても、人の書いたものを、今度は他者のツイートを利用して、自己正当化を図ろうとします。
 
心機一転★こも楽山
@komo266
フォローありがとうございます。
「朱に交われば赤くなる」など、ことわざには、経験的には一理あるものが多いですね。
午前10:07 · 2021年2月20日·Twitter Web App
 
楽山は、犠牲者となってゆく人を募集しているのでしょうか。
 
(ネットより)
朱に交われば赤くなる:
朱色が入り混じれば赤味を帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の言い回し。語源については、中国のことわざ「近墨必緇、近朱必赤」に由来するものとされる。
ウェブリオ辞書
 
ことわざについて、上のような感想しか書けないのでしょうか。「善悪どちらにも感化される」ということを、楽山は書かず、「一理あるものが多いですね」という単純な感想を書いて済ましています。一理もないことわざがあるのでしょうか。それは、ことわざになるでしょうか。
 
楽山のような偽善者に関わると、疲労し、頷き、受け入れて、悪と偽善に感化され、楽山と似たような、無反省・無責任な社交だけで、実質は、鈍麻した無神経の、傍らに人亡きがごとき無法者になってゆくという可能性もあるということです。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
Algorab archives
@Algorab_MAIKA
返信先: 
@Algorab_MAIKA
さん
フランスがカルト対策にあたり信教の自由との狭間でカルトの定義という壁にぶつかった時、「“宗教”を問うのでなく、その宗教運動による“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問う」という考え方を突破口としました。これはカルト問題に関わるうえで基本的な論理だと思います。(続)
午後8:34 · 2021年2月16日·Twitter Web App
 
有害極まりない自己愛性パーソナリティ障害の楽山の、性根を表すものとして注目するべきことであります。今までの、他者が書いた本を自己正当化に悪用するだけでなく、他者の、しかも、アンチカルトのツイートさえも悪用してくるという根性腐れの卑怯な楽山であります。
 
信教の自由が保証されているために、カルトに対しては、その宗教的内容の是非よりも、“外形的な行為の弊害(世俗的な帰結)”を問うことを突破口にするという考え方のようです。しかし、ここには、大きな欠陥があります。これは、強制捜査や逮捕の基準に過ぎません。
 
言い換えると、犯罪行為に及んだら捕まえる、という、当たり前のことを言っているに過ぎないようです。前に、私の記事に書いたことですが、犯罪行為に及ぶ一日前はカルトではなかったのですか・・否・・という大きな疑問があります。
 
楽山は、何も受け取らない病質者だから、また、同じことを、他者のツイート引用リツイートで言ってきます。カルトは、自分を特別視したい人の集まりのようなものです。人間の努力は、人間性を高めるためのものですが、カルトには、人間性を超えたい人が集まる傾向があります。
 
つまり、こういう考え方の欠陥は、カルトに対するに、法的強制力に頼ることしか考えていない、ということなのです。カルトに対して、強制的にやめさせようとする構えだけでいるから、こういう考え方になってしまいます。
 
カルトに酷い目に遭わされるということは、どういうことでしょう。犯罪を犯すようになるから、というのは、かなりカルトに、のめりこんでいる場合であります。マインドコントロール・洗脳、そして、迷惑行為は、既に、犯罪以前に起こり始めています。人格と生活の破壊が恐ろしいのです。
 
大事なことは、犯罪以前において、私たちには言論があるということです。即ち、カルトの勧誘が取り締まれなくても、信じたら酷いことになる信条で、信じてはいけないカルトだと思ったら、批判することができるということです。しかも、その批判を敷衍(ふえん)することも出来るということです。
 
上のツイッターを載せている楽山(こも楽山)こそは、HS批判を装いながら、自身の心霊妄想を、HSへの批判という反発力を利用して広めようとする軟派カルトなのです。楽山は、人の言うことを聞かず、受け取らず、無視して、分かりもしないキリスト教の悪口をブログに書いています。
 
かつ、クリスチャン芝居をして、反対と賛同の両方を書いたことをもって、断定していないから責任問題は発生しないなどと言って、幼稚で勝手な、成り立たない屁理屈で、好きなように宗教をいじくって遊んでいる異常人格、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)なのです。
 
楽山の武器は、ボンヤリ言語、即ち、肯定も否定もせずに曖昧な言い方で、責任逃れをして、丁寧語で、宗教を、特にキリスト教を、侮辱して悦に入るような、婉曲否定と、トホホ言語、即ち、同情をひくための、反省、トホホ、共感、などという言葉だけを書いて、柔和を装う手練手管を振り回すことです。
 
今回も、楽山の、オレが言ったのではないから責任はないじゃろ・・という企みが見え見えであります。何かに賛同したら、賛同した責任が生じます。楽山は、既存の宗教を揶揄し否定しておきながら、その責任を負わず、遊びのように自分を高めるだけですから、決して受け入れてはいけません。
 
楽山は、訂正不能の自己愛という病魔によって、非を認めない無反省、曖昧に書きながら丁寧語の遠回しな刷り込みをしてきて、かつ、責任を負いません。生まれ育った時点で、そういう人格になっていて、罪悪感がない、という人格障害なのです。
 
また、楽山の履歴として、児童心理学を心霊の話にすり替える無理解を表し、奇跡の理路を書いたつもりで何の説得力もない自己矛盾と理解力の欠乏を表し、恐らく深い情緒や思いやりなどを感じ得ない高等感情の鈍麻情性から他者が傷つくのを楽しむという心性を表してきました。
 
何よりも、自身の欠点を、全く認めようとしないで、あらゆる不都合を、人のせいにする他罰性を表すことによって特徴づけられることが、ここ3年ほどの批判で明らかになっています。コメントの遣り取りをすると、無駄に疲れるというエナジーバンパイアであります。
 
今後も、他者の意見を引用して、自分の都合に合わせて悪用することがあるでしょう。楽山、こも楽山、というHNを覚えてください。誘われて応じたら、応じた分だけ、言いようのない疲労をもたらされることになる楽山はサイコパス的人格です。批判に見せかけた教祖願望のカルト思想宣伝者なのです。
 
誘われて非常に疲れる、ということが起こったら、HNは違っても、楽山が関わっている可能性を、考えるべきだと思います。楽山は、いかなる言論の中心にも端っこにも辺縁にもいてはならない特定疲労性病原(これは造語ですが)です。
 
楽山は、右翼思想を礼賛する者であり、他者の精神を破壊するようなカルト的思想~妄想を刷り込んできますが、本質は、幼稚な自己満足と自己愛による霊能者気取りであります。やり口が、集団のカルトよりも、卑怯で、企みに満ちていて、汚いということです。
 
非常に傍迷惑で嫌気がさすときは、上記のツイートを書いた人が、楽山本人である可能性を考えるべきでしょう。楽山が、犯罪に及ばない限りカルトとは言えない、という、上と同じようなことを書いていたからです。楽山は、策士であり、ペテン師であり、嘘吐きであり、詭弁屋であります。
 
楽山には良心がないと思います。そして、同時に、楽山は、他者の良心を破壊する病原です。良心と宗教と信仰と思想に対して、何らかの根深い怨念があるだろうと思われます。書けば書くほど正体がばれるのに、今になっても、悔いることなく、正しい大人を装う芝居をしてきます。
 
 
 2021年02月20日 幸福の科学とは何だろう?ブログ
 霊的真相とは?(ツイート保存)
  抜粋して批判。
 
最も凶悪な者というのは、悪ばかり語るのではなく、悪と善を、真と偽を、混ぜて言ってくるから厄介、というのを聞いたことがあります。楽山という詭弁屋は、まさに、そのようです。楽山の悪と偽善の害は、人格を含めて、全否定して、相手にしないことでしか、防ぎようがないのです。
 
HSに限らず、概して宗教というものは、苦難困難に対して何らかの宗教的な意味づけをすることで乗り越えようとするものではあろうが、HSのいう霊的真相はその中でも極めて特殊、極端に過ぎるし、ここはもう少し穏当、理性的なものに改めた方がいいのではないかと思う。
 
楽山は、他者の苦難困難に乗じて、何らかの詭弁的な意味づけをして、相手を追いつめ、疲労させてきます。そして、何か言われて揶揄の返しも出来ないときは、無視してゆきます。当然、相手は、実に甚だしく消耗し、疲労します。それをいつも狙っているのが、楽山であります。
 
楽山の霊的真相は、自己愛による自己満悦・我執絶対の妄想です。それは、よく読まないと明らかにならないというのが、楽山の、ボンヤリ言語、そして、トホホ言語です。体質的に身につけたそれらの偽善の悪意は、人格レベルで固定されて、何を言っても訂正不能です。
 
 
 
偽善 詭弁 ペテン

偽善 詭弁 ペテン
 
 
(2021年02月21日)
(2022年02月25日、再録+)
 
 
 
  言質
 
何を言いに来られた
何を怒っておられる
怒りは怒りを呼ぶことはあっても
怒りからは何も善いものは生まれぬ
 
いつくしみぶかき主イエスでさえ
エルサレムの神殿で怒りをあらわにされ
商人たちを追い出したことを知らないのか
 
神は絶対にして神の怒りもまた絶対である
主は正義にして主の怒りもまた正義である
しかるに
自らの怒りを主の怒りになぞらえる
汝はいったい何者か
 
(聖なる立場で物を言うべからず)
 
 
 
キリストは、神の教えを守れないと正直に言った、または、そう表した人を、信仰の義として、救いました。一方、守っている言った青年を退けて、その心に悲しみを残しました。さらに、キリストは、守っているという確信に凝り固まっているパリサイ人を、真っ向から、敵としました。
 
神の立場で考える愚は避けたいものです。たとえば神は全能であるから罪を消し罪を忘れることもできる、というのは詭弁です。忘れることと覚えていることと、どちらが能力であるか常識で考えれば明らかです。神聖と超常について、豪語すると、カルトに近くなってゆきます。
 
人が知りもしない神の知恵と立場で考えようとすることは実に虚しいことだと思います。人は考える動物ですから人が神について考えるのは自由だけれども、あくまで人の知恵で推測したり想像しているに過ぎないということをわきまえるべきだと思います。
 
 
 
頭の中で辻褄を合わせただけの理屈を読むと、無感動で退屈な、心の閉塞感を感じます。楽山の理屈は、乾いた砂で、こすられるような不快感を伴います。心を満たすことのない人間離れした理屈の組み立ては、人間を語れない不細工だからです。
 
いつも達成できているわけではありませんが、人間の心に寄り添い、心に響くような、潤いと温もりに寄り添うような書き方をしている文章には、心の解放感が伴います。恐らく、それが、説得力というものだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
楽山は、作戦を練り直すことはあっても、反省、内省、訂正、修正が、できません。楽山にとって、他者に対しては、自分優位が前提となっているからです。謝罪や反省の言葉は書きますが、その前後で、ベースとなる思想や命題は変わらないことから自己愛への固着だと分かるからです。
 
楽山と議論や遣り取りをしてはいけません。信じられないほどの徒労と疲労を味わうでしょう。こちらの言うことは、楽山にとって、揶揄の材料にしかなりません。楽山は、断定していないから責任問題は生じないと言いましたが、楽山の丁寧語は、悪質な刷り込みと印象操作なのです。
 
楽山が書いた殆どコピペの無駄に長い7記事ですが、23日に全部一日で書いたようです。長い記事書けばよいというものではないということ、逆効果だということ、気づかないのでしょうか。原始的に衝動的に書いて、気が済んだのでしょうか。いよいよ冷静を装えなくなっているようです。
 
 
 
 
大国であるロシアと中国が独裁国家という現代の危機であります。中国はどう出るのだろう。独裁国家では言論と思想の自由がありません。第2次大戦では、ドイツ、イタリア、日本が、独裁であった。これだけ、強大な軍事力を持つ2大国が独裁になっている時代があっただろうか。
 
コロナ禍だけでも大きな試練であるのに、ウクライナの局地戦で済むだろうか。プーチンはヒトラー並みのサイコパスなのか。ヨーロッパとアメリカとロシアという大国が関わっている。第3次世界大戦になりませぬように。
 
 
 
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  安っぽい楽山
 
 「信じよう!」と決意するとき
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、今も昔も、楽山は、信仰でも何でも、分かっているふうな口をききます。実際には、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、何も分かっていないことが明らかになっています。信仰は、雰囲気のように、いい加減なのが本物と言いたいようです。全然違います
 
信仰には、およそ二種類ある。「信じよう」という意識のない信仰と、「信じよう」という意識に支えられている信仰である。
 
「信じようという意識のない信仰」は、大方、文化や習慣の一部でしかありません。「信じようという意識に支えられている信仰」は、意識というより、強迫観念のように、人を縛る可能性があるでしょう。なお、楽山のように、自己愛と自己中が、訂正不能にあるのは、信仰ではなく病理です。
 
本当の信仰は、気づきであり、惹かれることであり、縁を感じることであり、ゆえに、信じないではいられないものです。楽山は、信仰を全然知らないので、薄っぺらな先入観から、口から出まかせを言って、もっともらしく見せているだけです。自分が魅力の欠片もないからでしょう。
 
はっきりいって、前者の信仰は安定しているが、後者の信仰は危ういところがある。意識的に、「信じよう!」と決意するということは、そうしないではいられないほどに、信仰が揺らいでいるということだから。
 
信仰を、反応か状態のように、安定などという言葉で表現している楽山は、信仰の賜物を何も知らない人です。このように、心の無い者は、信仰という抽象名詞の内実について、何も語れないのですが、楽山の自己愛性人格障害は、言葉を繕って、語ったことにするのです。
 
乾いた砂が、手からこぼれ落ちるように、信仰心が心からこぼれ落ちようとしているからこそ、「何があっても、信仰は失わないぞ!」「この信仰の綱は、絶対に放さない!」などと強く決意しなければならなくなっているのだ。
 
信仰心が、心の無い楽山にはありません。「何があっても、失わないぞ!」などは大根役者の三文芝居です。知らないのに、知ってるつもりで語ってくる醜さは、ホラーです。
 
なお、「絶対に放さない!」などと豪語する硬い思い込みの強迫性は、一種の精神病理であって、信仰とは何の関係もありません。信仰は、人が「絶対」でないことを知ることです。
 
楽山は、知ったかぶりをして、信仰が、こぼれ落ちる、などと言っていますが、真の信仰は、こぼれ落ちることはなく、ふつうなら絶望的な状況でも、尽きない希望となるものです。反キリストは、そのような希望を持ったことがないから、自身の欲望芝居を演じているに過ぎません。醜態です。
 
信仰は、絆(きずな)か縁(えにし、よすが、えん)のようなものであり、究極的には喩えようのないものです。楽山は、知らないものだから、物品のように扱って、語ったつもりになるのです。「失わないぞ!」「放さない!」・・無知と無恥の戯言です。底冷えのする楽山の捏造概念です。
 
「わたしは、エル・カンターレを信じる! この信仰を守りぬく!」と決意し、自らを奮い立たせないではいられない信者には、この事実に気づいてほしいと思う。
 
「自らを奮い立たせないではいられない」ような信仰の賜物を、楽山は知りもしないで、十把一絡げに、悪に気づけと言っています。気づくべきは、楽山の卑怯さと、無反省、無責任な言葉です。何も信じない自分信仰の、おぞましさだけの楽山の発言です。
 
何も気づかない自己愛性人格障害の楽山が、「気づいてほしい」などと言うのは、おこがましいことです。恐ろしく鈍感で、冷酷で、いい加減な楽山が、偉そうに忠告してくるのだから、"お前に言われる筋合いはない" とでも言葉を貼りつけて、関わらないでください。
 
そうすれば、きっと、「信仰するぞ!」と気張る信仰ではなく、もっと自然で、ゆったりした信仰を得られるはず。
 
「自然で、ゆったりした信仰」と楽山が言っているのは、反キリストの楽山自身のように、何も本気では信じないことを意味しているに過ぎません。反キリストの楽山は、宗教に怨念を燃やしているだけで、信仰者や求道者を頷かせるペテンの手練手管を弄しているだけです。
 
信仰は、「信仰するぞ!」ではなく、離れられない縁のようなものです。そこに在るのは、楽山の詭弁と嘘の誘導や印象操作ではなく、温もりと潤いに満ちた共感であります。言葉では表せない共感に似たようなもので、楽山には一切ないものなのです。
 
人の気持ちが分からない、人の気持ちを察して、自分をコントロールできない楽山の言うことを真に受けないでください。楽山は、かっこつけて、忠告めいたことを言って、役に立つ助言者の自分という慢心を求めているだけなのです。
 
 
 朱に交われば紅くなる? 
  (『ブッダの真理のことば 感興のことば』)
 2013年03月03日 楽山日記(LD)
 
 
楽山に交われば臭くなります。
 
五 劣った卑しい者になじむ人は堕落してしまう。しかし等しい者につき合う人は実に堕落することはないであろう。すぐれた者に近づく人はすぐれた状態に達する。それ故にこの世では自分よりもすぐれた人とつき合え。
[省略]
一一 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。
(『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳)
 」
これは、「感興のことば 第25章 友」で見つけた言葉です。
若い頃は、朱に交われば紅くなると説教されると、反発を感じたものでした。けれどもこの年になってみると、これには一理あると認めざるを得ないという心境になりました。
 
楽山が、「反発を感じ」るのは自己愛からでしょう。今「一理ある」と思うのは、今、多くの人を、自分の欲望に沿うように染めたい教祖願望からでしょう。楽山に交われば黒くなり、臭くなります。楽山の、嘘臭さと詭弁臭さに、染まらないでください。
 
また、これは友だけでなく、書物や宗教に関しても言えそうです。たとえばこんな風に。
・悪書を読み耽る者は堕落する。しかし良書に親しむ者はすぐれた状態に達する。
・邪教に近付く者は我が身を亡ぼす。しかし正しき信仰を得るものは正しき者となる。
人に限らず、書物でも、宗教でも、何に近付き、何を遠ざけるかということは、とても大事なことなのだと思います。
 
楽山自身に染まれば客観的になり正しくなる、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、本を悪書に、思考を邪教に染めて、堕落し続けています。楽山は、同じようなことを繰り返しています。楽山は、自己中の自己愛性人格障害なので、客観性から最も遠い人です。
 
楽山の、自分に近づき、他を遠ざけよ・・とでも言うような誘い文句に惑わされないでください。楽山に近づくと、最悪の場合、人格が鈍麻し破壊される恐れがあります。そして、楽山と同じように、一見正しそうに見える世迷言を言い続ける、楽山と同じような亡者になるでしょう。
 
(ネットより)
「世迷言」は、「ひとり言のように愚痴を言うこと」や「わけのわからない内容を繰り返し言うこと」などを指し、人の発言・意見などをののしって言う際に使うことが多い言葉です。「よまよいごと」と読み間違いをしてしまう人も多いのですが、正しくは「よまいごと」なので要注意!
由来は、「愚痴を言う」を意味する「よまふ」の連用形に、「言葉」を意味する「こと」を合わせた言葉だといわれています。
 
 
世迷言(よまいごと)

世迷言(よまいごと)
 
 
(2021年11月11日)
 
 
 
キーワード: 迷
 
  マイナス
 
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
 
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
 
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
 
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
 
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
 
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
 
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
 
 
  近道
 
近道をしようとハンドルを切った
広い道が狭くなった
曲がりくねった長く細い道
 
坂がきつくなった
舗装が途切れた
知らない家の前で行き止まり
道に迷ったということだ
 
バックするか
曲がりくねった長く細い道
途方に暮れた
日も暮れた
あぁ どこへ行くつもりだったのだろう
庭先を借りて方向転換
そうして今ここに暮らしている
 
 
 
 楽山日記へのコメント再録
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
 反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
 これを実践するのは難しいんだよなあ。
 恥ずかしながら、自分もそんな風です。
 これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山の、邪悪な性根の根深さが表れています。「人間の性」などではなく、楽山固有の悪と罪と偽善です。一つ一つ批判して、性根を暴いて、否定してゆくしかありません。
 
楽山には、良心と良識がありません。もしあったら、とうに、弁明できなければ書かなくなっていたでしょう。実際は、まともなつもりだけで執拗に書いてきたことが、楽山の欠陥を表しているのです。これからも、亡霊のように、よれよれの世迷言を書いてくるのでしょう。
 
 
 
 
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  楽山の嘘の世界
 
 絶対に、生まれ変わりたくないもの
 2013年03月02日 楽山日記(LD)
 
 
古い記事ですが、嘘吐きと詭弁屋が治っていないのは、ずっと、今も、記事に表れてきました。何も変わっていません。したがって、この記事は、相変わらず、作為~悪意の、自己正当化です。無反省と無責任で訂正不能になると、こういう嘘もついてくるという例です。
 
生まれ変わりとカルマについて自問自答してみました。
Q「絶対に、生まれ変わりたくないものとは何か」
A「バキュームカーだ。バキュームカーにはなりたくない」
Q「では、どうしたら、そうならずに済むのか」
A「汚い言葉を吐いたならば、汚いものを吸い込まなくてはならない。バキュームカーに生まれ変わりたくなければ、汚い言葉は吐かないことだ」
 
バキュームカーは、し尿汲み取りの車として、子供の頃には何度も見たことがありますが(1954生まれ)、今もあるのでしょうか。楽山は、バキュームカーではありません。嘘と詭弁という糞尿を撒き散らす失禁のほうです。汚いものは、汚いと言うべきです。
 
汚い嘘を吐き、汚い詭弁を弄している楽山ですが、発した言葉は、吸い込むことは出来ません。後で、根拠と理由をもって、取り消すか修正するかしかありません。しかし、楽山は、2021年になっても、ブログとツイッターなどで、相変わらず、嘘と詭弁を、公共に撒き散らしています。
 
Q「他に、絶対に生まれ変わりたくないものはあるか」
A「宿り蜂に寄生されるイモムシにはなりたくない。体を内側から食い破られるのはおぞまし過ぎる」
Q「では、どうしたら、そういう目に遭わずに済むのか」
A「自分のために他人を食い物にした者は、来世では、自分が食い物にされることになる。宿り蜂に寄生されるイモムシになりたくないなら、他人を食い物にしないことだ」
 
ネットに寄生し、ブログやツイッターの読者を、丁寧ボンヤリ言語で、食い荒らしています。信仰もないのに「来世」とか言っていますが、楽山に来世があるなら、恐ろしいものになるでしょう。楽山は、他者を食い物にして、それで、満悦する自己愛性パーソナリティ障害NPDです。
 
Q「他には、生まれ変わりたくないものはあるか」
A「妄信者にとりまかれ、依存されるカルト教祖にはなりたくない」
 
嘘と詭弁で、賛同者を惑わし、反対者に疲労を与えて破壊してきた楽山です。そういう企みから、既に、教祖願望が表れてきたと言ってよいでしょう。決してアンチではありません。私たちは、盲信者にも妄信者にもならないために、楽山を相手にしてはいけません。
 
Q「では、どうしたら、それを避けられるのか」
A「人々の好意と信頼を裏切るならば、来世でも同じ過ちを繰り返すかどうか試されることになる。カルト教祖にならないためには、誠実に生きることが大切だ」
 
この記事を書いた2013年に、こう言っておきながら、今までも、今も、これからも、自己愛性人格障害から、他者の行為と信頼を裏切り、教祖的インテリに見せかけようとする楽山に、何を教えられるというのでしょう。不誠実の最悪の見本として見ていくしかないのです。
 
(云々)
以上の問答は、あるいは皮肉を感じる人もあるかもしれませんが、これはあくまで自戒を込めた問答であり、そのような意図はありません。ご了承ください。
 
皮肉ではなく、楽山の真っ赤な嘘です。今の、楽山の存在の有り様が証拠です。自己愛性人格障害は、自戒できないということを示している症例報告になります。この記事の後、約8年、何の自戒も自省も表れていません。言葉だけです。決して近づかないでください。
 
 
蒼ざめる真っ赤な嘘

蒼ざめる真っ赤な嘘
 
 
(2021年10月23日)
 
 
 
キーワード: ウソ
 
 
  パワーオフ
 
失敗は許されない
という雰囲気に満たされている
清潔なオフィス
 
お決まりの言葉と
礼儀にのっとって
損をしないように
レールのように敷かれたサービス
踏み外さない限り
ことはないのだ
少しは恩恵にもあずかれる
 
そんなところでナアナアはいけない
大きすぎる声もいけない
戸惑うことさえ許されない
顔色が変わるから
よく見渡せばどこかに
テンポラリなブラックリストがあるから
そこに自分がのせられていないか
気をつけながら
速やかにジョブを済ませなさい
 
ここにも働いている人がいる
レールの上を当たり前のように
上手にわたっていく
彼らもまぎれもなく
人間なのだから
失礼じゃないか
手続きを間違えるなんて
 
でも心配はない
そういうときのレールもある
それがサービスというものだ
迷わなくてすむように
いろんなレールがあって
迷ってしまう
思わず緊張して
オフィスというオフィス
レールというレールで
黙ってしまう
 
気がついたら
レールのわきにうずくまる
ウソつきになって
自分の声も言葉も
育て損なっていた
今それを探しているんだ
今それが欲しいんだ!
・・・off
 
 
  冷たい風
 
冷たい風
動かぬ山
火の国の 火の山
ときに山肌の色を変えて
煙と雲の向こうに
命を生む太陽
命を奪う太陽
 
冷たい風
動かぬビル
人の国の 人の山
ときに人々の顔色を変えて
雑踏と騒音の向こうに
命を生むシステム
命を奪うシステム
 
冷たい風
ふらつく私
私の国の ウソの山
ときに人々の顔色におびえて
心と体の中に
明日を生む命
明日を奪う命
 
 
 
 楽山のツイッターですが
  リツイートに楽山の主張が現れます。
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
アドラー心理学サロン(アドサロ) ポジティブ心理学サロン
@PositiveSalon
どれだけ親切にしてあげても、恩を仇で返してくる人は必ずいる。他人から優しくしてもらえることを当たり前だと思っている人は、こうやって信頼を失って人から優しさをもらえなくなっていく。他人に優しくしてもらえることは、感謝に値することであり、当たり前だと思った時点であなたは堕落します。
午前8:23 · 2021年10月20日·Twitter for iPhone 
 
自分のことしか考えていない楽山が、親切とか恩とかを言うのは、笑止です。楽山は、自己愛性人格障害からの自己中なので、他者のことなど考えていません。だから感謝もしていません。当たり前だと思っている典型です。この引用自体が、自己愛性パーソナリティ障害NPDの症状なのです。
 
こういうことを平気で書ける無反省と無責任が、面の皮の厚さを表しています。だまされないでください。楽山は、誰にも感謝などしていません。当たり前に、自分のほうが上だという自覚でいるから、いつもインテリ評論家気取りで教える立場にいるのです。全部、楽山の症状なのです。
 
当たり前のように同じことを続けている、無反省の、訂正不能の、楽山が、親切でもなく、誠実でもなく、信頼を失って、感謝も口だけで、やさしさをもらえなくなって、堕落するだけでなく、迷惑をかけた分、嫌悪され、相手にされなくなるのは、当然のことです。
 
 
心機一転★こも楽山さんがリツイート
共依存克服・夫婦問題カウンセラー 大村祐輔
@takeheart_d
共依存やアダルトチルドレンの特徴を持つ人は、相手の事情を考慮し過ぎてしまうことが多い。それでどんなことも許してしまう。どんなにモラハラやDVや不倫をされても、何か理由を言われればそれがどんなに無茶苦茶な理由であっても「それは仕方ないな」としてしまう。自分の傷を後回しにしてしまう。
午後1:57 · 2021年10月21日
 
嘘と詭弁の誘導で、そういうことをさせてきたのが、楽山です。どんなことでも無反省・無責任で、不都合を無視して、自分の主張だけを、だらだらと書き続けてきたのです。自己愛性人格障害は、相手の事情を全く考慮しません。リツイートして理解を装う楽山に、だまされないでください。
 
 
 
楽山日記のこれは、誰のコメントなのでしょう。
コメント欄から引用
 
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
 
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
 
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
 
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
 
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
 
このコメントは、毎回載せることにします。
 
 
 
 
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  楽山は自己中の加害者
 
 宗教と自由
 2014年03月30日
 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の記事です。楽山の宗教についての経験には、楽山の自己愛性人格障害によって、自己中が、歪んだ思考を生み出してきたことが分かる記事だと思います。ゆえに、楽山は、今、カルト被害者ではなく、加害者となっているのです。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも、「~ねばならぬ」が気になっていた
信仰は絶対に手放してはならぬ
利他行を実践しなければならぬ
真理の書籍を読まねばならぬ
反省しなければならぬ
伝道活動に励み、教団の発展に寄与しなければならぬ
波動の悪い書物、漫画、映画などを見てはならぬ
波動の悪い場所に近付いてはならぬ
波動の悪い人物と交際してはならぬ……
 
「~ねばならぬ」だけで出来ている宗教と信仰は、大方、偽物です。信仰は、まず、それまでになかったような、癒しや、感動や、はっとするようなことを受け取って、考えることから始まります。
 
それが、忘れられず、一生の支えになってほしいから信仰者になるのです。ですから、誰にも強制されることはなく、また、現世的ご利益の誘い文句に乗ることでもありません。
 
楽山は、カルトしか知らず、それ以上に、自分がカルト教祖になりたいがゆえに、既存の宗教を否定することから始めているようです。
 
そのための批判が、安っぽくて、いちゃもんに過ぎないことから、楽山は、精神の詐欺師、ペテン師として言動するしかないのです。「~ねばならぬ」だけを言ってくるのは、それは宗教でも信仰でもありません。本当の信仰を持たない楽山が、欲望から、他者の信仰を呪っているだけです。
 
まさに、楽山は、楽山自身の自分信仰以外を、「~ねばならぬ」教だと言って、貶めるという暴挙に出ています。では、楽山は、何を救いと言っているかというと、信じないのもいけないが、信じ過ぎてもいけない、などと、いい加減で、何の助けにもならないことを言ってきたのです。
 
信仰を持っていたころは
四六時中、上のような思いを抱いていたのだった
ただそれにも関わらず
自分は自由であると感じていた
 
楽山は、恐らく、自分信仰となっている自らの、霊能者妄想から、自由になったことはないと思います。似たようなことばかり書いてきたことが根拠です。それは、自由ではありませんし、また、今の楽山の精神も、病質ではあっても、全く自由とは正反対なのです。
 
けれども
信仰から離れた今は
信者だったころの自分が
あれほど窮屈な生活をしていながら
自分は自由だと感じていたことが不思議でならないのである
これがマインドコントロールというものなのだろうか。
 
楽山は、HS信者だったのが本当かどうか知りませんが、アドラー教の宣伝者ではありました。そして、何より、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)がもたらす自分信仰から、全く離れてはいません。カルトから自分信仰へ・・似たようなものなのです。
 
そして、楽山は、今、自由のつもりかもしれないが、決して自由ではありません。その自由のつもりの発言が、無反省で無責任な自己中の勝手な発言となり、誘導となり、他者の自由な思考と感性を奪っていることが根拠です。そのことは、ひどくなれば、たしゃの人格破壊につながります。
 
楽山に、既に起こっている人格破壊は、次には、楽山からの誘導によって、他者の人格を破壊するでしょう。ボンヤリ言語で、偽りの三文芝居で、平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、かつ、非を認めないという、ケダモノのような自己中の本能によって、人を巻き込んでゆくでしょう。
 
楽山は、自らの妄想によって、他者をマインドコントロールするほうであり、その手段として、刷り込み、詭弁、虚言、婉曲的なボンヤリ言語、ときに、同情を引くためのトホホ言語などを用います。楽山に、本音はなく、一日中、自己正当化の言語に、駆り立てられているのが現状です。
 
つまり、尊厳を守るための正常な自己愛ではなく、執念のような訂正不能の妄想的自己愛・自己中となって、思慮ではなく、本能のように言動しているのでしょう。こうなってしまうと、元に戻ることは難しいと思います。誰も、楽山に関わることのないように、批判を続けるしかありません。
 
とある宗教を信じていたころの自分は
いつも教祖のことば(教義)を基準にして
考え、行動していた
教祖が
善とするものは善とし
悪とするものは悪とし
正とするものは正とし
邪とするものは邪とし
真実とするものは真実とし
存在するとするものは存在するとそのまま信じていた
 
このことは、事実であれば、よほど、自主性・主体性のない人間だったことを意味しています。そのことを、反省するのではなく、全面的に、宗教のせいにしているところが、楽山の病質を表しています。あらゆる不祥事を、人のせいにする、これが、自己愛性人格障害の特徴です。
 
また教祖が
当教団は、多くの有識者から高い評価を得ている
信者でない者はこのようなものである
霊とはこのようなものである
霊界はこのようなものである
唯物論者とはこのようなものである
悪魔、悪霊とはこのようなものである
生まれ変わりの仕組みとはこのようなものである
菩薩、如来とはこのようなものである
あなた方の目的と使命とはこのようなものである
法とはこのようなものである
真理とはこのようなものである
云々と言えば、それらもそのまま信じていた
 
このように、人の言うことをそのまま信じることが、ある意味、異常であります。自分で考える意欲と能力が乏しかったことを意味しています。それを、楽山は信仰と呼んでいますが、真の信仰のあり方からは、ほど遠く、受動的で軽率な人格という他はないのです。
 
自我が弱い分、言われることを鵜呑みにして、今は、よくなったような言い方をすることこそ、自らを省みない者の成り行きなのです。正常な人間には、反発力があります。その大方は、反省し、自戒し、学習し、成長につながります。楽山には、それがないので、人のせいにします。
 
この記事に、一貫して見られるのは、教祖が悪い、他者が悪い、自分はその犠牲者、という一方的な被害者の立場であり、このことこそ、自己愛性人格障害の特徴です。自分が、迂闊だった、未熟だったという自省が働かず、ゆえに、次は、楽山自身が、他者を犠牲にしてゆくのです。
 
 
 
 信仰と知性、判断力
 2014年03月30日
 
 
楽山の、今につながるところの、無反省・無責任がもたらす災いが表れています。全てを、他者のせいにして、他者を否定し無視することで、結局、新たな、自分信仰というカルトに縛られることになります。宗教は気休め程度がよろしく信じ過ぎるのは災い、という反信仰の態度です。
 
実際、楽山は、信じたこともないキリスト教を、否定してきました。実に、傍迷惑なことですが、そこには、自己中という病質が働いているとともに、宗教の一部の災いによって、宗教全体を見境もなく否定するという短絡の詭弁も表れているのです。
 
ようするに
信仰をもっていたころの自分は
 
楽山は、思い込みが訂正不能で、全か無かという極端な病質の、短絡した思路だけであり、健全な信仰を持っていたことなど、一度も、なかったと思います。そして、病質から、誰かのせいにしたくて、キリスト教を、やり玉にあげてきたのです。それが、楽山という異常な体質の人間です。
 
教祖のことば(教義)をそのまま信じるばかりだった
それで自分は真理、真実を知っていると満足していた
 
教組の言葉を離れても、基本的に、今も姿勢は同じです。ゆえに、今は、自分の妄想を信じ込んで、他者に影響を及ぼすことで、自己満足しているのです。つまり、自己愛性人格障害の自己中は、むしろ、自主性を育てず、他人格を支配しようとすることで破壊するということです。
 
だから、事実を確認し、論理的に思考することは
しなかったし、できなかった
その必要性も感じなかった
 
だから、楽山は、確認、思考、など、まともに、したことがなかったのでしょう。今も同じです。代わりに、自己愛と自己中から、人のせいにするということが繰り返されてきたのでしょう。過去に必要を感じなかったのではなく、今も、必要を感じず、平気で宗教を否定しているのです。
 
このような信者時代を振り返ってみると
つくづく自分にとっては、
信仰というものは
知性、判断力を鈍らせるものだったと思う
 
そして、総てを、信仰のせいにして、宗教と信仰を、知性と判断力を鈍らせる元凶のように言っています。これが本音です。
 
知性と判断力は、楽山には、今もありません。他罰だけの精神には、知性は育たないからです。つまり、いちばん自分を生かすために必要な、反省力が、楽山にはないのです。
 
楽山のことを、なんとなく良さそうな人だと思って付き合っていると、病的な疲労から、精神が病的に摩耗して、奴隷か廃人のようになり、楽山と同じことを言うようになるでしょう。完全に断絶して、人格も言葉も受け入れないようにしてください。自分で学習し考えるようになってください。
 
 
全部人のせい?

全部、人のせい?
 
 
(2021年10月19日)
 
 
 
 (伝道の書、口語訳)
1:2
伝道者は言う、
空の空、空の空、いっさいは空である。
 ・・・
1:17
わたしは心をつくして知恵を知り、また狂気と愚痴とを知ろうとしたが、これもまた風を捕えるようなものであると悟った。
1:18
それは知恵が多ければ悩みが多く、
知識を増す者は憂いを増すからである。
 (伝道1:17-18、旧約聖書)
 
今のところ、特に、神の知恵を、人の知恵で追いかけて、超常のことばかり考えていると、憂いが増し、風を追うような空しいものとなる、というような意味に受け取っています。
 
 
 
  老いと病
 
三十代から始まる
ひとこと言われた後に
続く笑いが気に掛かる
自分は照れ笑いしているくせに
 
白髪が目立ってくる
事故で入院する
白髪がごそっと増える
面(つら)の皮が厚くなる
鼻の皮が硬くなる
 
放屁する場所を余り構わない
放屁自体が増えてくる
腸のグルグルが増えてくる
便秘も下痢も増えてくる
小便も近くなる
間に合わないことがある
尿漏れパッドを買ったりする
おむつも買おうかと思ったりする
 
すっかり白髪頭になってしまう
一つ難しいことを覚えると
二つ易しいことを忘れる
覚えた一つも忘れる
 
ひとこと言った後に
続く笑いに気づかない
ひとこと言われた後に
続く笑いに笑っている
気に入らないのに笑っている
いつまでもいつまでも笑っている
 
以上に気づいて黙ってしまう
 
人のせいにしたくなる
病気で入院しない
いつまでもいつまでも黙っている
わけにいくか!
と何か言い始める
 
 
  うばわれて
 
てんは にぶつを あたえず
てんは いちぶつを あたえて
てんは いちぶつを うばっていく
むねんの こころ いかばかり
ないても
いかっても
もどってこない
 
てんは かえりみて あわれみ
なごりのようなものを のこす
 
きづいた ひとだけが
きずを しり
いやされる ことを しる
うばわれて
うばわれて
なにも なくなっていく
ときの なかで
ふりそそぐ ものを うけられる
 
 
 
 
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  楽山の悪意の詭弁
 
 人生の目的と使命なんて
 2014年03月22日 楽山日記(LD)
 
 
かなり前の記事ですが、書けば、必ず、作為~悪意の詭弁~嘘偽りを込めてくる楽山です。今も、少しも変わるところがありません。どんなに批判されても、完全に無視するだけの、石ころのような、砂のような、泥のような、命のない根腐れが、異常人格を形成しているようです。
 
思い返してみれば
若かった頃は
すきなこと
やりたいことが
たくさんあった
そのせいか
人生の目的と使命なんて
あらためて考えたことはなかった
 
楽山は、人生の目的など、今も、考えていないと思います。やりたいことがあっても、努力をしないで、一気に超常世界のように、やれる世界が欲しくて、悪夢となって、怠惰の結果として、霊が分かるっぽい?という自覚を増長させ、結局、怠け者の現実離れとなっています。
 
目先の好都合な結果、即ち、目先の餌にくらいついて生きていると思います。それは、他者を、だますことによって得ようとするものです。楽山は、自分の自己愛性人格障害のために、言っているのです。楽山のようになってはいけません。
 
そんなことは考えず
ただすきなこと、やりたいことに夢中になっていた
 
今も、好きなように、やりたいように、他者をだましています。心の優しいお人柄などと言われることを好んで、丁寧に書き、じわじわと、カルト的な思想を刷り込んでゆきます。楽山は、無反省で、無責任です。人を、あざ笑うことを求めているだけです。近づいてはいけません。
 
でも
いくつかの挫折のあと
宗教書を読んで
人生の目的と使命について教えられた
それで次のように考えるようになった
「自分が生まれたのは、この宗教と出会うためだった
この教えを学び、自らを高め
この教えを広め、人々を幸福にするためだ」
 
宗教書など、楽山は読んでいないと思います。この3年近い経過で、楽山の読解力のなさと、自分に都合のよい言葉の表面だけを漁っている有り様は、ひどいものでした。有名人の口を、遠慮もなく、悪用してきます。楽山から、深い思慮の表出を見たことがありません。
 
それから
月日が経って
今はまた
若かった頃に戻ってきている
自分のすきなこと、やりたいことに夢中になっている
 
だから、何なのでしょう。楽山は、ずっと、そうなのです。楽山にあるのは、企みであって思想ではなく、ペテンであって真実につながる何ものでもありません。楽山の、やりたいことは、人を従えて、コントロールして、操ることです。つまり、教祖願望に他なりません。
 
神は××××の目的で人類を創造したとか
人生の目的と使命は××××であるとか
そういう考え方を聞くと
なんだか自分が
特定の目的のために大量生産される製品の一つに
されたような奇妙な心持ちがするようになった
 
神と人との、祈りを通した関係を知らない者の言です。祈りにおいて正直であることが、現実における絶対孤独からの解放なのですが、楽山は、全く分かっていません。分からないのに、宗教、特に、キリスト教について、信仰も含めて、幼稚な、いちゃもんをつけてくるのです。
 
詳しく知らないこと、経験のないこと、関係のないことについて、あまり語ろうとは思わないという常識的な思慮が、楽山には欠如しています。分かっているふりをして、誘い、誘導し、否定してゆく、という楽山の詭弁と嘘に、決して、付き合ってはいけません。
 
やはり
人生の目的、使命などは
他から与えられるよりは
自分自身で決めたい
 
信仰者になることは、自分で決めていないというのでしょうか。度外れた認識です。このように、楽山の幼稚さは、書く文章ごとに、表れてきたのです。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、説得力のある文章をかけません。その分、丁寧語の詭弁と嘘で誘導してきます。
 
他の人はどうか知らないが
少なくとも今の自分には
そういう生き方が合っているようだ
 
自分のことだけなら、書いて公表する必要はないはずです。楽山は、また嘘を吐いています。誘導の意図があるからこそ、こういうことを書いてくるのです。そういう楽山の狡猾さと作為性を知ってください。書いてくることの一つ一つに、まともを装う悪意があり、真実の要素は皆無なのです。
 
 
 
楽山は、何年も前に書いた記事も、最近書いた記事も、省みることなく無反省そして無責任で、訂正不能に言い放って終わりのヘッピリ虫です。楽山の書いてくる文章は、読む人の考える心を腐らせます。楽山の、生きて地獄、死んで地獄の、道なき道の有り様です。
 
 
悪意・怠惰と詭弁色の国

悪意・怠惰と詭弁色の国
 
 
(2021年10月12日)
 
 
 
  希生不念慮
 
私が生まれたことも生きたことも
否定するのなら
父と母も否定することになる
なぜ父と母は生まれ
大きな中国大陸で二度も偶然出会ったのか
なぜ父も母も戦争で死ななかったのか
 
私には父としてのアイデンティティがない
子供がいないのだから仕方あるまい
父と母には祖父母としてのそれがない
孫がいないのだから仕方あるまい
 
仕方ないのは承知の上だったはずだ
しかし気づいてはいなかった
承知などというものの上には
乗らないものがあることまでは
 
生きることを正面から肯定することが
出来なくなってしまった私は
今になって顎を外してみても仕方ないのだ
それこそ仕方ないのだ
今になって物乞い
の手を伸ばそうとしても無駄なのだ
 
そうだ無駄なのだ
口に入らず手にも乗らない以上
私が病気と怠惰の間を揺れながら
それでも気泡の体を揺さぶる世界の
片隅にいる限り
私は私であってはならず
私以外のものであってはならず
 
ああ決してそれはならず
無駄なのだ私が持つことがあるとしても
ドラッグのように費やせるのは
まだ動き続けることの無駄が
貴重な一生を私によって流される
私の排水管の舌尖においてだ
 
 
 かなしみでもよろこびでもなく
  肉体からのメッセージ
 
わたしも宇宙の子・世界の子でした
わたしが細胞であったとき
分裂し増殖した仲間たちと一緒に
あなたを殺そうとしたり
懸命に生かそうともしました
 
はげしく従順であることも
おとなしく反逆することも
わたしたちには出来たのです
 
わたしの仲間たちはその度に
後事を若い細胞たちに託して
たくさん死んでゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしが髪の毛になったあとも
わたしたち仲間はぽろぽろと
あなたが不潔な暮らしの中で
たまに洗髪するときには特に
まとめて抜け落ちて果ててゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
あなたが死んで焼かれるときには
もはやお供できないので
ここに認(したた)めておきます
 
あなたは長く病んでおられるようだが
わたしたちもまたいっしょに病んでいたのです
寝込むことや独り言や
人よりも機械と遊ぶことが
あなたは多いようだが
あなたの怠惰や悪意など
罪の軽重や多少にかかわらず
わたしたちから伝えておきたいメッセージが
ひとつだけあるのです
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしにはあなたがすべてでした
 
 
 
イエス・キリストの教えの、守ろうとすれば、無理難題としか思えないもの。
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
一は、心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれませんが、限度はあるでしょう。これを実行せよと言っているわけではないと思います。
 
二は、十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理でしょう。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。
 
三になると、死を覚悟しなければなりません。三の教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで、敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのです。極言すればイエスの教えを完全に守れる人は、死を制することの出来る神御自身だけではないかとさえ思うのであります。
 
キリストの教えは、完全な人は一人もいないということです。その前提で、救いは、宣べ伝えられているのです。・・罪なき人は、一人もいないのです。
 
これらの教えは、守れ・・でもなく、できるだけ守れ・・でもなく、人が守れないことをご存知の上で語られたものです。守れないのだから、神の前に正直に告白せよという意味だと思います。
 
私たち人間は、自分で完全な人間にはなれない存在です。ゆえに、神に正直に祈って、赦していただくしかない、という意味に受け取っています。そう読むことによって、キリストの、人に対する、限りない共感というアガペーの愛が表されているのです。その結実が、十字架なのでしょう。
 
 
 
 
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